綱渡
いくつものモニターには文字数羅列がずらりと並んでいる。その眼前にいるのは眼鏡のレンズにそれを映し出しているヤグラだった。ただ一つだけの画面には文字の羅列はない。そこにつないだスピーカーとマイク。彼はマイクに向かって口を開いた。
「ガン、どんな感じ?」
そのマイクがつながっている場所――コンピュータの世界にいる友人、ガンへと言葉をかけた。現在、彼はこの大量にある文字列の情報処理をしているのだ。答えはスピーカーの方から帰ってくる。
《以前と変わらず、ロックの消去をしているところ。ほとんどって言っていいほど、壊れているけれども》
ロックの消去、ヤグラはたくさんあるモニターの中に文字ではない塗り潰しを目に向ける。これがガン曰く、ロックらしい。記憶に鍵をかけられていたとのこと。
《それにしても、人の脳情報データの部屋って大きいね。おまけにこの人の情報にロックが多過ぎて》
「弄られていたんだろうね。どういう仕組みかはわからないけれども」
《簡単さ。今のヤグラみたいにして、脳情報を一度データ化して適当なところに自分たちが作ったロックを仕掛けていくんだ。それもロックを仕掛けた人の都合のいいようにしてね。そして、脳情報遠隔操作装置にそれをインストールし、脳内に埋め込むのさ》
ヤグラは椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。
果たして、そのようなことが可能だと言うのか。そもそも、こうして人の脳情報をデータ化したのは自分が初めてではある。それ以前にやり遂げていた者がいようとは。流石はコインスト。ちらりと透明の袋に入っている小さな機械らしき物――脳情報遠隔操作装置を目に見る。都合の悪い記憶をロックし、自分たちの都合のいいようにして動かす。なんという卑劣なやり方か。
《ヤグラ、何かこの人の部屋がおかしい》
「そうなのかい?」
ガンからのアピールに飛びつくようにして反応した。
《ああ。壊れたのを完全消去している段階だけれどもね》
「多そうだからね。人手が必要なら、僕とハルマチさんが来るけど?」
《ううん、違う。これを見てよ》
スピーカーからの直後、文字列のなかった画面にピックアップされたところを持ってこられた。人間であるヤグラからすると、他のモニターにある物と何ら変わりないように見える。どの違いがあるのだろうか。
《こういうのが同じようにあるんだ。違和感あるよね?》
「すまない。僕の方から見ると、何も変わりないようだが」
《ああ、ごめん。えっとね、私側からすると、これは『ツギハギのように存在しているデータ』なんだ》
「ツギハギ? ええっと……そっちの世界はデータ自体が色や形となっていたね。でも、周りのとは全然違うってこと?」
《そう。どうやら人の脳情報はつながっているようにして、様々な色のグラデーションになっているんだ。そこに、それを無理やりはめ込んだみたいで、ツギハギだって一発でわかったよ》
「それが都合のいい記憶だろうね」
《かもね。でも、これを下手に弄らない方がいいかもしれない》
下手に弄れば、本来の情報データが変わってしまうかもしれない、とガンは言う。
「それは困ったな。一応、エイケン教官に報告でもしておくか」
《それがいいかもしれないね。――さあ、私、頑張るよ!》
「ああ。それならば、僕も頑張らなきゃ」
二人はそれぞれ己がやるべきことに着手するのだった。
◆
メアリーはとある部屋の一室の前に立っていた。そこには張り紙があり『面会謝絶』と書かれている。この部屋はハイネの病室であり、昨日までは普通に入れたはずだ。
「…………」
残念そうにその場を後にしようとしたとき――。
「メアリー様?」
向こう側から花束を手にしたワイアットとセロの姿があった。二人にはとても久しぶりにあった気がする。どこかほっとした様子で「こんにちは」とあいさつを交わした。
「二人とも、今日は託児所の方はいいの?」
「ああ、今日は休みだからな。朝から来ようと思っていたんだが、こいつの花選びに時間がかかってな」
「僕が悪いみたいな言い方止めてくれません? 僕は以前に持ってきた花と被らないようにしているんだけです!」
「だから毎日持ってくるのを止せと言っているのに」
二人のやり取りが面白かったのか、メアリーは小さく肩で笑い始めた。笑われて、彼らは気恥ずかしそうに大人しくなる。ややあってセロが話を誤魔化すかのようにして「ゆっくりして行けよ」とドアを開けようとしたが――。
「は?」
セロは張り紙を見ると、片眉を上げて不審そうにした。
「どうされました?」
「いや、面会謝絶って」
「えっ!? 聞いていないんですけれども」
せっかく花を買ってきたのにと落胆するワイアット。どうやら、二人にこの知らせは聞いていないらしい。
「ハイネさん、容体が悪化したのかな?」
そう、この部屋はハイネの部屋。未だとして目覚めぬ彼女からの突然の面会謝絶。とにかく、理由を問い質したいとしてこのフロアのインフォメーションへと向かった。そこへ向かうと、一人の看護師は慌ただしそうにしている姿が見えた。電話の応対と患者のカルテだろうか、それを見ては受け答えている。
「忙しそう、みたいだね」
「だな、待ってみるか」
三人が近くにあるソファに座ろうとすると、奥からアイリが出てきた。電話中の看護師に書類のような物を渡している。
「ハルマチ?」
「ん? あぁ、みなさん。どうされたんですか?」
「……って、お前はここで働いているのか」
まさかと衝撃でも受けているのか、男子二名はなんとも言えなさそうな表情をしていた。無理もない、今の今まで病院に通い詰めても会うことがなかったのだから。どこにも寄り道なんてせずに、ハイネのもとに向かっていたのだから。
「わあ、アイリお医者さん? すごいね」
なんてメアリーは感心をしている一方でセロとワイアットは顔をそっぽ向けていた。
( あの、ハルマチが医者だと!? )
( 僕はとてもそうには見えません! 見た目の判断はいけないんでしょうが、そう見えませんよ! )
( 安心しろ、俺だってそうだ。誰だって、そうだ。きっと。)
「お二人さん、なんかあたしの悪口でも言ってません?」
二人の心内でも聞こえたか。しかめっ面のアイリの視線が痛い。彼らはそのようなことは一切ない、と言い張る。それでもあやしいと思っているのか、疑いの眼差しを集中砲火させていた。
「本当だぞ!」
不思議とセロから焦りが見える。
これ以上、突いても可哀想かとアイリは思ったようだ。「それで」と話を変える。それにほっと一安心する二人。
「ここに用があったんでしょ? あたしが応対しましょうか」
「できるのか、お前が」
「さっきから失礼ですね。なんでそんなに邪険するんですか」
「だってお前って、電子学以外の授業の単位が危険で特別補習を受けたんだろ?」
「それとこれは別でしょ。一応医師助手の免許もあるんですからね」
そう言い張っているアイリではあるが、実はその免許は彼女自身の物ではなく、『アイリ・ハルマチ』としていた頃のディースの物であるのだ。そのようなことを知らないセロとワイアットは不審に思い、メアリーは彼女を褒め称える。
「すごい、すごい、アイリ!」
「えへへ」
「……ああ、すごいが……話が逸れるところだった。ハイネの部屋に面会謝絶という張り紙があったが、あいつはどこへ行ったか知っているか?」
セロのその質問に一瞬だけ何かを考えるふりをする。しばしの時間を経て「ちょっと待ってください」と奥の方へと行ってしまった。それからアイリが戻ってきたのは五分後である。カウンター越しに三人を呼びつけた。
「ハイネ先輩ですけれども、今日は一日かけての身体検査になっていますねぇ」
「身体検査?」
あまり納得がいかないのか、二人は怪訝そうにする。
「まあ、明日辺りに会えるんじゃないすか? 検査だけで終わるならば」
「そうだよな……」
諦めて帰ろうかとする二人をよそにメアリーは「アイリ」とまだ何か訊きたそうである。
「キリ君は今日何にもないよね?」
メアリーのその言葉にアイリは少しだけ驚いたように「うん」と答えてくれるが、帰ろうとしていた二人はキリがこの病院にいたことを思い出した。ハイネと同様に目を覚まさないらしいのであるが――。
「ねえ、アイリ知ってた? キリ君、目を覚ましたんだよ」
キリは目を覚ましたらしい。
「知っているよ。あたしも昨日会って、話をしたから」
「アイリも後で来る? 私、キリ君のところに行くつもりだけど」
「来るよ。先行っていて」
自分はまだやることがあるから、とアイリは奥の方へと引っ込んで行ってしまった。
アイリたちの会話を聞いて二人は驚きを隠せなかった。特にセロはそうだ。鬼哭の村での出来事を忘れたとは言わせない。普段のキリとはかけ離れた過去の歯車の力を見せつけられたのだから。そんな彼がこの病院に所在していて、目を覚ましているだなんて。
茫然としていると、メアリーが声をかけてきた。
「お二人方もキリ君のところに行きますか?」
「えっ。ああ、はい」
「きっと、喜びますよ」
果たしてそうなのだろうか、とセロは不安になる。むしろ、自分が行っても気まずくなるだけではないのだろうか。いや、アイリも会って話をしたと言っていた。大丈夫なのか?
「でも、キリ君……記憶喪失状態なので、お二人のことがわからないかもしれません」
更なる衝撃が二人を襲った。そして、ワイアットはまたかと憤りある感情が芽生え始める。ハイネの記憶を失くして、半分は取り戻していたのに、またしてもか。今度はすべての記憶がないのか。
「それで、お願いがあるんです」
「彼の記憶を取り戻すのに協力しろ、と?」
あまりこの現状がよろしくないと思っているワイアットがそう訊ねると、メアリーは首を横に振った。
「記憶に関することで、あまり刺激しないで欲しいんです」
「パニックになるのか?」
「はい。それで、私知らずに傷付けて……」
――本当に傷付ついているはデベッガさんじゃない。みんなの心を傷付けているんだ、あの人は。
ワイアットはキリの見舞いに行く気など失せてはいたものの、メアリーの誘いを断ることができずして結局行く羽目になってしまった。
◆
「そう、そう書いて。これがそうだよ」
現在、キリはエレノアとともにテーブルに向かって何かを書いていた。彼は一所懸命な顔をして、手を動かす。そうしていると、部屋のドアにノックがかかった。そこへ入ってきたのはメアリーとワイアットにセロだった。
「メアリー!」
来てくれて嬉しいと言わんばかりに、キリはやっていたことを投げ出して彼女のもとへと駆け寄った。そして、手をつなぐ。それをあまり好ましくないと思う二人は見ていた。
セロたちに気付いたキリは――。
「誰?」
ド直球にそう言い放った。
事情は知っているものの、苛立ちが収まらないワイアット。唇を尖らせていると、キリは何かに気付いたようだった。
「もしかして、俺の友達?」
「そうだよ。ヴェフェハルさんとワイアット君だよ」
「えっと……初めてじゃなくて、久しぶりって言えばいいのかな? ヴェフェハルさんにワイアット君」
自分の知り合いだとわかって、更に頬を緩ませるキリにワイアットはまだ怒りは収まらない。あまり顔に出さないように気をつけなければ、そう「お久しぶりです」と返事した。
正反対にセロはなんとも思っていないのか定かではないが、感情的な表情は窺えない。だからと言って無表情ではなかった。
「なんだデベッガは元気そうだな。うん? エレノア様はこいつに何を教えていたんですか?」
テーブルの上に広げられていたのは一冊のノート。拙い大きな文字が何度も書かれていた。それは最初のページから数ページに及んでいる。
「文字だよ。……って、メアリー。彼らにキリのことを教えたのかい?」
「うん。こうしてみんなが来てくれたら、キリ君も嬉しいだろうなって」
その優しさは果たして必要なものなのだろうか、とエレノアはワイアットを見てそう思った。彼の隠しきれていない感情に気付いているのである。
「……ワイアット、ちょっと話がある」
エレノアはワイアットを連れて部屋を出た。昨日メアリーと話をしたところではなく、もっと別の場所だ。そこはキリの部屋から離れた場所にある待合所である。そこに二人して腰かけた。
そこに設置されたテレビではニュースがあっていた。
《最近の『墓荒らし』については王国軍も現在捜査中とのことです》
何やら大変そうな事件が起こっているが、そちらよりもこちらの方が大変だ。今はそちらに関心を置いている場合ではないのだから。
「何が気に食わないんだい? 自分の記憶を失くされて?」
「……違います。デベッガさんは自身の記憶を大事にされない方にしか見えなくて腹が立っているんです」
視線をエレノアに合わせずして、別の方向に顔を向けていた。
「それは過去の歯車を使って記憶を失くした、とでも言いたいのかね?」
「それ以外ありますか!? エレノア様は知らないのかもしれませんが、ハイネさんの記憶を失くし、ザイツさんの記憶も改変されていらっしゃったんですよ!? 挙句の果てに、全部の記憶までとなると……怒らない他、何がありますか!? 仕方ないね、で済まされますか!?」
「…………」
「なんで僕は彼を庇うのかが、理解できません」
もうこの場所にいたくもないとでも思ったのか、ワイアットは椅子から立ち上がった。それをエレノアは呼び止める。
「ワイアットは『罪人の子』について聞いていないのかい?」
「聞きましたよ。叔父さんから。確かに彼の過去は同情を買うのはわかります。僕もエレノア様や姫様みたいにして手を差し伸べたくなりますもん」
握り拳を作る。強く握り過ぎて、手が震えていた。
「でも、それとこれは全然違う」
これ以上話すことはない、とその場を去って行ってしまった。もうキリの部屋に行く気にもなれないのだ。
ワイアットが怒っているのはキリのやり方に怒っているのだ。そうでなければ、エレノアたちみたいにして同情しているだろう。それは否定しない。そのことに関してだけは絶対に否定せず、記憶を取り戻すために協力だって惜しまないだろう。彼が思っているのは――果たして、キリは『記憶を取り戻すべきに値する人物としての言行をしているかどうか』なのだ。
【二人が思っている俺に対する気持ちを率直にぶつけて欲しいだけだ】
あの言葉はなんだったのだ、と言いたい。問い質したい。だが、記憶がなければ、訊いても意味はない。無意味である。もうあのときみたいにして殴る気もない。キリは人の記憶や気持ちをなんだ、と思っているのだろうか。
【怖かったんだよ】
何が怖いだ。簡単に記憶を消去したくせして。
怒りのボルテージは最高潮に達していた。一触即発で他人に八つ当たりでもしそうなくらいである。誰もがその気迫に圧倒されていると、一人だけ声をかけてくる者がいた。
「あれぇ、坊ちゃん。もう帰るの?」
書類を小脇に抱えていたアイリである。
「ハルマチさん」
「向こうからピリピリした空気が漂っているな、と思えば。誰にも相談できないことがあるなら、あたしが聞こうか?」
お金は取るけどもね、と言う冗談を交えながらも、ワイアットは「愚痴を聞いてもらってもいいですか」と言う。この自分の心に溜まった感情を吐き出さないと、誰かに当たってしまう。そう考えてのアイリに対する持ちかけだった。
その様子に察したアイリは「いいよ」と承諾する。
「ここじゃあ、人もいるから別の場所で聞こうか」
◆
アイリに連れられてきた場所は誰もいないバルコニーだった。ベンチの隣には灰皿がある。誰かが来ていたのか、ほんのりタバコ臭がした。
「ハルマチさんって、タバコを吸われるんですか?」
「いいや? ここ、基本的に景色は悪くない方だからさぁ。でも、喫煙者はこういうところでしか飲めないしねぇ。ここは病院だし、そこは仕方ない」
言われてみれば、とワイアットは思う。ここから一望できるのは近くにある町。邪魔な建物も見えなくて、日当たりも悪くはなかった。
「それで、なんで怒っていたの?ハイネ先輩に会えなかったから?」
「そうじゃありません。ハルマチさんはデベッガさんが記憶がないことを知っているんですよね?」
「うん」
「……なんで彼に過去の歯車を渡されたんですか?」
どう答えるべきか、とアイリは空を見た。嘘ついても仕方ないと思うし、何よりもワイアットが怒っているのはハイネに会えなかったというのが違えば、後は大体察しがつくから。
「悪いけどあたしは今、その記憶はないから答えられないなぁ」
「デベッガさんに改変されたんですか?」
「そこら辺はわからないよ。というか、あの人の記憶をすべて失っている状態」
「ざ、ザイツさんと同じ状況ですか?」
「ザイツ君は今取り戻しているみたいだよ」
アイリの方を瞥見した。その視線に気付く。ワイアットは説明を要求しているようだが、自分自身が詳しくはない。一年前に鬼哭の村で使われたらしい『事実改変装置』によって、改変されたすべての記憶を取り戻したとしか知らないから。何より説明したところで言いきれない部分も出てくるだろうし、彼はオリジン計画対策本部に加担していない。故にアイリは「その言葉の意味通りだよ」としか言えなかった。
「それ以上はどう答えようがないよ」
「なんであの人はすぐに記憶を消し去りたがるんでしょうか?」
「さぁ? 嫌なことがあったからとか?」
「おかしくないですか? 普通は嫌なことがあったとしても、それが人の記憶だから残すのは当たり前なのに」
「んー……まぁ、嫌な記憶は変に残りやすいねぇ。急に思い出したりとかしてさぁ」
今のアイリにとって嫌な思い出は学校時代での補習ぐらいか。結局、座学関係の授業が補習決定となって、休日も出校した記憶があるのだ。そこでひたすら自分と教官だけいる教室に半日いたことがあった。あれはもう勘弁して欲しいが。
「本当、あのときになんで殴らなくちゃならなかったのか。もう訳がわかりませんよ」
「殴ったんだ」
小さく笑うアイリ。別におかしいというところはない。だから笑われたことが腑に落ちなかった。
「笑わないでくださいよ」
「ははっ、ごめん。ごめん」
それでも小さく笑いっぱなしのアイリはベンチから立ち上がった。仕事があると言う。それならば、仕方あるまい。
「結構溜まっているんだ、これが」
「病院のお仕事は大変ですからね」
だが、待って欲しい。アイリの今の思うことを訊きたいと思った。
「ハルマチさんはこの現状をどう思っているんですか?」
屋内の扉を開けようとするアイリにそう訊ねた。彼女はその場に立ち止まり、しばらくの間何かを考え――それを口に出す。
「一種の綱渡り状態だよね」
それだけ言い残すと、仕事現場へと戻っていった。その場にはワイアットだけが残る。
一種の綱渡り状態。今は絶妙なバランスでいることか。いや、これは当然のことを言ったまでだろう。確かにそうであるから。
ワイアットも立ち上がり、展望できる景色を見た。そこから見えたとある病室。ハイネの病室である。ここから見える限りはベッドの上はもぬけの殻であるが、周りには自分が持ってきた花があった。
自分が妥協しないからなのだろうか、と思ってしまった。周りのみんなを見ている限りだと、キリが記憶の改変をしてしまっていることに遺憾していない。アイリも全くと言っていいほどに怒っていない。もしも、ハイチやヴィンであるならば、どう思っているのだろうか。彼らは自分と同じような気持ちになり得てくれるか。
「……なんだよ、一体」
――ハイネさんが目を覚ましたらどうするんだよ……。
【キリ君って、ずるいよね】
メアリー奪還戦前日、首都の飲食店でハイネから愚痴を聞かされていたことを思い出した。彼女は完全にではないが、キリのことを諦めてはいたようである。
【それが嫌なら逃げちゃうんだもの。一人で逃げ道作って逃げちゃうんだもの】
【アイリちゃんは人を見ようとしないし。ていうか、人の話を聞かないし】
自分はずっと聞き手に回って、話を聞いていた。珍しく、ハイネには怒り――いや、嫉妬に近い羨望が見えていたことは今でも覚えている。
――本当、最低だよ。あの人は。
◆
仲良くて羨ましいな、とセロは思っていた。メアリーがキリのことを好きだというのは知っている。ずっと前から知っていた。
一方でキリ自身は誰が好きなのかよくわからなかった。アイリの方を見ているときもあれば、メアリーの方を見ているときだってある。もちろんハイネの方もだって。揺れ動くその三人の中で記憶があった頃の彼はまだ優柔不断だったのだろうか。
「…………」
ぼんやりと文字の練習をしている二人を見ていたことに気付いたのか、エレノアは「気になるかい?」と訊ねてくる。
「羨ましそうに見てから」
「バレました?」
「年の功ってやつさね」
それなら敵わないなと微苦笑を浮かべていると――「でもわからないね」そう、エレノアは呟く。
「いくら年の功だからと言っても、わからないんだよ。あやつがメアリーをどう思っているか。友人として見ているみたいだけど……」
「でも、ライ――姫様は好きですよね?」
「あっ、知っていたのかい?」
「好きな子の姿を追いかけていましたから」
セロのその言葉に二人は笑い合った。
「もし、デベッガが記憶を取り戻したならば、どうなるんでしょうかね」
セロはそれが一番気になった。もしも、記憶がよみがえったならば? キリは一体誰を選ぶのだろう。今あるこの記憶が消えるわけではない。白紙になった物を取り戻すだけの話。きっとワイアットはハイネを渡さないだろう。彼の憤りは僅かながらもわかっていた。サバイバル・シミュレーションでキリのことを不審に思っていたのだから。それから仲直りしている姿もあまり見ていない。メアリーを連れ戻したときでもどこか二人は反発し合っているように見えた。
「どうなるんだろうね。私にはわからないよ」
先の見えない話にため息をついていると――「おばあちゃん、ヴェフェハルさん」そう、メアリーがやって来た。二人は彼女の方を見る。
「なんだい?」
「あのね、昨日キリ君と約束して『作ってきた』んだ」
今にとてつもなく悪寒がしたのは気のせいだろうか。セロは不安ながらも相槌を打つ。その直後にメアリーは見覚えのある半透明のタッパーに入った恐怖の塊を取り出した。
「焼き菓子! 結構多めに作ってきちゃったから二人にも!」
メアリーのその発言にセロはキリの方を見た。彼は嬉しそうに食べている!? ああ、時すでに遅し! メアリーの黒い塊のそれはハイチのあの姿以上の禍々しさを物語っているのに!
こういうときだけ記憶が戻っていたならば、回避できたのに。そう思ってひやひやしながら見守っていると――。
「メアリー、これ美味しいね! もっとちょうだい!」
――何ぃいいいい!?
空いた口が塞がらないというのは、こういうことか。キリは記憶を失うと共に味覚までも崩壊――いや、まだだ。ここで胃の変化があれば、一応彼は正常と言えるが――。
なんともなければ、何があったんだレベルで目を疑うしかない。美味しそうにタッパーに入った物を食べるキリに感心せざるを得ないが、もしもに備えておかないといけないだろうか。なんてセロが不安に思っているとエレノアが「食べないのかい?」と言ってくる。
「食べておやりなよ。私は……甘い物が苦手でね。悪いね、メアリー」
エレノアはメアリーの激物料理を知らないのだろうか。なんとも言えない表情を向けつつも、覚悟を決めて一口食べた。なんということだろうか。不味さの電撃が全身を走りやがる。これぞ究極の焼き菓子と言える――なんて言ってしまえば、すべての菓子職人に申し訳なさが際立つ。究極は語弊であった。だが、別の言葉で表現はできない。相手が王族なのだから。しかし、そうでなくとも、メアリーに悪意は一切ないのだ。人を思う気持ちがあって、作ってきた代物。そんな彼女の気持ちを蔑ろにするだなんて、自分には到底できない。
必死になって、一つだけでも食べきろうと頑張るセロの視線の先には表情を引きつらせているアイリがいた。彼女はワゴンを押してきた。
「頑張りますねぇ」
「そう思うなら、お前も処理してくれ」
それは無理だ、と断言するアイリはテーブルの上に散らかっているノート類を片付け始めた。
「キリ君、お昼ご飯だよ」
「あっ、うん! みんなはどうする?」
アイリに言われるまで気付かなかった。気付けばもう昼時だ。どうしようか悩んだ末にセロは退室することに。姿が見えないワイアットを探さねばならないのだから。彼はキリに別れを告げると、部屋を出ていった。
「メアリーとおばあちゃんは?」
「メニュー聞こうか」
「普通に病人食ですよ。キリ君、目を覚ましてまだ一日しか経って――」
ここで気付くアイリ。メアリーが持っているタッパーの中身をキリが美味しそうに頬張っているところを見ると、セロが気を使って頑張っていたのではなく、彼がバクバクと食べていたことになる。大丈夫なのか、大丈夫なのだろうか。一年以上も何も口にしておらず、眠っていたキリにそんな胃袋クラッシャー食を与えても!
「……あっ」
メアリーも流石にと気付いたか。慌ててタッパーを隠すが、遅いよ。食べてはいけないとキリに促す。彼はとても残念そうにしょんぼりとした顔をした。
「えっ、ダメなの?」
「だ、ダメって言うか……」
「お腹壊すよ。キリ君は一年間何も食べていないから、急に固形物を食べたらダメだよ」
本当は固形物というよりも激物が正しい言葉使い。ここまでに言葉選びが重要だと初めて知らされた気がする。だが、そんなことをアイリが言えるわけない。自分も昨日は固形物を食べさせてしまっていたから。言いたいことを飲み込んで、うずうずする。
「えぇ、美味しいのになぁ」
二度見をせざるを得ない発言が飛んできた。
――えっ?
嘘だろう、と言いたかった。いつの間にメアリーは料理が上手くなったのだ。自分だってまだ火の使う料理がすべて灰にはならなくなったにしろ、黒焦げになるのに。
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
自分は悲しいな、と心の隅で涙を流す。というか、悔し泣きである。料理の出来を追い越されて超絶悔しい。素直にメアリーが羨ましい。以前は自分と同様に下手くそクッキングガールズだったのにな。
「ねえ、アイリ。俺はいつになったらメアリーのを食べられる?」
「あぁ、一週間後かな。ていうか、どんだけ食べた? 下手すりゃ、検査直行だね……」
先ほど見えていたタッパーの中の減り具合。相当である。キリもあそこまで食べられたならば、尊敬に値する。別の意味での勇者だ。
「えっ、みんなと会えない?」
「しばらくお菓子は食べられないだけだと思う」
「それはそれでつまらない」
残念そうにキリは椅子に座った。とりあえず、ここにいる四人分出そうとするが、いつの間にかエレノアはいなくなっていた。病人食が嫌だったのか。ならば、三人で昼食を採るか。
「アイリ、手伝うよ」
「ありがと」
◆
病棟から出ると、そこは他の患者たちがのんびりゆっくりと散歩をしているのが見えた。そんな彼らの中にワイアットが交ざってベンチに座っていた。セロを待ってでもいたのだろうか。彼のもとへとやって来ると、隣に座った。
「天気いいな」
「ですね……」
「こんなときに、ハイネのやつが目を覚ましていればな。外に出られたのに」
ワイアットの反応は薄い。エレノアに何か言われたのだろうか。セロがそう訊くもそうではないと返す。
「正直な話、僕はデベッガさんより、ハイネさんだけが目を覚まして欲しかったです」
「結構な、滅多なこと言うなぁ」
「だって、そうでしょう? 彼は自分の存在を消したんですから。……でも、ヴェフェハルさんがデベッガさんの方を持つならば、僕は別に何も言いません」
帰りましょう、とワイアットはそう促して立ち上がった。
「人が人に対する想いは自由なんですから」
「…………」
セロはなんとなく察した。ワイアットの右手は血が出るほど、真っ赤になるほどに握りしめてでもいたのか。我慢しているという表現が正しいだろう。本当はキリのところへ行って、なぜに自身の記憶を消してしまったのか問い質したいのだろう。だが、それはできない。訊いたところで記憶自体がないのだから。答えは返ってこないのだから。
それに、もしも、ワイアットが心の中にある思いをキリにぶつけたならば? 記憶がないということを擁護しているメアリーやエレノアからバッシングを受けるだろう。彼が思う内の味方は誰一人としていないのだ。
――俺は?
わからなくなった。キリとワイアットの事情と意見を聞いて、『同情』をした。しかし、彼がそうなってしまった最大の原因は過去の歯車の力によるものだとはなんとなくわかる。事実を改変できる物だと聞いたことがあるから。あのとき、あの現場に自分も居合わせていたから。忘れられないだろう。傍から見てもわかる。キリの感情は負で満ちあふれていたのだから。
どちらの気持ちはとてもわかるのだ。それでも、どちらにも偏ることができず、優柔不断の自分が見えていた。別れ道の前に立って、困惑した表情の自分が。
どれが最良の道なんだろう。頭の中でグルグルと回り続けている。ハイチが自分の立場だったならば、どう考えるんだろうか。ワイアットに同調してくれるだろうか。もし、ハイチが『殺処分』されずに『異形生命体』として生きていなかったならば、どうなっていたんだろうか。
ワイアットの方を見た。彼は空を眺めている。つられてセロも空を見た。穏やかだった。自分の考えがちっぽけだとでも嘲笑っているかのように存在している。小さな白い雲が風に乗っていた。
小さい、小さい。つまらない悩みなんかで悩むな。お前たちの考えていることよりも、雲の方が大きく、空の存在の方が大きいのだぞ。雲がそう言っているようだった。
「…………」
セロはワイアットに何も言えず、黙って彼と共に病院を後にするのだった。
◆
昼食を食べ終えて、アイリはキリの部屋を後にした。途端に通信端末連絡機より着信が入った。相手はヴェルディである。
「はい。そろそろですか?」
《うん、準備の方をお願いしてもいい? 一時間後に地下の第六手術室だから》
「わかりましたぁ」
◆
文字の練習に疲れたのか。それとも飽きたのか、キリは足を投げ出すようにしてテーブルに伏した。そんな彼にメアリーは苦笑いする。
「もぉ、嫌」
「疲れちゃった?」
「……うん」
キリはやる気なさそうにしていた。今までこういう彼を見たことがなかったから、ある意味で新鮮さがあるなと思いつつもメアリーは外を見る。天気はいい。そうだ、気晴らしにでも――。
「じゃあ、キリ君。お外のお散歩に行こうよ」
病院外に出るのはまだ駄目であろうが、施設内であるならば、多少の問題はないだろう。
メアリーの誘いにキリは目を輝かせた。
「えっ?」
「勉強ばっかりじゃ、嫌になるもんね」
ノートに向かってよりも、外の空気を吸う方がいい。そう思ったのか、キリはすぐさま立ち上がる。そして、部屋のドアに手をかけた。
「早く行こう!」
「えっ、ちょっと待って!」
慌てて、メアリーがキリのもとへと行こうとするが、そこで見て気付く。彼は裸足ではないか。
「キリ君靴は?」
「へ? 靴?」
この部屋のどこかに靴はあるはずなのだが。試しにメアリーがベッドの下を覗き込むと、あった。脱ぎ散らかした感がある。それを取って、キリに渡した。靴と言うよりもサンダルではあるが、ないよりはマシだろう。
外へと出ると、暖かな日差しがそこら中に広がっていた。ちらほらと病院関係者が行き交っている。
「どこ行く? どこ行く?」
わくわくとした様子で周りを見る。
「お、落ち着いて。病院の外には行けないから、施設内のお散歩だけだよ」
「へ? まあいいや、行こう」
行くと言っても、施設内を歩くだけなのだが――どうもメアリーが言っていることを理解していない様子。早速、病院外へと行こうとする。それを彼女は慌てて呼び止めた。
「待って! キリ君!」
いけない、外に出て嫌な記憶が呼び起されてパニックになってしまったら大変だ。自分はエレノアみたいにして落ち着かせることはできないのだから。
メアリーの静止にキリは聞く耳を持たずして、走っていってしまう。それを青ざめた様子で彼女は追いかけ始めた。
「キリ君!? そっちは行っちゃダメぇ!」
病院の門から滑るようにして出ると、すぐそこでキリは待ってくれていた。それで逆に転びそうになり――。
「あっ!」
キリはメアリーの腕を掴んで、転倒を阻止した。
「大丈夫?」
二人の目と目が合う。メアリーはそれが恥ずかしくて、顔を真っ赤にした。思わず視線を逸らしてしまう。ドキドキが止まらない。キリはじっとこちらを見てきているから。
「…………」
「ご、ごめんね。もう、大丈夫だから」
そうは言ってもまだキリは手を離してくれない。なんでなんだろうかと思っていると――。
「綺麗」
鼓動が大きく跳ねる。
「その髪飾り」
「へ?」
呆気ない感想にキリを見た。彼の視線はメアリーの金色の髪にある青色の花の髪飾りに向けられていた。薄い青色の目をキラキラとさせている。
「キラキラしてる」
「……ああ、うん」
盛大に勘違いしていたことがとても恥ずかしく思う。いや、これでよかったんだろう。周りに人はいるのだから。ようやくキリは腕を離してくれた。だが、視線は変わらず髪飾りにある。
「一応、キリ君がくれたんだよ。これ」
「そうなの?」
知らないのは当然だ。記憶がないのだから。
――そう言えば、キリ君は何を思って私にこれをくれたんだろうか。
なんて思っているとキリは「こっちは行ったらダメなの?」と少し残念そうな顔を見せてくる。
「俺、怒られる?」
「お、怒られるって言うか。うん、私も怒られちゃうから。こっちの方でのんびり歩こう? 多分、キリ君の体調が完全に優れているわけじゃないと思うから」
「そっか。怒られるのは嫌だから、こっちに行こう」
二人は改めて病院施設内へと入った。
頭の中が白紙状態のキリに何を話題にして話せばいいのだろうか、とメアリーは戸惑っていた。下手に昔の嫌な記憶を穿るような話題は避けるべきだろうし、何が引き金になるのかさえもわからないのだ。彼が聞きたがっているような話は部屋でもしたし――。
「…………」
心なしか、キリはつまらなさそうな表情をしているように見えた。
適当にその場を歩いていると、キリがよろめき始めた。すぐにその場に立ち止まって、頭を抱える。
「キリ君?」
まさか、嫌な記憶がよみがえってきたのか。メアリーが愁眉を見せれば「ごめん」と言ってくる。
「なんか、キツイ」
「どこか痛い?」
それに首を横に振って否定する。
「痛くはない。なんか、もう歩くのがキツイ」
すぐにその原因がわかった。気晴らしにと考えて連れ出すべきじゃなかったのだ。キリが目覚めたのは昨日。ずっと眠りっぱなしだったのだ。体力も持つはずはない。ゆっくりと歩く程度であるならば、まだよかったのかもしれない。だが、彼ははしゃいで、走ったりもしていたから――。
「ごめん、キリ君。私、何も考えずに……」
どこか座れる場所はないだろうか、と周りを見渡しているとキリが「なんで?」と言ってくる。
「なんでメアリーが謝るの? 何も悪いことしていないよ?」
その言葉に――。
――ああ、やっぱりキリ君は優しい。
「……そこのベンチで休憩しようか」
「うん」
ふらつきながらもメアリーに連れられて、ベンチに座り込んだ。それにキリは長いため息をつく。ほんの少しだけ表情が穏やかになった。
「はあ、キツかった」
座れたことに安心していると――。
「随分と体力が落ちているな」
二人のもとに一人の巨漢がやって来た。その人物は青色の軍服を身にまとい、軍人育成学校では『鬼教官』として学徒隊員たちの間で呼び親しまれているマックスだった。
「教官、お久しぶりです」
「ご無沙汰です、姫様」
マックスはメアリーとあいさつを交わして、改めてこちらをじっと見ているキリを見る。そんな彼らを見て、彼女はキリのことについて説明をした方がいいと考えて、口を開こうとするが――。
「デベッガのことについては事情を聞いておりますよ」
「そ、そうなんですか?」
はいと答えると、マックスは二人の目線に合わせるようにして、屈んだ。
「私はデベッガの体力を元の体力――いや、それ以上にするために派遣されました」
「えっ!?」
「えっと?」
「……デベッガ、俺はマックス・クランツだ。二日後から指導していくからな」
そう説明をするも、キリは首を傾げるばかり。よく意味がわかっていないようである。
「指導?」
「平たく言えば、体を動かすんだ。さっき、ちょっと動いていただけでもキツイとか言っていただろ? それがないようにするってことだ」
「そうすれば、色んなところに行ける?」
「ああ。そうだな」
メアリーに気を遣わせてしまった。キリはそれに少しばかり罪悪感があった。彼女の悲しそうな顔を見たくない。そんな気持ちが積もり積もる。
「……よろしく、お願い、します。マックスさん」
◆
数日後、アイリは地下のとある部屋にいた。そこには一つのベッドがあり、ハイネが眠っていた。彼女は痛々しくも頭に包帯を巻かれている。
「…………」
アイリがここにいる理由は一つだった。メアリーが目を覚ますのを待つだけ。心拍数計を見た。至って正常に動いている。ただ、その場で眠っているだけに過ぎない。
待っているだけではただ時間が過ぎていく。それがもったいないとでも思ったのか、この場に資料書類等を持ち運んで仕事をしていた。壁に設置されている時計の針の音が部屋に響くようにして鳴る。あまりにもその場が静か過ぎるのか、耳元で鳴っている感覚に陥るほどだ。
一人で仕事をしていると、この部屋にラトウィッジが入ってきた。
「様子は?」
「まだ目を覚ましません」
「そうか。――そう言えば、デベッガが寂しそうにしていたぞ」
ラトウィッジの言うその言葉には理由があった。ハイネがここに移動されたときからアイリはここに昼夜問わずしているのだ。そのため、キリにご飯を運ぶ担当が彼女ではなくなったのである。それ故か、自分が運んでくると、残念そうな表情を見せてくるのだと言う。
「やはり、いくら記憶を失ったと言っても男子なのか?」
「……総長さんはキリ君とご飯食べてます?」
「食べてはないが」
「それじゃないスか、寂しいのって。昼はメアリーが来てくれるからいいんでしょうけど、朝と夜は一人で食べているんでしょ? ずっと一人でいたっていう記憶が大きいからだと思うのでは?」
「なるほど」
それならば、次からは一緒に食べてあげるか、とラトウィッジは考えた。だが、毎度毎度はできそうにない。彼自身もこの場に仕事を持ってくるアイリと同様に溜まっているのだから。
「そう言えば、キリ君はこの前から教官と訓練をしているんでしょ?」
「ああ。まだ始めたばかりだからな。軽く走ったりする程度だそうだ」
「へぇ、鬼教官にしては珍しい軽いものですねぇ」
「目を覚まして二日後に姫様と散歩に行っただけで、バテるくらいの体力だからな」
それはそれはと、アイリが苦笑いをする。
「一年も眠っていれば、そうじゃないスか」
「そんなものか」
鼻でため息をつく。そんなラトウィッジは何か言いたげな表情を見せているようで、それはすぐにアイリにも伝わってきた。何か言いづらいことでもあるのだろうか。
「どうされました?」
「いや……」
相当渋った様子である。まさか自分がこうしている間に何かしら大きな進展があったとでも?
言うべきか迷っていたラトウィッジもついには「デベッガのことで厄介が」と口を開く。
「今日、トレーニングの休憩中にいなくなってだな」
「あぁ、何も知らずして生きてきたのであれば、色んなところに興味は持つんじゃないですか?」
「そうではない」
その否定的言葉にアイリはラトウィッジの方を見た。それはどういう意味なのだとでも言わんばかりの面持ちである。
「クランツ教官と捜していたら、裏の雑木林で――」
野生の鳥を捕まえて『生食』していたと言う。その言葉に思わず背筋がぞっとした。想像するだけでも気分が悪くなりそうだ。
「えっ? 嘘」
「嘘なものか。おそらく、あれが彼の厄介な悪癖だ」
「…………」
「一応、注意は促した。無闇に生き物を殺してはならない、と」
そして、正直な話――キリとメアリーが一緒にいることを避けたい、とラトウィッジは思っていた。午前中は文字の読み書きと施設内の軽い散歩をしているらしい。今日までその悪癖は出なかったのだ。それが不幸中の幸いとでも言うべきだろう。もしも、あの姿を彼女に見られたならば? メアリーは記憶がない状態を擁護しているが――。
【なんで、ダメなの?】
注意喚起をしたときのキリの表情が忘れられない。なぜに自分がいけないことをしているのか、理解できていないのが恐ろしいと思ったから。それほどまでに切羽詰まった生活を強いられてきたとでも?
だからこそである。ああいうものをメアリーに見せたくはないから。それだけではない。他の入院患者たちも離れ病棟とは言え、接触することはあるだろう。余計に不審がられて、本部対策の存在がコインスト及び、反政府軍団に見つかってしまう可能性だってある。止めさせることを徹底しなければいけない。
「一応、聞き入れてはくれたが……」
それが果たしてとなると、不安は拭えない。なんとも言えないアイリが「そうですか」と相槌を打つと、ハイネが微かに動いた気がした。それを二人は見逃さない。彼女は作業を中断して、そちらの方へと向かう。
足音を鳴らす度に小さく動きを見せた。だが、まだ目は閉じられたままである。
「起きているんでしょ?」
アイリの言葉にハイネの眉は僅かに反応した。
「起きてくださいよ、『クラッシャー』先輩」
そして、キリと同様に一年間眠りについていた者はその声で目を覚ました。




