心底
この世界の苦しみを味わえ――。
キリは一人砂漠の中を突き進んでいた。食べ物もなければ水もない。頼れるのは己の体力のみ。砂風が彼を襲ってくると同時に、風に乗ってきた砂粒が口の中へと溜まっていく。
急いで口を閉じなければ。しかし、閉じられない。なぜだろうか。どんどん口の中へと溜まりいく砂。飲み込みたくなどない。ああ、誰か助けてくれ。ああ、女神よ――助けてください!!
そう願っていると、どこからか音が聞こえてきた。この音は?
◆
「はっ!?」
目を開けた。視界に映るのは女神ではなく、アイリ。頭もとで端末機にセットしておいたアラームが鳴っていた。口に何かしら違和感がある。
「おはよ」
そう言うアイリの手には空になった調味料の瓶。すべてを察知したキリはごみ箱の中へと口の中に入っている物を吐き出した。うげぇ、最悪!
「何するんだ、バカヤロー!」
涙目で訴える。急いで水を口に含んで再びごみ箱へ。ああ、まだ口の中に調味料が残っている。また舌の感覚がおかしくなってしまうではないか。こんな感じな気がする、メアリーの胃袋クラッシュ焼き菓子は。
「アラーム消さないと」
「そう言っている場合じゃねぇ。何、とんでもない物を人の口の中に突っ込んでいるんだ」
「いやぁ、起こそうと思って」
そう言うアイリはアラームを止めた。しんとその場が静まり返った気分になる。
「普通に起こしてくれない? それ、大量に飲み込んでしまったらどうなると思っているんだ」
「胸やけ? 胃もたれ? 胃腸剤でも持ってこようか?」
「……もういい」
まさか、こんな朝からドメスティックバイオレンス並みの嫌がらせを受けることになるとは。それ以前にアイリがこちらに何度か起こしに来てくれてはいるのだが、その起こし方が毎度ながらひどい。普通に起こしに来てくれたならば、幸せなんだけれどもな。などと幻想を抱きながら以前に起こされたやり方を思い出す。
ある朝は資料の入った封筒をどれくらい乗せられるか額の上にかなりの量の封筒を乗せられた。あるときは鼻を摘まれて息ができなくなりそうになってしまったし。あるいは使いまくってズタズタの薄汚い雑巾を嗅がされたし――。
「アイリってさ、俺のことが嫌い?」
そう考えざるを得ない始末。
「そんなことないよ。好きだもん。大好き」
なんて嬉しい回答をしてくれてはいるが、今日のあのやり方は下手すれば死ぬのではと思ってしまう。だが、どうせ言ったところで過去の歯車があるから死なないとか言ってきそうで怖い。感覚が麻痺していそうで怖い。
「それよりも、朝ご飯できているって。行こうよ」
「はいはい」
どうせなら、後で仕返ししてやる、とでも考えながらダイニングの方へと赴くキリ。そちらの方へと行くと、すでに朝食の準備は整っているようだった。先にウノと老人は食べていた。その二人にあいさつをする。早速淹れ立てのお茶を飲むが、先ほどの調味料の味がひどく口の中に残っており、味が変な状態である。だとしても、別に食べられなくないため、眉間にしわを寄せながら朝食を採る。
「そうだ、カムラにキイ。今日は店が休みだからどこか遊びに行ってきたらどうだ?」
ウノが食べ終えた食器を片付けしようと席を立ちながら二人にそう言った。
「えっ。いいんですか?」
「おう。俺たちも今日は何もしないからな。だったら、これをやるよ」
そう言って、ウノから受け取ったのは動物園のフリーチケット二枚だった。どうも、客から情報料と一緒にもらったらしい。自分と老人はこういうところにさほど興味がないから。だから、二人に渡したようだった。
「動物園かぁ。結局、前は楽しめなかったしねぇ」
「うん、いいかもな。普通に一般客として楽しめそうだ」
それならば、一緒に行こうかと話は決まった。
◆
「ねぇ、先に何見る? ライオン?」
動物園へと着き、もらったパンフレットを見ながら喜色満面でキリを見てくるアイリ。彼もパンフレットを覗き込みながら「順番通りに行こうぜ」と苦笑いするのだった。
なぜにアイリがライオンを見たがっているのかは定かではないが、キリにとってはあまり見たくもなかった。なぜなら、世界を見る目で野生のライオンに襲われたことがあるから。というか、ライオンに関してはほとんどがろくな目にあっていないのだ。二度あることは三度ある。その可能性が高い。
「キリはどこに行きたい? やっぱりふれあいコーナー?」
「それもあるけどな。おっ、餌やり体験とかもあるぞ」
「何の?」
「カシだって。あれもあれで可愛いよな」
カシ。アイリは古跡の村での狩りイベントを思い出した。飼っていたペットを野生として扱い、その挙句に狩り初心者のその日の夕ご飯になろうとしていることを。古跡の村のペットたちにとっては可哀想であるが、ここのカシたちはどうなのだろうか。
何とも言えないアイリをよそに、動物を見て回りながら近場のカシの餌やり体験の方へと向かった。
その餌を買い、柵の中へと入った二人は癒されていた。どうやらここのカシたちは人懐っこい性格のようで彼らにすり寄ってくるが――遠巻きで見ている女性飼育員は知っている。人に対してそうすり寄ってくる行為は「餌を早く寄越せ」の催促である。早く頭をなでている暇があるならその蓋がついた餌箱の中身を寄越せ。柵内にいるカシたちが一斉に二人のもとへと寄ってくる。ガジガジと蓋をこじ開けようと噛んでくる。キリの服の裾を餌と勘違いして噛んでくる。助けた方がいいかと飼育員が行こうとするが――。
「ははっ、可愛いなぁ」
催促など気にせず、キリは餌を与えずに頭をなで繰り回している。ちなみにそうしているのは彼だけだ。アイリは餌をあげようとして蓋を開けた瞬間に中身を食べられてしまっており、呆然としている。彼女は餌がなくなり次第、用済みとして無視されていた。
「…………」
何とも言えないその表情の客を飼育員はどれほどまでに見てきたことか。あの顔を見せるのは誰でもそうである。小さな子どもから杖を持った老人まで様々だ。幻滅的という言葉が似合うだろう。
「……やっぱ、あのとき仕留めて食えばよかった」
その呟きが女性飼育員の耳に入ってくる。仕留めて食べる!? 一体この客に何があったというのだ。そして、あのときとはいつのことを差すのか。恐ろしくて訊けやしない。
一方でキリはまだ餌を与えておらず、ずっとなで回している。
――いや、いい加減あげて!?
催促が段々と強引になってきている。服が破ける寸前まで引っ張ったり、軽く突進してきたり、行動から言動として鳴き始めたり――。
「楽しいなぁ」
――気付けよっ!
見かねたアイリがキリに声をかけた。
「ねぇ、餌やらないならあたしがしたい」
「おう、いいぜ」
キリがアイリに餌の箱を渡すと、カシたちは餌をあげないお前のことなんてどうでもいいと言わんばかりに、無視をされ始めた。キリが体をなでようと手を伸ばすも、嫌がられる。近付こうとしても逃げられる。
その嫌われっぷりを披露されたキリは先ほどのアイリと同様のやるせない表情を見せた。こちらは幻滅ではなく、想定外と言ったが正しいか。そして、彼女が持っていた餌すらもなくなったところでカシたち解散。おーい、人間ども餌持っていないってよ。本当かよ。じゃあ、用済みだな。カシたちは餌を求めて地面の草を、虫を食む。なんとも悲しき結末。
――ごめんなさい、お客様。
「えっ、何これ」
「ただの餌やり機械としてしか見てくれないっての?」
「ひどくね?」
「本当、おかしいし。よしっ、最後の手段だ!」
アイリは一頭のカシへと近寄り、背中をなでながら「よぉし、よぉし」と懐かせようとする。
「ミュール! これを取ってこいっ!」
アイリは空になった箱を少し離れたところへと投げた。
「ほら、ゴー! ゴー! ミュール、ゴー!」
そのカシは取りに行く素振りも見せず、ひたすらに草を食む。アイリの言うこと、行動すらもひたすらに無視。しばらくの沈黙が流れ、キリが「ミュールってなんだよ」と遅れたツッコミをした。えっ? 知らないの?
「あたしがつけた名前だけど?」
――お客様、その子はヘラと言います。見て、首輪のタグのところ。『ヘラ』って書いていますから。
「おっかしいなぁ。古跡の村でのカシの狩り体験のときは人懐っこかったのに」
――カシの狩り体験だというのに、野生が人懐っこいのですか?
そもそも、カシは人に飼われていても、すり寄ってくるのは餌の催促だけなのに。恐るべし、古跡の村!
「そう言えば、カシってたまに肉が硬いよな」
「あぁ、わかる。筋肉って言うの? 妙に硬くて噛みきれないときあるねぇ」
「あれ、お酒に浸しておけば柔らかくなるらしいぜ」
懐かれないからと言って、二人は柵に寄りかかりながらそのようなことを言い出す。近くに自分がいるのに。飼育員がここにいるのに――いや、カシたちが眼前にいるのに。その遠巻きではサングラスをかけた従業員もいた。
――って……うわっ、あの人も来ているし!
その人物に聞こえていないかどうか不安で仕方ない。
「ていうか、こいつらを捌くときってやり方によっては生臭さが残るらしいねぇ」
「あぁ、なんか聞いたことあるな」
――お客様、後ろ。後ろぉ!
二人のとんでもない、この場で言うべきではない会話が耳に入ってきている親子。母親は子どもの耳を塞ぐ。彼らは営業妨害の何者でもないように見えてきた。
「隣の町の食堂って確か、生臭かったよねぇ。妙に獣臭いと言うか、なんと言うか」
「俺としては飲食街の――」
「お、お客様?」
飼育員、流石に止めさせる気か。キリたちに声をかけてくる。二人は悪びれもしない様子で「どうしましたか」と爽やかに言ってくるものだから。しかも、表情からして悪意は一切ないようだ。それだからこそ、逆に言いにくい。
「いやぁ、この子たち食い意地が張っていますね」
「……その、先ほどの発言は他のお客様もいらっしゃいますので控えていただけないでしょうか?」
二人の後ろを通る家族を見る度に親が子の耳を塞いでいるのだ。止めるべきだ。飼育員がそう言うと、キリは急に申し訳なさそうな顔を見せた。
「なんか、すみませんでした」
ああ、話がわかってくれたからよかった。もちろん、アイリもだ。言葉こそ出さないが、頭を下げる。どうやら口だけが悪いだけの客のようである。
「飼育員さん」
すると、アイリが飼育員に声をかけた。彼女は「なんでしょうか」と反応を見せると、耳打ちしてきた。
「彼らが食べられる日はいつになるのでしょうか」
◆
カシの餌やり体験広場からダッシュで逃げてきた二人。キリは息を切らしながらアイリを見る。
「アイリ、何言ったの? 飼育員さんめちゃくちゃ怒っていたんだけど」
「えっ? 普通に食べられる日っていつなのか訊いただけど?」
それがいけないんだよ、とキリは叱咤する。ここにいる者たちは食用ではないのに。アイリはなんという、とんでもない質問をしているのか。
「だってぇ、古跡の村じゃあペットは食べるって言うんだもん」
「何、その恐ろしい村!」
「世界を見る目の近くにある村だよ。そこで狩り体験したときに聞いたの」
世の中には耳を疑う村があるんだな。そう思いながらキリが前方を見ると、錆びた鎖でつながれたライオンがいた。それは奇声を上げながら鎖から逃げ出そうとしているようだ。それでも流石に危ないとでも動物園側は思っているのか、周りに柵を拵えていた。どうも、檻から出している様子。
「檻の中にいたときも危ない感じだったけど、こっちの方が危ないよな?」
――あの鎖、今にも千切れそう。
「見てよ、小さい子は必ず保護者が抱っこしてから柵に近付いてくださいって」
「なんで出ているんだよ?」
アイリが見ていた注意書きの方を見ると、どうやらこちらも餌やり体験を行うらしい。しかし、二人にとってライオンは範囲外である。ド派手な色の羽にぎょろりとした目玉を見て、愛でる気はないらしい。それに彼らにとってこの怪鳥にはいい思い出などないに等しかった。
ここでキリは思い出した。世界を見る目で出現したライオンを威嚇するようにして現れた木の根。あれがカムラの助けであるとするならば――。
【答えは彼女が知っているのではないのでしょうか】
アイリが答えを知っている。隠れカムラ教の礼拝堂では暗い場所で彼女が答えられそうになかったが、ここではできるだろう。
「アイリ」
「ん?」
「あの石像って、結局はカムラなのか?」
そう問い質すと、アイリは考え始めた。難しい顔とは言えない。普通の表情で、視線をライオンに向けながら思案するような感じだ。
「あれは多分、カムラじゃない? 知らないけど」
なんとも言えない答えが返ってきた。知らない?
「アイリでもわからないの?」
「初めて見たもん」
アイリがそう言うということは、あの質問の答えは嘘ではないことになる。
【ハルマチってさ、カムラの従者か何か?】
【従者じゃない】
「ていうかさぁ、別のところに行こ」
「……だな」
ライオンと関わるとろくな目に合いそうにないとでも思ったのか、二人はそそくさとその場を離れることにした。
◆
適当に園内を見回っていると、キリのお腹が鳴った。それで連絡通信端末機にある時計を見る。お昼時だ。そりゃ、お腹も鳴るはずだ。きっと、アイリもお腹が空いているだろう。そう思ってパンフレットの方を見た。どこかカフェがあるだろう。そこで昼食でもと思っていると、彼女が肩を突いてきた。
「ねぇ、前にメアリーのお弁当食べたところがあったじゃん? そこで食べない?」
「食べるって、俺ら弁当も何も持ってきてないけど」
「あるよ。今、ロッカーで預けているけど」
どうやらアイリは弁当を持ってきたらしい。いつの間に。
二人は以前にお昼を食べた場所へとやって来た。そのテーブルの上にアイリはロッカーに預けていた鞄の中から弁当箱とスープ入りの魔法瓶を取り出す。明らかに手作りだとわかったところでキリは顔を青ざめた。これがいつの間にか買っていた物だったらどれほどよかったか。彼女の料理の腕前はメアリーと大差ないのに。
「それ、アイリの手作り?」
「流石にウノさんたちに作ってもらえないよ」
アイリはそう言いながら弁当箱の蓋を開けた。どんなエグイ料理が出てくるのだろうかと冷や汗を垂らしていると、以外にも普通の物が視界に映った。これに目を丸くする。
「ありっ?」
あまりにもアイリの料理を食べたくがないために引き起こした幻覚だろうか。目を擦って再度見た。目の前にあるのは弁当箱にきちんと収まったフルーツサンドだった。
「ガズ君から前に聞いたことあるけど、キリってフルーツサンドとアイスサンドが好きだよね?」
予想外の反応なのか、戸惑いながらもアイリは首を傾げる。
「う、うん、好きだけど。ほら、アイリって……」
「わかっているよ。あたしが料理下手だってことくらいは。だから、今回は火を使わない物を作ったの」
その事実は理解しているらしい。いや、メアリーの料理が異常だとわかっていたならば、彼女が作った料理などわかる物。あんなパサパサした物なんて食べられるか。
だがしかし、今回のこのフルーツサンド。見た感じは美味しそうである。悪くはない。
「こっちは冷やしフルーツスープだから」
使い捨て用のカップに注ぎ、それを差し出されて一口飲んだ。冷たくて甘酸っぱい。隠し味に調味料でも入れたのか? 少し辛さもあるようだ。
「……変に入れない方がよかったみたいね」
アイリが冷やしフルーツスープを飲んで、後悔の表情を見せた。辛そうにして舌を出している。
「そうか? 美味しいけどな」
悪くはない。むしろ、以前の魚のステーキより断然マシである。このちょっとしたくせのある辛さがアクセントとなっていて美味しい。好感的な味だ。
キリはフルーツサンドの方に手を伸ばした。うん、こちらもスープと同様だ。ちょっと辛さが際立っているが不味くはないのだ。
「うん、こっちも」
「本当?」
「嘘じゃないよ。この味好きだよ」
手についたソースを舐めながらそう言う。アイリは嬉々として頬を緩ませた。
「嬉しい」
その笑顔を見たキリは動揺を見せた。思わず顔を赤らめる。その気恥ずかしさを隠したくて、バレないようにフルーツサンドを食べた。
「今度はアイスサンドにも挑戦するね」
「お、おう」
「そう言えばさ、キリって他に何が好きなの?」
「えっと……」
そんな質問をされて、キリは考えた。自分は何が好きだったか。そもそもの好き嫌い自体がほとんどない彼は悩み出す。
「そうだな。あっ、ケーキとか……甘い物なら、大抵好き」
「ケーキね。じゃあ、まずは生地を焼く練習から始めないと」
ああ、『焼く』だから前回のように灰だけにならないように練習するんだな、と苦笑いをした。
「メアリーが戻ってくるまで頑張らないと」
その言葉にキリはそうかと納得する。メアリーが青の王国へと戻ってきたならば、伝えたかったこととお別れのあいさつをすれば――あとは、ハイチを追う旅に出なければいけない。どこへ向かったのかも検討がつかない上、いつそれが終わるのかさえもわからないのだ。
ただ、青の王国初代国王であるライアンは言っていた。
【世界改変者は番人を拵えた】
ライアンが存命したときからアイリに伝えたかったこと。
この戦いが終われば、どうなるのかわからない。所有権を持つ過去の歯車でさえも。放棄するまで自分は死ねない。だが、アイリは――ハイチを殺せば、彼女は死ぬ。
【自分が死ねるなら大歓迎】
【あたしは死にたいから】
アイリは死を望んでいた。今はどうなんだろうか。キリは冷やしフルーツスープを飲む彼女を見た。
「あのさ、アイリって前に『死にたい』って言っていたじゃんか」
「うん」
「今でもそう思ってる?」
その質問にアイリは頷くのだが、その憂いある表情を逃さなかった。どこか迷いのある顔。
「……あの人が死ねば、私は死ねるから」
「もしも、アイリが死んだら俺はどうなるの?」
「わからない」
首を横に振られた。何が起こるのかわからないらしい。
「でも、キリと一緒にいたいとは思っている」
「…………」
「きみが好きだから」
これがアイリの迷いか。ハイチを殺したい気持ちは変わらず。そうだとしても、死にたくないように思えているらしい。一緒にいたい、それはキリも同様だった。できることならば、ずっと一緒にいたい。隣にいて欲しい。それが彼の望み。
そう思いながら腰を上げてどこかへと行こうとした。そんなキリを呼び止めた。
「どこ行くの?」
「トイレだよ」
◆
トイレと言っても、用を足すわけではない。顔を洗いに来たのだ。なぜか頭を冷やすべきだと思ったから。故に手洗い場では水が垂れ流れているし、キリの顔は水で濡れていた。
「…………」
水が滴るその表情。不安な顔は水が流れる洗面台へと向けられている。
思うことは何もない。思考は何も回っていない。ただ、頭の中で先ほどのアイリとの会話を思い出すだけ。ずっと繰り返されるその会話。
【キリと一緒にいたいとは思っている】
【きみが好きだから】
訳がわからなくなってくる。
本当に自分はハイチを殺してもいいのだろうか。ハイネとアイリの気持ちを考えたら、そんなことをするべきではないだろうに。
――何か方法って……。
ないのだろうか。誰も悲しまない未来は。方法は――。
【きちんと殺さないとねぇ。きみが世界を滅ぼしたことになるから】
【この世がめちゃくちゃになっちゃう】
アイリは未来のコンパスのような物を所有している。ハイチによって世界が滅ぶ未来が視えたのだろうか。色んな言葉と現実ばかりがグルグルと回り回って、誰の言葉が正しいのかさえわからない状況になってきていた。
鏡の方を見た。戸惑いを隠しきれない目がこちらを窺っている。
――己が正しいと思うべき道を行けばいいんじゃない?
鏡の中の自分がそう言っている気がした。いや、これは自分自身の心がそう言っているのか。もう、自棄っぱちにでもなったつもりか。
「キリぃ、まだぁ?」
トイレの外からアイリの声が聞こえてきた。待ちくたびれたのか、そう呼んでくる。
――今、アイリと遊びに来ているんだよな……。
そう、今はハイチを捜しには来ていない。まだ考える猶予はあるのだ。そのときに考えればいい。できることならば、誰もが悲しまない選択肢を新しく作り上げればいいのだから。
今はここでアイリと楽しもう。
「ごめん、今行く!」
――ああ、何も考える必要のないこの時間がずっと続いていけばいいのに。
◆
そう、ずっといつまでもこうしていられることが最大の幸せだ。なんて思っているキリはふれあいコーナーにて小動物を抱きかかえてうっとりとしていた。
その傍らで抱っこするアイリはどこか引き気味である。カシとはほど遠い、この愛でっぷり。デレデレっぷり。
「くぅっ、可愛いなぁ!」
「…………」
何も言えない。というか、抱っこされている小動物が嫌そうにしている。逃げたそうにジタバタしているぞ。ほら、飼育員さんも戸惑いを見せている。
「キリ、あんた……」
「えっ、何?」
その嬉しそうな顔を見せられると、放してやれとは言いづらい。それはもちろん飼育員もだ。悪意は一切ないのだから。
「ああ、持ち帰りたいなぁ」
「それ、野生にもいなかったっけ?」
「おう、俺のところの村の山に――あっ」
隙をつかれて逃げられてしまった。慌てて飼育員が逃げないようにして捕まえると、ゲージの中へ入れる。
「申し訳ありませんが、この子ちょっとストレスが溜まっていたみたいですね。別の子を抱いてみますか?」
どちらかというならば、是非とも抱くのは諦めていただきたい。そういう飼育員の思いがアイリには伝わっていた。妙にこちらの方へと視線を向けているからだ。
「いいんですか?」
しかし、それが今のキリに通用するとでも? 相手は小動物をここまで愛でるようにしている少年だぞ。
キリが小動物のゲージの中へ手を入れようとすると、他の者たちも嫌がるようにして全力で逃げていた。わかっているのか、それとも見ていたのか。意外に賢い彼らのようだ。
その小動物たちの行動にキリはカシの餌やり体験のとき同様にやるせない表情を見せていた。なんとも痛まれない気持ちが二人に押し寄せてくる。そんな悲しそうな顔を見せられたならば、心が痛むではないか。
「…………」
心情を顔に出してアイリに向けてきた。こっち見ないで、どう対処していいのかわからないのだから。
「……この子、抱いてみる?」
「うん!」
一瞬にして笑顔に満ちるキリ。一瞬にして絶望的表情を見せるアイリに抱かれた小動物。それを飼育員は見逃さない。
アイリから受け取ると、キリは小動物の頭をなで繰り回す。それは嫌そうにジタバタと暴れる。
「その子嫌がってない?」
「え?」
「いや、え、じゃなくて。逃げ出そうとしてんだけど」
「そういうところが可愛いんだなぁ、もう」
性格崩壊とはこのことか。キリは小動物になると、ここまで見境なくすのだろうか。
「すみません、一匹いただけますか!」
早速そう言い出してきた。これはここから離れた方がいいだろう。そう考えたアイリはキリから小動物を取り上げてゲージに戻してあげた。
「なんでぇ!?」
「お酒も飲んでいないのにボケないでよ。きみは元々ツッコミ役なんだから」
「ボケてねぇよ!? なんだよ、いいじゃん。俺があの子らをどう愛でたって!」
本当はそういう意味ではなく、ただ単にそんなキリを見たくなかったのがアイリだ。次の場所へ移動しようと強引ながらも連れ出そうとするのだが――。
別の小動物のふれあいコーナーに飛びつく。駄目だこりゃ。キリの後を追いながらも、怪訝そうな顔を見せるアイリ。
「キリのさっきからのやり方すっごいストレスが溜まっているらしいって。もうちょい普通に抱けないの?」
「えっ? これが普通の抱き方だけど?」
その割には新たに抱き出した小動物がその場から逃げ出したそうにジタバタし始めた。もう可哀想としか見えない。キリもその子も。
「普通には見えないって。どこか力入れているんじゃない?」
「誰が入れるかよ。入れたら骨が折れるだろうが。可哀想だろうが」
――見ているこっちが可哀想だよ。
「だとしても、撤収」
アイリはこの場に来るんじゃなかったかもしれない。そう後悔しながらキリを引きずるようにしてその場を後にした。そのときの彼はもの惜しそうにふれあいコーナーを見つめていたのだった。
◆
のんびりと過ごすのはライオンの餌やり体験の広場にあるベンチである。キリはまだ心惜しそうにしているようである。いい加減諦めがつかないものかとアイリが片眉を上げていた。
「粗方見回ったね」
「そうだな」
「どうする? 餌やりでもする?」
ライオンはお腹が空いているのか、子どもを守る母親を敵視しているようである。どうも、誰もその体験をしたがらない様子。
アイリはそう言ってきているが、正直キリは気乗りしない。この大きな鳥との関わりなんて、絶対ろくな目に合わなかったから。脱走に引き続き、野生のライオンとの遭遇。冗談じゃない。するならば――。
「したいなら、行っておいで。俺はこっちで見ているから」
逃げるが勝ち。関わりを持とうとしないが勝ち。一緒に楽しみたいのは山々だが、面倒事が起きるのは避けたい。
「わかったよ」
どうしてもやりたくない気持ちが伝わったのか、アイリはベンチから立ち上がるとライオンの方へと向かっていく。飼育員に餌やりの申請をしていざ、餌やり体験開始。
長い棒で生肉を巨大怪鳥へとあげているアイリをぼんやりと眺めていると、一人のダンディーな男性が隣に座ってきた。なぜにこっちに座ってきたんだろうか。そう不審に思いながらも、こちらに手を振るアイリに手を振り返す。
「恋人かい?」
そう話を振ってきた。見ず知らずの者に何の用だろうか、とキリは男性を見る。その雰囲気は歴戦を勝ち抜いた戦士に見えるが、作業服を着ていた。仕事帰りでも遊びに来たのか。サングラスをしているせいか表情が読み取れないし、何よりこの場に合わない葉巻を吸っている。
「え、ええ」
唐突になんだ、この知らないおじさんは。一応キリは返事をする。その答えに鼻先で笑う意味不明な男。
「俺も若い頃は女連れてやれ動物園だ、テーマパークだと行ったモンよ」
「そ、そうですか」
正直どうでもいい。その言葉が心内に出てしまう。いいや、聞かれることはないからいいか。
「やっぱり、若いと時間はたっぷりあるからなぁ。親父ともなれば、時間はあっという間に過ぎるからな」
カッコつけて煙を吐き出す男。本当にどう扱っていいのかわからない。これまでに出会ってきた人物でこんな扱いにくい人はいなかったはずだ。どうも、世の中にはこういう面倒そう――失敬。ややこしい人がいるものだ。キリはそう思う。
「お兄さんも、今をたくさん悩みな」
ダンディーおじさんはキリに一枚の広告を渡してきた。そこに書かれていたのは――。
『王都立動物園 従業員大募集!』
おじさんを見た。よくよく見れば、作業服の胸ポケットに名札があった。
『園長』
この動物園の園長だった。なぜにこのタイミングで求人情報を渡してくるのだ、と唖然とするキリ。広告と園長を交互に見ていると、ライオンがいる方から悲鳴が聞こえてきた。
二人はそちらの方を見た。
びっくりしたような表情をして地面に尻餅をついているアイリ。逃げ惑う人々。広場の中心にいた巨大鳥は大きくてド派手な羽を広げている。ライオンに取りつけられていた鎖は千切れ、柵も壊されていた。
「アイリ!?」
キリはアイリに駆け寄っていくが、内心はやっぱりかという気持ちの方が強かった。こういうときに限って自分たちに災難が降りかかってくるのだから!
ああ、もう。なんて苛立ちを見せながらも逃げられそうにないアイリを救護しようとするが、自分の頬を何かが掠めた。発砲音がして、それはライオンの首筋に着弾する。
奇声を上げていた怪鳥はその場に倒れ込んだ。
「今だっ! 捕獲にあたれ!」
園長の呼びかけに草むらから、木の陰から隠れていたのだろうか。一斉に従業員たちが網やら縄やら手にして捕獲して、逃げられないようにした。
この状況に何も言えない二人は園長の方を見る。彼は手に麻酔銃を持っていた。地味に似合っているから、カッコいいと思える。
ここで園内アナウンスが鳴った。
《ただ今、中央広場にてライオンが脱走いたしましたが、すぐに捕獲致しましたのでご安心ください》
「以前、ライオンが脱走したことがあってな」
園長は葉巻を吸いながら二人を見返す。
「そういうことがないように、今はこうして警戒態勢を整えているんだが……。あのときは学徒隊が大型バイクで体当たりして気絶させたらしいな」
こちらの方へと近付いてくる。
同時にキリは思い出す。大型バイク、何を思ったのかそのエンジンを吹かすアイリ、降りるに降りられなかった自分。
【人間舐めんなよっ!】
紫煙を燻らせながら、真っ黒なサングラス越しからでもわかる視線を向けてきた。
「俺がマジモンの過激派キイ教信者ならば、お前さんたちを報復しているだろうよ」
園長はそう言うと、アイリのもとへと近寄って手を差し伸べた。それで立ち上がる彼女は「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
「あ、あの。おじさん、もしかして……」
――体当たりのときの俺たちの顔を覚えている!?
「おうよ。俺たちが客人を避難させている間に、そいつがお世話になったもんだ」
トラックに運び込まれる怪鳥を指差しながらにやりと笑った。まさかとは思いたい。このようなところであのときの報復が来るのか!
「お前さんら、ちょっと事務所の方に来てくれねぇかい? 話があるんだ」
◆
動物園の事務所の方に連れてこられた二人。キリは肩身が狭い面持ちでソファに座り、アイリはお構いなしに座り込んでいた。そんな彼らの向かいの席に園長はどっかりと座る。事務にいた女性従業員がお茶を淹れてくれた。
「すまないな、デート中に」
「……い、いえ。そ、それでお話とは?」
絶対に見回り任務の際にライオンをバイクで体当たりした件のお咎めか。あの後の動物園側は何も言ってこなかったから、てっきり――。
園長は短くなった葉巻の火を灰皿で消す。また新しい葉巻に火をつけた。
「お兄さんは察しがついているだろ。その様子じゃ」
見透かされている。めちゃくちゃ渋くてダンディーかつ、濃い顔したおじさんがサングラスとのかけ合わせが似合わない作業着を着こなしているのに!
「その、バイクでライオンを撥ねたことですよね?」
「そうだ」
「そんで、今更説教垂れに来たんスか?」
アイリが煩わしそうにお茶を飲みながら質問をした。彼女のその言葉にひやひやする。
「半分正解だ。なんだ、お姉さんも頭の回転早いんじゃないの?」
「ふっ、教官たちに呼び出され、説教された数の計り知れなさはダテじゃありませんからね」
――カッコ悪いことをカッコよく言っている!?
「そうかい」
園長は葉巻を一服すると本題へと入った。
「あの故意的な事故の件だが、確かに生きている者たちの命を大事にしないようなやり方は許しがたい」
灰皿にある煙が上へと伸びている。
「だけれども、俺は前回のそれを咎めるつもりはねぇよ」
「えっ?」
思わず声を上げてしまう。あのときの顔を覚えている、事務所の方への呼び出し。てっきり、動物を大切にしろ、命は皆平等にあると言ったようなお説教を待ち構えていたのだが――。
「どういう意味ですか?」
アイリも予想外だったようだ。片眉上げて園長の方を見ていた。
「あれに関しては、説教するつもりはないと言っている。客の安全が優先だからな。だが、別の件での説教というか、注意換気だ」
園長は新しい葉巻に火をつけた。
「キイ教過激派の教えって知っているか?」
キイ教過激派。二人は眉間にしわを寄せながら首を横に振る。知っているようで、よく知らないから知らないふりをした。
「ずっと前からそいつらのクレームが入ってきてな。『ライオンはキイ神の化身である、檻なんかに閉じ込めたりするな』ってな」
「そういう教えがあるんですか?」
「らしい。俺も聞いた、他の従業員たちも聞いた。俺もよくわかっていないんだが、ライオンが動物園で観賞されることを好ましく思っていないようだな」
園長は煙を吐き捨てながら、テーブルの一角を見つめた。
「元々、ライオンは黒の皇国……おっと、今は共和国か。そこの荒野に生息している肉食鳥類だ。過激派からのクレームが来てから調べたんだが、教典の一節で神様がライオンに姿を変えて生活していた時期があったとか。それで変に解釈して神様の化身だって言い張ったんだろうな」
ここでアイリはまさか、と思った。古跡の村でシードルが言っていたこと。
【数年前から山々にいなかった動物がこちらに移動をして来たり】
「…………」
本当は人々の暮らしの代償としてライオンが人気のない世界を見る目の方に追いやられていたわけではなく、『故意的』に『過激派キイ教信者』が『キイ神の化身としてのライオン』を、世界を見る目へと放たれていたらば?
「どうした、お姉さん」
一つの憶測に辿り着いたアイリに気付いた園長は声をかける。キリも彼女の方を見た。
「いや、世界を見る目付近の村に立ち寄ったことがあるんですけど。そこで聞いたんですよ。数年前から山の方に生息しない動物が移動して来たって……」
「だ、だからいたのか!?」
アイリの言葉にキリが反応した。となると、彼もまたあの山の方に行ったのか。
「あいつらが何を考えているかわからんが、とにかくお前さんたちはライオンに対する扱いに気をつけた方がいい。これは動物園園長からの忠告だ」
「はいっ」
「ところで、二人の就職先が決まらなかったらウチに来いよ! いつでも募集しているからな!」
――それだけはご遠慮させていただきます。
最後の言葉だけには何も触れず二人は事務所を後にする。そんな彼ら――特にキリの背中を園長は見つめていた。小動物ふれあいコーナーにおける一連は見ていた。キリのあの小動物に対する愛で方は普通ではない気がしてたまらなかったから。
そう、何かがおかしいのだ。何かが引っかかるようにして。その何かがおかしいのは、見てわかるものではないが、自分の勘がそう言ってくるのだ。
――どう言ったら、いいんだ?
言葉にできない疑問。それを示すのは一体何か。
◆
薄暗いその場所にはつんとくる嫌なにおいが漂っていた。床も壁も天井も。その場に一人だけ立つ者の真っ黒なその体を真っ赤に染めている。自分が何を犯したのかをきちんと理解はしている。何を思って、どう行動したのでさえ。迷うことはない。これでいいのだ。これがいいのだ。これが――最良の選択にして、正しいと思うこと。
この世のすべてが己の敵ならば、『目の前にいた者』でさえも敵。優しく声をかけてきた者でさえも敵。自分を助けようとして来た者でさえも敵。敵、敵、敵。
信じる者もいなければ、信頼する者すらもいない哀しき世の中。信じられるのは己の心内のみ。
また一つ思い出した古い記憶。誤解から始まった裏切り。憎しみ、悲しみ、怒り――。
あのときこそ、すべて逃げきれると信じていた。安泰のある世界に幻想を抱いていたのだ。
【先行け! 俺がお前の相手だ!】
【貴様、それは――!】
己が築き上げてきた理想郷は崩れたり。だからこそ、次はない。だからこそ、拵えた物がある。
「……再び」
血で染め上げた黒い人物は虚ろな目をしながら歩き出し始めた。
「理想郷を築けよと。幻想を現実に変えるため。厭わない、それが終着点であるならば……」
一歩一歩が重い。赤い水溜りを踏む。ブツブツと独り言のように、呪文かのようにすらすらと口から言葉が解き放たれていく。
「我が行く道を賛同しない者、塞ぐ者こそカムラ。我がの生命を断つ存在こそ存在なき者が名なし。故に我は正しき者のキイ。正しき者こそが世界を創る、世界を見る目を持つ者こそが支配者なり」
床に落ち、血で染め上げられた一冊の本。文字が上手く読み取れないが――。
――――。
二節より『世界の支配者』
男が言った。猛然たる炎の中に包まれ逝く、死体に成りかけの体を動かせるか。と。これが男の最期か。なんとも呆気ない終わり。哀しきかな、彼の望む世界は後一歩のところで灰となろうとは。だからこそ、男は願った。再び、出会うだろう。何度も出会うだろう。それが、己と彼の運命。傍観者が組み合わせた必然たる運命。もしも、彼と出会うときが来るならば、我は宴を用意してあげよう。つまらない死を迎えさせるよりはずっと楽しいだろう。我は用意してあげよう。
猛炎の中ですでに己にとっての理想を組み立て上げようとしている。次の運命に任せようとしている。いくらでも書き変えられるのは世界の支配者。すなわち、それの器のある男は死に逝く自分を見るもう一人の男を見た。
キイ神に助けてもらうか、と炎に包まれていない男が言った。こちらを見る目はああ、なんたる憐れみの目か。その目でさぞかし心の中では大笑いしていることだろう。目の前の男が死ぬのを楽しみにしていたのだからな。それならば、我も楽しみを増やしてあげようではないか。幸せだろう? 嬉しいだろう? お楽しみが一つ増えたのだからな。彼にとっても己にとっても苦悶を抱える先が見えている。神よ、我だけお助けを! 何も問題はあるまい。キイ神は男だけの味方なのだから。
燃え尽きる直前に炎が男に声をかけてきた。運命に逆らえるようにして、あなたに忠実な番人が存在します、と。それを聞いた男は大喜びを張り上げた。憐れみの目で見る男とは対照的だ。
聞いたか、彼よ。我がは聞いたぞ、キイ神のお言葉を。キイ神のご慈悲を。貴様などに与えられない森羅万象の力をいただくのだ。我の――。
――――。
その本の持ち主らしき人物はピクリとも動かない。
この場所の扉が開かれる。中へと吹きつけられる吹雪。暗い場所から一変して銀世界が広がる。黒い人物は外へと出て、建物の屋根の方に飛び乗った。雪が舞う空を見上げる。今の彼と同じ目の色をした灰色の世界が広がっていた。
「支配者を守る者こそ……番人」
名なしから逃れるためならば。どのような手でも使おうではないか。
「番人を拵えた。殺せるものならば、殺してみろ」
――――。
『番人たち』が存在する限り、貴様は死ねないだろう!




