その四
そのうちに母は女性の口許に耳を近づけて二つ三つと頷くなり、トイレの外へと走り去ってしまった。
残されたのは、個室の便座に座り込み前のめりにうずくまる女性と震えの止まらぬ私だけである。
トイレの天井から照らす蛍光灯の光が個室の開かれたドアに遮られて、個室の中は薄暗い。その影の中に歯を食いしばり、やけに煌々と光る目をカッと見開き血走らせながら女性は間断なく呻いている。
幼い私には刺激的に過ぎた。
じっと見つめあっている訳にもいかず、相変わらず低く呻き続ける女性の背中を恐る恐る擦りながら、私は今にも泣きたいような心持ちで、どこかへ走り去ってしまった母が舞い戻ってくるのを早く早くと待ち焦がれていた。
女性は苦しい息使いの内に、私をチラと見て、ごめんね、こんな時間にね、と呟いた。
大丈夫、大丈夫。
私も精一杯の励ましをしながら、言葉にならぬ不安をなだめるように女性の背を擦り続けた。
やがて母が女性の部屋の夫らしき男性を連れて息を切らしながら戻ってきた。
やや遅れて宿の従業員も騒ぎを聞きつけやってきた。場は一気に騒がしくなった。
緊迫したその場に於いて、私は一人泣きながら微かな安堵のため息をついていた。
女性と二人きりだったその間は、ほんの数分だったに違いない。
けれども、果てなく呻く女性の鬼気迫る横顔を視野に入れながら女性の背をさする私には、終わりの知れない張りつめた長い時間に感じられたのだった。
一段落して部屋に戻るなり、もう起こさないでよ、眠くて仕方ないよと呟きながら母はぐったりと深い眠りについてしまった。
私はまたひとりぼっちである。
布団に横になってもなかなか眠れずに、右へ左へ寝返りを繰り返していた。
やがて我知らず眠りに落ちた。
夢はまだ終わってはいなかった。