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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第三章 罪人たちによる奪還戦
50/96

復讐

 赤く染まる空と海。それが目に映る時間はすぐに終わってしまいそうだ。故に儚いと思う。だが、その儚さが美しい。ずっとその儚さを隣で見ていたい気分だった。


 ハイネは黒の皇国の南部に位置する黄昏の港町にある海浜公園にいた。海へと続く階段に座り、沈みゆく日の光を眺めている。遠くから出航の合図の汽笛が聞こえる。公園内にいる子どもたちの楽しそうな笑い声が聞こえてくるが、もうじき聞こえなくなるだろう。ほら、もうすぐ暗くなるよ。お母さんたちが心配しているよ。それでもなお、子どもたちは笑っている。微笑ましいと思っていると――。


「ハイネさん」


 ワイアットが階段上から呼びかけてくる。それに応えるようにして振り返った。彼は手を振っている。


「ヴェフェハルさんが時間だと仰っていますよ」


「うん」


 その場から立ち上がり、階段を上っていく。ワイアットは自分を待っていてくれた。それが素直に嬉しかった。不思議と彼とキリの笑顔が重なる。二人とも似ていないのに。思わず肩で笑ってしまった。


「えっ? な、何かおかしかったでしょうか?」


「ううん、なんでもないよ。待っていてくれてありがとう」


――どうして彼は私を好きになってくれたのだろう?


     ◆


 公園内のベンチに座り、連絡通信端末機を弄るセロのもとへと二人はやって来た。


「ごめんね、セロ」


「いや、構わないけど、今日は車の中での寝泊りになるだろうよ。ここら辺の宿屋全部調べたらほとんど空き部屋がないんだってさ」


「ほとんど? 少しは空き部屋があるんですよね?」


「その空き部屋が高級宿だが?」


「仕方ないですね。今日は車ですか。船でゆっくり休みましたからね。たまには硬い座席ベッドでも文句はありませんよ」


 その話を聞かなかったことにするワイアット。


「いずれにせよ、皇国には着けたんだ。後は指定された町へ行けばいいだけ」


 夕食と朝食を買ってから行こうと、セロは二人に促した。近くにあるディスカウントストアへと向かうのだ。ハイネがそこでいいでしょ、とは言っているものの、彼らはあまりいい顔をしていない。いや、そんな顔をするのは何も彼らだけではなかった。彼女も同様だ。だが、安さを求めないと。値引きされた物を手に取らないと。お金はないのだから。


 そりゃ、ため息をつきたくもなるな。そう思っていたハイネが公園の入り口で誰かとぶつかってしまう。その反動で、尻餅をついてしまった。


「大丈夫ですか?」


 すぐにワイアットが声をかけてきた。すっと手を差し伸べてくる。


「うん、平気」


 その手を取り、立ち上がったハイネはぶつかった相手に頭を下げる。


「すみませんでした。きちんと前を見ていなかったもので」


 三人はぶつかった相手を見た。茶色いスーツを着た中年男性だろうか。見た感じ、紳士と言うような人物である。


「いえ、こちらこそ大変申し訳ありませんでした。お怪我はありませんでしょうか?」


「ええ、怪我はありませんよ」


「ははっ。よかった、よかった。ならば、そのお詫びとして私の家へとご招待致しましょう」


 男性のその言葉が不審に思う。突然何を言い出すのか。なぜにぶつかっただけで見知らぬ者の家に行かなくてはならないのか。もちろん、ハイネは丁重に断りを入れた。


「いえ、お気持ちは嬉しいのですが……」


 そう言うハイネの言葉に同意するようにしてセロとワイアットが小さく頷いた。


「おや、よろしいんですか?」


「はい、大丈夫です」


「先ほどの会話が聞こえてきましたが、車で寝泊まりされるんですよね? それは危険ですよ?」


「危険? 何が危険なんだ?」


 セロが問い質してくる。それよりもいつから、どこからその話を聞いていた? 男は公園の入り口から、後から入って来たはずなのだぞ。


「町周辺の治安ですよ。最近、悪質な車上荒らしが多くてですね。危ないですよ」


 この情報に一人だけ大きく反応を見せる者がいた。ワイアットだ。彼は「ああっ!」と声を荒げる。


「ハイネさんに着てもらう(予定の)はずのドレスが危ない!!」


 なんてワイアットはそれだけのために、一足先に車の方へと行ってしまった。それに何もツッコミの言葉が浮かんでこない二人は顔を見合わせるしかない。


「どうしよう?」


 困った顔を見せるハイネ。セロは悩む。紳士的な男性を瞥見する。優しそうな濃い茶色の目がこちらを見てきている? あれは優しいと言えるか?


 不審を取るか、安全を取るか。合流前に一悶着になど合いたくもないし、武器も取られたくない。


「……一晩だけ、お世話になろうか」


 正直会ったばかりのこの男性の家に行くには抵抗があるが、彼の言うことも嘘であるとは限らない。茶色いスーツの男性に頭を下げた。セロは安全を優先としたのだった。


「申し訳ありませんが、俺たちを一晩だけ泊めてください」


「もちろんですよ」


 男性は二人に対して優しく微笑むのだった。


     ◆


 先に家に行って待っているから、と男性はセロに地図を渡して行ってしまった。


 現在、車内に三人はいた。ワイアットはハイネに着用してもらう(予定の)はずのドレスが無事であることを再確認して広げていた。それを鬱陶しいな、とセロは思う。


「お前、それ仕舞えよ。バックミラー越しにキラキラ光って邪魔だよ」


「ええ、仕舞いますとも! 盗られてしまったら元も子もありませんからねっ! でも、もう少し妄想タイムをさせてください。今、いいところなんですよ」


 一人勝手に妄想に更けるワイアット。ただそれを見て苦笑いをするハイネ。もはや、呆れるしかない。


「つーか、ハイネってダンスとか踊れなかっただろ」


「うん、苦手」


「それ、あいつは知っているのか?」


「前にね。普通に納得してくれたよ」


「だから、妄想で補っているんだな」


 そう呟きながら運転し続けて十数分したところに地図で示されていた男性の家へと到着した。車のライトが頑張ってその家を照らしているのだが、逆にこちらが照らされるほどの眩しい電気が光っているではないか。


「…………」


 少し離れたところからでもわかるあの男性の家。その大きさにただ圧倒されるばかり。


「お屋敷?」


「だな」


「おっ、あの人の家はここですか」


 セロとハイネは驚愕しているが、ワイアットにはそういうことは一切なかった。いや、彼自身は元々が王都の貴族であるために、こんな大きな屋敷を見てもなんとも思わないだろう。


「結構な金持ちの家か? 資産家?」


「確か、黒の皇国って身分制度がなかったはずだからね。だろうね。どっかの社長さんとか」


 いくら敷地内が広い屋敷だとしても、どこに駐車したらいいのか戸惑う。そうしていると、こちらの方に執事らしき壮年男性がやって来た。


「お待ちしておりましたよ。お車はあちらの方に停められてください」


 執事の指示通りにセロは車を停め、車外へ出ようとするが二人だけはためらってしまう。こんなラフな格好で家の中に入ってもいいものか。こういうところって、ドレスコードとかあるんじゃないの?


 だが、ワイアットは何も臆せずして「行かないんですか?」と訊いてくる。彼だって普通に安物のシャツを着た少年なのに。これが貴族と平民の違いとやらか。


 案内されながらも屋敷の中へと踏み入ると、あの茶色いスーツの男性が出迎えてくれた。


「いやいや、来てくれてありがとうございます。おっと、自己紹介がまだだったね。私はギブレッジ・ヴァレインタシュインです。気軽に名前で呼んでいただけると嬉しいですね」


「あっ、私たちはハイネ、セロ、ワイアットです。今晩はよろしくお願い致します」


 三人は男性――ギブレッジにあいさつをした。だが、本名はさらけ出せない。まだハイネとセロはいいが、ワイアットだけは特にである。フォスレターなんて姓は皇国でも知れ渡っているに違いないから。だからこそのカモフラージュであった。


「ははっ、三人はお友達なんですか?」


「はい。そうです」


「友達と旅行っていうのもいいなぁ。もうすぐ夕食ができるんですが、そのときに旅のお話を聞かせてくれませんか?」


「構いませんよ」


 それまではゲストルームで寛いでいてもらっても構わない。そうギブレッジに言われ、三人は彼らがいるだけでもただ広い場所にあるソファに腰をかけながら夕食の時間を待った。


「落ち着かないな……」


「うん、そわそわしちゃう」


 寛いでいてくれと言われても、ここまで待遇の良い場所にいたことのないセロとハイネは落ち着きがない。一方で慣れのあるワイアットはソファに身を沈めるようにしてリラックスしていた。それが素直に羨ましいな、と二人は思う。


「どうされましたか、二人とも」


 そわそわするセロたちに首を傾げてきた。


「どうって。お前、他人の家なのに。よくそんな楽にしていられるな」


「そうですかね? 僕としては普通ですが」


 だからと言って、ここまで他人の家で寛ぎようを見せてくるとは。いや、違う。ワイアットの場合は普通ではなくて懐かしさを感じているんだ、きっと。


「ワイアット君の家ってさ、こういう感じ?」


「そうですね。雰囲気的には。でも、基本的王城に住んでいるのであんまり覚えていないですね?」


「店内がリビング代わりの俺の家は?」


 これだから金のあるやつは、と歯噛みするセロ。いや、妬ましいとはでは思わなくとも、普通に羨ましいと思う。実家のリビングが酒場の店内のセロであるが、こればかりはしょうがない。家にあるテレビは店の方にしか設置していないのだから。幼い頃はそこで酒のにおいがする大人たちに囲まれてご飯を食べながら視聴していた記憶があった。


 どこか遠い目をするセロに対し、ハイネは「ウチはテレビすらもないよ」と言い張る。


「子どもたちがリモコンの取り合いでけんかになるからって先生が買ってくれなかったよ」


「……すまん」


「やっぱりあれだね。学校の寮が恋しいってことだよね」


 学校の寮部屋にはベッドにソファ、椅子テーブルにテレビまでついているし、なんならば簡易冷蔵庫も。シャワールームもあるのだ。部屋は一人部屋から二人部屋までと選べる上、フリーランドリーもある。おまけに寮の食堂も毎食お金が要らない。ああ、学校に戻りたい。


「だなぁ。学校が贅沢過ぎたっていうところか」


「えっ? 質素でしたよね?」


 ワイアットのその発言にセロが頭に手刀を落としてきた。それに変な声を出す。


「な、何をするんですか!?」


「悪いな。お前には一生庶民の気持ちなどわからねぇだろうよ」


「わ、わかりますよ! 失礼な」


 セロの物言いに腹が立ったのか、ワイアットは口を尖らせながらその場を立った。


「た、たとえば、庶民が行く食堂や屋台の店の値段は安いとか! 木材で作られたアクセサリーは安いとか!」


「当たり前だ。つーか、それ安い物しか言っていねぇよ。他にもあるだろ庶民で流行中の物とか」


「でも安いんでしょ?」


「……否定できないのがつらいところ」


     ◆


「夕飯までご馳走になって、ありがとうございます」


 三人は遠慮がちながらも、ギブレッジに夕食をいただいていた。ここまで待遇よくしてくれるとは思わなかったのだ。なんせ、ただの料理なのに高級品あふれる煌びやかさが際立っているのだから。


「……なんだか、食べにくいなぁ」


 ハイネが表情を引きつらせながら呟く。そんな彼女をよそにセロまでも遠慮的な表情を見せて、何かしら一人呟いていた。


( ……このキラキラは油。そう、油だ。キラキラじゃない。本当はギットギトに見えるんだ。何かの奇術にかかってんだ…… )


( あんた何、変なことをブツブツ言ってんの )


 向かい側で食べるギブレッジに、聞かれないようにしてハイネはセロを止めさせるべく、小声で言った。これに彼は大きく否定する。


( 別に変なことじゃねぇよ。これはきちんとした自己暗示だ。ほら、ハイネもやってみろ。やったら、気がねなく何杯でもいけるはず )


( ただの失礼発言以外のなんでもないけど? )


 もしかして、今日はお金を払わないからリミッターでも外す気なのかと心配になってくるではないか。ここは丁寧に食事をしているはずのワイアットに助けを求めようとするが――。


( ……キラキラじゃなくて、ギトギト。キラキラじゃなくて、ギトギト…… )


「セロぉ!」


 なぜにワイアットまで巻き込んだのか。セロに怒鳴り込むが、声が大きかったのだろう。


「ハイネさん、どうかされましたか?」


 ギブレッジに気を遣わせてしまった。このばか二人の小言のことなんて絶対に言えやしない。ハイネは何でもない、と首を横に高速で振った。


「気にしないでください」


「そうですか?」


 さっとセロの服を引っ張り、ワイアットの小言について言及する。


( ちょっと、なんでワイアット君に変なことを教えているの? )


( 変じゃねぇって。俺はあいつがいくら部屋が落ち着くと言っても、人が作った料理は緊張すると言っていたからこの自己暗示を教えてあげただけだ )


( セロは人様が作る料理をなんだと思ってんの? )


 このままではワイアットが呟いている小言をギブレッジに聞かれるのは大変まずい。ハイネは止めさせようとするが、止めないでくれ、と断られた。


( ダメです、ハイネさん。僕は半年以上庶民の味に慣れ親しんだせいで、今まで食べていた物を拒否反応起こしてきているんです。だから、こうして自己暗示をかけないと。うぅ、これはキラキラじゃない。ギトギト…… )


( ワイアット君は庶民の私たちをばかにしているの? )


 ああ、このカオス的状況で常人が自分とギブレッジしかいないなんて。そう頭を抱えたいのだが、その行為は行儀が悪いと思う。だからこそ、ハイネはそうせずに、眉根を寄せて料理を口に運んだ。


「おや、ハイネさん美味しくないですか?」


 しかめっ面のところを見られてしまったらしい。ギブレッジが不安そうに訊ねてきた。それにハイネは「違いますよ」とまた否定をする。


「美味しいですよ。私、少しばかり考え事をしていたので」


 誤魔化すしかない。ここで一晩お世話になっているのだ。後はこの二人が余計なことを言わなければ、なおさらよし。


「すんません」


 突然、セロが神妙な顔付きでギブレッジを見てきた。あまりにも真剣な眼差しのため、ハイネもワイアットも彼に注目する。何がどうしたのだろうか。


「どうされましたか?」


「これ、動物性油を使っていますよね? 俺、植物性油の物じゃないと好みじゃ――」


 言いきる前にハイネがセロの頭を叩く。なんとも軽快な音がダイニングに響いた。


「痛いな、お前。俺の頭の傷はまだ完全には癒えていないんだぞ、こら」


「別に私の手は金属じゃないから気絶も死にもしないから」


「そうですよ! ハイネさんの手は白くて柔らかい、美しい手なんで――」


 ワイアットにも軽快な音を作ってあげた。


「ワイアット君、きみは話をややこしくしないで」


 なんて彼らのくだらないやり取りを見ていたギブレッジは笑い出した。そんなに自分たちのやり取りが面白かったのだろうかと顔を見合わせる。


「す、すみません。いや、あなたたちは仲が良くて羨ましいなと思いましてね」


 これは仲が良いと値するものなのだろうか。笑われて、困惑するハイネは二人を見る。セロは普段通りの表情をしているが、ワイアットはとても嬉しそうな顔をしていた。半分にやにやと笑っている。鼻の下が伸びきっている。誰かにワイアットがかつての王国として重要な貴族だったと聞いたならば、どのような反応を見せるだろうか。


「ヴァレインタシュイン氏、あなたの言うそれは僕とハイネさんが夫婦に見え――」


 またハイネ――ではなく、今度はセロが叩いた。彼女はそんなばかで大胆な発言をするワイアットが恥ずかしいと思っていた。恥ずかしそうに、ついに頭を抱えて頬を赤く染めている。


「気にしないでください。こいつ、たまに妄言を言うんで」


「そうなんですか?」


「ヴェ――セロさんっ! 僕は妄言発言なんて致しませんよ! 言うなら未来想像発言です!」


「知っているか? 人はそれを妄言、あるいは戯言と言うんだ。もしくは虚言だ。よかったな、ワイアットの語彙が増えたぞ」


「それ、なんか僕をばかにしていません!?」


 喚くワイアットにそれを軽くあしらうセロ。ハイネは確かに彼らはどこか仲がいいなとは思った。いや、そう思っていたのは赤の共和国に滞在中から思っていたことだ。なんとなくではあるが、貴族と平民の壁がなくなってはきているようである。


「ははっ、彼らはまるで兄弟のようですね。ハイネさんもそう思っていますか?」


「ですね。セロに弟がいたらこんな感じでしょうか」


 セロは一人っ子だ。もしかしたら、自分たちと会う前は兄弟が欲しいと思っていたのかもしれない。


「そう言えば、ハイネさんにはご兄弟はいらっしゃいますか?」


「ええ、いますよ。兄が」


 もう会えないかもしれないハイチを思う。今頃何をしているのだろうか。


 妙なことを考えてしまって、ハイネは頭を振った。いけない、ハイチのことは極力考えないようにしとかないと。また泣いてしまうかもしれない。そんな姿をセロとワイアットには見せても、ギブレッジには見せたくないからである。


「結構、いい加減なタイプなので」


「そうですか。実は私にも姉がいましてね。こちらもいい加減なやつなんですよ。本当、幼い頃から……」


 ギブレッジは柔らかい笑みを浮かべて姉を思い浮かべているようだった。いい加減とは言いつつも、本当は余程お姉さんのことが好きなんだな。そうハイネが思っていると――。


 その場に連絡通信端末機が鳴った。どうやらギブレッジの物らしい。その画面を見て、渋った表情を見せていた。


「すみません、少しばかり席を離れます」


 小さく頭を下げてダイニングから出た。それに気付いた二人は静かになる。


「どうしたんだ? 電話?」


 一応は場の空気を読もうとする彼らの方を見ると、二人は互いの頬をつねり合っていた。ここで髪の毛の引っ張りも入れたならば、完璧兄弟げんかだろう。いや、もうこの状況ならば――。


「そうみたいだけど、本当二人とも仲良しだね。もう、兄弟設定でいく?」


「いや、無理だろ。似てないし、あの人には友達同士としてしか見られていないし」


「そうですよ。それに僕としてはハイネさんとは夫婦の設定がいいです」


「なんでハイチがお前をハイネから遠ざけている理由を知っておくべきだったと俺は思うわ」


 なんてセロがワイアットにツッコミを入れていると、ギブレッジが端末機を手にして戻ってきた。だが、その端末機はなぜか壊れているではないか。


「どうされました? その連絡機」


 いち早くそのことにワイアットが気付いた。これにギブレッジは苦笑いをした。


「いえ、電話を終えた後に勢い余って落とした挙句、踏みつけてしまいましてね」


「えっ、大丈夫なんですか?」


「平気ですよ。予備をもう一台持っていますので」


 そう言うギブレッジは三人の前に別の連絡通信端末機を取り出してそれを見せた。彼らはそれに少しばかり安堵する。


「ですが、急に会社の呼び出しがありまして、家を留守にしなくてはならないんですよ。この家を自由にお使いいただいても構いませんので」


 後は三人に任せると言わんばかりに、ハイネに鍵の束を渡してきた。十数本もあるその束はこの家の大きさを表すらしく――。


「これはウチの鍵です。ご自由に見ていただいても構いません」


「そ、それは流石にっ!」


 鍵を返そうとギブレッジに差し出そうとするも「急いでいるので」と言い残して屋敷を出て行ってしまった。


 唖然とするハイネとセロ。だが、すぐにワイアットが「大丈夫でしょう」と強引に納得し出す。


「ヴァレインタシュイン氏は何も僕たちを留守番役として見ているわけではないですよ。ほら、執事の方とか召使いの方とかいらっしゃいましたし」


 その言葉にハイネは早速あの執事に鍵を渡そうと思っているのか、廊下の方を入り口から覗き込んだ。しかし、彼らの姿が見当たらない。誰もいなかった。どこかの部屋でも休憩をしているのか。


 自分が鍵を持つことに不安を覚える。


「なんか、怖いなぁ」


「いいんじゃないか? この家の金庫の鍵もあるだろ?」


「そんな、泥棒紛いのようなことを言わないでよ。バレて逮捕されたら作戦どころじゃなくなるのに」


「冗談だよ。そんな危ない橋は俺は渡らねぇよ」


 セロは食事を再開した。そして、誰もいないことを利用してか、普通の音量で声に出して「これはキラキラではなく、ギトギトだ」と失礼極まりない自己暗示をし出す。


「止めなよ、そんなこと」


「うるさいな。不気味な館と化してしまったんだから、そう考えないと食べるに食べられねぇよ」


 セロの言うことはもっともであった。


     ◆


 恐縮しながらも勝手にシャワールームを借りた三人。どこを探しても使用人たちは見当たらない。探すためには部屋の鍵を開けなければならなかった。実際に開けて確認するもいない。誰も。


 すべての部屋に電気はつけられたままなのに、その物静かさがより一層不気味さを際立たせていた。


「部屋は全部見た感じか?」


「ですねぇ。こんな誰もいない屋敷なんて気味が悪い以外なんでもないですよ」


「だからと言って、ここら辺って車上荒らしがいるんだよね?」


 自分たちの安全を考慮するならば、この屋敷で一晩を過ごすしかないのである。だが、この案に三人は渋った様子で顔を見合わせる。


「いいのかなぁ? 勝手に泊まっていっても」


「いいとは言っていたけどな。やっぱりためらいがあるな」


「セロたちはまだいい方だよ。私なんて、明らかにこの家の鍵を渡されたんだよ? おかしくない? 会ってすぐの初対面の人にホイホイと鍵を渡すなんて」


 三人は鍵の束を見る。銀色や金色の物が照明の光に照らされていた。そのあやしい光が疑心に生まれ変わっていく。


 犯罪者から守るために泊まっていけ、と促してくれたギブレッジはいい人物だとは思ってはいる。しかし、同時にそれでいいのだろうか、と突っかかりを覚えた。


「戸惑うのもわかるけどな。それより、もう寝よう。明かりはそのままでいいだろ。自分たちが使う部屋だけの明かりを消せばいいだけの話だし」


「そうですね。ヴァレインタシュイン氏は確かに留守にすると仰っていましたが、夜遅くに帰ってくる可能性だってありますしね。足下が暗いと不便でしょうし」


「えっ、じゃあ鍵はどうしよう? 私が持っておくの?」


 ハイネが不安そうな目で二人を見てくる。正直、この鍵を持つことが不安らしい。鍵の束をしっかりとは握られていなかった。


「預かったのがハイネだからな。当然返すのもお前だろ」


「うぅ、わかったよ」


 強引に納得をされてしまったハイネは渋々と勝手ながら割り当てた自分の部屋へと行ってしまった。セロも寝ると言い、部屋の方に行ってしまう。その場に残ったワイアットは人気のない屋敷を見渡して眉根をひそめながらも部屋へと入っていくのだった。


 ワイアットはその不審さに勝てず、他の二人と違ってドアを開けて寝ることにする。


     ◆


 真夜中にセロは目を覚ました。硬いベッドではない。このフカフカで気持ちのいいベッドでは逆に寝付きが悪いようである。慣れないからだろうか。


「……小便」


 寝る前にお茶を飲み過ぎたな、と一人心の中で苦笑いをしながら部屋の外を出た。急激な光が目を攻撃してくる。廊下の照明が眩しいと思いつつも、トイレの方へと向かう。その道中、ワイアットの部屋のドアは開かれていることに気付いた。


「あいつ、暗いところがダメなのか?」


 などという勝手な思い込みをしながら用を足しに行った。


 さて、あのふわふわするベッドで眠るのもいいのだが、果たしてきちんと眠れるだろうか、と不安になった。車の運転は基本的にセロがしているからだ。


「まあ、ハイネも運転できるか」


 ほぼセロに任せっきりのハイネではあるが、免許取得はしているはずだから運転できないということはあるまい。確か、軍人育成学校の三回生の過程終了時に『四輪車両運転免許』という免許証を発行してもらえたはずだから。というか、三回生においては車両運転技術実技授業があるから、今回の作戦ではワイアットとターネラ以外の元学徒隊員はある程度操作できるはずだ。


 いざというときはハイネに任せよう。そうセロが思いながらトイレから出ようとすると、人の気配がした。二人のどちらかが目を覚ましたか。それともギブレッジが戻ってきたのか。そっとドアを開けると、その人の気配は自分たちの部屋の方へと向かっていく。だが、それはワイアットでもなければハイネでもない。かと言ってギブレッジやその使用人たちでもない。全くの見知らぬ人物。とっさに彼はトイレの中へと再び入った。思わず首を傾げる。


 あの人物は黒いケープを着ていた。手には何も持っていないが、どう見てもあやしいとしか言いようがない。


――あの人があんな格好をしなさそうだしな。もしかして、泥棒!?


 そうとなればハイネたちが危険だ。特に、ドアを開けっ放しにしているワイアットなんて。


 勢いよくトイレのドアを開け、ワイアットのもとへと急いだ。廊下の明かりが部屋の中に入ってきており、薄暗い印象を与えてはいるが、セロ以外誰もいない。廊下にもあの黒いケープを羽織った人物がいなかった。それならば、ハイネのところか。


 早速ハイネのもとへと向かおうとするセロだったが、それはいつの間にかいたワイアットに止められた。彼の服を引いて、廊下から見えない場所へと連れ込んだ。


「フォスレター?」


「静かに。やつに感付かれるのは危険ですよ。ヴェフェハルさん、丸腰なんですから」


 二人はベッドの下の方へと潜り込み、廊下の様子を窺う。誰かがこちらの方へと歩いてくる気配がわかった。しんと息を殺されたその場に聞こえるのは一人の足音だけ。


 ごつごつと重たい靴のようである。軍靴だろうか。だが、ギブレッジは革靴を履いていた。いや、履き替えたという可能性も捨てきれないのであるが――。


 やがて、足音の持ち主の姿が露わとなった。その人物はフードを深く被っており、誰なのか定かではなかったが、二人にとってわかるものが一つあった。それはその人物がハイネを抱きかかえてどこかへと連れ去って行こうとしていること。


 これにワイアットが動き出そうとする。ベッドの下から出ようとするが、それはセロに止められた。少し落ち着けと目が訴えている。


 黒いケープの誰かの姿が見えなくなると、セロは「俺に着いてこい」と小さな声でワイアットを誘導し始めた。


「ハイネの部屋からあいつの連絡機を取ってこい。俺は後を追う」


「わかりました」


 黒いケープの人物が廊下を曲がったことを確認すると、ワイアットはハイネの部屋の方へと急ぐ。一方でセロは彼らを追いかけた。向かっている先は一階――?


 そうではなかった。ダイニングに置かれていた食器棚の横に地下へと続く階段があったのだ。そして、後を追うようにワイアットがハイネの連絡通信端末機を持ってくる。


「こちらの方に行かれたんですか?」


「のようだ。あいつがこれを知っているということは、この屋敷を知り尽くしているやつじゃないと、到底知る由もないだろ」


「ということは、あの黒い人がヴァレインタシュイン氏だと?」


「可能性はある。雰囲気はまるで別人のようだったが……」


 ありえない話ではないはずだ。しかし、何を以てハイネを連れ出したのか。その疑問が二人の頭に浮かぶ。彼らはダイニングの明かりを頼りに地下へと続く階段を下りていく。決して、暗くはない。ダイニングからの明かりと等間隔に設置された燭台の弱々しい光で地下へと目指すのだった。


     ◆


 階段が終わり、地下へと辿り着いた。そこは長く奥へと続く通路となっており、ここも等間隔に設置された燭台がある。石煉瓦でできたそこは不気味に二人の影を作っていた。


「かなり不気味ですね」


「慎重に行こう。何があるかわからない」


 一刻もハイネがいる場所へと向かいたいところ。だが、自分たちの身に何かがあれば、彼女を助けられないだろう。だからこそ、周りを調べながら行くしかないのだ。


「……ヴェフェハルさん、奥から何か聞こえませんか?」


 不意にワイアットはそう言ってきた。どうやら人の話し声が聞こえているらしい。ということは、ハイネとその連れ去った人物が会話をしている可能性があるのだ。ゆっくり奥の方へと近付いていくと、話し声ははっきりと聞こえてくるようになる。


「放して! 何をする気なの!?」


 ハイネだ。彼女は目を覚まして体の自由が利かないらしい。すぐにでも行きたがるワイアットを制し、セロは自分たちの姿が見えないところに身を潜めて彼らの会話を耳に傾けた。


「あなた、私の兄に会いたいかとか言ったり、こんなところに連れてきたりして!」


「どれも目的は同じさ」


「目的? 何が目的なの?」


「決まっているだろう? コインストから逃げたハイチ・キンバーを再び引き込むんだよ」


 コインストと聞いてセロは大きく反応を見せた。あの企業は自分が参加した任務で壊滅したはず。そう記憶を思い返していると、ワイアットの方も神妙な面持ちを見せていた。


「……あいつは反軍じゃ?」


 思わず口に出してしまったワイアット。セロが何を知っているのか、とどこか知りたそうな顔をこちらに向けてきた。しかし、その声にハイネを連れ去った人物は彼らの方を見てくる。彼は怒りの表情のあるひびの入った仮面をしていた。


「何かが迷い込んできたようだな? 出てこいよ。この女の命が惜しけりゃ」


 仮面の人物――イヴァンの指示通りに二人は彼を睨みつけながら出てきた。


「お前がこの屋敷の主か」


「ご名答。まさか、浅はかな作戦に引っかかるとは思わなかったよ」


 仮面越しから笑い声が漏れてくる。彼らは下手に動けなかった。なぜなら、イヴァンが手にしているのはあやしい薬品が入った注射器だからである。これをどうしようとするのか。


「ハイネを放せ」


「なぜ? 俺はただ、こいつの兄貴に会いたいだけなんだぜ?」


「普通に会いたそうには見えないぞ。それは」


「当たり前だよ。普通に会えるわけない。会わせるわけない」


 急にイヴァンの声音が低くなると、ハイネの方を向いた。


「お前は所詮、ただの餌だからな。やつが、ハイチ・キンバーが腕なしとして戻ってくるためのな!」


「失礼なことを言うなっ! ハイネさんは餌じゃない!!」


 ハイネに対する失言に頭にきたのか、ワイアットがイヴァンに殴りかかった。だが、謎の液体の入った注射器の針を向けられて、足が止まってしまう。あの液体は嫌な物しか見ることしかができそうにもない。ただの水ではなさそうだ。


「いいや、餌さ。まだ、人の形をしているから。これから餌の形にしていくだけさ」


 その発言に誰もがぞっとした。人でない形にするのはその注射器に入った液体でだろうか。なんなのかわからないのに。


 イヴァンは懐からナイフを取り出す。鋭くも、この薄暗い地下で一番輝いていた。


「さて、キンバー妹。お前には選ぶ権利を与えよう。この三つの中でどれになりたい?」


 そう言うと、この場の上の方にある壁――鉄格子の向こうから金属が掠れる音が聞こえてきた。こちらの方、鉄格子から見えるのは三体の異形生命体。上から降り注いでくる異臭に三人は顔を歪めた。


 あの中のどれかに自分は変えられてしまう。あれが餌。想像しただけで震えてくる。なぜに自分がこのような目に合わなくてはならない? なぜに彼らは自分を人として扱おうをしない? 本当は何が目的だ?


「選べ」


 イヴァンが催促してくる。それにハイネは嫌だと首を横に振った。


「選べよ」


「嫌」


 突き刺さってくるイヴァンのプレッシャー。こちらへと歩み寄ってくる。


「さっさと選べって言っているんだ」


「嫌だっ!」


「ふざけるなよっ!!」


 手に持っていたナイフをハイネの顔の横にある壁に突き立てた。二人がなんとか彼らの間に割り込もうと考えているが、イヴァンの威圧感は凄まじかった。たとえるならば、そう――復讐。今のイヴァンに一番似合う言葉である。仮面越しからでもわかる怒りに満ちた者――復讐者。


「……ヤナは殺されたんだ」


「ヤナ? あ、あなた、イヴァン君?」


 ハイネの質問をイヴァンは無視した。


「ヤナはお前の兄貴に殺されたんだ」


 決してイヴァンの声は大きくない。上にいる異形生命体たちが騒ぎを立てていた。それでも彼の声ははっきりと耳に通ってくる。イヴァンは自身が着けていた仮面を取った。明らかにはっきりと憎悪に満ちた顔を見せていたのだ。


「だから、俺はお前をバケモノにして殺す」


 復讐者は憎悪が入った負の産物をハイネへと当てつけようとした。


「させるかっ!」


 今度は怯まない。その意志あって、セロとワイアットは殴った。そのままイヴァンは倒れる。謎の液体の入った注射器は床に落ちて焼けるような音が聞こえた。その隙をついて捕えられていたハイネを救出し、この屋敷からの脱出を試みる。もし、この館に反政府軍及びコインストの残党が来ていなければ、逃げることは可能かもしれない。だが、増援をされたならば、逃げられる自信はなかった。


「逃がすものかっ!」


 後ろから復讐に燃えるイヴァンが追いかけてくる。駆ける、駆ける、駆ける。一階へと続く階段を駆け上っていく。


「食器棚を!」


 ダイニングへと出てきたワイアットがそう言いながら、地下へと続く入り口の穴を食器棚で塞ごうと移動させ始めた。それにセロもハイネも加担するが、塞ぐ前にイヴァンが出てくるのが早かった。


 イヴァンはダイニングテーブルに飾られたままの蝋がなくなった燭台を投げてくる。それをセロが椅子で塞いだ。


「ハイネ! 先行ってエンジンをかけていろ! フォスレターはハイネの護衛だ!」


「わかりました!」


 いなくなる二人に苛立ちを見せるイヴァンは部屋に飾られた甲冑の剣を抜き取った。それと同様にセロも抜き取る。彼が飛び道具を持っていなくてよかった、とセロは安堵した様子で勝負に挑むのだった。


 先に動いたのはイヴァンだ。椅子を手に取り、それを盾にするかのようにして一気に近付いて。セロはその盾代わりの椅子の足を自分が持っていた椅子の足同士を絡めた。それを機に剣を振りかざす。金属音がダイニングルームに響き渡る。劈くような音。うるさいっ!


――ああ、煩わしい!


 盾代わりとしていた椅子をイヴァンの方に蹴り、バランスを崩させる。そのせいで、彼は剣の競り合いに押されてしまう。後ろは壁、逃げるならば、横しかあるまい。


 セロの目とイヴァンの目が合う。見えたその目の奥にある闇はどこまでも深いと思った。しかし、復讐の闇にとり憑かれた者に、ここで負けるわけにはいかない。


 剣を払い、壁に飾られた甲冑をイヴァンに向かって倒し始めた。突然の出来事に彼はそれの下敷きになってしまう。その隙をついてセロは窓ガラスを割り、車の方へと走っていった。


「待ちやがれっ!!」


 ダイニングの方から怒声が聞こえてくる。それでもお構いなしにセロは走った。車の準備はできているようだ。ワイアットが窓を開けて手を振っていた。


「ヴェフェハルさん、後ろ!」


 急に顔付きを変えるワイアットの言葉通りに後ろを振り返ると、こちらに向かって拝み打ちをするイヴァンが。剣が折れそうな勢いでその攻撃を防いだ。金属音がこだまする。復活は早かったらしい。割った窓から強引に出てきたのか、全身が傷だらけである。それでもと歯を食い縛り、己の自己欲を求める。殺されたヤナのため。ヤナを殺したハイチの妹であるハイネに復讐を巻き添えにするため。


「退けっ! ただの人間が邪魔だ!」


――退くものか、誰が。


 黙って剣の競り合いに集中した。イヴァンはおびただしいほどの血を垂れ流しながら。血の涙を流すという揶揄があるが、それがただのたとえではなく、実在するのでは? 彼の額や頭から流れる血は――まさしく血の涙として頬を伝っていたのだから。


 イヴァンは喚き散らす。


「なぜ、バケモノを庇おうとする!? なぜ、ヤナはバケモノに殺されねばならなかった!? なぜ、キンバーは存在している!?」


「ごちゃごちゃうるさい!」


 言いたいことが腐るほどある。だが、それを今は剣にだけ集中することが優先である。感情になって戦うべきではないから。これ以上、イヴァンを興奮させてはならないから。


 ダイニングルームの窓ガラスの破片で切った傷口からは大量の血。興奮し過ぎて大量の血が流れていく。人はここまで血があったんだな、と思うほど。このままでは出血死してしまうのではないだろうか。


 なんて考えが頭に過っていると――。


「あ」


 イヴァンが力なくその場に倒れ込んでしまった。意識はあるようだが、立つ力がないらしい。


「立てよっ!!」


 言うことを利かない自身の体に怒鳴り散らす。


「立てよ、立てよ、立てよぉおお!! ヤナのためにっ! エイキム様のためにっ! 俺立てぇえええええええ!!」


 これ以上は見ていられない。セロは地面に剣を刺すと、急いで車に乗り込んだ。運転はハイネ。


「……もう、寝ずに走れ。途中で交代しよう」


 セロの提案に誰も反対意見を出す者はいなかった。


     ◆


 ようやくイヴァンが立てるようになったのは三人が乗る車が見当たらなくなった頃である。立ち上がると、血が足りずにふらふらとした。頭がくらくらする。完全に作戦失敗してしまった。いや、成功の道を辿っていたはずだ。


――あいつらがいなければっ!


 セロとワイアットがいなければ、完璧であったはずなのに。そう考えるイヴァンのもとに誰かが近付いてくる気配がした。そちらの方を見ると、笑顔の仮面を被った男がいた。実際に仮面のその下は笑顔なのか甚だあやしいが、こちらに向かって笑ってきているのだ。


「何がおかしい」


「いえいえ、あなた自身がですよ」


「ああ、そう」


 興味なさげにイヴァンはセロたちが逃げた方向へと歩き始めた。出血が原因なのか、足を引きずっている。そんな彼を男は止めた。


「急いでいるんだ」


「ええ。それは誰もが同じですよ。もちろん、私だって。時間がないのに、手を煩わせてしまったから」


「次こそはハイネ・キンバーを捕える」


 男は更にイヴァンのもとへと近寄ってきた。


「そう言いながらも、ヤナさんは死にましたねぇ」


 男の発言にイヴァンは瞠目した。そう言いながらも? 『も』とはどういう意味だろうか。


【ヤナさん、暴走した腕なしに殺されました】


「あの連絡は嘘か?」


「あなた方二人は任務を失敗した不完全者でしょう?」


「ふざけるなっ! お前がヤナを!?」


「不完全者には死をと仰っていましたけどねぇ」


 男に対してイヴァンは睨みつけた。手に握る剣に力を込め、斬り込みにかかろうとするが――。


「兵は足りない状況なんですよ」


 いつの間にか後ろを取られ、首に注射器の針を差し込まれた。イヴァンの体内には熱い何かが入り込んでくる。力が入らなくて、息をするのがつらくて。イヴァンは剣を地面に落とした。とても苦しい。立っていられない。頭が弾けそう。脳みそが飛び散らかりそうなほど、破裂寸前のようだ。


「うーん、ディースさんのようにいきますかねぇ」


 人体に悪影響を及ぼすであろう謎の液体をすべて注入した男はそれを地面に捨てた。その拍子にイヴァンは地面に膝をつき、首筋を苦しそうに押さえていた。注射の痕を中心に青筋が浮かび上がってきている。


 痛いという言葉を知っていても、出そうにない。それが喉元に引っかかって、上手く言えなかった。その場に四つん這いになった。地面を抉るように、爪を立てる。


 我慢ができない。どうすればいいか。そう、叫べばいい。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 自分が持つ闇と同じ真っ暗な空へ向かってイヴァンは叫ぶことしかできなかった。

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