第9話
8月末。あれから約1ヶ月経った。
それまでに色々な事があったし、行ってきた。
食事にじゃがいもをすりつぶした物や、大豆を茹でてすり潰した物。他に野菜等も同じようにすりつぶした物を徐々に食べさせ始めた。
ピーマン等は始め嫌な顔していたが、甘辛いソースを作り、それを練り込んだ所、凄く喜んで食べたりしていた。
『うえぇぇ、またこれ……、あら、美味しい』
それから1週間後辺りから、少量の油を混ぜて行く。まずはささみを茹でて、包丁で細かく刻み、すり鉢でペースト状に近い状態にして、出汁と少々の塩で味付けたものを。
これは意外と気に入ったらしく、毎回欲しがるようになっていった。
『もっともっと! はーやーく!』
それと、徐々にだが、おかゆは少し粒を残る様な作り方に変えて行く。いつもと食感が違うため、怪しんだ顔をしていたが、食べさせつつこちらもおにぎりを食べていた所、同じものと思い出し、喜んで食べる様に。咀嚼する力も少しずつ付いて来て居る為、乳幼児用のお菓子を食べさせてみたりとこちらも反応を楽しんでいた。
『口の中で溶けて、あまーい!』
排泄に関してだが、やはりおむつ案は現実的には最適だったようだ。
やはり幾度もこちらが外出中や、料理中等に出てしまうことがあり、悲しんでいた。だが、布団が汚れていない事を知ると、凄く安心した顔になっていたのも嬉しかった。
『よかったー! スーツみたいなのあるんだねぇ』
だが、おむつ交換は未だに慣れない。汚れを残さないように拭き取らなければならないのは当たり前なのだが、その行為自体が恥ずかしくて仕方がないのだ。彼女の方が恥ずかしくて堪らないだろうから、そこは気にしてない体をして毎回乗り越える。
一回、遊びに来た陽向にお願いしようかと思ったが、ラメールが嫌がり、自分がやることに。信頼されているのがわかったのは嬉しかったが、彼女にその様な辱めを受けさせてしまう所だった事に配慮不足だったと実感した。
『舟以外は流石に恥ずかしいよ……』
おむつ交換を陽向にお願いしようとした経緯だが、お風呂に一緒に入ってもらった事がある。しかし、人の支え方等を全く知らない陽向にとって、とても重労働になったらしく、一回で陽向は断念。そこで、おむつならと思ってお願いしようとした所、ラメールに拒絶されたのだ。しかし、陽向とお風呂は問題ないのだなと少々不思議に思った。
『陽向ありがとー。それとごめんね。私の体は舟だけのもの! なんてね』
蒼衣さんと雄樹君も晃や陽向と一緒に泊まりに来る事もあり、彼女を紹介することが出来た。彼女も、拙い発音だが、二人を呼ぶ。
「あーおーい、ゆーうーい」
そこで晃と陽向が嫉妬することになる。初めて名前を呼ばれた時、二人は母音だけで呼ばれていたことに実は気づいていた。舟だから良いかと思っていた節もあったが、蒼衣さんと、雄樹君に越された様な気がして悔しかったそうだ。
蒼衣さんと雄樹君は、家に来る前に合流して、本屋に寄っていた。晃と陽向から事前にラメールが居ることを聞いており、そして、体が不自由で、日本語もあまり理解できていないと聞いていたため、幼児用の絵本や、言葉を覚えるための本等を幾つか見繕って買ってきてくれたのだ。
ラメールと話をしたいと考え始めた所に、二人からのプレゼントはとても暖かく、ありがたかった。涙が出そうになっていた舟を晃と陽向はさんざん茶化し、最終的に蒼衣さんから正座させられて叱られる事になっていた。
『なにこれなにこれ。舟達の言葉? 覚える覚える!』
蒼衣さんと雄樹君が来る辺りには、首が座ると言うのもおかしな表現だが、首周りの筋肉が徐々に付いて来て、多少の時間であれば、椅子に座らせた時、首を自力で維持できるようになっていた。おかげで、お風呂の時間がとても楽になっていった。まだ、腕は持ち上げられないが、指先も少しずつ動くようになり、絵本を読み聞かせている時、次のページに行って良いという合図も出来、意思疎通がどんどん捗っていった。
『頑張ってるでしょ、私』
絵と味覚と言葉。これが一致してきたラメールは、徐々に話すことが増えていった。
はじめはフルーツの名前。
「もも。めろん。ごはん」
いや、一番楽しみな所も真っ先に覚えていったが。それと共に、トイレという単語も覚えていった為、タイミングが会えば、トイレに連れて行くことも出来た。だが、まだ拭くことは出来ず、恥ずかしいが、舟が拭くことに。
やはり拭くだけでも、陽向がやることは拒否し、舟が拭く。
そして、若干でしかないが、骨が見え、痛々しいと表現出来た体に、うっすらとだが、肉が付いてきた。腕や足を軽く触ってみると、うっすらとだが脂肪、そして中に弱いが弾力のあるものが出来始めていた。以前の彼女にも無いとは言えなかったが、今ほどはっきりと感じることは無く、スジと言ったほうがあっていたように思えたのだ。
背中や腰回りも少しずつだが、ふっくらとしてきて、嬉しくなる。
考えてみれば、少し細身の花さんの半分くらい食べられる様になってきている為、脂肪がついてくるのは当たり前だろう。それに、タンパク質も大豆やささみ、卵、稀に鮪からも取れている為、筋肉を作る食事はしてきている。カルシウムに関しては、油が少々平気になった辺りで、一度温めてから冷ましたミルクや、ヨーグルト等を食べさせることに。おかゆと同じ感覚で初めてヨーグルトを口に含んだ時、慌てて吐き出してしまったが、何日かかけて、慣らし、今では問題なく食べられる様になった。
『甘いけど甘くない! なにこれ!』
吐き出せる様な筋肉が付いて来たと喜ぶ反面、流石にもう少し甘めの子供向けヨーグルトにするべきだったかと後悔したが、今ではその酸味に慣れ、普通に食べてくれる用になった。
しかし、歯磨き粉は一度だけ自分が利用している少し刺激の強い物を付けてみたら、すごい顔して睨まれ、それ以来ずっと子供向けの歯磨き粉にしている。
イタズラのつもりではなく、普通にこちらの方がさっぱりしないかなという善意で付けたので、その反応は非常に痛いものがあったが、嫌がるものを付けるわけにも行かなかった。
『ピリピリするの嫌! なんでこんなの使うのよ!』
そして、言葉を覚えるための絵本から、子供向けの物語へと移行できるくらいに知識は蓄えていく。
彼女の記憶力は凄いものがあり、物語によっては1回で覚えてしまっている物もあり、2回目以降読む場合は、次のページを再即する指の動きが激しくなる事が多かった。おかげで、初めは本屋から買っていたのだが、流石に毎日買い足す事は出来ず、図書館で児童書を借りることにした。1回に纏めて10冊以上借りていくアメフト選手に始めは女性の司書さんが怯えてしまっていたが、次第に慣れてきて、色々と前もって用意してくれるようになり、非常にありがたかった。司書さんの趣味もあったり、自作の絵本とかも手渡してくるのも面白かった。
私は多くの文字を読めるようになってきたけど、まだ喉の筋肉か、舌の筋肉か、それらが弱いため、発声が上手く出来ない。口の形状も同じことだと思う。色々と頑張って話してみるけど、陽向や晃は言葉の一部は理解できるようになってきた。だけど、まだ殆ど伝わることがなくて、表情から読み取って貰うしか無かった。そして、表情まで見て言いたいことがわかるのは舟だけだった。
読めても伝えることが出来なければ、その言葉が正しく理解していたか確認することが出来ない。その為、不完全燃焼な部分が残っていた。
舟だけは、言いたいことを理解してくれて居るので、生活上では問題は無い。しかし、読ませてくれる絵本、そして、たまに舟が見ている映像。何を言っているのか、わからずもどかしい気持ちが湧いてくる。話を共有したい。言葉を交わしたい。一緒に笑いたい。それらが出来なくて悔しくて仕方がないけど、今は我慢の時期だと理解している。わかっているけど、今まで簡単に出来ていた意思疎通が出来ないことにはストレスを感じ、若干の限界を感じてきていた。
それに、動かせない足、重い腕、不自由な体。それらが一番悔しかった。
排泄物の除去や清掃。自分の性器を人に晒す事など、幼い頃の乳母以外考えられなかった。
尿の排泄は殆どすることが無く、汗として、出たとしても服が勝手に処理してくれていた為、何も感じることが無い。そして、便の排泄も、完全に個室、個人で行えるので、その様子を見られた事さえ無かった。匂いも、直ぐに消臭シークエンスが発動し、完全に部屋の空間はクリーンな状態になっていた為、誰にも嗅がれることが無かった。
そして、機械的に乾燥、分解され、誰のものかはわからないまま集積されて行く為、出した後に関しては本来何も感じることは無かった。
便に関しては、一応汚いものとして扱うよりは、完全に資材に近い扱いだったが、自分の体内から出る匂いのきつい、羞恥心を感じる物だと理解されていた。
そんな物を人に処理させてしまう羞恥心。そして、尿を出してしまった後のごわつく不快感。これらはかなり自分の精神を削っていった。
あの初回時はまだ自分の感情が追いついていなかったが、二回目はとても怖く、自分をどうにかしてしまいたかった。
あれまでは体が動けず、殆ど寝ているだけしか出来なかったのと、まだ好奇心が勝り、色々と余計なことを考えずに済んでいた。だが、あの薬を使わない排泄から、一気に現実に引き戻され、色々なものが怖くなった。舟の友達、晃と陽向にも会い、舟と同じように優しい人だと言うこともわかった。だけど、まだ怖かった。その後に来た人達、明夫、大地、花、伊万里。この4人も信頼出来るだろう。だけど、怖かった。
あの人達が居なくなり、精神的疲れからか寝てしまった。そして、目が覚め、もう一度粗相をしてしまう。怖かった。自分の体も怖かった。そして、何より舟に嫌われてしまうかもしれないと思ったことが怖かった。彼無しでは生きていけない。そう言う点で怖かっただけでは無い。彼の笑顔が消えてしまう事が怖かった。
だけど、大丈夫という言葉。舟から抱きしめられ、耳元でゆっくりと言われた言葉。今では意味もなんとなくわかっている。しかし、当時はわからなかったが、それが心にストンと入り込み、とても安心することが出来た。
泣き出したい気分。だけど、笑いたい気分。矛盾した気持ちが両方湧き上がる。しかし、舟が頭に手を置いて撫でたこと。これが全てを収め、落ち着いた気分で笑うことが出来た。
一番恥ずかしい事、そして体の全て晒してしまった相手。それでも、嫌いになることは無かった相手。そして、嫌われなかった相手。
昔の映像やデータに残っていた事と、侍女や女友達から聞いた話し、異性を好きになるという事。食生活があまり充実していないため、その様な欲求は多くはない。結婚自体も、家同士の繋がりを主体とした物になり、異性として好きになってという事はあまり最近では例がなかった。そして、結婚して子を設ける時は特別な薬を貰い、決められた期間で子供を作る事をさせられていた。人口の突発的な増加を防ぐためには非常に良い手段だと考えられるが、生命の本質として考えた場合、あまり良くは無いのだろうと、口外したこと無いが、結論づけたことはある。
しかし、舟と出会ってからなのか、ここの食生活に慣れ始めたからなのか、過去の体験に無いレベルの辱めを受けた後だからか、ただ単に、餌付けされてなびいてるだけなのか。理由はよくわからないが、四六時中、舟の事を考えてしまう。
何してるのかな。今日は何を作ってくれるのかな。いつもの食べさせ方してくれるのかな。お風呂は一緒に入ってくれないのかな。一緒の部屋で寝てくれない時は寂しいな。
二つ目にいきなり違うものが混ざったけど、基本的に舟の事を考えてしまっている。
今も、夕方の修練が終わり、汗を流した後で、縁側にて二人で涼んでいる。掛け布団をかけなくてもそこまで寒く感じなくなった私は、薄い毛布を表にかぶせて、そして、舟に真後ろから抱えて貰いながら夕涼みし、舟の体の、そして心の暖かさを感じ、こんな日々も悪くないと思い始めていた。
外がざわついている。人々が多く歩く音、交わす声、何かの焼く音。それ以外にも聞いたことの無い音が多く聞こえ始め、ラメールは何が起きているのか解らず、恐怖を感じ始めていた。首の筋肉がかなり付いてきたが、単独ではまだ上を向くことが出来ない。その為、舟の胸板と抱えている右腕を利用して少しずつ頭の角度を変え、舟の顔を見る。
「しゅう……」
舟はその声に気付き、そして、彼女が不安そうな顔をしている理由を考え、そして直ぐに気づいた。
「大丈夫。お祭りだよ」
「まうり?」
「うん。この隣にある1200年の歴史のある神社が今日お祭りなんだ」
もちろん、ラメールにはまだその言葉は通じていない。断片的にわかった言葉も今日くらいの単語だろう。だが、舟が心配しなくて良いという事を言ってくれたのは理解できた。
「歩けるようになったら一緒に行きたい」
舟は素直に今の心を言葉にした。ラメールには通じてない事も理解していたが、ラメールはゆっくりと頷いた。その様子に驚いた舟だが、言葉が解らなくとも、伝わることがあるのだなと思い、温かい気持ちになっていった。
そんな時、まだ舟の右腕と胸板を利用して上を向いていたラメールから声がかかった。
「しゅう、あいしえる」
その言葉を聞くと凄く驚いてしまった。
何時そんな言葉を覚えたのか。司書さんの絵本にもその様な言葉があったような記憶もあるし、リモコンのボタンを押すことが出来るようになってから、TVを見るようにもなってきていた。陽向から借りているBD達も一緒に見ることがあるので、その時覚えたのだろうか。
しかし、その言葉の意味を考えると嬉しくて、嬉しくて、彼女を逃がさないかのように抱きしめる。
愛してる。
そう言いたかったのか、それとも、意味を間違えて覚えて使った言葉なのか。
どちらにしても、彼女の表情から察するに、好意的な言葉で間違いなかっただろう。
おかげで、今日の夕食は少し遅れることになった。
舟に抱きしめられて縁側でゆっくりしている。ここの所、何枚も暖かい布をかけなくても大丈夫になってきて、寄りかかる形だけど、起き上がれるようにもなってきた。
背中が暖かいし、落ち着くし、良いことづくめ。お気に入りの時間。
そんな落ち着いた状態の時に、いろんな声と、聞いたこと無い音がたくさん聞こえてきた。
向かいの木々の中から聞こえてくる。何が起きているのかわからない為、不安になり舟を呼ぶ。
「しゅう……」
不安なのに気づいてくれて、こっちを見てくれる。それだけでも安心することが出来たけど、その内容も説明してくれた。
「大丈夫、お祭りだよ」
舟の言葉の中には、初めて聞く単語が混ざっていた。
「まうり?」
た行、な行、ら行とわ行。これがまだ話しにくかった。その為、舟の話す言葉と同じにならないけど、舟はそれでも理解してくれる。言葉が無くても理解してくれる事はとても嬉しいけど、言葉が通じて理解してくれる。これもとても嬉しかった。
「うん。********************お祭りなんだ」
殆ど言ってる言葉がわからない。だけど、安心させるような口調で、言っているのがわかり、心が落ち着く。そして、何か続けて言葉をつなげた。
「*****************」
何か舟がやりたい事を言ってる様な気がする。何をどうしたいのかはまだよくわからない。だけど、なんとなく私と一緒にやりたいと言っているような気がする。だから、軽く頷く。舟が一緒にやりたいと言っているのなら、きっと嬉しいことなんだろう。そう思って。
気持ちが高ぶり、そして昔の映像で見た物と、舟が見てる映像の中で言っていた言葉。シーンも情景も一致していると思って、覚えた言葉を伝える。
「しゅう、あいしえる」
またた行が出なかった。悔しい。でも、好きという言葉を伝えられたはずだ。そう満足して舟の顔を見ると、なにか凄く驚いて、そして真っ赤な顔になっている。あれ、間違えたかな? 好きって言葉だったと思ったけど、もうちょっと強い意味の言葉だったのかもしれないと思った瞬間、舟が力強く、だけど優しく抱きしめてくれた。
ちょっと窮屈だけど、とても落ち着く。嬉しい誤算だけど、ちゃんとした言葉を後で憶えなきゃいけないなと思ったが、この幸せを堪能するために、とりあえず心の片隅に放り投げておいた。
「しゅう、ごはん」
あまりに幸せな時間だったけど、いい加減お腹が空いてきた。その言葉を伝えると、ようやく気づいてくれたらしく、慌ただしく舟が動き始めた。
また後でゆっくりと抱きしめてもらえれば良いやと思ってご飯を食べたけど、歯を磨いたら満足感からか直ぐに寝てしまった。