目覚
とても温かいと思った。辺り一面が月夜の花畑。優しいにおいが自分に当たってくる。ここはどこなのだろうか、とわからずとも歩いてみる。一歩一歩、足を動かす度に穏やかな時間が流れている気がしていた。
――どこだろう。
行く宛てもわからずに、ただ歩くだけ。歩けば歩くほど、夜空に浮かぶ月を見るほど、懐かしい記憶がよみがえってきそうだった。だが、気がするだけである。思い出したくても思い出せない。なんだか悲しく思えていると、どこからか声が聞こえてきた。
花畑には透き通るような誰かを呼ぶ声。誰かいると安心を持つも、見当らない。誰もだ。ここにいるのは自分だけ。それでもきっちり、はっきりとそれだけは聞こえていた。
ねえ、教えてよ。現れてよ。一人ですごく寂しいんだ。
答えはない。
ここがどこだか、わからないんだ。教えて、ここはどこ?
答えはない。
ねえ、きみの名前は? あれ――?
思考が止まった気がした。頭には先ほどから聞こえる声が入ってくる。楽しいとも哀しいとも思わない、不思議な声。
もういいやと思った。本当は思い出さなければならないはずなのに。それでも、どうでもいいと感じていた。何もかも投げ出してこの声を聞いていよう。そう考えて、目を閉じる。ああ、はっきりと聞こえてくるよ。その声が。
――本当、誰だろう?
◆
うっすらと目を開ける。真っ先に映ったのは白い天井。どうやら寝ていたらしい。ここはどこなんだろうかと目線を動かすと、傍らにどこかで見覚えのある少女がいた。金色のウェーブのかかった髪に青色の目。ああ、誰だっけ――。
「ようやく、目を覚ましたかい?」
少女というのは幻覚だったようだ。声に気付いた。今、目の前にいるのは少女ではなく老婆だったのだから。誰だろうと真っ先に思う。見知ったような顔をしていては、全く知らない人物だったからである。
「全く、心配をかけてから。ちょっと待ってな、ラトウィッジたちを――」
「誰?」
連絡通信端末機を取り出そうとした老婆にそう言った。その直後に固まり、ベッドの上で横になっている少年を見た。伸びきった髪に純粋無垢な薄い青色の目をしている。
「貴様、今なんて……?」
そう問う老婆に少年はもう一度口を開いた。
「おばあちゃん、誰?」
◆
青の王国の現在の国王の王母に値するエレノアに呼び出された。王国軍の軍基地施設内にある離れ病棟の廊下を早足で歩く二人の男女。一人は金色の髪とひげを蓄えた中年男性。王国の軍服を着て、記章や勲章を装着している。もう一方は黒髪の外はね系ショートカットヘアーに白衣を身にまとった少女だった。
「彼が目を覚ましたって?」
少女――白衣の胸ポケットには名札が着けられている。その名はアイリ・ハルマチ。彼女は横目で男性――ラトウィッジを見た。
「ああ。そうエレノア様から連絡が入ったが、大至急来るように、と」
「なんでまた?」
「さあ……」
少なくとも、エレノアに危険はなさそうだ。
ラトウィッジは鬼哭の村での出来事を一年経った今でも覚えていた。黒煙の間から見えたあの狂気の少年の姿。周りを見るその目は何かに怯えていた様子であった。もしも、彼のような暴れっぷりを発揮されたならば、エレノアはメールなんてしている場合じゃないのだから。二人は彼女がいるであろう、病室へと入った。
「失礼しますっ!」
ラトウィッジたちが見た光景は、困惑した様子で椅子に座っているエレノアに――病人用のベッドはもぬけの殻だった。そこにいるはずの人物の姿は見えない。
「え、エレノア様! 彼は!? まさか、脱走!?」
「違う」
どう答えたらいいのかわからないのか、エレノアは指を下に向けた。なんとなく察しでもついたのか、アイリはベッドの下を覗き込んだ。つられてラトウィッジも見る。
いた。ベッドの下に。
「ひっ!?」
見つかったことが恐ろしいとでも思っているのか、その下で誰かがブルブルと震えていた。なんだこの状況は、と立ち上がってエレノアに訊ねる。
「何がどうしたら、こうなるんですか」
「それはこっちのセリフだね。いきなり、起きてから怒られるって言って、下に隠れたものなんだから」
「逃げはしなかったんですね」
逃げようと思わずに済んでよかった、とラトウィッジが一安心する。一方で、未だベッドの下を覗き込んでいるアイリは「ちっ、ちっ、ちっ、おいで、おいで」と下にいる人物に向かってその扱い。
「ハルマチ、彼は動物じゃないんだぞ」
「いや、動物じゃないにしろ、ここから出さないと埒が明かないでしょ」
それはもっともであるが、もっと別のやり方でやるという選択肢はないのだろうか。これでは不憫だ、と思っていると――「ラトウィッジよ」そう、エレノアが声をかけてくる。
「この子、厄介だよ」
「厄介とは?」
二人の会話にアイリも顔を上げた。ベッドの下にいる人物は未だ怯えている。
「そこの下にいるキリ・デベッガは記憶を失っているね」
その事実にラトウィッジとアイリは硬直した。だが、彼だけはすぐに硬直状態を解き、どういう意味だと説明を要した。
「嘘じゃないさね。私のことを全く覚えていないようなんだ。『おばあちゃん、誰?』って言われたよ」
ベッドの下にいる人物、キリはエレノアのことを全く知らないわけでもない。何度も顔を合わせているし、会話も当然したことはあるはずだ。その現場をラトウィッジは知っていた。だから、信じられなかったのだ。
「記憶がない、ということは――」
膝をついているアイリを見た。彼女は二人に向かって口を開く。
「彼が目を覚ましても……今のところ、あたしの記憶は何一つ戻っていませんねぇ」
困ったものだ、と腕を組んで渋った様子を見せる。それは何もアイリだけあらず、ラトウィッジたちもまた眉をひそめていた。キリの記憶が鍵となっていることか。そうとなると、厳しい状況にならざるを得なくなってしまった。
キリは一年前から全く目を覚まさない状況に陥っており、それが原因でアイリの記憶が欠落している物だと思っていたのだが――そうではなかった。彼の記憶がないから彼女の記憶も欠落しているのである。
「でも、まずはベッドの下から出しましょうよ」
「ああ」
アイリとラトウィッジは再び、下を覗き込みながら、キリを呼んだ。
「おぉい、出ておいでぇ。おやつあげるからぁ」
そう言うアイリはまるで餌付けでもするかのように、ポケットに入れていた小袋のお菓子をチラつかせていた。そのやり方を改めてくれないだろうか、とラトウィッジは思いつつも、彼も呼びかける。
「デベッガ、こっちに来い。訊きたいことがあるのだから」
それでも一向に出ようとしてこない。頭を抱えて、怯えているだけ。それにため息をついた。
「誰もきみを怒ったりなんてしないから」
そう言うと、キリは不安げな表情でこちらを覗き込んでいる二人を見た。なんだかこの状況は虐待でもしているかのような気持ちになってくるようだ。
「……怒らない?」
「ああ」
「殴らない?」
「そうだ」
ラトウィッジは片眉を上げた。
「蹴ったりもしない? 俺を殺そうとしたりも?」
「……もちろんだ、だから出ておいで」
そう言われても疑心を抱きながら、キリはベッドの下からもそもそと出てきた。そんな彼にアイリは「よくできました」とそのお菓子を差し出す。
「はい、お菓子」
小袋に入ったそれを見つめて、小首を傾げる。これがなんであるかわからないらしい。アイリの方をじっと見てくる。その途端にキリのお腹から音が鳴った。
「お腹空いているなら、それ食べてもいいんだよ?」
それを指差して教えてあげると、キリは袋ごと口の中へと放り込んだ。あまりにも衝撃的過ぎて、三人は吐き出すように言う。
「いやいやっ! 袋に入っているじゃん! そのまんまはダメでしょ!」
「……わかんない」
なんとか吐き出したかと思えば、そう言ってきた。これに三人は顔を見合わせる。キリの記憶紛失は相当厄介なのではないのか、と。どうしたものかと頭を悩ませながらも、エレノアが袋を開けてあげる。彼はその中身の物を取り出して食べた。ほんのり表情が柔らかくなる。だが、食べたのは小袋に入ったお菓子である。それだけで物足りるはずもない。
それでも、お菓子を食べ終わると、キリは「帰らなきゃ」と言った。
「ここ、どこ? 山に帰らないと、村長に怒られちゃう」
知らない場所にいることに不安があるのか、怯えた様子でラトウィッジの方を見てきた。村長に怒られる。キリが鬼哭の村にてひどい迫害を受けていたことをナオミたちから事情を聴取してわかったのである。いや、先ほどのやり取りでわかる事実だと言えよう。
ただ、二十年近くも前に起こった黒の皇国侵攻戦の際、キリの実父が一人王国を裏切っただけだ。それだけなのに、彼の母親である皇国人とまだお腹の中にいたキリは全くの無関係なのに。どうもこの怯えよう、キリの記憶はすべて失ったわけではない。迫害を受けていた時期だけの記憶は残っているようだ。
「デベッガ、きみは帰らなくてもいいし、もう村長に怒られることもない」
今のキリに自分たちがしてあげられるのは、この場にいて安心感を持たせることである。このまま脱走されてはたまらない。もしも、コインスト及び、反政府軍団と出会ってしまったならば? まだ彼はアイリからもらったはずの過去の歯車の所有権を捨ててはいない。いや、このありさまなら所有者であることすらも知らないだろうし、彼女が所有権を奪い取る術も知らないのだ。それ故にである。
「ここが今日からきみの居場所になる」
「ここが、俺の?」
「そうだ」
下手なことは言えない。記憶が元に戻るまで、キリを語らない現状維持が一番大事である。
「ハルマチ、彼にご飯でも持ってきてやれ」
「はぁい」
ラトウィッジはアイリにそう指示を出す。彼女は素直に従って、部屋を出て行ってしまった。彼女がいなくなって、キリは――。
「……本当に帰らなくてもいいの?」
まだ不安らしい。そう訊いてくる。その心配事を和らげようとエレノアは優しく頷いた。
「安心しなさい。そりゃ、貴様が悪いことをしたら怒られるだろうが、現に何もしていないんだから」
「そうだ。きみの身柄は我々が預かっているから、大丈夫だ」
「ありがと、おばあちゃん。おじさん」
目覚めて初めて笑顔を見せてくれた。いや、キリの笑顔は初めて見た。その表情は十八歳の少年とは言いがたい小さな子どものような無邪気さがある。
「そうとなれば……ご飯食べたら、髪でも切ってあげるかね。またこんなに伸びてからに」
キリはさして気にしていないようではあるが、一年も眠っていたのだ。彼の髪の毛は肩以上に長くなっていたのだった。
◆
しばらくして、アイリがお盆片手に部屋へと戻ってきた。
「看護師さんに言ったら、粥がいいって」
そう言いながら、テーブルの上に置いた。それを眼前にして、キリは三人を見る。これを勝手に食べてもいいものかと不安になっているようだった。
「食べてもいいんだよ。これ、キリ君のだから」
アイリにそう言われて、キリは早速粥を食べようと、器の中へ手を突っ込んだ。そして、それを手掴みで食べ始めるのである。そうだった。袋という存在を知らずして、あれごと食べようとしていた彼だ。スプーンという概念は知らないに等しいはず。三人は慌ててキリを止めた。スプーンを使って食べなさいと言うも、全く使ったことがないらしい。
「何これ」
スプーンを見て、首を傾げる。村では嫌われていたにしても、ここまでなものなのか、と。仕方なしに、エレノアが使い方を教えてあげることに。多少のぎこちなさはあるものの、キリの体は覚えていたらしい。それを使って食べることがかろうじてできた。
「ここまでひどいとは思いませんでしたよ」
「そうだな。今までのデベッガは、彼を育ててくれた義両親には感謝しないと」
キリが十歳前後から十四歳まで育ててくれた若夫婦のことも聞いている。児童保護センターで養子受入許可を得て役所にも登録している。当時の担当からもきちんと躾をしていると評価をしていたようだ。もし、彼らがいなければどうなっていたんだろうか、とラトウィッジは思った。彼を育ててくれた若夫婦はこの世にいない。あの事件後に片っ端から村中を捜索していると、村はずれの誰もいない一軒家の裏の地面下に白骨化した遺体二つが見つかった。どうも村人たちが一度掘り起こしてまた埋め直したらしい。これは、今は亡き村長の指示だったようである。
キリは育ててくれた義両親に出会う前の記憶しかないのだ。変な悪癖が出なければいいのであるが、と悩む。そんなラトウィッジにアイリは「大丈夫ですか」と訊ねてくる。
「顔がお疲れみたいですねぇ」
「いや、彼の変な悪癖とかがなければいいのだが、って思ってなぁ」
「あぁ、完全に野生児みたいな感じでしたもん。あるでしょ、野生に育てられた人とか」
「どうだろうか? 彼はそうではないのかもしれない。村人たちに山の方に独り追いやられて、食事はほとんど与えていないらしいが……それでも人とのコミュニケーションは悪い方じゃない」
本当に野生児であるならば、人の言葉など持たずして病室内で喚き散らしているはずだろう。村人たちの証言では言葉はわかるとのことだったから。もしかしたならば、最低限の言葉くらいは教えていたのか。それとも山から見える村人たちの言葉を聞いて覚えたのか。
「何が悲しくてあんな扱いを受けるんですかねぇ」
「さあな」
「あんなことしなければ、村はあんな惨状になることはなかったのに」
皮肉とでも言うべきか。キリを殺そうとしていた、考えていた村長は首切り死体として見つかっている。彼からの報復なのかもしれない。
鼻で小さくため息をつくラトウィッジは「行くぞ」とアイリに促す。
「デベッガが目を覚ましたことは大きな進歩なのだから」
「ラジャー。それじゃあ――ばあちゃん、キリ君、またねぇ」
後のことはエレノアに任せよう、と二人は部屋を出ていってしまった。それを見送るキリはほんの少しだけ寂しそうに手を振っていた。だが、それは彼らが気付くことはなかった。
◆
病棟の地下の方へと向かう二人は無言状態であったが、ややあって、アイリが口を開いた。
「いやぁ、さっきのばあちゃんを見ていると、本当に孫の世話をするばあちゃんそのものですねぇ」
「変なことを言いよってからに。そういうことをあまり発言するなよ」
地下のとある部屋へとラトウィッジたちは入室する。そこは多大な資料やコンピュータなどが存在していた。部屋の中は現在無人状態。本来いるべき者たちは地上の方へ行って休憩でも取っているのだろうか。
アイリは給湯コーナーで自分とラトウィッジの分のお茶を淹れた。そして、彼はそれを受け取り「ハルマチ」と彼女に話しかける。
「デベッガが目を覚ます、記憶を取り戻す以外に記憶を取り戻す方法はないか? やはり、あの本に書かれている文字は全くわからないか?」
「そうですねぇ」
自身のデスクに散乱する資料を漁る。ごちゃごちゃと整理されていないせいか、お目当ての物が見つからない状態でいた。やがて、雪崩のように床の上に資料は落ちてしまった。
「あーあ」
「……ちょっとは整理をしろ。ハルマチだけだぞ、その机は」
「そう言われましてもですねぇ、ディースさんの記憶からして、彼女も片付けるのは下手くそだったそうですよ」
「他人事のように言えるならば、整理をしようとする心意気はないのか」
見てみろと他の者たちの机を指し示す。ここにある個人用デスクは全部で六つ。その内の一つ、アイリ机上は高く、雑に積み上げられた資料の山。他の五つは小奇麗にまとまっていた。
「そんなこと言われましてもぉ」
「いいから、片付けなさい」
「いや、そうは言っても? 後で隊長と行くところがあるんですよ、だから――」
適当に言い訳をしようとしたとき、部屋のドアは開かれた。一人の人物が入ってくる。
「お疲れ様です」
「どもです」
そこに入ってきたのはブレンダン・リスターという男である。彼は元々学徒隊副隊長として在任していたのだが、王国軍を脱退後、赤の共和国に移住をしていた。しかし、今はこの対策本部――オリジン計画対策本部の研究員の一員としてここに在籍しているのである。専門は生物学でも電子学でもない考古学。つまりはアイリが持っていたピンク色の分厚い本の文字の解読をするために呼ばれているのである。これでもブレンダンは語学や考古学に関しては博識がある方なのだ。
「調子はどうですか」
「定例会議同様です。どこの資料を探しても同じ文字は全く見当たらないし、文章構成にしても不可解。暗号にも見えないんですよねぇ。ねえ、ハルマチさん、何か思い出した?」
「いいえ。それにキリ君が目を覚ましても何も記憶は戻っておりませぬ」
キリが目を覚ました、と聞いてブレンダンは「それでもよかったね」とどこか安心したような顔を見せた。
「どの医者が見ても原因不明だったんでしょ?」
「そうです。原因不明かつ、彼自身の記憶もないに等しい」
アイリとラトウィッジは簡単に今のキリの現状を伝えた。その話を聞いて、ブレンダンは目を丸くするばかり。まさか、そうなるとは考えがつかなかったのだから。いや、当然だ。いきなり、意識不明になって、目を覚ましたら人生の半分近くの記憶が消失しているのだから。誰だって疑うのも無理はない。
「それじゃあ、地道に解読して行くしかないですね」
「そうとは限らないっスよ」
アイリのその発言に二人は注目した。まだ策はあるのだ。キリの目覚めが頼りなだけではないのだから。そうとでも言うように、彼女はコンピュータの画面を軽く叩いた。
「今、エイケン教官とルーデンドルフ教官と一緒にやっているやつが成功すれば、あたしの記憶もキリ君の記憶も取り戻せる可能性があります」
「本当にそうか?」
「理論上はできるはずです。明日にあれをやるつもりだそうで」
なんて得意気に言いながら、コップを自身のデスクの上に置いた瞬間、僅かに小さな振動で再び資料の雪崩を起こしてしまう。なんとも格好がつかないと二人が苦笑しつつも生温かな目を送っていた。アイリは面倒そうにそれらを拾い上げながらも肩を竦める。
「一応それの立会人はあたしになります。その最初の実験つーか、なんと言うか。それをした結果で……いや、しようと試みる時点で賛否論は大きく別れるでしょうね」
「あれのことか。それならば、彼らも言っていたな。成功も失敗も公でなくとも評価その物はとてつもないものになる、と」
「でも、それを別に公に出すことはないんです。黙っていりゃ、バレるかバレないかはわかりませんが……やるしかないんです」
アイリの頭に過るはとある青年と少年である。彼女の言うそれに不安はないわけではない。むしろ、彼らの反応が怖いと思っているのだ。
◆
キリの病室から別のフロアにある病室では一人の女性が眠っていた。体中に管がつながれ、その姿があまりにも痛ましく思える。部屋中には色とりどりの花が活けられていた。随分とたくさんの見舞い人が来ているわけではない。今日もまたバスケットに入ったピンク色の花を手にしてやって来る少年がいた。その後ろには高身長の青年がいる。
「こんにちは、今日も来ましたよ」
そう優しく声をかけるも返事はなし。当然かと、少年――ワイアットは空いているテーブルの上に花を置いた。その間、青年――セロは椅子を引っ張り出してきて、座る。
「いつも通りだ。チビたちは元気にしているよ。ハイネ」
ハイネと呼ばれた彼女は人工呼吸器で呼吸をするだけ。彼女がこの病院に運ばれた直後、ハイネとその兄であるハイチの親代わりであるヒノの行方を知った。旧灰の帝国にある誰昔山道の頂上付近にあるコテージ内で見つかっていたのだ。周りに血の跡があることから、誰かに殺害されたようだ。
もし、鬼哭の村で爆発事件が起きていなければ、どうなっていたのだろか。間に合っただろうか。それとも、殺害現場として目の当たりにするのだろうか。依然として、どちらが正しかったのだろうか、とセロは思う。
ヒノが亡くなったという知らせの後、セロは彼が経営していた託児所を受け継いだ。最初は町の人たちから微妙ななんとも言えない反応を受けたりもしたが、従業員も雇ったりして――自分が知っているような状態にまで回復した。それにワイアットも手伝ってくれる。いつでもハイネが戻ってこられるように、と。
二人は毎日こうしてやって来ては今日の出来事やニュースになっていることなどを返事ができないハイネに話して帰るのだ。その託児所からこの病院まではかなりの距離があるのに。それだけ彼らは彼女の目覚めを待っているのだ。
延命――そう言われて、つながれたたくさんの管。見ていて気分が悪く感じるが、きっと帰ってくると望み、心のどこかで強引に納得する自分たちがいた。
――早く目を覚ましてくれますように。
◆
「それじゃあ、私は行くから」
キリとお話をしていたエレノアは椅子から立ち上がった。そんな彼女に「もう帰るの?」と寂しげに見てくる。もっとお話をしたい様子ではあるようだ。
「もっと、お話聞きたい」
今のキリを見ていると、幼い孫たち――メアリーたちを思い出す。みんなで一緒の大きなベッドに入って、おとぎ話をしたりする。やがて、寝る時間になって、お話お仕舞いと言うと、まだ聞きたいとせがんできていた。思えば、あれはまだ寝たくなかったからそう言ってきたのだろうが。
「明日、また来るよ」
「本当? 明日また来てくれるの?」
もうすでに明日が待ち遠しいとでも言っているように、こちらには子どものような視線を送ってきていた。
「うん、約束するから。それじゃあね」
エレノアはそう言って、部屋を出ていってしまった。キリはテーブルに置かれている絵本を見た。彼女からもらった物だ。初めて人から物をもらった気がする。もう一回読もうと、それに手を伸ばしたとき、ノック音がした。音が止んでしばらくすると、エレノアに少し似た誰かが顔を覗かせる。
互いに目が合った。それに驚いたのか、その人物はドアを開けた。
「で、デベッガ君、起きたの!?」
エレノアと同じ金色の髪を持つ誰か――メアリーは嬉しそうに部屋の中へと入ってきた。そんな彼女にキリは困惑した様子でただ、茫然と見つめている。
どこかで会ったことのある子、青色の花の髪飾りが印象深い。自分の知り合いだろうか、名前を呼ばれた。
自分の名前は聞いた。自分はキリ・デベッガ。『罪人の子』とはもう呼ばれない。それが今の自分の名前。そう、呼ばれないからこそ嬉しさはあるが、目の前にいる人の名前は知らない。しかし、どこかで見覚えはある。どこであった?
【だいじょーぶ?】
【ばいばい】
――あっ。
思い出した。この人物はあのときに会った女の子だ。結局名前を訊けなかったから知らないのも当然だった。そうだ、この子に会ってしまったから――。
【村の方に下りてくるなと言ったはずだ!】
耳元で村長の怒鳴り声が聞こえてくる。もう、山の方に帰らなくてもいいと言われても、その恐怖心は完全に消えることはない。心の根っこに絡み合っているようで、なかなか取れないこの感覚。引き抜きたくても抜けやしない。ああ、恐ろしい。怖い。
「…………」
なんだかいつものキリとは様子が違う、とメアリーは思った。彼が目を覚まさなかったのは原因不明の病気のせいだと聞かされていたが、とてもそうとは言いがたい気がする。
「デベッガ君、大丈夫?」
不安気にキリを見る。何かに怯えきったその目は虚空を見て体を震わせていた。ややあって、頭を抱えだし、何か呟くように言い出す。その場で小さくなる。声が小さくて聞こえないから、近付いた。
「……痛いよ……。嫌だ。もう、嫌だ……痛いのは嫌だ……」
――痛い? 嫌だ?
「私は何もしないよ?」
そう言ってもキリは聞く耳を持たない。自分のせいでこうなってしまったのだろうかと怖くなってしまう。でも、実際にメアリーは何もしていない。ただ、この部屋に来て声をかけただけ。こっそり王城を抜け出して、お見舞いに来ただけなのに――。
どうしよう、しどろもどろしていると――「入るよ」そう、エレノアが入ってきた。
「忘れ物をしてしまったみたいだよ。……メアリー?」
「お、おばあちゃん! どうしよう!? デベッガ君が……!」
人が違うみたいにして、ブツブツと呟いている。そんなキリが怖くて――。
状況を察したエレノアはすっとキリのもとへと行き、優しく背中を擦った。手も握ってあげる。
「……安心しなさい。もう、あの山には帰らなくていいんだ。村長に怒られることもない、殴られることもない、蹴られることだってない」
「…………」
「怖がらなくてもいい。この子は私の孫。キリの友達さ」
徐々にキリから漂う恐怖心が溶けていっているようだった。震えも収まってきている。
「怖くない?」
「うん、怖くない。大丈夫、大丈夫。大きく深呼吸をしてごらん。そう、落ち着いたかい?」
ふっ、としたようにして完全に平気なのか「うん」と頷いた。
「ありがとう。『おばあちゃん』」
キリが落ち着いた頃を見計らって、エレノアはメアリーを連れ出した。廊下に出て、彼女は不審そうにしている。当然だろう。
「……おばあちゃん、あの人誰?」
一番に訊きたいことだった。見た目は明らかなキリではあるが、あんな彼を見たことはなかったから。それに、自身の祖母を『おばあちゃん』と呼ぶなんて。前は『エレノア様』と言っていたのに。
先ほどの光景に怪訝そうな面持ちをするメアリーに、エレノアは隠しきれないと考えたのだろう。すべてを打ち明けた。キリの記憶のほとんどが失っていること、残った記憶は故郷の村で迫害を受けていたことや普通の生活ではない生活を強いられていたこと。その話を聞いて彼女は嘘だと思っていた。
「でも、私……そんなこと聞いていない」
「メアリー。仮に覚えていたとしても、誰にも話したくはないと思うよ」
その通り。キリは今の今まで、誰にも話さずして生きていた。嘘をついてまで、誤魔化し、過ごしてきたのだ。
「私、どうすればいいの?」
訊きたかった。話があると聞いて、一週間後に王国へ帰って来てみれば、深い眠りについた少年がいた。そして、ようやく目を覚ました彼は自分のことなど一切覚えていないだなんて。悲しかった。ああ、切ないってこういうことなんだなって。自然と涙があふれ出てきた。ポロポロとこぼれる涙。話し自体を忘れるのは構わない。けれども、自分自身を忘れられてしまっているのは心が痛かった。好きな人だから、なおさら。エレノアは優しく、メアリーの背中を擦った。彼女の気持ちは痛いほどわかるから。
今日はもうキリと会うのは止めた方がいいと判断し、メアリーを連れてその場を後にしようとしたとき――。
「おばあちゃん」
「メアリー?」
「記憶がないなら……もう一度、最初からすればいいんだよ」
そう言うと、メアリー涙を拭い、再びキリのいる部屋へと入った。彼は窓際に立って、外を見ている。物音に気付いたのかこちらの方へと振り向いた。
「…………」
無垢な薄青色の目がメアリーの姿を捉えている。
「泣いてるの?」
目が腫れているのに気付いたキリがそう言った。メアリーのもとへと近付く。愁眉を見せて「大丈夫?」と訊いてくる。
「うん、ありがとう」
もう拭ききったはずの目をもう一度擦った。心配されないように笑顔を見せると、キリも無邪気な笑顔を見せてくれたこれまで見てきたものと違って、裏のない表情。
「もう大丈夫だよ」
「そうなの?」
「……あのね、デベッガ君。私の――」
自分の名前を言おうとしたとき、キリは首を横に振った。
「俺のことはキリって呼んで欲しいな」
正直な話、『デベッガ』と呼ばれるより、『キリ』と呼ばれた方が好きだった。そっちの名前の方が自分の存在という物を再確認できる気がしたから。だから、キリはそう言う。
「えっ……」
「だから、名前……教えてくれる?」
ずっと前に訊きそびれていたことがあった。村に遊びに来ていた青いリボンの女の子。いつか会えるか、わからずして、再び出会えた彼女の名前をようやく訊ける。
「前に、訊きそびれてたから」
その言葉にメアリーは驚きを隠せない。キリはあのときのことを覚えていた。記憶を失っているはずなのに。どうして、それは覚えてくれていたんだろうか。あまりにも嬉しくて、彼女はまた泣いてしまった。涙をこぼす彼女に、動揺とする。なぜに泣くのだろうか。
「お、俺のせい?」
「ううん、違うよ。デベッガ君……キリ君は悪くないよ」
すごく嬉しかった。次から次へとあふれ出てくる嬉し涙。
「あのね、キリ君。私の名前はメアリーって言うの」
「そっか、メアリーって言うんだ」
名前を教えてくれてありがとう、とキリは歯を見せて笑うと――「それで」そう、彼女の手を握ってきた。
「メアリーはどんなお話をしてくれる?」
「えっ、お、お話……?」
唐突にそう言われ、戸惑いを隠せない。今度はこちら側が焦る番である。
「そっ、お話。色んなお話を聞きたいんだ」
「お、お話って言っても。何のお話をしたらいいのか……」
「おばあちゃんは昔話を教えてくれたんだよ」
そう言って、キリは手を引いてテーブルの上に置かれている絵本を見せてくれた。新品ではないそれはメアリーも知っている物だった。幼い頃、エレノアにせがんで聞いた物語。
「ああ、これ見たことがあるよ」
絵本を手にとって、メアリーがそう言う。それにキリは目をキラキラとさせていた。
「そうなの? これ面白かった」
「うん、これ私好きだよ」
ぺらぺらとページを捲り、懐かしい憧憬を思い出す。
【おばあちゃん、よんでぇ】
【はい、はい】
ベッドの中に入り、その傍らにはエレノアが絵本を持って椅子に座っている――。
「メアリー?」
昔の頃を思い出そうとするメアリーに声をかけた。
「あっ、ご、ごめんね! えっと、お話だっけ?」
「うん」
早く聞きたい、わくわくとした様子でキリは椅子に座った。つられて、向かいの席に座って自分が知っているお話をし始めるのだった。
◆
「失礼しまぁす」
なんとも間延びした声のアイリと共にエドワードはある部屋へと入室した。ここは王国軍の基地の敷地内にある研究施設。彼らがここに用があるのは謝礼をしに来たのである。
「ああ、どうも。お待ちしておりましたよ」
二人を歓迎してくれたのは細身の老人である。
「武器の件、ありがとうございます。社長」
そう、この老人は王国内最大の武器メーカーであるグリーングループの社長である。この会社、武器のみならず、軍事関係の備品を開発しては卸しているのだ。また他国にも輸出したりしていたりもしている。そして、何よりオリジン計画対策本部の彼らに協力してくれるそうで。ここで異形生命体と退治するための武器を開発してくれていたのだ。
丁寧にお辞儀をされ、老人――社長は「頭を上げてください」と言う。
「我々こそ、貴重なサンプルを提供いただいてありがたいです。ええっと、ハルマチ殿でしたかな? あなたの助言もあって、大いに開発が盛り上がっておりますよ」
「ははっ。でも、そちらさんが『絶対に千切れないロープ君』や『貫通君』を作っている時点で、そのサンプルが必要かわからないんですけれどもねぇ」
見本として近くに置かれていた灰色の刃をアイリは手にして言った。だが、それでも必要ではある、とグリーングループの社長は言う。
「いいえ、十分に嬉しい限りですよ。そもそも、貫通君は大量生産ができない、極めて偶然にできる代物なんです。それにとある企業から取り寄せた対異形生命体の武器作りの材料を見極めましたけれども、上手く行かなくて……」
「ほぼ、惜しいみたいな?」
「いいえ。とある資料を見せてもらったとき、これで実験してみたいと思えば……全く以て使い物にならなかったんですよ。だから、こうして『MAD細胞』という硬品質の物を手に入れることができたのもラッキーなのです」
社長は奥の方に置かれていた黒い何かの塊――MAD細胞を持ってきた。
「今はこれで対異形生命体の武器を試作しております」
それはそれで大いに期待ができそうだと思う反面、アイリは一つのことで心配があった。
「……社長。ネーミングセンスはもうちょいカッコいい物にしてくださいよ?」
社長が手に持つMAD細胞を見てアイリは苦笑いをしていた。
◆
お話が終わった頃にはすでに日も落ちていた。薄暗い中でメアリーはもう帰らなければと残念そうな表情を見せる。それはキリも同様であった。彼女が部屋を出ようとすると――。
「ねえ、また明日も来てくれる?」
手を握ってそう訊いてくる。それにメアリーは「もちろんだよ」と答えた。
「そうだ、明日はお菓子を作ってくるよ」
「本当? 嬉しいなぁ」
お菓子と言えば、目を覚ましたときにもらった物の味を思い出す。甘くて美味しいと感じた物。そういう物であるならば、大歓迎である。
「楽しみにしているから」
「うん、腕をよりにかけて作ってくるから」
またね、とキリは廊下でメアリーの後ろ姿を見送った。名残惜しいとほんのちょっぴり憂いある表情を見せていると――。
「何してんの?」
後ろから声をかけられる。振り返れば、そこにはアイリがワゴンを引いてやって来ていた。
「あっ、えっと……」
数時間前に会ってはいたが、名前を知らない白衣の彼女にたじろぐ。そんなキリをお構いなしに彼の部屋の方へと入っていった。
「ほら、ご飯食べようよ」
「えっ、ご飯?」
数時間前に食べたばっかりなのに、また食べるのだろうか。キリは疑問を頭に浮かべつつ、自室へと入る。テーブルには夕ご飯が並べられていく。
「ご飯、さっき食べたよ?」
「へっ? 粥以外に何か食べた?」
エレノアにでも何かもらったのだろうかと考えていると、どうやら違うらしい。
「ううん。でも、お昼に食べたでしょ?」
「いや、あれは昼ご飯でしょ? 夕ご飯食べていないでしょ?」
「え?」
どうも話が食い違っている。
もしかしてと思った。ラトウィッジたちから村での迫害の件について聞いていたが――キリにとって食事は一日に一回だとかそういう常識になっているのだろうか。
「……ねぇ、今までご飯は一日に何回食べてた?」
「一回だよ」
少ない量に一回だけでよく栄養失調にならなかったな、とアイリは逆に感心してしまう。それだから、細身だということでもあるようだが――。
「教えておくけど、ここで生活するに当たっては三回だけど。食べきられない?」
テーブルに並べた物を指差す。美味しそうなにおいがキリの鼻を刺激してきた。途端にお腹が空いてくる。今なら、二人分を食べられそうな気分だ。
「食べる」
キリは椅子に座ってご飯を食べ始めた。エレノアに教わったスプーンを使って。
アイリもまた腰かけて食べようとするが、椅子が温かかった。誰かここに来たのか、それともキリが座っていたのか。なんて考えていると、彼が話しかけてきた。
「そう言えば、名前を聞いてなかったから教えて」
あれ、していなかったっけか。思い出そうとするが、先ほどまで忙しかったアイリにとってはすっかり忘れてしまって記憶になかった。それならば、していなかったんだなと自己判断をすると――「アイリだよ」そう、答えた。
「改めてよろしくねぇ」
「うん。ねえ、アイリはメアリーのことを知ってる?」
エレノアから聞いたか? その質問にアイリは「知ってるよ」と返した。
「友達だし」
「アイリもなの? 俺もだよ。今日、メアリーにたくさんお話を聞かせてもらったんだ」
そう絵本の表紙を見せびらかした。その無邪気あふれる笑顔を見て、アイリは――ああ、こういう風にしてすてきな笑顔をする人なんだなと思う。年齢は聞いているが、年相応の表情であるとは言いがたいが。
うん、待てよ? メアリーにお話を聞かせてもらった?
「あれ? メアリー、来てたの?」
「え? うん」
来ていたのであれば、少しばかりお話をしようと思っていたのだが――仕方あるまい。また来るときがあるだろう。そのときにすればいいかと先延ばし決定をする。
「でも、明日も来るよ」
スープをすくって飲むことを難しそうにしているキリのその言葉に「そうなの?」と目を丸くした。
「メアリー、明日も来るの?」
「うん、約束したんだ」
「ふぅむ、来るんだったら……」
また明日もこの病室に来よう。
――ここ最近会っていなかったからなぁ。
というのも、すれ違いが多い。メールなどでのやり取りはしているものの、アイリ自身は対策本部での仕事はあるし、メアリーに至っては王族としての公務もある。なかなか会えない状態だったのである。明日来るという情報を仕入れたならば、話は早い。
「アイリもメアリーのお話聞くの?」
「えっ? あぁ、うん。そんなところだねぇ」
「じゃあ、来てくれるんだ」
「うん。ていうか、明日の朝や昼にまた会うと思うよ? ご飯持ってくるし」
「じゃあ、一緒に食べよう!」
「いいよぉ」
キリと会話をしていて、アイリは本当に記憶が欠落した状態でよかったのだろうかと不安になり始める。彼との会話は嫌いではない。むしろ、楽しいと思う自分がいた。しかし、自分がキリの記憶を取り戻したら? 彼が自分の記憶を取り戻したら? どうなるのかが怖かった。わからないから。想像つかないから。自分たちはどういう関連性だった? と誰かに訊くのは構わないが、今はそういうことを誰かに訊いている場合ではない。明日からは食事の時間には来られたとしてもそれ以外は忙しいのだから。
それは己にとってもキリにとっても重要となること。必然的とでも言えよう。
それから夕食を食べ終えて、アイリが食器類をワゴンに乗せていると、キリは真っ暗な外が見える窓辺に向かって――。
「――――」
アイリにとって、耳を疑うような発言が聞こえた。今ある記憶の中でのキリはそうしていたのか。そのお祈りはあまりいただけないなと怪訝そうな顔を見せる。だが、ラトウィッジは言っていた。下手に記憶を刺激するようなことは言わないように、と。
目覚めてすぐにベッドの下に逃げ込むほどのあの有り様だ。その提案に異論はないのだが、報告ぐらいはさせてもらおうか。
「…………」
アイリは食器を片付けると、絵本を選んでいたキリに「じゃあね」と言葉をかける。
「ゆっくり、お休みなさい」
「うん、ばいばい」
◆
オリジン計画対策本部会議室にて。その部屋は地下に存在し、外からの光を受けない場所のため、照明が頼りだった。テーブルの席には七つある。それらの席には七人が座っていた。
「全員揃ったところで始めようか」
上座に座るラトウィッジが告げると、残りの六人はそれぞれ相槌を打った。
「今回は先に私の口から言わせてもらおう。もう知っている者もいると思うが、キリ・デベッガが目を覚ました」
ラトウィッジのその言葉に事実を知らぬ者は反応を見せた。
「それはよかったじゃないですか。これで、リスター氏の解読も捗るのでは?」
ラトウィッジの隣に座っていたエドワードがブレンダンの方を見た。それに彼は「残念ながら」と首を横に振って否定する。
「先月と変わらずしてあの本の内容はほとんど明らかになりません。膨大な資料の基に文章構成パターンを解析しているのですが……全くわからず。そのため、多くの学者がいる赤の共和国の研究機関による解析を要請したいのですが、いかがでしょうか」
「それは、本格的なところでの解読をしなければわからないということですか?」
エドワードが腕を組んでそう訊ねた。
「その通りです。解読ができると言っていたハルマチさんも……そうですよね?」
ブレンダンの隣の隣の席で頬杖をつくアイリにそう言った。彼女は「もっともです」と答える。
「確か前は読めていたんですけれどもね。今は何があるのかさっぱり。その原因は目覚めたキリ君にあるようですね」
「どういうことです?」
「キリ君の記憶が欠落していて、なおかつあたしの記憶も元に戻らないことです」
記憶がない。その言葉にラトウィッジとブレンダン以外の四人は怪訝そうな表情をした。
「記憶を失っている? その過去の歯車を所有していた頃のか?」
「違う。『キリ・デベッガ』としての存在をだ」
その場に静寂が訪れた。誰もが何も言えないらしい。頃合いを見計らってか、ブレンダンが口を開いた。
「……総長、解読についての要請のご検討をお願い致します」
「心得た。次はトルーマン。今日、ハルマチとグリーングループの研究機関の方に行った報告を頼む」
「ええ。MAD計画による一部の実験結果のデータを向こう側にお渡ししました」
「今は製作段階だそうです」
「なるほど。ケイ、そちらはどうだ?」
アイリの向かい側の席にいたケイはラトウィッジの言葉に反応した。
「はい。前回の報告同様に隠れカムラ教徒探しです。こちら、『隠れ』宗教であるがため、進展はほぼない状態となります」
「周辺の村とか町にはいない感じなのかい?」
「ですね。片っ端から探していくしかないですし、もう国外の方で探し始めています。それに彼らにそのことが知られてしまったならば、逃げられてしまう可能性だってありますので慎重な対応を心掛けています」
報告は以上です、とラトウィッジの方を見た。
「ふむ、それではエイケン教官、ルーデンドルフ氏、頼む」
先にケイの隣にいたヤグラが口を開いた。
「こちらは脳情報遠隔操作装置の解析がほぼ完了し、エイケン教官の行う実験には間に合うでしょう」
「完璧じゃないんですか?」
「後少しです。今、ガンがロックの消去をしている最中ですが、時間はそう長くかからないと。遅くとも、明日の午前中までには間に合うはずです」
「なるほどですね。それならば、明日はできそうですね。ハルマチさんも助手として頼みますよ」
ヴェルディの言葉にアイリは「合点承知」と敬礼もどきをする。
「実験についてはお手元の資料を見ていただければわかりますが、これは最重要機密事項になります。世論は賛否両論となりますでしょうが、皮肉なことにオリジン計画を阻止するにはこれが重要となるでしょう」
事前に配っていた資料を見て、この場にいるほとんどの者は眉間にしわを寄せた。
「オリジン計画には、必ず異形生命体は出てきます。彼らは世界中にばらまいてくるでしょう。そのシルヴェスター君たちが報告していた『事実改変装置』や『舞台装置』に関してもやっかみを食らうでしょうね。捕まったバグスターたちはその計画にあまり関与していないどころか、あまり知らされていない」
誰もがヴェルディに注目をする。
「それならば、他に知っていそうな者をあの世から呼び覚まし、それらの知識を得るべきだと思います」
「人手は足りますか?」
「十分に足りますよ」
エドワードの設問にはアイリが答えた。
「仮にあの白髪頭おじいさんを復活させたところで、あたしたちの障害になると目に見えていますよ。それにあの人曰く、MAD計画関連は『ディース』の方が詳しいと弁論していますからね」
もっともだ、としてラトウィッジが頷いた。
「何より明日は別に『助っ人』が来るんでしょ? そっちを期待しますよ」
「キイ教信者が悪くはないのだが、彼らの信仰心は危険であるからなぁ」
「そうそう、それであたし、思い出しました」
アイリのその発言に全員が注視する。欠落していた記憶が元に戻り始めてきたのか!? しかし、次に出てきた言葉はこの場にいる誰もが待ち望んでいたものとはほど遠い、耳を疑うようなものだった。
「キリ・デベッガはキイ教信者みたいですよ」
「何だって!?」
誰もが驚くその事実にアイリは夕食を片付けていた際のキリの言葉を思い出した。暗い窓辺に向けて、目を瞑る。その口からは――。
【こうして幸せなのもあなた様、キイ様のおかげでございます。感謝致します】
「デベッガは学校時代でも一度もそんな素振りを見せたことがなかったぞ!?」
ケイも動揺しているのか、今にも席を立ち上がり、問い詰めようとするような雰囲気になる。記憶を辿る。確かにそうだ。キリは校内で見掛けるとき、キイ教式のお祈りだなんてしていなかった。学校内にその教徒がいても、その祈りの時間でさえも祈る姿もなかったし、教典を読んでいることもなかったはずだ。だからこそ、ケイはずっとキリが無宗教者だと信じて疑わなかったのである。
「あたしだって、混乱したわよ。キイ様のおかげです、感謝しますって……。どう聞いてもキイ教信者としか言いようがないでしょ」
「だからって……!」
「残念ながら、ケイ。彼女の言うことは事実だ」
ラトウィッジは静かな面持ちでいた。ケイは取り乱したようにして「どういうことですか!」とついに席を立ち上がった。いや、何も彼ばかりではない。ほとんどのものが訝しげにしていたのだから。
「彼の実父は過激派キイ教信者だ。以前よりデベッガはキイ教に魅かれてしまった、と鬼哭の村の者たちから聞いていたし、元々彼が住んでいた小屋からもキイ教の教典が出てきている」
「そ、そんな……」
椅子に座り直すケイだったが、「問題ない」とラトウィッジは言う。
「デベッガは実父が過激派であることを知らない。信者と言っても普通にキイ神に祈るだけだろう? それに、彼に所有権がある限りは私たちの懐に置いておかなければならない。コインストの連中に盗られてしまえば危険であるから――」
一同はラトウィッジの方に注目している。
「それがたとえ、彼自身が過激思想の持ち主であったとしてもだ」




