情報
息の詰まる部屋、そこは厳つい顔付きの中年男性たちが部屋を囲うように立っていた。その部屋のど真ん中には校内で授業を終えたキリがいた。少しの汗を掻いた上に、冷や汗が垂れる。この息苦しい状況に至ったのはしばらく前に遡る。
◇
今日の軍事学実技授業は学校の敷地内にてのマラソンであった。授業が終わり、着替えに行こうと更衣室へ向かっていると、誰かに呼び止められた。
「デベッガ君」
呼び止めたのはブレンダンであった。そんな彼の表情は重々しい様子である。
「リスター副隊長、いかがなされました?」
授業後で疲れていたが、キリはしゃんと背筋を伸ばした。
「商業の町での報告の件で詳しく聞きたいことがあるんだ。このあとの授業担当教官には言っておくから、私の部屋に来てもらえるかな?」
「今すぐ、がよろしいですか?」
「そう、きみに用があるのは私だけじゃないから」
ブレンダンにそう言われ、キリは素直に彼のあとを着いていく。
商業の町での件というならば、違法博奕闘技場の件――アイリからもらったUSBのことだろうか? 一応報告書にはトイレで発見したと記載しているが、無理があったのだろうか。
自身の上司に従うまま、ブレンダンの部屋へと入室する。だが、入ってすぐにこの場から逃げ出したいという気分に陥ってしまう。なんならば、用事を思い出したと嘘をつき、逃げ出してしまうか? ――否、そんな嘘はつけそうにない。なぜなら、この個室にいるのはキリとブレンダンだけではなく、むさ苦しい男たちばかりが勢ぞろいしていたからである。その男たちはテレビや新聞、雑誌といったメディア関係に加え、政治や戦争の思想の書物などの著者であったり――言わば、彼らは王国の政治や軍関係の中枢的存在の人物たちなのである。そんな恐れ多き者たちに交じってキリは委縮していた。
「あ、あの、リスター副隊長?」
キリの発言にその場は緊張感が一層高まる。彼らの鋭い眼光が彼の体中に突き刺さっているようだ。
「何かね?」
それでもとブレンダンは反応してくれるが、この空気に耐えられないキリは「なんでもありません」と閉口せざるを得なかった。そして、話は冒頭へと戻る――。
◇
「授業中に呼び出して悪かったね」
むさい男たちの代表一角として、勲章や記章を大量に軍服に装着している男性がキリに詫びを入れた。少し恰幅のよいこの男性はエドワードと言い、彼こそがキリたち学徒隊員を束ね上げる学徒隊員隊長でもある人物であるのだ。
キリはエドワードに対して頭を下げた。
「多分、リスター副隊長から少しは呼び出しの理由を聞かされていると思うけど」
「は、はい。えっと、あの報告書と一緒に提出したUSBの件ですよね?」
ちらりとブレンダンを見る。彼は小さく頷いた。呼び出された件に関してはこの案件で正解だったようだ。
「そう、それね。で、デベッガ君とシルヴェスター君の報告のおかげで、関係者の一斉逮捕の準備が整いつつあるんだ」
「はぁ」
「それで再確認したいことがあってなんだけど。もちろん、このUSBの入手先についてね」
エドワードは懐からキリが提出したUSBをその場に見せびらかした。それにより周りがざわつき始める。この重々しい雰囲気の中、多少は穏やかになるかと思えばそうでもない。むしろ、緊張感はより一層増した。さあ、そうとなればどう言い訳でもするべきか。別に闘技場施設にアイリがいたと報告してもいい。だが、彼女には彼女しか知らないことを知っている。たとえば、歯車のこと。仮に報告し、アイリが捕まってしまえば、この歯車のきちんとした使い方を知らない自分はどうしようもないだろう。
「きみはこれを施設内のトイレの個室にあったと報告しているけど……」
本当なの? その質問が怖い。事実ではあるが、事実に対しての嘘をつかなければならないから。
「本当にトイレの中にあったの?」
やっぱりだ、とキリは少し怯えながらも頷いた。
「仮にそうだとしても、こんな物騒な資料の入った物をトイレに忘れるなんてありえないと私たちは思ったんだよ」
「……そうですか」
知らないふり。トイレにあったという断言を徹底的に勤める。しかしながら、彼らの疑いの眼差しは鋭いもので見透かされている気がした。本当のことを言うべきだろうか、とキリに揺るぎが表れ始めていた。
「本当はどこで見つけたんだ?」
キリを怪しむ金色の褒章を装着した政治業界人らしき人物はこちらを見てきた。誰からもらったか、誰の情報なんだ。明らかに彼の功績を疑っているようだった。無理もないだろうな、とキリは実感していた。自身のことを知っている者であれば、疑うだろうが――。
――この人たちって俺のこと知っていたっけ?
自分のことを知っていれば疑う。知らなければ疑わない。妙な個人の偏見的な常識コレクションのあるキリ。勝手な自己判断を思い描いていると、エドワードは彼に情報端末機に内蔵されたある資料を見せてくれた。
『MAD計画の概要』
それだけ書かれた資料があった。これにキリは小首を傾げる。
「MAD計画?」
「その資料は全部で十二ページもある。自身の目でどのような内容なのか確認してみてくれないか?」
エドワードにそう促されたキリは次のページへと変えると、顔をしかめた。
『MAD計画とは人から新たな生命体へと生まれ変わらせる人体実験である。これらの目的は神が作り上げた人間があまりにも脆弱だからこそ、あまりにも脳が発展し過ぎ、文明を作り上げ過ぎているが故に、この世の資源が尽きようとしているため、それを守らんとしてこの計画が生まれたものである。
人はどうであるべきか。それはすなわち、資源を無駄に使わない新しき創造に発展した未来を作り上げていくべきである。それこそ、このMAD計画の推奨、実行が有益になるのではないかと考えられている。』
キリは全てを見終わる前に、そこで顔を真っ青にしてエドワードを見た。どのようなことを口に出せばいいのか頭を真っ白にした挙句、ようやく思い浮かんだ言葉が「なんですか、これ」である。
「異形生命体の研究に関する計画らしい」
自分はこのようなとんでもない敵の計画資料を拾い上げてしまったというのか。いいや、アイリだ。彼女はどこでこんなものを? まさかの情報屋!? 闇社会とつながりのありそうな彼らこそ、このような違法計画などを知っている?
キリはMAD計画の概要のページを次々に確認していく。アイリはこの計画を知っていたのかもしれない? そう考えると、本当は――彼女は反政府軍団員とつながりがあるのかもしれない。敵もそのことを知っていて、あのときはわざとアイリに付き合っていたのかもしれない。
――そう考えると……。
キリは制服の下に隠している歯車のアクセサリーの存在を思い出す。まさかとは思うが、この歯車がここに載っていたりは――。
何度もページを確認しては、キリが持つ歯車のことに関してを徹底的に一字一句を逃さないように見ていく。それでも見つからない。これには記載されていないのか?
情報端末機の画面を食い入るように、見つめるキリにエドワードはそれを手にした。
「資料はなにもMAD計画だけではない。こちらもだ」
もう一つ資料があるらしい。そちらも見せてもらった。
『オリジン計画』
こちらに歯車に関することがあるならば、とキリはページ内容を確認していく。
『当計画は神の意志を成し遂げるために実行するものとする。
人は神によって作られた傀儡にしか過ぎない。そして、人を動かすのも神の役目である。教典の最終章に記載されている『世界の果て』を教神に見せなければならない。我々人類は『世界の果て』を実行させ、遂行するためにMAD計画と並行してやっていかなければならない。
しかし、重要なことに『世界の果て』を実行させ、遂行させるためには二人の狂人が必要である。彼らが世界の運命を変え、世界中にはびこる人を滅することが教典通りなのである。』
キリはこの概要を見てぞっとした。世界の運命を変えるだなんて。今まさに自分が持っている歯車のことではないか。自分はそんな恐ろしい計画に加担していたかもしれないのか、と怯えるしかない。
硬直するキリにエドワードは「もう一度聞いてもいいかい?」と訊ねてきた。
「世界滅亡を企むような計画を、しかも異形生命体がいる違法博奕闘技場にてこの資料が見つかった。本当にトイレで見つけたのかい?」
情報端末機の画面から顔を上げた。相も変わらず重々しい空気である。黙っておくべきか、否か。それの判断はキリにある。もう一度画面を見た。
決めた。顔を上げる。
「……トイレで見つけたのは本当ですが、これを持っていた人物が誰なのかは知っています」
◆
勢いのある背伸びをし過ぎて、横腹を痛めてしまうアイリ。一人で悲しく悶えていると、彼女がいる教室に一人の訪問者が現れた。その人物に呼ばれているらしい。廊下へと赴くと、そこには実技用制服を着て少し不機嫌そうな顔をしているキリがいた。
「あ、退院したんだぁ。ダメだよ、拾い食いしたら」
「そんなのするかよ。次、授業取っているか? 隊長がお呼びだ。副隊長室に来いだと」
「よし、サボる口実ができたっ。呼んでくれてありがとう、デベッガ君。そして、ここにはいない隊長」
この場にいないエドワードに祈るように謝礼を捧げるアイリ。キリはご託はいい、と早くこの場を去りたいようである。なぜならば、反対側の廊下から未だに手作りお菓子の感想を言えずにいるメアリーが見えたからだ。彼女が何かしら作ってくると言われてしまえば、ある意味での終わりである。だからこそここを去りたかった。
キリはいささか強引ではあるが――アイリの手を引いて、自分たち三回生フロアを逃げるようにして立ち去った。
「ちょっ、デベッガ君?」
フロアを過ぎてもメアリーから余程逃げたかったのか。キリは気がつくと、アイリの手を離した。
「ご、ごめん」
「いいよ。ちょっとびっくりしたけど」
行こうとアイリは促した。一度立ち止まっていた彼らは再び歩き始める。
「で、隊長殿はあたしらになんのご用?」
「……行ったらわかるんじゃない?」
アイリはキリを横目で見た。その目の色から察するに彼女も彼の嘘を見透かしているようであった。
「本当は?」
言い訳が思いつかない。だが、エドワードやブレンダンたちがキリにその部屋に連れて来るまでは呼び出しの案件には触れるなと言い聞かされているのだ。ここは大人しく知らないふりでもしておかなければ。
流石のアイリもキリが苦しさが限界になるまで追求することはないようで「いいよ、もう」と鼻でため息をついた。
「行けばわかるんでしょ、行けば」
「うん」
キリは心の中でアイリに嘘ついたことに詫びを入れた。
「なぁ、話変わるけど、ハルマチってなんで編入なの?」
キリはそう言えば、という感覚でアイリがこちらへ編入隊してきたことを思い出した。エドワードが直に入れたらしいが、真相は定かではなかったからだ。
「編入の理由? 特にはないかな? なんで?」
「特に理由がないのに、編入っておかしくないか? 普通、誰でも一回生から入隊だろ」
「そんなのあたしに言われても知らない。隊長が、じゃあ、来週から三回生で頑張っての一言だもん」
説明するアイリはエドワードの物真似を若干交えていた。だが、言うほどそこまで物真似は似ていないなとキリは思う。いや、そんなことはどうだっていい。気になるのは歯車の件もそうだが、アイリの編入の件であるのだから。
「じゃあさ、隊長とはどこで知り合ったの?」
「ここに入る一週間ちょい前かな? 金なし宿なしのあたしをここに入れてあげるって言ってた」
金なし宿なし? キリの中ではますます疑問が膨れ上がってくる。そこもアイリに訊いてみたいのだが、これは訊いてもいいものか、と自分の良心らしきものが制してきていた。そのため、何も言えなかった。
「ていうか、嘘泣きして同情買ってもらって、入れてもらった」
「えっ、金なし宿なしは嘘?」
「いや、そこは本当。ただ大仰に事情を説明したら、入れてくれただけだよ。おっ、ここ? 向こう側がなんだかピリピリするねぇ」
アイリは『空気を読む』ことだけは上手いのか、ブレンダンの部屋の向こう側の空気をすぐさま察知した。確かにそうである。扉の向こう側には青の王国に実在するお偉いさん方が自分たちを待ち構えているのだから。
そう、空気を読んでいるはずなのに、アイリはノックもなしに勝手に部屋の中へと入室した。これにはキリが咎めようとするも、間に合うはずはない。強引入室により中にいた者たちの注目を一斉に浴びる。彼女は彼らを見て一瞬だけ顔をしかめた。
「……失礼しました」
そして、アイリはドアを閉めてキリの方へ真顔で見た。
「副隊長の部屋だよねぇ? 間違えた」
なんて焦った様子で入室する部屋を確認して、今度はノックありきで入室する。だが、すぐに閉めた。
「ここ時空次元か何かが歪んでない?」
「安心しろ。何度も開けてはいるが、そこが副隊長の部屋だ」
疑り深いアイリは――今度はドアを全開ではなく、少しだけ開けて覗き込んだ。相も変わらず男たちはいる。そして少し開けられたドアから覗いている彼女を怪訝そうに見ている。アイリはそのままの状態で困惑した表情を浮かべながらキリを見た。
「どうしよう、向こうの部屋がおっさんワールド全開なんだけど」
「いや、いいから行けよ。気になるなら隊長か副隊長を探せよ」
「無理だって」
「何度も二人と顔を合わせているだろ?」
「無理。おっさんだよ? 二人ともおっさんじゃん。おっさんって案外見分けとかつきにくそうじゃない?」
「大丈夫、ハルマチならいけるさ」
「きみはあたしの何を知っているんだ」
「いつになれば、こちらへ入ってくるんだ」
とうとう痺れを切らしたブレンダンが二人を部屋へと引き入れた。なかなか、入室しなかった彼らに男たちはあまりいい顔をしていないようだった。しかし、アイリはその場にある空気は読まない人物らしい。彼らの前でキリに耳打ちをし出す。
「ねぇ、あの右から三番目の人って香水キツくない?」
――耳打ちしなくても聞こえる音量だよ、ばか。
この場でのツッコミが厳しいキリは、心の中でツッコむ他ならなかった。右から三番目に立っている男性は顔を真っ赤にさせ、咳払いをしていた。失礼極りない女子学徒隊員である。
「……本題、いいかな?」
「あ、どうぞぉ。あたしとデベッガ君に用ってなんですか?」
エドワードは一度だけキリの方を見ると、アイリの方を見た。
「数週間前のあなたの行動を教えて欲しい」
「行動?」
エドワードの質問にアイリは片眉を上げた。すぐに困惑した様子の顔を見せる。あまり覚えていないような面持ちのようだが、実際はどうなのだろうか。
「授業出て、サボって? ……それくらい?」
「校内以外での行動も教えて欲しいのだが」
「強いて言うならば、近くの町に行ったくらい?」
「もし、商業の町に行ったのであれば、その行動を特に教えて欲しい」
詰め寄るような物言いのエドワードに、アイリはキリの方を見た。彼はすぐに視線を逸らす。彼女が何かを察していることをキリは察知していた。
「……なるほどねぇ。なんとなく話は見えてきましたが、あたしも質問する権利はありますよねぇ?」
「場合によってはその権利は打ち消されるけど、いいかい?」
「大丈夫です。打ち消されることのない質問なので、訊きます。すべてを話せば、あたしは戻ってもいいですか?」
「それに関しては話の内容で変わってくる。話しなさい」
エドワードの答えにアイリは自身の頭を掻いた。その様子を見ているキリはどこか申し訳なさそうである。
「『ゴシップ・アドバイザー』っていうお店をご存知です?」
アイリがそんな質問をするが、その場にいる全員――誰一人としてゴシップ・アドバイザーという店を知らないようであった。
「わかりやすく言えば、情報屋です。見たところ、みなさんお偉いさんのようだし、誰か一人くらい裏の界隈事情を知っている人がいると思ったんですが……どんだけ綺麗なんですか」
「ハルマチさんが言いたいのは、あなたはそこの企業からこの情報を含めて手に入れたのか?」
ブレンダンがエドワードからあのUSBを受け取り、それをアイリに見せびらかした。彼女はもちろんだと是認する。
「これがとんでもない内容だと知っていて?」
「えっと、その中身が博奕闘技場の計画についてとしか聞いていないです。これあたしが持っていても仕方ないから、デベッガ君にあげただけです」
「直接かい?」
キリに対しての注目が集まってくる。
「ゴシップ・アドバイザーにアルバイトを頼まれたから施設に侵入した際、相手に見つかりそうになってトイレに隠れたら、デベッガ君を見つけたのでメモを残してあげました」
「アルバイト? その件について詳しく聞いてもいいかな?」
「博奕闘技場の人気商品、腕なしの近辺調査です。前金を渡してそれをもらったんですねぇ。で、もっと情報が欲しければ、調べてこいって、あたしには無理があってそれが限界です」
アイリのアルバイト発言に、男たちは渋った様子を見せた。誰かが言う。「学徒隊員で闇社会とつながっているような企業を利用するのはいかがなものか」と。それに関して彼女は臆せずに平然としていた。
「確かにそうですよねぇ。そこはあたしもどうかと思っているんですけど。事実、そういうところを見つけて情報を得ないとどうしようもないし。頼らず予測するという方法もあるかもしれませんけど、こちらよりも確実を徹底しないと空振りばかりは虚しいですよ」
「しかし、学徒隊員は任務指示以外のことはするべきではないと思うのだが」
「それならば、二、三ヵ月前に受け持った反政府軍団の制圧に関してはどうするべきが一番だったんですかねぇ?」
アイリのその発言にエドワードとブレンダンは眉をひそめる。彼女のその言葉の意図とは?
「すまない。あなたのその物言いだと、制圧に関して情報屋を頼ったということになるのだが。それは事実なのか?」
「えぇ。あたしが報告書に書かなくても他の三人が書くかなと思ったけど、書いていないの?」
キリの方を一瞥すると、彼は小さく頷いた。
「……その件に関して問い質したいことが山ほどあるが、これを入手した企業の場所を教えてくれないか? 午後の授業に関しては二人とも私が教官たちに説明しておくから、一度私服に着替えてきなさい。今回は特別引率としてリスター副隊長、よろしいですか?」
「はい」
「えっ? あ、あの、俺もですか?」
一番驚きを隠せなかったのはキリである。まさか自分も行くことになるとは思わなかったから。
「きみもこの件に絡んでいるんだ。ここでの投げ出しはダメだよ。悪いが、彼女の監視役として行動をして欲しい」
「は、はい」
◆
ブレンダンの部屋を出たキリとアイリ。彼女は退室して早々に大きく息をついた。余程、男たちが密集した部屋に堪えたのだろう。それはキリも同様である。何が嬉しくてむさ苦しい男たちに笑顔なんて向けるものか。
「ねぇ、絶対あの右から三番目の人、どギツイ香水をしていたよねぇ?」
「それ、俺も知っていたけど。耳打ちするくらいならもっと音量落とせよ。そして、俺にそういう話を振るな。一番反応しづらいから」
「あっ、思うことが一緒でよかったよ。ていうか、デベッガ君そう思うはずだもん」
「いや、お前は俺の何を知っているんだ」
表情を引きつらせるキリは暑いのか、手で仰ぎ始めた。その一方で、アイリは涼しげな表情を見せている。
「一番驚いたのはあたしが情報屋と内通していたことを黙ってくれていたんだねぇ」
アイリはありがとう、とにっこりと笑みを浮かべた。彼女のその謝礼にキリは戸惑いを隠せない。
「黙っていたというか、一番詳しいのはハイチさんだから。てっきりハイチさん、報告していたと思っていたんだけど」
「あんなに大騒ぎしてたのに言わなかったんだねぇ」
急に無表情になるアイリだったが、今度はどこかばかにしたような表情を浮かべては窓の外を眺める。キリは彼女の方を向いておらず、後ろの方を見ていた。
「あっ、そうだ。デベッガ君、クラッシャー先輩のそのときに騒いだ顔を撮ったんだけど、見てみる?」
自身の連絡通信端末機を取り出して、操作をしながらキリの方へと振り返るが、誰かに頭をわし掴みされた。見覚えのある黒い手袋――ハイチである。キリの傍らにはハイネが止めようとするか、しないかと迷いが見られていた。
「一つ、問おうか」
「却下致します」
頭をわし掴みされても尚、アイリは画面操作を止めようとしない。質疑は拒否したが、ハイチは強引に彼女から問い質そうとする。
「お前は怒られているとき、それを弄っていたようだが……俺の顔の写真を撮っていたのか?」
「黙秘権、行使致します」
「訊く権利で打ち消してやる。答えろ、『カムラ女』」
「……はぁ?」
アイリの呼称に彼女は片眉を上げた。キリとハイネに至っては顔を見合わせるばかりである。『カムラ女』って? 彼が首を傾げていると、ハイネが「もしかして」と何かを思い出したようだ。
「カムラってキイ教の?」
「そうだろ。腹の中がわからない、何かにつけ込んで唆そうとする女だからな」
唐突に知らない人の名前が出たとしても、キリは納得がいかなかった。誰だろうかと記憶を呼び起こそうとしていると、ハイネがその人物のことを教えてくれた。
「キイ教の教えをあんまり知らない人は知らなくても、仕方ないよ。その教典に出てくる一人の悪魔で、神様に盾突いて人を欺こうとするんだけど。ハイチ、アイリちゃんに対してそれはないんじゃないの?」
「別にいいだろ。こいつこそ悪魔の化身だ。言っておくが、お前がした所業は忘れてないからな」
「それなら、どうして情報屋の件で報告しなかったんですか? 隊長や副隊長がびっくりしていましたよ」
アイリは邪魔くさそうに、ハイチの手を払い除けた。払い除けられたその手を彼はポケットの中へと入れる。
「……一応借りはあるからな。確かにハルマチが買った情報がなければ、地下で野垂れ死んでいた」
「借りなんて貸した覚えがないから、デベッガ君とハイネ先輩に画像を送ります」
素早く操作をし、二人のもとにアイリからの添付メールが届いた。キリはハイチの顔色を窺いながらも、添付画像を見る。その画像はハイチが怒った顔ではなく、くしゃみをしそうになっている顔だった。これにはなんの言葉も思い浮かんでこない。
「ハイチ、あんた。変な顔して怒らないでよ」
「はあ!?」
ハイチはハイネに添付画像を見せてもらうと、こめかみに青筋が浮かばせた。彼のその表情を見たキリは「あ、マジギレ寸前だな」と冷静に分析していた。そして、本当にその直後にハイチはアイリに怒鳴った。
「俺をばかにしているのか、この野郎っ!」
「あたしは女です。野郎ではありません」
「ああぁ! ムカつくったらありゃしない!」
ただキリが見るにはアイリはハイチをばかにしているというよりは、からかっているように見えた。いや、どちらも同じか? 強いて言うならば、嘲笑感はない。ハイチに相手をして欲しいのか?
「ムカついて結構です。それにあたしを悪魔と言うならば言えばいい」
アイリはそう言うと、キリの方を向いて「行くよ」と促す。それにハイネが反応した。
「次、一緒の授業なの?」
「いえ、急な任務が入ったんです」
「そっか、頑張ってね」
キリに対してハイネは笑顔を見せた。その笑顔に応えるべく、彼も笑顔を見せる。
「はい、ハイネさんもご無理なさらないでくださいね」
「ふふっ、私はもう大丈夫よう! だって、完全復活したもの。ガズ君も完全復活でしょ?」
「ええ。病院食だけじゃ足りないって嘆いていましたよ。脱走しないように、見張りもあったんで」
「ははっ、ガズ君らしいや。じゃあ、行ってらっしゃい」
小さく手を振るハイネにキリも小さく手を振った。そんな細やかに、穏やかな雰囲気を帯びている中、ハイチはあまりよく思っていないようで不機嫌そうな顔を見せていた。彼に何か言われる前にキリは逃げるようにしてアイリのあとを追うのだった。
アイリに追い着くと、彼女はキリをからかう物言いで「どっちなの?」と聞いてくる。
「ピンクの雰囲気が漂っていたけどさぁ」
「は?」
唐突に言われても、キリはなんのことだか理解していないようだった。そのじれったさを感じるアイリは口を尖らせる。
「だから、メアリーとハイネ先輩」
「えっ、いや……ライアンの手料理は勘弁かな。でも、ハイネさんの料理は美味しかったよな、任務中」
思い出すだけで涎が垂れてきそうだった。実は、ハイネは反政府軍団員制圧任務にて、任務中の三人に毎日三食手料理を振る舞っていたのだ。バランスが採れ、そして飽きのない味。また食べてみたいものだ、とキリは思っていた。
しかし、アイリが言いたいのはそうではない。欲しい回答が得られなかったのか、諦めて前へと向いた。
「ああ、もう。いいや、さっさと用意して行こうよ」
「行っているじゃん」
「知ってるし」
アイリはどこか不満げに寮棟の方へと走って行ってしまった。彼女の意図が理解できていないキリは首を捻りつつも、自身も寮棟へと足を進めるのだった。
◆
二人がブレンダンの自家用車に揺れられて、連れて来られた場所はあの信者の町であった。制圧遂行してからはこの町には調査隊である王国軍が武装して道中を闊歩している。そんな彼らを遠ざけるようにして、避けて歩くのはこの町の住民たちである。彼らは王国軍人たちをあまりよく思っていない様子だった。
「ハルマチさん、この町で間違いないね?」
「はい。でも町が町だし。いるかなぁ?」
「連絡先は知らないのかい?」
「情報屋自身の情報ですし。流石に売らないんじゃないんですか?」
アイリは場所がうろ覚えなのか、一歩路地裏へと入っては出てを繰り返していく。ブレンダンも彼女が入れば顔だけを覗かせていた。そんな彼らを一歩後ろで見るのはキリだ。彼は何もやることがないのか、改めてこの町の路地を見上げる。建物の窓からこちらの方の様子を窺う町の人々がいた。どうやら自分たちは警戒される立場のようである。以前、この町に来たときは明らかに部外者である自分に対しても親切に接してくれていたのに。それを踏まえて考えると、ここの自警団――もとい、反政府軍団の逮捕は町の人々にとっては一番の衝撃だったのだろう。
――なんか、ここの人たちが可哀想だなぁ。
国の政府を仇なす悪党を捕えたはずなのに。よいことをしたはずなのに、キリの心の中では少しばかり罪悪感があった。なぜ感じているのかそれは彼にもわからない。
ぼんやりと景色を眺めていると、ブレンダンに呼びかけられた。どうやら情報屋の店を見つけたらしい。キリは彼らのもとへと走り寄った。
情報屋という割には、明らかに人の家の玄関を見ているようだった。あまり公に出さないのだろうか。
「こんちは」
三人が中へと入るとそこは人の家ではなく、きちんとした内装だった。丸いテーブル一つに椅子が向かい側になるように二脚置かれており、その内の一脚は無精ひげの男が情報端末機を弄りながらタバコを吹かしてこちらを見ていた。
「おう、賑やかだな」
「言うほど賑やかではありませんよ。っと、この人、情報が欲しいんだって」
アイリがそう言うと、ブレンダンが一歩前に出て無精ひげの男に一礼をした。
「突然の訪問すまないが、貴殿より彼女が買い取った情報について詳しい情報が得たいのだが……」
どちらかというならば、下手に出たブレンダンに対してタバコの煙をはく男は一笑した。
「構わないけどよ、ウチのルールには従ってもらうからな」
「承知している。報酬金は彼女が払った倍以上出す」
「いや、代金を決めるはこちらだけど。なんだ、カムラ。忘れたか?」
男はアイリをじっと睨むように見てくる。それに対してアイリは臆ともせずに、ショートパンツのポケットに手を入れて「だってぇ」と言い訳をし始めようとした。
「ここの前で色々と説明していると、他の人にバレるじゃない」
「どうせ車でも来たんだろ。その中で言えばよかったじゃねーか」
「忘れていましたぁ。行こ、あとは大丈夫ですよね?」
ブレンダンに確認を取ると、彼は困惑しながらも頷いた。確信を得たアイリはキリを引き連れて店を出た。残ったブレンダンに男はタバコの火を消しながら、椅子に座るように促す。彼はそれに従った。
「で? あの子が買い取った情報についての詳しい情報だって? それのことか?」
椅子に着席し、計画資料が入ったUSBを手にしたブレンダンにそう言った。彼は頷いた。
「ああ。貴殿はこの資料の中身を確認したのか?」
ブレンダンの発言に、男は新しいタバコを彼に向けた。
「言っておくが、質問に答えるということも情報提供だ。考えて発言するんだぞ。金が足りなくなるぜ」
「問題ない。私はあらかじめにそのことを予測して、質問発言を考えてきているのだから」
「ふうん、流石は軍人か。えっと、資料の確認だよな? もちろんだ。それをカムラに流した」
男はタバコに火をつけた。タバコ臭が充満してくる。
「では、この資料は誰から得た?」
「この質問は特殊料金になるからな。――確か、『キイ』っていうやつだったかな……いや? 逆か? うーんと、多分そう」
情報端末機を弄りながら、答える。
「その『キイ』という人物について詳しく教えてくれないか?」
「とりあえず、今あるだけの金を出してくれ。話はそれからだ」
ブレンダンは無精ひげの男の言う通りに、手持ちのお金の札束をテーブルの上に出していく。その札束はテーブルを埋め尽くすほどの大金だった。これには流石の男は空笑いをする。
「ちょっと足りそうにないな。まあ、これで話せる分だけ話してやるよ」
「頼む」
男は情報端末機をしばらく弄り、タバコが短くなってきた頃にようやく口を開いた。
「まず、キイというやつは王国の人間ではなく、他の国の人間だ――」
◆
外へ出た二人はやることもなく、町の中を歩き回っていた。そんな中、アイリはキリに一つの提案を持ちかけてくる。
「終わるまでどうする? 東通りのケーキ屋に行かない?」
アイリの提案にキリは足を止めた。
「ハルマチってさ、情報屋からもカムラって言われていたんだな」
「いや、あそこは情報を買った人、提供した人は本名ではないコードネームを言うことになっているの。それで、あたしは『カムラ』と名乗っただけ」
「カムラって、ハイネさんが言っていた悪魔のことじゃん」
「知っているよ。教えに出てくるキイ神と対を成す悪神カムラ。人を唆す悪魔だっけ? 恐ろしいねぇ」
キリは思っていた。本当は、アイリはその宗教に出てくる本物のカムラではないかと。そうであるならば、この特別な歯車の力を持っていることも証明できるだろう。彼自身この宗教を信仰しているわけではないが、彼女の所業を見てくると、信憑性が高く感じられる。それだからこそ、アイリは――本当は悪魔なのではないか、と疑ってしまうのだ。しかも本人はその呼ばわりを気にすることはない様子。普通は信仰者でなくとも、その呼称には気をよくしないだろうに。
足を止めていたキリにアイリも足を止めて彼の方を見た。
「あたしが本物のカムラだと思っているの?」
「えっ、いや」
なぜだろうか、この独特な雰囲気は。アイリを直視できそうにない。
――もし、本物だって言って殺されたらどうしよう。
鼓動が高鳴ってくる。相手は人外の力を持つ悪神だという可能性があるのだ。恐ろしく思えて仕方なかった。アイリはキリの方へと近付いてくる。一歩近寄ってくる度、恐怖心は跳ね上がってくる。ついに目の前に来る。彼女は小さく笑っていた。
「デベッガ君って、そういうおとぎ話とか信じるタイプなの?」
キリは顔を上げた。アイリの顔は小ばかにしているようである。なんだか拍子抜けした彼は目を皿にした。
「大体、そんな神様とか悪魔とか存在しないっての。信仰していないしね」
アイリの発言を思い出した。
【そんなものがなければ生きていけないのかよ】
ディースをばかにしたような発言。
「無宗教の割にはメルヘンだなぁ」
「う、うるさいな!」
「まぁ、そう怒らず。行こうよ。フルーツタルトあるかなぁ?」
アイリが一足先に歩き出した。キリは彼女のあとを追う形で足を前に出す。
――まさか、な。
言い聞かせているキリに背を向けているアイリは無表情で前を見ていた。
◆
東通りにあるケーキ屋にやって来た二人。ショーウインドウの中にあるフルーツタルトから目を離さないアイリ。残り数は四つ。
「ハルマチはフルーツタルトでいいのか?」
「うん。これ、四つあるし、二人二つずつでいけるよねぇ」
「そうだな。俺も欲しいし。すいません、フルーツタルトを四つください」
ケーキ屋の店員は「ありがとうございます」と笑顔でフルーツタルト四つを箱の中へと入れていく。それと同時に一人の老人が来店してきた。キリは彼の存在に気付くと、小さく会釈した。老人も会釈をする。ショーウインドウの近くへと寄ると、硬直した。
「姉ちゃん、フルーツタルトはもうないのかね?」
「申し訳ございません。こちらのお客様で最後になります」
「あたしたちラッキーだったねぇ」
アイリは嬉しそうにしているが、キリは老人に対して罪悪感があった。自分たちは四つ買おうとしている。老人は一つも買えない。
「あ、あの……」
見かねたキリは老人に声をかけた。
「もしよろしかったら、俺たち四つ買ったんで、一つどうですか?」
「えっ、デベッガ君!?」
「いや、買占めは悪い気がするし」
「おっ、兄ちゃんいいのかい?」
老人は嬉しそうな顔を見せていた。だが、アイリはいい顔をしない。
「ちょっとぉ、デベッガ君? 一個要らないなら、あたしにちょうだい」
「いや、一つくらいならいいだろ」
「そうだぞ、嬢ちゃん。一個譲ってくれたならば、ウチで茶でも振る舞おうではないか」
老人のその発言にアイリは店内を見渡した。ここでは食べる場所がないようで、もし食べるとするならば、外に出て売店でジュースなどを買いベンチで食べる他ないようである。しかし、その誘いに彼女は悩む。どうやらもう一押しというところである。それに老人は財布を取り出して一足先にお金を出した。
「ならば、そのケーキをわしが奢ろうではないか。それならば、どうだ?」
「えっ、代金は全部デベッガ君に払ってもらうつもりだったけど?」
「今、聞き捨てならない台詞を言わなかったか?」
「まあ、兄ちゃんいいではないか。よしよし、わしが払うからウチで食べようではないか」
強引に決まったが、これはこれでキリは老人に申し訳ない様子で彼に謝礼の一言を言った。
「すみません、ありがとうございます」
「いいってことよ。確かに、ここのタルトは美味しいもん。なあ、姉ちゃん」
「お買い上げありがとうございます。ええ、ウチの腕自慢が作り上げた逸品なので」
店員のその言葉を聞いたアイリはますます食べたいと言わんばかりに、ケーキが入った箱を受け取ったキリを見る。これに彼はたじろいでいた。
ケーキ屋を出て老人は早速自分の家へと二人を案内した。家はすぐ近くだったようですぐに着いた。中へと招き入れてもらうと――先ほど見た情報屋と同様に丸いテーブルがあり、二脚の椅子が存在した。違うところを上げるとするならば、壁際に山積みになった本があることぐらいか。
「一つ椅子が足りんな。おう、兄ちゃん。そこにある本を大量に持ってきてくれ」
まさか本を椅子にする気なのだろうかと思いながらも、キリは老人に言われるがまま、山積みになった本を数回に分けてテーブルの傍らに運んだ。運ぶと老人はそこに座るように彼に促す。失礼を承知してキリは座った。老人はお茶の準備をしてくると言い、奥へと引っ込んでいった。それならば、ケーキでも出そうと箱を開封していると、周りを見渡していたアイリは「ここって情報屋?」と呟く。
「の、割には資料が乱雑に置かれてるなぁ」
適当に本を手に取って表紙を見るが、それのタイトルは『爪楊枝一本で複数の敵に勝つ方法』と書かれていた。見なかったことにしようとアイリは元にあった場所へと戻し、別の本を手に取った。
『初恋の仕方』
アイリはまた見なかったことにして本を戻しながら「でもさぁ」とキリに声をかける。
「一個はデベッガ君ので、もう一個はあのおじいさん。残りの二つはあたしがもらってもいいよねぇ? てか、当然だよねぇ?」
「何が当然だよ」
また別の本を手に取る。
『今日から始めるお料理教室』
「確かにハルマチの言う通りさっきの情報屋と似た雰囲気だよな。って、そこにあるのを触らない方がいいんじゃないのか? それって情報資料とか……」
キリがアイリの方を見ると、彼女は手にしていた本を山積みになっていた本の方へと投げつけているところを目撃する。それにより本の椅子から滑り落ちそうになった。
「おいっ!?」
「何?」
「何、じゃねぇよ! それ、情報資料だろ!? あのじいさんに見つかったら起こられるぞ!」
「情報資料? 何それ、美味しいの?」
「いきなりボケだしやがって」
キリが鼻白んでいると、老人がお盆を手にしてお茶を持ってきた。アイリは椅子に座った。彼に先ほどの一部始終が見つかっていないことを祈り、キリは座り直した。
「おじいさんって、ここに一人で住んでいるの?」
アイリは老人からお茶を受け取りながらそう訊ねた。
「ああ。前は弟子と住んでいたがな」
「弟子ですか?」
情報屋というものは弟子を取るものなのだろうか、と思ってしまう。
「今は情報の売買をしているようだね」
「おじいさんって仕事はなにしているの?」
「物書きだよ。弟子はここにある本を読んで、自分がしたいことができたから、って出て行ったよ」
「どんなものを出されました? 俺、本読むのが好きだから」
そうキリは老人とアイリにフルーツタルトを配る。
「いいや。どこも面白くない、と言いやがる。兄ちゃん、読むのが好きならあとで持っていけ」
フルーツタルトを食べ始める老人は本とは別にある紙の山を指差した。量から察するに十数冊以上ありそうである。
「いいんですか?」
その量に驚きながらも、キリはお礼を言った。そして、山積みの紙の方へと歩み寄った。いくつか手に取って見る。そこにあったのは彼にとって興味深い内容だった。老人が書いたものは文学ではあるし、医学、生物学、天文学、心理学などなどと老人にとってジャンルは問わないようであった。
「構わんよ」
老人はあまり興味がない様子でタルトを食べ続ける。
「面白そうなものばかりですね」
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
キリが論文の吟味をしていると、一つの論文を見つけた。タイトルは『キイとカムラの存在について』。内容が気になる彼はそれを持ってきて読み始めると、老人はその論文に目を向けた。
「それが気になるのか?」
「ええ。宗教の神様だとは知っているんですけど」
「そうだな。ただそれは信仰者の人に反感を買うからって没にされたけど」
「なぜです?」
「キイが悪神としてカムラを善神とした内容だからさ。わしが書いたのは言わば逆説。そりゃ、信仰者にとってはけんか売っているのかって話になるな。でもそれが論文の面白いところじゃないかって言いたいところだけど、すぐに追い出されちまったからなぁ。今思えば、あの編集者は信者だったのかもしれん」
一つのフルーツタルトを食べ終えた老人は箱の中にあった残り一つのものを手につけようとした。だが、アイリがそれを止める。二人の視線が合った。くだらない第一フルーツタルト戦争の始まりである。
「…………」
「…………」
彼らのピリピリとした雰囲気は論文を読んでいたキリにも伝わった。
「ハルマチ、譲ってやれよ」
「嫌」
アイリは老人との視線を外そうとしない。だって目を逸らしたら負けた気がするし、取られそうなんだもの。
老人はアイリに気付かれないようにして手を動かそうとするが、それは彼女に止められた。今度はアイリがフルーツタルトにフォークを突き立てようとするも、それは彼に止められる。そんな攻防戦を繰り返していたが、小規模戦争は彼女の勝利に終わった。一部始終を見ていたキリは大人げないなと苦笑いするばかりである。
「はっはぁ! ケーキ争奪戦、あたしの勝ちぃ!」
戦利品を高々と掲げ、嬉しそうにするアイリ。争奪戦に負けてしまった老人は大きく項垂れて、とても悲しそうな顔をしていた。それを見かねたキリはまだ自分が手をつけていないフルーツタルトをあげることにする。だって、申し訳ないんだもの。
「あの、俺のをどうぞ」
ケーキを手にして、老人は悲しそうな表情から一変してとても嬉しそうな顔を見せた。あまりにも嬉しかったのか、変な踊りを見せつけてくる始末だ。
「いやぁ、兄ちゃんはいいやつだな! ありがとう!」
老人は彼にお礼を言うと、一口でタルトを平らげてしまう。正直な話、美味しいという評判であるフルーツタルトを是非とも食べてみたかったが――自分の連れであるアイリが老人に対して失礼なことをしてしまっている。少しでもの詫びだった。
「食べず仕舞いだね」
なんて言うアイリ。だが、彼女自身が譲るという言葉が頭に残っていれば、みんなが笑顔になれる話なのに。こいつ、とキリは歯噛みした。
「ハルマチは遠慮を覚えろよ」
「じゃあ、一口だけ遠慮してあげる」
アイリはそう言うと、一口だけ残っていたパイ生地の部分だけをキリの口元へと運ぼうとする。これにより彼は顔を赤らめた。
「ちょっ!?」
「言ったじゃん、一口だけ遠慮してあげるから、デベッガ君にあげるって」
「パイ生地だけじゃねぇか」
そう言うツッコミをするキリだが、本心はそうではなかった。このままアイリからの一口をもらえば、彼女との間接キスになってしまうのである。アイリはこういうことに察しはつかないものなのか。
「パイ生地だけでもいいじゃん。それともなんなの? 間接キスが恥ずかしいの?」
わかっているくせに。キリは更に顔を真っ赤にした。耳までもが真っ赤となり、部屋が――体が熱くなってくる。それも二人に見られているものだから、さらに体温が上がっていく。
「ぎゃ、逆にお前は恥ずかしくねぇのかよ」
反問する彼にアイリは恥ずかしい気持ちがないようで、最後のパイ生地を自分で片付けてしまった。彼女の何かに間違って触れてしまったらしい。不機嫌そうに口を動かしていた。
「食べたくないのなら、いいよ」
そう言われ、ぽっかりと心の中が空いた気がした。それが何を示唆するのか、キリにはわかりそうでわからなかった。この微妙に甘酸っぱそうな空気を感じ取った老人はどこか羨ましそうにあごをなでている。
「いいねぇ、青春か」
「からかわないでくださいよ!」
「別にからかったつもりはないんだがね」
自分は食べてはいないが、アイリはすでにフルーツタルトを食べ終えている。これ以上、この場に長居する必要性が感じられないと判断したキリは本の椅子から立ち上がる。
「もう行くの?」
「あんまり長居するのも、じいさんに悪いだろ。すいません。じゃあ、これ借りていきます」
キリは老人が書いた論文の数部を手に取り、出入り口のドアに手をかけた。
「ちょっと待ちなさい」
開けようとした途端、老人に呼び止められた。キリとアイリはそちらへと振り返った。
「兄ちゃんに聞きたいことがある」
老人が指差す先はキリである。キリはドアから離れ、再びテーブルの方へと近付いた。
「兄ちゃんはどちらの味方かな?」
なんて言われて、キリは困惑した。老人の言う意味が理解できないのである。どちらの味方と言われても、誰の、なんの意味を差すのか老人は言っていないのである。
「どちらとはどういうものですか?」
老人は一瞬だけキリから視線を逸らし、再び彼の方を見た。キリはアイリの方を向いたなと気付く。彼女の方を振り返るも、アイリは玄関のドアの方を向いていた。キリは老人の方へと向き直す。
「キイかカムラか」
「宗教のことですか? 俺、無宗教なんで」
「そうじゃなくて、兄ちゃんがキイかカムラかどちらの味方なんだと聞いているんだよ」
突然そのようなことを言われても、キリは返答に困った。どちらの味方だなんて考えたことがないから。でも、強いて言うならば、悪神と呼ばれているカムラよりも善神として崇められているであろうキイを選ぶだろう。それでも――もし、キイ神を選べば? アイリはどう思うのだろう。思えば思うほど返答が口に出せない。
「俺は……どちらの味方でもありません」
答えに迷ったキリは老人にそのように返した。心なしか周りの張り詰めた空気が和らいだ気がした。なぜにこんな空気になっていたのだろう。
「そうかい。呼び止めて悪かったね。気をつけて帰りな」
「……お邪魔しました」
キリは老人に一礼すると、アイリとともに老人宅へと出て行ってしまった。外へと出ると、微風が彼らの髪を優しくなでていた。二人は無言で情報屋の方へと歩く。
◆
路地にある情報屋の前へとやって来ると、ブレンダンは交渉を終えたのか外にいた。彼はどこか不機嫌にも見える。お金を入れていた鞄は空だということがわかるくらいに、よれよれになっていた。もしかしたらお金と取られただけであまりよい情報が得られなかったのかもしれない。
「リスター副隊長」
「私は別件があるから、きみたちとはここでお別れだ。公共機関は運営しているはずだから、悪いが自分たちで帰ってくれないか」
それだけ言うと、ブレンダンは頭を抱えながら大通りの方へと行ってしまった。残された二人。キリはアイリの方を見た。彼女を見て驚いた。アイリはブレンダンの背中を見ながら鼻で笑っていたのだから。なぜに彼女は笑ったのかと疑問を持っていると、こちらの方を見てきて笑い出した。
「アホだね、あの人。ここの情報屋はぼったくりなのに」
「……本当はどこで仕入れたんだ?」
「あはは、ここだよ。この町にここ以外での情報屋はないから」
そう言うならば、アイリはブレンダンが持ってきた莫大な金のそれ以上のお金を持っていなければ、有益な情報は得られないはずだ。彼女自身お金はあまりないと発言しているのに。それが嘘なのだろうか。
「お金は?」
キリは素直に疑問に思ったことを訊いた。
「お金はないよ。あたしはちょこっとのお金と情報屋が欲しいって思っている情報を提供しただけ。それだけでまさか、あんなものを手に入れるとは思わなかったんだけどねぇ」
「情報って?」
「言えないよ。それだけで国を動かしかねない情報だもん」
そこまで言ったとき、情報屋から無精ひげの男が出てきた。
「そうだな、カムラ。お前が持っている情報は情報屋の俺にとって、もっと欲しいモンだぜ」
「無茶言いますねぇ。これでも、しゃべるに惜しいものなんですよ?」
「でも欲しいんだろ? 特別サービスだ。先生のケーキのお礼だよ」
男がタバコを吹かしながらそう言った。先生のケーキのお礼? まさかこの人があの老人の弟子だというのか。見た感じと雰囲気的に物書きをしそうには見えない。いや、見た目で判断してはいけないのだが。
二人は情報屋の店の中へと入れてもらうと、そこの中にはあの老人が座って彼らを待っていた。
「遅いぞ、二人とも」
「えっ、なんで?」
「ほら、今回は椅子はたくさんあるから好きなところに座りなさい」
老人と無精ひげの男に座るように促されて、彼らは適当に椅子に座った。四人はテーブルを囲うようにして座る。
「えっと?」
「どうです、あの人にはどこまで話しました?」
「とりあえず、偽の提供者の出身地まで話したな。多分、近日中にそこへ派遣される軍がいるだろ」
「提供者ってあのUSBの?」
「そう、これだな」
無精ひげの男は懐から同じようなUSBを取り出してそれを見せた。
「これ、本当の提供者はカムラだからな」
「はぁ!?」
アイリがとキリは驚きを隠せない。情報屋で仕入れた物じゃなかったのか?
「なんでハル……」
キリがハルマチと言おうとするが、アイリに口止めされた。
「しぃ。ダメ。ここじゃ、カムラって呼んで。きみのことはキイって呼ぶから」
「なんで、また」
「決まっているだろ。名前は情報だ。ここで個人情報が垂れたらダメだろ」
「……なんで俺たちを?」
「カムラがきみを買っているから。そうじゃなきゃ、こうして招待はしない」
タバコを吹かしている男はキリとアイリにジュースを差し出した。彼は恐れ多いながらも、それを受け取りながらも彼女の方を見る。アイリはなんともせずして、受け取ったジュースを飲んでいた。
「は、カムラ……」
「あたしがきみたちを裏切ったとでも? それはないから安心してよ。あたしは軍も反軍でもどちらの味方じゃないから」
そうだとしても、自分は国の味方だと言おうとしたとき――老人が口を挟んできた。
「きみは言ったじゃないか。どちらの味方でもない、と」
あの質問は宗教に出てくるの善神と悪神の味方かどうかを聞いたんじゃないのか? 自分は無宗教だから、どちらの味方でもないと答えただけなのに。何かしらの意味があったのか?
「確かに、言いました」
「うん、うん。嘘つかなくてよかったよ。それならば、四人で楽しくおしゃべりをしようじゃないか。キイはMAD計画やオリジン計画の内容を知っているかい?」
「見ました。あれって誰が考えた計画ですか?」
そう質問をしながら、キリはアイリの方を見た。まさか彼女が提供者であるならば、これはアイリが立てた計画ではあるまい。
「あれぇ? 行ったことあるじゃん、キイ君」
「え?」
「その計画を立てた組織の支部になるのかな」
組織? なんて言われ、思い返すのは反政府軍団かコインストのどちらかである。異形生命体関連、世界を乗っ取るなどという思想を考えつくのは反政府軍団か。ということは、MAD計画はディースが考えたものだろうか。
「反軍のディース?」
「いや、コインストだよ」
もっと驚いた。そう言えば、博奕闘技場にも異形生命体は確かにいた。
「腕なし」
ポツリと口にした頭に思い浮かんだ人物。腕なしは自分が与えた致命傷がなかったことにされていた。
「あぁ、きみが殺し損ねたやつ」
「うん」
「ちゃんと、止めささないとダメだよ。じゃなきゃ死なないから」
不服そうに話すアイリ。それにキリは違和感があった。そう、その違和感――歯車の剣で誰かを殺しても、それが異形生命体であろうとも結局は死ななかったことになるのではないのか? 彼女のそのニュアンスは腕なしならば、止めを刺せば死ぬと言っているようである。そのことについて訊いたいが、言えるに言えない雰囲気をかもし出していた。
「……悪い」
「まあ、どうせまた会うかもしれないから、そのときはきちんと殺さないとねぇ。きみが世界を滅ぼしたことになるから」
「いや。規模が大きいだろ」
何もそこまでそうならなくても、とキリは思った。
「小さいとでも思っている? 残念だけど、異形生命体にされた者の力の存在は理解しているはず。クラッシャー先輩が一人で倒したとされるあのバケモノは本来、拳銃一丁で倒せるものじゃないよ?」
「だとしても武装していれば、倒せるものじゃないのか?」
「それは普通の異形生命体の話でしょ? 見たでしょ、キイ君も。腕なしの実力を」
キリ自身、闘技場で腕なしが他の者と戦っているところを見たことがなかった。対峙してもすぐに殺されかけていたから。
「ま、まあ」
「ほう、キイは腕なしと戦ったことがあるのか! あいつの正体が元人間だと聞いているが、どういうやつだった?」
「えっと、身長が高くて、威圧感があって――」
――あれ?
思い返せば思い返すほど、ある人物に似ている気がした。妙な雰囲気のある人物。扉を閉めたときにこちらを見ていた彼――。
いやいや、まさか! 彼なはずはない!
キリに妙な汗が垂れてくる。
「キイ、どうした?」
「いや……」
「の、割には汗だくだく。多汗症?」
「うん」
違うが、ここで否定すれば、話さなければいけない気がした。腕なしの正体は確信を得ていないが、誰なのかは――。
「あの、俺たちって情報交換をするだけに集まったんですか?」
「それ以外に何か思うのかな?」
老人はにこにことキリを見てくる。この笑顔、裏がありそうな気がする。
「……あるんですね」
「あったとしても、カムラ。言うか言わないかはお前次第だぞ」
無精ひげの男はアイリの方を見る。彼女はジュースを飲みながら視線に答えた。
「いいや、言わないよ。彼が知るにはまだ早いから」
「またそれか」
「いや、またかって言われても、きみがその理由を知る必要ある?」
「知らねぇから、聞いているって何度も言っているだろ」
段々と二人の仲が険悪になっていく。それを二人の中高年の男たちは若干不安ながらも、見守るしか他なかった。
「じゃあ、これ知っている? 知らない方が幸せだって」
「教える気ないじゃんか」
「今はね。いつかは教えるよ」
これ以上は言い争う気がないのか。それとも言い争っても埒が明かないとでも思ったのか、キリは何も言わなくなってしまう。アイリからそっぽを向いて「もういい」とどこか子どものような物言いで諦めたようである。
「どうせ、話す気ないんだろ」
「子どもみたい。あの貴族坊ちゃんを見返すって意気込んでいたように、あたしを見返すくらいさぁ。あたしの言いつけ通りに従うって宣言しないわけ?」
「お前とあいつは全く違う。そこを先に理解しておけ」
この場にいていられないと憤慨するキリは席を立ち、二人に対してジュースの謝礼をすると、情報屋から出て行こうとした。それに老人は彼をもう一度呼び止めた。その表情は真顔である。
「きみがどちらの味方でもないならば、ここで得た情報はどちらにも流してはダメだからな?」
「……はい」
キリは小さく頷くと、店から出て行ってしまう。店から出ると、彼は大きくため息をついた。
「なんだよ」
イライラする。それはアイリが知りたいことを教えてくれないから。自分が未熟だから教えてくれない? 意味がわからなかった。そもそも彼女は彼らと手を組んで何をする気であろうか。それと関係のあるはずである歯車を使ってどうする気か。それはアイリにしかわからないだろう。それを自分が知るときはいつなのだろうか。キリは頭をくしゃくしゃにしながらも、町をあとにするのだった。
◆
一足先に学校の方へと戻ったブレンダンはエドワードのもとへとやって来た。
「リスター副隊長、忙しいのに申し訳なかった」
「いえ、構いませんが、報告よろしいでしょうか?」
「ああ」
エドワードからの許可をもらったのに、ブレンダンは報告をする口を渋る。それに反応するように彼は片眉を上げた。
「どうかしたのかね?」
「ハルマチ隊員よりも多くの報酬金を持っていきましたが、全てを払っても微塵の情報しか得られませんでした」
「情報屋はあの計画に方を持っているのか?」
「と、考えましたが、それはありえないようです。計画を立てた者は隣国、黒の皇国に住む者のようです」
ブレンダンがそう言うと、エドワードは顔をしかめた。
「黒の皇国?」
「はい。言うならば、情報屋のコードネームは『キイ』だそうで、どうも隣国が拠点となっている宗教の信仰者のようです」
「この件、他の誰にも伝えていない?」
「はい」
エドワードが考えていること、思っていることをブレンダンは察知したのか、少しだけ顔を歪めた。
「もちろん、総長にも?」
「はい。余計な混乱を招かないために、真っ先に隊長に、と」
「この案件はきちんと整理がつくまでは誰にも口外しないように。誰かにその件について聞かれたならば、私から話を通すようにお願いします」
「承知致しました」
エドワードに対してブレンダンは一礼をすると退室しようとするが、立ち止まった。そして、彼に声をかける。自身の仕事作業に戻っていたエドワードは顔だけを上げた。
「ハルマチ隊員のことについてなのですが……」
「ああ、彼女がどうかしたか?」
「なぜ、彼女を編入隊させたのですか? 彼女には何か特別な事情があるのですか?」
その問いかけにエドワードは理由を話そうとしたり、止めようとしたりしてどっちつかずであったが、結局は口を開いた。
「彼女に特別な事情があると言えばあるし、ないと言えばない」
「申し訳ありません、私には理解が……」
「確かに私は彼女を編入隊させたその事実はあるし、記憶もある。だが、なぜに編入隊させようとしたのか、その理由はわからないのだよ」
その答えにブレンダンは更に混乱してしまった。した事実はあるというのに、理由がわからないとはどうなのだろうか。
「彼女がここへやって来た理由は『復讐』だと言っていたんだ。そこだけは覚えている。あとは私自身も記憶があやふやで、気がつけばハルマチ隊員を編入隊させていたんだ」
なんとか過去の記憶を辿ろうと――頭の中にある記憶を引っ張り出して、欲しい事実の記憶をつなぎ合わせようとしても、やはりアイリを編入隊させるまでの記憶が思い出せなかった。何かが邪魔をしている? 空白?
「一応、身分となる個人情報を書いてもらったみたいだけど、正確ではなくて……」
ブレンダンはエドワードからアイリの個人情報が書かれている証明書を見せてもらった。名前、顔写真や家族構成は書かれているが、出身地は途中で終わっていた。
『青の王国西地域』
それだけしか書かれていない。これ以降に町や村の名前を書くはずなのだが、書かれていなかった。その他にも、アイリが住んでいた場所の住所――すなわち、アイリが学校へ来る前に暮らしていた場所については不明確なのだ。これにはブレンダンは眉をしかめるしかない。
「編入隊を許可する前にチェックしたはずなのに。すべてを明確にさせるべきだというルールがあるのに、どうして私はこれを見て彼女に許可証を渡したのか」
「……アイリ・ハルマチ」
アイリは何を思い、何を考えてこの学校へとやって来たのか。そして、彼女は何者なのか。それを知るのはアイリ、ただ一人のみである。
◆
信者の町からの帰りの道中。公共機関の乗り物から見える夕日を眺めていたアイリは、誰にも聞こえないくらい小さな呟きを言い放った。
「……殺されてしまえ」