相愛
静かなところは嫌いではない。だが、賑やかなところもまた嫌いではない。
初めて黒の皇国の首都へとやって来たハイチは他の町とは違った賑やかさに戸惑いを隠せなかった。周り一帯がお祭り騒ぎなのである。しかも、その騒ぎの原因となっているのが、看板や垂れ幕が提げられた物にあるのだ。
『祝・ハイン皇子の戴冠式、結婚式』
――そう言えば、なんか言っていたなぁ。
あの男の言葉、テレビでの結婚のニュースをしていたのを思い出す。市場の町以降、つまりは半年以上も前からそのニュースなど見かけることはなかったのだが。
どうやら明日は戴冠式と結婚式があるらしい。これらの式典で町中が前日から当日にかけてお祭りを催しているらしい。だが、ハイチにとってはどうでもいい話。この国の者でもなければ、今まで住んでいた国すらも捨てた身なのだから。
「…………」
さて、どうでもいいから先ほどくすねた金で美味しい物でも食べようか。今日は人が多いせいでたくさん盗めたから。なんてズボンのポケットに手を突っ込んで町中を闊歩していると――。
「や、止めてください!」
町中にいる酔っ払いに絡まれている女性を見つけた。長い黒髪に青色の目の人。彼女には見覚えがあった。学校での図書館員の女性だ。名前はまだ知らない。
このようなところで見かけるとは思わなんだ。
「いいじゃない、お姉さん綺麗だし。ほら、おじさんが奢ってあげるよ」
「結構です! 放してください!」
しっかりとした口調で断りを入れる女性――レナータ。周りがそれに注目し始めたではないか。酔っ払いの男がベタベタと触ってくる。それを見たハイチはこめかみに青筋を立てて、眉間にしわを寄せた。許すまじ、悪酔い野郎。
「どこ行く? どこ行く? おじさんの家で飲んじゃう?」
「嫌です!」
「止めろよ、変態野郎」
この人のためならば、という面持ちでハイチは彼らの中に割り込んできた。それに男は元より真っ赤になっている顔で唾を飛ばしながら囃し立ててくる。
「なんだお前はっ! 関係ないやつが入ってくるんじゃねぇ! あっち行きやがれ!」
「関係ない? だったら、こっちのお姉さんとおっさんは何の関係があるって言うんだよ。酔っ払いが道中に出て騒ぎ立てているんじゃねぇぞ、迷惑野郎が」
ぎろり、とハイチは悪酔い男を睨みつけた。男性もその気迫に負けじと睨み返してくる。一発触発とでも言うような雰囲気に周りがざわめいていた。
そう沈黙の睨み合いをしていると、見回りの皇国軍人が騒ぎを聞きつけてやって来た。
「何をしているんですか、何を。明日は式典ですよ。けんかは止めてください」
その一言で互いを睨み合うのを止めた。酔っぱらっていた男は酔いでも醒めたのか。それとも、話がややこしくなるのが嫌なのか「何でもないです」と答えると逃げるようにその場を立ち去った。しかし、状況が把握できていない皇国軍人は事情を訊かねばならない。男を呼び止めようとすると、そこはハイチが止めた。
「本当に俺たち何もしていないですよ。強いて言うならば、あのおっさんがこのお姉さんに絡んでいたから俺が割って入っていただけの話なんで」
「あっ、そういうこと。そちらの方は怪我ないのね?」
「はい、なんともないです」
お騒がせ致しました、と頭を下げる。どちらにも遺恨はなさそうだったため、軍人は小さく頭を下げてその場を後にした。周りで見ていた野次馬たちも何事もなかったかのように散っていく。そこにはレナータとハイチが残った。
「あの、助けていただいてありがとうございました」
レナータは白髪頭の青年にも頭を下げる。その仕草に彼は照れくさそうにしていた。
「い、いや、俺はただ、見逃せなかっただけですし」
改めてレナータは青年を見た。白髪頭に全身黒ずくめの服装。どこかで見たことのある人、どこかで聞いたことのある声――。
【それ、重たそうですね。俺、持ちましょうか?】
【花の水やり、手伝いますよ】
【何か手伝うことはありませんか?】
ああ、そうだ。学徒隊のあの人だ。この青年は彼によく似ているが、本人なのだろうか。訊くに訊けない。もしも、違っていたら、失礼だろうから。そうレナータが青年に何かを訊きたげにしていると、先に彼が口を開いた。
「あの、えっと。さっきの誘いの後で申し訳ないんすけど。その、俺と近くのお店でお茶とかは……?」
もっと、この人とお話がしたい。ここで別れるのは惜しい。ハイチとっさにそのようなことを口走ってしまった。酔っ払いのナンパの後で嫌われたりしないだろうかと頭を掻いていると――。
「少しくらいならば、いいですよ」
承諾をもらった。それが嬉しくて、明るい表情を見せる。
「い、いいんですか!? あ、あの、さっきの後ですよ!? って、俺はあんなのじゃないんですけど!」
「ふふっ、大丈夫ですよ。だって、あなたは私を助けてくださいましたし」
柔らかな笑みを見せるこの人に自分が癒されているのがわかる。半年以上も張り詰めた状況下にいたのだから。少しでも、自分にとって幸福だと思えるような時間が欲しい。
「じゃあ、あっちの方の店にでも」
「ええ」
◆
白髪頭の青年が案内する喫茶店へとやってきたレナータ。落ち着いた雰囲気でゆったりとできそうだ。明日は重要な日なのに。そうだとしても、一度は心を落ち着かせるにはちょうどいいのかもしれない。切羽詰まっていても今日は何もできないのだから。
「美味しいですね、お茶」
「そうっスね! このケーキも美味しいっスよ!」
青年が勧めるケーキを一口食べてみた。本当だ、甘ったるくはない。美味しい甘さだ。
「本当ですね」
「ははっ、でしょ?」
「ところで、あなたはここら辺住まいなんですか?」
なんだか青年はこの町の中を知り尽くしているような気がした。町に慣れ親しんだような面持ちを持っているようだからである。
「いえ、ただの旅行っすよ。ここは初めて来ましたし。何より俺は工業の町出身なんで」
工業の町? 確か、その町は青の王国の東地域にある町だ。グリーングループ系列の工場があるところ。まさか王国出身だったなんて。レナータは驚いた。
「えっ、青の王国出身の方ですか?」
「えっ、俺たち、学校で会ってます、よね?」
更にレナータは驚きを隠せない。まさかあの人だったとは思わなかったから。顔や声は似ているけれども、随分と印象が変わっているではないか。
「いつも、お手伝いしてくださっている方ですよね?」
「ああ、俺のこと覚えてくれてよかった……」
自分のことを覚えてくれていて、嬉しいと素直に喜ぶ。だが、このようなところで再会するとはどちらも思いもよらなかったのだから。なんてハイチが思っていると――。
「ごめんなさい、以前とは違った感じだったので」
「えっと……。もしかして、髪っスか?」
「はい、前は黒かったですよね? 染められたんですか?」
「そうじゃ、ないんですけど……」
――あっ。
「あ、あの……」
ハイチはあることを思い出し、目の前にいる女性を見た。そして、訊きたかったことを訊ねようとするが、着信音がその場に鳴り響く。
「すみません、私です」
電話ではなく、メールのようである。連絡通信端末機を取り出し、画面を見た。このとき、ハイチはこの人が誰と連絡をしているのかとても気になった。ただの友人とかであって欲しい、そう願って。
「ごめんなさい」
端末機を仕舞い込み、ハイチにその人は頭を下げた。突然謝ってきてどうしたのだろうか。それが不安で仕方なかった。
「え」
「私、急用ができてしまいました。あっ、これお金です」
ケーキとお茶代を払おうとするものの、それはあの人に止められた。
「俺が払うからいいっスよ」
「でも――」
「付き合ってくれたお礼です」
にこっと珍しくも笑顔を見せるハイチ。本当はまだ一緒にいたかったのだが、急用であるならば仕方あるまい。しばらく首都周辺の町にいれば会えるだろう。そう思って。
「そうですか。それでは失礼致しました」
その人はもう一度頭を下げると、店を出て行ってしまった。一人残されたハイチは小さくため息をつきながら窓の外を見る。彼女が慌てた様子で人ごみへと紛れ込んでいくのが見えた。
「はぁ……」
再びため息を漏らす。まただ。
――また名前を訊きそびれてしまった……。
あの人とは初めて声をかけたときからずっと気になっていたことを言えなかった。訊けなかった。なぜか名前を訊くことがとても恥ずかしくて、言葉が詰まりそうになってしまって。ただ、名前を訊くだけなのに。いざ対面すれば――話せば、とても緊張する。自分は変なことを言っていないかとも思ってしまう。
【クラッシャー先輩って、図書館のお姉さんに恋をしていますよね?】
アイリの言うことは事実である。
あの人を初めて見たのは三回生のとき。新しく図書館員として入ったと同じ教室の者に聞いた。とても綺麗な人だった。その人と少しでも同じ場所にいたくて、自分に気付いてもらいたくて。好きでもない活字を少しばかり読むようになった。
初めて会話をしたときはさして興味もない軍事関係の資料の本を返却したときである。
【これ、面白いですよね】
【そっ、そうですね!】
向こうから声をかけてもらったんだった。本当は面白いとは思わなかったし、きちんと真面目に読んだわけもなかった。だが、話しかけてくれたから。それが嬉しかったから、あることないことを口走ってしまった。
「…………」
それからは頑張って話しかけたりもしたりしているが、未だ名前を訊くことすらできず。今まで恋愛体験が乏しかった自分を恨む。これほどまでに奥手だったとは思わなかった。誰かに訊くというのも、自分のポリシーが許さなかった。己の口で訊きたい。それがハイチの小さな思いである。
また会えるだろうと思っているのは、ただの小さな希望にすがっているだけ。本当はまた会えるとは限らないからだ。それにあの人自身も自分の名前を知らないだろう。
「……明日、また会えるかな?」
――もう一度、会いたい。そして、願わくばあの人の名前を訊きたい。
◆
マティルダから連絡を受けて、レナータは宿の方へと戻って来た。指定された部屋の方へとやって来ると、そこには彼女とケイにワイアットが到着を待ち侘びていた。
「ワイアット様、お久しぶりでございます」
「ああ、元気そうで何よりですし、ギリギリ間に合いましたね」
すでに首都にはキリたちとケイのグループが合流していた。最後にワイアットたちのグループがやって来たのだ。
「ヴェフェハルさんとハイネさんは町の方でしょうか?」
「いや、隣の部屋にいますよ。最終確認をしていると仰っていたので」
「これで、全員が揃ったんだ。明日の午後までにやるべきことを終わらせないとな」
そう言うケイは連絡通信端末機と王都の地図を取り出した。エレノアたちと立てた作戦を端末機の画面の文字越しで集めた三人に伝えていくのである。
◆
「ガズ君にザイツ君、元気にしてた?」
ケイたちが作戦を立てている部屋の隣ではガズトロキルス、セロ、ハイネ、ヴィンがいた。全員が揃ったことで誰もが安心した表情を浮かべているようである。
「もちろんです」
「ですね、妙なことに巻き込まれたりも色々しましたけど」
「へぇ、やっぱりみんなそうなんだ」
「いや、そうなんだ……って、ヴェフェハルさんたちもっスか!?」
どうも珍妙かつ、厄介な事件に誰もが巻き込まれていたらしい。そんな話で盛り上がっていると、ハイネは部屋を見渡して「そう言えば」と声を上げた。
「キリ君、町の方?」
ハイネはキリの所在が気になるらしい。それにガズトロキルスは頷く。
「落ち着かないらしいです」
「そっか」
安心と寂しさが同時に襲ってくる。ハイネにとって、キリは会いたいようで会いたくない人物なのだ。だが、会いたいという気持ちの方が若干大きい。それに結局、何も話せず仕舞いだった。
どこかそわそわとするハイネにヴィンは口を開いた。
「デベッガ君、大抵宿周辺をウロチョロしていますよ」
「えっ」
「会いたいんでしょ、彼に」
「そうだけど……」
会いたいと思っていても、何かの気持ちが引っかかっていた。いや、せっかく教えてもらったんだし、会いに行こう。ハイネは「行ってくる」と言い残して部屋を出て行ってしまった。
それにセロは小さく笑みを浮かべるのだった。
◆
何もかも落ち着かなかった。決行日は明日だとわかっている。だからこそ、あまりあやしい動きなどできないのに。
キリは外に出ないと、気持ちを落ち着かせることができなかった。今は宿屋の近くにある裏通りを歩いている。明日が黒の皇国の皇子の戴冠式と結婚式の公開式典だということで町中が大盛り上がりを見せていた。道中に展開する屋台。美味しそうなにおいが漂ってくるが、食欲はない。
【いいねぇ、楽しそう】
ふと、アイリの言葉がよみがえってきた。建国記念式典の後の祭りを楽しみにしていたはず。もし、ここに彼女と一緒にいて屋台を見て回れたならば、どんな感じだろうか。おそらく、食べ物に関してはかなり食いついてくるだろう。彼女は今どこにいるのだろうか。まだ学校にいるならば、四回生に進級しているか。前に持っていた自身の連絡通信端末機はない。アイリとは連絡が取れなくなってしまっている。連絡先も忘れてしまった。
そう言えば、ガンは連絡を取り合っているのだろうか。気になったキリは早速訊いてみようと端末機を取り出していると――。
――あれ?
すれ違いざま、視界の端で見覚えのある人物が通り過ぎて行ったような。思わず振り返った。くせ毛のある黒髪ショートカット、自身とさして変わらない身長の少女の後ろ姿――。
「ハルマチ?」
思わず、声をかけてしまった。その黒髪の少女は立ち止まって、こちらを見た。手には何かしら買い物でもしたのか袋が握られていた。
「えっ……?」
「は、ハルマチだよな?」
キリをその黒い目で見て――何を思ったのか。元々向かっていた方向へと走り出した。逃げ出す理由がわからない。彼は後を追いかけた。
何も言わずにただ、ひたすらキリから逃げるようにして走って行く。足が速い。段々と距離が離れていっている。だが、もし彼女がアイリであるならば――。
己の体力配分を考えないのがアイリである。それは幾度となく証明されている。それを覚えていた。キリが彼女を見失わないように追いかけてると、路地裏に入ったところで息を切らしていた。全力疾走でもしたのだろう。疲労が見えている。
「な、なんで逃げるんだよ」
「…………」
アイリはまた何も言わず逃げ出そうとするが、キリに腕を掴まれた。そこで足を立ち止まらせる。
「逃げないで」
「……その手、放して」
ようやく口を開いたかと思えば、突き放すような言葉をキリに突きつけた。こちらの方を向いてはくれない。
「嫌だ。ずっと、お前に会いたかったんだ」
「でも、あたしはきみに会いたくなかった」
強引にでも逃げ出そうという魂胆なのか、キリの手を振り解こうとしていた。ここでその手を放したくなかった。彼は強く握る。
「なんで――」
「今のきみはどうせ、腕なしを殺せやしない」
「殺せないって……」
だからと言って連絡も取れない、ようやく会った瞬間に逃げられたのは寂しいものだった。挙句の果てに「会いたくなかった」と言われるのはもっとつらかった。胸の奥が少しだけ絞めつけられる感覚に陥るようである。
もしかして――。
「俺から、所有権を奪ったり……」
「しない。きみから所有権を奪う気はない。だから、放して」
「嫌だ。放したら、またハルマチと会えなくなってしまうかもしれない」
「あたしがいなくても、きみにはハイネ先輩がいるじゃん」
――どうせ、互いが好きなくせに……。
キリとハイネの楽しそうな笑顔がフラッシュバックする。思い出すだけでも、とても腹が立ってしまって仕方がなかった。どの道、自分に会いたかった。なんて言うのは過去の歯車があるからこその話。それがなければ、こちらの方なんて見ないのに。
――デベッガ君はハイネ先輩を選んだ。それは事実……。
「なんでハイネさんが出てくるの?」
キリのその一言にアイリは顔だけを向けてきた。怪訝そうな面持ちでこちらを見てくる。
「……あの人のこと、好きなんでしょ? どうせ。だから、今のきみはあいつを殺せないって言ってんの」
「…………」
「正直、デベッガ君が何も知らなくてあいつを殺せるだろうって、軽く見てた。ハイネ先輩の記憶を失くしたって聞いたときは超絶ラッキーって思った。このまま、上手くいけば、あたしは死ねるだろうって確信があった」
それだから、答えがないようなヒントをあげたのに。
【深く考えちゃダメ】
【ヒントは自分が何を言って、相手がどう言ったか】
デタラメに教えただけなのに。しかし、キリはそれを自分の物にして、再びハイネを好きになった。それがアイリ自身の心に負の感情を蔓延させた。もう頼みの綱は彼しかいないのに。
「……確かに俺はハイネさんのこと、好きだよ」
「だったら、なおさら放して。あたしは当たり障りないこの現状がいいの」
「でも、ハルマチは俺のこと好きって……」
【好きなんだ!】
深夜での校舎内徘徊。屋上でのアイリの叫び。
「それは一時の感情に過ぎないから」
煩わしそうにキリが掴んでいる手を見た。
「きみの言う通り、あたしはデベッガ君を異性として好きだとは思ってる。でも、それは以前の話でしょ? 今の話じゃない。あたし言ったよね。人の気持ちなんて本人しか知る由もないって」
ピクリとキリの片眉の端が動いた。
「じゃあ、本当は俺のこと『嫌い』なのか?」
「うん、『嫌い』。『大っ嫌い』。だから、会いたくなかった。その幸せそぉな、顔も見たくもなかった。できることなら、一生会いたくない。でも、あたしは死にたいから仕方なぁく、今は顔を合わせただけ」
アイリの腕を握る力が更に強まる。痛い、と伝えたところで放すわけがないとわかっていたが、口を開いた。
「その手、早く放してくれない? 男が髪の毛伸ばして気持ち悪いんだよ」
「――だったら殺してやろうか!? 死にたいなら、今ここで!!」
この場は路地裏だとしても、人の気配はある。少し離れたところにいる町の人は二人の方を見てきた。不穏な空気。今にもこの少年は少女を殺しにかかるような目付きで見ている。だが、アイリは殺せるものなら殺してみろとでも言うように、余裕があるようにも見えるが――内心は怯えていた。
「……てめぇが腕なしを殺せ、止めを刺せ、しくじるな、逃がすな。俺は仕方なぁくお前のわがままを聞いてきたんだよっ!!」
我慢の限界か、アイリの頬を殴った。その場で鈍い音が聞こえる。その場を見る者たちは辺りを見渡して見回り軍を探し出しているようだ。それでもキリは周りを気にすることなく、罵声を続けた。
「ろくに情報を与えないお前のわがままをよぉ! 挙句の果てには、自分は死にたいだぁ!? 少しは本心を知らずとも他人の気持ちを知ろうとする努力ぐらいしてみろ!!」
積年の不服、不満、ストレスの捌け口か。それでもなお、アイリは抵抗を見せずして、じっと黒い目で見続けてくる。それがキリにとって、一番の不愉快だった。このクソ女を殴りたい、殺してやりたい。そんな思いがその場にもたらしていった。
誰かが町中で見回りをする皇国軍人を呼び込んでくる前に、もう一度アイリの顔面を殴ろうとする。だが、その右手を止める者がいた。それは両手で止められ、片腕には緑色の石のブレスレット。これの持ち主は――。
「何をしているの?」
眉根をひそめて、不審そうにキリを見るハイネだった。彼女を見て握りしめていた拳を緩め、強く握っていたアイリの腕を解放した。
「ハイネ、さん?」
いつの間に首都へと来たのだろうか。明日は作戦を実行する日。ああ、もうこっちに着いてなければいけない状況でもあるか。
――俺、何を……?
どうして、アイリを殴ったのだろうか。どうして、ハイネに止められるまで殴ろうとしたのか。自身に眠る感情的憤怒。それらすべてを好きな子にぶつけてしまっていた。冷静になって、自分はなんてことをしてしまったのだろうかという罪悪感に苛まされる。アイリは腫れ上がった顔をして視線を逸らさずに、未だこちらを見続けていた。
「キリ君、怖いよ?」
――怖い? 俺が? 俺が――。
拳を下ろし、呆然とハイネの方を見つめた。だが、彼女はアイリの方へと近付くと、手当てするから宿屋の方へ行こうと促す。
「大丈夫です」
アイリは首を横に振り、一人その場を立ち去る。それと同時にキリは地面に座り込んだ。ああ、自分は最低だとでも悲劇のヒーローぶってでもいるのか、頭を抱える。それでもそんな彼にハイネは手を差し伸べてあげた。
「ここじゃなくて、別の場所でお話しようか」
「…………」
ハイネのその優しさがつらいと感じていた。
◆
首都内を流れる川のほとりに座り込み、二人は水の流れを眺めていた。それを見てキリは先ほどの言行が、この川の水と共に流れていかないだろうかと思っていた。事実はそういかないと思っていても、だ。ややあって、ハイネが口を開いた。
「皇国内で天気がいいの、珍しいね」
「…………」
ハイネは何かしら話題を作ろうと声をかけてきているが、キリは言葉が思い浮かばず小さく頷くだけだった。会話が続かない。
「……ねえ、キリ君がずっとつらいって思っていること、よかったら私に話して」
その言葉にハイネを見た。彼女は優しく微笑んでいる。それがキリにとって嬉しく、懐かしい感覚に囚われた。
「つ、つらいことって言っても――」
「スッキリするかも」
話せるわけがない、つらいことだなんて。アイリとのあの会話は腕なしを――ハイチを殺すことなのだから。自分たちが以前より彼を殺害するという計画を知られたならば、ハイネは自分のもとを去ってしまうに違いないから。
味方がいなくなる。それがキリにとって嫌なことだった。だから、言わない。なんでもありませんと答えた。
「じゃあ、私が思っていること、愚痴ってもいいかな?」
どうせ、ハイチのことだろうとキリが思いつつも「どうぞ」と言った。何、愚痴だけだ。関心持って聞くことではない。そう思っていると――。
「キリ君って、本当は私よりアイリちゃんのことが好きだよね」
その言葉に硬直する。
「だから、アイリちゃんがとても羨ましいと思って。私の方がキリ君のこと好きなはずなのに、って」
「ハイネさん……?」
二人で川のほとりに座っていると言っても、周りには多少の人が行き交っている。もちろん、その話も聞かれているだろう。微笑ましそうに笑われている気がしてたまらない。それでもハイネは話を続けた。
「私の気持ちよりアイリちゃんを大事にしちゃって。あーあ、アイリちゃんが羨ましいなぁ」
ハイネはキリの方を見てきた。
「それにアイリちゃんも、本当はキリ君のことが好きでずっと会いたがっていた。互いのことが好きなはずなのに何をどこで間違ってけんかしてんのか」
「……話、聞いていたんですか?」
「うん。キリ君がアイリちゃんを追いかけていたときから」
「じゃあ、ハイチさんのことも……」
「うん、聞いちゃった。ただ、アイリちゃんがハイチをどうして恨んでいるのかは知らないけど」
それはキリも知らない。教えてもらえないから。しかし、あの状況を作った自分からすれば、もう教えてもらえないだろう。何の理由もなくハイチを殺さなければならないのだから。
「多分ね、二人とも……もちろんハイチもだけど、『本当の本音』をさらけ出すことは苦手なんじゃないのかな? さっきのを見てそう思った」
「本当の、本音?」
「アイリちゃんが言っていたじゃない、人の本心は本人しか知らないって。確かにその通りだと思ったし、キリ君が言っていた人の気持ちを知ろうとするべきだって言うこともそうだと思ったの」
「…………」
「いいんだよ。『本当の本音』を誰かにぶつけても。それでつらいこととか誰かに知ってもらえたら、嬉しいよね。慰めてくれたら嬉しいもんね」
穏やかな時間が過ぎていっている感覚に捉われる。自然とキリは誰かに泣きつきたくなってきた。悲しいこと、つらいこと、寂しいこと。胸の奥からどんどんあふれ出てくる。
「もっとも、あなたたちに足りないのは『人の話を聞くこと』。暴力で解決しようとしちゃダメ。キリ君はアイリちゃんが言っていたことを。アイリちゃんはキリ君が言っていたことを。そうすれば、お互いがお互いを知れるはず」
ハイネはそう言うと、ゆっくり立ち上がりつつ、空を見上げてこちらを見た。いつもしていた彼女の笑顔を見せてくれている。
「本当は私が言うべきじゃないんだけど。キリ君は私を好きになるより、アイリちゃんを好きだろうし、そうであるべきじゃないかな?」
アイリを追いかけろ、とハイネは促してきた。唐突にそう言われたキリは慌てふためきながらも彼女の言う通りに町中を駆ける羽目になるのだった。そして、彼を送り出したハイネは若干哀しそうな表情を見せながらも安心した様子でいた。
――そう、これでいい。これでいいはず。
ハイネは薄々感付いていた。二人のことに。彼らが互いをどう思っているのかも。だからこそ、マッドにキスをされたとき、大嫌いだと言われたときがとても悲しかった。キリがアイリを好きだと知っていたから。気付いていたから。それだから余計に、いつまでも根に持つようにして遺恨があった。けれども、自分の気持ちを知ろうと奮闘してくれた彼を更に好きになってしまった。キリなりの不器用さはあったが、その思いだけで十分に嬉しかった。自身の思いを知ってもらった後に話をしたが、やはり彼はキリ。自分を好きだと理解していても手を取りたいのは自分ではなく、アイリ。それが恥ずかしいのかなんなのかは定かではないが、不器用者同士が変な運命に翻弄されても、思っていたことは一緒なのだ。
別に誰かを好きになるのはおかしな話ではないのに。
「……そこにいるんでしょ」
誰もいないはずの物陰の方にハイネは声をかけた。すると、そこから申し訳なさそうにしてワイアットが出てくる。
「気付いていらしたんですか?」
「ワイアット君の気配には慣れ過ぎて、感付きやすくなっているみたい。これも毎日着け回していたおかげよね」
「盗み聞きをする気はなかったんですが」
「ていうことは、全部話を聞いてたね。ちょうどよかった、どこかお店に入って私の愚痴を聞いてくれないかな」
そう言うハイネは適当な建物を指差すと、半ば強引にワイアットの手を取って行こうとした。
「え」
「これまでに積もり積もった愚痴を」
どこか涙目のハイネ。だが、晴れやかな表情であった。
◆
アイリを捜しに行けと言われても、どこへ行ったのかすらわからない。賑やかな人ごみの中をしきりに見渡した。彼女が走り去って行った先は自分たちが止まっている宿屋とは正反対方向。そちらの方向は城門前広場だ。実際に行ってみると、いない。見当らない。キリは肩で息をしている。どこにいるのかわからなければ、行き当たりばったりでも奔走するしかなかった。
自分自身に問いかけた。
――本当に俺はハルマチのことが好きなのか?
そう問い質しても答えは返ってこない。ハイネの言う通り、己の本心を知らないような物だから。知ろうとしていなかったから。それだから、考えなくてはならない。アイリを捜し出し、会って何を伝えるのか。
――わからない。
考えようとすれば、するほど頭が真っ白になる。ただ、闇雲に町中を走っているだけ。勝手に足が動く。人々にぶつからないようにして走り抜ける。
「本当っ……!」
息をするのがつらい。奥歯を噛みしめているから歯が浮いている感覚があった。
「俺って、本当ダメ!」
◆
殴られた。痛む頬を擦るアイリはとっさに逃げ込んできたキイ教の礼拝堂にいた。そこでは熱心なキイ教信者たちがお祈りをしている様子。床、壁、天井に至る所まで細かく描かれた宗教画らしき絵。天井の中心には豪勢なシャンデリアが部屋を明るく照らしている。壁に備えつけられている燭台にも灯りは点されていた。
キイ教信者ではないアイリですらも、寛容にこの居場所を提供してくれていた。
「こちら、よろしかったら。大丈夫ですか?」
頬の腫れを見て、見かねた礼拝堂の管理人がそう氷が入った袋を渡してきた。それを受け取ると、小さく頭を下げる。
「大丈夫です。すみません」
今までのキイ教信者は絶対的悪だと思っていたのだが、管理人や古跡の村の人々。本来の彼らは自分に手を差し伸べてくれた。
「落ち着くまで、こちらにいらしても構いませんからね」
「ありがとうございます」
反政府軍団やハインたちの言行のせいで、そんなイメージがついてしまっていたようだ。本当に人は見かけによらないんだなと思った。
しばらくアイリが建物内と窓の外をころころと見ていると、外の方で走るキリを見つけた。すぐにこちらにいないように見せかけるために身を隠す。自分を捜しにきて、また殴るつもりなのだろうか。そう考えるだけでも恐ろしく感じた。
【だったら殺してやろうか!?】
キリのあのときの目が怖かった。虚勢を張ってはいたが、あの薄い青色で憎悪感あふれる目――。
思い出してみれば、みるほど鮮明に思い出していく。もう二度と会いたくなどない。思わず体が震え始めてきた。氷の入った袋が冷たいという感覚がなくなっていく。
――見つかりませんように、見つかりませんように、見つかりませんように、見つかりませんように、見つかりませんように――。
「本当に大丈夫ですか? 奥で休みますか?」
あまりの怯えように、不審に思った管理人はアイリにそう促してきた。
ああ、それがいいと、頷いた。管理人に支えられるようにして、礼拝堂の建物の奥の方へと歩いていると――。
「ハルマチ……!」
礼拝堂の方に来て欲しくない人物が目の前に現れた。キリは息を切らしてこちらを見ていた。とっさに彼女は管理人の後ろへと逃げ込む。それを守るようにして「どなたですか」と彼を怪訝そうに見た。
「あなたは彼女のなんでしょうか?」
「……話をしたい、です」
そうキリが言うと、アイリは嫌だと言わんばかりに首を横に振る。それを見て管理人は彼の方を見た。
「ハルマチ、俺の話を聞いて欲しい」
「嫌だ」
また殴られると考えているのか。管理人の服を握りしめる。余程、怖いのだろう。
「失礼ですが、あなたですか? 彼女の頬に傷をつけたのは」
「……はい」
「申し訳ありませんが、お話するのであるならば、私も交えてお話していただけますか? 口出しは致しませんので」
アイリの怯えようは二人きりにするのは危険だと思った管理人はキリにそう交渉してきた。
これには少しばかり迷った。この話、第三者を交えてもいいのか、と。話す内容はキイ教信者過激派も狙う過去の歯車に関することなのだから。しかし、管理人も交えないと、話し合いできそうにないこの状況。
「…………」
そのことにキリがためらいを見せていると――。
「それならば。いかなる話だろうが、それを目撃しようが、口外しないことを私はキイ様に、あなたに誓いましょう」
キイ教教典を取り出し、キリに誠意を見せた。もうこれに従うしかないのだ。
「……わかりました」
管理人の言うことはわかる。キリはアイリを殴り、恐怖感を与えてしまったのだ。二人きりで話すなんて、今の状況を見ればわかることなのだから。それだからこそ、彼の言葉を信じるしかなかった。
◆
礼拝堂を閉め、貸しきり状態にしてもらい、中には三人だけとなる。祈りの壁画を前に彼らが互いに顔を見合わせることができるようにして座った。アイリはキリがまだ怖いのか、管理人の傍を離れようとしない。
「私はこれより、何も言いません。どうぞ、あなた方でお話し合ってください」
「…………」
「…………」
沈黙がその場に漂う。辺りには独特の芳香が混ざる。何を言えばいいのか。なんと声をかけたならばいいのか。完全にアイリは自分のことを恐れているようにしか見えない。管理人の方を見た。彼は優しい目でこちらを見ているようである。キリ自身が口を開くのを待っているように思えた。
【いかなる話だろうが、それを目撃しようが、口外しないことを私はキイ様に、あなたに誓いましょう】
管理人はそう言っていた。ならば――。
首に提げていた過去の歯車を取った。錆びた歯車が鈍く光っている。それを見た管理人は若干驚いた様子であったが、すぐに平然さを取り戻す。
「すみません、これをハルマチに渡してもらってもいいですか?」
「……わかりました」
過去の歯車を受け取ると、アイリへと差し出すが、彼女は受けたがらない。困り果てたようにキリの方を見てきた。
「それはハルマチに返すんじゃない。今だけ持っていて欲しい。この話し合いのときだけでいいから」
もう一度、管理人がアイリの方に差し出す。彼女は手を震わせながらも受け取った。ザラザラとした表面が手の平に伝わってくる。久しぶりに触ったその感覚に見惚れていると――。
キリの方から物音が聞こえた。慌てたように管理人は彼の方へと。突然座っていた椅子から崩れるようにして床に倒れ込んでいたのだ。とても苦しそうに、もがき苦しみながらその場でのた打ち回る。
「ど、どうされましたか!?」
この状況、アイリは知っていた。そう、キリは所有権を放棄したのだ。所有権を得て一年も経つはずなのに。以前に放棄したときよりも痛感は倍以上に蓄積されているはずなのに。
――なんで!? 今すぐに所有権を得ないと、ショックで死んじゃう!
「何もしなくて……いい」
必死に激痛を耐えながらもそう言うキリ。痛みに床上で悶絶し、爪が割れて血が出るほど掻き立てていた。頭が、腕が、足が、腹が、胸がとにかく全身が叩きつけられるような、引き裂かれるような、抉り出されるような痛みが襲いかかっている。
それでも、キリにとってこれでよかった。こうでもしないと、アイリの痛みと苦しみがわからない気がしたから。
「で、でも……」
「いいから。このまま、話し合おう……」
もはや、気力だけでいる存在。話し合えるような体勢として椅子にしがみつく。それを管理人が支えるに入った。
「……俺ら、お互いに何も知らねぇんだ。いや、知ろうともしなかった……」
「…………」
「あのとき、泣いていたハルマチの心も……俺が、ハルマチを思う気持ちも……」
段々と視線の焦点が合わなくなってきているのに気付く。思わずアイリは立ち上がった。もう、見ていられない。そう思った彼女は過去の歯車の所有権をキリに再度受け渡した。途端にその歯車より淡い光が漏れ出し、彼の身にまとう。
再び所有権を得たキリは痛みが引いてきて、随分とマシになったとでも言うような顔を見せた。
「……そんなことしたら、きみが死んじゃう」
「でも、そうしないと、ハルマチの気持ちが理解できないと思ったから」
アイリは首を横に振った。
「そんな、わからなくてもいいよ! そんなの、どうでもいい!」
――デベッガ君が死ぬなんて……!
過去の歯車を握る手を強めた。
「あたしは、きみがいなければ――」
その場にアイリは膝を着いた。
キリが死ぬのが怖かった。本当に死んでしまうのではないかとまで思ってしまった。再び、体を震わせる。これは怯え? いいや、違う。
「……殴ってごめん」
キリの方を見た。彼はアイリに向かって頭を下げている。
「殺してやるとか、傷付くようなこと言って、本当にごめん」
下げていた頭を上げた。
「俺はハイネさんが好きだけど……。でも、ハルマチの方が一番好きなんだ。ハイネさんよりもずっと」
心で訊いてみてもわからなかったから、成りゆきで訊いてみた。そうすれば、自分が誰を好きなのかがわかるかもしれない、と。それでわかったこと。理解したこと。
「この半年間、誰よりも会いたかった。ようやく会えて、嫌いって言われて、とても悲しかった。悔しかった。好きな人から嫌いって言われるのは、とてつもなくつらかった」
「…………」
「ハルマチはよくわがままを言っているから、たまには俺のわがままも聞いて欲しいな」
途端、アイリは目に涙を浮かべた。
「俺はハルマチの心の痛みと苦しみを分かち合いたい」
アイリ抱きつくいてきた。キリはしかと彼女を抱きしめる。殴った頬を優しくなでた。その腫れ上がった顔を見て、いかに自分がどれほどまでアイリを傷付けてきたのかわかった気がした。
「痛かったよな? つらかったよな? 苦しかったよな? 何もかも、俺が自分の本心から逃げようとしていて……」
今まで何も言わなかった。アイリが好きだと言ってくれたときも。何の返事もなく。最低だ。ずっと彼女は待ち続けていたんだ。己の本心にある答えを。なぜ、今まで言おうとしなかったのか。
――誰かに嫌われたくなかったから。
だが、そちらの方が嫌われてしまうことを今知った。それだからこそ――。
――俺は応えなくてはいけない。アイリもハイネさんにも……ライアンも。
今、ここで言おう。素直な本音を。今、ここで伝えよう。直接的な答えを。
「……お前が、ずっと俺のことを想ってくれるなら……」
一気にアイリの目の奥から涙があふれ出てくる。そのこぼれ落ちた物はキリの服に伝う。その涙の温かさに触れて、彼も目の奥が熱くなってきたことに気付いた。
「――俺は、アイリとずっと一緒にいたい」
キリのその言葉にアイリは大声を上げて泣いた。
「あたしも……ごめんなさいっ……! 自分のことばかりしか考えていなくて……!」
キリは優しくアイリの背中を擦った。
「ずっと、ずっと……きみはあたしのためにしてくれていたっ……! やろうとしてくれていたっ……!」
「うん」
「なのにっ、なのに……! ごめんなさいっ……! ごめんなさいっ……!!」
「うん、うん……」
二人を優しく見守るようにして、祈りの壁画に描かれているキイ神がそこにあった。
◆
礼拝堂の管理人にキリとアイリはお礼を言い、その場を後にした。彼らの目は赤く腫れ上がっている。
二人は広場前にやって来ると、アイリは寂しそうに「それじゃあ」と言う。その言葉に反応するかのようにしてキリは声を上げる。寂しそうな表情。それでも、彼女は彼と一緒にいることは難しいだろう。
「あたしはここで」
「そうなんだ」
人ごみの最中、彼らは互いの手を取り合っていた。どちらも温かいその手を離したくない気持ちがあるも――。
「もう戻ってこないの? あっちに」
キリがなぜこの国にいるかの問いはしない。どちらにせよ、自分たちの状況を教えるべきじゃないし、聞かない方がいいと思っていたから。
「うん。でも、また会えるから。きみがあたしのことを『覚えて』くれていたなら」
二人の手が離れていく。別れ惜しそうに、今にも泣きそうな顔。キリの手元にはアイリから返してもらった錆びた過去の歯車が残っていた。
◆
忙しそうに明日の公開式典に備えて準備に取りかかっている大臣。何も彼だけではない。城内にいる者総動員での準備だ。とても大がかりになっており、こればかりは夜通ししていても翌朝に間に合うかどうかという状況である。
そんな最中にハインは大臣を呼び出した。場所は地下牢獄。そこにはメアリーが不安げに二人を見ていた。一体自分に何をする気なのだろうか、と。
「いかがなされましたか?」
大臣の問いかけにハインは懐刀を抜き、彼の首筋に当てた。冷たい感覚が首から全身に伝わる。
「お、皇子?」
「最近、青の王国の連中が国中に存在しているらしい」
「た、確かに王国の方の入国には制限がありますが。観光に来られているのでは? それに王国だけでなく、他の国々の方もいらっしゃるはずですよ?」
「いいや、違うだろう? 内部の誰かが向こうにリークをした。それ以外何が考えらえる?」
ゾリッと小さな削れるような音が聞こえた。僅かながらに首が痛い。刃で切られたか。
「他人の心情は強ければ強いほど、隠しきれないものだぞ」
そのとき、メアリーの前の牢屋の扉をいつもの監視員ではない者が開けた。そこに大臣強引に入れ込まれてしまうと、扉と鍵をかけられてしまう。
「貴様、誰かに式典のことを話したか?」
「そ、そのようなことは滅相もございません!」
「では、なぜ煩わしい外国人どもがこの国にいる? この不注意は貴様の責任にあるぞ」
これ以上、大臣と話す気にはなれないのか、ハインはメアリーを仮面越しに舐めるような視線を送りつける。そして、その場を後にしてしまった。そこに残されたのはメアリーと大臣だけ。彼女は心配をしているようである。
「大臣、大丈夫ですか?」
「ええ。少し、首を切られたようです。それ以外、なんともございません」
おかしい、と大臣は思った。誰にも――ほとんどの黒の皇国の者たちにも式典について一切口を割っていないのに。誰にも迷惑をかけたくない、リークを恐れてハイン皇子暗殺計画は自ら行おうとしていたのに。
――一体誰が……?
その答えは見つかることもなく、時間は過ぎていき――ついに黒の皇国戴冠式及び、結婚式公開式典当日を迎えようとしていた。




