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(――まだだ。お願いだ。雨よ、やまないでくれ、頼む)

 廃ビルの一室で、雪人は祈った。

 あれほど降りそそいでいた雨が、深夜に近づくにつれ、小雨へと変わっていた。


 結局、何も思い浮かばなかった。

 逃げ出すこともできず、どう戦えばよいかも分からず、ただじっと廃ビルの一室で考え込むだけで終わった。


『――ォン』

 小雨になる少し前から、オオカミのような遠吠えが何度もしていた。

 まるで二頭のオオカミが、獲物を追い込むように、だんだんと近づいてきているのが分かる。


(残弾は――)

 マカロフごときでは、黒く硬い毛皮に守られているあの化け物は射抜けない。

 そんなことはもう分かりきっている。

 何度も何度も自問自答したが、この回答に変わりはない。

 それでも、今はマカロフの残弾数を確かめずにはいられなかった。


『――ォォン』

 遠吠えが近づいてくる。

 もう逃げ出すことも叶わないだろう。

 ファンタジーの売人は、すでに雪人のおおよその位置を把握している。

 いまは絞り込んでいる段階だ。

 絞り込みに時間がかかっているのは、雪人がじっとしているからだ。

 いまさら焦って逃げ出そうと、もしも雪人が動けば、たちまちその気配を特定し、追い詰めるだろう。


「――はあ、はあ……」

 冷たい汗が背中を流れる。

 じっとしているだけなのに、息切れもとまらない。

 近づきつつある死の影に、精神的な疲労が積み重なっていく。


『オオオオオオォォォン!』

 廃ビルの外――すぐ近くから、大きな遠吠えがした。

 そして静寂が訪れた。


 とまらなかった汗と息切れが、ピタリととまった。

 雪人は息をすることも忘れて、じっと耳を澄ます。

 シトシトとふりつづく小雨の音だけが、静寂の中で際立つ。それ以外は何も聞こえなかった。


(見つかったのか? それともすぐ近くにきただけか? どっちだ)

〝まだ見つかっていないかもしれない″という甘い考えに、思わず現実逃避してしまった。

 あの化け物に、そんな甘い考えは通用しないことを理解していたにもかかわらず……


 ――ドン。

 突然、地面を蹴る大きな音がした。

『ウゥゥゥ』

 そしてすぐ側から大きな唸り声が響いてきた。

 その方を見ると、廃ビルの窓に首を突っ込んだ。とても大きな黒い獣がいた。

 ギラついた赤い目で、室内にいる雪人を見つめている。

 剥き出しの牙から唾液がしたたり落ちていた。


 雪人は唖然と立ち尽くした。

 死んだと思った。


 しかし、廃ビルの窓枠が狭いせいで、それ以上、中に入ってくることができない。

 だが、それも時間の問題のようだ。

 その巨体を無理矢理ねじこもうとしており、狭い窓枠の周囲の壁が、ミシミシと音を立てている。いまにも崩れそうだ。


(――落ち着け。落ち着くんだ)

 化け物と睨み合う。

 けっして目を逸らさない。

 恐怖を吐き出すように、大きく息を吐く。

 勇気を抱き込むように、大きく息を吸う。


(そうだ。オレはまだ死んでいない)

 まだあるせいを実感し、失われた仲間の死を思い出す。


(この窓枠にはまっている化け物は、仲間の仇だ。……チャンスだ)

 冷静に化け物を見据える。

 窓枠にはまって動けなくなっている姿に、知性では、自分が勝っていることを知る。


(黒い毛皮につつまれていない、あの赤い目。あれを狙え)

 マカロフを両腕で持ち、ゆっくりと構えた。

 顎を引き、銃口と視線のベクトルを合わせる。

 トリガーに指をかけた。


(くらえ。化け物)

 トリガーを引く。

 パンと乾いた音が鳴った。

 化け物からすれば、それは、豆鉄砲が鳴った程度の弱い音。

 それが、片方の赤い目を潰した。


   ◇◇◇


『――――ッ!!』

 片目を潰された化け物が吼えた。

 窓枠の周囲の壁が崩れはじめる。


(まだだ)

 残っているもう片方の赤い目に狙いをつける。

 再びパンパンパンと乾いた音がした。

 セミオートのマカロフから薬莢がとび、廃ビルの床に落ちていく。

 しかしながら、怒り狂った化け物が、窓枠の壁をぶち壊そう首を振り回しているため、まったく命中しない。

 空になった弾倉を入れ替える。

 もう一度狙いを定めた。

 だが乾いた音がする前に、窓枠の周囲の壁が崩れた。

 それを見て、雪人は全力で逃げ出した。

 廃ビルの一室から廊下へ。

 その直後、窓枠の壁が完全に崩壊した。

 雪崩れこんできた化け物が、雪人を喰らおうと迫る。

 ギリギリのところで廊下に出られた。

 雪人がいた部屋の狭い出口に、化け物の大きな体が引っかかる。今度はその出口をぶち壊そうと、体当たりを繰り返しはじめた。

 二度、三度、体当たりしただけで、再び廃ビルの壁が崩壊する。

 化け物が廊下にでた時、すでに雪人は階段に達していた。

 飛び降りるように階段を下りる。

 この廃ビルの廊下や階段は、化け物の巨体を通すだけの充分な空間があった。

 化け物もすぐに迫ってくる。


 廃ビルの三階から、無我夢中で一階に駆け下りた。

 化け物のほうも、階段の踊り場の壁に体を打ちつけ、強引に方向転換しながら階段を下りてくる。

 雪人はまったく速度を緩めないまま、まるでアメフトのタッチダウンのように廃ビルから飛び出た。

 追ってきた化け物の巨体が、ふたたび廃ビルの出口に引っかかる。

 その壁も、すぐに崩壊してしまうだろう。


(とにかく走りつづけなければ死ぬ――)

 そう思った直後だった。

 雪人の体がふっとんだ。

 そして地面に打ちつけられた雪人の体を、黒い前足が押さえつけた。前足にある大きな爪が、雪人の胸元に食い込む。血が滲み出た。

 声にならない悲鳴があがる。

 息がうまくできない。

 肋骨が折れたためだ。


「――ステイ(stay)。そのまま押さえつけていろ。まだ喰うな」

 近くから男の声がした。ファンタジーの売人だ。


 気絶寸前の朦朧とする意識の中で、雪人は何が起きたのか考えた。

 追ってきていた化け物は、廃ビルから外に出ようと、出口付近の壁に体当たりしている。まだその音が聞こえてくる。

(なら、オレを押さえつけている目の前の化け物は? もう一匹のほうか。……ああ、そうか。最初に廃ビルの前で大きな遠吠えを上げたのは、このもう一匹のほうに、見つけたことを教えるためだったのか)


   ◇◇◇


「手間をとらせてくれたな」

 ファンタジーの売人が、雪人を覗きこみながら言った。

 売人の外見は、何の特徴もない中年男性だった。

 黒髪で中肉中背。顔は良くもなく悪くもない。

 革靴にデニムのパンツ、白いインナーの上に黒ジャケットを羽織っている。どこにでもいそうな男だ。

 この特徴の無さこそが、男の特徴だった。

 こうした人間は、公安警察などでも好まれる。

 日常に溶け込みやすく、出会った人間の印象に残りにくいため、潜入・潜伏などに適しているからだ。

 騙しあい、ばかし合う業界であればあるほど、重要な任務をまかされることが多い。特徴を持たない人間というのは、それだけで貴重な人材なのだ。

 つまり、ただの末端の売人には、このような特徴のなさは必要ない。特徴があろうが無かろうが、代わりはいくらでもいるからだ。

 よって、この特徴のない売人はただの末端ではなく、なかなか代えのきかない上位の存在であることを意味していた。


「単刀直入に言う。小僧、おまえが盗んだUSBメモリはどこだ。教えれば楽に死なせてやる。断れば拷問にかけて殺す。選べ」

「……USBメモリ?」

「そうだ。USBメモリだ。おまえ達が襲撃のドサクサに紛れて盗んだだろう」


(夕方に飴玉を探したときに、一緒にポケットに入っていたUSBメモリのことか? そういえば、こいつから咄嗟に盗んだやつだった)


 売春宿をまかされていた雪人は、その顧客名簿をPCで管理していた。

 こうした顧客名簿は高額で取引されていることも知っている。

 だからファンタジーの売人を襲撃した際、雪人は、売人のPCに接続されていたUSBメモリを見て、反射的に盗んでいた。

 顧客名簿は金になる。そのUSBメモリには顧客名簿が入っているかもしれないと考えたからだ。

 それに万が一ファンタジーの常習者がスラム内にいた場合、顧客名簿さえあれば、そいつも特定できると思ったためだった。



「忘れた。どこに隠したか覚えていない。きっと記憶喪失だ。その化け物がオレをぶっとばしたせいだな」

 殺された後にポケットを探されれば、どうせすぐに見つかる。教えようが、教えまいが変わりない。

(――それでも、教えてなどやるものか)

 最後の意地だった。

 自らの口から教えてしまっては、殺された仲間達に顔向けできない。


「……いい度胸だ。忘れたのなら、思い出させてやろう」

 それだけ言うと、売人は腰に巻いていたベルトを外した。

 それを雪人の二の腕にきつく巻きつける。

「喰え。右腕だ」

「――え?」

 雪人を押さえつけている化け物が、雪人の右腕を喰った。

 肘から先が消えてなくなり、血が飛び散る。

「二の腕に巻きつけたベルトは止血帯の代用だ。失血死させるつもりはない。簡単には殺さない。右腕一本だけでは済まさない。これは拷問の始まりにすぎない」

 売人の言葉には迷いがなく、動きは的確だった。

 こうした拷問に手馴れていることを意味していた。


「ああああああああ!?」

 一瞬だけ唖然とした後、雪人の口から絶叫が放たれる。

「こちらが交渉するとでも思ったか? これ以上、時間をかけたくないんだ。どんどんいくぞ。思い出したら勝手に話せ。話しぐらいは聞いてやる」


 売人が、大振りのサバイバルナイフを取り出した。

 そして雪人の右目をえぐり取り、つづけて右耳、左手の小指、薬指、中指、人差し指、親指を切り落としていった。

 体が欠損するたびに放たれる雪人の絶叫が、スラムの廃墟に木霊した。


   ◇◇◇


 降りつづく小雨が、流れる血を広げ、周囲の地面を薄赤く染めていた。

 痛みと失血で、雪人の顔は青白くなり、紫色の唇がぶるぶると震えている。

 過呼吸のような小刻みな息だけが、まだ存命であることを示していた。


「どうだ。そろそろ思い出したか?」

「……忘れた」

「ふむ。どうしたものか。これ以上はショック死するから切り刻めん。最初に右腕を喰わせたのは間違いだったな。雨のせいだ。血圧の低下が予想よりも早い。困ったものだ。雨さえ降らなければ、おまえもすぐに喰い殺せていたし、USBメモリを隠されていたとしても、臭いで発見できたのだ。無駄な拷問など必要なかったはずなのだ。この雨がすべてを狂わせてしまった」

「……ははは。ザマねえな」

「私も一応は人間だ。人外ではないのでな。そうした態度には腹が立つのだよ。最後のチャンスをやろう。これが最後だ。正直に答えれば、屈辱的な殺し方だけはやめてやろう。私もその殺し方はあまりしたくはないのだ。――答えろ。USBメモリはどこだ?」

「知るかボケ」

「そうか。残念だ。とてもとても残念だ。ファンタジーを一袋も消費してしまうことが残念でならない」

「……ああ? おい、まさか。やめろ。やめろ!」

「そういう反応が見たかったのだよ」


 売人は持っていたスチール製のアタッシュケースから、注射器、ファンタジーの粉末が入った小袋、鉛製の小皿、ライター、脱脂綿などを取り出した。

 そして小袋を破り、小皿にファンタジーの粉末を入れ、そこに雨水を溜める。

 小皿の底をライターで炙った。

 ファンタジーの粉末が雨水に溶けていく。

 注射器の針の先端に脱脂綿をあて、そのままファンタジーが溶解した雨水を、脱脂綿越しにゆっくり吸い上げた。

 満タンになった注射器を満足気に眺める。

 少しだけ注射器を押すと、針の先端からピュっと液体がとんだ。

 念のため注射器を指で軽くはじき、空気が入っていないことを確認する。


「さて。準備はできた。言わなくても分かっているだろうが、今からファンタジーを注入してあげよう」

「……やめろ。やめてくれ」

「おまえのような苦痛に屈しない者には、これが一番有効だ。たとえば神に純血を誓った者ならばレイプする。肉を食すことを禁じられている者にはその肉を食わせる。信念を壊すことが有効だ。苦痛に屈しない強い意思を持つものほど。自らの信念を大切にする。だからおまえの信念に反するものを与えてやる。クスリだ。純度最高の極上のファンタジーを味わいながら、快楽と屈辱にまみれろ」

 雪人の首筋に注射器の針が刺さった。

「やめろおおおお!!」

 今日一番の悲鳴が響きわたった。


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