その二
見たこともない大きな夕陽が遥か彼方の水平線にゆらゆらと沈んでゆく。
晴れ渡った空は青と藍色と濃紺とのグラデーションを鮮やかに描いている。
夕陽の沈んでゆく水平線の縁が紅く滲んで緩やかに広がってゆく。
普段生活している街では決して見られないであろう自然の雄大かつ贅沢な瞬間の連続に、私は軽く涙ぐんでさえいた。
やがて夕陽は沈みきり、大気の紺色がその深さをを増してきた。散りばめられた無数の星が瞬いている。
大きな月がその中でも一番輝いていて、その煌々たる光はただ静かに私たちを照らしていた。
爽やかな微風の吹く夏の夜である。
私たち一家はすでに海からあがり、頭や体を拭きながら、流石に人気の乏しくなった砂浜をゆっくりと歩いていた。
明るい月が陽の落ちた砂浜をひっそりと照らしている。
珍しく遠い地を訪れた旅行の疲れと、非日常感溢れる景色やら空気やらによってもたらされた高揚感とが相まって、やけに時間がゆっくりと感ぜられた。
背後から照らす月光に歩く私たちの影が不思議に長く揺れていた。
気が付くと、砂浜から陸地へと続くコンクリートの階段の一寸離れた場所にポツリと黒い大きな石があった。
ゴツゴツとした土台の上に建つ大きな墓石にも似たそれは和やかな海水浴場にはいささか不釣り合いな硬い存在であった。
今なら判る。それは大きな石碑である。
よく観光地や駅前にある、あれである。
何も分からぬ私はその巨石に近寄り、つるつると磨かれた石の表面を訳もなく撫でていた。
大きな石の表面には縦に人が彫ったような窪みの連続が有ったけれども、私は気にもせず、砂浜の端に埋められていた、宵闇に立ち尽くす自身の背丈の何倍も大きないびつな長方形の石を興味深く撫でていた。
今にして思えば、この辺からおかしかったのである。
駆け出した私の後を追いかけてきた両親は、普通ならやめなさいと止めるであろう、のろのろと石を撫でている幼い私を止めようともせずに、私の背後に立ち止まり、ああこりゃあ何だろうなぁ、珍しいなこんな場所にねぇ等とやけにゆっくりのんびりと呟いていたのである。
やがて幼い私も流石に石を撫でるのに飽きた頃、しゅっしゅっと砂浜を此方へと歩いてくる足音が遠くから、少しずつ少しずつ大きく闇に聞こえてきた。
振り向くと、波打ち際を背にして私たちのいる方へと、一人の小柄な老人がゆっくりと向かってきていた。
よれて汚れたTシャツに膝丈のズボンを履いた老人は、地元の漁師さんだったのだろうか、月明かりの下に黒く日に焼けたシワっぽい顔に微かな笑みを浮かべながら、石碑の前にボンヤリ立ち尽くす私たちへとまっすぐゆっくりと歩いてきたのだった。
私たちは無言のまま、まるで海沿いの風景の一つであるかのように、何らの不安も抱く事なく、海を背に近付いてくる老人を見つめていた。
こんばんは。
老人はしわがれた声で私たちに挨拶してくれた。
私たちも軽く頭を下げながら、こんばんはと返事をした。
老人は軽く頷いてから、石を撫でていた私の横に来た。
そして独り言のように抑揚のない口調で語り出したのだ。
これがなんだか判るかい。これはね、慰霊碑なんだよ。この海で亡くなったたくさんの人達を弔うための慰霊碑なんだよ。
かわいそうな死に方をした人達がここにいるんだよ。
私たちは黙ったまま老人の話を聞いていた。
波の音が物悲しく繰り返されていた。
老人は慰霊碑に手を合わせると、そのまま去っていった。私はその後ろ姿が遠く宵闇に溶け込んでいくさまを、やけに神妙な心持ちでじっと見つめていた。
怖いとか怪しいとか、そんな感情を抱く事さえなく、夢のなかのワンシーンを見ていたような気分だった。
やがて体が冷えてきた。
夏とはいえ、陽の落ちた砂浜に吹く風は濡れた体から体温を奪うのには充分だったのだ。
母も、自身の剥き出した腕を手のひらでさすりながら、宿に戻ろうと言い出した。
私たちは無言のまま、やけに足早に宿への道を急いだ。
みんな口にはせずとも、明るい海からの一転して表れた慰霊碑、老人、暗い波、何かしら不安の陰影を心の片隅に見出だしたのかも知れなかった。