評価
寸陰を惜しむほど、キリはソファに座り込んで先日のことを考え込んでいた。
アイリ・ハルマチ。彼女はキリを死の絶望から救い上げた者である。その証拠に彼の手にはアイリから受け取った歯車のアクセサリーが握られていた。
これが何を意味するのか。キリにとって理解しがたい物である。ただ、それをもらっただけだ。これは不思議な剣に変わって、銃弾すら通さない頑丈な皮膚を持つ異形生命体の胴体を真っ二つに斬れる代物。
そんなとんでもない物をここで証明はできない。なぜならば、あれから剣へ変えられないから。おまけに切断したはずのバケモノの姿はなし。キリを唆そうとしたディースの姿もなし。唯一、異形生命体の死体は同じ任務を受け負ったキンバー兄妹が倒した一体だけ。彼らには功績を称えられていたが、自分とアイリだけは何もなかった。
「変なの」
ぼやくキリ。彼が手にしていた歯車のアクセサリーを誰かが取った。
「なんだ、これ?」
錆びて明らかに使い物にならなさそうな部品だ。それをハイチは返した。
「妙な物でも宝物にしているのか?」
「宝物じゃありませんが」
「ふうん。こんなところで一人悩ましい顔をしていたからよぉ」
現在、彼らがいる場所は学徒隊員用の寮の一階にあるラウンジであった。偶然にもキリ一人でいるところをハイチは見かけたである。
「この時間帯、授業を取っていないのか?」
「はい。ハイチさんもですか?」
「いや、俺はサボり。単位は足りるから問題はないよ。多分」
そう言うハイチは余裕の表情でソファの背もたれに座り込んだ。座る場所には足を置く。行儀の悪い男だ。そう思うキリ。立場上、口は開けられそうにないが。
「そう言えば、デベッガって、筆記試験がトップなんだっけ? 俺、座学は苦手だわ」
「ははっ、逆に俺は実技が苦手です」
「苦手でも、授業に参加しているキリ君を見習ったら?」
いつの間にか二人の真後ろにはハイネが腕を組んで立っていた。彼女はハイチのことを不審そうな目で見ている。
「げっ、ハイネ」
「お行儀が悪い! ちゃんと座りなさい! そして、きちんと授業に出なさい!」
ハイネの叱咤にハイチは渋々とソファから降りた。彼女は彼の服を引っ張るようにラウンジから出て行こうとする。
「エイケン教官があんまり授業に出ていないから困っていらっしゃるの!」
「ああ? ンなこと言ったって、この前の任務で――」
「それとは別の話! 話を聞けば、二ヵ月前から出ていないってどういうこと!?」
「はぁ!? なんで、お前が知ってんだ!?」
ハイネは強引にもハイチを引きずって、その場をあとにした。一人取り残されたキリは彼らのシュールな光景を眺めるばかり。二人の姿が見えなくなると、歯車のアクセサリーに視線を落とした。
「仲睦まじいですなぁ」
今度は隣にアイリが座っていた。そんな彼女の登場の仕方にキリは肩を強張らる。
「いつの間に!?」
「さぁ、いつからでしょうか。正解すれば、この空のカップを景品として差し上げます」
アイリの手には氷の音しか聞こえない、ジュースのカップが握られていた。
「要らない。ごみを俺に押しつけるな!」
「遠慮は要らないんだよ?」
「遠慮してねぇよ!」
ごみを押しつけてくるアイリにキリはそれを受け取らんとして断固拒否をする。そんなやり取りをしていると、ラウンジにあったごみ箱の方から大きな音が聞こえてきた。二人はその音の方を見る。そこには彼らと同年代の少年が苛立った様子でこちらを睨んでいた。鋭い碧眼にキリはたじろぐ。
「ぎゃあぎゃあ騒ぐな。迷惑なんだよ」
「俺じゃなくて、こいつに言えよ」
「次席とその妹の功績の威光を我が物みたいにしやがって」
「そんなことはない!」
反論をするキリに対して、少年は目を吊り上げた。
「うるさいんだよ。戦力外は早くいなくなれ」
少年はそう言うと、もう一度ごみ箱を蹴り上げてラウンジを去って行ってしまった。彼の去る背中を見ていたキリを見るアイリはあることに気付く。歯車のアクセサリーを握る手が震えていたのだ。
「……誰? 横柄な態度を取っていたけど」
「シルヴェスターっていう貴族。貴族って大概あんな態度を取るよ。ハルマチだって知っているだろ」
「態度ねぇ」
アイリは飲み終えた空のカップを少しへこんだごみ箱へと投げ入れた。
「生憎、あたしは高貴な人たちと会話が成立しないと思っているし。話したことがないから、わからないや」
「ああ、そう」
二人の間に重たい沈黙が流れた。アイリもその場に留まってどう言葉をかけたらいいのか、わからない様子である。ややあって、キリが口を開いた。
「訊きたいことがあるんだ」
「何を?」
「俺が斬った異形生命体は? ディースはどこへ行った?」
アイリはキリの方を見ようとはせず、閉口した。
「元々、これはハルマチが持っていたんだろ? 何か知っているんだろ?」
アイリから問い質そうと、キリは詰め寄った。彼女の手を握る。それは話してくれるまで放さないとでも言っているようだった。彼女は鼻でため息をついた。
「運命を変えようとするならば、未来も変わるってこと」
「えっ」
その発言にキリはアイリから手を放してしまった。彼女はゆっくりと彼から離れようとする。
「きみが持っているそれには、そんな力があるんだよ」
「これが?」
「そっ。本当は死ぬ運命だったきみが自らの手で在るべき運命を書き変えたから、本来存在しない事実が生まれた。でも、その事実を認めたくないのかな? この世界は。やられたディースと怪物はその場から消えたってわけ」
「じゃあ、あいつらは俺がこの世界から存在を消してしまったのか?」
それは殺害するよりも酷な話だ、とキリは思った。だが、アイリは否定する。
「そうじゃないよ。多分、ディースも怪物も生きているよ。突入した本軍に捕まっていなければの話だけど」
なぜか安堵してしまう。それと同時に、これでいいのだろうかと自問してしまった。いや、自分が誰かの存在をこの世から消すことは恐れ多い。今件は安心するべきだ。
「なんで、そんなすごい物をハルマチが持っていたんだ? 俺が持っていてもいいものなのか?」
冷静になって考えてみれば、この代物は相当な力のある道具だ。この力のことを知った革命家たちは歯車のアクセサリーを狙ってくるだろう。
「いいの、いいの。それはきみが持っておかなきゃ。それの『所有権』はデベッガ君にあるんだから」
アイリはそう言うと、逃げるようにラウンジから去って行ってしまった。
自分が所有権を持っている? とキリは頭を抱えた。話を聞くほど頭がこんがらがってきて、わからなくなってくる。手に握っていた歯車のアクセサリーを見る。何も答えは返らず、鈍く光り続けていた。
「意味わからねぇ」
◆
次の授業が始まるため、キリはテキスト類を手にして教室へと移動していた。周り騒がしく、彼の苛立ちをさらに増幅させる。誰かに覚られたくない、その一心でキリは歯を食い縛る。あまりに噛み過ぎて奥歯が浮くような感じがした。気分が晴れない。このもやもやとした感じは何か。
――シルヴェスターにイラついている? 違うな。ハルマチが教えてくれたことを上手く理解できなかった? 何か違う。何が嬉しくてこんなにムカついているんだ?
「なあ、知っているか? 次席が任務で異形生命体を倒した話」
「うわっ、すげぇな、あの人」
所々で聞こえてくる噂。先日の任務の件だ。この話、専らハイチが異形生命体を倒したことで持ちきりだ。それだからこそ、任務成功はすべて彼のおかげだと噂が飛び交っていた。だが、キリにとって、そんなのは別にどうでもいい話。事実だから。ハイチがいなければ、自分は生きていたのかすらあやしいから。
噂をする者の横を通り過ぎようとするキリ。そんな彼を見て誰かは憫笑してきた。
「そう言えば、戦力外も一緒の任務だったらしいぜ」
「足手まといじゃん。次席の人、よくあのバケモノ倒せたな」
――俺も倒したのにな。
今にも掴みかかりそうな雰囲気。自分の気持ちを押し殺し、冷静になろうとする。だが、心のどこかで叫びたがっている自分がいた。握り拳を作る。今にも歯が折れそうな勢いで歯噛みする。
「大丈夫?」
ふと、我に返った。声をかけてくれた人物の方を見ると、そこにはハイネが心配そうな顔付きで見てきていた。
「ハイネさん」
ようやく歯と歯が離れた。歯噛みし過ぎて、奥歯がぐらぐらしているようだった。
「気分悪そうだけど、医務室に一緒に行こうか?」
「あっ、いやっ、大丈夫です」
優しくも慈愛あふれるハイネにも心配をされたくなかった。周りが自分たちを見ている気がした。恥ずかしい。こっちを見ないで欲しいのに。
「そお?」
ハイネは首を傾げると愁眉を開き、周りがしている噂が聞こえたのか彼らを瞥見した。相も変わらず、こちらを見ては小声で話をしている。
「なんか、ハイチが超人みたいな話になっているね」
「でも、ハイチさんが倒したんですよね? ハイネさんと協力して」
「えっ、私は何も。ずっと腰を抜かしていただけだし、異形生命体を倒したのはハイチだよ」
そう言うハイネは全く悔しそうな顔を見せていなかった。
「確かにハイチもすごいと思うけどさ、キリ君もカッコよかったよ」
はにかみ笑顔を見せるハイネにキリはしどろもどろする。嬉しいが、気恥ずかしい。
「そ、そんな。俺、せ、戦力外だし、何もできなかったって言うか……」
「助けてくれたでしょう? ディースから。自分の危険にも顧みなく。だから、あのときは本当に嬉しかったと言うか、なんと言うか……」
周りの空気が穏やかになってくる。二人は互いに顔を赤く染めた。
「ちょっとお話し中いいかな?」
突然、第三者に彼らは肩を強張らせた。そして、同時に声がする方を見る。そこにいたのは彼らが学徒隊員たちの上司でもあるブレンダンだった。
「リスター副隊長」
「なっ、ご、ご用件は?」
「きみだ、デベッガ君。今日の授業が終わり次第、私のところに来てくれるかな? 話がある」
「わかりました」
キリの承諾を確認すると、ブレンダンはその場を去って行ってしまった。まだ動揺している。別に悪いことをしていないのに。それはハイネも同様のようだった。心臓が高鳴っているのか、先ほどよりも耳までも真っ赤にさせている。
「あ、わ、私、そろそろ行くね。授業が始まっちゃうから」
「お、俺も」
二人はどこか惜しむようにしてその場を離れて行った。
◆
呼び出しとは、先日の任務の報告書の件だろうか。キリはまだそれを書き上げておらず、授業の合間などを縫って急いで仕上げた。誤字脱字の確認までしていると、時間がない。このまま提出しよう。指摘されたらば、書き直せばいいはず。そう考えながら、彼はブレンダンがいる教官棟の中へと足へ踏み入れた。
この軍人育成学校の教官や隊長たちには教官棟に一人一人用の部屋が用意されていた。それはブレンダンも例外ではない。
「失礼します」
ドアをノックし、部屋に入った。
「げっ」
ドアを開けてすぐに嫌みたっぷりの感嘆が聞こえてきた。
「……シルヴェスター」
もちろん、キリだって同様にあまり好ましくないような物言いで先ほどの声の持ち主に返すように言った。
「ああ、デベッガ君も来たね。うん? それは?」
「あっ、はい。報告書、遅れました。すみませんでした」
「はい、ありがとう。なるべく、報告書は早めにね」
ブレンダンは嫌みもなく、率直にキリから報告書を受け取った。その代りに別の紙を一枚渡した。それはケイにも渡される。
<違法博奕闘技場潜入捜査>
ケイ・アーノルド・シルヴェスター
キリ・デベッガ
上記の二名は後述の任務を遂行せよ。
西地域にある商業の町にて違法博奕闘技が行われているという情報が確認された。場所は町の地下にあたる。そこでは法律で禁止されている博奕闘技が行われているとのこと。
地下博奕闘技場へと侵入して、実態を把握せよ。
今件では実態の調査のため、戦いを避けること。ただ、一般市民や自分たちの身の安全確保ができそうにないときだけ戦闘を許可する。
「任務ですか?」
まさかの任務の話だった。それも、自分を下に見ている彼――ケイとである。キリは彼の方を見た。ケイはとてつもなく不服そうな表情で任務指示書を見つめているではないか。
「きみ、反政府軍団の任務を成功させているでしょ」
「でも、あれは俺だけじゃ――」
「リスター副隊長、私は反対です。周りの話からするに、彼に功績はないそうじゃないですか。なんでもキンバー次席が取った功績を我が物としているとか」
蔑むような目でこちらを見てくるケイ。それに対してキリは下唇を噛んだ。
「だからそんなことしていない! 確かに、俺に功績がないのは……事実だよ。でもハイチさんの功績が俺のおかげだとか、そんなデタラメを言っていない!」
「どうだか。態度だけは一人前だからな」
これ以上続ければ、取っ組み合いになってしまうと判断したブレンダンは二人を仲裁した。それでもなお、彼らは目が合えばいがみ合おうとする。
「これじゃあ、困るんだがな? 筆記、実技がトップであるたちに任せたいものなんだけどね」
「それならば、彼ではなく、別の誰かにしてください! 彼と一緒だと全滅必至です!」
「俺だって独り善がりのやつなんかとはお断りだ! 副隊長、替えてください!」
不満や不服を申し立てる二人だが、ブレンダンは頑なに首を縦には振らなかった。これにより、彼らの言い争いはヒートアップする。
「戦力外との任務なんて絶対嫌だ!」
「何をっ! 俺だって貴族と一緒なんて最悪だ!」
「なんだと!? 平民は貴族に対して平身低頭しろ!」
「そこまで。二人ともいい加減にしなさい」
本当の本当に止めなければという責任が生じたのか、ブレンダンは二人の間に入った。
「きみたち学徒隊員は上司である私の命令に従わなくてはならない。従って、この任務指示書の記載通りに任務を遂行してもらう。任務開始日は明後日だ。それまで仲良くすることを努力するか、潜入捜査の準備に取りかかるように!」
ブレンダンが彼らに叱咤の言葉をかけると、大人しくなった。だが、それでも互いの顔は嫌悪感丸出しだったという。
◆
むしゃくしゃしながらも、キリは校舎のサロンにあるベンチに座り込んで項垂れていた。あんなに性格の合わない者との任務は無事遂行できるのだろうかと不安になってくる。
ケイ・アーノルド・シルヴェスター。王国の貴族にして学徒隊の入隊式から何かとキリに難くせをつけてくる人物である。自分自身が平民であるということと、実技の成績がよろしくない上に、盾突いてきたりすることが主な理由なのかもしれない。
キリが任務指示書を眺めながら小さく感嘆を上げていると、目の前に影ができた。顔を上げると、ケイが見下したような目で彼を見下ろしていた。
「なんだよ」
ブレンダンの見ていないところで自分を殴るつもりか? それなら上等。こちらもやり返してやる。貴族がなんだ、平民がなんだ。ここは学徒隊員が軍人になるための学び舎だ。軍人になる者同士、立場は同じはず。
「戦力外、今度の任務は降りるか、必ず俺の指示に従え。それ以外の行動は許さん」
「は?」
「もちろん、拒否することも断固として許さない。俺は任務を必ず落としどころもなく、遂行したいんだ。それもお荷物を抱えてな」
「だったら、その高慢な態度を改めろよ」
キリはケイを睨んだ。
「お前自分の立場を弁えろ。それともあれか? 今更自分の首は惜しくないとでも? それならば、すぐに俺がその首を刎ねてやろうか」
ケイはキリの首元を指差した。まだ首が刎ねられてしまっていないのに。決定事項ではないのに。自身の喉がきゅっと絞まる感覚に陥った。とても気分が悪い。
「貴族の坊ちゃんは恐ろしいことを仰るな」
誰かケイを煽るような物言いでそう言った。ハイチだ。手には任務指示書と同じような紙が握られていた。彼もまた任務使命にあたったのだろうか。
「誰かと思えば、次席か。話に入ってこないでくれるか? 関係ないでしょう」
「残念、関係大ありの話さ。坊ちゃんだろ、みんなに変なを吹き込んでさ。おかげで俺は要らない同情をもらったよ」
ハイチはケイに近付いた。彼は身長差で見下されてしまう。
「それに、デベッガのこと何も知らないのに語るな。こいつは戦力外なんかじゃない」
「……ほう、彼は強いと?」
そんなわけあるまい。ケイは嗤笑した。
「あ? 強いわけないだろ。あんなひょろひょろでよ」
しかし、ハイチはそこでは否定しなかった。
「情報収集でさえも使えねぇやつだよ」
むしろ、皮肉った物言いで言ってくる。なんだろうか。キリの心にはぐさぐさと、言葉の暴力が突き刺さっている気がした。心が痛い。
「それでも、こいつの自己判断で俺の妹は助けられたさ。きっと、坊ちゃんには持っていない何かをデベッガは持っている。もちろん、俺にだって。だから、俺はこいつを買っている」
「くだらない」
面白くないと感じたケイはそう吐き捨てると、キリを一瞥した。
「当日、遅刻するなよ」
ケイは立ち去った。そんな彼の後ろ姿をハイチは見送ると、キリの方へと向き直る。
「おまえって貴族に対してあんな態度を取れるんだな?」
「シルヴェスターはいつも口ばかりなので、言い返しても実際に行動してこないんです。それだから、言い返せます」
「ああ、そういうこと」
ハイチは微苦笑を浮かべる。そんな彼にキリはベンチから腰を上げた。そして、頭を下げる。
「さっきはありがとうございました。ハイチさんにそう思われて嬉しかったです」
「構わねぇよ。俺は真実を言ったまでだから。それにきちんとお礼もしていなかったしな」
「お礼?」
キリが頭を上げると、今度はハイチが頭を下げてきた。これに彼は驚きを隠せない。いや、それどころかサロンにいて一部始終を見ていた者たちも目を皿にしていた。
「俺たちを見捨てないでくれてありがとう」
「えっ、あ、あの?」
しどろもどろするキリに、ハイチは頭を上げて眉根を寄せた。
「えっ? 本当は逃げたかったんだろ? でも、俺たちのことを気にして助けに来てくれたし、ハイネを助けてくれた。あ? もしかして、違う?」
「い、いえ、そうじゃ……」
「だろ? ああ、そうだ。今度さ、この前のメンバーで近くの町のケーキ屋にでも行こうぜ。そこの新作が美味しいとか聞くからさ」
「今度って、ハイチさんも任務ですか?」
キリはハイチが手にしていた紙を指差した。自分が持っている任務指示書と同じ大きさの紙である。
「あ、これ? これは補習のお知らせだ」
渋った物言いで言った。ハイチはおそらく二ヵ月前から出ていなかった授業の穴埋めとして補習の参加を余儀なくされたのだろう。これにキリは苦笑するしかない。
「はあ、嫌になる。じゃ、任務が終わったら教えてくれ。詳しくは連絡入れるから」
ハイチは頭を掻きながらサロンをあとにした。残されたキリは手に持つ任務指示書を見ると、さっきまでの心のもやもやが少しだけ晴れたことに気付いた。そして、どうせならば、ケイを見返そうと心に誓う。
◆
任務当日、キリは潜入捜査のために私服でブレンダンの部屋にいた。もちろん、ケイも同様である。そんな二人にブレンダンは仮面をそれぞれに渡してきた。
「これは?」
渡された仮面を手にして見た。キリ自身が持つのは悲しそうな表情をした雰囲気が窺え、ケイが持つ物には怒りの表情をしていた。
ケイは好ましくはない様子で仮面を見る。
「それは大会の係員の証明となる物だ。会場にいるならば係員だろうが、参加者だろうが、観客だろうが、それを被っていなければならない」
「なるほど。主な仕事はなんでしょうか」
「雑務のようだね。きみたちはそれをこなしつつ、向こうの情報などを盗んできて欲しい。一応、これらも渡しておくよ」
そう言うブレンダンは小型カメラを渡した。
「カメラは仮面につけるといい。終わり次第、私に返して欲しい」
「わかりました」
「向こうには私の部下が送って行こう。健闘を祈る」
二人はブレンダンに頭を下げて部屋を出た。出てすぐにケイは口を開く。
「向こうでは戦力外は雑務をしていろ。情報詮索は俺一人でする」
「俺もする。俺も指示が下りているんだ。じゃなきゃ、任務遂行とは言わない」
キリは引こうとはしない。なぜなら、三日前のハイチの言葉に自信がついているから。もう『戦力外』とは言わせない。
「勝手にしろ」
今日は言い争う気はないらしい。ケイは外で待機していたブレンダンの部下の車へと乗り込む。キリも反対側へと乗り込んだ。彼らのこの空気を察したのか、運転手は何も言わずに目的地へと走らせた。
車内では誰も言葉を発さない。後部座席に座る二人は顔を見合わせず、窓の外を眺めていた。校内の敷地内に植えられた木々が通り過ぎて行く。キリがぼんやりと眺める景色をよそに持っていた連絡通信端末機に一件のメールが送られてきた。差出人はハイチからである。
『助けて』
切羽詰まったような一文に思わず笑みがこぼれた。補習の件だろう。
「それ、置いて行けよ」
ケイはこちらを見ることもなく、キリにそう言った。
「言われなくてもわかってる」
言われたことが癪に触ったのか、キリの顔から笑みは消え去る。それでもハイチにと返信をした。
『今から任務です。頑張ってください』
キリは電源を切った。
◆
商業の町は商業に栄えた町である。町を行き交う人々のほとんどは商人なのだ。そんな活気付いた場所の中へと放り込まれた気の合わない二人。完全に浮いていた。
「場所は町の北西だそうだ」
「これをするのはどこでするんだ?」
バレないように彼らは仮面をリュックの中へと入れていた。確かに、正体がバレないように紛れ込むと言っても、装備するのはどこでするのだろうか。まさか、会場へ行ってから装着はしないはずだ。これには二人して悩む。すると、キリが人ごみの中で同じような仮面をした人物を見つけた。
「あっ」
キリの声にケイも視線の先を見る。よくよく見れば、仮面を被る人間は多数いるようだった。
「これなら、物陰に隠れて被るだけでもいいな」
「人がいないところに行くか」
二人はすぐに建物と建物の隙間へと入ると、仮面を取り出して被った。もちろん、キリも被るのだが、急に腹が痛み出す。前屈みになって目の前にいるケイを仮面越しに睨んだ。
「足手まといで俺の評価が下がるのはいただけない。ここで寝ていろ」
ケイはキリの腹へと蹴りを入れた。その弾みで仮面が取れて地面に落ちる。彼は立つことすら困難になり、膝を着いた。
「……しっ……お、まえっ!」
「安心しろ。ここにずっといるならば、終わった頃に迎えに来てやる」
ケイはそれだけ言い残すと、大通りへと一人行ってしまった。追いかけなければ、そう思うも体が動かなかった。その場に座り込みたい。キリは地面に座り込んだ。
「っざけんな!」
こんな不条理があっていいのか。キリは腹が煮えくり返って仕方がなかった。普段から自分のことをばかにしている分、今日は見返すつもりだったのに。これではどうしようもない。大会はもうすぐ始まるだろう。
キリは大きく深呼吸をして、腹の痛みを早くにでも回復させようとした。やがて、ある程度動けるようになると、地面に落とした仮面を拾い上げて大通りへと出る。仮面を被った人々のあとを追うようにして彼は会場へと向かった。
同じような仮面をした者たちのあとを追っていたキリは、会場の入り口の一歩手前で入ることを拒否した。すぐに、中へと入る人の邪魔にならない傍らの方へと移動する。
【場所は町の北西だそうだ】
ケイは確かにそう言った。だが、実際に北西へ仮面をした者たちのあとを行くと、そこは観客を集う場所だったことが判明したのだ。彼はキリに嘘を言ったのだろうか。そこから入っても、果たして自分は従業員だと宣言することができるか。関係者入口は絶対にここではないだろう。
「無理だろ」
キリの言う通り、これでも彼は自分の力量くらいは理解している。強引突破は厳しいだろう。どこか別の入り口はないのか。そう考えたキリは周りを見渡した。観客らしき者たちはじろじろとこちらを見ている気がした。それでも、誰も声をかけず、会場入りする。時間が過ぎていく。今頃、ケイは会場の雑務でもこなしているか。
ふと、目を落とした排水溝。中へは人一人が入れそうなところだ。その水道路は路地裏の方へと続いていた。キリは路地裏と会場入り口の両方を見ると行動に入った。
「よっと」
路地裏へと入り、周りに誰もいないことを確認すると、排水溝の蓋を開けた。そして、その中へと入る。意外にも狭さは感じられない。窮屈とは感じられなかった。
「あとは会場につながっている道さえあれば」
キリはこの水道路が会場へとつながっていることを願って、それらしき方向へと歩き始めた。
◆
一方でケイは会場の中にいた。彼の主な仕事内容は闘技場の見張り役。これでは情報を盗むというのは若干手厳しいかもしれない。
観客席の通路から下にある闘技場の方を見下ろす。下は凝固した血が点在していた。それを見て察することは――この違法博奕闘技は流血沙汰ものか。
「今日はどれに賭けるよ?」
後ろの方から仮面を被った観客の声が聞こえてきた。その会話にケイは少しばかり耳を傾ける。
「決まっているだろ、ここの人気者だよ」
「そうだよなぁ、それ以外は雑魚で金が稼げねぇし」
「ここもマンネリとしてきたよな。金になりそうなやつを見つけても、すぐにあいつに瞬殺されちまう。ここの常連は誰もがやつに賭ける以外、金にならないよな」
ケイはもう一度、闘技場を見る。そこでは係員が今日の博奕闘技のための準備を行っていた。
あいつとはどんなやつなのだろうか。そう考えていると、闘技場中にアナウンスが鳴った。
《会場の皆様にお知らせです。まもなく、コインストバトルが開催されます。本日のメインバトルの前に、前座余興をお楽しみください》
アナウンスとともに、キリとケイ同様の仮面をした観客たちは席へと着く。闘技場にいた係員もそそくさとその場から離れた。
闘技場に誰もいなくなった確認が取れたとき、その場へとやって来たのは――。
――嘘だろ!?
ケイが予想していなかったことだった。
「面白そうな怪物が出てきたなぁ」
観客席にいる客からそのような呟き声が耳に入る。闘技場に現れたのは、一人の人間と異形生命体だった。大きな体躯の怪物は四肢と首に枷がされていて、人に攻撃できないようにされていた。まさか、あの巨体のバケモノを相手にすると言うのか? あれ相手にただの剣が通用するのか?
「あいつ、持ってどれくらいだと思う?」
「無傷で十秒、原型が三十秒ってところだな」
「じゃあ、それに本命の三割を賭けようか」
「俺も三割だな」
観客たちは揃いも揃って、その場でお金を取り出して賭けごとを始めていた。本命があるということはこの余興では小遣い稼ぎ感覚でやっているのだろう。それでもこれも立派な違法になるのだが。ケイはそれをカメラへ収めるために、賭け事をする観客を映した。もちろん、数十秒で死んでしまった人間と血塗れのバケモノの映像も残して。
「気分悪い」
ぼそり、と呟くケイの言葉には誰も気付かない。
◆
しばらく水道路を歩いていると、前が見えない真っ暗な道があった。位置的にその奥が会場へとつながっているようだ。ここから先は明かりがないと行くに堪えないが、それでもキリは足を踏み入れる。足下が取られないように、慎重に壁伝いに前へと進んだ。
「どこまで続いているんだ?」
連絡通信端末機にはライトの機能はあった。だが、ケイに言われて、ブレンダンの部下の車の中に置いてきてしまっているのだ。時間がかかるのは承知の上。
奥へと進むにつれて、僅かながらも先が明るく見えてきた。目先が行き止まりで右に道が見えるのがわかるほどだ。右側の道を向くと、上から光が漏れている個所があった。屋外から差し込むような光ではないようだ。光といえども、少し暗がりである。さらには右の道の突き当りにははしごがかかっていた。上へとつながる道を見つけたようだ。
地上とつなぐ柵格子の方へと近付いた。自分が立てる水の波紋とは違う波紋が広がっている。上から泥や土が落ちてきているのだろう。柵格子の向こう側を覗いてみると、人の気配はあらず、ベンチがたくさん置かれた個室があった。そっと、それに手をかけて上へと這い上がる。その部屋は少しだけ人の体臭がした。先ほどまでここに誰かいたということがわかる。
「どこだ、ここ?」
会場の内部はこちらへやって来る前に見せてもらっていたが、このような部屋と合致する間取りの部屋は見覚えなかった。
ここに居座っていても仕方がない、と判断したキリは部屋に一つだけあるドアを開けた。そのドアの向こう側にも人はおらず、静まり返っている。これはある意味好都合だが、関係者に見つかる危険性はある。
「あいつを探さないと」
内部の知り合いであるケイと合流すれば、あやしまれることはないはず。だが、彼の態度からするに、話しかけても他人のふりをしそうである。
キリは部屋から出て、ひとまずは左の方へと歩き始めた。廊下に自分が歩く足音が鳴り響くだけで、他の音は一切聞こえない。それが不気味だと感じ取ってしまうのだった。
◆
奥へと進んで行く手も、分かれているホールらしき場所へとキリは辿り着いた。そこもやはり人気すらない――否、たった一人だけこちらに背を向けて、背もたれのないソファに座り込む誰かがいた。
係員といった関係者だろうか。仕事に関して質問しに訊ねても問題はないだろうか。その誰かに声をかけることを躊躇してしまう。
「そこにいたか!」
突然、自身の後ろから大声がかかる。それに焦りを見せるキリは振り返った。声を上げた人物はこの場にいる人間の割に仮面すらつけていない白衣を身にまとった男性だった。
「あっちがつまらないっていう気持ちはわからなくもないが、勝手に出歩かれては困る」
白衣の男はキリの横を通り過ぎると、ソファに座っていた誰か――仮面を被った男のもとへと向かう。キリに対しては関心がないのか、存在がないような扱いだった。
仮面の男も白衣の男性のもとへと行くと、小さく頷いた。そして、彼らはホールをあとにする。二人を追うようにキリもホールをあとにした。
自分のことに気付いているのか、それともそこにいてもなんともないのか、あとを着けてもこちらの方へと見向きしない。更に彼らは会話をしようとしなかった。
あの仮面の男に対して勝手に出歩かれては困ると白衣の男性が言っていたが、この違法博奕闘技場において重要な役割を持つ幹部か何かの人物だろうか? いや、その割には彼の言うことを聞き入れようとしているようだ。関係性から見て、白衣の男が上だろう。
「前座余興も、もうじき終わる。誰もがそんなものよりもきみの登場を心待ちにしているんだぞ」
白衣の男はそう言った。だが、仮面の男は返事も、反応すらも見せない。ただ、無言のまま足を前へと動かすだけ。
「きみは私たちの言う通りに動けばいいだけ。きみは私たちが必要としているんだから」
その言葉に仮面の男は立ち止まった。直感的に逃げろと告げているキリはすぐ隣にあったトイレの中へと逃げ込んだ。その直後に男は振り返る。
「何か後ろめたいことでも?」
すぐに無言の男は足を前へと進めた。なんでもないらしい。そのあとを白衣の男性が追う。
キリは、二人がこちらへと来ていないか確認すると、その場で大きくため息をついた。幸い、逃げ込んだこのトイレに人の気配はある。奥の個室トイレに鍵がかかっていた。ここをウロウロして鉢合わせするのも勘弁だと思った彼も、個室へと入室した。便座に腰をかけて隣にいる誰かに気付かれないようにして、細いため息をついた。このまま、誰かが出て行くのを待とう。それが一番賢明なはずだ。
「きみも大変だねぇ」
突如、隣の個室から声が聞こえてきた。それに驚きを隠せないキリは肩を強張らせると、隣を見た。今、隣から聞き覚えのある声が聞こえた? この声、誰だっけ? キリは知り合いの顔と声を一人一人思い出しながら、ようやく声と顔が一致する人物を見つけた。
「ハルマチか?」
「随分と時間がかかったねぇ。でも正解、大正解」
彼女――アイリの軽々しい拍手がトイレに響いた。
「なんで? ここ、男子トイレだけど」
「それくらい知っているよ。だから、誰かに見られないようにして個室にこもりっきりだったって話」
「ここの関係者か?」
「いいや? でも、学徒隊関係者はこの中にいるようだねぇ」
「シルヴェスターだろ。あいつも俺も都合上ここにいるだけだ」
「うん、そう。だから、あの人に騙されて大変だねって。じゃなきゃ、きみはここにいないでしょ?」
「ああ。労いの言葉か。ありがとうよ」
キリはケイに腹を蹴られたときを思い出した。苛立ちは膨れ上がってくるようである。そうしていると、二人の会話が途切れ、沈黙が流れた。ややあって、アイリが口を開く。
「ここの情報、要る?」
「また情報屋から情報を買ったのか?」
「そんなとこ。あっ、言っておくけど、今回は前回の報酬で買ったんだから」
「そうか。じゃあ、くれるか?」
「でもフリー情報じゃないよ。条件はあるよ」
「俺、そんなに金持っていないぞ? この前の報酬もあんまりないし」
「お金じゃないよ。その歯車に関して」
アイリの言葉にキリは歯車のアクセサリーを手に取った。表面が錆びついていてザラザラしている。
「それ、上手く使いこなしてよ」
「使い方も知らないのに?」
「きみなら使いこなせる」
強引に話を進めるな、と感じた。
「わかったよ。俺、あいつを見返したいから」
「執念? すごいねぇ」
隣から小さな笑いが聞こえてくるが、これはキリをばかにしたような笑いじゃない気がした。
「……あいつはいつもそうだ。いつも難くせをつけてくる。今回だって俺との任務は絶対に全滅するってリスター副隊長に断言したんだ。失礼ったらありゃしない」
「デベッガ君って評価を気にするタチなの?」
「するだろ。評価あってこその頼られる軍人を目指しているんだから」
「えぇ? 頼られてばかりじゃ、疲れちゃうよ」
「いや、頼られるって、信頼されているじゃんか。これより名誉なことってないだろ」
またしてもアイリは笑う。今度はキリをばかにしたような笑いだった。
「何がおかしいんだよ」
「きみの考えが」
アイリのシニカルな笑い声が止まることはない。それが不愉快だと感じ取れた。
「きみってさ、自分の力量をわかっているの?」
「知っているけど、それが何か?」
「なんだ、結局は理想を語っているだけかぁ」
「悪いか?」
「悪くはないよ、うん。夢を語ることは重要なことだと思うし」
そう言うのだが、やはりどこか自分をばかにしている気がした。
「あのさぁ、聞いていい?」
「答えられる範囲なら」
「なんで男子トイレにいるの? 本当は俺をからかうために来たの?」
「ああ、思い出した。きみが言わなければ、言わずして帰るところだったよ。そう、デベッガ君にとって必要不可欠なのかなって思ったりして来たんだけど、知っちゃう?」
「……教えて」
「仮面にあるカメラは壊れてるよ」
そう言われ、急いで仮面を取り外してカメラを確認した。アイリの言う通り、本当にレンズが粉々になって壊れているではないか。全く起動していないようである。
「なんで、情報屋がそれを知っているんだよ? 俺たちの行動は筒抜け?」
「いや、それはおまけ。本当の情報は別」
そうだよな、とキリは安堵した。そこまで詳しいことを情報屋が知っていたらば、町を出歩くことに億劫になりそうだからである。
「この博奕闘技場で崇められているやつの存在について」
「崇められている?」
「デベッガ君はさぁ、この博奕闘技場がどういうところか知っている?」
そう訊ねられたキリは、ブレンダンから一応説明を受けていたことを思い出だした。
「賭け金されて殺し合いをするんだろ? 法律じゃ、生死に関する賭け事は禁止だから」
「そうだねぇ。ここじゃ、人の人権や法律なんて関係ないところ。まさに生きるか死ぬかのどちらかしかない『コインストバトル』だなんて呼ばれてるらしいよ」
「初めて聞いた」
「博奕闘技だなんて言葉自体、軍にでも聞かれたら大変だし。通語じゃないの? そこは知らないけど」
「それとそいつにどんな関係が? 主催者のこと?」
「ううん。賭けの対象となっている商品『腕なし』のこと」
人を商品扱いするのか? それを聞いたキリはあまりいい気分にはならなかった。むしろ、虫唾が走る。
「戦う側の人、だよな?」
「そう。その人って元人間らしいよ」
元人間。今は人間ではないのか。それはどこかで聞いたことがある。そう、あのときだ。先日のできごとが昨日のことのように覚えているキリは嫌なほど、脳裏によみがえってくる。
「それって、あのバケモノのこと?」
「見た目は人間らしいしいよ。半異形生命体とでも言えるんじゃないかな? つまりは、人の思考と感情を持った怪物とでも言えるねぇ」
アイリの説明に彼は妙な胸騒ぎを覚えた。人間からおぞましいバケモノとして改造する。それは――。
「この案件、ディースが絡んでいるとでも?」
「可能性としてはありえなくもないよねぇ。あの場所にディースがいなかったっていう事実ができちゃったし」
「俺のせい?」
自分があのとき、あの場所で起こるはずだった運命を書き変えてしまったから? だから、ディースはそのまま生き延びてこちらの方へと逃げたのだろうか。
「いいや? 腕なしは数年前から存在するよ。デビューしてすぐに闘技場の王者を倒して以来、ずっと王座を握っているから人気者」
「じゃあ、その人はとても強いってことか」
「……そう。とてぇも、強い。そんな人やこの大会に出場する人の情報に関する資料がこの建物のどこかにあるらしいよ」
もしかして、戦勝歴といったものだろうか。なんてキリが思っていると、アイリは言葉をつなげた。
「しかも、その資料って、現怪物たちが人間時代だったカルテとか、契約書とか、この闘技に関する計画書とかそういう物らしいねぇ」
「えっ?」
「うん? 何かあたしの物言いが、博奕闘技大会の運営者は最初から異形生命体の研究関連について執念深いように聞こえるだって? その判断はきみ自身がするんだよ」
「ちょっ、えっ? 嘘? そうなの?」
「さぁね。あたしは任務の指示が出ていないヒマ人だし。それに、きみはするべきことをしなきゃダメだよ。大会が終わって帰るに帰られなくなるからねぇ」
「は、ハルマチ?」
キリはアイリに声をかけた。だが、返事はない。もう一度、声をかける。何度も呼びかけた。仕舞いには個室から出て隣の個室の戸を叩く。鍵は開いており、中には誰もいなかった。代わりにUSBと一枚のメモ紙が便座の蓋の上に置かれていた。それを手に取り、トイレの外にも出る。誰もいない。アイリはどこへ行ったのだろうか?
「またあれに関することかよ……」
もう異形生命体に関することは、こりごりなのに。まさかとは思いたくもないが、自身の運命の書き変えによってそのようなことに遭遇しやすくなっているのだろうか。
キリはアイリが置いて行ったメモ紙を見た。
『きみは上を見過ぎ。まずはデベッガ君ができることをしなきゃ。あと、これはここの計画に関するデータです』
「……そうだよな」
今のキリにとって、最重要なのは任務遂行である。自分が今できること。それはアイリの言うこれ以外の他の情報資料を手に入れるか、それともケイと合流すべきだと思考を巡らせる。そして、キリは元来た道の方へと足を運ばせるのだった。
◆
この場所――コインストバトルの会場においての本日のメインイベントバトルを観客たちは心待ちにしていた。開始の合図であるアナウンスはまだない。ケイはただならぬ熱気に包まれながらも、闘技場へと視線を落としていた。周りの話を聞く限り、闘技での強者『腕なし』に期待を寄せる者たちが多いようだった。この闘技場での王者として君臨するくらいだ。ただ者ではないことくらいは承知済みである。
ここでアナウンスが鳴った。一気に会場はヒートアップしてより一層騒がしくなる。それはもう耳を塞ぎたくなるほどのうるささ。彼は耳を塞ぐことを我慢して下へと注目する。
《お待たせいたしました。それでは本日のメインバトルである腕なし対ナンバー23です》
アナウンスとともに闘技場へ現れたのは、先ほどの理性のない大型のバケモノだった。枷はすでに外されており、観戦席へとやって来ないか心配するも、それの視線の先はただ一点だけである。みな、その視線の先へと注目する。そんな最中、アナウンスの言葉は続いた。
《現在登場したのはナンバー23です。ナンバー23はここ、コインストバトルのトップの可能性としての支持が高いです。そんな彼を相手にするのは――》
会場中の視線の先にある扉から現れたのは、この場で喜怒哀楽の仮面をしている者たちとは対照的な無表情の仮面を被った男であった。すでに対となっているバケモノは警戒心、敵意を表している。
《コインストバトルの絶対王者、腕なしです!》
その直後、ケイは視界の端で動く何かを見つけた。そちらへと視線をずらす。その先は――高みの見物ができそうなガラス張りの観戦席。そこには町の入り口付近で置いてきたはずのキリがいたのだ。これに彼は目を疑う他ない。
◆
足を進めなければ、何もわからないと思い込み、キリはホール先で適当に通路を選んで巨大なガラス張りのある場所へとやって来た。そこから見下ろせるのは本物の違法博奕闘技場だった。向かい側にあるモニターには戦人の名前と総合賭け金額に加え、賭けに成功した者がもらえる金額までもが表示されていた。
「すごい」
金額を見て唖然とするしかない。こんな巨額はキリにとって一生稼げそうにない桁だ、仮面の奥で表情を引きつらせる。
《コインストバトルの絶対王者、腕なしです!》
アナウンスが聞こえてきた。今まさに賭け殺し合いが始まろうとしていた。闘技場には異形生命体と腕なし――いや、彼はあのときホールにいた人物ではないのか?
キリはもう一度、モニターに映し出されている『商品』の名前を見た。そして、闘技場を見る。アイリは言っていた。見た目は人間らしいと。事実だった。無表情の仮面を被り、あのホールにいた人物こそ腕なしなのだ。
「あいつが腕なし」
冷静になって考えれば、ぞっとする話である。バケモノと対等に張り合って戦う者。異形生命体と人の区別がつかない者。下手すれば死である。今更になって、膝が笑い始めてきた。耳の奥から鼓動が聞こえてくるほど、緊張しているのがわかった。落ち着け、と脳内で命令をする。言うことを聞いてくれない。
「なんで一般客がいるんだ?」
大会運営関係者に見つかってしまった。
――逃げる? 言い訳? ああ、思考が回らない!
「あ、えっと、その……」
「どこから入ったかは知らないが、観戦席は下だ。そこの階段を使って出て行ってくれ」
関係者らしき人物は、奥に見える階段を指差した。早くここから出て行くように促している。キリは彼が言うことに素直に従った。階段を下りて行った先の廊下で向かい側からやって来たケイと出くわす。
「あっ」
いた、と言う前にケイに引きずられるようにしてキリは近くの部屋へと連れ込まれた。ケイは入室してすぐに部屋の鍵をかけると、仮面をずらす。
「俺はあの場所にいろ、と言ったよな?」
「聞いたけど、俺はシルヴェスターの指図なんて受けない。自分の意思で任務を受けた意味がないから」
「戦力外が一緒にいると、絶対に相手側にバレるんだよ! さっきだって係員に何か言われていただろうが」
ケイはキリを睨みつけた。彼は対抗するように仮面を取る。
「バレてすらもいないし、俺は有力な情報を得ているんだ」
「どうせ、くだらない情報だろ」
「ここに関するデータを見つけた」
そうキリは言うと、トイレで見つけたUSBをケイに見せびらかした。
「どこで見つけた?」
「言うものか。どうせ、言っても信じないだろうからな。だから、これは俺が報告書とともに提出する」
「勝手にしろ」
「ああ、勝手に提出するさ。だから、他の情報資料も手に入れたいから俺に力を貸してくれ」
キリの発言に、ケイは瞠目した。
「……戦力外が俺に力を借りるつもりか?」
「ああ。落ちこぼれからの脱却を願うのは、軍人を志望する人間にとって当たり前だろ。でも、俺自身が自分の力量を把握していないとダメぐらいはわかるさ。自分だからな」
「…………」
「お前なら俺の言いたいことは理解できるはずだ。できるだろ、シルヴェスターなら」
真っ直ぐと見つめるキリ。その目は曇り一点すらない目だった。彼の目を見たケイはずらしていた仮面を再び着け直す。
「……可能性ある場所がわかるなら早く案内しろ。今日の大会終了時刻予定まで三十分もないぞ」
「わかった」
頷くとキリも仮面を着けた。
◆
キリはケイにホールの方へと案内した。そこには相変わらず人の気配はなく、静まり返っていた。また、腕なしと遭遇したことについても説明をする。
「よくバレなかったな」
「二人とも、俺に気付いていない感じだったんだよ。それが逆に不気味で。あっ、こっちに行けば観客席の方に行けて、こっちはあのデータを見つけたトイレがある」
「そんな重要な物、トイレに忘れるとはさぞかし今頃は大変だろうな」
「他は見つかったらヤバい、って思ったから行っていないけど」
ざっと説明し終えたキリは幾手もある通路を見渡した。こんなに広い場所だというのに係員の一人も来ないのは怖いと思った。だが、そう思うのは彼だけではない。ケイもだ。
「他の連中は本当にいなかったのか?」
「上の観戦席での人くらい。他は本当に知らない」
「…………」
ケイは仮面の上からあごを当てて、何かを思考しているかと思えば、すぐに手を離した。
「その白衣の男は、どこから来たか覚えているか?」
「あっち。そうそう、俺はそこから来た。もしかしたら、奥の方かもしれない」
「それ以前にどこから侵入してきた? 俺が行ったところは博奕参加者入り口だったぞ。まさか、そこから関係者入口に入れるほど器用じゃないだろ」
「わかっているじゃないか」
自分のことをわかってくれているのは嬉しいが、それは逆に腹が立って仕方がなかった。
「あっちの方にあった部屋の排水溝から入ってきたんだよ」
「だから、少しにおうのか」
「うるさいな。逃げ道は多く知っておくべきだろ」
二人はキリがやって来た方向へと足を進めた。ややあって、排水溝のある部屋の前へとやって来るが――そこへ入ることもなく、先を進んだ。ここから先は彼らが知る由もない場所である。何が起こるか予想がつかないのだった。
「なあ、訊きたかったことがあるんだけど」
突然、ケイがキリにそのようなことを言ってきた。彼の足が止まる。
「いきなり、何?」
また攻撃されてこの場に残されてしまうのだろうか、と不安になり、つい身構えてしまう。
「何もしねぇよ」
「とか言いつつ、隙を見て俺を――」
「だから、何もしないってば。率直に聞きたいことがあるんだよ」
ケイから感じ取られる雰囲気に攻撃性は見られなかった。キリは体勢を解きつつも、警戒を怠らないように彼の動きに注目する。
「お前さ、別に学徒隊に入らなくても民兵とかじゃダメなのか?」
「え?」
「いや、だってほら……必ずしも学徒隊に入隊しなくても軍人になれる方法はいくらでもあるじゃないか。ここ、実力か縁故主義だって知っているだろ?」
「……知っているよ。だからだよ」
その質問はあまり答えたくないのか。キリはそう言うと、一人先へと歩き出す。数歩のところで立ち止まると、顔だけを振り返った。
「誰が何を言おうと、俺は自分の意志を変えたりは――」
振り返るべきだったか。否、振り返って正解だった。
「シルヴェスター! 後ろ!」
ケイの真後ろを指差す。彼が指の先へと視線を配る前に、妙な影が視界を塞いだ。
完全不意打ち。ケイはなにかによって、通路の壁に激突された。その何か――そう、今この場で絶対に遭遇したくなかった者、腕なしである。
壁にぶつかった衝撃でケイの仮面は取れてしまう。かろうじて、受け身を取ったこともあってか、大怪我に至ることはなかった。
「もう、大会は終わりかよ」
腕なしは立ち上がることが少しだけ困難そうにしているケイの方をじっと見ていた。何を考え、何をしようとしているのか。
「奥の方に先に行け」
「えっ?」
「こいつ相手にお前じゃ役不足だ」
キリにそう言うと、ケイはふらふらの状態で立ち上がり、仮面の男の前に通せんぼをした。
「博奕闘技場の王者がここにいるならば、あとは全部は雑魚だ。雑魚相手なら戦力外でも、なんとかなるだろ」
対戦上等とばかりに腕なしもやる気があるのか、黒い手袋を着けたまま指を鳴らした。関節音が周りに響く。
「早く行け」
ケイに促され、キリは心もとない様子で先を急ぐしかなかった。この先で資料を見つけて脱出口を探す他ないようである。
キリがいなくなると、ケイは隠し持っていたナイフを取り出してその刃先を腕なしへと向けた。
「ここで王者が倒れれば、俺が現状最強となるな」
床に着けた足に力を込めて、ケイは一気に詰め寄った。首の自由を利かなくすれば、あとはどうとでもなる。すなわち、腕なしの生死を握っているようなものであるのだから。
しかしながら、ケイのその行為は逆効果だった。なぜならば、腕なしが本気を出したから。メインバトルをきちんと見て、対策を取るべきだったかと彼は後悔した。
腕なしはケイが持つ隠しナイフの刃を素手で圧し折ったのだ。その素手は人の手ではない。バケモノじみた黒く鋭く尖った爪、黒い肌。折れたナイフには血すら見せない強靭的な皮膚。何より、それは片腕だけではない。両腕とも人でなしの腕だった。
――人が勝てるか?
絶望的だと確信を得る直前に、ケイはそのようなことを心の中で思うのだった。
◆
先を急ぐキリ。幸い、腕なし以外での博奕闘技場の関係者は見当たらない。それにしても――自分たちは仮面を被っているのに、彼はどうして攻撃を仕掛けようとしたのか。こればかりが気になる。係員の仮面なのだ。それなのにである。
もしかして、腕なしは自分たちが王国軍の人間であることに気付いているとでも? まさか――。
長く続く廊下を走った先に両開きの扉を見つけた。それを見つけたキリは一瞬だけ立ち止まってしまった。なぜかその扉の奥は果たして足を踏み入れてもいいものかと、不安になるくらいの威圧感が漂っていたからである。恐ろしくも、前へ進む一歩が踏めない。嫌な予感はする。それでも手を伸ばして確認してみないと。
キリが扉の取っ手に触れようとしたとき、後ろから何かしらの力が加わってきた。突き飛ばされ、両開き扉は勢いよく開き、そのまま中へと入って行ってしまった。一瞬、何が起こったのかは理解できなかったが、聞き覚えのある声が聞こえてきた。それはケイである。
自分たちが入って来た場所を見渡した。そこは闘技場の場所その物だった。観客はいないのが不幸中の幸いか。だがしかし、誰もいない闘技場にいるというのはそれはそれで気味が悪い。地面には血がこびりつき、それらしき悪臭が漂う。これぞ闘技場と呼べる代物。そもそもがこのようなばかでかい施設が町の中にあること自体が驚きである。
キリはケイを見た。
「とんでもない伏兵がいたらしい」
「見たらわかる。それはナイフの残骸だろ」
「大正解。あいつが圧し折りやがった」
ケイはあごで差した。その先にいたのは異形の腕を持つ腕なしである。剛腕は彼らにとって脅威となるものであった。
腕なしが次の攻撃を仕掛けてこないように、二人は体勢を整え直して身構えた。それでも丸腰である。
「ここはハズレだ。戦力外、どこか逃げ道を探せ。資料はもういい。退却するべきだ」
「ああ」
自分が囮になる、とケイは腕なしの方へとゆっくり近付いていく。それに応えんばかりに、彼もゆっくりと着実に二人へと歩み寄ってきていた。どちらとも逃がさない、そんな気迫がある。
「――来い、バケモノ」
手で誘き寄せる。腕なしは動き始めた。キリも動き始める。ケイは腕なしの前に立ちはだかった。
――急げ!
背を向けて走るキリを腕なしは見定めた。それにケイが気付いたときには、彼が跳躍してキリの前に躍り出たあとだった。
急激な展開に足を止める。腕のバケモノの爪が目の前に迫ってきていた。ヤバい、危険だと認識したときは遅かった。もう鋭い爪は目先にあったから。
「っ!!」
ケイの口が開くよりも、腕なしの行動の方が早かった。
――首。
ケイの視界からはキリの首から胸にかけて血潮が噴き出ているのが見えた。その血で腕なしが汚れていくのがわかる。その無表情の仮面越しではこの状況を見て、嘲笑っているかのような雰囲気だった。
キリの足が崩れていく。ああ、ダメだ。もう終わりだ。ケイは仮面の奥でしかめっ面をして目を瞑った。
◆
自身の攻撃にて、目の前の人物の首を刎ねた。その影響で彼の仮面も少し割れる。口元だけでは何も表情は見えないが、おおよそならば――絶望の一言で済む表情だろう。ほら、後ろにいる者だって俯いている。絶望感が押し寄せてきているんだろうな。
足元も崩れ落ちて行き、完全に倒れるだろうという予期ができていたのに――彼の口元は変わった。これに気付いたとき、腕なしは完璧に油断をしていた。
彼――キリが首に提げていた歯車のアクセサリーが淡く光り出す。その光はすがりたくなるほどの美しき物。そう、まさしく神が使用するような道具とでも言える。なぜ、このような美しい光ある代物を彼は持っているのだろうか。
歯車のアクセサリーから放つ光はキリの傷を優しく包み込む。それは傷の治癒。その力は致命傷であるその傷を跡形もなく完治させた。
キリは自身の傷を完治させた光に触れた。その瞬間、光は彼の手へと収束していき――あの歯車の霊剣へと変貌した。この美しい剣を見た腕なしは完全に見惚れてしまい、身動きが取れない状態になってしまった。
「書き変えてやる!」
崩れそうな足を力強く踏み込み、腕なしに対して一閃をする。繊細に綺麗なその剣だというのに、その霊剣の一撃は腕なしの攻撃と大差ないものだった。
今度は腕なしが血を出す番であった。
◆
閉じていた目、痛みは全く感じられない。どうなった?
ケイは恐る恐る目を開けた。その視界に広がる光景は信じがたいものだった。
腕なしはキリと同じくして首から胸にかけて傷を作っている。そして、攻撃を受けていたはずの彼は全くと言っていいほど、ぴんぴんとした様子で腕なしを見下していた。手には見惚れるほどの美しい霊剣。
――これは幻か?
頭を振って、目を覚まそうとした。もう一度、目を見開いて見た。
腕なしはいなくなっており、キリもあの綺麗な剣を持たずして地面に座り込んでいたのだ。やはり、先ほどの光景はただの見間違いだったのだ。あまりの恐ろしさに見えてしまった幻覚なのか。
「お、おい」
ケイは座り込んでいるキリに声をかけた。振り返った彼の仮面は下部分が欠けており、口元が見えていた。何かの拍子に壊れたのだろう――が、気になるのはキリの服が切り裂かれたような跡があることだ。
「あ、ああ。シルヴェスター」
「あいつ、腕なしはどこへ行った?」
「……逃げた」
それで説明はつくものか? あやしいが、現に腕なしはこの場にいないのだ。それではどこへ行ったのか。周りを見渡してもいない。ただ、自分たちが闘技場にいるだけである。
「あいつにやられていなかったか?」
「……いや、ない。これ、どこかに引っかけた跡だから」
などと言うが、あの記憶でさえも幻だというのか? キリを見るケイは疑心暗鬼をする。何かがおかしい。先ほどまでは自分たちの命を狙っていた腕なしが追いかけていたのに。放棄するなんて。所詮は人の形をしていても、心は理性のないバケモノなのか。
「シルヴェスター」
キリは少しおぼつかない様子で立ち上がった。口が丸見えの仮面の状態のため、彼の声ははっきりと聞こえてきていた。
「腕なしはいないし、誰もいない。けど、資料はどうする?」
「……応援を呼ばれたらどうしようもない。ここから脱出しよう」
「わかった」
二人は闘技場へやって来た両開きのドアから出た。その際、キリは扉が閉まる直前まで自分たちがいた場所を見つめていた。
そう、彼の視線の先――扉の向かい側にある扉の向こう側に誰かがいるから。その誰かは言わなくともわかる。閉まる直前にその誰かの姿は見えた。
「お前の運命も変わったんだ」
キリの小さな呟きは扉が閉まる音で掻き消されてしまった。
◆
それから二人はひた走りに闘技場の施設から抜け出した。ブレンダンの部下は先に帰ったのだろう。車がないから。だから、彼らは公共機関を利用して関係者に見つからないようにして戻ることにした。キリが手に入れた戦利品である闘技場に関するデータのUSBを持って。
帰りの道中にて、眉をひそめながら窓から見える景色を眺めていたケイはキリに声をかけた。
「任務中に白昼夢を見た。お前が死ぬところだった」
「……縁起でもない夢だな。でも俺は生きて、こうしてシルヴェスターの隣に座っているよ」
「そうだな。そうだったな」
ケイは黙ってしまう。キリも何を話題にしていいのか。ややあって、彼の口が開いた。
「なあ、覚えているか? 特別演習実習」
「雪山行進のことか」
「うん。あれな、挑発に乗るんじゃなかった、って後悔してた」
ケイは窓枠に肘を乗せた。
「そりゃな、あとから大騒ぎだったよ。お前がいない、って。雪山の中で倒れていたらしいな」
「悔しかったんだよ、シルヴェスターに嫉妬するほど」
「あ? 俺にか?」
キリの方を見た。彼は反対側の窓の景色をぼんやりと眺めていた。その目の色は哀愁漂っている。
「羨ましいんだ。誰からも慕われて、信頼できて強いお前がさ」
キリはケイの方を見る。その目は嘘をついていなかった。それは誰にでもわかるような眼差しである。
「それで、今件で俺は認めてもらいたかった。だから、汚い排水溝に入ってまでして、施設に侵入した」
「…………」
「俺はシルヴェスターみたいに歴史ある家柄の人間じゃないし、みんなの言う通りに戦力外だってことは十分に自負しているんだ。要は、対等になりたかったんだと思う」
なんて言うキリだが、段々と恥ずかしくなってきた気がして、顔が熱くなってきたのを感じた。それをケイに覚られないように窓の方へとそっぽ向く。
「ごめん、やっぱり忘れて。言っている自分が恥ずかしくなってきた」
ケイの方を向いていないキリはこの場の雰囲気が重たくなってしまったな、と後悔した。こういうのは言うべきではなかったようだ。だが、沈黙にはならなかったようでケイが口を開く。
「もう一つ、白昼夢を見たんだ」
「は、えっ?」
慌てて、ケイの方を振り返った。彼の視線は窓の外のようである。
「誰かに腕なしから助けてもらったことだ」
「あ……うん」
「だけども、白昼夢にしてははっきりし過ぎているんだ。なあ、本当に腕なしは逃げたのか? にわかに信じがたいんだよ」
「……逃げたよ。何かを思い出したかのように、逃げ失せたよ」
「そうか」
ケイはキリを一瞥した。彼はもう窓の外を見ていた。
互いを本気で罵り合う自分たちだからこそ、わかること。なぜか嘘が見抜けること。おそらく、キリはなにかを知っているのかもしれない。あれは夢じゃない可能性がある。そうだとしたら、あの美しき霊剣の説明はどうつくのだろうか。ケイは小さく鼻でため息をついた。ふと、彼の目にキリがしている歯車のアクセサリーに目が留まった。
――まさか、な。
そんなおとぎ話のようなことがあるか、とケイは鼻で笑った。
◆
――きっと、バレている。
キリは窓の外を眺めるふりしながらそう感付いていた。自分は嘘をつくのは好きではないが、つくこと自体が下手ではない。だが、学校内にいるときのほとんどは相手に対して本音とやらを吐露しているため、ケイは自身の嘘を見抜いているに違いないだろう。
別にケイの白昼夢自体が事実だと教えても構わないが、いかんせん現実では起こりえない現象なのだ。自分が生死に関することの運命を書き変えられる。そう言われても疑いを隠せないだろう。だから、言えやしないのだ。それに、この魔法のような歯車に関してはキリ自身も知らないことが多過ぎる。それだからこそ、語ることは難しい。
「デベッガ」
「あ、な、なんだ?」
驚いた。いつもならば、ケイは絶対にキリの名前を言わず『戦力外』と言うのに。
「お前に言った全滅っていう言葉を撤回させてくれ」
「えっ、あ……ああ、うん」
「お前がいて助かった」
「うん」
「デベッガの勝手な自己判断のおかげで、その資料も手に入らなかっただろうし。俺自身も手に入れられるか、わからなかったんだ。次席の言うことは事実だったってわけだ」
「うん」
ケイは目線だけをキリの方へと向けた。
「けど、その勝手判断が命取りになる可能性だってあるんだからな。そこを踏まえて行動した方がいい」
「……わかっている」
命取り――ケイの言う通りである。ハイチが評価したキリの自己判断において、彼はその行動を起こし、幾度も死んでいる。死ぬ度に運命を書き変えている。アイリの言う歯車の剣を上手く使いこなせ。これは正直な話、本当に上手く使いこなせば、生死に関することだけでなくとも、自分自身に対する他人の評価も変えるのではないか。そうキリは思った。彼は首に提げている歯車のアクセサリーを見た。
――これを手に入れたのも、運命だろう。だって、これさえあれば、最悪な運命は変えられるのだから。