奪回 ④
キイ教第四章八節より『人とは何か』
人というのは初めてキイ神に愛されて人と呼ぶ。醜い欲に打ち勝ち、隣人を愛する者こそ、人と呼べる。それ以外は堕落に落ちてしまったため、ただの欲人と化す。近付いてはならぬ、その欲人に。自らも溺れてしまう、カムラが差し向けた巨大な欲望に。欲に溺れ、欲人となってしまった腕なしと狂気の少年はキイ神に殺されなければならなかった。それはなぜか。彼らこそ、人の道を自ら外しに行ってしまった愚か者だから。本当はキイ神が止めようと奮闘した。だが、その差し伸べられた手を振り払ってしまったのだ。ああ、哀れな者どもよ。キイ様よ! どうかこの数ならぬ哀れな欲人どもにご慈悲を! そうして、彼らには死を与えた。それが彼らにとっての幸せだったのかもしれない。死ぬまで苦しみを味わうならば、いっそ楽になってしまえばいい。キイ神は人を愛する。それは、彼らが醜い欲に打ち勝ち、隣人を愛する者であるからだ。さあ! 我らも欲などにかまけず、愛する者を愛し合おうではないか!
◆
「友を返してもらう? 何をばかなことを」
礼拝堂でハインが仮面越しに笑った。その笑声は誰もが不気味だと思う。しかし、不気味であっても、怖じけついてはならない。イダンは叫ぶ。
「皇子! メアリー王女を王国へ帰してあげるべきです!」
イダンがハインの笑い声に負けないようにそう言った。その途端に彼はぴたりと笑うのを止めた。無表情のその仮面でひたすらに前後方を見ていた。
「なぜ、『返して』やらねばならんのだ?」
ややあって、メアリーを強引に立たせた。彼女の首に腕を当て、逃げられないようにする。これでは誰もが近付きようもなく、四人はただ歯噛みをするばかりである。
「ライアンを放せ!」
いくらその台詞を言ったところで何になるのだ。ハインはキリの方を見てきた。そして、再び剣先を向ける。
「貴様は滑稽な発言ばかりをしているな。さては学のない王国民か」
確かに学徒隊は除籍という形になってしまったが、別にキリは学がないわけではない。
「デベッガ君は頭がいいもん!」
キリの悪口は許さない、とメアリーは声を張った。だが、ハインが怖いとでも思っているのか、足が震えているようである。
「ま、前にあなたと私の友達が似ているって言ったけど、全然似ていないっ! あなた、優しくもなんともない! 自分のしたいことをするだけの……ただの、わがままばっかりの子どもよっ!」
「黙れっ!」
ハインが軍刀を握る力が強くなった。そのとき、イダンはナイフを手にしてゆっくりと近寄ろうとするが、感付かれてしまう。刃先をこちらに向けられてしまった。
「そんなに彼女を返してもらいたいか?」
もしかして、メアリーに図星でもつかれてしまったのか。ハインはどこか挙動不審に陥っているようだった。
「放してやれよ。ライアンが嫌がっているじゃないか」
キリのその一言で、刃先の向きは彼に変わった。どこか妙な雰囲気が流れ始めてて、ケイは気付く。だが、何が先ほどと違うのかと言われると、わからないのが現状だ。先のことなんて見えないから――。
「貴様、今なんと言った?」
「だから、ライアンが嫌がっているって……」
嫌がっているだと? 自分たちは今日で夫婦になるのに? 夫婦というのは互いを愛し合う仲の存在であるはずなのに? 何も知らない彼らは勝手に自分たちのことを決めつけるのか。なんたる発言、なんたる雪辱。
許さない。
【デベッガ君は頭がいいもん!】
メアリーは過去の歯車を所有している者のことをそう言っていた。頭が良い、と。それならば――。
「あっ……!?」
「ならば、貴様に問おう」
ハインは持っていた軍刀をメアリーの胸へと突き立てた。一瞬にして、純白のドレスが赤くにじみ出してきている。誰もが目を見開いている最中、彼はキリに向かって口を開くのだった。
「キイ教信仰者でもない、人でなしの貴様が思想する『愛』とはなんだ?」
◆
「それでは、後は頼んだ」
ラトウィッジはその場の処理とハイチ捜しを部下に任せ、首都方面へと行ってしまった。黒い爪の壁の中にいた名なしたちの前に現れたのはマックスとエドワードである。彼らはやるせない表情を見せて三人に立つように指示を出した。
「きょ、教官」
ここに来ているとは思わなかったらしい、名なしが目を丸くする。いや、驚いているのは彼女だけではない。ハイネもだった。
半年前の森厳平野防衛戦に出没した異形生命体の討伐により、負傷をしていたマックス。完全復活としてこの場に足を踏み入れたのか。彼は名なしのもとへとやって来た。
「お前が何者かは知らないが、キンバーのところに案内しろ」
名なしを立ち上がらせ、連行しようとすると――。
「待ってください!」
そう、ハイネが呼び止めた。マックスは二人を見て何かを察したのか、頷く。
「だったら、お前たちも来い」
「クランツ教官」
それを咎めようとするのはエドワードだった。二人は別の場所へと連れていく予定なのである。それだから、彼は止めようとした。
「彼らをこの侵攻戦が終わるまでに保護しなければならないんですよ?」
「知っていますよ」
「だったら――」
「彼らは迷子のキンバーを捜してくれる保護者ですよ」
マックス曰く、この責任は自分で負うらしい。だが、エドワードはそれにあまりいい顔をしない。それにどうにか許可を得られるように、二人は悲願した。
「お願いです、隊長。私たちは逃げたりしません。どうか、ハイチに会わせてください!」
「俺からもお願いします。会って、話したいことが山はどあるんです!」
「…………」
頭を下げる彼らに渋った様子を見せる。それと、同時にマックスまでもが頭を下げてきた。彼は是非とも三人を会わせたいと思っているようだ。ここまでされるならば――。
「……わかりました」
折れたエドワード。彼らの気持ちはわからなくもなかったから。なぜなら――。
実はハイチとハイネが兄妹だということをこの場にいる誰よりも先に知っていたから。何もエドワードは自分の部屋で椅子にふんぞり返って座っているだけではない。あのときの彼はまだ学徒隊の隊長でもなかった。一軍人として働いていて、彼らと出会っていたのである。彼らの兄妹思いには微笑ましいとも思っていたから。
「……では、ハルマチさん。いえ、名なしさん。あなたたちが拠点にしていた宿までお願いします」
「わかりました」
◆
もうどうでもよかった。ここにいる誰もが敵だと見える。自分を拘束している黒い女も敵。こっち見て怯えている女も敵。全部が敵。
――そうだ、名なしも敵だったな。
だから逃げてやると誓った。自由になってやると。なぜなら、自分に味方など誰一人としていないから。どうせ、妹のハイネだって、幼馴染のセロだって本当の姿を見たならば、レナータのような顔をするに決まっているのだから。
ああ、それでいい。それでいいんだ。だって、自らすべてを捨てたんだから。
「どうでもいいから、殺してやる」
自身の骨が折れても構わない。その勢いで上半身を捻り、ヤナを殴った。鈍い音がその場に響き渡るが、大したことじゃない。どうせ、回復するから。ほら、痛みなどないだろう。
殴り飛ばされたヤナはこめかみに青筋を立てていた。黒の鎧が変形し出す。腕には先ほどよりも鋭く尖った剣が。ハイチ――腕なしもまた眼前の敵を殺す気迫で剛腕の腕と肩より黒い羽を生やした。バチバチと首筋に当たっている鎖を引き千切って地面に投げ捨てた。こんな物、邪魔で仕方がないから。
「死ねっ!」
掲げる剣。それを物ともせずに、黒い手で掴み取った。血が出ている? だからどうした。
手を怪我してもお構いなしに圧し折った。ヤナは距離を取る。手には黒い圧し折れた剣の刃。
――自由になれるならば。
何を思ったのか、腕なしはその刃を口にして食べ始めた。口の中が切れ、血の味が一気に広がってくる。舌が痛い。喉が焼けるような痛みが走る。そのせいで咽てしまった。地面には刃の欠片と血痰が。それを見てヤナが笑ってくる。何をばかなことをしているのやら。しかし、笑われても彼は食べ続けた。血の味しかないそれを食べてどうする気なのだ。
「何をしている、何を! 血迷ったか!」
「……俺は……逃げるためなら何だってする」
もしも、ヤナの体にまとう黒い鎧が自身と同じ黒い物質であるならば――。
腕なし――ハイチの体は人と同様の血は流れているのだが、怪我しても治癒能力はある。それは自身の中にある『MAD細胞』が自分を生かすためだからだ。MAD細胞という物は隠れ細胞、いくら精密検査などしても現れたりはしない。それは人には有害な薬品と本来の細胞が組み合わさって生まれた新しい細胞であるから。形が人間と同様の細胞であるから。その細胞の形自体は普通の人間と変わらないが、どうしても検査をしておかしいところが一つだけある。それが頑丈過ぎるということだ。故に異形生命体の場合、その皮膚は、肉は――文字通り鋼の肉体となり、刃も弾丸すらも通さないのだ。
そう、その堅い細胞の力をもっと体内に取り込んだならば?
腕なしは『半』異形生命体である。ヤナや巨体のバケモノのような異形生命体ではない。これは一つの賭けであるのだ。己が逃げたい者から逃げるがため、自由になるがため。
――邪魔者を殺すがため、死から逃れるがため。
【世界改変者】
何度言われたっていい。どう見られたっていい。もうここまできたんだ。後には引き返せそうにもない。引き返すにしても、できないところまで堕ちた。
【あなたは、この世に存在してはいけない】
知っている。誰よりもずっと知っている。何千何万と聞いてきた言葉。己が存在する価値がないならば――。
「好き勝手にやらせろよ」
突然変異というが正しいか。巨腕と羽は元より、全身にヤナと同様の黒い鎧を身にまとう腕なし――否、世界改変者。
それは誰もが恐れる恐怖の大魔王と呼ぶべきか。
◆
名なしに案内されてやって来た場所は彼女とハイチが泊まっていた宿。部屋には誰もおらず、もぬけの殻となっていた。
「誰もいないのか?」
「外ですかねぇ」
「お前、あいつの連絡先は知らないのか?」
「ないですよ。あたしら身一つでこっちに来ているんですから」
連絡通信端末機がないならば、それは連絡がつかないのも当然だった。
「じゃあ、ハイチは外?」
窓の外を眺めていたセロはベッドの上に置かれているピンク色の本を見つけた。それを手に取ると、名なしは「触らないで!」と声を張り上げる。あまりの大声に彼はびっくりしたのか、本をベッドの上に落としてしまう。その拍子に開かれたページ。そこには手書きで何か書かれているようだが、慌てたように彼女が本を閉じて両手に抱える。誰にも触らせない、中身を見せないとでも言いたげであった。
「それはなんだ?」
誰もが知りたいこと。だが、名なしは何も語ろうとはしない。疑心の沈黙が漂う最中、エドワードが口を開いた。
「まさか、あなたがデベッガ君やキンバー君とのつながりに関係のある物ではないですか、それ」
なぜにそこでキリが出てくるのだろうか。他の者は疑う。その本がハイチとのつながりがあるのは百歩譲ってわからなくもないが――。
「隊長、それはどういう意味でしょうか?」
「デベッガ君は彼女が何かしらの秘密があると言っていました」
名なしが小さく反応を見せた。それが図星だと誰もが見逃さない。視線だけをエドワードに向けた。彼女も何か知りたげのようである。
「あなたはヴェフェハル君の監視には気付いていたようですね。でも、デベッガ君とは仲がいいから多少は気を許していたんでしょう? 彼も監視役だったことは知っていましたか?」
「……薄々は」
「なら、有益な情報があまり出ないのも当然か」
エドワードは鼻でため息をつくと、名なしと視線を合わせた。
「もうあなたは逃げることができませんよ。答えてください、名なしさんはどのようにして私を欺いて編入したのか」
「覚えていないんですかぁ?」
嫌味たっぷりなその物言いに、エドワードは片眉を上げた。ラトウィッジとの会話の際、名なしは金なし宿なし、行く宛てもないから編入させてもらったと発言している。それが事実だとするならば、どうして自分は忘れているのか。
「記入項目もきちんとなっていないのに、私が許可を出すはずがありません。あなた、何か細工でもしたんではないんですか?」
名なしならば、やりかねないとでも思ったのか。エドワードはしかめっ面を見せる。部屋にいる誰もが彼女に注目する。名なしは鼻で小さく笑った。
「『過去の歯車』」
誰もが己の耳を疑った。今、過去の歯車の所有権を持っているのはキリではないのか。なぜに名なしが知っているのか。本来、過去の歯車について知っているのは王族とその三銃士軍団の者。そして――今回、メアリー奪還作戦を企てたエレノアの私軍の者のみ。故にそれがなんなのかわからないマックスは困惑していた。
まさかとは疑う。キリが持つあの過去の歯車を渡したのは名なしではないか、と。だとするならば、彼が所有権をいつ手に入れたのかという話になってくる。少なくともキリとの接触があったのは信者の町の反政府軍団制圧作戦時ぐらいのはず。彼女が編入してきたのは三回生特別演習実習の雪山行進後。そのしばらくの間、彼は病院にいたはずだ。
「あなたはもしかしてでもなく、デベッガ君に過去の歯車を渡す前に所有権を持っていましたね?」
「…………」
返事がないのは、肯定の意味で捉えてもいいのだろうか。そうエドワードが思っていると――。
「あたしに『所有する権利』はないですよ」
そう吐き捨てた。詳しく話を訊こうとするが、王国軍の一人が部屋に入ってきて声を上げた。
「なんだ?」
「ただ今、情報が入りました! 町の北部で人型の異形生命体が出現した、と!」
「急ごう!」
名なしにはまだまだ訊くべきことがあるのだが、まずは暴れる者である異形生命体の件について片付けなければならないのだから。一同はその部屋を出て、町の北部へと向かうのだった。
◆
ヴィンの体を支えるようにして、ガズトロキルスたちは隣町へと向かっていた。だが、その道を行くのは地下にある水道路しかない。なぜなら、地上は王国軍と皇国軍が戦戟をしているから。巻き込まれるのも時間の問題だからだ。
「大丈夫ですか、ザイツさん」
「うん。あの男にやられたのには悔しいけど……」
もっとも、未来のコンパスを盗られてしまったのが痛い話だ。もしも、あの男が所有権を得てしまったならば? それこそ未来は見透かされてメアリー奪還はより厳しいものとなるだろう。いや、まだキリがいるか。彼がいるならば、事実の改変も容易いだろう。そう考えていたガズトロキルスであるが、マティルダは「厳しいかもしれませんわね」と心を読まれたようにしてそう言った。
「どういうこと?」
「デベッガさんは仰っていましたわ。あの過去の歯車は事実の改変をしても結局はなかったことになると」
「なんだよそれ」
「本当、おかしいよそれ」
言いたいことが積もりに積もってある。だが、ここで自身の記憶の改変されたことを口走れば、話が拗れてくるに違いない。このような戦渦の中で論を述べているならば、早く合流の場所に行った方がまだ有意義だ。
「だから、ここはあの三人に任せるしかありませんわ」
その小さな希望にすがるしかない。三人は隣町を目指して前へと進んでいたのだが――ヴィンの視界にどこかで見たことがある人物がこちらを見ているのに気付いた。古くさい青の王国の民族衣装を身にまとったメアリーにもワイアットにもよく似た人物。ターネラの家から本物の過去の歯車を盗んだ人物――。
「あの人……」
そう呟くヴィンではあるが、二人には見えないらしい。なにを言っているのだという視線と言葉を言ってきた。
「い、いや、そこにいるじゃん。青の王国の人が」
指差す先には誰もいない。二人は顔を見合わせた。頭を叩きつけられて、ヴィンは幻覚でも見ているのか。
「歩けないなら、おんぶするけど?」
「違うって! ほら、そこに姫様とフォスレター君に似た人が――」
その人物は彼らが見えないのをいいことに、小さく手を振ってくるではないか。そのときの表情はさながらいたずらする子どものよう。だが、お遊びはここまでだ。腰に提げていた軍刀を抜いた。それにヴィンは一歩だけ後ずさる。
「ははっ、きみたちを殺しはしないよ。手助けしてあげるから」
その言葉に、天井に刃を向けて穿つ。その直後に地響きがしたかと思うと、天井が崩れ落ちてきて彼らの行く道を阻んだ。
「総長!?」
外から大きな声が聞こえてくる。何事かと粉塵で薄目しか開けられない三人が塞がれた水道路の先を見た。そこにはこちらの方へと転落してきたラトウィッジがいた。
「お、おじさん!?」
「……ん。ああ、マティルダときみらは――」
こんなところにいたのか、と痛む体をゆっくり起こした。慌てて駆け寄るマティルダは本気で心配しているようである。
「大丈夫ですか!? ああ、ザイツさん! 応急セット持っていらしたわよね!?」
「うん。オブリクス君、これ持っていてあげて」
ヴィンはガズトロキルスに持っていた応急セットを渡すと、ラトウィッジのもとへと届けた。
「総長!? ご無事ですか!?」
ラトウィッジを心配するようにして王国軍人たちが上から声をかける。何人かが足を滑らせないようにして水道路の方に下りてきた。
「きみたちは青の王国民か?」
「私の親戚の子とその友人たちだ。ほら、エレノア様の」
ラトウィッジは腕にかすり傷を負った程度で他に目立つ怪我は一切していないらしい。痛みに少しだけ堪えながら立ち上がった。
「まさか、ここで会うとは思わなんだ。ワイアットたちもいるだろう? 隠れているのか?」
「違いますわ。ワイアットとケイ、それとデベッガさんは城内にいるはずです。そこで、メアリー様を奪還すると――」
「……城内か。よし、お前たちは一度保護をする。後のことは私に任せなさい」
自分たちの手助けでもしてくれるのか。そう思ったがまだ不安は拭えない。城門内へと行くならば、異形生命体が首都中にいるのだ。愁眉を見せるマティルダにラトウィッジは彼女の肩に手を置いた。
「安心しなさい、マティルダ。現場指揮監督である私がここにいて、国王様は総指揮監督だから王国にいらっしゃる。この意味がわかるな?」
「え?」
「今のお前たちは私たちの軍の者でもなければ、敵でもない。ただ、王国の味方をしてくれる一般の者たちだと私は解釈している。そんな彼らを保護しようではないか」
「本当ですか?」
「ああ、防衛戦では助けられてあげられなくて、すまなかった」
途端に安心したようにしてマティルダは足が崩れ落ちて、その場に座り込んだ。そこにガズトロキルスが心配して寄ってくる。
「ま、マティ、大丈夫か?」
「はい。安心して、足が」
「なるほど、きみがマティルダの……」
ラトウィッジはガズトロキルスを見た。品定めをされているようで、気分悪い。それに彼とは森厳平野以来顔を合わせるのだ。自分こそ、本当に国を裏切ろうとした反逆者。絶対にいい顔で見られるはずもない。
「クランツ教官から聞いた。きみは国を裏切れるほど賢い人間ではない、と」
その言葉に顔を上げた。
「そして、マティルダは直感が鋭い子だ。彼女がきみと一緒にいるとなると、絶対に国は裏切れそうにはないな。故に、きみはあの男に騙されていた、というわけだ」
「……総長」
「それでも、国を裏切ろうとしたことには違いないが、きみも同様に一時的に保護する」
ラトウィッジはそう言った。そして、瓦礫の上を登り上がって地上へと出た。その場にいる総員に告げる。
「総員、城門を打ち破り、姫様の奪還と追放者たちの保護をせよ!」
◆
もう世界なんてどうだっていい。この世が終わろうが、人々が殺されようが――。
自分さえよければ、後はどうでもよかった。己さえ自由の身となり、誰にも束縛されないそんな世界を腕なしは望む。だからこそ、始めにヤナを殺すことを決めた。
町が壊れる? そんなの知ったことか。ヤナがいた場所に巨腕を振るった。そのせいで地面に穴が空く。瓦礫が飛び散り、レナータの足下までに転がってきた。依然として、彼女は恐怖心と怪我で動けない。ただ、ひたすらと眼前にいるバケモノどもの殺し合いを見るだけ。
ヤナはここで殺されては敵わないと強力な拳を避け続けた。
――こんなの、聞いていない!
MAD計画を企てた男、ウンベルト・バグスターは腕なしを作り上げた。死にかけの人間を利用して。
腕なしは自ら彼女のMAD細胞を食らい、成長を見せた。流石はウンベルトの初の成功作品にして唯一無二の最高傑作。
腕なしは笑う。ケタケタと。周りを破壊しながらもヤナを追いかける。己にとって敵だから。
「逃げるな、逃げるな」
こいつに敵うはずもない。だが、腕なしを今度こそ捕獲すれば、エイキムに認められるのだ。彼こそ、温かいという言葉を知らなかった自分たちにそれを提供してくれた――お父さん。
「腕なしぃいいい!!」
二人の目がぶつかり合う。どちらもこの世界の不条理さに憎しみを持っている目だ。
――ボクはっ!
そう、すべてが理不尽であり、不条理。人が悪なのではない。この世を動かす運命こそが絶対悪だからこそ、人は腐り堕ちいくと考えている。
――人々はすべて運命に翻弄される哀れな者ども。
腕なしの黒い手がヤナの腹を食らう。負けじと彼女が腕の剣を彼の顔面へと仕向けるが、それを腕なしは食らった。食って、食って、食いまくって――口から血が出ている? 何度も言うが知ったことか。関係ない。不条理悪を食らうがため、理不尽な運命を変えるがため。何度だって食ってやろう。
――あいつを殺せるまでに強くなってやる。
ついにヤナの黒い鎧は再生に限界を迎え始めた。腕なしに食われた刃は壊れたまま。彼を見る。腕なしは口から血を出しながら、彼女のMAD細胞を食べていた。もう成長を止めることはできそうにない。
「お前自身を食ったら、もっと、もっと強くなれそうだ」
こちらを見てくる目は、人でなし以上の負の産物。また負けるのか。またあの屈辱を味わうことになるのか。そう考えてくると、レナータ同様腕なしに対して恐怖心が襲いかかってくる。理性がそう言っているのではない。本能がそう言っているのだ。それだからこそ、ヤナは動いた。
――負けられない。
己が死なないがため、この危機的状況を打破するため――腕なしを殺す、と。なけなしのMAD細胞を集めた腕の剣は弱々しい。それでも立ち向かう。僅かな可能性を信じて。
「死にさらせぇええええ!!」
腕なしの大きな手の攻撃をかわし、その剣を彼の腹へと突き刺すことに成功した。これに口元を歪めるヤナはこのまま、肩へと斬り裂こうと腕を動かそうとするのだが――。
――動かない!?
突き刺した黒い剣はびくともしない。ヤナが戸惑っていると、腕なしは頭を掴んできた。もう逃げ道などない。自分はこの場で殺されると考えるしかない。頭を潰されて死ぬとしか考えられない。
「ふははっ、お前をもらうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、頭を握られている感覚がなくなった。力が入らなくなった。
周りの地面や建物が破壊しつくされ、血塗られたその場所にただ一人立ち尽くして高笑いをする。よく周りに響くな、とレナータは思った。急所こそは外れているが、体中に穴を開けられて傷を負っている。それなのに、その痛みすらも忘れて腕なしを恐れていた。彼は頭が潰れた異形なる者が渾身の一撃として突き立てた腕を圧し折り、体を地面に放り投げる。そして、その腕を腹から引き抜いてその場で食べ始めた。
まだ腕なしが後ろを向いてくれているからいいのだ。もしも、こちらを向いて食している姿を見れば、人の腕を食べている怪人としてしか見ることができないだろう。先ほどまでは金属を砕くような音が聞こえていたが、今となっては嫌に耳を塞ぎたくなるような音が辺りを支配していく。その支配力のせいで、レナータの体はもっと動かなくなる。視線をどこに向ければいいのやら。ずっとそちらを見ていた。
「…………」
気味の悪い沈黙。それを打ち破るのは意外にもレナータだった。
「う、腕なし、さん……」
正直な話、信じたくない。眼前にいるこの黒い人物は誰なのか、と。学校で図書館の仕事や花壇の花の水やりを手伝ってくれた彼だというのであれば、その先は何も考えたくなかった。
レナータの声を聞いて、腕なしは振り返った。まだ食べきっていないのか、食い千切られた人の腕の断片が彼女の視界に映る。ややあって、口周りに付着した血を拭い、食いかけの腕を投げ捨てた。血痰を吐き捨てると、そこに混じって赤い何かの塊があった。
「あんたも敵か?」
「て、敵?」
ゆっくりとレナータのもとへと歩み寄り、見下ろした。
「ずっと、ずっと、俺はこの世界から嫌われていた。誰からも」
「…………」
「あんたと話していて、すごく幸せな時間だと思ったよ」
「……わ、私も同じ思いです」
視線を合わせずにレナータはそう言うが、それは嘘ではない。事実である。最初はちょっと怖い雰囲気を持った学徒隊員だと思っていた。だが、いざ話してみるとそうでもない。ただの一人の年下の子どもだった。何度か話している内に――あのとき、お店に入ってほんの少しだけだったが、その時間が至福だと思えた。しかし、今は――。
レナータは腕なしを見た。訳ありの白髪頭。口元に拭えていない他人の血。こちらを見てくる冷たい視線。彼は視線を合わせるようにして屈み込んだ。
「でも、今のあんたと話していて不幸だと思うね」
腕なしは卑屈な笑い声を上げながら、バキバキと指を鳴らした。
「だから――」
動けないレナータに手をかけようとするが――。
「お兄ちゃんっ!!」
ここで聞きたくなかった声が耳に入ってきた。その声の方を絶対に向けたくない。そう、絶対に。脳が命令しているはずなのに、体は言うことを利かない。そちらの方を見てしまった。
少し離れたところには相も変わらず、白と黒のエプロン型ワンピースを着用し、十三歳の誕生日に贈った緑色の石のブレスレットをしたハイネが涙目で立っていた。
「ハイネ……」
こんなところで会いたくなかった。こんな姿を見て欲しくなかった。そう、この世のすべては自分の敵。たとえ、肉親だとしても――嫁に出したくないほどの愛おしい妹だとしても。
「ずっと、会いたかった」
腕なしは――ハイチは立ち上がり、ハイネや名なしたちの方を見た。誰もが自分を人として見ていない気分である。
「俺は会いたくなかった。もちろん、セロにも」
そう言うハイチに対し、ハイネは「ばかっ!」と声を荒げる。
「そう思わなくても、どんな格好だろうが、私はずっと会いたかったのっ!」
ハイネのその言葉につられるようにして、セロが小さく笑った。優しい表情をしている。
「お前なんだよ、そのヘンテコな格好は。変な格好していないで、帰ろうぜ?」
危険も顧みず、二人は黒い鎧に包まれたハイチのもとへと近寄っていく。だが、肝心の彼はそれが嫌なのか、首を横に振った。
「嫌だ、誰が帰るかっ!」
絶対に嘘に決まっている。こんなバケモノ姿なのに。どうしてこの二人は恐れようとしない? どうして自分のために泣いてくれるのか。どうして裏のない優しい微笑みを向けてくれるのか。
「先生も、町の人たちも。みんな待ってくれているよ」
優しい言葉が嫌で嫌で――。
――煩わしい。
本当にそう思っているのか。誰かがそう言ってくるようだった。頭を抱えた。頭が痛い。ああ、また頭が痛い。ハイチの様子がどこかおかしい、と二人は歩み寄る足を止めて不安げに見てきた。
「来るな、来るな、来るな、来るなぁあああ!!」
突然、大声を上げて睨みつけてきた。こっちを見るな、こっちに近付くな。
――俺は人の道を完全に外したバケモノだ。
だから、優しい言葉なんてかけられるはずがない。もし、それが現実ならば、ただの罠だ。自分を束縛するがための罠。
――誓ったんだ。
「誰にも縛られずに逃げてやるっ!」
そのためにはすべてを捨てなければならない。一番の枷であるハイネを見た。そうだ、こいつを殺せば自由が待っている。こいつがいるから、いつまで経っても後ろを見なければならなかったんだ!
ハイチは自身の巨腕をハイネに向けた。危険だとセロが彼女を庇う。
――こいつらがいなければ。
「ダメっ!!」
自分と目が合うのはハイネでもセロでもない。レナータだった。体にまといし黒の鎧にひびが入る。その黒い腕で貫くのは彼女の胸。そこから血が垂れてきていた。
「……だ、めです、腕なしさん……」
「レナータさん!」
レナータのもとへと行こうとするハイネであるが、セロがそれを許さない。まだわからないのだ。ハイチがどう行動を取るのか。
それなのにも関わらず、レナータは優しく微笑んでくれた。自身を貫いているその腕に触れた。そこから伝わる人の肌の温かさ。途端、ハイチの頬に一筋の涙が伝う。どうして涙が出てくるのかはわからない。唯一わかるのは彼女の手が温かいこと。
「なんで……?」
「……あなたが……大切だ、と思う人は……大切にしないと」
レナータの言葉に虚しくも心にもぽっかりと。胸にある同じ大きさの穴が空いた気がする。その言い方は、いかにもハイチにとって彼女は大切な人ではないというような発言であった。そのようなことなどないのに。
思わずレナータの胸から手を抜いた。それと同時に巨腕が普通の大きさの腕の太さに戻る。だが、色は戻らない。彼女はふらつきながらも立っていられないのか、膝をついた。それに伴い、自分も跪く。腕にはレナータの血が垂れていた。
「……楽しそうに語ってくれた……あなたを、忘れません」
そっとハイチの頬に触れると、彼に向かって崩れ落ちるように倒れた。レナータが地面に落ちないように支える。全く彼女の鼓動が聞こえない。当たり前だ、自分で胸貫いているから。当たり前だ、その心臓を潰したのだから。確かに大切だと思う人は目の前で口を押さえている二人がいる。だとしても、まだいるのだ。忘れることは絶対にないこの人。ただの片思いで終わった恋。楽しくおしゃべりしていたあの至福の時間は、もう戻らない。戻せない――。
ハイチはずっと好きだったレナータを殺したのだ。自分がしでかしたことの重大さに彼はその場で大声を上げる。羽を広げ、天まで届くほどの大きな声。銃口を向けていた王国軍人たちは口を開けるようにして、唖然とした表情でその現場を見入った。
――ああ、神よ。世界よ、そんなに俺が気に食わないのかっ! そんなに俺という存在を嫌うのかっ! どこまでも俺の邪魔をし、挙句の果てにはこのような仕打ちの運命を見せつけるのかっ!
「……ハイチ」
喚くハイチにハイネが声をけようとするが――。
「うるさいっ!!」
血の涙を流す勢いある眼力で睨まれた。ハイネは怯えたようにハイチを見る。
「うるさい、うるさい、うるさぁああああああぃいいいいい!!!」
怒声を上げるハイチはレナータを手から滑り下ろすと、頭を抱え出す。嫌に音が鳴る最中、彼の腕は再び黒くて太い物へと変貌した。
ハイネを見た。その視線から放たれるものの危険を察知してセロが庇うようにして前に出る。いや、それよりも前に名なしが赤と黒の剣を手にして出てきた。
「名なしぃ……」
「何? 悲劇のヒーローぶってんじゃないよ」
「黙れっ!!」
ハイチは歯軋りしつつ、誰のせいだとでも言ってくるような目で見てきた。
「黙れ、黙れぇ! てめぇなんぞ、ただの人形なのにっ! ただの存在すらない者なのにっ!」
「今のあんたも同じ状況じゃん」
そう名なしは剣の刃先を向けた。
「コインストだか、反軍だかに利用されて操られているこの世に存在してはいけない『異形生命体』じゃん」
名なしの声がその場によく響き渡る。しっかりはっきりと誰もの耳に入り込んできていた。
「鏡見た? これほどまでにおぞましいあんたを見たの初めて」
「……それで俺を殺すのか?」
ハイチのその言葉が嫌に寒気がした。これがただの気のせいであって欲しいと願う。別段彼に睨まれてもなんとも思わなかったのだが、今回に限っては膝が震えそうなほどである。正直な話、今のハイチ――腕なしと対等に戦えるわけがない。イヴァンとは訳が違うのだ。たとえ、軍隊が最新精鋭の兵器を持ったとしても、キリがあの歯車の剣を持ったとしてもこの世で敵う者などいるか? 否、世界中の誰もが相手になろうが、相手になるだけ無駄だ。
腕なしは今、すべての負の感情が混ざりに混ざり合っている状態だ。なおかつ、半異形生命体から本当の異形生命体に成り下がった人外であり――。
この世に存在してはならない絶対悪。
「それで俺を殺すのかって訊いているんだよ、名なし」
「……はっ、今のあたしがあんたを殺しても意味ないじゃん」
何のために、キリに過去の歯車を渡したか、わからなくなってくるから。今の名なしにできることは後ろにいる彼らを守ることぐらい。何も彼らを守りたいわけではない。だからと言って、レナータの言っていた言葉に感動してはいない。守ろうとする理由は――いや、守るのではない。未然に防ぐが正しいだろう。名なしが未然に防ぎたいのは腕なしの抱く負の感情の膨らみ。
もしも、ハイネやセロを腕なしが殺したならば? どんな結果が待っているかなんて想像がつくから。それはレナータで学習した。そう、まだ――という言い方はおかしいのではあるが、まだ彼女だけでよかったのかもしれない。
「ははっ、どうせ――」
腕なしが何かを言いかけたとき、彼はその場から飛び立って建物の屋上の方に着地した。その途端に名なしの頬を何かが掠め、彼がいた場所に着点した。それはイヴァンを捕獲したときに使った刃のついた黒いロープだった。それの先は――三人の後ろにいる王国軍たち。マックスもエドワードも想定外だったようで目を丸くしていた。
「な、何を!?」
「総長からの命は異形生命体を捕えよとのことです。このようなところで、ちんたらと話している場合ではありませんよ」
もっともな話をしているのは間違いないのではあるが、名なしは腕なしの方を見た。ああ、こちらの方を完全に敵意むき出しで視線を向けているではないか。
「俺を捕える、だって?」
「何度も逃げるんじゃない! 大人しくしろっ!」
王国軍人たちは腕なしに向かって刃のついた黒いロープを発射した。次々と放たれる弾刃を自身の羽を持って軽々と避けていく。
「それを今すぐに止めろぉ!!」
今の腕なしにそんな挑発をするんじゃない。名なしは大声を上げた。だが、王国軍人たちは彼らの言葉なんて聞く耳すらも持つわけない。手を止めようとしない。
それだから――。
「捕まえるなら、捕まえてみろよっ!」
空への自由が利くハイチは、その黒い腕を持って自分を標的にしてくる王国軍人たちの体に穴を開けていく。その姿で人を殺すことに吹っきれた様子に誰もが戦慄を覚えた。
そうしていくと、腕なしに砲口を向けていた軍人たちはついに全滅してしまう。誰一人として動けない状態だった。地面に降り立ち、じろりとマックスやエドワードを見る。今度の標的はお前たちだとでも言うように、視線を向けていた。
「キンバー」
「あんたらは、いつもうるさかったなぁ……」
「うるさくて結構。それがお前たちを指導する教官だから」
片眉が動いた。今度は気に食わないとでも言うような視線を向けている。
「キンバー、いい加減家に帰ってやれ」
マックスのその言葉にこめかみが痛み始める。なぜ、それを聞いただけで痛みを感じる?
「ずっと、お前の妹や幼馴染は帰りを待っているんだろう?」
【ハイネの幸せ願っているって言うなら、あいつの願いぐらい聞いてやれよ。叶えてやれよ! 家に帰ってやれよ!!】
「キンバー君、落ち着きなさい。きみは――」
エドワードもまた腕なしに落ち着きを取り戻させるように言葉をかけた。決して彼の行動が許されるわけではないのだが、この場にはセロもハイネもいる。彼らは腕なし――ハイチの帰りを待っていた。いや、彼ら以外にも帰りを待ち侘びている者がいる。それをエドワードは知っている。それだからである。
【あの子たちを私が引き取ってもよろしいでしょうか】
事情を詳しくは知らないが、二人の細やかな切願を叶えてあげたい。彼らはそう思っていた。
「知るかっ! 俺はどうせ、もう帰れないんだよ!」
「帰ってきてよっ!!」
ハイネがハイチに向かって叫ぶ。その声に彼は頭を抱え出した。
「私たち、ずっと待っているんだよ……?」
誰かが否定してくる。自分の存在を。耳元で囁いてきている。うるさい、何もかも、誰もかもうるさい。どう生きようが自分の勝手だってのに。
――そんな姿をして人だと言い張れるか。
「うっ――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
叫ばないと、頭痛は収まらない気がした。それで収まる気配はない。むしろ、悪化する。あまりの痛みに膝をつく。小さくならないと、気が済まない。そんなハイチを心配してか、マックスが声をかけるが――。
「俺に近付くんじゃねぇ!」
血走らせた目を向けて怒鳴った。もう誰かの近くになんていられない。人でなしの自分がこんなところで苦しむならば、誰もいない場所で一人苦しみたい。どうせ、人の気持ちなんて知る由もないんだから。
――誰も俺の気持ちだなんて……。
ハイチは空の方へと逃げた。今すぐにでも一人になりたかったから。誰とも顔を合わせたくなかったから。そうだ、誰も彼も――敵だ。敵に決まっている。
「…………」
空へと逃げてしまったハイチを見て、名なしは眉間にしわを寄せる。その足元には引き千切られた鎖が落ちていた。




