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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第四章 哀れな愚か者の末路
70/96

断切

 物心ついた時から独りだった。あの頃の自分が行動できる範囲は今にも潰れそうな小さな小屋とそこから数十メートル離れた場所にあるお墓だけ。誰のお墓であるかは教えてもらっていない。


「だれがいるの?」


 大人たちに訊いても誰も教えてくれなかった。話しかけても何も答えてくれない。幼いながらもわかっていた。これは聞こえないふり――すなわち無視をしているのだと。幼いながら理解していた。そんな仕打ちをされる俺はこの世に『存在していない者』だと。ただの空っぽの『器』であるに過ぎない、と。


 俺は鬼哭の村の者たちから『罪人の子』と呼ばれていた。その理由はその名の通り。『罪人』との間に生まれた子どもだから。みんなそう口を揃えて言う。幼い俺はそれがどういう意味なのか、わからなかったが、それが自分の呼び名であるということだけはわかっていた。


 村長が言っていた。


【お前の父親は皇国軍に寝返ったが、その報復で死んだ】


 俺の父さんは青の王国を裏切って死んでしまったらしい。だから、名前など与えられる資格はないに等しいと言う。だが、幼いながらも頭の片隅で覚えている人――その人に俺を『罪人の子』以外で呼ぶ誰かがいたが、記憶があやふやで本当に自分のことを名前としてくれていたのか甚だ怪しかった。


 そうだとしても、俺はどう呼ばれようがどちらでもよかった。この何も知らない世界で生きて死に逝くことが運命。それを決定付けられたようなものなのだから。


【いくら親が罪人であろうとも、生まれてくる子どもには関係のない話】


 そう言ったとしても、実際には関係大ありだった。それを建前として生かされていたのだから。だからこそ、わからない。俺がこの世に『生きている』意味が。


 村長は言った、「この小屋とあの墓のある範囲だけ行動できる」と。


 俺は小屋とお墓を行き来する毎日を送っていた。食事は一日一回、村長の息子が持ってきてくれていた。だが、時間帯はバラバラ。朝、昼、晩と様々で常に空腹状態。


 あまりにも遅い日があって、夜に山から下りて村長の家に行ってきたことがある。山から下りてくるなとは言われたが――『夜ならば』、いいかなという自己判断だった。


 そのときに言われたのが――。


「いかなるときでも『罪人の子』が村の方に下りてきてはならぬ」


 殴られた。蹴られた。当然、血が出る。村長の家の敷地内で転がっていると、更に蹴られた。


「人様の敷地内を汚すなっ!」


 その日は何ももらえなかった。村のあちこちから美味しそうなにおいが漂ってくる。しかし、そのにおいのある物を食べたことは一切ない。いつも与えられる物は冷えきった何か。料理名なんて知らない。美味しくもないし、味気もない。


 それでも俺にとって唯一の楽しみだったのに。


 小屋の方にお腹を空かせながら戻っていく。ここに明かりなどない。電気はおろか、蝋燭やその火の種すらもなかった。村長が与えていないから。その小屋の横に備えつけてある容器を開けた。中には雨水が溜められている。それを飲んで飢えを凌ぐしかなかった。いくら雨水だからと言っても、生水であり、あまり衛生的によくない代物だ。飲んで土の味がするし、口の中に葉っぱが入ってきていた。


 明日はもらえるだろうか。


 俺は真っ暗闇な小屋の中で一人祈りを捧げる。そうして薄いかけ布団に小さく包まりながら目を閉じるのだった。


     ◆


 ご飯の催促に行くのは止めて、俺は小屋の中でひたすら待ち続けた。空腹を紛らわせるために、この小屋の材木の下にある一冊の本を取り出す。何が書かれているかはわからない。読めない。それでも読んでただ、待つ。生水を飲んで待っていた。


 そうして、何度夜が、朝が訪れた頃か。それでも食事は一切もらえなかった。俺は外へと出た。いつもの日課である誰かのお墓へと行き、祈りを捧げる。祈り終わって、ふらふらの状態で帰路に着こうとすると、地面に生えている雑草が視界に入ってきた。持ってきてもらっていた食べ物によく似た物たちがそこら中に生えていたんだ。


 我慢の限界だった。千切って口の中に入れた。美味しくもない。青臭い。だが、腹を満たすためには十分だった。ここには同じ緑色の物がたくさんある。食べていても一生なくならないくらい。持ってきてもらえるまでこれで飢えを凌ごう、と。


 俺は草の汁を口端につけながらも、もう一度そのお墓のところへ行き、お礼の言葉を言った。


 雑草を食べて、小屋の中で本を読みながら過ごしていれば――急激にお腹が痛くなってきた。あまりの痛さに唸り声を独り上げる。だが、そうしたところで誰も助けてくれるわけなかった。


 その場で横になって、痛むお腹を押さえた。額に嫌な汗がにじむ。本を読んでいる場合ではない。背中を曲げ、小さくなる。数時間かけて体に溜まった毒素を吐き出していた。それでも懲りずに空腹になれば、そこら中に生えている雑草に手をかける始末。そして、またお腹を壊すのだ。


 食べる物がないから。


 だが、それを繰り返し続けて俺はなんでも食べられるようになった。毒の物でないならば、なんでも食べる。地に這う虫だって、食べられないことはない。邪魔な羽を退け、頭をもいで二回に分けて食べる。一日一回の食事が来なくともこれだけで生き延びていた。


 数ヵ月も経てば、髪の毛は伸びるのも当然だった。俺は小屋にあった薄くて小さな刃でその茶色の髪を切っていくことにした。たまたま、山から見えた村内で大人から髪を切ってもらっている子どもを見たのだ。試してみたい、やってもらいたい。そのような願望があった。独りで実践をしてみた。だが、俺はこういうことに慣れていない。だから、頭中に傷を負ってしまった。そうだとしても深い傷ではない。数日経てば、治る。


 しかし、痛いのは嫌だ。それだから、二度と自分で髪の毛を切ろうとは思わなかった。


     ◆


 それから数日が経った頃、今日はどこの雑草を食べようかと迷いながら村付近までやって来てみた。誰かがいることに気付く。見つかれば、また殴られてしまうと思い、木の陰に隠れて様子を窺った。そこには大人が一人、子どもが二人ほどいた。何をしているのだろうかと、そっと覗き込むようにして見る。


「おとうさん、なにするの?」


 村の子どもがそう言った。それに大人は優しそうな、決して俺には向けられないような笑顔で答える。


「今日の夕飯だ。お前たちもいずれしなければならないからな。見ていろよ」


 そう言うと、大人はゲージに入れていた小動物を取り出してその首を落とした。逆さまにして、血抜きをし、綺麗に解体していく。子どもたちはドン引きをしていたが、俺はじっと茂みに隠れながら観察していた。


「それ、なにするのぉ?」


「そうだな。ステーキでもいいし、フライにするのもいいな。おっ、ここの内臓は酒の肴にしよう」


 バラバラに解体された死体前に夕食の話をする様子を見て俺は食べ物は草だけではない。山の中にいる動物たちも食べられるのだ、と。ただの遊び相手ではなかったのだ、と初めて気付いた。


 早速、今日のご飯にしようと思っていると、いつの間にか近くに捌かれていた小動物と同じ個体がいた。こいつは食べられると知っているから、口の中で唾液がいっぱいになってくる。


 近寄ろうとすると、そいつは避けるようにして遠ざかろうとした。一歩近付けば、それに応じて逃げられるのだ。もしかして、考えがばれてしまったのだろうか。俺は警戒させないように呼びかけた。


「なにもしないよ」


 そいつと同じ目線に合わせるようにして屈み、手を伸ばす。


「おいで、おいで」


 鼻をヒクヒクとさせ、徐々に近付いてくる。指先まで来て、そのにおいを嗅いでくる。それでもひたすらに待つ。完全に警戒心を解かせた上で小屋に持ち帰るつもりだった。


 俺を敵と見なすことなく、段々と近寄ってきて、抱っこさせることに成功した。いつもであるならば、追いかけっこをしたりするのだが今日は違う。食べるんだ。


 それを小屋へと持ち帰り、薄い刃を手に取ると、暴れ出した。


「わわっ! あばれちゃダメ!」


 ご飯を逃してたまるか。今日はこいつを食べたいんだ。俺は切断を試みようとしていた首を押さえつけた。それに余計暴れてしまう。仕舞いには下に押しつけて頭でも潰すかの勢いで体重をかけた。ミシミシと軋む音が鳴る中、首へ刃を当てつけるも血すら出ない。ならば、と自分の体重をこいつの首にかけてみた。


 ゴギッと壊れるような音と感触が俺の手の感覚に伝わってきた。それは先ほどまで暴れていた体を痙攣させている。


「……むずかしいなぁ」


 いくら刃を当てようにもなかなか切断できない。切れてもせいぜい首皮一枚のみ。まだこいつは動いている。暴れられない内に急いでやらないと。自身の指も切れるかもしれないことを厭わない様子で今まで以上に強く刃を押し当てていく。角の方へと集中的に刺すようにする。そうしていくと、ブツッというような音を立ててその首からようやく血が露わになった。


 それに喜びを覚えた。俺はもっと奥深く、大量に血を出させるために傷口に指を突っ込んだ。そこから伝わる温かさとヌルヌルした感触。そのまま奥へ、奥へと指を入れていく。穴を広げなければと、もう片方の手も突っ込んで、広げていく。ブチブチという何かが千切れるような感触が手に伝わってきていた。すでにこいつの顔は血だらけである。


 ある程度穴を開けたならば、それの足を持って逆さまにした。まだ痙攣はしている。傷口からあふれんばかりの血が俺の服を汚していっていた。


 あの大人のしていたことを思い出す。確か次は腹を十字に切っていたはず。適当に血抜きをしたまま、再び下の方に置いた。その直後にこいつの肛門から糞が漏れてきた。最悪だと思いながらも、薄くて小さな刃で、全く慣れない手付きで捌いていこうとするが――。


「あぁ、もう」


 刃の扱いが煩わしい。それを使わずして腕力で引き千切り出す。それでも幼児の力では敵うことはなかった。俺はそのまま首にある傷口に噛みついた。生臭さと獣臭さが口の中で広がってくる。血の味がする。土の味がする。だが、食べられないことはない。


 初めての肉の味。中の物は食べられるようなことをあの大人は言っていた。首の中に腕を突っ込んで引きずり出す。ズルズルと引っ張って、姿を見せる長い物を口の中へと入れた。大人は毛を避けるようにしていた。それを食べないように気をつける。


 頭の方にも食べられる物は詰まっているだろうか。頭の中にも手を突っ込んだ。ズリュッと飛び出てきたのは変な物。先ほどまで食べていた赤色の物とはこれまた違った物である。それを口の中へと入れた。


 それはどれよりも美味しい物だった。初めて、自分の舌が美味しいと評価する。思わず口元が歪んだ。嬉しかったんだ。とっても美味しかったんだ。村長の息子が持ってくる物よりも、そこら辺の雑草を食べるよりも。


 頭の中の物の味が忘れられなくて、俺はそれだけを求めるようになった。もう、雑草なんて食べる気にはなれないから。それだから、小動物を油断させて、殺し、食う。それは俺の当たり前。日常。常識になった。


     ◆


 ある日、いつものようにして俺が小動物を追い求めて小さな小屋から出ると、同い年ぐらいの男の子二人が誰かのお墓の前にいることに気付いた。何しに来たんだろうかと思った。


「なにしてるの?」


 普通に不思議に思ったから。男の子たちに声をかけた。彼らは怯えたようにしてこちらを振り返った。


「……え?」


「だれ?」


 二人は俺を見てきた。更にどこか怯えたようにしていた。


 今思えば、度胸試しのような形で二人は入ったに過ぎないだろう。まさか、『罪人の子』と会うとは思ってもいなかっただろう。話しかけられるとは思わなかっただろう。しかし、男の子たちの目は徐々に警戒心を解こうとしていた。なぜって、村長たちから口酸っぱくして言われていたのだろう。この山には入るな、と。『罪人の子』がいるからとか、何をどう言ったかなんて俺は知らない。ただ、彼らから読み取れる感情はちょっとした安心らしい。恐ろしく危険なバケモノがいると思えば、ここにいるのはただの同い年の男の子だった。だろうか。


「…………」


 男の子二人は互いに顔を見合わせていた。そうしていると、その内の一人の男の子が「ねえ」と話しかけてきた。


「きみが『つみびとのこ』?」


 初めての声音で訊ねられた。俺はどんな反応をすればいいかわからなかった。困ったような顔を見せるしかない。『罪人の子』、それは嘘の呼び名ではない。本物だ。大人たちは口を揃えて俺のことをそう呼んでくるから。


「う、うん」


「おれはヴィンっていうんだ」


 男の子――ヴィンはそう俺に自己紹介をしてきた。一方でもう一人の男の子は「やめろよ」と不安がっている様子。


「あいつがほんものなら、おれたちこわいところにつれていかれるよぉ!」


「『つみびとのこ』、『こ』だろ? そんなこわいことはあるわけないよ」


「もし、『つみびと』にいわれたら? たべられてしまうよ」


「あっ……」


 ヴィンは俺の方を見てきた。もし、『罪人』に自分たちがいることを知られたならば? 子どもだから問題ないと思っていたのだろう。


 俺は二人を見た。


「ここにはだれもいないよ」


「それ、ほんとぉ?」


「うん。まえまでおとながきていたけど……」


 もう一日に一回の食事はなくなっているようなものだった。別に雑草でも小動物でも勝手に食べるからこちらとしては問題ないが。


「じゃあ、きみがひとりでここにすんでるの?」


「うん」


「おれたちになにもしない?」


「うん」


 正直な話、俺にとっては普通に会話をしてくれるヴィンたちを好ましい人物だと思っていた。こちらの方にやって来る大人は皆、話しかけても無視をしているから。


 そうしていると、足下に目的であった小動物がすり寄ってきた。フンフンと俺のにおいを嗅いでいる。


「あ」


 ヴィンたちは羨ましそうに俺を見てきた。人にすり寄ってくることは滅多にないらしい。いとも簡単にそれを捕まえた。抱きかかえてもなお、嫌がられることはなく、鼻を動かしているだけ。


「いーなぁ」


「なにが?」


「そいつ、じぶんからちかづいてくることないんだぜ」


「そぉなの?」


 それは知らなかった、という俺の反応に二人は、流石は『罪人の子』だと感心していた。警戒心の高いその小動物を手懐かせるとは、という顔の感想か。


「ねぇ、そいつってどぉやってだっこするの? やらせて」


「いーよ」


 抱きかかえていたのを地面に下ろした。早速ヴィンたちが「おいで、おいで」と手招きをするが寄ろうとはしない。むしろ、俺から離れようとしない。


「ずるいなぁ」


「えっとねぇ……こぉするの」


 俺は手本を見せるために、ゆっくりと屈み込んで、そいつの頭をなでたりした。そいつは気持ちよさそうな表情を見せていた。つられて、ヴィンたちもその場にしゃがみ込む。こちらの方にも来てくれないかな、と――「おいで、おいで」そう、優しく声をかけ始める。すると、近くの茂みからもう一匹の個体が現れてきた。チャンスだ、と彼らはその子を呼び寄せてみることに。


「おいで、おいで」


 そいつは鼻をピクピクさせながら、ゆっくりではあるが着実に二人のもとへと近付いてきて――。


「やったぁ!」


 思わず俺たちの頬が綻ぶ。ヴィンの腕の中にそいつはいた。警戒されることも逃げられることもなく、抱っこできたのだ。もう一人の男の子も頭をなでることができている。


「ありがと!」


 俺ももう一匹抱きかかえて「よかったね」と言う。


 どうせならば、一緒に食べよう。なんて誘ってみようとするが――男の子が「あ」と声を上げた。何かを忘れていたとでも言うようだった。


「どぉしたの?」


 俺とヴィンが首を傾げてそう訊ねた。


「おかあさんのおてつだいわすれてた」


「それはたいへんだ」


 自分たちはもう帰らなければ、と言ってくる。それならば、仕方あるまい。


「そっか。じゃあ、おうちにかえらなきゃね」


「うん。またあそびにくるよ」


 ヴィンがそう答え返してくれた。それに俺は「ほんと?」と目を輝かせていたはずだ。嬉しかったんだ。ずっと独りだったから。


「あそびにきてくれるの?」


「うん。おれたちともだちだもん」


 ヘラッと頬を緩ませて笑う二人に、俺はもっと嬉しかった。友達という概念をこの頃はよくわかっていなかったけれども、心が踊るような言葉だったことは今でも覚えている。


「じゃあ、まってるから!」


「おぉ! じゃあねぇ!」


 二人は小動物を抱き抱えたまま、山を下りていってしまった。そんな彼らの後ろ姿を見送ると、小動物を見た。仕方ない、今日は独りで食べよう。また遊びに来るといっていたんだ。次は一緒に食べられるはずだ。


 その場に落ちていた木の枝を拾い上げた途端、何かを察知したそいつは俺の腕からすり抜けてしまった。逃げられる! 慌てて捕まえようとそれを追いかけていく。


「こらっ、まて!」


 目線の先は常にそいつ。それ以外のところを全く見ずして追いかけ回していたものだから、足を滑らせてそのまま山の斜面を滑り落ちてしまった。下の方に落ちて痛くはあるが、ここで泣いたとしても大人たちは自分に構ってくれることはないとわかっていた。いや、それよりも早く山の方に帰れと怒られるがオチだから。結局、逃げられてしまったとこちらを見下すあいつを見ていた。ああ、今日は食べられないのか。じゃあ、仕方ない。そこら辺に生えている草が今日のご飯か。


 山に戻ろうとしたときだった。ふと、別の視線に気付いた。そちらを見ると、綺麗なピンク色のドレスを着飾って青色のリボンをした女の子がいたのだ。村に住んでいるような子が着ている服ではないように見える。いや、見たことがない服だ。知らない誰か。何しにここに来たのだろうか。ヴィンたちのようにして、遊びにきたのだろうか。


「あそびにきたの?」


 俺が訊くと、女の子は頷いた。心なしか、泣いているようである。なぜに泣いているんだろうか。それがわからなかった。ここで泣いていた理由は? 村の子どもでないならば? そういえば、ずっと前に山の入り口付近で泣いていた子がいた。その子は大人に「道に迷った」と言っていた。それなのだろうか。


「まよったの?」


 質問をした。女の子は頷く。本当だった。この子をどうすればいいか迷う。村の子どもではないならば? 知っている大人、話したことのある大人だなんて、村長しかいなかった。それでも、まともな会話をしたことはなかったのだが。


 村長に教えた方がいいのだろうか。また殴られて蹴られるのは嫌だなと思う反面、泣きじゃくった顔をした女の子が独りで可哀想だと思った。俺と重なって見える。独りでいて、泣いているときだってあったから。だから――。


「そんちょーのいえだったら、こっちだよ」


 女の子の手を握り、案内してあげようと思った。彼女を無視することはできそうになかったから。


 そう言えば、あの男の子二人の内、一人の名前を訊きそびれてしまった。この女の子の名前、なんて言うのだろうか。


 訊いてもいいのかな? 話しかけても口では応じてくれなかったようだから。自分の方から名乗った方がいいのかな。だが、俺は『罪人の子』と呼ばれている。大人たちはその名前を煩わしそうにしていた。ヴィンたちはどこか怖がっていた。


【――――】


 不意に思い出すもう一つの自分の呼び名。暗がりの小屋にいた長い髪の女の人。記憶があやふやであるが、あれは夢だったのだろうか。それとも――?


 もしも、あの呼び名の名前を言ったらどうなるだろうか。誰にも言ったことがない名前。ヴィンと同じような人らしい名前。あれはもしかしたら、俺の本当の名前なのかもしれない。


 早速、俺はは歩きながら、女の子の方を向いた。


「……おれ、『キリ』っていうんだ。きみは?」


 そう言った瞬間、地に足がない感覚が襲った。


「あっ」


 俺は落とし穴に落ちてしまった。一瞬何が起きたのか、わからない。自分だけ穴に落ちて、女の子は穴に落ちなかったようだ。


「だ、だいじょーぶ?」


 女の子は心配そうに訊いてくる。初めて言われた言葉ではあるが――。


「……うん」


 ここからはどうすればいいのだろうか。上に上がりたくても女の子よりも小さい俺は上がれそうにない。


「……どぉしよ」


 自分も女の子もあたふたとしているし、動揺を隠せない。本当にどうしようかと思っていると――。


「メアリー!」


「姫様!」


 向こうの方から声が聞こえてきた。その声に女の子はそちらの方を向いた。だが、俺が今いる場所からは誰なのか見えない。もしも、村長だったらどうしようと不安になる。


「こんなところにいたのか! 心配させてから!」


 ようやく見えた声の持ち主は女の子と同じ金色の髪をした中年男性だった。その人は彼女を抱きしめる。それに対して女の子は泣いていた。それは悲しいから泣いているのだろうかと思ったが、何か違う気がした。俺が知っている涙とは違う。それがなんであるかを理解できなかった。知らないから。


 ぼんやりと二人を見ていると、急に体が軽くなった。


「き、きみ、大丈夫かい!?」


 初めて、大人に抱きかかえられた気がした。そうして、地面に足が着く。また心配の声をかけられた。「怪我はない?」とか「どこか痛む場所は?」とか。そのかけられる言葉がすごく胸が温かく思えた。


 俺がどう答えたらいいのか戸惑っていると、遠くから別の大人たちがたくさん来ているのが見えた。彼らはこの村の大人たち。ということは、急いで逃げないと、山の方に帰らないと――殴られるし、蹴られる。


 それだけは嫌だった。


「おじさん、ありがとう。ばいばい」


 俺は逃げるようにしてその場を走り去ることにした。怖い、怖い! 絶対見られた。絶対見られている。こっちを見ていたから。


 動揺を隠せずに、そのまま小さな小屋の方に入ると、隅っこに座って震えるばかりだった。ただ、ひたすらに願う。


――きませんように、きませんように……。


 そう願うも、普段は足音がしない小屋の外から聞こえてくる。来ている。大人たちが。


 拳が来る。足が来る。あんな痛いのは嫌だ。


 そう思っていても、小屋の戸は壊れるような勢いで叩かれる。切羽詰まったようなノック音。戸は勢いよく開けられた。そこへと入ってきたのは村長とその息子だった。彼らは形相の睨みで俺を見てくる。これが、この村の大人たちが俺にしか見せない顔だ。逆に言えば、これ以外の顔を見せられたことがない。


「俺たちの言いつけをなぜ、守らなかった!?」


 ずけずけと入り込んでくるのは息子の方。頭をわし掴みして外へと放り投げられた。


「あっ!」


 仰向けになって転がるしかない俺のお腹を大人の足が圧しかかってくる。


――いたいっ!


 声を上げることができない。苦痛の表情を浮かべるばかりだったはずだ。覚えていないんだ。嫌なことだったから。


「あれほど、村の方に下りてくるなと言ったはずだ! この村の恥が!!」


――いたいよ! いたいっ! いやだ!!


「お前の姿を国王様に見られてしまったではないか! 『罪人』の子どもがいただなんて――ありえない、ありえない、ありえない!!」


 暴力の拳が俺の頬に当たる。お腹に当てられる。


――ああ、たすけて……。


 泣いても助けてもらえない。願っても助けなど来ないのが、俺にとっての当たり前。哀しきかな『罪人の子』よ。己がしでかした行動を見られていようとは。この場には誰も味方なんて一人もいない。俺独りだけ。


 村長たちによる躾という建前の暴力は一時間も続いた。地面に泣き疲れて、横たわる俺を放置して下山していった。俺は動くことがない。いや、動けなかった。枯れた涙を拭かずして、じっとしているしかなかったんだ。


――なんで、いきているんだろ。なんで、ここにいるんだろ。なんで、きらわれているんだろ。


 悲しい思いばかりが心に積もり積もる。動かせないその体を投げ出し、再び泣いた。そこに俺を慰めてくれる者は誰もいなかった。


     ◆


 その日を境に俺は山から下りようと思わず、小屋と誰かのお墓を行ったり来たりする毎日を送っていた。小動物を捕まえるのであれば、鬼哭の村の方へは近寄らず、山の奥の方で捕まえていた。


 ヴィンたちはまた遊びに来ると言っていたのに、全く来なかった。いや、もうそれでよかった。来ないならば、それでいいんだ。この山に誰も踏み入って欲しくない。誰も来ないで欲しい。


 伸び切った髪を切らずして、俺は一日一日を村で過ごす者たちに妬みを抱いていた。


 ああ、羨ましい。その隙間風のない家が。ああ、羨ましい。美味しそうなにおいがする物を食べられる者たちが。ああ、羨ましい。嬉しそうな顔をする彼らが。


 羨ましい。妬ましい。


 妬むからこそ、恨みの念を願う。誰のお墓なのかすらもわからず、必死に願っていると――後ろに妙な気配を感じ取って、振り返った瞬間。


 眼前に大きな鉈を持った村長の息子が。その後ろにはこちらを忌々しそうに見てくる村長がいた。時が止まっている気がした。刃に籠められた思いは殺意。このまま黙って見ていたならば、本当に存在を消されてしまう、と。


――消されたくない。


 村長の息子が動く前に動くことにした。地面に落ちていた適当な枝を拾い上げて、狙うは小動物を食べるときと一緒。首を刺せ。彼は今の目に見えている俺へと鉈を振り下ろすが、それを避けた。死にたくないという執念を持っていたから。


 俺は首元へと、頸動脈へと的確に枝で突き刺してきた。その拍子に俺たちは倒れ込むが、村長の息子はまだ死んでいないと確信している。枝を抜き取って、そこに指を突っ込んだ。傷口を強引に広げていこうとおもっていたから。


 しかし、子どもにやられっぱなしで黙っていられるほど、大人は甘くないだろう。渾身の力を振り絞り、村長の息子は鉈の刃先を俺の頭に目掛けて突き立てようとしていた。


――死にたくない。


 俺の心には更なる念が。ほぼ第六感のみで、直感で動いていると言っても過言ではない。殺気が込められたその刃を避ける。その直後、村長の息子の首に鉈が突き刺さった。しばらく口から血の泡を吹いて痙攣を起こしていたが、白目をむいた途端、全く動かなくなってしまった。


「お前っ!!」


 村長自身の息子を殺されたことに火がついたのか、その首から血のついた鉈を抜き取って、振り回し始めた。


 己の命の危機。それにあやかり、俺は逃げるようにして走った。追いかけてくるのは一人だけ。村長だけ。怒りに身を任せながら振り回し、鉈を投げつけてくる。


――逃げなきゃ、逃げなきゃ。


 息子とは違う、完全なる存在消去に走ってきている。


【この裏切り者のガキ】


【こっちに来ないでちょうだい、汚らわしい】


【お前の父親のせいで、俺たちはどん底だ】


【親が親なら、子どもも子どもだわ】


【お前は村の恥だ】


 お墓にいる自分の後ろで投げられた言葉。誰がそう言ったのかは覚えていない。顔があやふやだったから。まだ小さかったから。唯一わかるのは大人たちだけが口を揃えて言ってきているということ。あの場に同年代と言った子どもたちはいなかった。だから、ヴィンたちと大人の反応は違っていた。


【どうせならば、母親もろともくたばっちまえばよかったんだ】


「あのとき、母親が死んだならば、お前も殺せばよかったんだ!!」


 その罵声と共に、俺の頭に鉈が掠めた。行く道の地面に突き刺さる。その足を止めた。頭が痛い。汗か何かが頭から伝ってきているのがわかる。


――なんで、おれがこんな目に?


 誰が悪いのかわからなかった。でも、わかる。断言できる。一つだけ。それは、俺は何も悪くないことだ。


 地面に刺さった鉈を引き貫いた。村長の行く足が止まる。


――何もしていないのに。何もしていないのに。おれは存在してはダメなの?


 そのようなこと、誰が決めた?


――存在なしなら……。


 初めて持った鉈は重たかった。腕の非力さが物語るも、その気迫だけは一人前だと思う。もちろん、実行力も一人前。そう、このときの俺の頭の中は鉈で村長を叩き斬ることしかなかった。


 この人さえいなければ、どんなに幸せな人生が築けていただろうか。自分にもあの温かい物は得られていただろうか。


――殺されても文句は言えないはず。


 誰が悪い? そう、こいつが悪い。だからこそ、悪い物である根源を断ち切ろう。ここから逃げ切ろう。ここは俺がいるべき場所じゃない。ここで一生を一人哀しく過ごすべき器ではない。


 望むことはたった一つ。この忌まわしき人生をなかったことにしたい。


 慣れない太刀ぶりで、村長に目掛けて拝み打ちをした。その一閃に赤い線が迸る。斬ったんだから、もう追いかけては来るまい。だが、まだ追いかけてくるのであれば――。


 すべてを失ったとしても、その手から逃げてやる。断ち切ってやる。


 地面に倒れいく村長を尻目に俺は鉈を捨てて、走って行ってしまった。後ろを振り返ることはない。その必要性はどこにもない。なぜならば、すべてをやり直すつもりだったから。『罪人の子』だと言うのであれば、それを言わなくしてやろう。いいや、言わせない。むしろ、『罪人の子』と言われていたからこそ、このような目に合ってしまうのだ。それならば――。


――おれは『罪人の子』じゃない。


【キリ】


――今から『キリ』だ。


     ◆


 逃げに逃げた。行き先は知らない。わからない。とにかく、追いかけてこなければ、と願うが――力があまり入らなかった。なぜだろうか、逃げているつもりなのに。村の方がどこか騒がしい。俺はどこへ行ったらいいのだろうか。村へ行っても、誰も歓迎しないことはわかっている。それだからこそ、行き先が迷う。何度も足の向きを変えてしまう。誰かの家を見つける度にそうだ。ここじゃ駄目。そこも駄目。大人たちの目が――俺を殺そうとしてくる。


「そっちに行ったぞ!」


 見つかった。早くしないと。


 走って、走って――転ぶ。立つ力がない。それでも、気力で立とうとする。目の前は鬱蒼とした木々。その隙間から、柔らかい光が漏れていた。ああ、あの光こそ、俺のためにあるものだと確信があった。


 俺はその光を目指して体を動かしていたが、何も見えなくなってしまい――世界が暗転した。


     ◆


 嗅いだことのないにおい。何のにおいだろうか、と俺は目を覚ました。いの一番に、視界に映ったのは一組の男女。彼らは子どもではない。大人だ。


 そう、大人だからこそ、俺を殺しにきた。だから、断ち切らないと。急いで起き上がって、手に掴めるものだったらなんでもよかった。物を大人たちに向かって投げる。殺されると思っているから。


「こ、こら! 止めなさい!」


「嫌だ!」


 大人が怖い。大人であるならば、俺を殺すのも同然だ。止めろだって? 止めたら、止めたで殺す気なんだろ! 


 俺が二人に向かって物を投げつけようとしたときだった。力なくその場に座り込んでしまう。力が入らない。いつもならば、小動物を仕留められるほどは動けるのに。ああ、そうだった。ずっと山の中を逃げ回っていたから。


 それでも、早く、逃げないと。そうでなければ、殺されてしまう。必死に気張って立ち上がろうとするが、やはり力が入らない。壁の方に向かって頭から倒れようとするも、それは男の方が支えてくれた。彼が抱きしめてくれた。


「俺たちはきみに何もしない!」


 すごく温かった。懐かしい気がした。人の温かさ。それに思わず俺は涙をこぼした。なぜにあふれるのかはわからない。悲しくもなんともないのに。けれども、とても温かいその人の言葉が嬉しかったのだろう。


 ややあって、女が涙を拭ってあげた。こちらに向ける顔はとても優しい。大人なのに、初めて俺に向けられたものだった。


「私たちはあなたの敵じゃないわ」


 嬉しかった。ヴィンやあの女の子とは違った温かさが心に沁みたのだから。俺はその場に座り込み、泣いた。男は座り込んで抱きしめてくれて、女は優しく頭をなでてくれた。


     ◆


 俺の気持ちがある程度、落ち着いた頃。男が「名前は?」と訊いてきた。名前って、この人たちは俺のことを知っているんじゃないのか? ここはあの村じゃない?


 だとしても、『罪人の子』だなんて言えやしない。そう、俺はもう『罪人の子』じゃないから。俺は『キリ』だから。


「キリ」


 そう答えた。


「どこの子? お家、わかる?」


 あの小屋は『罪人の子』がいるべき場所。『キリ』である俺には相応しくない場所だ。


「家、ない」


「ここの村の子?」


 村――ここはまだ鬼哭の村らしい。なのに、この大人たちは俺のことを知らないのか。だったら、好都合だ。俺は否定した。嘘をつかねば。


「どこから来たの?」


「あっち」


 俺は適当に指差した。デタラメ言ったところで、何も差し支えはないはずだ。そう答えると、男が怪訝そうな顔を見せた。心なしか、女の方もそうだ。


「あっちから来るとき、猛獣と遭遇しなかったか?」


「もうじゅう?」


『もうじゅう』? 男がしてくる質問の意図がわからなくて、頭が真っ白になる。話の内容が上手く理解できていないでいると、今度は女が「それじゃあ」と質問を変えてきた。


「お父さんかお母さんとはぐれた?」


 生憎、俺には家族はいない。それはもちろん、父さんも母さんもだ。気付いたときから、あの場所に独りでいた。二人には家族は物心ついたときからいない、とだけ言った。


「知り合いの大人の人とかは?」


「いない」


 いるわけがない。これまで出会ってきた大人はみんな優しくなかったのだから。


「きみは、キリはこれからどうするつもりだい?」


「……わからない」


 当然だ。本当の目的を話してしまえば、バレてしまうから。ここはまだ鬼哭の村。あいつらの手中にあるのは間違いない。とにかく、隙をついてここから脱走を図ろうとしていると、男が「なあ」と呼びかけてきた。


「キリ、行く宛てがないなら……ウチの子にならないか? なあ」


 女の方を見て、俺にそう言ってきた。彼女も納得しているようで、頷いている。


「……うちの、子?」


 いいのだろうか。


「そうだ。今日からキリは俺たちの家の子。俺たちの家族だ」


 家族。そう言ってくれるだけでも嬉しいものだった。どうやら、この人たちからは村の大人たちとはどこか雰囲気が違うように思える。


 二人は俺を見て、微笑ましそうに頬を緩めた。


「どうせ、俺たちには子どもがいない。どうだ? 今日から俺がキリの『父さん』で、こっちが『母さん』だ」


「『とーさん』、『かーさん』?」


「ははっ、実際に言われると、こそばゆいな」


「……いいの?」


 なんだか、話が上手くいき過ぎている気がした。それだからこそ、不安になってくる。自分の周りの大人たちは邪険に扱ってきたのに。二人はそのような素振りは全く見せていないようだった。それが少し怖い。


 そもそも、この頃の俺にとっての家族という定義がよくわからないはずだ。だって、家族がいなくて、独りだったから。


 そんな俺の不安を取り除いてくれるように、『父さん』が「いいんだよ」と言ってくれた。


「行く宛てがないなら、なおさらここに留まっているといいよ。俺たちがキリを守ってあげるから」


「おれを……守って……?」


『父さん』は俺の頭をなでてくれた。間違いない。これで確信が持てた。二人は何も知らない。そう、何も知らないからこそ、俺を絶対に守ってくれる、と。


――ここにいれば……。


「よし、そうとなれば。外出許可が出たら、役所の方に行って住民票を作ってくるか」


「キリ、お腹空いてる? 何か作ろうか?」


 もう二人は俺を殺そうとする大人には見えなかった。そうだとしても、あの大人たちが来るならば、彼らがきっと守ってくれるはずだ。彼らは言ったのだ、「守ってあげるから」と。


 俺はこの家――デベッガ家に留まることを決めた。


     ◆


 急に十歳くらいの子ども、しかもほとんどが親の躾なしに育ってきた俺の世話に『父さん』と『母さん』は初めは手を焼いていただろう。だが、一つ教えてくれるならば大抵のことはきちんと覚えれる。だから、怒られることは特になかった。もっとも、怒られるのは好きじゃないから。殴る、蹴られることを恐れていたのかもしれない。


 二人は農業をしていて、彼らの家の敷地内には畑があった。もちろん、俺は畑仕事の手伝いもした。いい子でいるために。


 それでも、一番困ったことは小動物を見つけ次第、殺そうとすることであろう。これには俺自身もどうしようもなかったから。


 小動物たちは時折、山から下りてくる。その際にその姿を見つけたならば、素早く捕らえて首に枝を当てようとするのを二人は止めていた。ここに来るまで習慣になっていたから。


「止めなさい」


 そう言われても、わかっているのに。怒られたくないのに。体が動く。反射的になってしまう。


「彼らが可哀想だろう?」


 可哀想って何だろうか。人だけに使うものではないのか。小動物にもそれはあったのか。村の人たちは殺しているのに。だから、俺は「なんでダメなの?」と訊くしかなかった。


 こういうこともあってか、俺はよく二人に病院に連れていかれた。行くところは最寄りの病院がある隣町、労働者の町。食中毒を起こさないかの精密検査をしてもらったが――。


「異常はありませんね」


 医者の言葉に二人は耳を疑っていた。


「異常はなくても、生食はあまり好ましいとは思いません。止めさせてくださいね」


 病院に行った日から、特に二人は俺の小動物を殺して生で食す悪癖というを徹底的に止めるように努めていた。まだ自分たちが一緒にいるときはいいが、他の人たちにとっては明らかな異常行動らしい。それが『非常識』である、とひたすらに教え込まれた。事実そうだ。そんなことをしているやつなんて、俺以外誰もいなかったから。


 そうして行く内に、俺の悪癖は次第になくなった。それでも体が覚えているのだろう、小動物を見ては右手を押さえつけて我慢する。そんな日々が続いた。


     ◆


 ある日、俺と『母さん』は労働者の町へと買い出しにやって来ていた。何度か来たことのあるこの町。また病院とやらに行くのかとも思ったが違うらしい。


 車を町のパーキングエリアに停め、商店街の方へと赴く。


「……ここは?」


 たくさんの人が行き交っており、騒がしい。不安だ。そう『母さん』の方を見た。彼女は「怖がらなくてもいいのよ」と言う。


「商店街よ。ここでお買い物をするの」


「おかい、もの……?」


「お金は見たことあるでしょ? 人が生きていく上で必要な物」


 その言葉に俺は頷いた。家で見たことがあるのだ。『父さん』が『母さん』に紙の何かを渡しているところを。


「それと自分が欲しい物を交換するのよ。まあ、私がしているところを見たらわかると思うわ」


 なんて言われるがまま、後を着いていく。色んな店で買い物をしていく。中でも一番印象深かったのが、セルフサービス型の食料雑貨店であった。家で見たことのある物やそうでない物が大量にある。これらとあの紙を交換する場所か。


「勝手に食べちゃダメよ」


「わかった」


『母さん』は野菜を見て選んでいる。俺ははただ隣にいて、陳列された野菜たちを見つめていた。そうしていって、彼女は次に欲しい物を選ぶために移動する。その後を着いていく。


「キリは、今日は何を食べたい?」


「『かーさん』が作るならなんでも」


 そうこうして行く内に俺たちは精肉コーナーへとやって来た。ずらりと並べられた生肉たち。それを見て口の中に涎が溜まってくるのに気付いた。


【勝手に食べちゃダメよ】


『母さん』の言葉を思い返して、そっぽを向く。我慢しなくては。俺は右手を押さえつけた。このやり方は『父さん』に教えてもらった。こうすれば、自分の悪癖はなくなるかもしれないから、と言っていたのだ。


「そうねぇ、肉巻きも悪くないわよねぇ。お肉安いし……キリ、夕飯――」


 ようやく『母さん』がこっちを見た、そこで気付いてくれた。慌てて彼女は精肉コーナーが見えないような場所へと俺を連れてくると――「もう大丈夫よ」そう、言った。


「ごめんね、気付かずに」


『母さん』はそう言いつつ、俺の右手を優しく手に取ってくれた。その優しさがあるからこそ、我慢できたんだ。『父さん』たちは怒るとき、注意するときは絶対に殴ったり、蹴ったりしてこない。それが素直に嬉しいんだ。


「おれは大丈夫だから」


 そう、二人だから大丈夫。ほら、悪癖を我慢できたでしょ? これは彼らのためでもあるし、俺のためでもある。だから、そんな悲しそうな顔をしないで。


 悲しそうな顔をする『母さん』にどう声をかけようか迷っていると「おかあさん」とどこかで聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「おれ肉食べたい」


 声がする方を見れば、そこには楽しそうに買い物をする母子の三人がいた。


「えぇ、お肉は昨日食べたじゃん。私、お魚がいいなぁ」


「ねえさん、魚より肉がおいしいよ」


「はいはい。それじゃあ、今日はどっちもしましょうね」


「やったあ!」


 三人が羨ましい。素直にそう思う。あれが本物の家族というもの。誰もが、精肉コーナーで我慢していない。視線を逸らそうとしていない。あれが常識とやらだ。いつか、あの家族のようにして一緒に買い物ができるといいな。


 じっとその親子を見ていると、『母さん』が「ごめんね、キリ」と言ってきた。


「ここでちょっと待っていてくれる?」


 その理由はわかっている。俺があっちに行ったら悪癖が出てしまうからでしょう? 『母さん』はあっちに用があるからでしょう? 俺はそれでも構わなかった。


「わかった」


 そう『母さん』は精肉コーナーへと行ってしまった。俺は暇だから、あの家族の方を見た。


「ていうか、あんた。落とし穴を掘るの止めなさいよ。お姉ちゃん、また引っかかったんだからね」


「反省はしているけど、やめないよ。楽しいから」


「お母さん、ヴィンに言ったってむだよ。こいつのヴァリエーションとんでもないから」


 通り過ぎていく母子三人。そうか、あの聞き覚えある声はヴィンだった。すごく楽しそう。


 そうしていると、『母さん』がすぐに俺のところへと戻ってきてくれた。


「そろそろ行こうか」


「うん」


 なんでそうしたのかは、未だわからない。それでもしたかったんだろうか。俺は『母さん』の左手をそっと握った。それに彼女は強く握り直してくれた。これが一番嬉しかったことだ。


     ◆


 家に戻って、俺は『母さん』にお菓子の箱を渡された。


「一度に全部食べたらダメだからね」


 そもそもお菓子を食べたことがない俺は箱を見ては首を傾げる。どうすることもできなかった。全部食べたら駄目? これをどう食べろと? それにテレビを見ていた『父さん』が「これはこう開けるんだ」と箱を開けてくれた。


 テレビ。今、視界の端に映るテレビ番組は青の王国で人気のあるカートゥーンがあっていた。俺が見るだろうとしてくれているが、この番組は好きではない。その番組に出てくるキャラクターを見るだけでも不安に駆られてしまうから。コマーシャルでもよく出てくる。それ故に『ある日』を境に俺はテレビ自体を見ようとは思わなかった。


 だから、そちらを見ないようにそっぽを向いて開けられた箱の方をじっと見た。


 そこから漂ってくる初めて嗅ぐにおい。食べられるようではある。一口食べた。ふわっと口の中に広がる甘さ。それに思わず頬が緩んだ気がした。


「どうやら、キリは甘い物が好きみたいだね」


「だったら、今度久しぶりに焼き菓子でも作ってみようかしら」


 二人は「美味しい?」と訊ねてくる。もちろん、美味しいから俺は嬉々として頷く。


【一度に全部食べたらダメだからね】


 そう言われたとしても、この美味しさを彼らにも分けてあげたいと思った。俺は二人に一つずつ手渡しをしてきた。


「おいしいよ」


「キリ」


 突然『父さん』は俺の頭をわしわしとなでてきた。唐突に何だろうかと「どうしたの?」と訊くしかない。


「な、なんか、やっちゃダメなこと、した?」


「いいや、そうじゃないさ。お前がいい子だな、と思ってな」


「……おれが?」


 よくわからない。俺はいい子? 『父さん』は俺のことを誉めてくれているようだった。それでも、誉めている意味がわからなくて、視線の置き場にこまって、お菓子の箱を見つめる。


「みんなのことを思っているお前はいい子だってこと。そして、そのいい子には必ず、いいことや幸せなことがやってくるんだ」


「そうなの?」


「ああ、その幸せって言っても大きく一度には来ないけれどもね。小さな幸せって言った方が正しいかな? その心掛けをしているならば、その小さな幸せは積に積み重なって大きな幸せになるんだ」


 幸せ。ああ、そういうことか。俺はいい子にしていたから、こんな不安になることなく、この家に留まれるから。幸せなんだ。


「ふーん、じゃあ……おれ、幸せだ。『とーさん』と『かーさん』がいるから」


 この生活は俺にとって一番の幸福である。そう言ったら、二人は優しく抱きしめてくれた。まるで、本当の家族みたいに。


 ああ、ずっとこの笑顔が見られたならば。ああ、ずっとこの幸せが続いたならば。


 何がいけなかったのだろうか。


     ◆


 しばらく月日が経った頃になると俺はどこにでもいるような普通の少年として成長していった。もう小動物を見掛けても殺して食べようとは思わないし、右手を押さえるまでにも至らなくなる。『父さん』たちはそれらを見掛けたならば、愛でるようにと指導をした。


「もふもふ、気持ちいい」


 そのおかげで、俺は小動物の体に顔を埋めて毛並みを堪能するほどまでの好意を抱くようになった。


 また二人からは文字を教えてもらったり、簡単な計算の仕方も教えてもらった。普通に生活していて、何ら支障は一切ないくらいに。自分で考えて行動することもできるようになった。


 俺は特に本が好きになった。よく『父さん』の書斎の方へと赴いてはなんでも読んでいた。それだから、いつも俺にとって興味深そうな本を買ってきてもらっていた。


「ありがとう」


 最初は警戒をしていたが、俺は毎日が幸せだった。


「そんなに本が好きなら、軍人育成学校とかどうだ? 軍人にならずとも、何かしらの資格は採れるだろうし、図書館もあるから本も読み放題だぞ」


「……うーん、考えておくね」


 昼は農作業を手伝い、夜は寝室でのんびりと本を読む。それが今の俺の日課だ。これが今の俺にとって幸福。何も恐れることはない。ずっとこのままこの幸せが続いたならばいいのに。学校には興味なんてない。なんて思いつつも、今日も俺は農作業の手伝いをしていた。田畑の周りにある畔道の雑草を抜いているのである。


 雑草には食べられる物と食べられない物があると二人からから教わった。それを実際に野草の図鑑を見て知った。今に引き抜いた物は食べると腹痛と共に嘔吐下痢を併症してしまうらしい。食べない方がいいと言われているため、手に持っている物を端へと捨てた。


 そうしていると、『母さん』から呼ばれた。


「どうしたの?」


「ちょっと、お父さんあっちの山道の方に行ってしまったんだけれども、もうすぐお昼だから呼んできてくれる? 連絡機忘れちゃっているみたいだから」


「わかった、行ってくるよ」


 早速、家の敷地内から出て、山道の方へと駆けていく。今日の『父さん』は村の当番であり、一人で山道の脇にある草木の整備をしているはずだ。


 俺たちの家は鬼哭の村へと向かう山道を挟んだところにある。その山道へと入っていく。車の通りも人の通りなどもない。だが、それがいい。走る足を止めて歩き始める。のんびりとしたのが大好きだから。


「天気いいなぁ」


 空を見上げる。雲一つない青空が木々の隙間から見えていた。


「『父さん』!」


 ふと、前の方で木の剪定をしている『父さん』を見つけて、声を掛けて近寄る。その声に気付いたようにして、彼は脚立から降りてきた。


「どうしたんだ?」


「母さんがもうすぐお昼だからって」


「えっ、本当?」


 連絡通信端末機をポケットから取り出そうとするも、忘れて行っていることすら忘れているらしい。『父さん』は失くしたと思い込んでいたようだ。その姿に小さく笑いながらも「家にあるよ」と教えた。


「『母さん』から聞いたけど、家にあるってよ」


「……あぁ、そっちかぁ。それなら、仕方ないな。じゃあ、キリさ、先に行って片付けてから来るって言っておいてくれないか? すぐに来るからさ」


「わかったよ」


 俺は『母さん』にそのことを報告するために家の方へと戻り出す。今日のお昼は何だろうかと楽しみにしていると、村の方から二人の男性の姿が見えた。ぞわっと背筋に鳥肌が立つ。


【お前も殺せばよかったんだ!!】


 あのときの村長の言葉を思い出してしまった。俺の目に二人は自分を殺しに来たものだと映っている。山道の脇の茂みへと身を潜めた。それに男たちは気付かない。


「そう言えば、数年前に村に来た若夫婦のところに、『罪人の子』に似た子どもを見掛けたけどよ……」


「ああ、知らねぇのか? 村長が泳がせているんだとよ」


「泳がせるだって?」


「ほら、あいつも年齢的に出稼ぎや軍人育成学校として入れるはずだろ? だから、最後にそのときを狙って気付かれないように殺すんだよ」


「へぇ、まだくたばっていなかったのか。うん? じゃあ、ずっとあの夫婦のところにいたってことか?」


「そう。今は養子としているらしいがな。早いところ、王国軍にバレずして手を打ちたいらしいぞ」


 耳障りな笑い声が聞こえていた。逃げ切った先でも村長はいた。あのときに断ち切ったはずのそれは切れていなかった。嫌な思い出がよみがえってくる。


 村長に泳がされていた? 気付いていた? 本当は『父さん』も『母さん』も知っていたからこそ? 彼らは手を密かに組んでいた?


【軍人育成学校とかどうだ?】


【年齢的に出稼ぎや軍人育成学校として入れるはずだろ?】


 男性二人が通り過ぎても、俺はしばらく呆然とその場に居続けた。


 ようやくして山道へと出た。誰もいないその閑静な道路より帰路に着く。足取りは重い。二人がこちらに向けていた笑顔は全部嘘なのだろうか。疑心が心を支配していく。信じるべきか、否か。


 家の方へと帰ると、『母さん』が「お帰り」と言ってくる。


「お父さんより遅かったね。さあ、ご飯食べよう?」


「…………」


 妙な気持ちが心の中に留まりながらも後を着いていく。ダイニングの方へと行くと、『父さん』が「遅かったな」と笑顔を見せてくれる。その笑顔は本物か。


「さあ、食べようか」


「うん」


 席へと着き、『母さん』が作ってくれたお昼ご飯を食べる。俺の好きなフルーツサンドがある。それを手にして静かに口を動かしていると、二人が「キリ」と呼びかけてきた。それに顔を上げる。ミートパイに手をつけるために、フォークを握った。


「お前もそろそろ、いい年だし。今年か来年あたりに学校とか、どうだ?」


「…………」


 あの会話を聞いての、この話。手が止まる。


「そこなら、キリが読みたい本もたくさんあるし、行ってみないか?」


「それもそうね。キリ、本が好きだもんね」


 フォークを握る手が強くなる。


 嘘だった、すべて。知っていたんだ。俺が『罪人の子』だって。本当は二人を信じてはいけなかったのか。


「……二人は……本当は俺が……罪人の子だって知っていたの?」


「き、キリ? どういう意味?」


「……本当は、俺を家から出したふりして殺すつもりだったんでしょ?」


「何を言っているの? 私たちがそんなことするわけないじゃないっ!」


「そうだぞ、俺たちはキリの将来を思って――」


 絶対嘘だ。


【軍人育成学校とかどうだ?】


【年齢的に出稼ぎや軍人育成学校として入れるはずだろ?】


 そうでなければ、このような偶然など一致するはずもない。俺を家族だと嘯いたのも、殺すため。すべて間違いだったのだ。この家に居座るべきじゃなかった。何が「守ってあげるから」だ。本当に守るのであれば、この家から出そうとするはずもないのに。村の学校には行かなくてもいいと言っていたのに。だから、安心してこの場に留まっていたのに。


【あなたは――】


【だから――】


 本当は完全に己の存在を消しにかかってきているのか。『あの男』と同じように。


 存在してはならない『器』。


――それだからこそ、死ねと? 冗談じゃない。


「お前ら、村長とグルだったんだろっ!?」


――断ち切らなきゃ、断ち切らなきゃ、断ち切らなきゃ……!


 俺は料理小分け用のナイフを手に取った。理由は明白。断ち切るため。それに『父さん』は「止めなさい!」と手を掴んでくる。


「俺たちは家族なんだぞ! お前を嫌ったりなんかしないし、俺たちはお前の味方だ!」


 絶対嘘だと思った。もう信じられなかった。その話を持ち出す時点で殺す気あったんだ。最初から知っていたんだ。自分を殺すために嘘をついていたのだ。


――早く、断ち切らないと。


 目の前の二人は完全なる敵。だからこそ、『父さん』の首に目掛けてナイフを突き立てた。それに伴い、掴んでいた手を緩める。反発されていた力がなくなって、勢いつけたまま喉を掻き斬った。迸る血潮と共に彼は倒れてしまう。それに『母さん』は悲鳴を上げた。その叫びで助けを呼ぶ気のは許されない。


 今度は『母さん』の首にも刺そうとする。


――追いかけてくるなら、断ち切らないと。


「お願い! キリ、止めて!!」


「うるさい! お前らが俺の存在を消そうとするから!!」


「何を言っているの!? あなたが存在してはいけないなんて――!!」


――そんなの嘘だ。


『母さん』の喉にナイフを突き刺した。彼女は息絶えた。なぜか、涙を流して。


 二人が動かなくなったことを確認すると、俺はその場にナイフを捨てた。ここで断ち切ったとしても、追手は来る。逃げないと。どこへ逃げたならば、いいのだろうか。


『父さん』の書斎へと向かう。そこで地図帳を広げた。ここは青の王国と黒の皇国の国境沿いにある村。


 黒の皇国は――。


【お前の父親は皇国軍に寝返ったが、その報復で死んだ】


「……違う、俺の父さんはそんなことしない」


 あの言葉を信じたくなかった。


【おとうさんってどんな人だったの?】


 何度か食品雑貨店で見掛けるヴィンが自分の母親にしていた質問を思い出した。彼の父親は皇国軍によって殺されたらしい。


【優しい人よ】


【そうなんだ】


「俺の父さんも……『本当』は『皇国軍』に『殺された』んだ」


【母親もろともくたばっちまえばよかったんだ】


 今になってようやくわかったこと。あの誰のかわからないお墓は俺の『本当』の父さんと母さんのお墓である、と。彼らは侵攻戦時、皇国軍に殺されたはず。そう、黒の皇国軍に殺されたからこそ、皇国軍が存在するからこそ――俺はその仇を取らなければならない。


 それならば、仇を取るためには――。


 ふと、『父さん』の机の上に一枚の広告があった。それは軍人育成学校の学徒隊員を募る物だった。


『悪を断ち切れ! 学徒隊員募集中!』


 必要な物は学費と住民票のコピー。


 住民票――。


 俺は『父さん』たちの養子であるし、その登録も役所がある労働者の町で行っていた。そこに行けば、住民票はもらえるだろう。


 残りは学費。


【人が生きていく上で必要な物】


『母さん』はお金をそう言っていた。ならばと一度ダイニングの方へと戻り、『父さん』のポケットから鍵と連絡通信端末機を取り出した。その鍵で机の引き出しを開けて中からもう一つ別の鍵を取り出す。これはこの家の金庫の鍵。


 金庫を開けて、中にあるお金を取っていく。カードには一切手を触れない。そして、そのお金を鞄へと詰め、着替えも詰めた。返り血を浴びた服も着替える。取った端末機は自身のポケットにねじ込んだ。


 着々と家から出る準備をする最中、ダイニングに転がる死体をどうしようか迷っていた。ああ、そうか。見つからなければいい。俺は外へと出ると、家の裏手の方へと回り込み、穴を掘り始めた。大人二人分が入れるくらいの物をだ。


『父さん』たちを埋め終わった頃は夕方だった。


 そのまま家の中へと入り、電気をつけずして改めて荷物の整理をしていると、誰かが家に訪れてきたらしい。呼び鈴が鳴った。出る気はない。ただ、家に訪れてきた者たちがいなくなるまでひたすら静かに待つ。


 しばらく玄関前に佇んでいた影はいなくなる。まとめた荷物を持って裏口から出た。空はすでに薄暗い。


 俺は家の鍵を手にして振り返らず、山道から入らずして労働者の町へと目指すのだった。


     ◆


 労働者の町に着いたのは真夜中だった。それでも役所は開いている。きちんとカウンターにも人がいる。利用者たちもちらほらといたが、鬼哭の村の者たちはいない。そこで住民票のコピーをもらい、役所をさっさと出た。


 今日はこの町のどこで過ごそうか迷っていると、公共機関のターミナルの施設の建物が見えた。


【ターミナルはね、お金払って自分が行きたい町に行けるのよ】


 よく労働者の町へ買い物に来ていたときに『母さん』が言っていた。まだ営業はしているらしい。広告を見た。受付場所は王都にある軍基地だ。ならば、王都へと向かえば、軍基地はあるはずだ。


 王都行き最終便へと乗り込んだ。


――ようやく、断ち切ることができた。


 動き始めるそれに一安心する。もう追手は来るまい。忘れよう、今日のことは。


 誰も乗っていない車内で一人目を瞑った。


――これからは誰からも『罪人の子』なんて言うやつは絶対にいないはず。当然、言われたことがないと嘘をつこう。今までの俺のことは『捨てる』んだ。


 すべて掻き消さなきゃ。あの記憶がまだ残っていたからこそ、断ち切れていなかったんだ。今度は完全に断ち切り、記憶を抹消しよう。なくそう。『新しい自分』を作ろう。そうすればいい。


 俺は軍人になることを夢見る。それは己の忌まわしき記憶を隠すために。なかったことにするために。自分の『存在を守る』ために志す。それが俺の意志であり、切望なのだ。

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