その一
幽霊やらあの世なんて果たして本当にあるのだろうか。
おいおい、いきなり何を言い出すのだと焦る方もいるだろう。しかし、言いたい。いや、考えたい。
最近ではオカルト特集のテレビ番組も殆ど見かけなくなった。みな賢く冷静になり、あんなものは嘘っぱちでありインチキであると頭から認識しつつあるからなのだろう。
まぁ、変なオカルトを持ち出して、困惑する人々から金品を搾取するような輩も大勢いたことであるし、そういった輩が表舞台から姿を消すことは全く有り難いことである。
私自身は幽霊がいるのかいないのかあの世があるのかどうかと問われれば、一寸考えて、わからないとしか答えようがない。
というのも、それは理屈ではあり得ないと思いつつも、幾度かの怖い体験を経て、いやまさか、けれども分かりやしない、ひょっとすると。あながち嘘ではないのかも知れないと心の片隅で頑なに思っているからである。
少なくとも、ああ冗談でしょう、若い連中が肝試しとかなんとか言って女の子を夜誘う時には割りと便利らしいよねハッハッハなどと無邪気に笑いながら完全に否定するほどの確信は残念ながら持てずにいるのである。
あれは私が小学生の頃だった。
まだ十にもならぬ頃だった。
鎌倉。
まごう事なきおっさんになり果てた今もその地名を聞くといささか嫌な汗が背中に滲み出てくる。
幼い私は、ある夏の日に鎌倉にいた。
母方の叔父さんが勤めている会社の保養所がたまたま空いているとの事で、家族で珍しく旅行に行ったのである。
飼っていた、背中の水色が鮮やかなセキセイインコも家に置き去りではかわいそうだと連れてきていた。
初めての旅路に、小さな篭のなかのインコも興奮してピイピイと嬉しそうに鳴きながら忙しなく跳ね回っていた。
宿である海沿いの保養所は、いささか古びてはいたものの三階建ての広々と御立派な施設であった。
私たち一家は案内された三階の部屋に着き、眼下に広がる窓からの景色に嘆息を漏らした。
道路一つ挟んだ松林の向こうすぐそこに、夏の鎌倉の海が一望できたのである。
今でも思い出す。
小さなテラスもついていて、旅に疲れたであろうインコの入った篭をテラスの日陰にあるささやかな白いテーブルに置いて振り向けば、ざばんと聞こえる波頭の小さな白い泡まで見えそうな視界一面の蒼い海である。
誰もが言葉を発せぬまま、繰り返される波の音に耳をすましながら、しばしじっと佇んでいた。
皆で息を深く吸い込んだ。風に乗せられた夏の潮の香が我々一家の鼻腔を仄かにくすぐり、その生命力に溢れた爽やかな空気は筆舌に尽くしがたいものがあった。
ここまで来て海に入らない理由はない。
私たちは部屋であわただしく水着に着替えると、タオルやら日焼け止めやらの入ったバッグを片手に手を伸ばせば届きそうな蒼い海へと我先に急いだものであった。