その三
やけにぐったりと宿に帰り、浮かぬ顔つきのインコにただいまと挨拶をして、私はほんの少しだけ心配になった。
けれども熱い温泉に入り、地元の食材をふんだんに使ったらしい豪華な夕飯を目の当たりにした頃には、呑気な私たち一家の脳裏から不安の影等はすっかり払拭されていたのである。
立派な鯛のお造りやら海老やらイカやら、牛肉もあった気がする。
酒の入った父も母も上機嫌であった。
普段の生活からは想像もできない美味で贅沢な地元の山海の食材の前では、最前の陰気なじいさんの話などは、ああ、誰だっけ、等というレベルまで記憶の遥か彼方へと吹き飛んでいたのだ。
いや、今にして思えば、少なくとも私自身は既に、浸食してくる不安の影に少しずつやられていたのかも知れない。少しでもその影を払拭せんとして徒にはしゃいでいたのかも知れない。
賑やかな時間は過ぎて、静かな夜が来た。
布団に入って眠る時間が訪れたのである。
夜風に冷えてはならぬからと、止まり木にスヤスヤと目を閉じて眠るインコの篭も室内にしまい込んだ。
窓をしっかり閉めた室内からも波の打ち寄せる音は絶え間なく聞こえていた。
夢を見た。
砂浜にじっと立ち尽くし、動かぬ視点で暗い海を見ていた。
やがて遠く波間から、人の上半身の形をした影がぼんやりと認められた。
人の形をした影は波に揺られながらばんざいをするように両手をあげて、手を左右に振っていた。
ああ、溺れているのかも知れない。
私は酷く緊迫しながらも、動こうという意思もなく、また動けなかった。まるで砂浜に設置されたまま、放り出された定点カメラの画像をじっと凝視しているようだった。
いつしか上半身の影は波間に消えていた。
沈んでしまったのかも知れない。
ただ今は、どこかおどろおどろしくもある暗く弱い波が砂浜に打ち寄せられる映像が淡々と流れていた。
はっと目が覚めて、静かな宿の夜である。
私は自身の鼓動が激しく脈打つ音を全身に響かせていた。
カチカチと時計の音が絶え間なく続く。
合間合間に波の打ち寄せる音が聞こえてくる。
どうしようもない不安が私を覆っていた。
たまらなくなった私は、横に寝ている母を揺さぶり起こそうとした。
疲れていたのだろう、いくら揺さぶってみても母は目を覚ます気配だになく、泣きそうになりながら焦る私を尻目にグウグウとのんきに大きなイビキをかいていた。
私はどうしようもない孤立感にとうとう泣き出した。
母はようやく少しだけ目が覚めた模様で、ううん何、どうしたの、お腹すいたの?等と半分眠りながら問いかけてきた。
夢の不安と、その孤立から脱け出しつつある安堵感をうまく言葉に出来ぬまま、私は母の布団にすがり付き、ただただしくしくと泣き続けるしかなかった。
余りのしつこさに疲れたのだろう。母はあくびをしながら起き上がり、私をトイレに連れていった。
古い宿である。室内のトイレはなく、学校のように各階の廊下に男女のトイレがあった。
部屋を出て、紅い古ぼけたカーペットの上を眠たげな母と手を繋いで歩いてゆく。
明かりの抑えられた廊下は酷く薄暗く長くて、幼い私にはトイレの光まで随分距離があるように思われた。
私たちの他に誰もいない空間にごうごうと空調の音が低く廊下に響いていて、それは地の底から聞こえる呻き声にも似ていた。
男子トイレの入口で母と別れ、私はあまりしたくもない小便を背後に怯えながら足していた。
その時だった。隣の女子トイレから、ワッと叫ぶ母の声が聞こえてきて、私は恐怖に震える気持ちで焦れば焦るほどにチョロチョロと終らぬ小便を早く早くと足しながら訳もなくじたばたしていた。
何か、異常だ。立て続けに響く焦った母の声に混じって低い苦し気な呻き声すら聞こえてきた。しんと静まり返った男子トイレの空間が私を果てしなく圧迫していた。
矢も盾もたまらず、少し漏らしたかも知れないが慌てて女子トイレに行った。
女子トイレの白い蛍光灯の下、母が真ん中の個室を覗いていた。
大丈夫ですか、どうしますか、と酷く緊迫した様子で叫んでいた。
駆け寄ると、個室の中にまるで亡霊さながらのやつれた一人の女性が、今にも倒れそうな姿勢で低く呻いていたのだ。
白髪混じりの長い髪を振り乱して目を血走らせながら呻くその姿は完全に常軌を逸していた。
私は危うくへたりこみそうになりながら、ようやく母の浴衣の裾にしがみついていた。
母もかなり焦った口調で女性に、しっかりしっかりと呼び掛けている。
異常な夢からの異常な現実に呼吸も荒く私は立っているだけで必死だった。