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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第一章 巡り出会う者たち
7/96

和解

 とてつもなく悩ましかった。先日の一件によって衝撃的な事実が多過ぎているようだ。それに関して悩み過ぎて、体調を壊してしまいそうな勢いである。色んな思いや考えが浮かんでは消え、現れては去って行くの繰り返しだった。その悩み事のせいで、授業内容にも身につかない。夜に寝るとき、食事を採るときだってずっと同じような内容がぐるぐると回って気持ち悪くなりそうなほどだ。


 ぼんやりとキリは廊下を歩いていた。いつもならば、誰かの会話の内容が多少なりとも入ってくるのだが――頭の中に浮かぶ物事がそれを許さなかった。聞き入れさせようとせず、割り込んでくる始末。


「キリ君」


 そう誰かに声をかけてもらっても、キリ自身が気付いたのは肩を叩かれてようやくである。声をかけてきたのはハイチとハイネ。彼らを見た瞬間、彼は二人の方を見れなかった。特にハイチの存在が気にかかる。


「またなんか考えているのか?」


 ハイチは心の奥底で薄ら笑っているのだろうか。本当は彼があの『腕なし』ではないだろうかと思ってしまう。


「いえ、なんでもありませんよ」


 あなたは商業の町の地下博奕闘技場にいた半異形生命体ですよね? その質問が脳裏に過るが、口に出せなかった。ハイチはよき学徒隊の先輩と見ているし、何よりハイネの存在が大きい。彼女は施設にいなかった。もし、ハイネがその質問を聞いたら? 絶対悲しむだろう。それだからこそ言えやしない。


「の、割には元気ねぇぞ! 元気出せよ!」


 ハイチは白い歯を見せて笑いながらキリの背中を叩いた。少し痛いが、彼の手は本当に人の手か? ハイチはいつも黒い手袋をしている。あの腕なしでさえも同じような手袋をしていたのだから。この手袋の下は本当に人の手か? 取ったらどうなるのだろうか、という悪念が過る。


「そう言えば、デベッガって――」


「ハイチさん」


 キリはハイチの言葉を遮った。


「その、あの。前から気になっていることがあるのですが」


 キリは怯え腰にハイチの黒い手袋を指差した。


「なんで、手袋をしているんですか?」


 その質問を言い放つと、場の空気が一瞬にして変わった気がした。その空気は何もハイチだけではなく、ハイネも出している状況のようである。彼らが怖くて顔を上げられない。この耐えがたい空気をどうにかして欲しかった。


「どうしても知りたいか?」


 ハイチの独特な低い声が聞こえてきた。あまりにも低い声音。もしかしたならば、聞いてはいけない質問だったのかもしれない。だが、あと戻りはできそうにない。


「は、はい」


「じゃあ――」


「キンバーさん」


 またしても、ハイチの声を遮るようにして、誰かが声をかけてきた。それはケイだった。彼は手に任務指示書を持っていた。


「あっ、えっと、ハイネ・キンバーさん」


「わ、私?」


 自分のことだったのか、とハイネは少し焦りを見せていた。ケイは彼女に一枚の任務指示書を渡した。


「リスター副隊長が任務の件でだそうで。俺もなので一緒に行きましょう」


「う、うん。じゃあね、二人とも」


 ハイネは少し名残惜しそうに二人に対して手を振ると、ケイとブレンダンの部屋へと行ってしまった。残された二人。ハイチは完全に彼女の背中を見送っている。彼らの姿が見えなくなったところでキリの方を向いた。その視線はどことなく冷たい気がした。


「これが気になるんだっけか?」


 キリは小さく頷いた。それにハイチは右手の手袋を普通に取った。その下に隠れている素手を彼に見せびらかした。その手はひどく、真っ赤に焼けただれた火傷あとのある手の平だった。見るからに痛々しいその手は、思わず目を逸らしたくなるようなものである。


「え?」


 腕なしの腕は――手は真っ黒だった。それこそ人の手とは思えないくらいの不気味さが窺えるくらい。


「あの坊ちゃん、ナイスタイミングだったよ。これハイネにはあんまり見せたくないからよ」


 ハイチはそう言うと、右手を再び手袋で隠した。


「火傷、ですよね?」


「昔な。正直な話、手の平だけじゃない。手から肩にかけての両腕だよ。ほら、自分の傷なんて他人に見せびらかすものじゃないだろ? つーか、俺は嫌なの。だからこうして隠しているんだよ」


「そうですか」


 どこか安心した様子でキリは顔を上げた。


――そうだよな、彼がハイチさんなわけない。何を疑っていたんだろう?


「ていうか、本当に大丈夫か?」


 怪訝そうにハイチは見てくる。もちろん、疑いが晴れ晴れしくなった彼は「大丈夫です」と答えた。


「心配をおかけしましたね」


「いや、それ以前にデベッガは俺の手のことでずっと悩んでいたのか? あまり気負いすると疲れるぜ? 気になることがあれば、気軽に聞けよ。わかる範囲なら答えてやるから」


「もう大丈夫ですよ」


「それならば、二人が戦ったらどちらが勝つんですかねぇ?」


 毎度ながら、どこからともなく現れるアイリ。あまりにも突然過ぎて、今回はハイチも驚きを隠せないようだった。


「いきなり出てくるなって言わなかったっけ?」


「女心は変わりやすいものだよ」


 以前の忠告を勝手になかったことにされている。無性に腹が立った。何が女心だよ。ンなモン知りたくもねぇよ。


「ハルマチはいきなり何を言ってんだ? 俺とデベッガが対決だって?」


 結果が目に見えるような話である。本当にアイリは何を言い出しているのだろうか、とキリが思っていたが――。


「面白そうだな」


 どういう風の吹き回しか、ハイチが賛同し始める。これにキリはたじろいだ。慌てふためく。


「ま、待ってください!? 面白くもなんともないですよ!? ハルマチ、滅多なこと言うなよ!」


「えぇ、いいじゃん? 次席対戦力外、みんな面白がって見るよ」


「俺の負け面を面白がる他、何も期待されていないし」


「いやいや、デベッガよ。これはわからない戦いになるぞ?」


 珍しくハイチはアイリの味方をする。キリとの対決をしてみたいと言わんばかりのこの目の輝かしさ。彼は何を期待しているのか。


「ハイチさん、わかっていますか? 俺と次席であるあなたが直接戦うんですよ? これだけ目に見えている結果に何を期待しているんですか?」


「おいおい、それは周りの評価だろ? これでも俺はお前のことを買っているんだって。本当のデベッガは戦力外なんかじゃない、俺でも想像つかないバトルスタイルを持っているはず!」


 ハイチの攻撃を必死に逃げるだけで、策も何も思いつきそうにもない自分にどうしろと?


「日程はどうする?」


「今すぐ辺りでいいんじゃないスか?」


「ちょっと待ってくださいよ。俺の意見は総無視?」


「あー、次授業だったわぁ。もう休み時間でよくね?」


「それは仕方ありませんねぇ。じゃあ、休み時間に訓練場で」


 彼らはキリの意見に聞く耳を持たずして、話を進めていく。というか、ほぼ決まったようなものである。アイリとの時間と場所の確認をし終えたハイチは「楽しみにしているぜ」と言い残してその場を去ってしまった。


 断ろうとしたが、口を挟む余地がなかったキリは蒼白状態である。彼の顔を覗き見たアイリは「青いよ」と当たり前の指摘をしてくる。


「いや、お前のせいだから! 何勝手に決めているんだ! 勝負決まったようなものだろうが!?」


「えぇ、決まっていないじゃん。きみは運命を変えられるんでしょ? 変えればいいじゃん」


「そう、易々と変えられたらこんな苦労はしねぇよ……って、できるかっ! これを人の前に見せびらかせろとか! ただでさえ、ライアンやシルヴェスターにも見られているってのに!」


「いいじゃん。何が不満なの?」


 アイリは腕を組み、どこか不服そうな表情を見せた。明らかに頬を膨らまかせている。


「危険だろ! これがどんな代物なのか知っているなら、普通は人に見せないから」


「じゃあ、見せたって事実を見せなかったってことにして、書き変えればいいじゃん」


「なんで、ハルマチはそう……。もういい。普通に戦って負けるよ。それが一番だ」


「いいや、それが一番つまらない。使えばいいじゃん」


 彼アイリもアイリで意地を張る。キリに歯車の剣を使わせようとする。確かにその剣を使えば使うほど使いこなせるだろうが、普通の人間相手に使うのもどうかと思う。


「とにかく、俺は使わないからな」


 キリはそう断言すると、その場をあとにするのだった。


     ◆


 授業時間はあっという間に過ぎ、休み時間となった。行かなければならないのか。教室の自分の席で憂鬱な気分に浸るキリ。そこへアイリが登場する。


「お兄さん、時間っスよ」


 キリは机に頬杖をつきながらアイリを見た。と、ここでガズトロキルスが小首を傾げる。


「ハルマチじゃん。どうしたの?」


「今からデベッガ君が次席とタイマン張るってさ」


 アイリのその発言に教室中がざわめき出す。一斉に注目を浴びるキリは恥ずかしくて仕方がなかった。実際に周りの反応は彼を白眼視していたから。ありえない、その視線の言葉がキリの体中に突き刺さる。


「キリとあの人が!? あの人はなんて言っていたんだ?」


 友人のガズトロキルスでさえも瞠目をしている。アイリは自分のことのように得意げになってすべてを話した。それは周りの生徒たちにも話している気がしてたまらない。


「楽しみだって言っていたよ。彼でさえも想像がつかないバトルセンスを屈指してくるだろうって警戒してた」


「何それ。いつの間にキリは強くなったんだ?」


「なってねぇ! 俺は結果が見えているから断ったんだ!」


「でも、やるんだろ?」


「それは全部ハルマチのせいだよ!」


 正直な話、ハイチと戦いたくない一心でキリは逃げようとしていた。だが、そういうことがアイリに効くとでも? 彼女に腕を掴まれてしまう。


「はいはい、話しはあとで聞きましょうねぇ。次席が訓練場でお待ちかねですよ」


 さりげなく対決の場をこぼす。これによりキリの教室の生徒たちは物珍しさや暇潰しもかねて行ってみようという話に膨れ上がってくるではないか。それに彼は本気で止めてくれ、と言いたげであった。


 キリたちが訓練室に向かったあと、同じ教室にいたケイは眉根を寄せて彼がいなくなった机を見ていた。


     ◆


 校内のロビーからどことなく楽しみだと言わんばかりに、ハイチが訓練室へと向かうのをハイネは見かけた。何があったんだろうかと、気になる。


「なんかあったの?」


「おう、今からデベッガと対決をするんだよ」


「対決? ボードゲームとか? それならハイチは絶対負けるよ」


「そんなお子様ゲームじゃねぇ。ガチバトルだよ」


 そうハイチが言うと、ハイネは目を大きく見開いた。言葉が詰まってしまう。ガチバトルとは一対一での物理的な攻防戦のことだろうか。


「えっと、普通に殴り合いとか剣術とかそういう戦いのこと?」


 ハイネの疑問にハイチは「おうよ」と是認する。


「あいつって、どういう戦い方をしてくるかな? 意外にもデベッガって結構やらかしてくれているみたいだし」


「……それ、キリ君が勝負しようって言ってきたの?」


 ハイネの顔色は不安要素が窺えた。眉をひそめ、疑わしい様子である。


「いや、デベッガじゃなくてハルマチだな。どっちが強いかって話になってよ」


「キリ君には失礼だけど、ハイチが勝つに決まっているよ。彼だって自分の力量は理解しているはず。断らなかったの?」


「いや、結構謙遜にしていたな。物理的に強いっていうわけじゃなさそうだけど、自分が勝てる戦法とか案外持っていそうだよな」


 絶対ない。キリには申し訳ないが、おそらくはどんな作戦や策を立てようが、ハイチに勝てるだなんて思っていないはず。


「そんなにあいつのことが気になるのか? 問題ねぇよ。大怪我とか負わせねぇし」


 そういう問題ではない。一番の問題はキリの敗北時だ。彼はわかっていながらも、断っていながらもハイチに戦いを挑まされた可能性が高い。その勝負に負ければ、キリは傷付くはず。もっとも、見物に来た者たちに追い打ちの言葉を受けるとなると――。


「気になるなら、訓練場に来いよ。休み時間にやるからよ」


「行く」


 ハイネは頷くと、ハイチのあとに着いて行きながら訓練場へと向かうのだった。


     ◆


 噂を聞きつけたのは何も自分と同じ教室の者だけではなかった。同学年や上級生とギャラリーが訓練場の壁周りを埋め尽くしていたのだ。その中の大抵の者はキリを見て嗤笑したり、鼻で笑ったりと明らかに「次席には勝てない」と断言している。


「なんで、こんなに多いの?」


 嘲笑よりも人数が気になる。アイリが周りに言い触らしたに違いない。どこかそんな確信があるキリは彼女の方を見たが、眉をしかめられた。


「そこまで呼んでいないし。同じ教室の子に呼びかけた程度」


 それでも納得しかねない。アイリの傍らにはメアリーがいた。彼女はどこか心配そうな目でキリを見ている。


「デベッガ君、大丈夫?」


「に見ないで。勝てる自信は微塵もないから」


 アイリが呼び込みをした者たちを除くならば、どうして上級生はこの話を耳にしたのだろうか。そうキリが不審に思っているとポケットに手を突っ込んだままハイチが訓練場に登場した。彼は気楽そうに周りのギャラリーを見る。


「予想以上に集まったな。三回生はハルマチだろ」


「それはそうと、上級生はクラッシャー先輩が呼びました?」


「ご名答」


 ハイチはにやりと不敵な笑みを浮かべた。何がおかしいのだろうか。にやにやと笑っている。


「俺はどちらが勝ちだなんて微塵も興味ねぇ。デベッガ、お前が戦力外じゃない証明をこの場で紹介しろよ」


「そんなっ……どう足掻いても俺にはその証明は厳しいです! 期待もしないでください!」


 否定をするキリに、ハイチは彼の背中を一発叩いた。


「そんな謙遜するなって。お前は強い。ディースを伏せたその姿をこの目に焼きつけているんだし、ライアンを異形生命体から助けて逃がしたんだろ?」


「しかし――」


「おいおい、語るなら、だ」


 ハイチは訓練場の真ん中をあごで差した。その場にいる全員に注目を浴びる。語るならば、戦場にて己の拳で語れ。彼はそう言いたいのだろう。二人が訓練場の真ん中まで歩み寄ると、ハイチはアイリの方を見た。


「おい、対決方法を言い出しっぺが決めろ」


 そう言われたアイリは自身のことを指差した。ハイチは頷く。


 ふと、とある視線にキリはそちらを見た。ハイネだった。訓練場の出入り口付近で不安そうな表情をこちらに向けている。どうやら彼女と自分が考えていることは合致しているらしい。ハイネもキリがハイチに勝てるとは思っていないだろう。


「キリ君」


 今、この場で棄権すれば、どうなるんだろうか。これからの戦いに恐れをなしたキリがアイリに棄権を言い渡そうとするも――。


「第一にこの戦いを棄権するならば、学校を辞めること!」


 もう棄権ができない。このドンピシャなタイミングで一つ目のルールを言い渡すのは、アイリ自身もキリの心内に気付いているから? わざとなのか?


「第二に勝敗判断はどちらかが死ぬこと!」


 流石のハイチも耳を疑った。いや、その場にいた全員が驚きを隠せない。二つ目のルールにアイリは本気で言っているのか?


「第三に――」


 次のルールの前に、ハイチは止めた。アイリはどこか不服そうにしている。


「なんですか」


「二つ目って、そりゃないだろ。俺、デベッガを殺す気ねぇし、きっと向こうもそう」


「そんなのやってみなくちゃ、わからないですよ」


「いや、それ以前に大問題だろ」


「……わかりましたぁ。ルール変更です、第二の勝敗判断はどちらかが気絶、もしくは戦闘不能に陥ることぉ」


 明らかにやる気がなくなっている。アイリはどちらかが死ぬことを望んでいたというのか? それはそうとなれば、本物のカムラのような人間だと言わざる得ない。彼女はこれを自分に使わせるために、あのルールを言い出したのか。


 キリは制服の下に隠している歯車のアクセサリーを気にしながらも、だらだらとルールを発表していくアイリを見た。


「第三に武器の使用は認める。各々の得意武器を扱うこともあり。なお、拳銃や真剣も可」


 どうやら是が非でも歯車の剣を使わせたい様子。絶対に使用するものか、とハイチの方を見た。


「デベッガ、武器は使うか?」


 体術で勝てる見込みは一切ない。それならば、多少の可能性がありそうな武器を扱おう。キリはその質問に小さく頷いた。この場が訓練場であるため、傍らにある倉庫には武器類が備わっていた。だが、流石に本物の銃火器類や真剣はあるはずもなく、扱えそうなのは木剣ぐらいしかなかった。キリがそれを持ってくるも――。


「じゃあ、俺はこれを使わせてもらおうか」


 ハイチが手にしているのは学徒隊員全員に配給される携帯小型銃。下手に発砲されては、と銃弾は装填されていないはず。キリは銃身で戦うつもりなのかと思ったが――どこから手にしたのか、ハイチが銃弾数発を装填し始めていた。これに周りの口が塞がらなかった。


「は、ハイチさん? それは?」


「今回のために倉庫からくすねてきた」


 キラキラと淀みのない笑顔のハイチ。生死に関わるルールについては口うるさくしていたのに、それはいかがなものだろうか。少し離れていてもわかる微量の火薬臭。下手にその攻撃を受けたならば、死んでしまうのだ。それをわかっているのか?


「……俺が死にますけど。ていうか、それこそ流れ弾で怪我人が出ますよ」


「そこはデベッガがなんとかするだろ」


 ばかの一つ覚えのような、なんとかなる精神論の持ち主。この人は自分に何を期待しているのだろうか。


「いや、俺に期待されても」


 表情を引きつらせるキリ。彼の心情には周りが同情してくれているようだ。しかしながらそれにハイチとアイリは気付いていない。彼女に至っては気付いていないふりをしている様子。ふざけんなよ。


「あれなら、これを貸すけど」


 見かねたアイリは短剣を一本渡してきた。こんなので勝てない。飛び道具に対してリーチの短い剣で挑むなど無謀に近いから。それでも戦いから逃げ出せそうにないキリは短剣を受け取り、もう片方の手には木剣を握るしかない。ハイチに向けて身構えた。彼もいつでも動けるように見据える。準備が整った二人を確認したアイリは数歩下がると、両者に準備の確認する。


「準備はいいですか?」


「おう」と、意気揚々に口角を吊り上げるハイチ。


「ああ」と、心の準備自体ができていない面持ちのキリ。


 非情にもアイリは合図を上げた。瞬時にハイチがキリの真後ろへと動く。その一瞬にかろうじて彼は反応ができた。銃身で殴ろうとするそれを木剣で受け止めたのだ。金属音にキリは顔を歪める。嫌な音だ。


 次の攻撃を仕掛ける前に、ハイチが先に腹へと蹴りを一発入れた。身構えがなっていなかったキリは木剣の握る手を緩めた。


 ハイチはそれを見逃さなかった。木剣を払い、銃口をキリの額に押し当てる。


――死。


 瞬間、キリは恐怖心に駆られる。駆け巡る恐怖。死にたくない。その思いに半ばやけくその彼はアイリから受け取った短剣を素早く突き立てようとするが、刃先は銃口に刺さった。


 予想以上のキリの行動に、驚きを隠せなかった。今のは、という疑問を抱きながらも、木剣の反撃を避ける。


「あぶねっ!」


 ハイチはキリとの間合いを取った。銃口には短剣が。これは直感で行動をしているのか? 彼を見ると、肩で息をしている。すでに息を切らしているようだった。


「…………」


 キリの息を整わせずして、ハイチは動く。


「うぐっ!?」


 攻撃着眼点の見定めが遅い。腹を殴られた。隙は大きい。ハイチが無表情で顔面を銃身で殴ってきた。口の中を切ってしまう。口の中に鉄の味がして気分が悪い。


 それでも、とキリは間合いを取ろうとするが、ハイチはすぐに詰め寄ってきた。


――ハイチさんのペースから逃げろ!


 巻き込まれないため、飲まれないため。逃げるしかなかった。必ず距離は取る。取らなければ。取らないと――!


「逃げているじゃねぇか」


 誰かの呟き。キリの耳に届く。


「なんで、あいつは次席に戦いを挑んだんだ?」


「次席曰く、戦力外にはなんかの力があるからだって」


「なんじゃそれ。戦力外は戦力外だろ? さっきの回避だって偶然だろ」


「言えているな」


 小言がはっきりと聞こえてくる。ギャラリーは決して大声で出していないのだが、はっきりと聞こえていた。


 それでも逃げ回るキリに痺れを切らしたのか、ハイチは足を止めるどころか構えることすら止め始めた。罠かとも思えたが、一度勝負に出てみる。木剣を構えた。


「……つまらねぇ」


 小さな呟き声が聞こえてきた。声音はひどく低い。キリの手が止まりそうになりそうだったが、目にも止まらぬ速さで奪った短剣の柄で打たれてしまった。一瞬にして彼は床の上に転がった。


「ああ、つまらねぇ。つまらねぇ」


 ハイチは短剣を下に落とした。金属音が少しばかりざわつく訓練場に響く。その音にざわめきは時間が止まったように静まり返っていた。自身の吐息が聞こえるだけ。ハイチが向けてくる視線は冷たかった。


「何逃げているんだ?」


「えっ?」


「力がこもってねぇぞ。それで次席様に勝てると思っていたのか?」


 勝てるだなんて最初から思っていないのに。向こうが勝手に思い込んでいただけなのに。キリの心の中にはもやもやとした苛立ちが募りに募ってくる。自分は悪くない。


「あーあ、期待はずれだな。結局、逃げる以外どうしようもないのか。嘘つき」


――お前が勝手に決めつけていただけだ。


「やっぱり、お前は戦力外かぁ」


 奥歯が浮いている気がした。起き上がってハイチを殴りたい。できるか――否、不可能である。自分が彼に勝てるわけないのに。


「止めだ、止めだ。これ以上続けても意味がねぇ。時間の無駄だったな」


――悔しい、ムカつく。ああ、ムカつく。


 もう自分がどうなろうが、知ったこっちゃない。キリが勢いよく立ち上がろうとすると――。


「ひどい!」


 少し甲高い声が聞こえてきた。その声の持ち主はハイネである。彼女はひどく怒っているようで、眉の端を吊り上げていた。


「その言い方はひどいっ!」


「ああ?」


 ハイチは鬱陶しそうにしていた。それでもハイネは臆すせずに、彼らのもとへと割り入ってきた。


「キリ君だって頑張っているの! 頑張ってあんたから勝とうとしているの! いい加減にしなさいよ!」


 ハイネに対して彼は鼻で笑う。


「こいつのどこが? ただ逃げるだけの戦力外じゃねぇか。どうも俺がこいつのことを買い被り過ぎていたらしい。夢でも見ていたんだろうな。戦力外が信頼できる人間じゃねぇってことだ」


「そんなことないっ! 私は信頼している! キリ君は優しい人なの!」


「あー、もう。勝手に言っていろっ! そこで寝転がっている使えねぇやつにでも一生寄り添っていろっ!」


 そうハイチは吐き捨てると、訓練場を出て行ってしまった。ハイネは呼び止めようと、手を伸ばすが――届くわけもなく、手を下ろした。周りはより騒がしくなる。


「ハイネさん……」


「ハイチが、ごめん。あんなことを言われるようなキリ君じゃないのに」


「事実ですし、仕方ないですよ」


 キリは無理やり作った笑顔をハイネに見せた。その作り笑顔が双方ともに傷付く。嫌な気分に陥ってしまう。


「……優し過ぎるよ」


 その場にいることがつらい。そう感じるハイネは訓練場を走って行ってしまった。


「ハイネさん!」


 慌ててキリも追いかける。そんな彼のあとをアイリは追うのだった。


     ◆


 むしゃくしゃする。しかめっ面でハイチは寮のラウンジへとやって来た。多少の生徒にお構いなしでソファに座り込んだ。その苛立ちは彼らにも伝わっており、一人その場から去ってはまた一人去って行った。


「随分と苛立っているようで」


 眉間にしわを寄せるハイチの前に現れたのはケイだった。彼は小さく聞こえないような舌打ちをする。


「貴族のお坊ちゃんがなんだよ」


「デベッガの件だ。随分とあいつを買い被り過ぎているようだ。何を以て期待を寄せている?」


「前に言わなかったか? でも今日わかったよ。俺の勘違いだった」


「そのようで」


 ハイチの眉は少しばかり動いた。こめかみには青筋が立っている。事実を指摘されたことが原因か、それに腹が立っていた。


「デベッガが強いと思うのは執念と運のよさからくる錯覚ですよ」


「運?」


「入隊当初から見てきた俺が言えることです。あいつの実力はあなたの足下には到底及ばない上に、実戦では使い物にならない。唯一の自慢は暗記が得意なだけの人間でしょう。デベッガはほぼ執念と運だけでここまできているんです」


「あの野郎を庇うなんて、坊ちゃんにしては珍しいな」


 そう言われたケイは背を見せる。その態度は否定をしているのか、それとも恥ずかしい思いからなっているのか。


「庇ってはいません。次席が何を勘違いしているのか理解されていないようだったので」


「ああ、そうかい」


 それでもまだ納得していない様子で、ハイチは小さくため息をついた。


「……独り言だと思ってくれ。デベッガが優しいやつなんかじゃない。本当はハイネが優しいんだよ」


 ハイチの憂い帯びたその目は虚空を見つめていた。


「なんでも自分のことすら顧みず、他人を助けようとする他愛主義者なんだよ」


 空笑いがラウンジ中に響く。


「ハイネは多分、あいつが好きだ。別に誰かを好きになるのは悪いことじゃない。でも、今日のデベッガの戦いを見てすごく嫌になった。いいやつなんだけど、すごくイライラした。心の中がすごくもやもやした」


 なんでだろうな、と意見を求めるようにケイの方を見た。


「嫉妬ですか?」


「ああ、俺って羨ましいって思っていたんだ。納得」


 そう言っても、納得したようには見えないハイチ。むしろ悪化した気がするようだが、気のせいではないようだった。


「マジで俺、何がしたかったんだ?」


 苛立ちが最高潮になり、頭を掻きむしる。そんなハイチにケイは「だったら」と体を向き直した。


「あなたがキンバーさんの幸せを願えばいい」


「…………」


「昔、叔母が言ってくれた言葉で、誰かを思うことがあるならば、その人の幸せを願ってあげなさいと。俺には家族がいて、もちろん、家族全員の幸せは考えています」


【あー、うー?】


 微かな記憶の奥底にあった幼いハイネの記憶。紛れもなく裏のない笑顔。自分に安心してくれている彼女。その純粋な笑顔でハイネを守ろうと決心した自分を思い出した。


【好きな人を愛しなさい、寄り添ってあげなさい。人の優しさにはそれ以上の優しさで返してあげなさい】


 あの人を思い出した。二人でよく聞いた言葉だ。自分は半分どうでもよさそうに聞いていて、ハイネは熱心に聞いていた。彼女はその言葉通りに生きようとしている。もう自分たちが子どもではない。だからこそ自分は大人にならなければいけない。


「シルヴェスターって言ったか。いいこと教えてくれてありがとうよ」


 ケイは「どう致しまして」とラウンジから去った。一人残されたハイチはソファに座り直して一息をつく。


「ハイネの幸せ願うなら、デベッガの幸せも願ってやるかな」


     ◆


「ハイネさん、待ってください!」


 ようやく追い着いたキリはハイネの腕を掴んだ。彼女は苦悶の表情を浮かべていた。


「なんで怒ったりしないの!?」


「えっ?」


「普通、自分の悪口言われたら怒るでしょ!? なんで怒らないの!? おかしいよ、キリ君もハイチも! きみは優し過ぎるんだよ! それだから……!」


 ハイネは泣いていた。それにキリは心を絞められる気分だった。これは自分のせい? 自分自身が悪いと感じてくる。たじろぐキリは何を思ったのか、彼女の両手を取った。あまりにも突然にハイネは泣き止む。


「俺なんかよりハイネさんの方が優しいです!」


「…………」


「こんな俺のために怒ってくれて、泣いてくれて。これ以上、嬉しいことはありません!」


 二人のいる場所にようやくアイリが。だが、その場に出ることを恐れて建物の陰に隠れた。そして、そっと彼らの様子を窺う。彼らは手をつないでいた。


「俺はなんて言われようが、目指す志は変えるつもりはないので平気です」


「でも……」


「ハイネさん一人でも俺の味方をしてくれるならば、心強いですから」


 キリはハイネに笑顔を見せた。それにより彼女の顔は赤くなる。それは泣いていたからか、それとも別の何かか。


「私、ハイチを捜してくる」


「はい」


 二人は手を離したくない。その気持ちが彼らの心を過った。この気持ちはなんだろうか。


「じゃあね」


 ついに彼らの手が離れた。とても名残惜しい。ハイネは手を振った。キリも手を振る。それは互いの姿が見えなくなるまで続いた。


 ハイネが見えなくなると、キリは手を下ろして廊下を茫然と眺めていた。そこにアイリがやって来る。


「デベッガ君」


「ハルマチか」


 アイリの姿を見たキリは表情を一変した。彼女には純粋な笑みは見せない。


「さっきの勝敗の決定事項……どちらかの死ってどういう意味だ? あの歯車を使わせようともしていたし。みんなの前でバラしたいのか?」


「それは別に関係ないよ。きみがそれをきちんと使いこなせるように誘導させようとしただけ」


「勝手だな、本当」


 段々とキリの表情が険しくなっていく。アイリを邪険に思っているようである。


「勝手はそっちじゃん」


「どこが? お前が勝手に俺を生かして、妙なことに巻き込んでいるだけだろ」


「被害妄想? なんのために、きみに託したのか」


「どうせくだらない願望だろ」


 表情が険しくなっているのはアイリもである。彼女は下唇を噛み、拳を強く握る。彼女は怒りに染まっていた。


「何も知らないくせにっ……!」


 その一言でキリの堪忍袋が切れた。アイリを睨みつけて、胸倉を掴んだ。


「何も教えないからだろっ!! お前がっ!!」


「じゃあ、使いこなしなよ。手足を動かすように扱いなよ!」


「きちんとした説明もなしに使えるかっ!」


 血がにじみ出ている拳があった。怒りを抑え込んでいるようだった。奥歯が浮いてきている。相当な我慢が見えていた。


 アイリも怒りは収まりそうになかった。じっとキリを睨む。双方がそのようにしていると、後追いしてきたガズトロキルスとメアリーに発見される。


「お前ら!」


 ガズトロキルスはただならぬ雰囲気の二人を引きはがすようにした。今にもアイリを殴りそうなキリを羽交い絞めにする。


「何をやっているんだよ!」


 メアリーは双方を不安げな目で見ている。そっとアイリの方へと寄り添った。


「どうしたの?」


「何もないよ」


 アイリがそう答えると、キリが「ふざけるなよ」と怒りを爆発させた。


「お前って嘘つきだよな? 誰だよ、歯車のことバレてもいいとか言ったやつは」


 キリのその言葉に、メアリーは助けてもらったことを思い出した。アイリはあのことに何かを知っている?


「はぁ? 嘘つきはどっち? 隠していることあるくせに」


「俺は関係ない人を巻き込みたくないからだ! お前みたいに自分勝手なやつじゃないんだよ!」


 ガズトロキルスの拘束を振り解こうと、キリは必死にもがいていた。それでも殴ると予想し、必死に抑える。何度も彼に落ち着けと宥めるしかない。自分にとって何も知らない話であるが、二人が落ち着かなければ意味がない気がしたからだ。


「だからきみが一番勝手じゃない! 人を巻き込みたくないから言いたくない。それ、結局はわがままだよね!?」


「なんだと!? だったら、俺はずっとお前のわがままに付き合っているじゃねぇか!」


「ああ、もうっ! お前ら、黙れよ!!」


 言い争う二人よりも、大きな怒声を張るガズトロキルス。彼らは口を止めて注目した。


「嘘つきだ、自分勝手だ、わがままだ。どっちもどっちだよ! その争いに付き合っている俺とライアンの身にもなりやがれ!」


 キリはガズトロキルスに異論を唱えようとするが、閉口してしまう。それはアイリも同様であった。


「俺たちは何があったかなんて知らないのは当然だし、こんな醜い争いを見せられるくらいなら知りたくもない、知ろうとも思わない!」


 ガズトロキルスは絶対にキリがアイリに掴みかからないようにして拘束した。同等に彼女が彼に掴みかからないように拘束するようメアリーに指示する。


 二人は顔だけを強引に近付けさせられた。


「謝れ」


 彼らにそう命令する。これに二人は嫌悪感丸出しだった。


「なんで、俺がしなくちゃならないんだ!? 俺は悪くない!」


「はあ!? 悪いのはきみでしょ!? 嫌だ、あたし絶対謝らないからね!」


 頭一つ下げることすらを願い下げ。ガズトロキルスはこめかみに青筋を立てた。そしてメアリーにアイリをしっかり抑えておくように告げると――キリをアイリの頭へとぶつけた。


「何するの!?」


「謝れ。じゃねぇと、またするから」


 用意はいつでもできている。ガズトロキルスはキリを手にして構え出した。これに焦りを見せる二人は静止に努める。そんなの冗談じゃない! 両手が塞がっている状態だなんて!


「ガズ、待って! 落ち着いて! 痛いことは止めよう!?」


「そう、これは理不尽! ていうか、デベッガ君、石頭だし!」


「いや、ハルマチの方が断然石頭! 次やったら気絶する!」


「じゃあ、謝れよ」


 痛いことを回避するためには謝る。それだけの選択肢しか持ち合わせていない二人は――しばし、どちらかが謝罪を口にすることを待っていた。だが、ガズトロキルスがまた頭同士をぶつけようとしてくるため、双方急いで言い放つ。


「ごめんなさい!」


 恐る恐る、二人はガズトロキルスの方を見た。彼はほんの少しだけ納得した表情を見せた。これでよかったのか?


「二人とも、もうこういうことはしないよな?」


 そう訊ねてくるが、どちらとも口は開かない。保証できないからだ。返事をしない彼らにガズトロキルスは頭突き構えようとするものだから二人は急いで「けんかをしない」と断言する。


「ハルマチとはさっきみたいなことは絶対しない! なるべく仲良くする!」


「うんうん! 痛い思いはしたくないし、デベッガ君とは楽しいお友達でいなくちゃ!」


 引きつった笑顔を互いに見せ合う二人。それを見るメアリーは苦々しい表情。だが、ガズトロキルスはどこか満足したようにして頷く。


「せっかく新しい友達ができたんだ。俺たちは同士として、楽しい学校生活を送ろうぜ?」


「ああ、そうだな。なっ! ハルマチ!」


「そうだねぇ、とってもステキ。ねっ、デベッガ君。メアリー!」


 二人はガズトロキルスの方を見た。彼は半信半疑で見ている。完全に自身の頭をアイリにぶつける気だと、今度は彼女のいいところを必死に探し出し始めた。それはアイリも察知していたようで、彼のいいところを彼女自身も探し始めては口に出していくのだった。


     ◆


 ソファに足を乗せて、ぼんやりとそこから見える窓を眺めていた。訓練場に戻って、キリに謝罪しに行くのは恥ずかしいと思っていた。どうせ授業が終わり次第、ここ言おうとしていたのだ。もっとも、もう授業が始まっている時間である。それならば、待っていた方がいいのだ。そんな茫然とするハイチの背後にはハイネが立っていた。


「ハイチ」


 声の方を振り返る。ハイネは目が赤かった。きっと泣いていたのだろう。そう、彼女は誰がどんな人間であろうと優しい。キリだからこそ思って泣いていたのだろう。


 ハイチは確信が持てた。ハイネの前に立った。彼女が何かを言おうとするその口の前に「わかってる」と。


「デベッガのために怒っていたことも、泣いていたこともわかってる」


 そう言うと、ハイネの頭を優しくなでた。


「……お兄ちゃん」


 再びハイネは目に涙を溜め始めた。その涙はハイチの服を濡らしていく。


「俺はお前の味方だ。デベッガを味方にするならば、俺も賛同しよう。大丈夫、建前に付き合うつもりはない。本音でぶつかり合うさ」


「じゃあ、もうキリ君を『戦力外』だなんて言わない?」


「それはデベッガ次第さ。俺もまだあいつがどういう人間かは理解しきれていなかったみたいだからな。ゆっくり見ていくつもり」


 ハイチはハイネの髪の毛が乱れるほど、なで回した。おかげで髪がぐちゃぐちゃである。それを彼女は若干不服そうに直していく。その整えた髪の毛を再び彼はぐちゃぐちゃにした。ハイチはそのいたずらで楽しんでいるようだった。


「止めてよ」


「ははっ。どんなに整えても、そこのアホ毛は立ったままだな」


 からかうハイチに「ハイチもあるじゃない」とハイネに論破された。小さく反応をする。


「友達が言ってたよ。アホ毛がなければカッコいいのにって」


 心に突き刺さる。昔からこの兄妹の頭にあるアホ毛。手ぐしだろうが、くしだろうが、水だろうが、くせ毛直しを使おうが――絶対になくならない。一度だけハイチがそのアホ毛を失くしてみたが、周りの反応は「ハイチじゃないみたい」だった。彼やハイネ自身そのアホ毛はトレードマークのような物である。


「突き刺さるな。これ、なければ俺、イケメン?」


「内面残念」


 またしても、ぐさりと心に突き刺さる言葉の暴力。そこは「そうだね」の一言があっていいのにな。


「だってハイチって見た目に反して子どもだもん」


「おまっ、それはないだろ!? 俺、今年でいくつだと思っているの!?」


「知っているから言ったまでだよ。いい加減、大人になりなよ」


「うっせ!」


 ここにケイがいなくてよかったとハイチは安堵していた。だが、偶然にも通りかかった彼がいた。ケイは二人が仲直りしていると、勘違いしているのか。安心した様子でその場を去ってしまった。先ほど、格好良く会話を終えたばかりなのに。こんなコミカルさを見せてはシリアス的立場がない。その弁解をしようとしても、彼はもうこの場にいない。とても恥ずかしく思うハイチは大きく項垂れた。


「……そう言えば、デベッガはもう訓練場にはいないよな?」


「中庭にいると思う。キリ君に会いに行くの?」


「デベッガに言い過ぎたし、勝手に勘違いをしていたからな。そこを謝らなきゃ」


 そう言うハイチにハイネは「偉い」と背伸びをして彼の頭をなでた。


「……あの、ハイネさん? 本当に俺がいくつか知ってる? つーか、妹だってこと自覚している?」


「ハイチこそ、自分が兄だって自覚している?」


 いたずらに笑うハイネを見て、ハイチは彼女の額にデコピンをかます。彼女は痛そうに額を擦った。


「痛い!」


「兄をからかうからだ。少しは反省しろ」


 不服そうなハイネを見てハイチは笑った。こんな小さな幸せでもいいから続いて欲しいと願う。そうだ、その願いを叶えるためにはハイネの幸せも願わなくては。


――小さな幸せが続くように、ハイネが幸せになりますように。


 中庭の方へと行こうとするハイチを見てハイネは彼の手を握った。どうやら彼女もキリのもとへと向かうつもりらしい。ハイチは構わないようで、なるべくハイネの歩幅に合わせて歩く。


――また昔みたいに戻れますように。


 俯いて歩くハイネの憂いある表情に、ハイチは気付かない。


     ◆


「ハルマチはあれだよ! 誰も気付かないところに気付くすげぇやつだよ!」


「ありがとうデベッガ君! デベッガ君こそ細かいところを怠らない気が利く人だよ!」


「そう思ってくれているだけで俺、大感激! ありがとうハルマチ!」


 未だとして互いのいいところを若干強引であるが、口に出す二人。中庭中に彼らの張り詰めた声が響く。二人はガズトロキルスの方を見た。一人納得しているように大きく頷いていた。これを機に二人は声に出すのを止めた。相当気力を張り疲れているのか、肩で息をする。二人が止めたことにより――ガズトロキルスは片眉を上げた。


「仲良くしないのか?」


「するっ! するから、いい加減離せ! ライアンの身にもなってみろよ! お前が一人ならいいんだろうけど、ライアン、ずっとハルマチを引っ張っているから疲れているぞ!」


「そうだよ! ねぇ、メアリー、疲れたでしょ!?」


 詰め寄られるメアリー。事実、そうであるが、それを口に出していいのだろうかと思う。


「う、うーん。うん」


 一応メアリーは頷いた。すると、ガズトロキルスがキリを離したため、自身もアイリを離す。解放された二人はその場に座り込んでしまう。


「ふ、二人とも、大丈夫?」


「疲れた」


「あたしも」


「おっ、早速同調しているのか。仲がいい証拠だな、感心感心」


 その要因を作ったのは誰だよ。だが、このようなくだらないやり取りをしていて、キリは今すぐに知らなくてもいいのではないか、と思い始めるようになった。アイリは別に使いこなすことにそこまで急かしていないように見えたからだ。ハイチとの対決の際に使えと言っていたのも、自分が使いこなせる練習をさせる気だったのかもしれない。


「ハルマチ」


 アイリは改めて、地面に座り直してキリの方を見る。


「お願いはきちんと聞くから時間をくれないか? そして、ハルマチのタイミングでいいからきちんとした説明が欲しい」


 お願いだ、とキリは頭を下げた。


「うん」


 アイリは納得したのか、小さく頷く。


「あたしも強引過ぎたし、雑な説明過ぎたことに関してはごめん」


 今度はアイリも頭を下げる。ガズトロキルスは二人のきちんとした和解を見て感動していた。


「いやぁ、感動! なんだよ、お前らちゃんとした和解ができているじゃん!」


 やるときはやるんだよ。キリは心の中でそう思う。もちろんアイリもであるが、両者ともに一体する思いは心内に留めておき、口には出さなかった。ガズトロキルスがまた頭同士をぶつけようとするならば、痛いのは勘弁だもの。


 やや不満げでいると、そこへハイチとハイネがや現れた。彼女の姿にキリは上手く顔を見られないのか、恥ずかしげに頭を下げる。


「なんで、地面に座り込んでいるんだ?」


 事情を知らないハイチは疑問を浮かべた様子で二人を見る。


「ええ、まあ」


 その場に座っている意味もあまりなくなってきた二人はハイチの言葉で立ち上がった。それを見たハイネは彼に何かを促そうとする。


「ああ、もう。わかっているって」


 少しばかり鬱陶しそうにハイネをあしらう。今度はその場にいた四人が疑問を浮かべる番であった。


 ハイチは口を開くことをためらっていた。アイリがいることはまだわからなくもないが、まさかガズトロキルスやメアリーがいるとは予想していなかったからだ。いや、いても構わないのだが、言いづらい。


「ハイチったら。早く」


 ハイネが急かしてくる。待ってくれよ、とハイチは目で訴えた。予想外の二人がいるため、心の準備ができていないのだ。しかしながら、ハイネはその訴えを受け入れようとはせずに急かしてくる。


――ああ、もういいや。


「すまなかった、デベッガ!」


「すみませんでした、ハイチさん!」


 まさかのキリまでも頭を下げてきた。これにハイチは驚いた。いや、彼自身も驚いている。


「えっ? なんで?」


「い、いや、ハイチさんの期待に応えられなかったから、申し訳ないと思って……」


「デベッガが謝ることはねぇよ。全部、俺が勘違いしていたのが悪いんだよ。本当に悪かった」


 再びハイチは頭を下げてくる。これに対して恐れ多いと感じたキリは否定をする。


「そんなことないですよ! 俺、もっともっと頑張ってハイチさんと張り合えるくらい強くなるんで!」


 そう言うキリは初めてハイチに笑顔を見せた。その笑みに彼は強張っていた表情を緩める。


「……待ってる。だけれども、俺より強いやつが一人いることを忘れるなよ」


「あ、首席の方ですね!」


 キリはやってやるぞ、と意気込んでいた。それを見てほっと安心したハイネは「よかったね」と微笑む。


「二人が仲直りできてよかった」


「ありがとうございます、ハイネさん」


 遠巻きにどことなく羨ましそうにキリとハイネを見つめるメアリー。その横にハイチがこっそり来た。


「気になるか?」


「いえ? そんなことはないですよ?」


 無理していそうだ、とハイチは察知する。


「お礼を渡したんだろ? お菓子だっけ?」


「感想を訊こうにも訊くタイミングが……」


「それはな、感想を聞かずして新しい物を用意するんだよ。そうすりゃ、自ずと前回の感想が出るからよ」


「なるほどですね! 実は今日持ってきたんですけど」


 メアリーはどこから取り出したのか、タッパーを取り出した。大きさから見るに相当の量を作ったな、とハイチは推測する。半透明のタッパーから覗くのは黒い色の物体。大人な味的な物だろうかと勝手に思い込んだ。


「これ作り過ぎたから、みなさんで食べませんか? 多分、デベッガ君も食べきれないと思うんです」


「そうだな、あのいい雰囲気をぶち壊せよ」


「あ、あの、なんで私の味方をしてくださるんですか?」


 自分とは何かしらの接点なんてないに等しいのである。ここ最近話しただけであり、ハイチはそこまで他人である自分の方を持ってくれるとは思っていなかったから。


「んー?」


 反応をしてくれているのか、ハイチはキリとハイネの方を見てはいるが、こめかみに青筋を立てているようである。もしかして怒っているのか?


「……ハイネの幸せを考えるならば、悪い虫は除かなきゃダメ、だよな」


 独り言だろうか。誰の同意を得ようとせず、ハイチは遠目で二人を見ていた。その呟きにメアリーは察知する。彼はハイネとキリがくっつくことを望んでいないと。だから、自分の応援をしてくれているのだろうか?


「ライアン」


 なんて考え事をしていると、ハイチに声をかけられた。彼の方を見ると、こちらの方に見向きはしていなかったものの、青筋が増えているではないか。


「それ持っているなら、中に入ってあの雰囲気壊してこい」


 心強い味方なのか、それともただ単に利害一致しているだけなのか。今のメアリーはどちらでもよかったが、あの彼らを見ていると、心の中がもやもやしてくるようで――二人に近付いた。にやりとハイチは悪い笑みを浮かべる。


「あ、あの……」


 何かしら入っているタッパーを手にして、メアリーは二人のもとへと歩み寄ってきた。キリはタッパーを見て青ざめ始める。これは逃げられないと硬直していた。


「メアリーちゃん。それは?」


「昨日、作ったんです。よかったら」


 メアリーの行動にガズトロキルスとアイリも寄って来た。


「お菓子?」


「美味しそうだな!」


 二人は今にも食べたいと言わんばかりに、目をキラキラとさせている。


「みんなでどうかな?」


 ちらりとメアリーはハイチの方を見た。彼はよくやったと言わんばかりに親指を立て、キリの肩に手を置いて逃げられないようにした。


「美味そうだな! よし、みんなでライアンのお菓子食べようぜ!」


 ハイチの言葉に一人一つずつメアリーの手作りお菓子を手に取った。だが、一人だけ食べたことのあるキリは表情が引きつっていた。周りを見る。みんなしてわくわくした様子であるが、口にした途端にどうなることやら。不安だ。


「いただきます!」


 キリとメアリー以外の四人はお菓子を口の中へと入れ、口を動かす。彼が食べてないことにハイチは「お前も食べろよ」と急かしてきた。


「これ、案外――案外……」


 口を動かす度に段々と青ざめていくハイチ。それどころか、他の三人も顔色が悪かった。


「ら、ライアン、これは?」


 タッパーに入ったお菓子らしき物を指差すと、メアリーは「焼き菓子です!」と意気揚々に答えた。そして早く食べてと言わんばかりに、キリに差し出してくる。


「ねっ、デベッガ君、今回は甘さを少しだけ増やしてみたの。食べてみて!」


 これを断れば、メアリーは傷付くだろう。というよりも一番恐れていたことが起きている。恐怖の手作りお菓子を食べることだ。


「何これ」


 口にした者はただ悶えることしかできなかった。なぜなら、メアリーは一国の王女である。その国に従事している四人は下手に評価ができないのである。何より、彼女はキリに感想を期待しているようだ。これはすべて彼に任せるしかないだろう。


「で、デベッガ」


 ハイチは食べろ、とキリへ示唆した。それにこんな物食べられるかと内心憤怒する。この場の雰囲気で口には出せないし、要らないという仕草すらできやしない。


――また、病院にお世話になるのかな。


 覚悟を決めたキリは一つを口の中へと放り込んだ。噛めば噛むほど苦い上に甘くもない、辛くて、酸っぱくて、苦くてはっきり言える一言が『不味い』である。メアリーは何を入れてこのような代物を作り上げたのだろうか。果たして彼女は料理本を見て作ったのだろうか? まさか自己流――だとしても、こんな不味い物ができるものか。不味いという最低評価以外の表現が思いつかない。どう評価をすればいいものか。


――美味しくないって言えば、ライアンは悲しむだろうな。


 早く飲み込め。ずっと口の中で噛んでいるものだから、不味さ全開の風味が口いっぱいに広がっている。早いところ、飲み込みたいのだがタイミングが合わない。不味い。吐き気がする。


「どうかな?」


 メアリーは早く感想が欲しいところ。キリを急かすように顔を覗き込んでくる。他の三人は固唾を飲んで、彼の答えを待つ。なんとかタイミングが合い、キリは不味い焼き菓子を飲み込んだ。飲み込むことができた自分を褒め称えたいものである。


「は、ははっ……」


 面白くもないのに、笑いが込み上げてくる。失礼を承知して笑みがこぼれる口を塞ぐ。


「い、いいんじゃない?」


 これがキリの精いっぱいの褒め言葉。良くも不可もない無難な感想。彼のその感想に嬉しさが込み上げてきたメアリーはキラキラとした笑顔を見せつつも、タッパーに残った焼き菓子を差し出してきた。


「まだまだあるよ! みなさんも、どうぞ!」


 そのすてきな笑顔はキリだけにあらず、三人にも向けられた。これで逃げることができない彼らは互いに顔を見合わせる。誰一人として逃がしやしない。彼らはもう一つだけタッパーに入った食中毒の原因となる焼き菓子を口の中へと放り込んだ。


 それから数分後――校舎内にある医務室のベッドだけに足らず、ソファに寝転がる学徒隊員が現れるのだった。


「デベッガ、知っていたのか?」


 顔を真っ青にさせながら、ハイチはキリにそう訊ねた。


「初めて食べたときは夜だったんで、あんな真っ黒だとはわかりませんでした」


「……なんか、本当ごめん」


 改めてハイチはキリに詫びを入れるのだった。


     ◆


 校舎内の廊下を闊歩する一人の青年。体格はよく、身長が高い彼は正しく兵と呼ぶに相応しい。そんな彼の手にはテキスト類があった。これから移動教室なのだろう。


「なあ、休み時間の見たか?」


 ふと、誰かの会話が聞こえてきた。青年は立ち止まり、その声の方を見た。学徒隊員たちが集って雑談をしていた。


「ああ、次席と戦力外の戦いだろ? どちらが宣戦布告したのかは知らないけど、戦力外のやつ、自分の力量理解していたのか?」


「見た感じは乗り気じゃなかったみたいだけどな」


「あれさ、結果的にどうなるんだ? なかったことになるのか?」


「審判のハルマチって子もいなくなったしな。なかったことになったんじゃない?」


 噂では聞いていたことである。青年は見に行ってみようかと思ってはいたのだが、諸事情により見に行くことは叶わなかった。決着ならずか。


 立ち止まって聞く必要がなくなった青年は歩き出す。


「でもよ、俺としては逆転劇や圧倒勝負を見るよりも、首席と次席の戦いを見てみたいんだよなぁ」


 その言葉に青年は再び立ち止まってしまった。彼らの方を見る。


「前に見たよな、その二人の戦い。すごかったよな!」


「見た見た! どちらも引けを取らなかったし!」


 だが、青年は再び歩き始める。あまりいい顔をしていない様子である。不服という言葉が似合うだろうか。


「ヴェフェハル君」


 そう呼ばれた青年は声の方を見た。そこにいたのはエドワードである。


「隊長、何かご用で?」


「学徒隊員たちの頂点――首席であるきみに是非ともお願いしたい任務があるんだ」


 エドワードは彼に一枚の任務指示書を渡した。





<特定人物調査>


セロ・ヴェフェハル


上記の者は後述の任務を遂行せよ。


 学徒隊員・軍人育成学校三回生アイリ・ハルマチの行動、言動に関する情報を調査し、報告せよ。





「来週、その人物を交えた別件の任務をして欲しい」


「わかりました」


 青年――セロはエドワードに頭を下げると、次の授業がある教室へと向かった。


「……たまには、いいかな?」


 任務指示書に記載されている名前の少女を見て二人の人物が頭に過った。その彼らの顔を思い浮かべる度に思い出し笑いでもしているのか、口元を緩める。


「またあのばかは色々とやらかしているみたいだしな」


 セロの呟きは誰の耳に入らず、掻き消えてしまうのだった。

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