切望
メアリーを黒の皇国から奪還して一ヵ月が経った。君主がいなくなった国をどうするかで青、白、赤、黄の四ヵ国とイダンが話し合いに応じることになる。多少のいざこざがあったものの、結果的には国として存続することに。
今後は黒の皇国改め、『黒の共和国』として。君主制としてではなく、民主制として新たに生まれ変わることを決定した。また白の公国軍によって破壊された首都にある城は一度取り壊すことと、その首都は国の名が変わっても場所は変わらないことが決まったのだ。
その話をキリが聞いたのはしばらくの間、黒の共和国にて滞在しているときだった。今は事情聴取のため、エレノアに呼ばれて青の王国の方へと戻ってきていた。
王国軍人に連れられて、キリは軍の基地のとある一室へと案内された。廊下を歩きながらエレノアが言っていたことを思い出す。
【詳しい事情は帰ってから訊く】
不安を仰ぎながらも部屋のドアをノックする。当然向こう側にエレノアがいるから返事もあった。入室し、彼女に頭を下げた。
「お久しぶりです」
「半年近いぶりかね。うん、伸びきった髪もスッキリしたんじゃないかい?」
「お陰様で」
「立ち話するわけじゃないんだ。こっちに来て座りな」
エレノアに促されて、キリは向かいにあるソファに座った。声音は優しい方であるが、何を訊かれるのかわかったものじゃない。自分にだって知らないこともあるのだ。それらすべてを話せるとは限らないのだから。
「ラトウィッジから聞いたよ。貴様、死んだメアリーを事実改変して息返らせてくれたんだね」
「はい、彼女に伝えたかったことがあったので。まだ、全部とは言えていませんが」
「だったらあの子は今、公務関係で世界中を回っているんだ。しばらく戻ってくるには時間かかるけどねぇ」
「そうですか」
すると、キリに少しばかり膨らみのある封筒を差し出してきた。それを受け取り、困惑しながらも中身を開ける。そこに入っていたのは住所が書かれてあるメモ紙と紙幣の束があった。
「これは?」
「まずそのお金は作戦の報酬金さね。私からではなく、エブラハムから」
国王エブラハムからの報酬金だと聞いてびっくりするキリは封筒を落としそうになった。
「そして、その住所のメモは悪いが――貴様は本物ではない過去の歯車の所有者だ。正直な話、そんな危険な物を持った者をこの国に存在するのを他の連中がよく思っていないらしいんだよ」
「俺は王国を追放されたってことですか?」
「すまない。何度もあやつに説得を応じたんだがね」
どうもエレノアはそのことに反対していたらしいのだが、現在政治権を持たないのか話を聞いてもらえなかったらしい。いや、その気持ちさえあれば十分である。少なくとも、彼女が自分の味方としていてくれるならば、嬉しいに越したことはないのだから。
「いえ、構いませんよ。どうせ、除籍された身ですし」
「……うん。それで本題に入るんだが、それは誰からもらったんだい?」
キリはメモ紙を封筒内に入れて、眼前のテーブルの上に置いた。言うべきか。言わぬべきか。どうせ、もう青の王国にいられないのだから、エレノアに事実を言わなくてもいいのではないのか。
悩みに悩んだが、キリは重たい口を開いた。
「アイリ・ハルマチからです」
それに対して、エレノアは僅かながら相槌を打ちつつ「なるほどね」と言い放つと――。
「なんでその子からもらったんだい? 貴様はそれが欲しかったのかい?」
「……いえ、ハルマチは腕なし――ハイチ・キンバーを過去の歯車で殺したがっていたようです。俺はそれを彼女にお願いされました」
「腕なしをね。あの子が『名なし』と呼ばれていたことに関しては? それも知っていた?」
キリは「知りません」と否定するように首を横に振った。雪山で腕なしが言っていたことしか知らないから。だが、エレノアの発言で『名なし』とは誰を差すのかを再確認できた。
エレノアは口を尖らせつつ、どう話すべきか迷いながらも、キリに待機をさせて退室してしまった。その場に一人取り残された彼は言うべきではないことを口にしてしまったのだろうかと頭を悩ませる。
ふと、エレノアから受け取った封筒を見た。王国追放。思ってもいなかったことだ。いや、これは喜ばしいことではないだろうか。どの道、あの承前の棟に逆戻りしなくてもよくなったのだ。そして何より、本格的にアイリのもとへと会いに行ける。そう考えるだけで頬が綻びそうになった。あちらに滞在中は監視もあったから、自由に動けなかったことも大きかったから。
もう一度、黒の共和国の方にでも行ってみようか。なんてキリ考えていると、エレノアは戻ってきた。ラトウィッジとアイリを連れて。これに彼はひっくり返りそうになる。なぜ、アイリが王国にいるのか。向こうにいるはずじゃ――?
「あ――ハルマチ?」
「やっ、本当にまた会ったねぇ」
アイリは小さく手を振ってくる。
「彼女にも事情聴取をしていたんだ」
「え?」
「そうなんだよねぇ。流石に一ヵ月はつらいですよぅ」
肩が凝ったとでも言いたげなアイリは一ヵ月も前から青の王国にいたらしい。
「は? ちょっ、え? ハルマチはこっちに戻ってこないんじゃないのか?」
「戻る、戻らない以前にこちらとしては彼女から訊きたいことがあったからな。それも今日で終わりだ」
「いぇーい! これで自由だぁ!」
「結構自由にしていなかったか?」
「ここからは本当の自由ですっ!」
なんて彼らは会話をしているが――キリからすると、話がよく見えてこない。何がどうして、どうなっているのだろうか。困惑する彼をよそに、アイリは駆け寄ってきて両手を握ってきた。彼女の温かい手が伝わってくる。これにキリは顔をほんの少し赤らめた。
「これで一緒にいられるねぇ」
「い、一緒?」
「そうだよ。これからあたしたちはこの国をおさらばするんだよ」
「じゃあ、これからはハルマチと一緒に……?」
「うん」
アイリの嬉しそうな笑顔に、思わずキリの頬は緩んだ。叶ってもいなかったことがすぐに叶った。ああ、なんて幸せなんだろうか。そう思っていると、テーブルの上に置いていた封筒に彼女は手に取った。
「何これ」
「ああ。それ、ライアンの奪還作戦での報酬金だよ」
「わぁ、これは使い放題だねぇ」
さらっと恐ろしいことを言うアイリであるが、現在のキリの所持金はそのお金しかないのだ。余計な物を買われてしまっては困る。彼は鼻白みながらも「最低限の物にしか使わないからな」と口酸っぱく言った。
「俺、金持っていないんだから」
アイリが変な物に使う前に、彼女から封筒を奪い返した。エレノアがキリに声をかける。それに彼は立ち上がり、そちらの方を見た。
「はい」
「何もすぐに貴様らを追放はしない。メアリーが帰ってきたら教えるから、それまで王国内にいな」
「はい、わかりました」
そう返事をすると、二人は部屋を出た。残されたエレノアとラトウィッジ。彼の方を見て「どうだったかい?」と訊ねてきた。アイリ――名なしの事情聴取の結果が知りたいようだった。
「名なしは何を言っていた?」
「…………」
◇
ほぼ長期戦とも呼べるような何もない部屋での名なしに対する聴取。二つの椅子を向い合せにし、その間には鍵をかけられた強化ガラスボックスの中へと入れられたピンク色の分厚い本と未来のコンパスがあった。
「貴様がアイリ・ハルマチではないことはわかった。だが、何の目的があってデベッガに渡したのだ?」
名なしを見た。長時間もそうして座っているというのに。連日そうしているのに。全く疲れを見せないどころか、やつれた様子も動じる様子もなかった。こういうことにまさか慣れているわけでもないだろうに。それでも、彼女は必要最低限のことしか言わない。核心ある発言もしたりしない。基本的に本人が言いたいと思っていることをヒントとして口にしているだけだった。
ピンク色の本の中身に至ってはどの国でも全く使われた形跡のない文字である。昔使われていた文字でもない物だった。それらの字はすべて手書きである。そして、気になるのが破れたページがあったり、書かれた文章の上から同じような文字で上書きされたりしていることだ。
これについて問い質すと名なしは『神様の日記』と訳のわからないことを言い出す始末。仮にそれが本物だとしても、どうして名なしがそれを持っているのかとなるが――こちら側にとって、わかりやすく話してくれないのが現状であった。
しばらくの押し問答が続いていたある日、名なしが初めてヒント以外の言葉を発した。
「ねぇ、腕なしを捕まえたいでしょ?」
ずっと、事情聴取をしていたラトウィッジは疑心を抱く。突然、何を言い出すのか。そろそろ、この聴衆にも疲れを見せ始めてきたか。表情は全く変わらないようだが。
「ああ、それは事実だ。だが、今は貴様の聴取から先だ」
「それは後でいい? あたし、あいつを殺したいから」
「やつをだと? 腕なしが死なれたら困るのにか? 矛盾していないか?」
逃げるための口実作りだろうか。ラトウィッジがそう思っていると、名なしは否定してきた。
「違う。死なれたら困るのは、あんたらがあいつを殺そうとしたから。あいつにはあいつらしい、きちんとした死に方がある」
「人の道を外した彼にとっては十分な死に際だったろうに」
「そうじゃない。あいつの死はキリが持っている過去の歯車が一番お似合いだっての」
名なしのその発言は最終的に振り出しに戻ってきていた。だが、肝心の答えはわからない。これでわかったことは、彼女はハイチ・キンバーを殺したがっていること。そして、殺害するために過去の歯車をキリに所有権を渡して加担させていること。腕なしを殺害するには彼が現在所有している過去の歯車が必要であるという三つだけである。
「……わかった。どの道、腕なしを早く捕らえないと被害が及ぶだろう。貴様もデベッガと同様に王国を一度追放させよう」
「さっすが、話をようやくわかってくれたねぇ」
「貴様と話しても何一つ前進しないのだよ」
もしも、腕なしを討伐して、進展があるならば――。
三人の関連性はある種でキイ教信者たちの世界中の人々にけんかでも売るようなとんでもないものなのだ。あまり公に出すことはできないだろう。
「デベッガは今、黒の共和国にいる。彼にも少しばかり質問もする。いいな?」
「いいですよぉ。あっ、と。これは返してもらえない系?」
名なしが指差すのは本と未来のコンパスだ。
「腕なし討伐に当たって、必要ならば返す」
「じゃあ返して」
名なしを信用したわけではない。まだ疑いの眼差しでしか見れない。だからこそ、ラトウィッジはピンク色の本と未来のコンパスを渡す前に問う。
「一時の解放に当たって。貴様は何者だ? それだけは教えろ」
「『しにん』とでも言っておきましょうかねぇ」
何度も聞いたその答え。それ以外答えないらしい。何者でもない存在だからこそ、死人とでも皮肉っているのか。
名なしは本を受け取ると、難しそうな顔をするラトウィッジを見た。
「……総長さん。あんまり、根掘り葉掘り訊かない方がいいんじゃない?」
「どういう意味だ」
「ほら、知らない方が幸せってやつ?」
「そうか。ならば、私は知って不幸の方がまだマシだな」
キリがこちらの方に到着するまでは指示した部屋で待機をするように。そうラトウィッジがその場にいた女性王国軍人に名なしを部屋へと案内するようにそう伝えた。
二人はその場を去っていった。
◇
軍の基地を出て、アイリは「どういうこと?」と訊ねてきた。
「メアリーが帰ってきたらって、何かお話でもあるの?」
「うん。ライアンに言わなきゃならないことがあって」
「お別れのあいさつ? だったら、あたしもかなぁ」
お腹空いたな、とお店を見てはキリの方を見てくる。もしかして、アイリはお金がないのだろうか。封筒内にあった住所の場所に着くまでは、せめてお金を持たせたいのだが。彼は渋々と封筒から一枚の紙幣を出して渡した。早速彼女は屋台の方へと行き、パックに入ったフィッシュフライを購入して美味しそうに頬張り始めた。
「そう言えば、メアリーにお別れのあいさつしたら捜しに行くよね?」
「捜しに? 誰を?」
すかさず、アイリが手に持っているパックの中身の物をキリはいただいた。
「腕なしに決まってんじゃん。あいつ、結構ヤバいくらいになっているけどねぇ」
「あの人、どこに行ったんだ? それに向こうにいる間、ガズから聞いたけど、ハルマチって――」
「あたしのこと、この前みたいにアイリって呼んでよ。あたしもキリって呼ぶからさぁ」
どこか不貞腐れた様子で口を尖らせてくるアイリにキリはたじろいだ。確かにあのときは勢いあって、彼女のことを呼び捨てで呼んでしまったのだ。それにもう『ハルマチ』という呼び方で慣れているせいか、恥ずかしいと思っていた。おまけに自分のこともこれからファーストネームで呼ばれるのだ。これ以上にない嬉しい恥ずかしさ。今なら王都中にある町を全力疾走で走れることも――できません。
「……あ、アイリはどうしてハイチさんと一緒に行動を?」
「ガズ君から聞いているなら、あの人の殺処分の件も聞いているはずだと思うけど」
「…………」
「安心して。あたしもあの人も互いのことを嫌っていて、何もないから」
キリの方を見ると、今度は彼が不服そうな表情を見せていた。そんなにハイチと一緒に半年間も行動をしていたことが不満なのか。
「ならいいけどさ。それ関連で王都に来ていたのか」
「それもあるねぇ。事情聴取していたかだし」
「そっか。だったら聞かせてよ。そのお話」
「いいよ」
◆
「案内、ありがとうございます」
メアリーはイダンにお礼を言った。彼は頭を下げる。彼らがいる場所は黒の共和国の首都より少し離れたところにある墓地だった。そこの丘にある場所に立つ。前方より青色の海が見えており、潮風が彼女の髪を優しくなでる。青色の花をアクセサリーとするそれがその金色の髪に映えるようにして存在していた。
眼前にある墓――これはハインの墓である。彼の墓石には横に細長い穴が空いており、そこへとメアリーは持っていた一通の封筒を入れた。
「これで、私とお手紙友達ですよ。また送りしますね」
ハインとの約束。今回は果たせた。これで彼も――。そう願うメアリーは細やかにハインの幸せを願った。
「メアリー王女、大変ありがとうございます」
祈りをし終えたメアリーにイダンはもう一度頭を下げた。
「皇子もきっと嬉しく思いでしょう」
「そう言ってもらえると、私も手紙の書き甲斐があります。共通の話題はないけれども、他愛ないお話くらいなら」
「いえ、それでも皇子は喜ばれますよ」
きっとハインはそれを望んでいた。彼は誰かと友達になりたかったのだろう。文通友達が欲しかったのだろう。
「大臣も大変でしょうが、どうかこの新しき国を支えていってくださいね」
「もちろんですとも」
イダンに柔らかい笑顔を向けるメアリーに対して、彼もまたしわくちゃの笑顔を見せた。だが、その場で笑みを浮かべているのは彼らだけではなく、ここに眠るハインの優しい笑顔があるような気がしてたまらなかった。
◆
時を同じくして、ケイとヴィンは黒の共和国へと向かっていた。ケイは身分剥奪、ヴィンは王国追放されたから。どうせならばとキリたち同様に同じ町に住もうかと考えていたところなのである。
「腑がないなぁ」
「仕方ないだろう。あいつらは厄介な連中だ。取り戻せばいいだけの話だ」
そう答えるケイの右目は眼帯がされていた。地味に似合っているな、とヴィンは思う。
「取り戻せばって。うーん、手厳しい」
そうは言うものの、出入国管理棟にて正々堂々と手続きができているせいか、二人は余裕の表情を見せていた。
「そう言えば、みんなどうしているのかな?」
「色々やっているだろ」
素早く手続きを済ませて、黒の共和国の国境町並みを歩く。その町の地面には号外新聞なのか、落ちていた。それをヴィンが拾い上げる。そこに書かれていたのは首都にある城の取り壊しについてだった。彼はその新聞をケイに見せびらかした。
「団長」
「……もう、俺は団長じゃないし、貴族でも何でもない。身分剥奪されたしな」
「じゃあ、ケイ。知っている?」
「なんだ、ヴィン」
「この国の城の地下のこと」
「地下牢獄のことか?」
その答えにヴィンは首を横に振る。そうではないらしい。
「身元不明の死体が出てきたんだって」
「捕まった誰かとか?」
「違う。首ちょんぱの死体。地面には人体にとって有害物質の薬品とか、医療器具が落ちていたんだって」
「拷問死体か」
「じゃないかな。私もそこまで詳しくないから」
だとしても、それはどこで知ったんだと不思議に思うケイであったが――彼はヴィン・ザイツである。情報収集なんてお手の物だろう。
今現在、取り壊し予定の城内の調査をしているのは青の王国と白の公国に加えて新しい黒の共和国の治安隊である。大臣であるイダン曰く、皇妃の意志を受け継いでいくらしい。本当に皇国軍の解隊を行ったのだ。それで今あるのが共和国治安部隊である。すぐにすべての武装を解くわけではないのだが、ゆっくり着実と武器を減らしていくのだそう。
「でも、この国は解隊あっても変わっているよね。こっちに侵攻しただなんて町の人たちもひどく落ち込んでいると思ったけど」
「基本的にここの国の人たちは青の王国を恨んでいないらしいな」
今更ながら、数ヵ月前に入った骨董品屋の店員の言葉を思い出した。それもつられてヴィンも鞄から数枚の写真を取り出してそれを見せてくる。
「これは?」
「この国の人たちの笑顔写真。ステキだと思わないかい?」
改めて見た。ヴィンの言う通りだ。すべての人たちにはいい笑顔が写り込んでいるではないか。
「見せようって思っていたけど、ケイは忙しそうにしていたからね。邪魔したくないと思って」
「そうか。すごくいい写真だな」
写真を眺めてケイは頬を綻ばせる。そんな彼を見て、ヴィンは勝手に写真を撮った。
「いや、何?」
ケイは怒ってはいないが、若干笑ってはいる。満更ではない様子。
「ケイの笑顔もステキだな、と。パシャリ」
ヴィンも笑いながらその撮った写真を確認した。ケイも顔を覗かせる。だが、そこに写っていたのは――目は半開き、口は開けられている、ピンボケ。つまり撮影失敗したのがそこにあった。
「…………」
「…………」
「まあ、これはこれで面白い物が撮れたということで」
その写真を消さずに、ケイから誤魔化しをするために風景の写真を撮り始めた。しかし、そんなことで見逃すほど甘くないぞ。ヴィンの肩を掴んだ。
「ちょっと待て。そこは消せ。友達なら」
「いやいや。友達だからこそ、面白写真として取っておくべきだと私は思う!」
「そんなの嫌だ! 今すぐに消せ!」
「ははっ。これ、誰に送ろうかなぁ?」
掴まれた手を振り解き、逃げ始めるヴィン。その後を追いかけるケイであった。
◆
これ以上にまでない緊張感を持っているのはマティルダの家――すなわちボールドウィン家本家屋敷の門前にいるガズトロキルスだった。傍らには心配そうにしている彼女がいる。
「ガズ様、大丈夫ですわ」
「お、おうっ」
大丈夫。果たして本当にそうだと言いきれるのか。不安が一切拭えないガズトロキルスはマティルダと屋敷の中へと入って行く。使用人たちに案内される最中、天井に、壁に、床に、傍らに。そこかしこに飾られているのは豪華絢爛の高値物。これらは実家が経営している商店の年収の何倍になるのだろうか、と計算の苦手な彼は頭をこんがらせていた。
すでにマティルダのことは自分の家族には紹介している。そして、王国追放の件も。最初は色々と説教垂れられていたが、どうにか納得してもらえた。今度は彼女の家族に話をしに行くのである。だが、マティルダは王国追放をされていない。身分の位は落とされてしまったものの、家とは縁を切っていないらしい。つまり、ガズトロキルスがこの場にいるのは、彼女を僕にください。と、相手の両親に許可をもらいに行く恋人の状態である。
自身の父親は厳格な人物だとマティルダは言う。
「こちらでございます。少々、お待ちください」
どうしよう。何を言えばいいか、わからない。ガズトロキルスがない頭をフル回転させて悩んでいると、もう着いてしまったらしい。使用人がマティルダの父親の部屋のドアをノックし、入った。心拍音がうるさい。ここまで緊張するだなんて初めての経験だ。
しばらくして、使用人は部屋から出てきた。ドアを開けたまま「お入りください」と促す。二人はその部屋へと入室した。中には蒼武術勲章を持つマティルダによく似た男性と、これまた同様に佇まいが似ている女性がいた。
男性――マティルダの父親はガズトロキルスのことを品定めでもしているかのようにして、力強い視線を向けてきた。ビシビシとそれが体中に穴を開けられてでもいるような感覚があって、痛い。一方で女性――母親の方は柔らかな面持ちで二人を見ていた。
「……マティルダ、私は言ったはずだぞ。ボールドウィン家の将来を考えて行動しろ、と」
「…………」
「その結果が身分剥奪だ」
「も、申し訳ありません」
父親は一切ガズトロキルスから視線を外さずに、そうマティルダに言い放つ。確かに厳格的な人物ではある。自分の親よりも何千倍怖い声だ。これが貴族の重圧というものか。
そんな風にして、ガズトロキルスが恐れを抱いていれば――「それで」そう、こちらに視線を合わせてきた。
「きみはマティルダのなんだね? 見たところ、一般民にしか見えないが」
言うときが来た。ガズトロキルスは心を落ち着かせるようにして、大きく深呼吸をする。
「おっ――わ、私は元学徒隊員ガズトロキルス・オブリクスでございますっ! ご察しの通り、私は庶民でごじゃります!」
まさかの舌を噛んでしまう失態。慣れない言葉遣いに舌が回らなかったようだ。だが、このようなところで羞恥心を見せていても仕方がない。ガズトロキルスは若干顔を赤らめつつも言葉を続けた。
「本日はボールドウィン様のお嬢様のことについてお伺い致しました!」
「マティルダのこと、だと?」
ピクリと片眉が上がり、小さく反応する。絶対にいい顔はしていないことが、さほど周りの空気を読もうとしないガズトロキルスでもわかった。しかし、ここで怖じけついてはならない。肝心なことをまだ言っていないのだから。
「はいっ! 突然の名も知らぬ者よりの切願ではありますが、私にマティルダお嬢様をください!」
九十度の角度で頭を下げるガズトロキルス。冷や汗が尋常ではないほどに垂れてきているのがわかった。ここまでこんなに焦ったりすることは今までなかったせいか、初めて体験する感じである。戦場や任務に赴いたとき以上の戦慄をこのような場所で味わうとは。
「きみは何を言っているのかね?」
当然の結果か、とガズトロキルスは次の言葉をなんと言おうか。思考回路を回していると、父親がこちらに近付いてこようこうとする足音が聞こえた。
「マティルダを寄越せ? きみは我が娘と釣り合うと思っているのかね?」
「お父様! 私たちは互いに――」
「お前は黙っていなさい。私は彼と話をしているのだぞ」
押し黙らされてしまったマティルダは何も言えなかった。
「聞けば、きみは森厳平野防衛戦で軍を裏切る行為をしたそうじゃないか。それに、何人かの者たちと王国追放となっている。わかっているのかね?」
最後の一言がガズトロキルス自身に突き刺さってくる。事実をチクチクと言われるのは心地好いものではないと改めて確信できた。しかし、ここで押し負けてはいけない。怖けついてはいけない。
「わ、私がこれまでしてきたことは許されない行為だと自負しております! だけれども、お嬢さんとずっと一緒にいたい。これだけは偽りのない私の心です!」
そう言うガズトロキルスに父親は鼻で笑ってきた。
「偽りもない心だと? くだらない。きみはどうやら後先考えずに行動をするようだな」
「…………」
「ずっと一緒にいたいだと? それはきみの虚言ではないのか?」
「虚言ではありません! 本音です!」
ずっと自分の爪先をを見るガズトロキルス。これは絶対に嘘ではない。あのとき、確信した自分の心だった。本音という単語にマティルダの父親は嗤う。「本音とな」と面白おかしそうにしていた。
「ならば、私からも本音を言わせてもらおうか」
失敗したか、とガズトロキルスはそっと頭を上げた。相も変わらず厳しい視線をこちらに向けているマティルダの父親は――。
「きみとマティルダが結ばれてしまえば、どんなに大変な支障が出ることやら」
「お、お嬢さんは必ず幸せにします! 彼女の幸せのためにも――」
「私が言っているのはそういうことではないよ」
ぎろりと薄い青色の目が突き刺さってきた。
「私が言いたいのは、マティルダが王国からいなくなるのが寂しいということに決まっているだろうがっ!」
「は?」
「え?」
何かの聞き間違いだろうか。二人は顔を見合わせると、父親の方を見た。彼は確かに厳守格で気品ある男性だ。娘が家を去ることが寂しいだなんて台詞があるはずはない。いや、心の隅では思っていても、それを口に出すことは到底ありえないはずだろう。もっと、別の要因で許さないと言うはずだ。
「もし、きみと娘が結ばれたとしよう。結果的にきみは王国追放だからマティルダも必然的に他の国で暮らさなければいけない。そうなると、この家から、国からマティルダがいなくなってしまうなら、私はどうすればいいんだ! 超寂しいではないか!」
超寂しい、とな?
――おっと?
どこかで見覚えてのある状況。気のせいではないな。
「お、お父様。ほら、あのときみたいにして連絡機を――」
「ああ、その手があったか」
厳格な人物ではなかったのか。あっさりと手の平を返してきたのだが。というか、半年近くも家に帰っていない娘なのに? しばらくの間王国から離れていたのに? それでいいのか、マティルダ父。唖然とするガズトロキルスのに、今まで黙っていたマティルダの母親がそっと近付いてきて――。
「これまでの作戦中、マティルダとあなたの端末機にこっそり盗聴を仕掛けておいたんですよ」
「え」
ということは、すべて筒抜け。特に王国を離れていた間――マティルダが植物の毒で眠ってしまったとき!!
【ずっと、俺の傍にいて欲しい……】
【もちろんですわっ!】
恥じらいが襲いかかってくる。
「本当はあの人はあなたを認めているのよ。マティルダの幸せを願い、愛しているってね」
「うっ……!」
「うふふ。ねえ、あの子とはどこまでいったの? A? B? それともZ?」
「い、いい、いきなり何を言うんですか!?」
自分たちの会話が聞こえていたのか、マティルダの父親までも詰め寄ってきた。そんな、まだキスぐらいで何もしていないのに!
何もしていないと答えているのに。ガズトロキルスに訊いても仕方ないとでも思ったのか、この下衆両親。娘にまで訊き出そうとする。マティルダもマティルダで恥ずかしがって答えないだろうと思っていると――。
「が、ガズ様とは……」
「マティ!? ちょっと待って! 俺、普段慣れないツッコミなんてできないからね!?」
「Kまで行きましたわ!」
「Kだと!? Kだと!? Kってあれか! か――」
「何を考えているのかわかりませんけど、ボールドウィンさんが考えていることじゃないですからね!?」
ああ、ツッコミとはこれほどまでに大変な物だったのか。そう改めてガズトロキルスはキリの存在に感服する。そして、ツッコミ役がいなければ、これほどまでにもカオスな状況となるのか。なんて同時に彼を心底尊敬していた。
◆
「みなさんに会えて嬉しいです!」
そう言うのはターネラたちである。ここは王都の軍基地にあるとある部屋。中にはハイネにセロ、ワイアットがいた。久しぶりの再会に彼らも喜ばしく思う。
「久しぶりだね。元気にしていた?」
なるべく、自分は元気だと誇示を見せるハイネ。事情を知らないターネラたちは「もちろんです」と答える。
「後少しで、村として復帰できるんですよ」
森厳平野防衛戦にて、故郷の村周辺を焼き尽くされてしまっていたターネラはにこにことしているが、やはり小さな影を見せていた。
「みなさんは大丈夫でしたか?」
言うべきか、言わぬべきか。ハイチのこと。そう迷っていると、ワイアットが「実は」と口を開いた。
「お金が足りなくて、仕方なしにハイネさんに着てもらおうと思って持っていったドレスを売ってしまったんだよね」
「いや、ワイアット様、何しているんですか」
もっともなツッコミをソフィアがした。
「向こうは宿代が高かったんですか?」
ワイアットの話を無視して、フェリシアがセロたちに訊ねた。
「いや、高いじゃなくて、向こうで反軍やらコインストやらの連中に追われていたから。逃げる最中に財布を置いて行ってしまうし。まあ、結果的にこいつがかさばる物持ってきていたから事なき得たけど」
「それは不幸中の幸いでした」
「何が幸いなものですか! 僕としてはハイネさんに送るシリーズの服をすべて失ったんですよ!?」
その場でシャウトするワイアットにうんざりとした様子で、セロは口を塞いだ。一人だけ、なんかテンションがおかしいから。誰もが鼻白んでいると、ハイネだけが小さく笑う。それを見た誰もが無理して笑っているように見えた。なんと言ったらばいいのだろうか。ここで笑うべきところじゃないのはわかるのだが。それに、彼女はそこまで沸点は低い方ではないのも事実。
妙な空気をどことなく、察しがつくセロとワイアット。ワイアットに至っては変なことを言ってしまったか、と苦虫を潰す表情を見せた。ターネラたちはハイチの事情を知らない。
どこか気まずい空気が漂う中、その部屋にラトウィッジが入ってきた。彼はハイネを呼びつける。彼女はそれに素直に従った。ハイネの背中を見るようにして、ドアを眺めていたフェリシアが口を開く。
「彼女は何があったんですか?」
「ああ、ハイチのことだ」
「まだ、見つからないんですよね?」
「違う。あいつとは首都近郊町で会った」
それ以上は言いたくないとでも言うように、セロは視線を逸らした。すべてを聞いたわけでも、その場にいた当事者でもないワイアットは下唇を噛む。奪還作戦が終わって、ハイネのもとへと行くと――彼女の様子がひどく落ち込んでいたから。
声をかけようとしたら、セロに止められて事情を聞いた。首都の隣町で力を暴走させたハイチと会い、レナータを殺したと。
「…………」
◆
ラトウィッジに呼び出された場所は半年以上も前にやって来たあの部屋だった。呼ばれた理由は明確。ハイチのことである。今度こそ泣かずに話せることは話そう。それであのときは会えたのだから。
今度も会って、話がしたいんだ。
「なんでしょうか?」
「何度もすまない。きみのお兄さんについてだが――」
「はい。首都近郊の町で会いましたが、レナータさんを殺害して、どこかへ……」
「どこへ行ったのかもわからないんだな?」
「はい」
ああ、声が震えてくる。堪えろ、ハイネ。ここは堪えるんだ。泣きたければ、誰もいないところで泣け。
「彼がどこへ行きそうなのかはわかるか?」
「見当もつきません」
そう、ハイチが今どこにいるのかはわからない。その手がかりすらも掴めない。ハイネは自身の手を見つめた。最後に彼の手を握ったのはヴァーチャルの世界だ。あれが本当の実体であるならば――。
「フォスレター総長」
ハイネは涙目を拭い、ラトウィッジを見る。彼はただ静かに視線を向けていた。
「お願いがあります」
「聞こう」
「私もハイチを捜すことに尽力致します。だけれども、どうかハイチを見つけたならば、私と彼を……お兄ちゃんとお話をさせていただけませんか?」
二人の視線がぶつかる。ハイネの目は本気だった。ひたすらに無言で彼らは見つめ合う。一瞬たりとも視線は逸らさない。
ハイチは何かに怯えていた。何かから逃げたがっていた。それは果たして自分たちなのか、名なしからなのか。それとも――。
ハイネの切実な願いにラトウィッジは小さく頷いた。
「わかった」
◆
この世のすべてが敵だ。
雪山のとあるコテージの隅にいた。全身にまとっていていた黒い鎧はそのまま。嫌に記憶に残っているこの場所。建物の支柱となっている柱が切れていた。その切られた跡のカスが落ちている。暖房は壊れていて、使い物にならない。寒い。
誰かが頭をなでている気がした。いくら振り払おうとも、しつこくなでてくる。ここには誰もいないはずなのに。隣には誰かが寄り添っている気がした。誰もいないのに。それが煩わしくて、煩わしくて。だからと言って、逃げる場所なんてない。行く宛てもない。ただ、なんとなくこの場所に居座っているだけ。嫌なら出ていけばいいのに、体が動かなかった。
ごめんね、ごめんね……。
幻聴が聞こえてくる。耳を塞いでも頭を通して聞こえてきていた。隣では小さな寝息が聞こえてくる。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさいぃいいい!」
耳を塞いでも、大声で叫んでもなにも変わらない。改めて己の目で見るが誰もいないのは事実。それなのに感覚と音だけが聞こえてきた。
ごめんね、ごめんね……。
【ねえ、どこいくの?】
【ごめんね、ごめんね……】
頭痛がひどい。頭がかち割られているんではないか。それぐらいの痛さだ。
「うぐっ!」
【ここにハイネといてちょうだい】
【ハイネと? ねえ、どこいくの?】
【ちょっと出てくるから、戻ってくるまで一緒にいてね】
【わかったよ】
最後に抱きしめられた人の温かさ。黒くて長い髪の女の人。優しくて、いいにおいがしていたあの人。何度も、何度も自分たちの頭をなでてくれた人。涙をポロポロとこぼしながら、謝っていた人。
ごめんね、ごめんね……。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇええ!! 耳障りだ!! 何も言うな!! 黙っていろ!!」
【わたしたちのおかーさんってどんな人だったの?】
【……記憶にない】
嘘をついていた。忘れたかったから。今の生活が大好きだったから。覚えていたらば、不幸になるのではないのかと思っていたから。ハイネが『可哀想』に思えていたから。
すべて嘘をついていた。黙っていれば、誰も知らないから。知る由もないから。だから、その記憶を消していた。失くした。わざと。
【ハイネ!】
【この子はハイネって言うのかい?】
【うん、おれのいもうと!】
過去は捨てて、ハイネと共に――。
叶わぬ願い。ああ、なぜにこんな人生を歩まなければならないのか。なぜにこのような仕打ちをしなければいけないのか。何がいけなかったのか。
――名なし……!
【なぜ、俺を狙う!? 頼む、命だけは!】
【冗談じゃない。こっちだって、必死にやっているんだよ】
知らない人の記憶。見惚れてしまうほどの美しい光を帯びた歯車の剣。そうして、何度殺されたことか。誰も覚えちゃいない。名なしは真実を教えてくれない。
そうして頭を抱え込む内にコテージのドアが開かれた。音に反応して、警戒する。漆黒の羽を広げて威嚇した。
「ここから去れ」
一人になりたい。自由になりたい。誰からも束縛されない未来が欲しい。ここは自分だけの城。誰にも邪魔させはしない。
「迷子かい?」
人の口から出てくる言葉を聞いただけでも、しつこい記憶はよみがえってくる。
【きみらは迷子かい?】
「だからなんだ。出ていけ」
薄暗くて誰が入ってきたのか、わからない。その人物は吹雪で建物内が寒くならないように戸を閉めた。そして、こちらの方へと近寄っててくる。
「こっちに来るなっ!」
近付いて、自分に何をしようとするのか。巨腕を構えた。ゆっくりとしたその足取りはやがて、立ち止まる。
登山用ブーツに寒さを凌ぐための防寒着。
「ずっと、捜していたんだぞ」
その人物は目線を合わせてきた。そこでようやくわかった人。ハイネとセロと共に育った町の託児所を経営する外国人。自分と彼女の父親代わりでもあった人――。
【好きな人を愛しなさい、寄り添ってあげなさい。人の優しさにはそれ以上の優しさで返してあげなさい】
「大きくなったなぁ、ハイチ」
託児所の先生。血のつながりはないけれども、本当の親のようにして接してくれた人――ヒノだった。その人物がヒノだとわかると、広げていた羽を収め、腕も元の大きさへと戻った。無意識か。
また誰かが頭をなでてきた。隣には誰かがいる気がする。
ごめんね、ごめんね……。
ああ、また幻聴が聞こえてくるよ。ひどく煩わしいよ。
【ねえ、どこいくの?】
【ちょっと出てくるから、戻ってくるまでハイネと一緒にいてね】
【わかったよ。ハイネとずっとまっているから】
ごめんね、ごめんね……。
ヒノは頬にそっと触れてきた。デジャヴを感じる。
【この子はハイネよ。あなたはお兄ちゃんだから、守ってあげてね】
黒くて長い髪の女性に抱きかかえられて、ぐっすり眠る赤ん坊のハイネ。その女性は頬を優しくなでてくる。
「さあ、帰ろう? ハイネも待っているよ」
「うるさいっ!」
もう帰れないのに。もう後戻りなどできないのに。
――それなのに、それなのに……!
幻聴、幻覚が煩わしい。己の願望を塞き止めるのは存在しない者たちのせいか。掻き消したい。この渦巻く記憶から消し去ってやりたい。
「好きな人を愛しなさい、寄り添ってあげなさい。人の優しさにはそれ以上の優しさで返してあげなさい」
ヒノの方を見た。こちらに向けられた優しい笑顔。誰かの笑顔と重なってくる。遠い日の記憶。思い出すまいとして押し込めていた記憶。そうだ、この笑顔は見覚えがある。
【この子はハイネよ。あなたはお兄ちゃんだから、守ってあげてね】
【おれ、おにーちゃんなの?】
【そうよ。あなたはお兄ちゃんになったの。お兄ちゃんだから、男の子だから、妹を守れるくらい強くなくっちゃダメよ】
【わかったよ! おれ、うんとつよくなる! ハイネもおかーさんもまもれるくらいつよく!】
哀しきかな。人を引っ張るのは、本当は消し去りたい記憶を消せない欠陥システム。それが枷となり、荷となり――先見えぬ道を歩まなければならない。
「つらかったろう?」
ああ、つらい。なぜなら、あなたがそこにいるから。
「寂しかったろう?」
ああ、寂しい。なぜなら、あなたがそんな優しい顔をするから。
「もう、家に帰ろう?」
ああ、帰れない。なぜなら――。
我が身は『――』の手足なり。
◇
某日某所にて。生気のない少年は体を満足に動かすこともできず、声も発することすらもできなかった。いや、声を張り上げたところで何になるんだろうか。誰も助けなど来ないのに。
腹の上にはにやにやと、悪趣味のような下衆い顔を見せるディースがいた。手にはナイフやら医療器具やらが握られている。
「さぁ、今日も元気にいぃ声出してよねぇ」
その声に返事をしない。今日も始まる悪夢のような現実。今日がいつかなんてわからない。朝も昼も夜も時間がわからなかった。毎日、毎日腸を抉り出されてはそれを見せびらかされたり、口の中に突っ込んできたり――。
ディースがいつものように腹を切ってくる。口の中に刃物を突っ込んでくる。目を抉ってくる。心臓を取り出して見せびらかしたかと思うと、潰してくる。
そうして何度死んだことか。もう嫌だ。こんな苦痛を味わうならば、死にたい。今すぐに自分が死ねたならば――。
――『死ねたならば』?
過去の歯車の所有者は死ねない。不死者として生きなければいけない。それはすなわち自分はこの状況から脱出することは不可能だということ。一生このまま痛みを味わなければならないのだ。一生。つまりは永遠にである。
自分の願いは叶うこともない。永遠と自由のない哀しき人生。この逃げることができない状況の流れを変えるためには――。
「……ディース……」
喉が痛い。ほとんど声が出なかったが、ディースの名前を呼ぶ。ふと、彼女の手がピタリと止まった。じっと黒い目がこちらを見てくる。
「その名前で呼ばないでよ、『ちーくん』」
自身の名前を煩わしそうにする。『ちーくん』は改めてディースの本名である名前で呼ぶ。すると、とても嬉しそうな表情を見せた。彼女が動かす手を止めたから、徐々に喉の痛みが消えていく。
「なぁに、『ちーくん』」
にこにこと向けられる笑みを見て和んだのか、『ちーくん』もつられるようにして笑顔を見せた。
「……お前、を――――」
口を動かす。その言葉にディースは人差し指を『ちーくん』の口につけた。
「ダメ。そうしたら、『ちーくん』が逃げちゃうもん」
「逃げない、よ……」
笑顔を絶やさない『ちーくん』はディースとの目を逸らそうとしない。ずっとにこにこ、にこにこ微笑んでいる。
「俺は……すごく、お前と……」
「だろうねぇ。さっきから当たっているもん。妄想しちゃって興奮しているの?」
ディースは自身の手を後ろに回して、ある物を優しくなでた。自分の顔を『ちーくん』の顔に近付けて唇を重ねた。
「あぁ、あたしも。とてもゾクゾクしちゃう……」
「……ずっと、訊きたかったんだ」
「あたしの気持ち?」
「ううん……『ちーくん』のこと。誰なの?」
キリ・デベッガの記憶だから覚えている。アイリが小さくなったときに、言ったこと。
【『ちーくん』】
ずっと気になって仕方なかった。訊くにも訊けなかったし、訊きづらかったから。でも、今なら訊ける。ディースならば、彼女は『何か』を知っているはずだから。
「見てみたい?」
ディースはそう言ってきた。もしかして写真なのだろうか、と思った『ちーくん』は頷く。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言ってディースが持ってきた物は連絡通信端末機でもなければ、写真でもない。何かの液体に浸けられていた人の目玉の入った瓶だった。『ちーくん』と同様の薄い青色をしているではないか。
「じゃーん、これがあたしの幼馴染の『ちーくん』です」
我が目を疑う。ディースはすでに『ちーくん』を殺していたのか。
「あっ。でも安心して。確かにこれは『ちーくん』だけれども、きみは別存在だから」
その瓶を『ちーくん』の顔の横に置き、優しく頬に触れた。ああ、なんて快感的な指なんだろうか。全身がそそり立つ。ディースはゆっくりと首から肩へ、腕へと指でなぞっていく。
やがて、『ちーくん』の体を固定していた物を一つ、二つと外していく。着々と自由の身になっていくことに最高の快楽を覚えていった。もうすぐだ。もうすぐで――。
◆
その部屋の台には首なし全裸女の死体があった。だが、その首もすぐの場所にあった。床に転がっていたのだ。散乱する医療器具やあやしい液体と一緒に『ちーくん』を片目に突っ込んで。
その首の前には似合わない白衣を裸の上から羽織り、見下すようにして見ている少年がいた。
「…………」
【きみって人を殺せそうにないよねぇ】
【嘘つき】
【素直になりなよ】
【きみは優しいね】
キリ・デベッガが持っている記憶――ディースの記憶を思い出すと、低い笑声を上げた。
「これからは……」
そうだ。『キリ・デベッガ』は人を殺せそうになくて、嘘つきで、素直になれなくて、優しいやつなんだ。誰よりも本当は『死』を恐れているやつ。そういう人間だったからこそ、このような運命にあったのだ。あいつのせいで自分の運命は――。
――いや、全部があいつのせいじゃないか。
一番に行くべき場所がある。そこが、そこを壊せば。あの場所を自らの手で壊せば再び運命は変わるかもしれない。その後は――あの人物さえ殺せたならば。
変えよう、勝手に。
その場を立ち去ろうとする少年のもとに二つの影が現れた。そこには――一人は見覚えのある人物に、もう一人は見覚えのない人物だ。
「俺の邪魔をするな」
「いえいえ、邪魔はしませんよ」
見覚えのある人物――全身黒ずくめで笑顔の仮面をした男がそう言った。続けて、見覚えのない人物であるエイキムが口を開く。
「そうそう。僕らはきみの味方だ」
「…………」
「やりたいことがあるんでしょう? お手伝い致しますよ」
元より、記憶にあるのが敵は目の前にいること。そう簡単に信用ならないのが現実だ。だが、彼らはそんな風にして疑心を持つ少年に対してフレンドリーに接してくる。
「実は私たち、『あなた自身』が一番やりたいことの手助けになる装置を作ったんですよ」
「装置?」
「ええ、『事実改変装置』という物です。これさえあれば、あのおもちゃも要らないでしょう?」
男のその言葉に少年――『ちーくん』はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「そうだな。幻想をぶち壊して、俺の理想を見せつけてやろう」
――なあ、『鬼哭の村』の連中よ。




