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「近藤、あとどれくらいだ?」
「三十分ほどで、着くんじゃないかなあ」
せかす冬子の声に、近藤がのんびりとした口調でかえした。
現在冬子は、近藤が運転する車で、事件のあったスラムの集落へ急いでいるところだ。
理由は、近藤が持ち帰った情報が、予想以上のものだったからだ。会議で不在の東堂課長の許可も得ず、飛び出してきたのだった。
「目一杯とばせ」
「え? でも回転灯を点けちゃダメなんでしょ?」
「ああ、回転灯は点けるな。そんなものを点けてスラムに向かってみろ。着いた頃には糞ガキ一人いなくなってるぞ。――いいから、とにかくとばせ。何かあれば責任は私がとる。おまえの腕なら事故などおきんさ。信じてるぞ」
「……分かりました。十五分で着いてみせます」
冬子のほうをチラリと見てから、近藤がアクセルを踏み込んだ。日暮れとともに激しくなった雨粒が、ばちばちとフロントガラスを叩いた。
空に轟く稲光のように、車が一台駆け抜けていった。
◇◇◇
鑑識課の前田課長と話し、三課のオフィスへと戻った冬子は、鑑識班のワゴン車に同乗し、戻ってきていた近藤をつかまえた。
『おいてけぼりなんて酷いっすよ!』
そしてごちゃごちゃと文句を垂れる近藤を締め上げ、聞き込みの結果を吐かせたところ、被害者と思われる、スラムの少年チームが浮かび上がった。
RTC(Republic of The Children.――子供たちの共和国)と呼ばれているチームだ。
スラムの集落の北側にある売春宿を一軒まかされていたという。
『そのRTCってチームが、昨晩を最後に、姿を消してしまったらしいんですよ』というのが、近藤の情報だった。
スラムの社会は独特だ。
三大スラム内に細かく点在する各集落が集合体となり、ピラミッド型の厳しい階級社会を築いている。
点在するどの集落にも〝長老衆〟と呼ばれる絶対的な存在がいる。
長老衆はその集落の意思決定権を持っており、集落全体を管理している。
配下に無数のチームが存在し、それぞれのチームが、集落内で何がしかの商売をまかされている。売春宿、賭博屋、運び屋、闇医者、闇市、盗屋、等々。
戸籍など持たない者がほとんどなので、まっとうな商売だけで生活している者のほうが少ない。スラムとはそういう場所だった。
しかし、本来取り締まるはずの地元県警は、スラムに関してはスルーだ。
戸籍など持たない者がどうなろうが知ったことではないという価値観もあるが、たいていの場合、生活安全課の刑事が腐敗している。
賄賂と接待で転がされていることがほとんどなのだ。
『スラムの売春宿の一番の常連は、刑事だ』なんて皮肉すら存在する。
そんなわけで、スラムは治外法権化している。
それにも関わらず、誰もスラムのことを〝無法地帯〟などと呼ぶことはない。
彼らには彼らなりのルールがあり、その一線を越えなければ、彼らもこちら側に手をだすことはないからだ。
だからスラムのことを『必要悪だ』という者も多い。
実際、凶悪犯がスラムに逃げ込んだ場合など、スラム側から貴重な情報がもたらされることも多いという。
ある意味で、持ちつ持たれつの共存関係が確立されており、『スラムの生活に関わる悪事を見逃してくれれば、状況次第では協力する』という不文律が存在している。
また余談となるが、三大スラムの中でも、関東多摩スラムは比較的平穏だ。
関東多摩スラムの住民は、大麻や覚醒剤といったクスリの売買に手を出したがらない。
クスリの売買は大きな金の流れとなるが、関東多摩スラムだけは決してこの流れに加わろうとしないのだ。
このことが、首都に近いにもかかわらず、見逃されている一因でもあった。
しかし彼らは見逃されるためにクスリの売買に手を出さないのではない。
彼らは知っている。クスリが自らを蝕み、大きな膿となることを。
彼らは許さない。クスリを持ち込むことを。
彼らは嫌う。クスリの存在そのものを。
昔からクスリの売買が盛んだった〝あいりん地区″が中心となっている関西スラム。
東アジア紛争時に政府に見捨てられ、反政府活動が盛んな九州スラム。
これらと異なり関東多摩スラムは、東北・北陸などの過疎化から逃げてきた住民が祖先となっているため、三大スラムの中でも傾向が異なるのだ。
だから、売春宿をまかされていたチームが一つ消えたと聞いた時、冬子は直感した。そのチームがクスリの売人を襲撃し、逆襲にあったのだと……
関東多摩スラムの売春宿はクスリに敏感だ。
売春宿内でクスリが蔓延すれば、女たちから客にクスリが流れだす。そうなると警察も黙ってはいない。いずれ宿は潰れ、大きな損失がでる。
(だからRTCというチームは動いたのだ。そして、その結果があの惨殺現場だ)
そう予想するのは容易いことだった。
しかしながら、一つだけ分からないことがあった。
(RTCが属しているスラムの集落が、どういうわけか沈黙している。理由が分からない。クスリが持ち込まれ、さらにチームの一つが虐殺されたというのに、何事もなかったかのように息を潜めているのは何故だ?)
もしも地元県警の新人刑事が惨殺現場を発見していなければ、あのまま放置され、チームが一つ消えたことすら看過されたかもしれない。
これはおかしい。
スラムは、その集落一つ一つで運命共同体のはずだ。
もしも部外者が住民を傷つけたならば、彼らは必ずその者を探し出し、粛清を行う。
時には牙を見せることで、集落の社会を守っている。
(――なのに、何故だ?)
その答えを得るには、いまは情報が足りなかった。
(だから急がねば、スラムへ)
人外の被害から、まだ救える命があるかもしれないのだから。
◇◇◇
「知らぬ。わしは知らぬぞ。ガキどものことはガキどもに聞け」
「中央のやつに話すことなんかねえよ! 消えろよ!」
「帰ってくれ。商売の邪魔だ」
「あんた良い女だなあ、いくらよ? 俺には分かるぜ。細く引き締まった最高の体だ。たまんねえな。極上の締まりだろうなあ。その締まった足首ですぐに分かったぜえ。――なあ。一発でいいからさ、ヤらしてくれよ。たのむよ。したらさあ、教えてやってもい――ぶばッ!?」
…………。
……。
「……ずみばぜん。本当にじらないんでず。ゆるじでぐだざ――ッ!?」
事件のあったスラムの集落に到着した冬子は、さっそく近藤を引き連れて、聞き込みを開始した。
無愛想な中年の男。
クソ生意気なガキ。
寡黙な露天商。
身の程を知らないゴミ。
目についた者を見つけては聞き込みを行なったが、まったく成果があがらなかった。
とりあえず冬子は、身の程を知らないゴミを路地裏に連れ込み、ぼこぼこにしておいた。本当に何も知らない、ただのゴミだった。
路地裏のダストボックスに投げ捨てておく。ゴミクズが。
「おい、近藤」
「は、はい!? な、なんでしょうか」
そして冬子のことを、遠巻きに見ていた近藤に声をかけた。
聞きたいことがあった。
「近藤。おまえ、どうやってRTCの情報を掴んだ?」
「え、えと。その……」
「早く言え、時間がない」
「す、すみません! その、怒りません?」
ぐだる近藤をひと睨みする。
「っひ!? そのですね。かわいい花売りがいたんで、お金を渡してですね……」
「……花売り。おまえ、ヤったのか……」
冬子の口から、極限まで冷えきった声が響いた。
「ヤってません! ヤってないです! 本当です! 信じてください! お金を渡して口説いてたら逃げられたんです! たまたまその時にRTCの話題が出ただけで、お金は持ち逃げされちゃったんです! だから俺、一発もヤってません!」
「持ち逃げされた金、自腹だからな」
「そんな!?」
「近藤。いま話したことを、そのまま野々宮に報告してもいいのか?」
「……どうか自腹でお願いします」
野々宮に惚れている近藤が、がっくりとうなだれた。
どうせ花売りの話など関係なしに、まったく脈はないと思うが黙っておく。近藤の色恋沙汰などどうでも良かった。
(とりあえず路地裏を出るか。引きつづき聞き込みが必要だ。いまは時間がない)
――そう思い。
路地裏から表通りへ出ようと、冬子は振り返った。
すると、路地裏の出口を防ぐように、大柄の男が立ち塞がっていた。
◇◇◇
その男を見て、冬子はすぐにピンときた。
安っぽいロングコート。くたびれたスーツ。革靴は履き潰され、ところどころ革が剥がれ落ちている。
体格は引き締まっていて頭は角刈りだ。
そしてもっとも特徴的なのは耳だ。潰れている。おそらく柔道経験者だろう。それ特有の潰れ方だった。
男は剣呑な雰囲気を隠そうともしない。
傲慢さが滲みでている。
連れは誰もいない。この男たった一人だ。
それにもかかわらず、臆することなく立ち塞がっている。
冬子は明らかに捜査関係者で、連れ(近藤)もいるというのに。
(この状況下で、こうした態度をとる者は限られている。おそらくは……)
「おい、おまえら。ここで何をしている」
「なんだ貴様は?」
「ああ? これだよ、これ」
男は、スーツの胸元から〝警察手帳″を取り出した。
それは冬子の予想通りだった。
(――地元県警の、生活安全課の刑事か)
冬子のことを煙たがったスラムの誰かが呼びつけたのだろう。賄賂と接待で飼いならしているこの刑事を。
「県警の刑事が何の用だ」
「それはこっちのセリフだ。俺の断りもなしに何をしている。ここはおまえらの管轄じゃないんだぞ。好き勝手やられちゃ困るんだよ? 分かるだろ?」
「こちらはおたくらの署長から押し付けられた事件で動いている。下っ端がでしゃばるな」
「あぁ? 聞いてねえな、そんな話は。だったら署長様をここまで連れてこいよ」
「県警の馬鹿は状況が分かってないようだな」
「分かってるさ。戸籍すらないガキどもが死んだ。今夜の天気は雨。明日は晴れ。ここじゃただの日常だ」
「――っ!? 被害者の情報を持ってるのか? 教えろ!」
「だから言っただろ。明日は晴れだ。良かったな」
「貴様!」
「おおっと、おっかねえな。――なあ、そろそろ理解しようや。ここはおまえらのテリトリーじゃねえ。ここにはここのやり方がある。おまえらみたいなお堅い連中が探し回ったって何もでてきやしねえんだよ。分かるだろ? 分かったらなら――とっとと失せろ」
「分かってないのは貴様のほうだ。状況を理解していないようだな。今回の事件はいつもと違う。ここで協力せずにはぐらかしてみろ。後悔するのは貴様のほうだぞ? 県警は公安の査察を受けたいのか?」
「ふいてんじゃねえ。公安がこの程度でうちにガサ入れるわけねえだろ。おまえらが持ち帰った肉片をいくら検査してもな。戸籍登録者のDNAと一致なしで終わるだけだ。『ミンチにされたのは戸籍を持たない人間でした。戸籍を持つ人間は誰も殺されていませんでした。めでたし、めでたし』で終わるだけだ。
だから、うちの新人刑事が、余計な報告あげてなけりゃ、ハナからなかった事件なんだよ。いいから失せろ。忘れろ。そんでもって二度とここに来るんじゃねえ」
「――いいんだな。本当にそれで? 重要な手がかりをみすみす逃した理由は、県警の妨害が原因だったと報告を上げるぞ? 今回は単なる殺しを追っているわけじゃない。公安のお偉いさん方も黙っちゃいないぞ」
「……どういうことだ。単なる殺しだろうが」
「いまはな。だが、いずれ大きなヤマになる。売人がただの末端じゃないからだ」
「聞いてないぞ。そんな話は」
「事実だ。現場検証した鑑識からは、ただの末端のクスリ屋ではなかったと聞いている。もしも流通元だったならば、チャンスだ。だから見逃すわけにはいかない。この意味、貴様でも分かるだろ? ――それで。どうする? うまい汁を吸わせてくれるスラムの連中をかばうのか? それともうちに協力するのか? いますぐ決めろ」
冬子の言葉を熟考するために、男は首を軽く捻って黙り込んだ。
ハッタリなのか、それとも真実なのか。
正直なところ、男には判別できなかった。
しかしながら、その腐りきった頭でも分かることがある。汚れた生き方をしてきたからこそ、分かることがあった。
男の本能が警鐘を鳴らしていた――これはヤバイ案件だ。深入りしてはいけない。
「……クソが。分かった。分かったよ。今回だけだぞ。――ここから三つ先の交差点を左に行け。そのまま真っ直ぐすすむとラーメン屋がある。その店に入ったら何もしゃべるな。店主から言葉をかけてくるのを待て。しばらくすると注文を聞かれるから『塩ラーメン』を注文しろ。『無い』と言われたら『カニチャーハンのカニ抜き』を頼め。それで話が通じるようになるはずだ。そっから先はおまえら次第だ。俺はこれ以上はごめんだ」
◇◇◇
冬子と近藤は、教えられたとおりに道を進んだ。
三つ目の交差点を左に曲がり、しばらく歩く。
古こけた赤い看板が見えてきた。
看板には『ラーメン』とだけ、シンプルに書かれている。
どこの町にも一軒はあるであろう、いつ客が入っているかも分からないような寂れたラーメン屋だった。
店前に到着すると、店内から、テレビの音が聞こえてきた。
中に誰かがいるのは確かなようだ。
冬子は躊躇することなく、引き戸に手をかけた。
ガラガラとたてつけの悪い音が響く。
店に入ると、四○歳前後の店主がいた。
『いらっしゃい』の一言もない。
こちらに背を向けたまま、カウンターに肘をつき、店の奥にあるテレビを見ている。
冬子は引き戸を開けたままにし、入り口につったったまま、店主から言葉をかけてくるのを待った。
しばらくして――
「注文は?」
「塩ラーメン二つ」
「うちには無い。メニューを見ろ」
「じゃあカニチャーハンのカニ抜きで」
こちらに背をむけたままだった店主が、ゆっくりと振り返った。
そして冬子の姿を見た途端、ギロリと睨みつけてきた。
警戒している。
冬子と近藤を見て、すぐに捜査関係者だと見抜いたのだろう。
「……その注文、どこで知った……」
「貴様らが飼いならしてる県警の犬さ」
冬子の率直な答えに、店主の警戒した態度がすこしだけ和らいだ。
「……あの糞刑事か。まあいい。用件はなんだ?」
なんとか話が進みそうだ。
腐っても刑事――情報に間違いはなかったようだ。
「RTCというチームが消えたのは知っているな?」
「ああ。最近リーダーが変わったばかりだった。馬鹿なことをした」
「馬鹿なこと? 関東多摩スラムじゃクスリは厳禁だと思っていたが、ここの集落は違ったのか? シャブ中の集まりか?」
「違う! 我々はクスリを絶対に許さない。絶対にだ」
「それなら何故だ。何故貴様らは沈黙している。そもそもあのクスリ屋を何故放置していた?」
「……俺の口からは何も言えん。もう帰ってくれ」
「誰なら分かる?」
「帰ってくれ」
「誰なら分かると聞いている! 言え! RTCのガキに、まだ生き残りがいる可能性が高い。まだ救えるかもしれない。おまえたちの同胞だろうが、見捨てるのか!」
「……俺の口からは、何も言えない……」
冬子の厳しい言葉に、店主が苦虫を噛み潰す。
冬子はさらに激しい口調で、言葉を叩きつけた。
「だから誰なら分かると聞いている!」
「……ここで、少し待っていろ」
そして店主が折れた。カウンターから立ち上がり、店の奥へと消えていく。
「……ええ、そうです――っ、ですが……はい……」
すこしして、店の奥から、店主の声が漏れ聞こえてきた。
誰かと電話で話しているようだ。
そのまま待つこと数分、話し合いがついたのか、店主が店の奥から出てきた。
「長老衆が、お会いになりたいそうだ」