記憶
キリは十六歳で年頃の少年である。
流行のものに飛びついたっていいじゃないか、とキリの手には連絡通信端末機が握られていた。片手でそれを操作しながら廊下を歩く。今、彼が夢中になっているのは世界中の人たちが利用しているネットワークの『ワールド・ネットワーク』の中にあるオンラインゲーム『ヴァーチャル・ブレイヴストーリ』というものだ。話のあらすじとしては悪党がお姫様を連れ去り、各地に点在する勇者たちが彼女を助けに行く――というゲーム。そして、キリの現在のゲームレベルは下位になる。最近、ガズトロキルスに誘われてやり始めたのだ。このゲームは校内にいる学徒隊員たちにとって、人気のゲームだったりする。
「デベッガ、歩きながらは危ないから止めておけよ」
すれ違いざまに、教官に注意されてしまった。キリは素直に返事をすると、ゲームを止めてポケットへと仕舞い込む。
「最近、ゲームばっかりしているみたいだけど、授業の予習復習はしているのか?」
「俺は一応していますよ」
教官はそうか、と少し納得した様子でいるが、どこか悩ましそうな表情を浮かべていた。それにキリは気付く。
「どうかされたんですか?」
「俺のところの教室の生徒一人がな、授業はサボりまくるわ、課題はやってこないわ、と。なんのためにここに入ったのかな」
「大変ですね」
「まあ、隊長が入れたやつだろうが、大目に見るつもりはないからな」
勉強頑張れよ、と教官はその場をあとにした。キリはその背中を見送っていて、何かに引っかかった。先ほどの教官の言葉――。
――誰だっけ?
思い出しそうで思い出せない。誰だろうかとキリが考えながら歩いていると、上の階から下りてくる見覚えのある女子生徒がいた。彼女は片手に大量のテキストを持ち、もう片方でテキストの山の上に置かれた連絡通信端末機を操作しているではないか。
あえて言おう。この女子生徒は大量のテキストを持った上で連絡通信端末機を弄りつつ、階段を下りようとしているのだ。そのようなことをすれば――。
「あっ」
一段踏み外した女子生徒――アイリは声を上げ、テキストから手を離した。
「危ない!」
一部始終を見ていたキリは危険だと動くも、自身の顔にテキストが落ちてきた。若干鈍い音がその場に響く。
「いっ!?」
顔面直撃のせいで、一人床にしゃがみ込んで悶える。角だ。テキストの角が痛かったのだ。それも洒落にならないほどの鈍痛が広がっていた。
「危なぁい……」
連絡通信端末機はきっちり手に。階段下へと転がり落ちず、手すりに掴まって一人だけ難を逃れるアイリ。
「おーい、上から物が落ちてくるときは、近寄らない方がいいよぉ」
一応心配はしているつもりなのか、アイリは下にいるキリに声をかけた。
「遅いし」
痛む鼻を擦りながら、不満げに散乱したテキストを拾い上げていく。アイリもそれを拾うために下りてきて拾い始めた。
「言える立場じゃないけどさ、せめて階段の上り下りは危ないから止めておこうぜ」
「教官みたいなことを言うねぇ。でも、あたしは無事だよ」
「下にいた俺は降りかかってきたけどな」
ある程度拾ったキリはテキストの束をアイリへと渡した。それを彼女は連絡通信端末機を弄りながら受け取る。
「ありがと」
「ていうか、何しているの? ヴァーチャル・ブレイヴストーリ?」
「ははっ、そんな子どもだましみたいな遊びはしないよ。今、ガズ君とドラマの感想を言い合っていたの」
ドラマと聞くと、深夜にガズトロキルスが見ているテレビドラマを思い出す。そして、アイリが男子寮へと侵入してまで実況していたことも。
「デベッガ君は結局続きとか見ているの?」
「いいや。眠いから見ていない。笑い声で目が覚めては寝てる感じ……けどさ、眠いしツッコむ気もなかったけど、今思い出したから言うわ。ハルマチさぁ、毎度毎度こっち来てばか笑いするの止めてくれない? うるさいから」
「かやくごはんで気分も体もぱーん」
「いきなりテレビのネタかなんか知らないけど、どう反応していいの、これ」
「しなくていいよ」
そう返すアイリはガズトロキルスと感想のやり取りを再開する。
「自分の部屋で実況しろよ」
「えぇ、だってメアリー寝ているし、起こすの可哀想かなって思って」
「俺は可哀想じゃないの?」
その質問にアイリは答えず、代わりにテキストの半分をキリに渡した。
「どうせ、次は授業取っていないでしょ? 持っていくの手伝ってよ」
「いいけど、日直なの?」
「ううん。それ運んだら単位一個上げるって言うから。単位が足りないんだよねぇ。だから、ラッキーって思って」
単位が足りない? その言葉にキリは固まった。淡々と言っていたが、それはかなり重要的なことではないのだろうか。
「大丈夫なの? それ」
「教官曰く、あと三回休めば補習だって」
「万が一病欠したらどうするんだよ」
「それはそのときになって考えるから。ほらほら、よろしくぅ」
アイリはキリを急かす。本当に彼女はこの先大丈夫なのだろうかと不安になる。アイリが学校から去るならば、この歯車をどうするつもりなのだろうか。
キリが鼻で小さくため息をついたときだった。少しだけ離れていたアイリが近寄ってきたのだ。ぴったりとくっついてきていて、少し暑苦しい。
「離れて歩けよ。歩きにくいだろ」
「ここ、気味が悪いんだけど」
アイリが横目で見るのは『電子学準備室』と書かれた部屋だった。確かに彼女の言う通り、どこか不気味さが漂っていた。ただ単に日当たりの悪い場所だから、ということもありえるのだが。
「別にここは幽霊なんて出ないから。ただ薄暗いってだけだろ?」
キリの発言に、アイリは目を大きくしてこちらを見てきた。
「ここ『は』幽霊が出ない? 『は』? ここ以外なら幽霊とか出るの!?」
「えっ、あ……うん。俺の知り合いがさ――」
言いきる前に、アイリは手に持っていたテキストを床に放り込むように落として、胸倉を掴んできた。
「冗談じゃない! この世に幽霊がいたって、あたしは信じないもんね!」
「お、落ち着けよ! たかが噂じゃねぇか!」
「そのたかがのせいで、どれだけの人が振り回されたと思っているんだ!」
「ハルマチのその幽霊に対する強烈な邪険はなんなの!?」
アイリはキリを自身の方へと引き寄せるように引っ張った。その影響で、首に提げていた歯車につけている紐が彼自身の首に絞まり始め、苦しくなってくる。
「ちょっ、ハルマチ、く、苦しい……」
流石に手を緩めて、と言おうとするが――首が絞まっており、上手く伝えることができない。そのため、アイリは何を履き違えたのか、更に首を絞め上げる。
「幽霊だ! 幽霊の仕業なんだ! 大変だ!」
――全部、お前の仕業だよ!
自分の握力や腕力ってこんなに非力だったっけ。アイリの手はなかなか放そうとしてくれない。全く放してくれない。誰かなんとかしてくれ。
と、ここで救世主のごとく、電子学準備室から一人の男性が現れた。彼は青白くて痩せこけていたが、これでもこの学校の教官である。男性教官――ヤグラは二人の騒ぎを聞きつけてきたのだろう。彼らを見て怪訝そうな顔をしていた。
「ぎゃぁぁああああ!?」
ヤグラがこちらに対して何かを言おうとするも、先にアイリが悲鳴を上げる。喚く。シャウトする。キリの首をもっと絞める。慌てふためくヤグラは「死にかけてる!」と指摘するも、素直に聞き入れられるものだろうか。
「どうしよう、デベッガ君! 幽霊出たっ!」
「…………」
「いや、デベッガ君が死にかけているから! その手、放してあげて!」
「嘘!? 幽霊がデベッガ君の名前知っていた!? あの世に連れて行かれる!」
「彼が本当にあの世に行くから!」
◆
三分弱してようやくキリはアイリの手から解放された。息をするのってこんなにすばらしい、と思った日はこれ以上あるものだろうか。否、ない。
「だ、大丈夫かい?」
ヤグラは心配そうにしている。キリは声に出すことは少し困難でも、首を縦に振ることはできた。本当に死ぬかと思ったのだ。
「なんだ、ルーデンドルフ教官でしたか。びっくりさせないでくださいよぅ」
アイリに至っては先ほどの恐怖心満載の様子から一変して、何事もなかったかのように流そうとしていた。それをキリが見逃さない。彼はこめかみに青筋を立てて睨んでいた。冗談じゃねぇぞ、と。
「教官に対して失礼過ぎるだろ。生きている人を幽霊って言いやがって」
「だって、ルーデンドルフ教官って生気がないよね」
言われてみればそうだが、それを本人の前で言うか? キリは閉口するしかなかった。下手に同意したり、否定したりして反感を買ってしまえば厄介だと思ったからである。
「きちんと寝ているんですか? 食事も採ったりしています?」
しかし、アイリは親切心のつもりのようである。心なしか愁眉の色が窺えた。
「ははっ、ここ最近徹夜続きでね。あんまり寝れていないんだよ」
「あぁ、わかります、わかります。あれ、面白いですよねぇ」
アイリの発言にヤグラは疑問を浮かべていた。彼女は、彼は深夜番組でも見て夜更かしをしているのだろうと思い込んでいるようである。
「それは違うと思うぞ」
話がわからないヤグラのために、キリがアイリに指摘をした。
「えっ、教官って『戦場の中心でバカヤローと叫ぶ』を見ていないんですか!?」
衝撃が強過ぎるようで、アイリは目を大きく見開いた。それを見たキリはとても失礼だなと眉根を寄せる。
「見ていないなぁ。授業準備と研究で忙しいからね」
「そう言えば、生物学のエイケン教官の研究はなんとなくわかる気がするんですが、ルーデンドルフ教官は一体なんの研究をしているんですか?」
そんなキリの疑問に対してヤグラは「見せてあげる」と電子学準備室へと二人を招待した。彼らはヤグラの案内のもと、その部屋へと足を踏み入れる。
◆
『データが存在しません』
連絡通信端末機を弄っていたハイチはそんなメッセージを見て硬直していた。片眉の上の方が僅かながら動いている。
「え?」
数秒遅れて声が漏れた。この場で嘘だろ、と叫びたかった。だが、周りに人がいるから恥ずかしくてできない。
「何しているんだ?」
その場で固まっているハイチにセロとハイネがやって来た。ちらりと彼女が端末機の画面を覗き込む。そのメッセージを見て「仕方ないよ」と励ました。
「何があったかは知らないけど、そういう日もあるよ」
「いや、どういう日よ。ていうか、何もしてねぇけど?」
「お前は元々機械学とか電子学が得意そうだしな。勝手に改造して、データを消しちゃったんだろ」
「いや、だから俺は何もしてねぇけど」
否定を繰り返すハイチに聞く耳を持たない二人。そんな彼らに不貞腐れる。
「俺はただヴァーチャル・ブレイヴストーリを起動させようとしたら、こんなメッセージが出ただけなの! 本体のデータが消えるとかじゃ……」
『データが存在しません』
ハイチが持つ連絡通信端末機の本体のデータすらも消えてしまっていた。その画面を見た二人は軽く彼の肩に手を置く。
「そういう日もあるよ」
「既製品の改造はあんまりよくねぇぞ」
「だから、俺は何もしてねぇし!」
結局大声を張り上げるハイチ。その声は辺り一帯に響き、周りの注目を浴びることになってしまうのだった。
◆
電子学準備室内には部屋中を埋め尽くすようなコンピュータが設置されていた。授業用としてよく見かける物からテキストの写真でしか見たことのない物まで様々である。そんな部屋のコンピュータを見て、圧巻されていると、アイリが「これってさ」とこちらを見てきた。
「ジュースとかこぼれたらアウトだよねぇ」
「実際やろうとするなよ? ハルマチに弁償できるか? こんな高価な物を」
「してくれるんだ、ありがとう。心置きなくやれるよ」
アイリは意味でも履き違えているのか、そう言った。もしかして、わざとか? そのせいでキリは苛立ちが見えていた。彼らがけんかをする前に、とヤグラは「本当に止めてね」と念押しをする。
「研究に使っているとは言え、自費で購入した物だってあるんだから」
「えっ、それってルーデンドルフ教官の給料の何倍ですか?」
「最高給料五ヵ月分くらいだよ。いくら報酬金がもらえる学徒隊でも借金を抱えるのは嫌だろう?」
とても高価な物だ、と二人は互いに顔を見合わせて驚いた。それを聞いただけで、近付けそうにない。彼らが
コンピュータ機器から離れる際「ところで」とヤグラは話を変えてきた。
「二人って次は授業はある?」
「ないですよ」
「用ならば、サボりましょう」
二人はアイリを見た。ヤグラは流石に、という面持ちである。
「授業があるなら行くべきだよ? ハルマチさん、僕の授業でもあんまり出席していないよね?」
「それ、補習以外でなんとかなりません?」
ヤグラは困ったような表情を見せつつも、ため息をついた。仕方ない、認めるかと腹を括ったような表情だ。
「ハルマチさんがいいって言うなら、いいかな。二人ともこれが何か、わかるかい?」
部屋の奥に置かれた巨大なマシンがあった。それは金属の椅子があり、頭部の方には頭を覆う物が設置してある。そして、そのマシン自体が太いケーブルでこの部屋で一番大きなコンピュータにつながっていた。
「テキストの写真には載っていなかったような」
「そりゃね。見ても絶対にピンとこないと思う」
「テキストに名称は載っていますか?」
「載っていないよ。だって、これは僕が作った物だからね」
「えぇ、自作ですか? これの用途は?」
そう訊ねるアイリはマシンに近寄って軽く突いてみた。ひんやりとした金属の独特の冷たさが指先に伝わってくる。
「それを教える前に、二人は『バグ・スパイダー』って知っているかい?」
その質問に二人は顔を見合わせた。互いに疑問が浮かび上がっている様子で、どちらも知らない様子。ヤグラは彼らの雰囲気で察知をし、話を続けた。
「最近、ネットワークの中で現れた新しいウィルスなんだ。人の連絡通信端末機や企業関係のコンピュータサーバー、システムなどに侵入してデータを消していくそうだ」
「あぁ、一種のテロってわけですか?」
「そうとも言えるね。それにこのバグ・スパイダーには対処できるケア・プログラムが存在しない」
「危険じゃないですか、それ」
表情を引きつらせるアイリにヤグラは「そうだね」と苦虫を潰したような顔を見せた。
「それが最小限の被害だったらよかったのに……」
どこか遠くを見つめるような雰囲気のあるヤグラ。妙な予感しかしなかった。もしかしたならば、自分たちはとんでもない事件へと片足を突っ込もうとしていないだろうか。
「実は王国の軍のネットワークにバグ・スパイダーが侵入したんだ。それで、よかったら二人にちょっと手伝って欲しいことがあって……」
「お、俺、コンピュータ関連はあまり得意ではないですよ?」
アイリが多少のコンピュータを扱えることは信者の町で覚えていた。だが、自分自身はそこまで得意でもなく、授業で習った技術程度ならば、扱えるだけなのだ。そんな心配のあるキリだったが、ヤグラは「問題ないよ」と安心させるような笑顔を見せた。
「きみたちにお願いするのは、直接行って退治してもらうだけから」
二人は耳を疑った。直接行く? それは生身の自分たちがコンピュータの中に入ってバグ・ウィルスを退治しろと? どう行けと?
「ちょ、ちょっと待ってください、教官。え? あたしたちが直接、行く? え?」
いつもは飄々たる雰囲気を持つアイリでさえも困惑し、目をぱちくりさせていた。
「そうだよ。でも普通に考えて生身の人間がコンピュータの世界に入れっこないからね」
「ああ、そうですよね! よかった!」
「だから、このマシン――『脳情報変換機』できみたちの脳の情報をデータ化して、そのデータの塊をこのケア・プログラムソフトウェアの中へ組み込む」
ヤグラは二人に一枚のソフトウェアを見せた。彼らは話についていけそうにない。つまり、どういうこと?
「そして、これをコンピュータの中にインストールすれば、きみたちはコンピュータの世界に行くことができる、はず」
開いた口が塞がらなかった。なんとか理解しようと、頭の中で整理をつけようとするが、すべてを把握し理解できそうになかった。それはキリだけではなく、アイリもであった。
「えっと、えっと……。要は人でもネットワークの世界に直接行く方法があるから、それを俺たちが行けと?」
「平たく言うとそうだね」
「ごめん、デベッガ君。あたしの脳の処理が追いつかないや。結局、あたしたちはどうするの?」
「いや、だから……教官の自作電子機械の実験台となって、軍のネットワークの世界に行って、バグ・スパイダーを倒せ。でしょ?」
一応理解はしたつもりだが、その回答が合っているとは限らない。キリは確認のため、ヤグラの方へと振り返った。
「そうそう。ハルマチさん、やってくれたら補習関連はなかったことにしてあげる」
「よし、どんとこい」
そのためだけになら、我が身の危険も顧みないらしい。いや、それよりもキリは先ほど、自分が発言した『実験台』という言葉をヤグラが否定しなかったことに関して不安を感じていた。まさかとは言うが、これを試すのは自分たちが初めてなのでは?
「教官、そのマシンの試運転は?」
「これ、ついさっき完成させたんだ。本当は試運転させるべきなんだけどね。時間もないし」
「大丈夫なんですか? それ」
「僕の計算上は問題ないよ。それに、これは僕だけが作り上げただけじゃないからね。他の分野の先生たちにもお願いして監修してもらったりしているから、大丈夫。それに退治をするのはなにも二人だけじゃないよ。システム内にウィルス対策のケア・プログラムがいるから協力してもらうといい」
そうだとしても、不安は拭えない。だが、アイリはやる気があるようで、マシンに取りつけられた椅子に座ろうとしていた。切り替え早いな、と感心するばかりだ。
「ここに座ればいいんですかね?」
「そうだよ。起動して気がついたら、コンピュータの世界にいるはずだから」
「ほうほう。デベッガ君、早く座ろうよ」
キリはアイリに急かされて、彼女の隣の椅子に座り込んだ。ヤグラはマシンを起動させるために調整をしている。それは電源が入り、本格的に動き始めて機械音が二人の耳に入ってきた。
ヤグラが「始めるよ」と起動スイッチを押そうとしていた。
「はぁい」
「はい」
「あとね、起動するときにちょこっと感電するから」
「はっ!? ちょ……!?」
ちょっと待て、とキリが言いきる前にヤグラは起動スイッチを押してしまった。その直後に彼らの全身に電撃が襲いかかり――意識は遠退くのだった。
▼
無機質な音が遠くから聞こえていた。それに用心深く耳を澄ませていると、段々と近くに聞こえてくる。それと同時に彼――キリの意識もはっきりとしてきていた。
――ここは?
薄ぼんやりと視界に映るのは真っ白な世界。それに青白い光のラインが走っていた。見たことのない場所、見たことのない世界。
「おーい、デベッガ君」
アイリの声が聞こえてきた。自分たちはここに――何しにに来たんだっけか、と思い出そうとしながら起き上がった。ああ、そうだ。自分たちはヤグラ自作のマシンによって、コンピュータ世界に来たんだ。
そう、この真っ白で青白いラインの入った世界こそ、人間が生身で記憶に残すことができない世界――データの世界である。
とうとう来てしまったのかと感心しながらも、キリはぼんやりとアイリの方を見た。
「寝ぼけてる?」
そう訊ねてくるアイリを見て、キリは本当に寝ぼけているのではないだろうかと疑った。目を擦って再度見る。明らかに目の前にいるのはいつものショートカットではないロングヘアーのアイリである。おまけに服装だって、座学用の制服を着用していたはずなのに、見たことのない青い服装をしていた。見た感じは王国軍の軍服のように見えるが、服に赤く光るラインが入っているのは見たことはなかった。いや、よくよく見れば、自身の服だって同じように軍服に似た物を着ていた。彼女との違いを挙げるならば、服に走るラインの色だろう。キリは青色のラインだった。
この世界に来るならば、服装自体も――なんならば、髪型自体も大きく変わるものなのだろうか。そう思いながら自身髪の毛を軽く弄るが、変わったようなところは見受けられなかった。
「おーい、大丈夫なの?」
「あ、ああ。ここ、最初からこうなのかな?」
「うん。あたしが目を覚ましたときはこんな無機質な世界だった。横にデベッガ君が倒れていたよ」
アイリはキリに手を差し伸べてきた。彼はその手を取り、立ち上がる。改めて見る彼女のその姿はとても新鮮に見えた。
「変?」
自分の格好がおかしいと思われたのか、アイリは不安そうにキリに聞いてきた。それには彼は否定をする。
「おかしくないよ。ただ、髪が長いから新鮮だなって」
「そぉ? 髪、昔は伸ばしていていたんだよねぇ」
「もったいないな。似合っているのに」
キリのその発言に、アイリは頬を染めた。それは本意で言っているのか、他意で言っているのか訊きたかったが、なぜか訊けないでいる。
「そう」
気恥ずかしそうにしているアイリをよそに、キリは改めて周りを見渡した。ただ真っ白な世界が続いているだけで何もない場所である。この奥はどこまで続いているのだろうかと思っていると、どうも所持をしていたらしい。連絡通信端末機から着信音が鳴り響いた。いつも通りにそれに出ると、二人の目の前にホログラム画面が現れる。文字が書かれていた。
『変換は成功したみたいだね。今、きみたちがいるコンピュータの操作主導権はきみたちが持っているから、添付されているドメインを辿って、軍のシステムに行ってみて』
恐らくヤグラからのメッセージなのだろう。それの下の方にはドメインが記述されていて、アイリがそれの文字に触れると二人乗り用の大型の乗り物――アクセス・ライダーへと変わった。
「おお、カッコいい」
「これに乗って行くのかな?」
「じゃない? ほら、見て」
アイリが指差すのはアクセス・ライダーを――二人を導くかのように続く光のロードが続いていた。
「これがシステムへ続くんだよ。きっと」
そう確信を得たアイリはさっさとそれの後ろの方へと乗った。どうやら運転はキリに任せる気らしい。
「あたし、実習の運転ってダメなんだよね。だからよろしく」
「別にいいけど」
別に操作ができないわけではない。授業通りすれば、問題あるまい。キリはアクセス・ライダーに跨った。それは勝手にエンジンがかかる。いざ、出発するときに、彼は何かを見つけた。だが、走り出してしまったため、結局わからなかった。ほんの一瞬だけ、細い糸が見えたが――気のせいだろうか?
▼
光の道をしばらく走っていると、周りに何もなかった世界から一変して白い建物の町並みが出現した。相変わらず、青白いラインは忘れられていないようである。もちろん、町並みからは人らしき姿も見えた。だが、それは本当に人らしき者であって、顔の目や鼻や口が存在しないすべて同じ量産型の者たちばかりだった。これにアイリは顔をしかめた。
「怖っ」
それにキリも同意である。全員が全員、個性がないせいで不気味に思えたからだ。
「他のネットワークのユーザーだろ?」
そう思いたかった。それ以外と言うならば、彼らの存在はもっと恐ろしく感じるのだ。気味が悪いなとアイリが感じ取っていると、町中を歩く一人のユーザーを待ち構えるようにしている妙な虫を見つけた。頭と胴があり、足が八本の虫である。
「デベッガ君! ちょっと停めて!」
キリはアイリの言う通り、アクセス・ライダーを停めた。彼女の視線の先を追う。ユーザーは虫に気付いていないのか。虫はすぐにでも捕まえられるようにして、口から糸を吐き出し、糸の罠を仕掛けた。
「なっ」
相も変わらずユーザーは糸の罠に気付かない。そのため、引っかかってしまい、虫は襲って体を食い始めた。あまりの衝撃に二人は目を覆いたかった。
「あたしの憶測だけど。あいつがバグ・スパイダーじゃない? ほら、ユーザーって言っても、端末に関する情報を持ち歩いているっていうか、その物だろうし」
「……じゃあ、俺たちは脳の情報で構成されているわけじゃん? もし、少しでも食べられたりしたら――」
自身が持つ記憶は欠けてしまう。
アイリはアクセス・ライダーから降りると、腰に装備していた拳銃らしき物――エレクトンガンを手に取って、バグ・スパイダーを撃った。それは塵となって消えてしまう。
「気分が悪い。早く行こう」
「ああ……」
余程、バグ・スパイダーに対する思いは最悪なのか、アイリは眉間にしわを寄せて再び乗った。それにキリはアクセス・ライダーを走らせる。
光の道の終着点はそう遠くない場所だった。町並みの中で一際大きな白い建物だった。ここが王国軍の軍システムのようである。彼らの目の前にでかでかと大きな鍵がかかっていた。もちろん、国の軍が管理するシステムのため、用心として鍵をかけるのは当然だろう。
「中に入るためにはどうしたらいいのかなぁ?」
「うーん、教官に聞くしか――」
ない、と言おうとしたキリの前にアクセス・ライダーが突如として変形し、大きな鍵へと変わった。これを彼らは抱えて鍵穴へと入れ、開けるのだった。
◆
二人が操作主導権を握るコンピュータの画面を見て、彼らが無事に王国の軍のシステム内へと入れたことを確認すると、一安心した。マシンに座るキリたちを見た。
第一段階の人の脳の情報をデータ化は成功だ。これは史上初と言ってもいいだろう。これにより、コンピュータの文明はもっと人類にとって大きな成果や栄光をもたらすに違いないと一人納得していると、準備室のドアにノックがかかった。返事をすると、中へハイチとハイネ、それにセロが入室してきた。
「珍しいね、どうしたのかい?」
「すんません、俺の連絡端末機が壊れてしまって。データとか戻りますかね?」
ハイチは自身の連絡通信端末機をヤグラに渡した。色々と操作してみるが、どれを弄っても『データが存在しません』というメッセージしか出ずに眉をしかめる。
「あー、これ……」
ヤグラが答える前に、ハイネはマシンに座って眠るように目を閉じている二人に気付いた。
「教官、これは?」
「うん? 二人には軍関係のお仕事を手伝ってもらっているんだ。それに、その仕事はキンバー君のこの故障の原因にも絡んでいるんだよ」
その言葉に三人は顔を見合わせた。
「どういうことですか? ハイチの端末機は改造とかで壊れたわけではなく?」
「だから、改造してねぇって。しつけぇよ、ばか」
「うるさい、ばか」
「ンだとぉ!?」
喧騒でも始まりそうな二人をハイネは強引に抑え込んだ。そんなことよりも、キリたちが気になって仕方ないのだ。
「お手伝いって、これで何をしているんですか?」
明らかに楽しいものではないと理解できるようだ。テキストや図書館に置かれている資料集などにも見たことがないマシンだからである。
「……三人が手伝ってくれて、このことに他言をしないなら、教えてあげる」
「私、します!」
ハイネは即答する。続けてハイチも「直るならば」と賛同。残るはセロである。彼に一同が注目する。
「じゃあ、俺も……」
半ば強制的ではないだろうか。そう思ったりもしたが、マシンの件が気になるため、これでも同意のもとであった。
「それじゃあ、二人にはこっちの方でデータやプログラムを作ってもらおうかな」
「それはどんなのですか?」
「えっとね、軍のシステムのデータだよ。今、バグ・スパイダーにやられていくつか損傷しているんだよ」
軍のシステムデータやプログラムを作ると聞いて三人は目を丸くした。このような重要な仕事を自分たちがしてもいいものだろうか。と、ここでハイチは自身の連絡通信端末機の不調の原因を察知した。
「えっと、俺のがぶっ壊れたのも、そのバグなんとかってやつが原因ですか?」
「そう。それで軍のシステムにあるウィルス対策ソフトウェアがそのウィルスに対応していないから直接ね。なんせ、新種のウィルスだから。そうだね。キンバー君は直接行ってもらおうかな」
「直接?」
セロはヤグラのコンピュータの前に座ると、片眉を上げた。それはハイネも気になっているようである。
「そうそう。彼らの脳の情報をデータ化して、それを元々のウィルス対策ソフトウェアのデータ内に組み込む。そして、それをこのコンピュータ内へとインストールすれば。ほら、今はシステム内に入って、あっちこっち探し回っているみたいだね」
ヤグラが指差すモニターには勝手に画面が切り替わっていっていた。もちろん、彼が操作しているわけではなかった。独りでに動いているのだ。これには三人がびっくりしていた。
「これ、めちゃくちゃすごい大発明ですよね? 要は人がコンピュータの中に入れる代物なんですよね?」
「そうだね。この案件が終わったら特許取ろうと思っているんだ」
「でも、この二人って、大丈夫なんですか?」
世紀の大発明よりも、二人の無事が気になるハイネは不安を隠せていないようだった。
「大丈夫だと思うよ。ほら、こんなに元気に動いているし、試運転なしだけど」
それって下手すれば死ぬんですよね? と、三人はツッコミを入れたかったが、言いづらいのが現実である。彼らは半ば強引ながらもヤグラの仕事を引き受けるのだった。
▼
「システムがやられているっていう割には、何も問題はなさそうだよな?」
王国軍の軍システム内にて。キリは周りを見渡していた。ここは外の町並みとは違って、プログラムの文字数列が色々と行き交っている上、軍の関係者らしきユーザーの姿も見えた。ここにはバグ・スパイダーの姿は見えない。
「ていうか、どこのシステムがやられているかは聞いていなかったね。地道に探し回るしかないのかな?」
そう言うアイリはエレクトンガンを手に持つ。
「まあ、それ以外の方法は――」
と、キリの視界にバグ・スパイダーの群れが見えた。それらは一人のユーザーらしき人物を囲んでいるようである。これにはアイリも気付いた。
「あれ!」
「助けよう!」
二人はエレクトンガンを手にしてバグ・スパイダーに撃ち放つ。一匹、二匹、三匹――とエレクトン弾丸に撃たれては塵となり、消えていった。やがてすべてのバグ・スパイダーを倒すと、キリは囲まれていたユーザーに「大丈夫ですか」と声をかける。それでこちらの言葉が伝わるかと不安に思っていたが――。
「助けてくれてありがとう。きみたちはユーザーのようには見えない気がするけど」
言葉が通じた。キリは若干戸惑いながらも「一応は?」と首を捻る。
「俺たち、とある人に頼まれてここのデータを食い散らかすバグ・スパイダーを倒しに来たんです」
それに同意するかのようにして、アイリは小さく頷く。すると、襲われていた彼は表情を明るくした。
「本当かい!? 私はずっと戦ってきていて、太刀打ちできなくて困っていたんだ。そのせいでいくつかのデータは失われてしまってね。私を作ってくれた人にはとても申し訳ないんだ」
段々と表情が暗くなっていく彼にキリは「大丈夫ですよ」と励ましの言葉をかけた。
「俺たちと一緒に頑張りましょう。俺、キリって言います」
「あたしはアイリです。名前を教えてくださいな」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。私は王国軍軍情報管理棟警備隊長さ」
「長いねぇ」
それは言えている。そう思っていたが、口には出さなかった。
「どうせなら、新しいあだ名を考えてあげようよ」
口に出さない代わりに、アイリがそのようなことを言い出した。最初は渋っていたが、キリは悪くないかもしれないと感じた。元より、この人物の名前が長過ぎて言いづらいということもあるからだ。
「ああ、ハイチさんみたいなのは止めておけよ?」
「大丈夫、大丈夫。そうだね……守る人だから『ガン』っていうのはどう?」
「『ガン』、それは私のことかい?」
「うん、そうだよ」
アイリがそう頷くと、彼――ガンは相当嬉しいらしく、頬を緩ませた。
「嬉しいな、ありがとう。今まで、私にそういうことを言ってくれる人がいなかったから」
それもそうだろうな、とキリは心の中で思う。生身で記憶が確かな人間がこんなコンピュータ世界にいること自体ありえないようなものなのだから。
誰もいない、でアイリはしきりに周りを見た。
「ガン以外の警備隊の人って見かけないね」
「元々、このシステム内自体が私自身なんだ。だから、どの情報がどこに在るのかを把握しているし、何か異常があれば、そこへ飛んでいくことだってできるんだ」
「へぇ。じゃあ、バグ・スパイダーは?」
「ごめん、自分自身だというのに、やつらは神出鬼没で気付けばデータを食われているんだ。おまけに私はそいつらを撃退する力を持っていないし」
またしても段々とネガティブ思考へと向かっていくガンにキリは慌てた様子で「俺たちがいるよ」とフォローした。
「システム内にバグ・スパイダーがいなくなるまで、退治を手伝うからさ」
「本当かい?」
二人は頷いた。ガンは笑顔を取り戻す。
「本当にありがとう」
▼
ガン曰く、バグ・スパイダーには親が存在するらしい。一度だけその通常の大きさのものよりも、一際大きなのを見たとのことだ。
「多分、そのでかいやつが親玉だから、そいつを倒せばいいと思う」
「だね。自然と他のやつらが消えるのが通説ってやつかな」
「私が最後に見たのはインフォメーション・ポータルだ。やつは私の姿を見るなり、一目散に逃げてしまったんだ」
三人はインフォメーション・ポータルへと急いだ。そこへやって来ると、システムを利用するユーザーがたくさんいた。その中にバグ・スパイダーの姿は見えない。どうやらここにはいないようである。
「いない、みたいだね」
「でも、ここに来そうではあるよね。ほら、こんなにデータの塊をした人たちがたくさんいるんだから」
「かもな。ところで、このインフォメーション・ポータルって何をするところなんだ?」
素直に気になるキリはガンにそう訊ねた。彼は「検索エンジンみたいなものだよ」と答える。
「システム内に存在するデータ情報を閲覧することができるんだ」
「それって、軍だけの?」
「ははっ、それだけじゃないさ。他にも世界地図のことや国民情報だって存在している。なんなら、試しに気になることを検索してみるかい?」
ガンはご自由にどうぞ、という形で二人に検索の仕方を教えてくれた。アイリはそれには興味がないようで、すべてキリに譲ることにした。
「じゃあ――」
『追放の洞』
「あれ、それって」
察知したアイリにキリは頷いた。
「この前、腕なしが出たから確認できなかったんだ。どんな場所か知りたくて」
「そうなんだ」
検索結果が出た。結果は『データが存在しません』というメッセージが現れる。キリはもう一度、文字が間違えていないか確認をして再検索をした。が、やはり存在しないというメッセージが現れるだけだった。
「嘘だろ? 俺、正式名称を入れたはずだぞ?」
キリは何度も『追放の洞』で検索してみたが、『データが存在しません』のメッセージしか現れなかった。
「データが消えているんじゃないの?」
「うわっ、すごいもやもやするなぁ」
キリは諦めたのか、ガンに別の場所へ行こうと促した。三人はインフォメーション・ポータルを離れるのだった。
▼
「ねぇ、ガン。バグ・スパイダーが現れやすい場所ってどんなところかわかる?」
かれこれ歩き回って足が疲れてしまったのか、その場に座り込むキリとアイリ。ガンは疲れ知らずなのか、ぴんぴんしていた。
「そうだな、ここのシステム内の小さなところ。それこそ、誰も検索などしたりしない場所に現れやすい。そこを見張っていれば、やつらが来るだろうか?」
「でも、自分たちの勘頼りで行っても、空振りしたら意味ないでしょ。張り込みするならば、もっとどういった場所か絞り込まなきゃ」
もっともだ、とキリは思いながら、データが消えた――追放の洞を思い出した。
「だったら、さっき調べようとした追放の洞だろ? 他は思い出せるか?」
「任せて。このシステムは私自身とも呼べるもの。どれがなくなってしまったかくらいは――」
ガンは集中し出す。すると、白くて青白いラインの入った床から金色に光るケーブルが現れ、それが彼の頭に取りついたのだ。これで情報の確認をしているようだ。
「『確認ドライヴモード』『すべてのデータの所蔵有無を前回の所蔵と照合し、確認中』」
ほんのしばらくして、ガンから金色に光るケーブルが離れていき、大きく息を吐いた。
「どうだった?」
「『地図:南地域』『国民ナンバー:59309271』『郷土歴史:ファイル59』『生物学会:ファイル204』の四つが抜けていた」
「ファイルって言われても、どんな資料なのかわからないな」
「しかも、その内の一つは人の個人情報でしょ? とんでもないねぇ」
ガンは腕を組んで何かを考えているかと思えば、二人に「データをバックアップさせてそれを保管している倉庫がある」と教えてくれた。
「でも、そこは私が管轄している場所じゃないから、二人で行ってきて欲しいんだ」
「ていうことは、ガンと同じような人がいるってこと?」
「いや、違う。誰もいないところだ。いや、誰も入れそうにない場所。ただ、厳重にロックがかかっていて、そのパスワードや鍵は私が持っているから。はい」
そう言うと、ガンは二人に大きな鍵二つとパスワードが書かれたカードを渡した。
「倉庫の場所はシステムの地下にある。まず、入り口に着いたら、五分以内にパスワードを入力してくれ。そうでないと、監視係がきみたちに攻撃をし出すだろう。そして、一分以内に二つの鍵を同時に開けてくれ。こちらも同様に監視係が見ているから」
「わかった」
二人は頷くと、カードと鍵を手にして地下へと向かうのだった。
▼
地下へと向かっていると、二人の前に騒ぎ出すようにしてバグ・スパイダーが現れた。ガンと一緒にいたときは気配すらもなかったのに、まるで狙いを定めてやって来たようだ。
「パスワードと鍵狙いじゃないの?」
独り言のように呟くアイリ。納得はいく。
「なるほどな」
「で、どうする? 戦いを避けて逃げる? 地下までは相手をする?」
アイリからの選択にキリは手に持っていた鍵を握り直し、エレクトンガンの銃口をバグ・スパイダーに向けた。彼の答えは――。
「地下まで連れ込んできてしまっては俺もハルマチも五分で片付けられないからな」
キリは目の前に遭遇したバグ・スパイダーを一掃するという選択を選んだ。
「それは同意」
アイリもキリの意見に賛同したようで、エレクトンガンを手に取り、合図と思わせるように銃弾を放った。一斉にそれらが二人に襲いかかってくるも、それを二人は迎え撃つのであった。
▼
自分たちの目の前に現れたバグ・スパイダーを一掃した二人は地下へと急いだ。急げば急ぐほど、それらに遭遇する確率が高くなっている気がした。出会う度に大きな鍵を奪われないよう、食べられないように蹴散らしていく。
「あれじゃない!?」
ようやく地下へ辿り着き、倉庫らしき場所を発見した。倉庫は両開き扉となっており、双方の傍らには警備係らしき機械のような物が取りつけられていた。
『五分以内にパスワードを入力してください』
彼らが扉の方へと近付くと、文字が表示がされた。キリは急いでパスワードが書かれたカードを取り出し、入力しようとするが――。
「最悪」
嫌な気配を感じたアイリが後ろを振り返ると、嫌悪感たっぷりの声音で呟く。キリも入力しようとしたその指を止めて後ろを見た。そこにはバグ・スパイダーの大軍が。これには空笑いをしている場合ではなかった。
――残り時間、四分四十二秒。
すぐさま二人はエレクトンガンを取り出すと、すべての大軍を蹴散らすために連射し続けた。この武器の長所を挙げるとするならば、弾が無限であることだ。だが、短所としては発射直後の一秒間だけ銃が硬直してしまうという現象が起きていることだ。
――残り時間、四分十三秒。
「ったく、どっから沸いているの?」
「ここで張っていたとか、冗談言うなよ」
二人は戦いに集中したいが、一番気になるのは時間である。撃つ度に時間表示を瞥見してしまう。そのため、彼らには隙ができてしまうのだ。
「あっ!」
不意をつかれたアイリは、自身が持つエレクトンガンの先端をバグ・スパイダーが食べられてしまった。これでは使い物にならない! それにたたみかけるようにして、彼女へと襲いかかってくる。
「危ない!」
キリが襲ってくるバグ・スパイダーを倒す。アイリの前にやって来ると、彼女を守るようにして引き金を引いていった。
「で、デベッガ君……」
「こいつらに食べられて、どうなるかは知らない。けど、お前がいなくなるのはダメだ」
「え」
「わかったら、戦え」
キリはアイリに自身のエレクトンガンを渡す。そして、実はこの世界にまで着いてきていた歯車を取り出すと、それを美しく輝く霊剣へと変貌させた。
「歯車! なかったことする時間を延ばせよ!」
キリは歯車に願う。
――残り時間、二分五十六秒。
――この場で死にたくないし、ハルマチを死なせたくない。こいつらがいなかったことに!
バグ・スパイダーの群れの中へと一人突っ込んで行くと、それらを薙ぎ払い、斬り返し攻撃していく。剣先にほんの少しだけ触れようが、必ず塵となって消えて逝ってしまっていた。
アイリは驚いていた。先日までは自身の本音を否定していた者が急に認めたのだ。時間表示を瞥見する。残り時間は二分三秒である。この制限時間がキリの本能や本音を刺激しているのだろうか。彼を見た。なぜだか口元が緩んできた。
――やっぱり。
キリには焦りが見えていた。彼はバグ・スパイダーと時間表示を交互に見ている。キリは死にたくない気持ちでいっぱいなのだ。
「きみは優しくない、臆病者だなぁ」
――それでいいから、死を恐れなさい。生きることにもがき苦しみなさい。
「それこそがキリ・デベッガという存在だよ」
アイリは飛びかかってくるバグ・スパイダーに引き金を引いた。空中でそれは塵となり、消えてしまう。彼女自身も戦うことを選んだ。
――残り時間、五十八秒。
▼
最後の一匹を退治したときは、残り時間が十秒を切っていた。キリは急いでパスワードが書かれたカードを取り出して、その通りに入力していった。
――残り時間、三秒。
なんとか時間に間に合うと、大きく息を吐いた。それに伴い、扉に手をつける。今度は鍵の出番だ。
『一分以内に鍵を開けてください』
二人は預かっていた大きな鍵を抱え、鍵穴に差し込んで鍵を開けた。
「開いた」
キリはその場に座り込んだ。かなりの緊迫感があったのだろう、緊張の糸が解れたようにしていた。
「お疲れ。早く資料を探し当てて、ガンのところに戻ろうよ」
アイリはキリに笑顔を見せるようにして、手を差し伸べた。その笑顔を彼は真顔でじっと見入る。それに「何?」と、いつもの彼女の表情に戻ってしまった。
「あたし、なんか変?」
「……その優しさ――」
とっさにキリは口を塞いだ。口から出まかせのごとく、勝手に言い出していたから。何を言うつもりだったのか、口を塞いだ彼はすぐに忘れてしまった。
「優しさが何よぉ」
途中で言うことを止めたのがじれったいのか、アイリは口を尖らせた。
「……なんでもない。行こう」
「デベッガ君、変だよ」
「変でいいさ。気にしないでくれ」
彼らは倉庫内へと入っていった。そこは丁寧に収納されたデータの保管場所である。一つ一つが丁寧にどんな資料なのかを示すためにファイル番号が振られていた。
「あたしたちが確認するのは南地域以外の三つでいいのかなぁ?」
「だろうけど、その内の一つは他の人の個人情報だしな。それ以外の二つでわかるかもしれないから、その二つだけをまずは探してみよう」
二人が探し出すのは『郷土資料:ファイル59』と『生物学会:ファイル204』の二つである。彼らは二手に分かれてキリは郷土資料の方、アイリは生物学会の方を探し出すことにした。
▼
「郷土資料って、どういうのを盗る気になるんだろうな」
キリはそのようなことをする者たちの気が知れなかった。もちろんそれも気になることだが、南地域に関する資料も盗る理由が思いつかない。
ふと、キリは自分がいる場所を確認した。ここは地理関連のデータ保管場所である。
「……調べる気だったし、見てもいいよね?」
南地域のデータを探し出し、キリは内容を見た。それに書かれていたのは正しく地図だ。それ以外には『南地域:王国の南部に位置する地域である』とだけ記載されていた。
「あれ?」
想像していたのと全く違う。肩を竦めながら、データを元あった場所へと戻した。
「本当にデータ盗ったのだか、消したのか。わからないなぁ。何がしたいんだ?」
次にキリは郷土資料でなくなっていたファイル59の前へとやって来た。それの中身を確認すると、『追放の洞』だった。彼が気になっていた資料はここにあったのである。
郷土資料:ファイル59『追放の洞』
世界の教えキイ教の第一人者である神、キイが悪神のカムラを追放したとされる洞として有名である。教典には「人の心を惑わし、欲に塗れたバケモノへと変えようとするカムラに怒ったキイは二度とこのようなことがないように、彼女をとある洞へと追いやった」とある。そこでカムラは洞から出られないように、閉じ込められてしまう。
その追放された洞を『追放の洞』と呼び、もしそれが本当であるならば、王国の南部にある南地域に存在する『追放の洞』の可能性が高い。そこは他の場所と比べて磁気が若干狂っており、電波の状況が悪かったり、時計が狂ったりしてしまうことが多々あるようで、訪れる人々を困らせる。すなわち、カムラが人々を欲に塗れたバケモノへと唆しているという捉え方もできる。
また、青の王国が建国する前にはカムラが本当の神である、善神と崇める『隠れカムラ教』という少数の信仰者たちの隠れ祈り場としても有名である。この『隠れ』というのは、当時はキイ教以外の異教徒は女だろうが子供だろうが容赦なく、火あぶりの刑に処せられていた。そのため、自分たちに被害が及ばないようにして、その教徒たちとしての勢力が大きく世界を支配していた黒の王国の役人たちの目から逃れるためにこっそり、隠れて山奥にある洞の中でカムラに祈りを捧げていたのである。
それから青の王国が建国されると、その地域は彼らの聖地ではなくなり、青の王国の管轄内になってしまった。その国の教えは無宗教者であることを義務付けられた。もちろん、何かの宗教者であるならば、強制的に無宗教者として改宗させられた。
隠れカムラ教の存在を知った当時の王政は追放の洞からなる半径三十キロ(現:南地域)を環境保護という名目のもと、隠れカムラ教徒信者はおろか、一般人でも立ち入ることを禁じた。その宗教は王政によって強引に解体され、『隠れカムラ教』という教えはこの世に名前のみが語られ、内容を知る者は現在として誰一人も知らない。
資料を見てキリは何かを思ったが、早いところアイリと合流するためにその資料を手にして彼女のもとへと向かった。ちょうど、アイリも自分のところへ来るようだったのか、ばったりと会う。
「見つかった?」
アイリの手には資料が握られている。
「うん、ハルマチもだな」
「こっちは異形生命体のことについて書かれてた」
資料を見せてもらおうとしていたが、アイリが資料の内容を口に出した。それにキリは硬直する。ほんの一瞬だけ、ディースを思い出す。なぜ、彼女が思い浮かんでしまったのだろうか。
「デベッガ君? きみが見つけた資料はなんだった?」
アイリが心配そうな面持ちで顔を覗かせてきた。彼女とディースは顔が同じである。だから――。
「えっ!?」
キリは勘違いして目を丸くした。それにアイリは不快だと思ったのか、眉根を寄せた。
「えっ、じゃないよ。資料を見つけたんでしょ? どんな内容?」
「あ、ああ。追放の洞のことだった」
「んん? その二つの共通点ってなんだ?」
腕を組み、考える。だが、キリは知っているし、わかっている。
「……ディース」
呟くキリにアイリは聞こえなかったようで「何か言った?」と訊いた。彼はもう一度、言った。
「ディースだよ。異形生命体も追放の洞や宗教関連、きっとあいつの仕業だ!」
「ディース? あいつ信者だっけ?」
アイリは覚えていないのか、思い出そうとしていた。
「じゃなきゃ、考えつかない! あいつはバグ・スパイダーを利用して、俺を狙っているんだよ!」
「待ってよ。じゃあさ、もう一つの個人情報のやつはきみだって確信が?」
「それは見ていないけど。きっと、そうに違いないんだ!」
いくらディースを頭から振り解こうとしても、離れられない。余計に脳裏へとこびりついてくる。
「落ち着きなよ。だったら、個人情報の方を確認しに行けば――」
そう、アイリが言いかけたとき、連絡通信端末機から着信音が鳴った。電話に出ると、それはガンからだった。あれ、連絡先を教えたっけ? と困惑するが、それはひとまず置いておくことに。
「ガン? どうしたの?」
《大変だ! あの大きなウィルスが現れた! 場所は軍事関係資料:ファイル774だ!》
ガンの声はキリにも届いていたようで、二人は顔を見合わせた。不安そうな表情を見せながらも頷く。それを待っていた、とアイリも頷いた。
「ガン? 待っていて。今からそっちに行くから!」
通話を切ると、二人は急いで倉庫をあとにするのだった。
▼
資料のファイルはこの世界では場所となっているようで、ガンに言われて初めて気付いた。一つ一つの部屋にファイル名と同様の番号が振ってある。
「デベッガ君! こっちの部屋の方、軍事関係のところ!」
アイリはキリを誘導する。彼らはガンがいる場所を探し当てているが、ここで邪魔が入ってきた。バグ・スパイダーである。
「退け!」
歯車のアクセサリーから霊剣へと変え、立ちはだかるバグ・スパイダーを蹴散らす。アイリも後れをとらないように、彼のあとを駆け抜けた。
ガンがいる場所へと向かえば向かうほど、それらが増えてきている気がした。それでも、とキリは駆けながらバグ・スパイダーを消していく。消して、消して、消して――終わりが見えない! 大型のバグ・スパイダーが現れたことが原因なのか。事実の書き変えの制限時間が来てしまったのか。どちらにせよ、すべてを退治しなければいけないだろう。
データの世界に入ったとしても、自身の体力の限界というものは現実世界と変わらないらしい。まだまだ周りにはおびただしい数のバグ・スパイダーが囲んでいた。
「…………」
「大丈夫?」
肩で息をし、呼吸が整わないキリを見てアイリは心配そうな表情を見せた。それに珍しいなと思う。彼女がそんな顔をして心配するとは思わなかったから。
「……うん」
大きくため息をついてキリは目の前にいる大軍のバグ・スパイダーを眺めた。こいつらを相手していたら、きりがない。ガンを助けに行くのは遅れるだろう。だが、退治しないと、前に進めない。彼は歯車の剣を構えた。
「ハルマチ、ガンを助けに行ってくれるか?」
キリは横目でアイリを見た。それに対して、彼女は彼の隣に立つ。
「いいや、ここはあたしが持つよ。デベッガ君が行って」
「え」
アイリはエレクトンガンを回してキリを見た。
「多分、これはでかいやつには効かないだろうね。効くのは一時的だろうけど、きみが持つ剣」
「いいのか?」
今度はキリが不安そうに見てくる。
「いいから、行って」
「……死ぬなよ」
「はいはい」
キリは心配ながらも、その場をアイリに任せて走って行ってしまった。残された彼女とバグ・スパイダー。それらは彼に気を止めることはなく、アイリを狙っているようだった。
「どうかなぁ?」
勝てる見込みはあるとは限らない。でも、キリにあんなことを言われて嬉しくは思った。それならば、勝つしかない。勝ち残るしかない。アイリは引き金を引こうとするが、彼女とバグ・スパイダーの間に上から何かが降ってきた。
「――やあ、やあ。一人は不安かい?」
上から降ってきたのは人。そう、ハイチだった。二人と同様に王国軍の軍服には紫色のラインが走っている。無駄にカッコつけているのが少しだけ腹立たしい。
アイリは一瞬顔をしかめるが、手助け云々に四の五言っている場合ではないのである。ここは正直な話、助太刀がいる状況でもあった。
「なんでクラッシャー先輩がここに?」
「俺の端末をフリーで直すからお前らを助けに行けと、ルーデンドルフ教官が言うんだよ。こいつらか、人のデータを勝手に消しやがって」
こめかみに青筋を立てるハイチは腰に提げていた銃を構え出した。それはエレクトンガンとは違い、明らかにアイリが持つ物よりも性能は高そうな代物である。
「今度はこっちがてめぇらの存在を消し炭にしてやる番だぁ!」
一発引き金を引いた。素早く大きな音を出しながら、バグ・スパイダーに弾丸が当たった瞬間――それは周りを巻き込みながら爆ぜた。爆風はこちらの方へと押し寄せてくる。長い髪の毛を抑えながら、アイリは驚いていた。ここまで威力の高い物だとは思わなかったからだ。
「本当はハイネも来たがっていたが、これに命の保証だけはないらしいな」
アイリはハイチの背中を見た。
「行くって言うあいつを俺は止めた。つーか、教官に行かせないでくれと頼んだ。だから、俺だけ来た」
ハイチはアイリの方を振り返った。彼女の長い髪には一驚した様子でいたが、表情はすぐに真顔へと変える。
「何か?」
何かしら言いたげなハイチをよそに、アイリは彼の横へと出ると、エレクトンガンを構え出す。
「デベッガは?」
――絶対、訊きたいことはそれじゃない。
「友達を助けに行きました」
「うん、俺もお前らが心配だったから来た」
ハイチも再びエレクトンガンの上位互換であるエレクトンガンvol 2.0を構え出した。
「俺がいれば百人力だろ?」
「いいえ、あたし一人でもできましたもん」
「はっ、独り善がりするなって」
アイリは認めたくないと思っているのか、一人先立ってバグ・スパイダーの群れへと突っ込んで行った。それを追うようにしてハイチも突進していく。
▼
内心アイリのことが心配だったが、彼女が引き受けてくれたからこそ、ガンを助けに行く時間が早くなる。彼はバグ・スパイダーに対する力がないことは覚えている。だから、気になっていた。
『軍事関係資料:ファイル774』
ようやく、ガンがいる場所である資料場所を見つけた。そこへと勢いよく踊り込むと、巨大なバグ・スパイダーの攻撃を防いで身動きが取れずにいる彼を発見する。
「ガン!」
キリは手にしていた霊剣を強く握った。巨大なウィルスに向かって攻撃をしかけようとするが、手下のバグ・スパイダーに糸で腕を掴まれてしまう。
「キリ!」
ガンが声を荒げ、攻撃を仕掛けてきたやつに飛ばされてしまった。キリが危ない。
「放せ!」
糸を剣で斬り、こちらへ突進してくる大きなバグ・スパイダーにカウンターの斬り込みをする。耳にうるさい金属音が突き貫ける。あまりにも外面が硬すぎるようである。キリの腕は痺れてしまい、強く霊剣を上手く握れずにいた。
「そいつは普通の攻撃なんて全く効きやしない! 多分、きみたちが持っていた銃でさえも!」
手下であろうバグ・スパイダーには効いた。が、この親である大きなバグ・スパイダーには効き目はなかった。
勝てるのか?
――俺、こいつに勝てるのか?
その一瞬の隙をつかれ、キリに糸を吐いてきたそいつが彼の肩へと噛みついてきた。
突如、激しい痛みと頭にある何かの記憶がなくなってしまった気がした。その記憶がなんだったのかでさえも思い出せない。なぜなら――その記憶を盗られてしまったから。
なんだろうか。とても大切な記憶な気がする。失ってしまいたくない、大事に守りたい記憶だった気がする。そう気がするだけで何も覚えていない。
――どうしよう。
記憶が盗られてしまったことばかりに気を取られてしまい、いつの間にかキリの周りには巨大なウィルスとそのバグ・スパイダーの大軍が押し寄せて囲っていた。この大軍、ここに来るまでに見た大量の数と同じ量である。じっとりと湿っている感覚がリアリティな歯車の剣を握る手。胸の奥からあふれ出てくる恐怖心。ガンを見た。彼はウィルスたちに捕まっており、身動きが取れそうになかった。頼られるのは己の実力のみ。それが一番恐ろしい。
――こんなの……勝てない。
攻撃を仕掛けてわかった巨大なバグ・スパイダーの硬い体。こいつには運命を変えれない? いいや、こいつには元から運命なんてなかった。だって、こいつはデータなんだもの。きっと、ここにいるやつらだって、書き変えたことをなかったことにした運命が、元に戻っただけのやつら――。
すべてはわかっていたはずだ。いくら敵を倒そうが、捻じ伏せようとも。本当は自分はどれも、どんな者にも打ち勝ったことは一度もない、と。
――勝てない。
いくらでも運命を変えてやると誓おうが、それは無駄だった話。
「キリ!?」
軍団は目の前にまで迫っていた。あのときの痛みがフラッシュバックする。
――記憶がなくなる? そしたら、死ぬ?
誰かが耳元で囁いた気がした。過去を変えたければ、未来を捨てろ、と。それはキリ自身が死ぬという事実の前に、相手の未来を変えろ、ということだと彼は勝手に解釈した。つまりはこちらから事実を勝手に作ればいい。
――俺が死ななけりゃ、どうでもいいんだ。
願い――否、そんな思想に支配されてしまったキリが握る歯車の剣はより一層強い輝きを放つ。淡い光だなんていう表現ではなかった。
「消えろ!」
キリはその剣先を巨大なバグ・スパイダーの脳天へと突き立てた。
◆
倒しても、倒しても終わりが見えなかったハイチとアイリに転機が訪れた。自分たちの周りを囲んでいたバグ・スパイダーの大軍が突然と消え失せてしまったのだ。何事かと顔を見合わせていると、いつの間にか視界はヤグラがいる部屋――電子学準備室だった。
「あ、あれ?」
戻ってきたのか? 不安に思う。そうしていると――
「アイリちゃん」
声をかけられた。ハイネだった。セロもいる。
「無事だったんだね!」
ハイネは安堵した様子で、アイリの手を取った。
「いや、なんともないですけど。あれ? ウィルスは?」
「あ?」
どうやらハイチも気がついたらしく、目を覚まして周りを見渡した。彼が座っていたのはヤグラが即席で作り上げたのだろう。キリとアイリが座っているマシンのように立派ではないが、小さなマシンに座り込んでいた。
「ハイチも! よかった! けど……」
まだキリが目を覚まさない。
「教官、二人には何があったんですか?」
キリを心配そうにセロが訊ねた。
「うん。二人にコンピュータの操作主導権はなくなったみたいだけど――」
ヤグラは彼らが入っていたコンピュータを弄る。自由に動かすことができた。そして――。
「おまけにバグ・スパイダーは消滅したみたいだね。三人のおかげと二人がデータを修復の手伝いをしてくれてシステムも粗方復旧したみたい」
「じゃあ、デベッガ君がやってくれたんだ!」
そのときだった。キリが目を覚ました。ぼんやりと周りを眺める。一同はどこか不安そうに彼を見ていた。
「みんな……?」
「大丈夫かい、デベッガ君」
「は、はい。えっと、俺、倒したはずです」
「うん、確認した。全部ウィルスが消えていたよ。すごいじゃないか!」
ヤグラは驚きを隠せないのか、目を丸くしてキリを褒め称えた。つられてアイリが、ハイチが、と拍手を送る。そんな彼は呆然とした様子だったが、急に嬉しく思うようになった。照れていると、キリとアイリの連絡通信端末機に一件のメールが届いた。それはガンからだった。
『二人のおかげで、やつらはいなくなったよ! こっちの復旧は大変だけれども、ありがとう! とても感謝しているよ!』
文章を見た彼らはどことなく、気恥ずかしさがあるのか、顔を見合わせて照れ出した。
「やったね、キリ君!」
ハイネもまたキラキラと笑顔で祝ってくれた。それににっこりと笑顔を返すキリだったが――ふっ、と急に真顔になってしまう。
「あれ? キリ君?」
「ん? デベッガ君?」
キリの反応がどこかおかしいと感付いたアイリとハイネが愁眉を見せるが――「いや、なんでもない」と歯を見せて笑った。
「なんかさ、実感が沸かない気がする。今、現実だよな?」
「わかる、わかる」
「でも、データの世界に入って新型ウィルスを倒すなんてすごいよ!」
「……ははっ、ありがとうございます」
笑顔は見せてはいるものの、キリの表情はどこか疲れているのか無理に笑っているように見えた。やがて彼は「部屋に戻ります」と部屋をあとにする。
「大丈夫かな?」
どこかふらふらと歩くキリの背中を見て、ハイネはそう呟いた。それを見ていたハイチは彼にジェラシーを感じ取っていたものの、セロに宥められていた。
◆
寮棟にある自室へと戻っているキリは足を止めて、後ろを振り返った。そして、小さく呟く。
「ハイチさんに似たあの人……誰だろう?」
奪われてしまった記憶。それは取り戻せるものだろうか。