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スラム街に建ちならぶ廃ビルの前に、赤色灯をつけた黒塗りのワゴン車が止まっている。
その周辺には『KEEP OUT』と印字された黄色テープが張り巡らされ、事件現場の保護が行われていた。
どうやら廃ビル一階で殺人事件が起きたらしく、ヒビ割れた窓を照らすように、鑑識班のカメラが何度も瞬いていた。
そして、その廃ビル前に、新たに黒塗りの乗用車が一台止まった。
助手席のドアが開き、女が一人降り立つ。
続いて運転席からは、男が一人降り立った。
一組の男女は、黄色テープを跨いで廃ビルに入ろうと――したが、途中で女が男に何かを告げると、男のほうは廃ビルに入らず、渋々といった様子でスラム街へと消えていった。
女はそれを見届けてから、廃ビルを見上げ、一階へと入っていった。
◇◇◇
山吹冬子が事件現場に入ると、そこは赤く染まった世界だった。
『血と肉と骨』
グチャグチャに混ざり合ったひき肉が、床一面から天井までベチョリとこびりついていた。
もはや被害者の人数を予想することすらできぬほどの惨状だった。
「……はあ」
冬子の口から、大きな溜息が漏れた。
すでに現場入りした鑑識班は、素早く丁寧な仕事をするベテラン揃いだが、この惨状では、まだまだ時間がかかるだろう。
(県警の狸どもめ、やっかいな現場を押し付けてくれたものだ……)
けっして声にはできない愚痴が、冬子の頭の中をよぎった。
この無惨な事件現場を発見したのは、地元県警の新人刑事だった。
そして火急的すみやかに、県警からパラ研へ、捜査権限は移管された。
冬子がちょうどパラ研に出社した時、あちらの署長から電話があり、パラ研の案件だと押し付けられたのだった。
嫌な予感はしていた。
普段は縄張りにうるさく、なかなかこちらに案件をよこさない県警が、朝一番に連絡をよこしてきたからだ。
もの思いにふける冬子の鼻腔を、血なまぐさい空気がこすりあげた。
不快感がねっとりと、白い肌にからみついてくる。
不機嫌な感情を隠しきれず、冷めた美しさをもつ柳眉が逆立った。
冬子は、それらすべてをかき消すように、長い髪をガサツにかきあげた。
(……県警の狸どものことは、今はどうでもいい。それよりも現場だ)
目の前の惨状へ、あらためて意識を集中させた。
◇◇◇
ひき肉の乾き具合から予想するならば、事件発生から、まだ十二時間もたっていないだろう。
おそらく犯行時刻は〝深夜から早朝〟だ。
気がかりなのは、徹底的に喰われていることだった。
ただ殺すだけならば、ここまでミンチにする必要はない。
「手酷くやってくれたものだ、今回の人外は」
「そりゃ県警も、慌ててうちに連絡してきますよ」
こぼれ落ちた冬子の言葉を、拾い上げる声があった。
いつの間にか。
冬子の隣には、廃ビルの前で別れたはずの男――近藤隆が立っていた。
「……近藤。おまえ、聞き込みはどうした?」
思いきり睨みつけながら、冬子は近藤に言葉をぶつけた。
現場周辺の聞き込みを命じたはずの近藤が、何故か早々に戻ってきたからだ。
まともな理由でないなら、容赦はしない。
「いやあ、ここじゃ、どいつこいつもまともに応じちゃくれなくって。ははは……」
ごまかすように、近藤はひきつった笑みを浮かべ、軽い調子で答えた。
どうやら簡単にあきらめて帰ってきたらしい。
「……おまえ、舐めてるのか?」
冬子が低く唸った。
今にも殴りつけんとする冷えた空気が漂う。
「――っひ!? す、すみません! でも、ここスラムじゃないですか。ガキどもぜんぜん相手にしてくれなくて、それで――あがっ!?」
冬子は目をすっと細めると、グダグダと言い訳をならべる近藤のネクタイを引き寄せた。
近藤の口から潰れた声が漏れ、安物のスーツに大きな皺がよった。
冬子は一六八センチと女としては長身だが、近藤はそれよりも一○センチ以上の上背があった。
しかしそんな体格差をものともせず、冬子は左手一本で、近藤の体を引き寄せていた。
その近藤の耳元に、低く囁くように語りかける。
「……いいか、近藤。情報が必要なんだ。これだけの惨状だ。誰かしらが、何かしらを目撃したか、物音を聞いていたはずだ。小学生でも分かることだ。だから周辺の聞き込みが必要だ。グダグダ屁理屈をこねるスラムのガキがなんだって? そういうガキにはな。鉛弾一発ぶっぱなして言うことを聞かせろ。まだ毛も生え揃っていないようなガキに、舐められるな」
ネクタイを締め上げられ、近藤のクビがミシミシと締まる。
苦悶に満ちた声が漏れた。
「……お、オレ、冬子さんみたいに、始末書ばかり書きたくないです。っていうか放してください。クビやばいっす、マジで……」
「うるさい。黙れ。始末書の一枚も書けずに現場をやれると思うな。いいからもう一度いってこい。一時間は戻ってくるなよ」
「そ、そんなあ……」
ようやくネクタイを放してもらえた近藤が、情けない声をあげた。
だが、冬子にもう一度睨まれると、すごすごと廃ビルを出ていき、ふたたびスラム街へと消えていった。
◇◇◇
今回の惨殺事件は、日本三大スラムの一つである〝関東多摩スラム〟で起きた凶事だった。
二十二世紀へと突入した世界で、日本はまだまだ経済大国としての地位を維持していたが、国内の貧富差は、もはや取り返しのつかないレベルに達していた。
天災と紛争――これらの同時多発が原因だった。
二十一世紀中頃、東アジアを中心として大きな混乱が起きた。
中国経済のバブル崩壊をきっかけに始まった混乱は、当初は中国による台湾併合で終結すると見られていた。
しかし、そうはならなかった。
小笠原諸島近海にて、謎の巨大爆発が発生したためだった。
これにより周辺海域の海底火山一帯が活発化。フィリピン海プレートの大規模変動。関東トラフ、および南海トラフを震源とする大地震が起きた。
日本、台湾、フィリピンには大津波が押しよせ、東シナ海周辺の情勢は急変した。
そして中国は救援活動を名目に、人民解放軍を大規模投入。
台湾統治を皮切りに、日本の沖縄・九州、フィリピンの南西諸島と次々に侵攻した。
またこの動きと連動するように、北朝鮮は南下を開始。朝鮮半島では南北戦争が再燃した。
この時、東アジア周辺に展開していたはずの在米軍は後手にまわった。
米国本土にて、理想国家主義を掲げる南米のカルト系・麻薬カルテル『白の教団』――そのテロ活動が激化したことにより、在日米軍をはじめとする東アジア周辺の艦隊は、一時的に北米・南米周辺へと派兵されていたためだった。
在米軍の主力不在により、東アジア情勢は混迷を極めた。
国連軍の派兵は、一部の常任理事国の拒否権により却下。
またEUでは、中国経済のバブル崩壊にともなう金融危機により、失業問題が悪化したため、出口の見えない東アジア情勢に対し、積極的に軍事介入する動きは敬遠された。
そうして東アジアでは多くの血が垂れ流された。
その終結には、五年の歳月を費やすこととなる。
そしてこの泥沼化した東アジア情勢を終結させたのは、米国議会にて緊急決議された〝次世代型・機械化兵の合法案〟であったと言われてる。
『神より与えられし人の体を、機械と同化させるのは、神への冒涜である』
こういった米国内のキリスト系保守派の反対を押しきる形で、合法化された次世代型・機械化兵団は、その迅速な展開力により、東アジア情勢に電撃戦を行った。
また米国の動きに便乗する形で、沈黙を守っていた大国ロシアも、中露国境協定を破棄。
中国の不意をついて、大慶油田地帯を占領、北京へと迫った。
しかしながら、中国による核使用を懸念した米国とロシアは、北京への軍事行動は一切行わなかった。
水面下では、電撃戦と並行し、中国側に和平会議を打診していた。
最終的に中国がこの提案に応じたことにより、二十一世紀最大の地域紛争と言われる〝東アジア紛争〟は終結する。
ちなみに〝東アジア戦争〟ではなく〝東アジア紛争〟とされているのは、中国へ配慮した結果だ。
『あくまでも被災した周辺地域に対する救援活動が、地元民に誤解され、地域紛争へと発展してしまっただけ。第二次世界大戦の小日本のような国家的侵略の意思はなかった。よってこれは〝東アジア戦争〟ではなく〝東アジア紛争〟である』
この中国の建前をたてる形で、東アジア和平会議はとりおこなわれ、『東アジア紛争は、侵略戦争ではなかった』という見解が国際的に認められた。
その結果――『すべての国境線は、東アジア紛争前に戻す』という内容で、日本、中国、フィリピン、ロシア、米国が合意。
各国首脳の署名入りで、和平宣言が行われた。
そして残ったのは、荒廃した大地だった……
東アジア紛争当時、日本がもっとも酷い状況だったと言われている。
大地震が直撃した当時の日本には、人民解放軍の侵攻をくい止める余力がなく、壊滅状態にあった首都機能を回復させるだけで精一杯だった。
わずか三週間という驚異的なスピードで首都機能を回復させた日本であったが、その時には、すでに沖縄・九州は人民解放軍の統治下におかれており、長崎・佐世保に駐留していた自衛隊をメインとする防衛線は、本州本土・山口県まで後退していた。
さらに四国は複数の原発がメルトダウンしたことにより死地と化した。
政府は関東・東海・関西の復興作業を優先しつつ、本州防衛線を死守することに徹した。
四国は放棄され、九州以西の奪還は見送られた。
こうした経緯から、東アジア紛争後も日本国内は混迷を極めた。
大都市の復興が優先されたこともあり、地方都市はゴースト化し、日本国内には三つの巨大スラムが形勢されていくこととなった。
現在それらは、九州スラム、関西スラム、関東多摩スラムと呼ばれている。
◇◇◇
雪人は空を見上げた。
どんよりと重い曇り空だった。
天気予報によると、夕方から雨になるらしい。
そのせいでスラムに建ちならぶ廃ビルの影が、より深く見えた。
陰鬱な気分だ。イライラする。
だが気分を荒廃させているのは、曇り空よりも、いま雪人が置かれた危機的状況にあった。
『ファンタジーには関わるな』
関東多摩スラムには、いくつかの暗黙のルールがある。
――初潮すらむかえていない少女には売春をさせないことであったり。
――捨て子を見つけたら必ず教会に連れていくことであったり。
――クスリの売買には手をださないことであったり。
けれども、雪人たちはそのルールの一つを破ってしまった。
(それがあんな惨劇をむかえることになるとは……)
以前から、雪人たちの集落で〝クスリ〟を扱っている馬鹿がいるのは分かっていた。
扱われているクスリの名前は〝ファンタジー〟だった。
『クスリの売買を許すな。だがファンタジーだけは例外だ。あれには関わるな』
集落の長老衆は、口を揃えてそう語った。
またチームの先代リーダーも、先々代リーダーも同じことを言った。
理由を聞いても詳しくは教えてもらえなかった。
ただ長老衆が言うには――
『ファンタジーは、ここのスラムには流れない。あれは他所へ流れていく。あれの客はほとんどが中央(都心)じゃ。だから放っておくがよい。関わるな。ファンタジーにだけは関わるな。それがこの集落で生きていくための暗黙のルールじゃ』
納得できなかった。
ここは自分たちの集落だという自負があった。
だからチームを先代から継いだ雪人が最初にしたことは、ファンタジーの売買を行う連中への粛清だった。
けれど……
後悔の淵に沈む雪人を嘲笑うかのように、曇り空がピカリと光った。
少し遅れて雷鳴が轟き、ザーっと雨が降ってくる。
季節は桜が散ったばかり、まだ肌寒い時期だった。
雪人は雨に濡れないように、パーカーのフードを目深に被り、近くの廃ビルへと入った。
「この雨なら、臭いを消してくれるかもしれない」
アレは鼻がきく猟犬だ。
一緒に逃げていた仲間達はもういない。
追いつかれるたびに――一人、また一人と喰われていった。
助けることなどできなかった。
仲間をむさぼり喰うアレに、マカロフを何発撃ち込んでも平然としていた。
化物だった。
関わってはいけなかった。ファンタジーに、雪人たちは関わってはいけなかったのだ。
雷鳴が轟いた。雨の勢いが強まった。
「当分、ねぐらには帰れそうにないな」
(帰れる日がくるとも思えないが……)
廃ビルの一室に座り込み、雪人はそっと眠りに落ちた。
(昨晩の出来事は悪夢であってほしい)
そう願いながらまぶたを閉じた。