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 パラケルスス研究所・日本支部――通称、パラ研。

 そう呼ばれる機関がある。

 詳しい成り立ちは明確ではないが、起源は二十一世紀のヨーロッパと言われている。

 よって本部はEUのどこかだ。


 日本に支部ができたのは数十年前のことらしい。

 表向きはバイオ燃料の研究所ということになっている。

 そのため日本支部は、官民共同で立ち上げたNPO法人という扱いだ。

 一般市民からすれば、数多くあるNPO法人の一つでしかなく、区別すらつかないであろう、何の特徴もない機関だった。表向きは……。


 だが実態は違った。

 実質的にパラ研を管轄しているのは〝警察庁警備局外事情報部〟だった。

 つまり国際的テロリストなどに対処する公安部門の子会社的な何か――それがパラ研だ。


 日米安保の関係上、EUからCIAを経由して設立されたとも噂されている。

 予算は内閣官房機密費から出ている。

 色々と不透明な会計処理が許される怪しい機関だ。

 そして業務内容は、人外犯罪に対する捜査・殲滅活動。

『人外――人あらざる者』

 それに対処すべく立ち上げられた機関だった。


 ただ人外といっても、吸血鬼だとか、魔女だとか、狐娘だとか、そういった類を指しているわけではない。

 一応そういった類は実在はしているらしいが……(もしくは実在していたらしい)

 だが、すでに共存共栄が確立できているらしく、パラ研とはあまり関係の無い存在だった。『そもそもそれらの生命体を人外と呼ぶべきか?』

『彼らも同じ人類ではないのか?』

 そんな議論が、EU本部では巻き起こるらしい。


 さすが男女平等発祥の地だ。まったく理解不能だが……

 だからとりあえず吸血鬼だとか、魔女だとか、狐娘だとか、その他諸々のことは置いておく。

 ――では〝パラケルスス研究所が人外と定義するもの〟とは?


 中世ルネサンスの時代、パラケルススという錬金術の天才がいた。

 彼は生命を欲したと言われているが、彼による錬金物は、ほとんどが失われたので詳細は不明だ。

 しかしながら、ただ一つ、現代においても脈々と受け継がれている〝パラケルススの遺物〟がある。

『ファンタジー』という名の合成麻薬だ。

 東欧の小さな教会が、二十一世紀にいたるまで、その製造方法を封印していたとされるが、どういうわけか、これが南米へと流出してしまった。


 そして現在、その製造方法は、南米のカルト系麻薬カルテル『白の教団』が独占している。

『神からの祝福』

『神からの断罪』

『ソドムとゴモラの愚民』

 白の教団の信者は、よくそんな言葉を口にする。

 どれもファンタジーを使用した被検体に対する呼称だ。


 ファンタジーを使用した被検体は三つのパターンに分かれる。

 まず『ソドムとゴモラの愚民』

 これは性的快楽が異様に高まった被検体のことを指す。

 セックスのときに、ファンタジーを使えば、男は一晩中やりつづけても萎えないし、女は一晩中イキ狂うという。

 この性的効果のせいで、人類はファンタジーの根絶に失敗していた。

 だが、ファンタジーの効果がこの程度ならまだ問題はなかった。

 所詮ただの合成麻薬で終わるからだ。

 だいたいファンタジーでなくとも、何らかのシャブを打ってキメセクする馬鹿は必ずどこかにいる。

 結局、麻薬そのものを根絶できない限り、ファンタジーだけを根絶しても意味がないのだ。あくまでも、この程度の性的効果しかないのであれば……だが。


 ファンタジーが問題視されるのは、残り二つのパターンにあった。

 それは『神からの祝福』と『神からの断罪』だった。

 被検体の中に、稀に〝変異因子〟をもった者が現れる。

 変異因子は、良性・悪性に分かれており――

 良性因子をもった被検体は『神からの祝福』

 悪性因子をもった被検体は『神からの断罪』

 ――と、それぞれ呼称される。


 端的に言えば、『人外』に生まれ変わるのだ。

 変異してしまうのだ、存在そのものが。

 もしも変異因子をもつ者が、ファンタジーを摂取した場合、人から外れてしまうのだ。

 それが合成麻薬『ファンタジー』の特筆すべき効果であり、パラケルスス研究所が人外と定義するものだった。


   ◇◇◇


 分厚い黒塗りの鉄板が、電動コイルに巻かれて競りあがっていく、まるで要塞のような重々しい門構えだ。

 塀も異様に高い。

 そしてその重厚な門の脇には、施設名が書かれた小さな表札があった。

『パラケルスス研究所・日本支部』

 通称パラ研だ。

 そこへ黒塗りの乗用車が一台入っていく。

 後部座席にはスモークが張られており、外部からは運転手しか見えない。


 その車の運転手は、慣れた様子で敷地内の駐車スペースに車を止めた。

 そして後部座席に向かって「着きましたよ」と声をかけた。

 それに簡単な礼を述べた女性が一人、車から降り立つ。

 ――山吹冬子だ。


 降り立った冬子は、長い黒髪をがさつにかき上げ、外の空気をゆっくりと吸い込みながら空を見上げた。

 今日は夕方から雨になるらしく、どんよりとした曇り空だった。


(スラムの廃ビルとはいえ、事件現場が屋内でよかった。もしも屋外だったならば、いまだ鑑識作業が続けられている現場は、すべて洗い流されてしまっただろう。

 ――そういえば、スラムに近藤を置いてきてしまった。まあ、いいか。あの学生気分が抜けきらない馬鹿にはちょうどいい罰だ)


 夕方から雨が降ろうが、冬子には近藤のことなど知ったことではなかった。

 それよりも冬子は煙草が吸いたかった。

 近藤のことなど忘れ、喫煙することが現在の最重要事項だった。

 肺が一服を求めていた。


 だが研究所内も車内も、禁煙だ。

 よって喫煙スペースは、研究所の裏手にある非常階段の下に限られていた。

 しかしながら喫煙スペースといってもだ……そこには、野ざらしにされた灰皿が一つ置かれているだけの寂れた場所だった。

 そのため冬は酷く冷え込み、夏は暑さと蚊がうざい。

 基本的人権すら否定された気分になる場所だった。


『もう少し喫煙者に優しい社会になってもいいのではないか?』

 冬子は常々そう思うのだが、これに対し銀子ぎんこなどは。

『煙草なんてすぐにやめてください。冬子さんの害にしかなりません』

 いつも冬子にデレデレな銀子ですら、煙草に関しては冷たい反応しか返さない。悲しい話だ。


 そんな身内とのやりとりを回想しながら、冬子は駐車スペースから正面玄関の前を通り過ぎ、研究所の裏手へと回った。

「……おかしい。灰皿がない。どういうことだ」

 しかし、そこにあるはずの灰皿がなかった。

 仕方がないので、コートのポケットからマイルトセブンと一緒に、携帯灰皿を取り出す。

 百円ライターで煙草に火をつけ、一服。

 肺に満ちていく紫煙がたまらない。それをゆっくりと一息で吐き出す。


 ――と、そこへ。

「あ! 冬子さん、おかえりなさい」

 野々宮恵美ののみやえみがやってきた。

 経理担当の彼女が、この喫煙スペースにやって来るのは珍しかった。

(普段ならば、煙草の臭いを残した私が研究所内に戻るだけで、嫌そうな顔をする野々宮が、いったい喫煙所ここへ何の用だ?)


「珍しいな、野々宮がここに来るなんて」

「……冬子さん、煙草臭いです」

 野々宮が嫌そうな顔をした。

(さすがにショックだ。というかだ。なぜ喫煙スペースで煙草を吸って文句を言われねばならんのだ)


「野々宮、おまえ、ここをどこだと思ってるんだ?」

「パラケルスス研究所日本支部です。敷地内も含め、全面禁煙だったはずが、冬子さんと鑑識課の前田課長がゴネたせいで、ここだけ喫煙スペースにされちゃった残念な場所です」


(……そんなことも、あった気がする。鑑識課の前田課長とたった二人で愛煙家同好会を結成し、研究所内に立て篭もり、喫煙所の設置を求めて、拡声器で叫んだような気もしないことはない。――あの後は始末書と減給で大変だった。嫌なことを思い出させる、さすがは野々宮恵美だ。この悪女あくじょめ)


「――ふう。いい天気だな、野々宮」

「もう! すぐそうやって目をそらして、都合の悪い話を聞かなかったことにしないでください! だいたいめちゃくちゃ曇り空じゃないですか! それに煙たい! 煙草ふかすのやめてください」


 野々宮恵美は十九歳で、パラ研機捜三課の経理担当だ。ヒラなので役職はない。

 対する冬子は二十ニ歳、パラ研機捜三課の主査だ。役職持ちだ。

 つまり目上というわけだ。

 しかし、たとえ自分のほうが目上であったとしても、野々宮恵美にだけは逆らってはいけない。彼女の機嫌を損ねれば、途端に干上がってしまう。


 どんな政治家であろうとも、予算を握る財務省に逆らえないのと同じで、パラ研機捜三課では、男を惑わす天然巨乳の持ち主である野々宮恵美――この経理担当には逆らえないのだ。

 具体的にいうと、正当な理由もなくぶっぱなした拳銃の弾代だとか、器物破損による修繕費だとか、その他諸々の不正経理を見逃してもらえなくなるのだ。

 パソコンと数字に滅法強い彼女は、機捜三課の経理をすべて牛耳っている。

 彼女の判子がなければ、機捜三課の東堂とうどう課長は、絶対に予算をくれない。

 逆にいえば、野々宮恵美の判子さえあれば予算はもらえる。


 だから冬子は、黙って煙草の火を消すことにした。

 煙草一本で彼女の機嫌を損ねるなど、まったく割りに合わないのだ。

 フィルターまでまだ一センチは残っているそれを、無念な思いとともに携帯灰皿に押しつける。

 煙草は高いのだ。

 年々煙草税はあがっていく。もはや詐欺で訴えれば勝てるのではないかというレベルだ。


「あ! デイジー!」

 冬子が名残りおしそうに携帯灰皿を眺めていると、野々宮が突然うれしそうな声をあげた。

(――ん? デイジー? 誰だ? パラ研には身元の確かな日本人しかいないはずだが?)

 野々宮の視線の先へ――冬子は振り向いた。

 するとそこには、頭上の非常階段から下りてきたばかりの三毛猫がいた。

 口に灰皿を咥えてる。

「その三毛猫か、喫煙所の灰皿を盗んだ犯人は……」

「もうデイジー。そんな汚い灰皿を咥えちゃダメ。ニコチン馬鹿になっちゃうでしょ」


(……ニコチン馬鹿。いくらなんでもあんまりな言い方ではないだろうか? いったい喫煙の何が悪いというのか。やはり愛煙家同好会のメンバーを増やすべきだ。今度、前田課長と協議しよう)


 だがパラ研機捜一課、二課の連中は話にならない。

 冬子が同好会メンバーを増やそうとしても無駄に終わるだろう。

 一課と二課は、警察庁警備局から選抜されたキャリアばかりだ。

 キャリア――警察官僚エリートの皆さんは〝煙草なんてお吸いにならない〟

 出世に影響するからだ。喫煙者というだけで、出世コースから外されるほど、キャリアの世界は厳しい。

 ――高卒で県警出身。ノンキャリアな冬子には関係のない話だが……


   ◇◇◇


 パラケルスス研究所の機動捜査課は、一課から三課まである。

 当初は一課と二課だけで始まったといわれるこの研究所も、年々増え続ける人外犯罪に対応すべく、三年前に三課が新設された。

 しかしながら、三課新設にあたり問題があった。

 満足な人材が確保できなかったのだ。


 基本的にパラケルスス研究所の人材は、警察庁警備局のキャリアから選抜される。

 機密情報を幅広く扱い、研究所の実態も秘匿。

 他国の情報機関との連携も求められるため、警視庁や県警などの一般警察では対処できない事案が多い。

 よって〝日本の情報機関〟などと揶揄される警察庁警備局――いわゆる公安警察の人材が最適とされていた。


 そして公安警察内では、パラ研への出向は出世コースの一つだった。

 近年の警察庁内の各局長クラスは、パラケルスス研究所機動捜査課の課長職を経験した者ばかりが歴任している。

 だから公安警察の人間は、誰しもがパラ研へ出向したがる。将来の出世が約束されているからだ。

 だが、そこに落とし穴があった。


 なぜなら新設される三課のために、公安警察からの人材を増やすことはできても、増員された者たちに用意できる将来の地位までは、増やすことはできないからだ。

『限られたパイの奪い合い』

 得てして出世競争とはそういうものだが、あまりにそれが激化すると、弊害となる。

 増加する人外犯罪に対応するために、せっかく三課を新設したのに、出世争いが激化して、身内同士の足の引っ張り合いで効率が落ちてしまっては本末転倒だ。


 三課新設が議論された際、そのような懸念が浮かびあがった。

『――ならばどうする?』

 三課新設は必要だ。しかし公安警察からの人材をこれ以上増やすわけにはいかない。

 結局、この議論の答えはシンプルなものとなった。

『公安警察以外からのスカウト』

 三課の課長だけは公安警察の者とし、それ以外の人員は外部からスカウトすることとなった。


   ◇◇◇


 ――山吹冬子は高校を卒業したばかりの単なる婦警だった。

 ある時、パトロール中に人外と遭遇、工事現場に落ちていた工業用シャベル一本で渡り合い、人外から逃げ切った。

『気合と根性でどうにか生き残った』

 そのよく分からない度胸を買われ、三課にスカウトされた。


 ――野々宮恵美は単なる女子高生だった。

 いや〝単なる〟という表現は間違いかもしれない。彼女はハッキングを趣味としていたから……

 そして世間に飽きていた。同年代の学生はもちろん、家族との会話すら苦痛だったという。

 とび抜けたIQがそうさせた。

『だって中身がないんだもん。みんな言葉に中身が無かった。生きててつまんなかったな……あの頃は…… え? 今? 今は楽しいですよ! 冬子さんニコチン馬鹿だし!』

 今でこそよく笑う彼女も、学生時代は常に暗く無表情だったという。

 とにかく彼女は飢えていた。

 生きている実感を求めていた。

 その欲求不満を解消するために、ハッキングした。

 様々な政府機関のデータベースが彼女によりハッキングされたという。

 しかしたいした実害はなく、犯行内容は、野良猫の写真が詰まったフォルダが残されるというものだった。

 かといって見過ごすわけにはいかなかった。公安警察が動いた。

 ネット上での攻防は公安警察の完敗だったという。糸口すら掴めなかった。困った公安警察が着目したのは野良猫の写真だった。

 全国を周り、写真の野良猫を探した。

 ついにその野良猫を見つけたとき、餌付けしている女子高生がいた。野々宮だった。

 あっさりと犯行を認めた野々宮に対し、公安警察は逮捕ではなくスカウトを選んだ。類稀なる頭脳に目をつけた。


 そして冬子や野々宮以外にも、他四名がスカウトされ、パラケルスス研究所・機捜三課が新設された。三年前の話だ。

 ちなみに三課の課長は東堂一市とうどうかずいちという男だ。

 公安警察の機密性により、詳しい経歴は明らかにされていないが、政府機関や各国大使館などに多数のコネクションを持つキレ者だ。

 また『寄せ集めの問題児集団』と言われている三課をまとめあげる器の大きさも持っている。

 早くから〝将来の局長〟と噂されるほどの傑物だった。


 その東堂課長を含め、たった七名で新設された三課だったが、時が過ぎるとともにその人数を増やしていった。

 少数精鋭を基本方針としていながらも、東堂課長により全国からスカウトされてきた一癖も二癖もあるスペシャリスト達が集まった。

 最大時には二十二名もの大所帯となった。

 キャリア――警察官僚エリートから選抜された者が集う一課、二課よりも優れた成績を残した。


 しかし、今ではたった五名しかいない。

 一年半前、三課は壊滅の危機に瀕した……


   ◇◇◇


『伯爵』と呼ばれる人外がいる。

『良性変異体・タイプV。ユニークネーム・伯爵』

 パラケルスス研究所のデータベース上には、そう登録されており、普段は欧州を周遊しているその人外が、何の気まぐれか、一年半年前に来日した。

『放置してよい。こちらから手を出さないかぎり、無害だ』

 パラ研欧州本部からは、そんな指示が出ていたという。

 しかし、日本支部が下した決断は――

『機捜三課による伯爵の殲滅』というものだった。

 一課、二課よりも実績を残す三課を上層部が煙たがったとも、ユニークネーム級の人外との戦闘データが欲しかったとも噂されているが、真偽は定かではない。

 結局、東堂課長からの直訴も退けられ、三課は無謀な挑戦を強いられた。


 ……結果。半数以上の殉職者がでた。

 人の身では乗り越えられない絶対的な壁が、そこにはあった。

 東堂課長が上層部からの指示を無視して、撤退命令を出していなければ、三課は全滅していただろう。


 深い傷が残った。

 その傷は伯爵戦以降も、じわじわと三課を蝕んだ。

『子供が産まれる。父親のいない家庭にはしたくない』

 そのように語って辞めていく者を止めることなど、誰にもできなかった。

 根深い傷が三課を蝕んだ。

 生き残った者のほとんどが、退職していった。

 東堂一市。山吹冬子。野々宮恵美――失敗に終わった伯爵殲滅作戦後に三課に残ったのは、この三名だけだった。

 さらに冬子は、左腕切断という重傷を負ったため、一年間の休職をよぎなくされた。

 よって三課は休眠することとなった。


   ◇◇◇


 そして約半年前に、冬子が伯爵戦の重傷から復帰したことで、三課は再び動きだした。

 ついでに二名の新人も加わった。

 まだまだ三課は再建中だが、本来の姿を取り戻しつつある。


 ちなみに現在の三課は、新人二名の育成を優先としている。

 そのため重大案件や全国各地の都市部で起こる大型案件などは、すべて一課と二課にまかせ、三課は主に、関東多摩スラムなどで起こる小さな案件のみを請け負っている。

 その地道な活動のおかげで、ようやく新人も育ち、根付いてきたところだ。


 新人の一人――近藤隆などは、三課に来た当初は犯行現場でゲロを吐き散らしていたが、今では慣れたものだ。

 だからといって、今日のようにあまり緊張感を無くされては、冬子も困るわけだが……


 ――近藤隆はプロレーサー志望だった。

 だが高校を卒業する頃、夢を実現するのは無理だと悟ったらしい。才能には自信があったという。しかし近藤の家は貧しかった。金が無かった。

 高校卒業後は、近藤はアルバイトをしながら夜間大学に通っていた。

 そして大学三年生の頃、就職活動が本格化する時期のことだった。

 近藤はスピード違反で捕まった。一般道でニ五三キロを出したという。一発で免許取り消しの上、前科持ちとなった。

 倒れた母親を病院に連れていくためだったらしいが、そんな理由は当然無視された。

 母親の治療費。前科。決まらない就職。

 すべてが狂い出した近藤を拾ったのが、パラ研だった。


 三課再建中の東堂課長がまず欲したのが、新型装甲車のドライバーだった。

 東堂課長が人事部に出した条件は単純明快だった。――経歴は不問。確かな腕と確かな度胸。そして、決して退職しない者。

 公安警察のデータベースから、この条件に合致したのが近藤隆だった。

 普段はお調子者の近藤だが、根は真面目で憎めないやつだ。

『笑って生きてれば、人生なんとかなるもんすよ』

 近藤の場合は、へらへらと笑いすぎではあるが……


   ◇◇◇


(――とまあ、そんなことよりもだ)

 冬子は過去の回想にふけりながら、三毛猫とたわむれる野々宮を眺めていた。

 三毛猫は、野々宮がもつビニール袋に興味があるようで、しきりに前足でビニール袋を叩いている。

「はいはい分かったから、ちょっとだけ待っててね」

 野々宮は三毛猫にやさしい声をかけると、ビニール袋の中から、餌や皿を取り出し、三毛猫の前にならべた。

「おい野々宮。おまえ何をしてるんだ?」

「見てわからないんですか? デイジーにごはんをあげてるんです。ねえ、デイジー。おいしいよね?」

「その三毛、野々宮の飼い猫か?」

「そんなわけないじゃないですか。ここに自分のペットなんて持ち込めませんよ」

「じゃあ野良か」

「そうなりますね」

「野々宮、野良猫に餌をやるな」

「ええ……なんでですか? こんなにかわいいのに。冬子さんて猫嫌いなんですか?」

「いや、嫌いではないのだが……」


 野良猫は嫌いではない。

 ただ、一度でも餌を与えたからには、きちんと面倒を見てやらなければならない――そんな義務感にさいなまれるのが嫌なのだ。

 かわいい。かわいそう。そんな理由だけで餌を与え、結局放置するなど、自己満足の無責任だと、冬子は思うのだ。

「なあ野々宮」

「なんです?」

「時間があるときに、その三毛に避妊手術とワクチン注射をうけさせとけ。三課の経費を使ってもいいから」

「え? あ、はい。わかりました」

 決して野良猫は嫌いではないのだ。

 むしろ犬猫に限らず、冬子は動物好きだ。好きなのだが――

『安易に餌を与えてしまうのはよくない。餌を与えたからには、きちんと面倒をみてやるべきだ』と、冬子は思うのだ。


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