現在
理由は羨ましかったから。己が掲げる理想として動く世界を見つめて欲しいと思った。だが、それを手にすることができるのは『彼ら』だけ。自分にその権利なんて持ち合わせてはいない。自分はその隣で動いている世界を見るだけ。触れることすらも許されない美しい宝石。
『彼ら』曰く、自分が『日記』を書くなんてどれだけの年月が経とうが、できないと言う。それがとても妬ましかった。
幾つもの日記を書く『彼』がいた。彼はおもちゃのキットのごとく、世界を創っていく。それが羨ましいと思った。理想の世界へと創り上げていくそんな彼らが――。
それだからこそ、『彼』の隙を窺って創製日記を盗み出し、書き変えた。いくつも日記を書いているのだ。一つくらい書き変えようが、バレやしないだろう。自分を彼として。そうだ、崇めてくれるような人たちも作ろう。そうして、『彼』よりも優越に浸るのだ。創りかけのその世界ではすでに崇められている者がいる。その人物を『悪』と見なして――完璧だ。ああ、こんなにも心躍るようなチャンスが巡ってくるだなんて。
この世界は我が物。『彼』の物ではなくなった。もっともっと、書き変えてしまえ。このような事実を消してしまえ。上書きしてしまえ。こんなのはなかったことにしよう。崇められている自分にとっては不都合だから。世界を書き変えて、この世界で生きていた者たちが頭を傾げたとしても知ったことではない。ここでは自分がルール。これは『神』が作った世界なのだから!
反逆する者は運命を変えられるべし。
しかし、書き変え途中で『彼』に日記を持っているところを見つかってしまった。事がバレてしまえば、どうなるかわからなかったから。故に、こちらに来られないように書き変えていた世界へと日記を持参して逃げ込んだ。この世界に彼が来られるはずがないから。来られないとわかると、追ってくるはずはないから。
そう思っていた。
仮にそうしてきたとしても、それを阻止できるように未来が視える代物と事実を書き変えることができる代物を創った。
さあ、来るがいい! 来たらば、返り討ちにしてやろう。
実際に来たのは『彼』の駒――この世界で存在しない者である『名なし』だった。自分が創った代物と似た物を手にして。
最初の戦いは自分が勝った。生まれたばかりのただの使命を糧として生きる者が執念で生きる者に勝てるはずがないからだ。それでも『名なし』は復活しながらも何度も、何度も気が遠くなるほどの再戦をしてくるのだった。それが煩わしいと思ったから彼の前から姿を隠すようにして自身を『神』として崇めてくる者たちに『自分』の教えを説いた。彼らは熱心に教えを聞き、やがてそれが正しいものであると刷り込んだ。
その反面、名なしは単体で倒すことが不可能だと学習すると、自分たちにも兵を拵えて立ち向かってきた。それが邪魔だからこそ、常に己が正しいと人間を導いてきた。それでも、反乱分子の者たちは存在する。それならば、もう自分に対して敵意ある者たち、教えに背く者たちを悪魔と呼んだ。彼らの考えは正しくない、悪魔が唆しているからそうしている。そう教え込んだ。見事にそれを信じた人間たちは反発し合う。自分たちが主導権を握らずとも、勝手に殺し合っていた。元々、奪い合うことを目的として生きる。そういう設定があるらしい。この世界の人間は。考えが違えば、対立して争う。それが彼らの生きる意義。
そうだとしても自分にとってはどうでもよかった。名なしさえ、いなくなってしまえば。『彼』がこちらに干渉などしなくなれば。だから、何度殺しても、殺してもよみがえる名なしにうんざりしていた。いつものようにして、それから逃げていると、持っていた創製日記にはいつの間にか『彼』の付け足しが存在していた。それは消そうが、書き変えようがどうにもならないこの世界の『彼』の絶対規則。それが更に苛立ちを膨らまかせた。
この本を消し炭にすることくらいは容易いが、それはこの世界の消失にもつながりかねる。この世界には自分がいる。目的を果たすためにこの世界を奪ったのに。それは絶対に嫌だった。いかに自分という者を消去されないようにして反乱分子を消すか。考えはすぐに思いついた。
――世界を創り直せばいい。
世界を書き変えるではない、創り直すのだ。
そのためには準備が必要だ。一度、この世界が壊れるほどの威力ある物を作らねばならない。そういう装置のような物を作らねばならない。文明を築け、人間どもよ。それの奪い合いとして戦え。ここにきて、対立して争い合う設定が活かされていると思った。争い、戦え。そして、世界を破滅に導くほどの文明を我が手中に!
もうこの創製日記など要らぬ。この世界は一大文明を築き上げて、そこでオシマイ。新しい世界が自分を待っている。新しき『神』として。古臭い世界はもう要らないはずだ。捨てたとしても何も問題はない。どうせ、新しい世界に生まれ変わるのだから。
◇
なぜにあのとき捨ててしまったのだろうか。ほんの少しばかり後悔していた。あれからだ、自分の計画が崩れてきているように思えたのも。順調のように見えて、『彼ら』は何度も邪魔をしてきていた。
「この世界は私の物だっ……!」
起き上がる世界改変者。壊された仮面の下から素顔が露わとなった。
「何もない?」
【顔全体が真っ黒で、目とか口とか何も見えなかった】
ヴィンの言葉を思い出す。そう、世界改変者はまさに彼の言う通りの素顔なのだ。顔全体が真っ黒で目も鼻も口も――顔にあるパーツはすべてなし。たとえを挙げるならば、コンピュータ世界における一般ユーザーのようだった。
これが素顔。まるで何者でもないとでも言えるようだった。表情こそは見えないが、世界改変者が憤怒を感じているということはわかる。彼の口調は丁寧さが欠けているから。
「名なしっ! お前がいなければ――!!」
「何? あたしがいなければ、全部上手くイケるとでも思った?」
アイリの発言に小さく反応を見せた。その反応に嫌な予感がしたのか、三人は世界改変者の行動に注意する。
「……それならば、名なしに問う。なぜにお前は『彼』の言う通りに動く?」
自分が日記にいたずらをしなければよかった? 名なしがいなければよかった? いや、それよりもなぜにただの傍観者である『彼』に忠実でいるのか。
「別に言う通りに動いてはいない。本当に言う通りであるならば、真っ先にあんたのところに来てる」
「なるほど、私を殺せないからとして、駒を集めてきたか」
「いや、この世界はボードゲームじゃないでしょ。何言ってんの」
あくまでも挑発を仕込んでくるらしいが、それがアイリのやり方である。そのことをキリとハイチは十分に知っていた。
「この世がゲームなら、どれだけの手をするのよ。面倒ったら、ありゃしない」
もちろん、世界改変者も同じくらいね、と皮肉る。
「でも、もしこれがボードゲームとしてたとえるなら……今回であんたは詰み。残念ねぇ」
「詰み? 私が?」
「じゃなきゃ、こういう状況じゃないでしょ。あんたを守ってくれる駒はいないんだから」
そう、世界改変者はすでに負けている状態。五億九千八十九戦目にて、ようやく終わりが見えてきたのだから。それだからこそ、大人しく負けを認めろ。負け確定。キリとハイチは動き出した。歯車の剣とコンパスの剣、双方とも美しき淡い光を帯びながら彼に向かって斬り込み突進をするも――。
「何を言っているんですか、あなたは」
すべての攻撃を見切られて、かわされ――世界改変者の真っ黒な剣によってハイチは貫かれてしまった。口調が戻り、余裕が見える。
「世界はゲーム盤じゃない」
見えなかった。その行動が。剣を引き貫くと同時にハイチはその場に倒れてしまう。動くに動けない状態。無理やり、脳情報遠隔操作装置が起こそうとしてくるが、起きられなかった。
「そんな当たり前のことをばからしい」
なぜなのか。
「ハイチさん!?」
キリは世界改変者に向かって、もう一度攻撃を仕掛けた。それでもなお、軽々しく受け止められてはあしらわれる。アイリはハイチのもとへと駆け寄った。
「せ、先輩?」
「か、体が動かない……?」
何が原因なのかと言われると、世界改変者が所持しているあの真っ黒な剣――『LILAS』よりも黒さが際立つそれ以外何が考えられようか。
「先輩はそこで寝ていてください」
それでも、まだ自分がいる。止めは刺さなくても、それがきっかけとなるほどの疲労を持ち込めたならば。アイリは立ち上がると、よく斬れる君を握りしめて二人の間に立ち向かった。あの武器にやられないようにしなければならない。何が起きるかわからないから。
異形生命体であるハイチは体が動かなくなり――普通の肉体を持つ自分は? キリのように不死の体を持つ者は? なんだ、あの禍々しい剣は。
「煩わしいですねぇ」
剣戟で自分に勝ったことがないくせにして、何を抗おうとしているのか。無駄なのに。
世界改変者はキリからの攻撃を素手で受け止め、アイリが持つ剣を弾くと――。
「アイリ!?」
急所は外したものの、アイリもまた動けなくなってしまっていた。その場に転がり込み、立ち上がろうにもそのようなことができないのだ。痺れはない、力が抜けてしまうわけでもない。硬直という言葉が正しいか。唯一動けるのは呼吸と目玉、口ぐらい。
「な、なんで!?」
「なんで? さあ、なぜでしょう」
脳情報遠隔操作装置で動いているハイチも、ただの生身のアイリも攻撃を受けただけなのに。どうやっても動けなかった。あの剣にどのような力が?
「後はあなただけですよ」
キリさえ殺せたならば、世界は生まれ変われる。自分のために存在する世界が待っている。だけれども、彼は過去の歯車の所有者である。それを放棄するなんて、本人か名なしの意思でしかできない。自分は干渉できない。
だがしかし、『器』を我が物にするには他に方法はいくらだってある。
「『死』を諦めなさい」
もう殺すことも、死を待つことも諦めた。何度も何度も、死のチャンスが巡りきているはずなのに死なない。なぜなら、キリは不死者であるから。名なしが邪魔をしているから。『死』を誰よりも恐れているから。それでも何も問題はない。元より、彼は存在しない空っぽの『器』であるのだから。
空の『器』であるならば、中身を満たせばいいだけの話。早いが話、強引に奪えばいい。そう、名なしから奪えばいい。それくらい呼吸をするのと変わらないくらい簡単だ。この剣がある限りは。
逃げる隙を与えずして、その黒い剣でキリの腹を掻っ捌いた。ばっくりと割れたその傷口が塞がる前に――世界改変者はもう一度患部に突き刺して肩を掴んでくる。振り払おうにも、振り払えなかった。それどころか、体に力が入らない気がしてたまらない。
「なっ!?」
「動かれては困りますからね。一瞬の隙さえあれば、これであなたは私の完全な『器』です」
そう言った直後、世界改変者の体と黒い剣は彼の傷口から体内へと侵入してしまった。この光景を見ていたアイリは絶句するしかない。
「キリっ!?」
隙を見せてしまったからこそ、傷口から入ってしまった世界改変者。キリはその場でもがき苦しんだ。半分笑い、半分抗おうと叫んでいる。それはしばらく続いたかと思えば、床に転がったまま動かなくなってしまった。
「…………」
彼はキリなのだろうか。
「き、キリ……?」
不安が大きい。なぜならば――。
少し離れたところにある歯車の剣――と見せかけて淡い光などまた失くしてしまっていた。そこからはもう、嫌な予感しかしないのだ。
やがて、キリはゆっくりと起き上がった。落ちていた剣を拾う。
「……ははっ」
小さく笑い出したかと思えば、大きく笑い出す。そうして面白おかしそうに動けない二人を見下した。手に握っているそれは黒に変色し出しているではないか。
「無様っ! 無様だ、名なしぃ!! 詰んでいるのはお前の方だよ!! 元より私は一度も詰んだことなどないのだから!!」
キリの体は世界改変者に乗っ取られてしまった。
さあ、終わらせよう。この世界はもう我が手にある。こうも呆気なく体を乗っ取られるほどの脆弱な魂を持った人間とは思いもよらなかった。あれだけ『死』に対して恐怖心を抱いていたのに。
――いや、最初から空っぽの『器』であるからなのだ!
「気分はどうです? 今まで駒として扱ってきた者からこうして、敵側にされるという気分は」
キリの体を乗っ取った世界改変者はアイリの首を掴んで持ち上げた。息が苦しい。見た目は完全に彼なのに、そうに見たくはない。
「キリを返してよっ!」
もちろん、その行為が好ましいと誰が思うだろうか。アイリは世界改変者を睨みつけた。
「返せ、と言われましてもですね……。彼自身が私に体を明け渡したんですよ?」
その邪悪な笑い顔がとても心にきていた。今にも自分を殺しそうで――。
「『だったら殺してやろうか? 死にたいなら、今ここで』」
背筋が凍るような言葉が脳に貫くようにして聞こえてきた。世界改変者はそう言った後でもにやにやと不気味に笑みを浮かべている。
「どうやら、覚えているようですねぇ。黒の皇国での出来事」
「…………」
「あなた、相当彼から嫌われているじゃないですか」
「そんなこと……」
「『俺、お前が嫌い』」
ない、と言いきる前にして、口を挟んできた。その一言が心に突き刺さる。わかっているのに。キリ本人が言っていないのに。
「『死ぬほど嫌い』」
「『何も言わなかった、教えてくれなかったお前が大嫌い』」
「『お前より、ハイネさんやメアリーの方が好き』」
「『早く死ねば?』」
世界改変者の戯言だとしても、動揺は隠せなかった。言葉が詰まってしまう。
「……は、るまちっ!」
そんな中、ハイチも助けたくても動けないから余計に悔しく思う。コンパスの剣は握れない。助けに行くことすらできない。
「さぞかし、悔しいでしょ?」
「…………」
「答える気はないですか。まあ、構いませんけれども」
それではさようならです、と世界改変者はアイリに向けて黒い歯車の剣を掲げようとしたとき――彼もまた体が動かなくなってしまった。なぜなのか、キリにとってはもうあの黒い剣が原因ではないはずなのに。
まさか、とはアイリは思う。
「き、キリ……?」
「なっ!? まだこの期に及んでも抗うか!?」
キリはアイリを解放すると、黒い歯車の剣を――自分に向けて突き立てた。
――言ったはずだっ!
◆
気がつくと、キリは当たり一面月と星々の光に照らされた花畑にいた。冷たくも優しい風が吹いており、キラキラと花弁は光りながら舞っている。こんな美しい場所があったんだなと思えば――自分の目の前にはもう一人の自分が。またマッドかと思ったが、そうではない。彼は――。
「あなたが存在するせいで、私の願いは叶わない」
世界改変者である。彼の手にはあの黒い剣が。そして、キリの手には――歯車の剣が。そう、この場で戦わなくてはならない。キリと世界改変者の存在を賭けた最後の戦いを。どちらの心がくたばるか。二人は同時に構えると、その場を駆け出して武器をぶつけ合い始めた。
ふんわりと花の匂いが立ち込める中、色とりどりの花弁が舞い散る中、花畑には金属音が響いている。眼前にいる敵を倒さなくてはならないのに、この場所が気になって仕方がなかった。見たことがあるようで、見たことのない場所。綺麗な場所。こうするよりも、その辺に寝そべって空を眺めていたい。戦いなんて止めて、ここでのんびりとしたい。
「もう諦めてもいいんじゃないのか」
諦めたならば、どうなるのだろうか。決まっている、自分は闇の中に一人取り残されるだけ。それだけは嫌だった。誰かが握ってくれたこの手。忘れられない。一人は嫌だ。誰かと一緒にいたい。
「誰が諦めるかっ!」
声を張り上げる。二つの剣がぶつかり合ったとき、その場の景色はひびが入ったようにして割れる。足下が崩れ落ちて、光と共に下へと落ちいく。
真っ暗な場所へとダイヴする。割れた景色の欠片は落ちる二人の間に存在している。その中でも自分が動かねばならないことは十分に自覚しているからこそ、彼らの刃が欠片を切り裂く。同時に空間も切り裂いているようで、一変にしてその場が雪平原へと変わった。空から降ってくる雪はガラスを光で通したような煌びやかに輝いていた。
寒さはない。雪で足下が取られることはない。実感がないと思うのが大きかった。
「世界を救いたくないんじゃないのか」
世界を救いたい思いはある。自身の中に世界改変者は入り込んできているから――キリがどのようなことを思っているのかもお見通しなのだろう。だからこその天秤も世界改変者は知っている。アイリか、世界か。
揺さぶる笑い声。自分の声であるからこそ、煩わしく思う。
「このまま魂すらも私に委ねたならば楽になるんじゃないのか」
楽になりたい、その気持ちもある。すべてを投げ出して成りゆきに任せたい思いも。だが、それは駄目だ。
キリが世界改変者に向かって拝み打ちをするが、その寸前で空間がまた裂けた。その雪平原は空の方へと逆さまにひっくり返る。彼らは空へと落ちていく。
今度は世界改変者が先に落下するキリに向かって剣を突こうとするも、雪の欠片に刃がぶつかり――また空間が割れた。
壊れた世界の先に降り立ったのは草木もない荒野の世界。地面は乾ききって、ひびが入っていた。砂埃がひどく、視界は遮られるほどである。
「何も考えず、目を閉じれば。ほら、一生夢を見続けることができる」
どうせならば、眠ったままでもいい。ずっと夢を見続けても何も変わらないのではないだろうか。嫌な現実があるくらいならば、夢を見たい。そちらの方がすてきであると思っていたとしても、それは己の心が許さなかった。
アイリと共に平和な世界で一緒に過ごしたいから。その願いを夢見ることはできない。それは理解している。
こちらに対して戦う気力を削るような言葉をかけてくるのに、キリは剣を揮っていた。惑わされないために。彼は諦めない。己の、みんなの未来のために。
「この世界の未来を見るために!」
アイリと共にこの先を歩むため。
粉塵に紛れてキリは初めて世界改変者に攻撃を当てた。その拍子で黒い剣が乾いた土地を切り裂いた。その直後、地面からは建物が突き出てくる。彼らは上空へとそびえ立とうとするそれに掴まった。
この景色は見たことがある。建物――ビル街が出現したその場所はサバイバル・シミュレーションによく似た場所。そして、自分たちの立ち位置はマッド・バグ・スパイダー戦そのもの。
ようやくその場が安定したことにより、二人は動いた。
世界改変者はキリからの攻撃を受け止めて、それを払うようにして彼自身をビルの屋上から落とした。ぐんっと落下の恐怖から逃れるために壁から突き出ているポールにしがみついた。歯車の剣を口にくわえて、それの上に登り、世界改変者がいる場所を見る。彼はこちらに向かって落ちてきて――すれ違った。
世界改変者と剣を一度だけ交え、反発で離れいく剣をまたぶつけた。今度は力負けしないように。力押しするようにして。そのまま真っ逆さまに地面へと落下する。その後をキリが追いかけていた。
一気に叩き込め、キリの頭の中にはそれしかない。
「あなたに未来は存在するのか」
そう言葉を投げてくる。その途端、また景色にひびが入った。崩れ落ちいく周りの空間。それは下にある地面も同様であった。背景の裏側には真っ暗闇が。このまま永遠と落ち続けるのだろうか。もう落ちる感覚がなくなっている気がするようだ。
「人というのは愚かだ」
否定はしない。なぜなら、自分も誰も彼も心に過去の闇を持っているから。みんな隠して生きているようなものだから。人間は自分を否定しているだけの生き物だから。
「『舞台装置』は『稼働』し始めている」
だから諦めろと。
「あなたという存在ではでく、私にしか未来は存在しない」
それが『世界の果て』か。
「そして、あなたは世界の嫌われ者だ」
どうしてそれを知っているのか、わかるのか。確かにキリは自分の運命が変わってしまうほど世界から嫌われている。嫌というほど知っているから。
「だから、あなたはすべてを捨ててもいいのではないのか」
――なぜ、それを勝手に決めつける? 誰がそれを決めた?
確かに人は否定だらけの存在ではある。それでも同時に人は肯定することは可能であるし、それ以外の答えも持ち合わせている自由で不思議な存在であるのは知っている。すなわち、選択を作り上げる生き物だということ。不可能はない。可能あるものをゆっくりと見出していけばいい。
――過去から学び、未来を切り拓いていくんだ。それがきみであり、人間でもあるのだから。
キリが手にしていた歯車の剣に変化が見られた。眩い光が暗闇を照らす。世界改変者はその光に目を細めた。
◆
ガタガタと振動を鳴らす『舞台装置』を前にしてようやく体が動くようみなったアイリとハイチはそれを見上げていた。自分たちがようやく動けるようになったのはこれが原因なのか。
その傍らには黒い歯車の剣を胸に突き立てたまま倒れているキリがいる。
「な、何が起こって……?」
今にもそれが暴発しそうなほど。止める術はわからない。世界改変者はまだキリの中にいるのだから。このまま逃げた方がいいのだろうか。だが、まだ彼が残っている。
どうすれば、そう二人が思っていると、『舞台装置』は音を鳴らすのを止めた。しんと静まり返るそれが恐ろしく感じている。停止したそれは静かな予兆を見せた直後に再び稼働し始めた。これ以上、ここにいるのは危険だと判断したハイチがキリのところへと向かうと「運ぶから手伝え」とアイリに促してくる。
「もうここはヤバい」
撤退するべきであるという判断は決して間違いではない。アイリが痛む腹を抑え込んで動こうとすると、キリに刺さったままの剣は元の歯車の剣へと戻った。いつも通りの淡い光を帯びている。それと合わさるようにして、彼らが持っていた歯車の剣とコンパスの剣は宙に浮いた。
「え……?」
融合するようにして二つの剣は重なり合った。それ――『人の想い』はアイリの手元に。
今までに見たことがないような一つのその剣は何かを示していた。それが何であるかをすぐに理解する。
「お、おい、何を?」
ハイチは『舞台装置』を前にして『人の想い』を構えるアイリにそう訊ねた。いや、質問をしなくてもわかりきっている。彼女が何をするかなどという考えは。わかりきっているからこそ、今一度訊くのだ。
「これ、あたしがやらないと」
覚悟はできている。アイリは『人の想い』を握りしめた。そして、『舞台装置』に目掛けて突撃していくのだ。キリはまだ戦っている。だからこそ、自分もまだ戦わなくてはならない。それはこの剣を通じて見えているから。見えないどこかで、一緒にこの剣を握る自分たちが見えているのだから。
斬れない、自分にできるかという不安はない。
――だって、隣にキリがいるから。
アイリは『舞台装置』を『人の想い』で一刀両断した。
半分に斬れる中、それは広間中を爆撃で襲う。もちろんその場にいた三人も。あまりの衝撃に床は崩れ落ち、アイリとキリだけが落下してしまった。落下中、彼女は共に落ちいく彼に手を伸ばそうとしていた。手を取りたい、握りたい。その一心で。
「キリっ……!」
◆
舞台装置がある広間の手前で異形生命体と戦っていたラトウィッジたちは奥の方から爆光を目の当たりにした。向こうにはあの三人がいるというが――無事なのか。
不安ながらも剣を揮っていると、天井が崩れ落ちてきた。同時に土砂も。そう、ここは山の中の建物。土が落ちてくるのは当たり前である。一同は我が身に危害が及ばないように、離れた。奥からは爆音が鳴り響いている。その振動と共に三体のバケモノは瓦礫の下へと埋もれてしまった。
「し、死んだ?」
なんとか事なきを得たのは事実。だとしても、一同が一番気掛かりなのは奥で世界改変者と戦っているキリたちである。奥へは上から落ちてきた瓦礫と土砂で行けそうにない。振動が収まっても、ここが安全とは言いたかったが――。
「何を?」
キリたち三人を助けんとして、ケイにヴィン、ターネラは瓦礫を退かし始めた。つられて、マックスも手伝いをする。
「あいつらが奥にいるんだ。助けに行かないと」
「ですっ! 私、一年半前はこうして撤去作業をしたことがあるので、要領は掴めてます!」
「不本意だけれどもね。向こうに誰かがいるならば、そうしなくちゃ」
そう言う三人に対して、ラトウィッジは自分も手伝うかと心を動かされていると、上を見上げた。落ちてきた天井土砂の上には空が見えていた。日の光がこちらの方へと入ってきている。
「…………」
◆
暗闇の中から一変して最初にいた夜の花畑の真ん中で世界改変者は倒れていた。手にしていた黒い剣は消えてしまっている。だが、キリの手には歯車の剣とコンパスの剣が一つになった『人の想い』が握られていた。
「……私は消えてしまうのか」
その場には柔らかい花弁と光の欠片が上空へと散っていくのが見えた。光の欠片は世界改変者の体から出ている物だった。そして、何より花弁が散る度に地面が、空が空間が割れようとして、後ろの景色から真っ暗闇が姿を見せていた。不思議とその恐怖はない。むしろ、安心している自分がいた。
キラキラと美しきこの世界。その中での世界ごとの消失。なんとも贅沢な最期だろうかと感じる。
「私は……これからどうなってしまうのか……」
【あんたを闇に葬らなくちゃならない】
名なしが最初に告げた言葉。『彼』が命令した事実。つまりは自分という存在をなかったことにしなくてはならないと言う。この場で消え去らなくてはならないと言う。
そんなの嫌だった。何度も何度も名なしを殺してきて、自分の思惑通りに言っていると思えば――最後の最後でこの仕打ち。何のためにここまでしてきたことだろうか。何のために人間どもに知恵を教えを与えてきたのだろうか。
認めたくない。ただの『器』である人間に負けて悔しい。ただの『傀儡』に負けて悔しい。
「……私の……世界が……」
夢見た物が光の欠片となって消えていく。これまでの心は? 肉体は? 嫌だった。消えたくなかった。ある意味で恐ろしい出来事。
こちらを悲しそうな表情で見ているキリがいた。もう、この際なら彼でもいい。そんなすがる思いで手を伸ばした。
「ああ、どうか……ご慈悲を……」
「……俺はキイ神でもそれ以外の神様でもないよ」
そう、キリは神様ではない。人を殺せそうになくて、嘘つきで、素直になれなくて、優しい――寂しがり屋。誰かと一緒にいることを夢見ていただけの人間である。それだから、世界改変者に慈悲なんて与えることはできない。救いの手を差し出すことはできない。ただ単に黙って消え逝くのを見守るしかない。
「は、ははははっ……」
そうして、どうすることもなく、世界改変者はそのまま光の粒となって消えてしまった。
その直後、壊れかけていた夜の花畑からまた暗闇の世界へと変わってしまった。どうやって帰ろうか、どのようにしたら現実世界に戻れるのだろうかと考えていると――。
「キリっ!」
突然として、目の前にアイリが現れた。これにびっくりしたキリは肩を強張らせる。一歩足を後ろに動かすと――その一歩のおかげなのか。一気に昼間の花畑へと変わった。急な光が目に入ってきて、眩しかった。その驚きに彼女は肩で笑っていた。
「何ビビってんの」
「いや、急に現れるとびっくりするから……って、ずっと前にも言ったな」
「何を今更。だって、それがあたしだもん」
何、おかしなことを言っているんだ、とでも言うようにして、アイリは肩を竦めた。
「まあ、それがアイリらしいっちゃ、アイリらしいな」
小さく笑うと、アイリは手を引っ張って「行こう」と言い出す。いつの間にか持っていた『人の想い』は消えていた。
「行くべきところはこっちにあるよ」
二人は色とりどりの花々に囲まれながら、行くべき――行きたい場所へと向かうのだった。
◆
本拠地より、世界を見る目を不安そうに見ていたセロとマトヴェイ。メアリーたちは戻ってこられるだろうか。空に一直線上へと伸びる光を見てそう思っていた。
「ヴェフェハルさん! あれ!」
マトヴェイが山頂を指差す。そこから放たれていた光は収束していって、消えた。
「消えた?」
これはいいことなのか、悪いことなのか。そのようなことを考えていると――。
「ヴェフェハルさん!」
山道方面からメアリーとソフィア、フェリシアが戻ってきた。無事に戻ってきたということがわかると、セロはその場に座り込む。片足だけで立っているのもつらいような物だから。
「よかった……」
ひとまず、三人が戻ってきてくれて。もちろん、安堵しているのはセロだけではない。マトヴェイも「おかえりなさい」と歓迎をしてくれた。
《どうやら、機械系統も復旧したみたいだね》
「……あっ、そうな――!?」
そして、いつの間にか隣には停止してしまっていたガンが立っていた。
《中まで手伝おうか》
「あ、ああ……え? 機械類が復旧した?」
《そう。さっきまで、私は電子世界から弾き飛ばされて、暗闇にいたけれども、キリとアイリが助けに来てくれたんだ》
「あの二人が?」
キリとアイリは世界を見る目にいるはずだ。もしかして、一緒にその暗闇に飛ばされていたのだろうか。だが、ガンはそうではないと言う。
《初めて髪の毛が短いアイリを見たからね。それに、ケア・プログラムでもセロたちのような形じゃなかったよ。何だろう? 私をこちら側まで導いてくれたことには変わりないけれども》
そうなのか、とセロが呆然としていると「ヴェフェハルさん、足は平気ですか?」そう、メアリーが心配そうに顔を覗かせてきた。
「私も中までお手伝いしますよ」
「あ、ああ」
一同が中へと入ると、エブラハムが気分悪そうではあったが、メアリーを迎え入れた。
「ぱ、パパ!? 大丈夫なの!?」
当然心配そうな視線を向けるメアリーに「問題ない」と無理をする。それは彼女以外の誰もがハラハラとしていた。
「ここでもお前と再会できて嬉しく思うよ」
「うん! あのね、キリ君たちがやってくれたみたいだよ! ほら、見て! 山の光が消えたの!」
「ああ、彼らが戻ってきたならば、歓迎をしようではないか」
彼らこそが英雄。世界の終わりを食い止めた勇者。誰もが世界を見る目を見ていた。
◆
全世界の機器類の復旧に伴い、王城にいたエレノアとミスミは安心していた。一時はどうなることかと思えたが、おそらく問題はないだろう。
「無事、なんとかなりそうだね」
「そのようですね」
よかった、よかったと頷き合っていると、城下町へと避難指示に出ていった使用人や衛兵たちが戻ってきた。
「ご報告です、エレノア様!」
「ああ、機器類の復旧だろう?」
「それもですが、町中にいたすべての異形生命体どもが活動を停止して、動かなくなりました」
その通り。王都中にはびこっていた異形生命体たちは復旧直後に力なくバタバタと倒れていったのだ。何も攻撃を与えてはいないのにだ。
「……それって、もしかして?」
エレノアがミスミの方を見た。
「世界改変者が倒されたのでしょう!」
その言葉に誰もが歓喜する。そして、各方面から連絡が入ってくる、入ってくる。世界中に混乱を巻き起こしていたあのバケモノたちはいなくなった、と。
「あの子たちがやったんだ!」
きっと、世界を見る目では勝利の声が上がっているに違いない。エレノアはすぐにでもキリたちに会いたいと思っていた。
◆
上空へと伸びる光が消え去って、花畑で見上げていたガズトロキルスとマティルダは唖然としていた。動きが止まったように見えるが――。
「が、ガズ様! あれを!」
マティルダが指差す方向、そこは空中戦をしていた空飛ぶ異形生命体が力なく地上へと落ち逝く姿があったからだ。それは何も一体だけではない。空にいたそれらすべてが落ちていっているのだ。
何があったのだろうと思っていると――《オブリクス!》そう、セロから無線機の連絡が入ってきた。怒られる覚悟で謝罪を言おうとするのだが、《勝ったぞ!》と歓喜が聞こえてくる。
《俺たち人間が勝ったんだ!》
「へっ? か、勝ったって、世界改変者をキリが倒したってことっスか?」
《ああ、どうやらそのようだ。機器類も復旧したし、異形生命体たちも力なく倒れていっている》
その言葉を聞いていたマティルダはガズトロキルスの方へと抱きついた。その反動で連絡機は花畑の中へと埋もれてしまうが、そのようなことはどうでもよかった。
「ガズ様! これで世界に平和が訪れたんですよ!」
「ああ! 本当だな!!」
明日を心配しなくてもいいことが大きかったから。
世界を見る目の頂を見た。穴がなくなってしまうほどに頂上の岩や土砂はなくなってしまったが、空には美しい青色の世界が広がっていた。ちらほらと戦闘機がなくなっていくのが見える。みんなが安心をしているのだろう。
「……キリ」
――これでまた、ばか騒ぎができるよな?
◆
「キンバー、キンバー?」
誰かの声で目を覚ました。寝起きに中年男性の顔を見るのはあまりにも激烈的だなと思いつつ、体を起こそうとするが、ハイチは起き上がれなかった。声も出そうにない。それどころか、また気が遠くなっている気がする。
ハイチぃ!
遠くで誰かが自分を呼んでいる気がした。ああ、そうだ。この声は――。
――――。
――お母さん。
ああ、眠いや。寝てもいいかな。
大丈夫、私たちがいるから。
再び目を閉じるハイチは穏やかな様子でいた。ラトウィッジは小さくため息をつく。電波復旧で入ってくる朗報によると、異形生命体は倒さずとも勝手に動かなくなってしまったらしい。それならば、まだ息はあるが、それらと同じような彼でさえも同等になるのかもしれないだろう。
ハイチもであるが、キリたちは無事なのだろうかと見えにくい下を覗き込みながら、二人の安否を気にするのだった。
◆
薄ぼんやりとしたその光は急に強い光へと変わった。目を開けるのを惜しむほどの眩しい光。こちららを覗き込んでいるのは日の光だった。
「…………」
痛む体をゆっくりと起こすと、その光景はぐちゃぐちゃに崩れた建物の中だった。瓦礫の山の上で寝ていたらしい。それならば、体も痛むか。さっきまで何をしていたのかと頭を思い巡らせていると、自分の手を誰かが握っていることに気付いた。そちらの方を見ると、アイリが横たわっているではないか。
世界改変者、世界の果て。キリは慌てたようにしてアイリに声をかける。
「アイリ? アイリ?」
「……ん……」
どうやら起き上がれるほどの力は残っていないらしい。寝転がったまま薄目で無理に「派手にやっちゃったね」と小さく笑う。
「キリはあいつを倒してくれたんでしょ?」
段々と弱々しい声に変わっていっている。そうだ、世界改変者を倒したならば、アイリは死ぬ。そう考えるだけで思わずキリの目に涙があふれ出てきた。嘘がつけない。事実も言えない。ただ、ひたすらに悲しいだけ。
「これ、キリから」
そう渡すのは『人の想い』である。アイリが預かってくれたのか。そうだとしても、そんなものキリにとっては要らなかった。そちらよりも、彼女が大事だから。
首を横に振った。
「そんなの、要らない」
ボタボタと『人の想い』の上に涙が落ちていく。
「そんな物、どうだって……いい! どうでもいい! 『要らない』!」
可能性に賭けていたのに。
「……俺はどうすれば、アイリが死なないか……叶わないなら、そんな物要らないっ……!」
キリの発言にアイリは苦笑いをした。
「それって……所有権、放棄するってこと……?」
アイリの質問に耳を貸さずして、その場から脱出するべく周りを見上げていた。彼女を助けたい、その温かさが手より伝わってくる。それでもアイリは口を止めない。
「キリさぁ……『二つ』の所有権を得たでしょ?」
どこかアイリを担いで行けるような場所はないだろうか。彼女の手を離して、そう焦りを見せていると、急激に眠気が襲ってきた。その場に立っても、座ってもいられなくなるほどの感覚である。
「……あのね、『二つ』の所有権を得て……放棄しちゃうとね……」
キリはその場に倒れ込んだ。
「なん……で……?」
寝てはいけないのに。アイリが今にも死にそうなのに。
「……永遠の眠りにつかなくちゃならないんだ」
体が重い。瞼が重い。アイリはこちらを見て、悲しそうな目をしている。
「アイリ……」
手をつなぎたい。その思いでアイリに向かって手を伸ばした。彼女もまたそう思っているのか、『人の想い』越しにキリの手へと触れた。途端に目からは涙があふれ出てくる。
「……あたし、幸せだなぁ……。最後にこうしてキリといられることに」
――そんなの嫌だ。
最後なんて嫌だ。ずっと、ずっとがよかった。終わりなんて。しかし、それは叶いそうもない。
「嫌なこと言わないで……」
寝ようとするな。目を閉じようとするな。キリは必死になって起きていようとしていた。なぜって、アイリと一緒にいたいから。これから一緒に下山して、少しばかりみんなとお話をして――二人で一緒にいるんだと決めていたのに。彼女の悲しい言葉を聞くだけで、あふれんばかりの涙が頬をに伝う。
「……死んじゃ嫌だ……俺はっ――!」
約束したから。昔も今も約束したんだ。必死になって起き上がるキリはアイリの手を強く握った。それに彼女は柔らかい笑みを浮かべる。
「……本当はね、あたし――」
段々と意識がなくなってきているのがわかる。自分がどういう状況で置かれているのかも、十分に理解できている。だからこそ、ほんの少しだけの時間でもいい。
最後にもう一度だけ彼に言わせて。
「あたしはこの世界の運命に抗えなくとも――」
「俺はこの世界から嫌われようが――」
「アイリが大好きなんだ」
キリの眠気は限界なのか、アイリの手を握ったまま倒れ込み――目を閉じてしまった。
◆
足場が崩れないようにして。踏み外して下へと落ちないようにして、ケイたちはラトウィッジたちの後を追った。下の方へと崩れ落ちた床はかなりの下の方まで崩れている。そこから下りられないことはないが、慎重に下りていく。
ようやくある程度の安定する足場へと足を踏み入れた。そこにはごつごつした瓦礫の上で眠るキリの姿が。
「ハルマチは?」
一番の気掛かりはそれである。その場にたった一人で眠るのもおかしい。ラトウィッジが何度も呼びかけてはいるものの、キリは一向に起きようとしない。穏やかに目を瞑っていた。
その理由をケイは知っていた。
◇
「可能性は低いかもしれないけれども……」
ケイはキリに耳を貸せ、とジェスチャーをする。
「……お前、未来のコンパスの所有権得た後に、全部の所有権棄てろ」
それだけ言うと、ケイは軍営の方へと向かった。
こればかりは普通に声に出して言えるわけないから。もしも、アイリが聞いていたならば怒るかもしれないから。もちろんハイチやラトウィッジたちだって。だからこそ、キリにしか言えない話。
あのとき、弥終集落で見せてもらった隠れカムラ教典の内容。そこにはこのようなことが記されていた。
『人の想いの裏返しはゼロであり、何もかもなくなってしまう。だが、すべてを棄てたときのその想いは何らかの形でよみがえるだろう』
これはケイの推測にしか過ぎなかった。何らかの形で過去の歯車と未来のコンパスの所有権を放棄したならば、変わるかもしれなかったから。もしかしたならば、アイリが死ななくなるかもしれないと思ったから。だが、ミスミから言われた一言が――。
【未来のコンパスと過去の歯車……同時所有権を得て、放棄すれば永遠の眠りから覚めなくなりますよ】
それでも僅かな可能性に賭けたかった。
キリがアイリと世界を天秤にかけるだろうということは薄々気付いていた。自分がターネラと過去の歯車を天秤にかけてしまったことで芽生えた思い。彼らに救済があれば、と助けたかったのだ。
◇
実際にケイが思っているものとはほど遠かった。
双方の所有権を得て、棄てれば永遠の眠りにつく。この状況にアイリがいないということは――成功したとは言いがたいから。
「……なんだ、あれ」
ヴィンの視線を追った。瓦礫の山の上にあるのは見慣れない壊れかけた祠のようなもの。そこにはアイリが『契約』していたであろう未来のコンパスと過去の歯車、そして神様の日記が納められていた。
「…………」
「あれ? デベッガさん、何かを握っていますよ?」
ターネラはキリが何かを握っていることに気付いた。何だろうかと手に取ってみると、それは手の平サイズの布袋だった。中には何かが入っているのかジャラジャラと音を立てている。
「デベッガってこんな物持っていたっけか?」
「さあ? 総長さん、中は何ですか?」
「……これだ」
手の平に出してみて、ラトウィッジは三人に中身を見せた。そこにあったのは何かしらの種である。
「種? なんでまた……?」
「わからない。が、彼が大事に持っているようだし、彼に持たせておこう」
それを袋の中に仕舞う。もう一度キリの手に握らせると、それを離さんとして、彼は強く握りしめていた。
◆
歓喜が舞い踊る世界を見る目。美しき花々が咲き誇る庭園では、一つの風が花弁を舞い上がらせるようにして吹いていた。そして、その風は穏やかな日差しが降り注ぐ祠の方へと突き抜ける。その拍子に『神様の日記』のページがめくれた。
――――。
神様の日記、追加ページにて。
諸君らは『世界の果て』の先をご存じだろうか。新たな世界の始まりを意味する。そう考えて、ほとんどの者は今の古い世界が終わり、新しい世界へとリセットされると思っているのだろうが、そうではない。
元より私が定めていたことで、過去と共に未来へ行くことが『世界の果て』なのである。時代がそれに到達することはまだまだ――気が遠くなるほどのそれ以上の未来の話なのだから。
この世界はまだ『世界の果て』へと到達するには早い。世界改変者はそこを履き違えて世界を終わらせようとしていたのだろう。
世界はまだ終わらない。終わることは一切ない。人類が新しき世界への扉を開けて、どうして生きていくかを私はここで見守ることにしよう。手出しは一切しない。この世界は彼らの物。私が横入りできるほど躓くような彼らではないのだとわかったから。
名なしはよく堪えてくれた。五億九千八十九回の運命を送ってもなお、使命のために堪えてくれた。そして――運命に翻弄された少年よ。貴君がいてくれたからこそ、彼はここまでこられた。彼と交わした契約事項には一切ないが、最後にだけ細やかな願いを叶えてあげよう。
誰かとずっと一緒にいたい。
それは名なしのことだろうか。彼の『肉体』はもう滅びてしまってはいるし、貴君は永遠の眠りについてしまっているが、約束は約束だ。
世界は少年に救われた。友は彼に助けられた。
それだからこそ、皆歓喜せよ。この世界中のありとあらゆる祝福の鐘を鳴らせ。もう恐れることはない。後は彼らがどうして行くかは自由なのだから。
名なしよ、少年の『心の中』で待っていなさい。彼が目覚めるまで、木の下で待っていなさい。小さくも可愛らしい花で冠を作って待っていなさい。草花の上で寝転がって待っていなさい。一輪の花をあげよう。それを持って一緒にいられる幸福を祈りなさい。それが今の名なしにできること。
確かに世界改変者を倒したならば、体は朽ちると明記していた。しかし、運がいいことに名なしの『心』ならば、まだ生きているのだよ。




