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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第一章 巡り出会う者たち
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運命 後編

 先を行くハイネの前には大柄の男が立ち塞がっていた。手には散弾銃が握られている。同じ飛び道具を持っていたとしても、こんな小さな銃で威力のある武器に敵うものなのだろうか。


「お嬢ちゃん、もしかして軍の人かい? 若いのに感心だ」


「私は王国軍の学徒隊員です。違法武器の密輸に関する報告が上がっています。大人しく投降してください」


 若干声が上ずる、ハイネは銃口を向けた。


「それは国の許可が下りていない武器ですね? それを放棄して、地面に伏せてください」


「いやいや、国にこれがある時点で許可したようなものだろう? 違うか?」


 男は何も恐れることなく、一発引き金を引いた。足下に銃弾が減り込んだ。動かなければならないのに、どうして動けないんだろう? 脅しに一発撃ちたいが、指が動かない。


「ここで死ぬのが怖いならば、お兄ちゃんと一緒に過ごすか?」


 男のその言葉にハイネは大きく反応した。間違いない、この男こそハイチを引っ捕らえていた大男だ。


「どこにいるの?」


「訊く選択肢よりも、自分が行く選択肢はないの?」


 不意をつかれてしまった。ハイネの真後ろにはディースが空の注射器の針を首筋に宛てがられてしまう。注射器を手にしている彼女を見て、ハイネは意想外な様子で一驚するしかなかった。


「あなたはっ!?」


「エーワンが引き留めてくれていたから、簡単に後ろを取れたよ。これだけは感謝するよ」


「どうでもいい。その娘も実験台か?」


 実験台? 話が見えないようでハイネは眉間にしわを寄せた。彼らは何かの人体実験でも行っているのか。


「いいえ」


 ディースはハイネと後ろへ振り返った。その奥からはキリが大慌てでやって来る。


「なっ!?」


 ハイネが人質になっていることに気付き、急に足を止めた。手に持っていた銃砲を思うように構えることすらままならない。


「さて、この女が大事なら、それ捨てたら?」


「何を企んでいる」


「それとも自分の命が惜しいなら、この女を殺せば? あっ、殺せないならば、あたしが殺してあげるよ。きみって人を殺せそうにないよねぇ」


 ディースの卑劣な笑い声がその場にこだました。


「き、キリ君」


 不安げなハイネ。それと同時に、彼女たちの後ろから何かが倒れる音が聞こえた。その音は大柄の男――エーワンが地面に伏せていたのだ。その上にはハイチが圧しかかっている。


「よお、ディース」


「えっ」


 ディースの隙をキリは見逃さなかった。ハイネの首筋と針がほんの少しだけ離れた瞬間に、ディースに向かって銃砲の銃身を投げつけたのだ。


 ディースの視界の端に黒い影が見えた。邪魔だ。彼女は投げつけられた銃を注射器で払った。


「ハイネさんから離れろ!」


 薙ぎ払ったその向こう側にキリの姿がすぐそこに見えた。彼は注射器を持っている手の方に掴み、ディースの首には空いた腕を押しつける。その衝撃で彼女は地面に倒れた。キリは彼女に馬乗りの状態で抑え込んだ。彼が起こした行動は確実ではない。一つの賭けらしい。キリは肩で息をしていた。


「言っておくが、今の俺の選択肢にはお前らを捕えることだけだ。俺もハイネさんもお前らなんかに負けたりしないっ!」


「そんな悲しいこと言わないで」


 ディースは愁然たる表情を見せてきた。その彼女の顔を見てキリは動揺を隠せない。自分は悪くないはずなのに、心の端の方では罪悪感が否めなかったのだ。そこに彼の隙ができてしまう。


「ぎっ!?」


 ディースは空いていた手でキリの首に手刀を当てた。それにより、彼が固定した体に自由が利くようになる。続け様に彼女はキリのあごを蹴り上げた。完全な自由の身となったディースは、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。


「まっ……!」


 追いかけようにもエーワンの体に躓き、地面に転んでしまった。これでディースを見失ってしまう。


「す、すみません、ハイネさん。見失ってしまいました」


「いいの。助けてくれてありがとう」


 ハイネはキリに手を差し伸べてきた。彼はそれで起き上がる。そして、エーワンの上で欠伸を掻くハイチに謝礼をする。彼はそれ以外に手足首をロープで括って身動きが取れないようにしていた。


「あの、ハイチさんもあいつに隙を作ってくださって、ありがとうございました」


「いいってことよ。それよりも、よくあんな行動を取ったな」


「状況的に危険でしたか?」


 キリがそう訊ねると、ハイチは「当たり前だ」と立ち上がった。


「どうせ抑え込むならば両腕の自由を奪え。もし、あの女が妙な薬品の入った注射器を手にしていたらという想定を考えろ」


「はい。でも、あいつって?」


「裏切ってないんだからね」


 いつの間にか、キリの真後ろにアイリがいた。ディースと彼女が同一人物だと思い込んでいる彼らは身構える。そんな態度を取るのも無理はないだろうな、とハイチは鼻でため息をした。


「お前ら安心しろ。そいつはアイリ・ハルマチだ。さっきのはディースという女だ。同じだと思っていたが、これではっきりした。そいつと同じ顔した敵が存在するらしいな」


「えっ、じゃあ、裏切ったりとかは?」


「してない。世界には似た顔の人がいるって言うけど、本当なんだねぇ」


「というか、逃げろってメールしたよな? ハイネも」


 ここにいるキリとハイネにあまりいい顔を見せないハイチ。その言葉に彼女は首を横に振った。


「危険は承知だってわかってた。でも、助けたかったの、ハイチもアイリちゃんも」


「ハイネ先輩……」


「それにさ、四人が奇跡的に集まれたんだよ! みんながいれば、反軍の制圧ってできる、かなぁ?」


 段々と不安になってくる。果たして、銃砲二丁とナイフ二本だけの四人で総数不明の反組織に勝てるのか。ハイネの不安げな言葉に誰もが難しそうな顔を見せていた。特にハイチに至ってはより一層、眉間にしわを寄せているではないか。彼の顔色からしても不安要素は拭えないのだろう。


「ねえ、ハイチ。何か作戦とか……」


「多分、難しいと思いますよ」


 その答えはハイチでなく、アイリの口から返ってきた。


「でしょう? あたしはあなたから聞いただけで直接は知りませんが」


「どういうこと?」


「俺自身も本物を見たわけじゃないがな。あの女、人体実験で異形生命体を作り上げようとしているらしい」


 まさか、先ほどハイチの言っていた『妙な薬品の入った注射器』で人がバケモノになるのか。それはとてつもなく恐ろしい話だ。自分が怪物へとなるのだ。人として見られない、人として扱われない、人と呼べない、そんな恐ろしい風貌になるなんて最悪に決まっている。


「俺もそのバケモノにされそうになったが、なんとか免れた。だけれども、俺たちの知らない地下の奥に異形生命体はいるはずだ」


「そして、任務失敗したら人生が終わりとかおかしくないですか? ねえ、なんでだろうねぇ?」


 アイリはキリの方にも顔を向けて、そう言ってきた。


「それはわからない。けど、俺たちはここを制圧するしか方法はないんだよ」


「何を言っているんだ、戦力外。今の言葉を撤回しろ」


 ハイチはため息を漏らしながら、キリをどこか見下したような目で言ってくる。ややあって、彼の背中に一発平手で叩いてきた。


「方法は一つだけとは限らねぇ。選択肢が少なければ、勝手に増やせよ。色んな僅かな可能性でもすがり、賭けろ。それは絶望じゃなくて希望だと思い込むんだよ、『デベッガ』」


 ハイチは道破する。そう言われたキリは彼を見た。ハイチは頷く。ハイネを見た。彼女は頷く。アイリの方を見ると、どこか納得した様子で頷いた。


――そうだ、可能性は一つだけじゃない。


「絶対任務を成功させましょう!」


 キリは力強く返事をした。


     ◆


 拘束したエーワンから押収した銃をハイチが手にして、奥の方へと進むことにした。なるべく、四人で固まって。あやしいと思ったところは随時報告する形を執った。反政府軍団員たちを見かければ、音で周りに気付かれないように敵の背後を取り、ナイフで脅して拘束していく予定だっただが――。


「脱走者と侵入者がいたぞ!」


 発見すれば、射殺の指示でも出ているのか、見つかり次第彼らは発砲されていた。だが、学徒隊員の中でも抜きん出て実力のあるキンバー兄妹。特に兄であるハイチの方は銃弾を銃弾で相殺し、相手の急所を目掛けて数発で倒していく。


「多いな。お前らもガンガンやれ」


「発砲はいざというときじゃなかったんですか?」


 普通に疑問を抱いているアイリは、反政府軍団員の背後から首を絞めながら嘆息を吐いた。


「状況を考えろ」


「はいはい。デベッガ君、こっちもお願い」


 倒して、まだ息がある者にだけ縄で拘束をするキリはハイチの発言に無茶ぶりだ、と感じていた。突撃することを決めたのだが、彼個人での戦闘能力は使い物にならないと判断されたのだろう。銃砲の代わりにナイフとトレードされ、拘束係に任命されていた。相手の隙を見て背後を取ろうと試みるも、大抵は三人に役を奪われてすることが本当に拘束だけとなっているた。それだからこそ、周りの判断は賢明だとキリは無理やり納得するしか他ない。少しだけ不機嫌そうな彼にハイネは「大丈夫?」と訊いてくる。


「どこか、気分でも悪い?」


 変に心配されて、逆にキリはしどろもどろする。


「いや、だ、大丈夫です」


「そお? 何かあったら、言ってね。私たちがフォローするから」


「ありがとうございます」


 ひとまず、その場に現れた反政府軍団員たちを倒したハイチは武器類を押収する。彼らの目の前の方には道が二手に分かれていた。


「先を急ぎたいが、これはどっちに向かえばいいんだ?」


「二人はどっちから来たの?」


「そもそも、二手に分かれた道ってあったっけ?」


 ハイチはうろ覚えのようでアイリが頼りであるのか、訊ねた。だが、彼女自身も難しそうな顔をしていた。アイリ自身も覚えていないのだろう。


「牢屋からだと、一直線だったと思うんですが」


「どの道全団員を制圧しなけりゃならねぇんだ。こっちから行こう」


 迷った挙句にともかく、前に進もうという精神で足を進めるハイチ。そのあとをハイネが着いていく。キリとアイリもあとを追うのだが、突如として道を塞ぐ壁が上から落ちてきた。


「んなっ!?」


「えっ!?」


 完全に四人は二手に分かれてしまった。壁の向こう側にはハイチとハイネが。


「おい! 無事か!?」


「ぶ、無事ですけど、壁!?」


 目の前に立ちはだかる壁は分厚く、びくともしなかった。その壁を調べていたアイリはある物を見つけて、キリの服を引っ張る。


「なんだ?」


「ねぇ、これ」


 アイリが指差すのは暗証ロックの機械だった。このロックを開けるにはカードキーと暗証番号が必要らしい。しかし、そんな物は持っていないし、暗証番号なんて知らない。番号が表示されるはずであろうディスプレイには『60』の数字が赤い字で打ち込まれているだけだ。


「何かあったか?」


 二人の雰囲気を察知したハイチは訊いてくる。


「あ? なんだこれ? 60?」


 どうやら、壁の向こう側にも同様のロックの機械はあるようだ。


「ハイチさん、この壁を開けるにはカードキーと暗証番号が必要みたいです」


「そうくるか。ハルマチ、暗証番号くらいは知らんか? 反政府軍団員たちの情報を買ったんだろ?」


「パスワードならば、システムデータに入るためだけですけど」


 そう答えるアイリも、どことなく焦った様子である。


「……聞いてください」


 アイリは壁の向こう側にいる二人に声をかける。


「あたしが情報屋から買ったのはシステムデータのパスワードと反軍たちの非常事態のことだけです。今から、その非常事態について説明しますので」


「話してみろ」


 アイリはキリを見た。彼は首を縦に振る。


「画面に赤く『60』の字がありますよね? これ、反軍の非常事態を表しているそうです。おまけに、どこのエリアへ行っても同じ壁があるらしいです」


「非常事態?」


「この地下通路の中にあればの話ですが、同じ赤い字で『60』と書かれたカードキーしか開けられないらしいんです。たとえ、暗証番号を知っていたとしても開きません。それは、通常時だけの話らしいから」


「つまりはその、『60』って書かれたカードキーを探せばいいんだな?」


「赤い字ですよ! 急いでください! どこかにある恐ろしい部屋が開かれたとき、恐ろしい物が暴れるそうです!」


「恐ろしい物? それは知っているか?」


「情報によると、異形生命体です」


 途端に重たい空気が漂う。キリにとってそのことは聞きたくなかった。あんなバケモノなんて完全武装した人間でさえも、簡単にやられてしまうのに。見つかれば一巻の終わりではないか。


「どこか、ってそこは知らないんだよな?」


「はい」


「この数字がカウントダウンではないんだよな?」


「はい」


「じゃあ、俺らはこっちの方で探すから、そっちは行動できる範囲で探してくれ」


「わかりました」


 アイリがそう返事をすると、壁の向こう側にいた二人の足音が遠ざかる音が聞こえた。彼女は神妙な顔付きでキリを見てくる。


「あたしたちも探そう。カードキーを持っているの、ディースな気がする」


「えっ、この人たちは?」


 彼らは持っていないのか。キリは地面に横たわる反政府軍団員たちを見て思う。これにアイリは大きく頷いた。


「非常事態なんだよ? 下っ端が持つなんて考えられない。ディースは異形生命体に改造ができる技術を持っているから、きっと幹部だと思う」


「そっか、じゃあ行こう」


 二人はハイチたちとは反対方向の分かれ道へと足を進み始めた。


     ◆


 これより先へと行くと、自分が監禁されていた牢獄へと続いているかもしれない。ここもであるが、あの場所は軍人捕虜が監修されるような監禁場所よりも血生臭さは感じ取られていた。いや、そんなたとえとは何かが違う気がする。どうたとえたらば、いいだろうか。あまり奥へとハイネを連れて行きたくない。ハイチは彼女の様子を見た。嫌悪感が丸出しの表情だった。


「平気か?」


「うん」


 言葉ではそう言っているが、ハイネはこのような雰囲気のが大嫌いであることをハイチはよく知っている。いや、彼女でなくとも、誰もが好ましいとは思わないだろう。


「あんま、無理するなよ」


 ハイチの言葉の優しさに頷く。今のところ、武器に困ってはいない。非常事態となっているこの施設は出入り口が塞がれている。敵が増えることはないはず。もっとも恐ろしいのは、異形生命体が現れたときの話だ。自分たちだけで倒せるかと言われると、閉口してしまう。だが、別行動を取っている彼らとなると、不可能であることが目に見えるようだった。アイリが何かしら使える情報を持っているならば、逃げるなり弱点で攻撃するなりして対処できるだろうが――。


「それでもなぁ……」


 ハイチは頭を掻いた。


「もしかして、弾薬が足りない?」


 ハイネは不安そうにハイチの顔を覗いてくる。そんな彼女に対して彼は「そうじゃない」と返した。


「弾丸は大量にがめたから問題ない。俺が気にしているのは――」


 そのとき、通路の奥の方から破壊音が響いた。二人は顔を一斉にそちらへと向ける。先が見えない真っ暗な通路。唯一、壁の横に点された豆電球の光が彼らの周りだけを照らしていた。それに気を取られていと、突然にハイチは鼻元を服の袖口で抑え込んだ。眉根を寄せて奥を睨む。通路の奥から強烈な異臭がしたからだ。鼻が曲がりそうな、嘔吐しそうなほど。ハイネもそれに気付いたのか両手で鼻と口元を覆っていた。


「これ何?」


「腐臭みたいだな」


 監禁されていたときに近いが、ここまで強い刺激臭ではなかった。これはなんだ?


「ハイネ、先に進めないようならここで待ってろ」


「えっ、でも」


「俺ならなんともねぇよ。ここなら、後ろから追手が来ることはないし」


 自分一人で片付けてくると言い出すハイチ。しかし、そうはいかない。


「ハイチ、前っ!?」


 ハイネが指差す先――彼らの目先には『人』とは言えない存在。成人男性の三倍はあろう巨体。ぎょろりと大きな目玉を見開かせ、歪んだ口元からは自制が利かないのか、涎を垂らしていた。これこそ、四人が恐れを抱くバケモノの正体『異形生命体』である。硬直する二人。学徒隊員でも実力があるハイチでさえも足を後ろへとにじる。


「怯むなっ! 撃てぇ!」


 これをハイネに言ったつもりではない。自分に言い聞かせたようなものだ。目の前にいるバケモノに恐怖を抱いているのは事実。だが、ここで怖けついてもどうしようもない。後ろへの逃げ道はない。横は大きな体で遮られている。たとえるなら、壁と呼ぶに相応しいのではないだろうか。


 ハイチは反政府軍団から奪い取った銃で、顔を集中的に撃ち続けた。


――あいつは平気なのか?


     ◆


 キリよりも一歩前を行くアイリ。彼はそんな彼女の後ろ姿を見て案じた表情を見せていた。


「ブルー入っているねぇ」


「こんな場所でにこにこしていたら完全に場違いだろ」


「そりゃあねぇ。このにおいを嗅いで笑っているなら狂気沙汰だよ」


 腐臭。二人はそれだけしかわからなかった。あまりの異臭に何が腐っているのかすらわからない。酸っぱいにおい? ああ、喉の奥から出てきそうだ。


「てかさぁ、デベッガ君。顔色悪いけど」


「うん。そういうハルマチこそ、平気なの?」


「ないない。すぐにでも換気をしたいくらい」


 そう言ってはいるものの、アイリの表情は平然としている。自分も彼女みたいな平常心が欲しいなと思った。アイリが見せるスタイルは疑心暗鬼を生むものもあるが、素直に感心するようなものさえもあるのだ。


「それ以前に異形生命体が出てきたらどうする? カードキーさえあれば、ダッシュで逃げられるにしても、今ここで見つかったら――」


「ズタズタの、ボロボロになるとか?」


 二人の前にフードを被った人物――ディースが現れた。彼女の顔はフードによって表情がわかりにくい。


「もし、あの子たちに殺されたらば、自分が殺された気分になりそう」


「じゃあ、逆にあんたが死ねば、カードキーは手に入りそうだ」


「カードキーというのはこれのこと?」


 ディースは懐から赤い文字で『60』と書かれたカードを取り出した。まさしくアイリが言っていた通りである。やはり、ディースは反政府軍団の幹部なのか。


「そう、それ。ちょうだい」


 自分の立場なんて気にしないアイリはディースに寄越せと言ってくる。彼女はアイリではなく、キリの方をじっと見てきた。それに彼はたじろぐ。


「お店を利用したことがないの? 物に価値はあるよ」


「あぁ、あたしたちのアパートの台所にある三角コーナーを覗いてみて。そこにある物全部あげるから」


「ごみが欲しいとは一言も言っていないけど?」


 アイリのふざけた物言いに対して頭にきたのか、ディースは口元が引きつった様子を見せていた。


「この掃き溜めのような場所にいて、これと釣り合うのは一つしかないでしょ? きみだよ」


 ディースはキリを指差した。これに彼から悪い汗がどっとあふれ出てくる。


「嫌だ、って言ったら?」


「それはあんたが決めることじゃないし、そんな権限は一切ない。きみが決めるの」


 話を振られてしまう。キリの答えはもちろん「ノー」だ。しかし、断るとどうなってしまうだろうか。果てしなく嫌な予感しかしない。


「素直にあたしに従うのも、断るのもヨシ。もちろん、断ればわかるよねぇ?」


 何も言葉が出てこない。どちらが最優良の答えか。ディースに着いて行けば、普通の人生を歩めるはずがない。断れば、自分やアイリに何があるかわからない。だが、自分が最悪な目に合う方がもっと最悪だ。


 考えられそうにないキリに、痺れを切らしたディースは口を尖らせ「じれったい」と呟いた。


「でも、悩むきみも好きだなぁ」


 そう言うと、ディースは壁へと歩み寄ると、隠されていたスイッチに手をかけた。


「だったら、もっと悩ませてあげるよ」


 壁にある隠し扉から現れた異形生命体。その場に激臭が一気に充満した。異臭の正体はこれだったのか! 異形生命体は倒さんとして銃砲で発砲するアイリの攻撃を気にしない。彼女をそのまま片手で掴んだ。


「ちょっ!? 放せ! って、くさっ! くっさぁ!」


 あまりにも強烈な腐臭にアイリの目からは涙が出た。異臭と圧巻により、キリはどうすることもできずにその場で立ち尽くすしかない。


「奥で待ってるから。来なければ、この女の命はないし、きみもここから一生出られない。来れば、この女の命は助かる代わりにきみは一生ここで暮らすの」


 ディースはそう言うと、異形生命体を出したスイッチに手をかざした。すぐにキリの後ろには鉄格子が天井から下りてくる。確かにこれでは逃げられない。彼女は彼に究極の選択を差し出しておいて、いなくなってしまっている。奥へと向かったのだろうか。


 キリはびくともしない鉄格子に触れた。


【来なければ、この女の命はないし、きみもここから一生出られない。来れば、この女の命は助かる代わりにきみは一生ここで暮らすの】


 自分が助かるという選択肢はない。ディースは用意してくれなかった。いや、最初から自分をここから出すつもりは毛頭ないのは目に見えている。だからこそ、思う。答えを出してやろうじゃないか、と。


 キリは俯いていた顔を上げて、通路奥を見据えた。


「……俺が勝手に選択肢を増やして勝手に変えてやる。俺もハルマチも、四人全員が助かる選択肢に!」


 キリは歯車のアクセサリーを握ると、奥の方へと走って行くのだった。


     ◆


 狭い場所での巨体との戦いは厳しかった。恐怖によりハイネは足が竦んでいるし、ハイチに至っては自分がしなくてはならないのに、手も足も出ない状況であった。異形生命体がこちらに攻撃してくる度に回避しては、彼女は平気かと気が散ってしまう。


 自身が持つありったけの弾丸を顔に向けて放ったのに、相手は平然としているどころか傷一つもない。これに二人は絶望を覚えた。今、ハイチの手元に残っているのはアイリからもらったナイフのみ。弾丸が効かない相手にどう立ち向かえと?


 あまつさえ、異形生命体は二人に拳を振り下ろしてくる。ハイネを抱えながら、ハイチは後ろへと飛んだ。下ろされた場所には大きなへこみができていた。このへこみ、その地面だけではない。周りの壁や天井に至るまであるのだ。こんなものをまともに受ければ、ひとたまりもない。下手すれば粉砕骨折、もしくは内臓破裂となり行動不能に陥るだろう。


「動けるか?」


 ハイネにそう訊ねるが、彼女は首を小さく横に振る。どうやら動けそうにもないようだ。体が震えている。かと言って、抱えたまま動くにも体力は要る。一度、ハイチはハイネを地面に下ろした。彼女は不安そうにこちらを見てくる。


「大丈夫」


 強引に納得させたハイチは、アイリから受け取ったナイフを取り出した。現在の得物はこれ一本とハイネが持つ銃だけ。確実的な武器なしでこれだけで果たして勝てるものか? 否、勝たねばならぬ。


 ハイチはゆっくりと足取りが不安定のように異形生命体へと近付いた。足の動きを、手の動きを、目の動きを相手に知られてはならない。


――狙いは目だが……。


 異形生命体はハイチに向かって腕を振り下ろした。彼は攻撃が当たらないように横へと逃げる。


 攻撃の隙、それは絶対に逃すものか。地面から小石が、破片が飛び散る。ハイチは大きな体躯の後ろへと回り込むようにして跳躍した。首に手をかけ、自身の感覚でナイフを突き立てる。


 手応えはあったか!? バケモノは大きな悲鳴を上げた。自分自身の目に激痛が走る。何が起こったのか理解できない巨大なバケモノは更に暴れ出した。周りに見境なく己の拳を振るっていく。目の前には腰を抜かしたハイネの姿。悪臭を漂わせる怪物は雄叫びを上げて彼女の方へと突進し始めた。


「ハイネ!? 立てっ! 避けろ!」


 しがみつくハイチを振り落とそうともがく。それでも足は止まらない。足が動かない。逃げなければならないのに、立ち上がれない。


「立て」と命令する脳をよそに、異形生命体と目が合った。潰されていない片方の目からは恐ろしい気配を感じた。殺気だろうか。


 ハイネを助けなければ、そう考えるハイチは刺したナイフを引き抜いて、もう片方の目を刺した。これによりハイネは我に戻る。急に立ち上がれるようになった。


「お前のこっちに寄越せ!」


 ハイチの言葉にハイネは持っていた銃砲を投げ渡した。それを受け取ると、歯を食い縛っている巨体の口を無理やり抉じ開けて銃口を突っ込む。向きは脳天。弾丸を惜しまず、連射した。


 撃たれる度に異形生命体は体を痙攣させている。それでも命の危機を理解しているようで、ハイチを振り落とそうと暴れる。口に突っ込まれた銃を噛み砕こうとする。銃身の軋む音が微かに聞こえた。歯噛みで彼の手が少しだけ巻き込まれており、利き手に傷ができた。手袋をしているため、痛みは多少和らいでいるようだが、発砲の振動で激痛が走る。それでも! 弾切れまで落とされるな、銃を離すな、固定して、撃ち砕け!


「こなクソがっ!!」


 ラスト一発、引き金を引く。手に痛みが強く走った。もがく巨体は大きな痙攣を起こす。頭の一角からは撃ち始めた一発目らしき弾が飛び出てきた。巨大な怪物は動きを止めたかと思えば、前へと倒れてしまった。そこからハイチが見た光景は唖然とその場に立つハイネだった。彼女は彼の姿を見かけると、心配と安堵が混ざったような表情を浮かべる。


「……は、ハイチ」


「ハイネ……」


 異形生命体に息はない。動く気配すらもない。


 小隊に念密な作戦と幾多のシミュレーションがなければ勝つことができないバケモノの相手をし、それで手を怪我しただけで打ち破る。たった今、ハイチはこの世界での常識を覆してしまったのだ。


 そんな誉れよりも、とハイネの無事を確認したハイチは大きく息を吐いた。人間にとっての偉業ある実感よりもそちらの方が大きいようである。安心しきったせいで、膝が笑い始めてきた。その場に座り込む。


「ハイチ!」


 ハイチが無事だと確信したハイネは抱き着いてきた。鼻を啜る音が聞こえる。彼女は泣いているのか。


「泣くなよ」


「だって、だって!」


 声が震えている。ハイチは怪我していない方の手でハイネの頭を優しくなでた。


「めそめそしていると、あいつらに笑われるぞ?」


「うるさい!」


 兄にからかわれた妹は恥ずかしそうに顔を上げた。涙目で膨れっ面を見せていたが、彼の後ろの方に何かがあることに視線を向ける。薄暗い光に反射して鈍く光っていた。その存在にハイチも気付く。手を伸ばして取ったそれには『60』の赤い字で書かれたカードだった。


「これって」


「まさか、こいつが持っていたわけじゃないだろ」


 じっと、斜め上にある虚空を見つめた。


「妙な運というものは巡ってくるのか?」


 ハイチは片眉を上げて、立ち上がった。


「どちらにせよ、二人を助けに行かないとな」


 ハイチの言葉にハイネは不安そうに頷くのだった。


     ◆


 奥へ行くにつれて悪臭は濃くなってきていた。これもアイリたちがいる場所に近いのだろう。その度にキリの足は動きを止めようとする。だが、ここで止まっていられない。逃げてはいけない。行くんだ!


「…………」


 恐怖心を吹き飛ばすために、何か別のことを考え始めようとする。駄目だった。気を抜いたら、それこそ命取りになる。結局のところキリはなにも考えずに、頭を真っ白にして体には前へ進めと命令を下していた。


 そんな不気味な通路も終わりを迎えた。通路の奥には折戸が佇む。その扉の奥から放たれる雰囲気は早く開けるように急かしているようだった。


 大きく深呼吸をし、目の前にある大きな扉を開けた。その扉の奥は床や壁、天井に至るところまで細かく描かれた宗教画。天井の中心には豪勢なシャンデリアが部屋を明かりで照らしているわけでもなく、ただそこに存在していた。部屋の明かりは壁に備えつけられた燭台にある明かりのみ。そんな全てを圧巻しそうなこの部屋中には異形生命体の異臭が鼻についた。彼女たちは奥の方にいた。


「おっ、来てくれたんだ。うん、そうだよねぇ。来なくちゃ。きみみたいなひ弱な人間が堅い鉄格子をぶち壊すことなんて不可能だもの。大人しく、あたしの実験体になるべきだよ」


 ディースの声がその場に響いた。


 部屋の奥には木の柱に括りつけられたアイリがいた。彼女の足下には薪らしき物が転がっている。嫌な予感しかしない。


「ハルマチを放せ」


「きみはここが何か理解している?」


「そんなもの知るか! いいから放せ! 俺たちはお前らなんかに屈服しない!」


 そう断言するキリだが、ディースには鼻で笑われてしまう。


「指示書。軍人の見習いとは言え、学徒隊員さんたちも大変だねぇ。宗教絡みになると本気出せないって」


 ディースは懐から一枚の紙切れを取り出した。おそらく、アイリから奪った物だろう。


「知ってる? ここって昔の礼拝堂だったんだよ。従ってこの場にいるならば、この宗教であるキイ教の規則に従わなくちゃねぇ」


「……俺たちは無宗教だ」


「そんなの関係ないよ。生きる術を失った哀れな者どもはここで一生を暮らす。ここはあたしたちが信じている教えの聖域。無宗教者だろうが、無神論者だろうが関係はない。ここにいる者すべては世界の教えに従うべし」


「はっ、そんなものがなければ生きていけないのかよ」


 身動き一つ取れないアイリがそう吐き捨てた。これにディースは逆なでしてしまったようで、形相の睨みを利かせてくる。


「自分の立場をわかっているの? わからないなら教えてあげようか? あんたは異教徒として処刑されるの。ここでの審判者はあたし一人。あんたの生死はあたしが握っているの」


「異教徒なら、あっちだってそうじゃん」


「彼は違う。彼は自らの意思であたしに忠誠を誓っているのよ。その証拠にほら、ここに来た!」


 キリの方へディースはゆっくりと歩み寄る。広いこの礼拝堂では彼らの距離は僅かながら遠い。キリは近付いてくる彼女を拒絶するかのように、ナイフを取り出して構えた。得物がないというわけではない。だからと言って、こんな小さな武器一つで対処できるほど彼は器用ではなかった。それでも、無事に帰るために、自分への可能性を示唆するためにキリは動いた。


「俺たちは自由だ!」


 雄叫び声を上げながら、ディースに刃先を向けた。動くキリに対して、彼女は立ち止まる。カウンターか? 対処法はない。だが、体が動いている以上は止まらない。


「でもさ、ちょっと血の気が多いよねぇ。少なさそうなくせに」


 ナイフの刃が届く直前にして、キリは腹に蹴りを食らった。


「生きてさえすれば、四肢はどうだっていいや」


 ディースの言葉が合図のようにして、アイリの傍らにいた異形生命体は重たそうな体を素早く移動させて、キリを入り口付近まで殴り飛ばした。壁に激突しその場に崩れる。壁に描かれた絵には彼の血がこびりついた。


 殴り飛ばされた地点から、今いる場所まで相当の距離はある。人間ってこんな簡単にも吹き飛ぶんだな、と冷静に思う自分がいた。そんなことを考えている場合ではないのに。動かなければならないのに、なぜに動けないのか?


 体中の力が入らなくなる。瞬きと呼吸だけが精いっぱいだった。ディースは「生きてさえすれば、四肢はどうだっていいや」と言っていた。おぞましい。キリの呼吸が段々と荒くなってくる。呼吸をする度に体中が痛む。その痛みは自身の心情を優先させているのか、通り越していく。どんな形でもいい、立たねば。もはや、気力だけで足に地面を置いている彼にディースは嘲笑う。


「知ってたぁ? 人間って諦めが肝心なんだよ?」


 笑われたキリは鋭い視線を見せた。その気色は諦めない思いである。これにディースは少しだけたじろぐ。


「……逆に人間じゃないみたい」


 ぼそり、と呟いた一言。ただの独り言のつもりだったが、遠くに離れていたキリにはっきりと聞こえていた。


 足に踏ん張りを利かせているキリに、巨大なバケモノがもう一度殴り飛ばした。今度は別の壁に激突した。壁は壊れて破片が床に散らばる。


――何かの可能性と選択肢を。


 まだ立ち上がろうとするキリに、ディースは嫌気が差していた。見ているこちらが気分悪かった。必死になって怯えて諦めるか、迷っている彼こそが至高だと思っていたのに。とんだ見込み違いだったようである。何度も、何度も異形生命体に殴り、蹴られているのに。明らかに骨が、内臓が潰れているはずなのに――どうして彼は立ち上がる?


「違う! こんなのきみじゃない!」


「先入観はよくないって」


 真後ろから声が聞こえた。とっさに振り返れば、拳骨が目の前に迫っていた。いつの間にか縄をすり抜けていたアイリはディースを殴る。彼女は地面に転がり込む。


 アイリはキリの方を向こうとする。それと同時にディースの方から奇声が響いた。その反響する音に礼拝堂にいた者は動きを止める。


「死ね、死ね、死ね、死ね! ムカつく! ああぁ、ムカつく! もう要らない! 要らない! 要らない! 殺せぇ!」


 ディースはアイリに向かって、液体の入った注射器の針を突き立ててきた。


「殺せ、殺せ、殺せぇ! あたしに刃向うやつ全員を殺せぇ! 肉片すら残すな! 早く殺せぇ!」


 彼女の命令は絶対――ディースに従うバケモノは、すでに立ち上がることすら困難なキリの頭をわし掴みにして地面に叩きのめした。


「よそ見している場合か!」


 逃げるアイリを捕まえて馬乗りをする。注射器を掲げた。振り下ろす直前、彼女はディースの腕を両手で止める。


「こんのっ! 退けっ!」


 足蹴りでディースの持っていた注射器を飛ばした。飛んでいったそれは床に落ちて割れて中身がこぼれる。アイリは不利な状況から彼女を突き飛ばすと、間合いを取った。


「彼はどうせ死ぬ、だったらあんたも死ね」


 ディースは余程興奮しているのか、鼻息を荒くして目を充血させていた。いつの間にか、新たな注射器を補充しているではないか。彼女はアイリにそれを突き立てようとするが、両腕を掴まれてあごに一発蹴りを入れた。これが決まったようでディースは力なく、その場に倒れ込む。


「ははっ、死ぬわけない、ない」


 アイリは絶望の表情は全く見せていない。キリの体はボロボロで、今にも死にそうなのに。自分は得物すらなに一つ持っていないのに。その表情は何かを企む子どものようだった。


「だって、運命は変えられるから」


     ◆


 投げ飛ばされたキリ。もう呼吸をすることは難しい状況になっていた。ディースの叫び声は、なぜかしっかりと聞こえていた。死ね、殺せ。その単語を聞く度に指が少しだけ反応してくれた。だが、反応をしてくれるだけで、自発的に逃げたり、回避したりする行動は取れなかった。


 向こうから地響きが聞こえてくる。こちらへとバケモノが近付いてきている証拠だった。


――ここで死ぬならば、俺はなんのために来たのだろうか?


 死への恐怖心がより一層高まってくる。死にたくないのに。死に逝く自分が怖い。


 こちらの方へと向かって来ていた異形生命体だったが、急に進行方向を変えた。それはキリの目にも映っている。巨体の行き先、それはアイリの方向。危ない、の声が出ない。彼女は逃げようともしない。アイリの傍らにはディースが横たわっている。彼女は勝ったのか?


「ははっ、死ぬわけない、ない」


 突然、そのようなことを言い出した。アイリは笑っている。その様子からして、諦めた様子はない。いや、諦めるというものは全く見当たらなかった。


 アイリはこちらを見た。


「だって、運命は変えられるから――」


――あの目は。


 異形生命体は拳を掲げる。もう体は動かないはずなのに、キリは勢いよく立ち上がった。小さな金属音が擦れる音が耳を突き貫ける。その音の正体である歯車のアクセサリーからは淡い光を放っていた。


 キリの傷が癒えていく。痛みなど最初からなかったかのように、体が自由に動いた。美しい光を放つ歯車を手にした。首から提げていた物を引き千切るように取った。


 キリとの意思がつながっているようにして、歯車は形を変えた。それは美しくも人々を魅了しそうな霊剣。


 勢いつけて踏み込んだ。


「きみが変えてくれるんでしょう? 未来を」


 キリはその歯車の剣とは対照的な醜いバケモノを斬った。


 夢現ではっきりとしなかったが、今に思い出した。あれは夢なんかじゃない。現実だったんだ。


     ◇


「……女神、様?」


 思わず疑問がこぼれる。少年の声に応えるように、誰かは振り向いた。その人物の佇まいや雰囲気からして異性だと思った。自分とは何かが違う。


 直後、傷の痛みにより、視線をそちらへと向ける。気配で誰かはこちらへ向かっているのがわかった。誰かが近付いてくる度に力が入らなくなり、その場に俯せ状態になった。段々と視界がぼやけてくる。雪が冷たいを通り越して痛く感じてくる。


「死にそう」


 その誰かの声が聞こえてきた。声音からして同年代の少女か。


 その誰かをこの目で見て見たかったが、体が動かなかった。目だけを動かしてその少女の姿を拝もうとする。だが、視界にも限界はあり、首から上が見えなかった。そんな視界で唯一わかるのは、彼女が持つ奇妙な武器である。その剣は刃先が錆びており、柄が歯車の形をしていた。そして、その歯車の剣から放つ不思議なオーラは美しくも、見ただけですがりたくなるような代物だった。


 そう、まさしく霊剣と呼ぶに相応しい。


――綺麗。


 その美しさは儚げであり、死を連想させていた。そのため、少年は自分が置かれている状況を思い出して我に返った。自分自身が死に逝っていることを。彼は『死にたくない』のだ。


――なんで、俺がこんな目に合わなくてはいけないんだ?


 死にたくないのに。


「……嫌だよ」


 激しい痛みにより、少女と会話すらもできそうにない。だが、彼女は動くことができない少年の姿を見て心得顔に頷いた。


「強情だねぇ」


 少女は微笑を浮かべる。幻聴でも聞こえているのか、少年を冷笑する声が聞こえてきて仕方ない。彼女は彼に対して、何を思い、何を罵る気か。自分をばかにでもしているのか。


――ムカつく。


「死にたくないんだねぇ」


 少女は少年に微笑んだ。その口元の裏は闇が深く感じ取られた。しかし、彼女の言葉は事実である。その事実を認めたくないからこそ、彼は気力を振り絞って口を開いた。


「……死に、たくない」


 傷を抑えている手から、服の袖から落ちる血は雪を溶かしていく。やがて、少年は少女へ血濡れた手を伸ばした。彼女に触れたい、すがりたい。その一心で。


「ああ、どうか……ご慈悲を……」


 少年は昏迷しているのか、そのようなことを口にした。それに少女は口角を上げると、歯車の剣を掲げた。なぜか上手く口車に乗せられた気がしたが、不思議と恐怖感はなかった。なぜならば、助かると思ったから。


「じゃあ、生かしてあげよう」


 少女はそれを少年の胸に突き立てた。その瞬間、彼女の顔を改めて拝むことができた。ふと、我に戻る彼は今の自身の姿は偶然なのだろうか、と疑問に思ってしまう。


――女神様は薄れゆく意識の中、こう言っていた。


「もしも、きみが運命を変えるならば――」


     ◇


――最悪な運命を書き変えてやる!


 一刀両断した異形生命体は地面に倒れ込んだ。下は腐った異臭を放つ液体――これは血だろうか。腐海が広がっていた。


「夢じゃなかったんだ」


 剣先にこびりついた血を払い取る。目の前に佇む少女を見た。彼女――アイリは満足そうに笑みを浮かべている。見たことのある、底なし沼のような意味深のある笑顔。そうだ、彼女が――。


「あのとき、俺は女神様に助けられたことを覚えている」


 語り始めたキリの間にアイリは割って入ってくる。


「あのとき、あたしは哀れな数ならぬ身を、生かしたことを覚えている」


「女神様が俺の運命を変えてくれた」


「哀れな数ならぬ身が自身の運命を変えた」



「これは偶然なの?」



 二人は互いに見交わした。アイリの心からは何も読み取れない。何を考えているかわからない。どうして哀れな数ならぬ身と称する自分を助けたのだろうか。いや、今知りたいことはそれじゃない。


「俺を助けてくれたきみは何者なんだ?」


 キリはアイリに歯車の霊剣を見せつけた。一生離れないと言わんばかりに、剣から放つ不思議なオーラは彼にまとわりつく。そう、それはまるで枷のよう。


 アイリはゆっくりとキリに近付く。地面に倒れている異形生命体なんてお構いなしに踏みつける。彼女の足下はそれの血で汚れてしまった。


「……きみがあたしのことを女神様だと思うなら、それで構わない」


 キリの目の前にやって来て、霊剣を握る手に優しく触れた。その手はとても温かいものだった。冷たい手が和らいでいく。それと同時に、歯車の剣はただの歯車のアクセサリーへと戻り、床に落ちた。アイリはそれを拾い上げる。


 その直後に礼拝堂の扉は開かれた。そこへとやって来たのはハイチとハイネだった。


「無事か!?」


 ハイチは息を切らしてやって来たようで、肩で息をしていた。二人になんともないことがわかると、扉にもたれかかる。ハイネも安堵していた。


「ハイチさんたち……」


「ここ、行き止まり?」


 そう言うハイネは礼拝堂を見渡した。つられてキリも見渡すが、その光景に驚愕する。


「これはっ――!?」


「反軍の連中もいなければ、異形生命体もいないな。まあ、無事で何より」


 ハイチの言葉にキリは頭を振って、もう一度自分がいるこの場所を見た。ここにはディースはおろか、彼が倒した巨大な怪物さえもいない。さらには壁のひびも、アイリを括りつけていた木の丸太さえもなかった。幻ではないのに。すべてはどこへいってしまったのか? 夢とでも? ありえない!


「そうそう、一応は本軍に連絡を入れた。あっちも異形生命体がいるとは知らなかったみたいだな。すぐに増援を送るって――もう、来たみたいだな」


 扉の奥にある通路からは青色の軍服を着た王国軍の軍人たちの姿が露わとなった。これにキリとアイリは顔を見合わせる。彼女は口には出さないようだが、どこか満足げのようだ。


「これに関しては学徒隊の出る幕じゃないな。この人たちに任せようか。」


 そう言うと、ハイチはドアから離れると三人に地下から出ようと促してきた。これに彼らは賛同する。ここにいても仕方がないから。


 キリは礼拝堂から出る前に、最後にもう一度見渡した。現実でなければ、これは白昼夢なんだろうか。いくらこの礼拝堂を探しても、自分が見ていた夢は見つからない。ただ、自分たちが無事ならば、それでいいか。そう思っていた矢先にアイリが彼の肩を突いた。ハイチとハイネは一足先へと背中を向けていた。


「なんだ?」


 振り返るキリにアイリは、何かを手に握らせた。表面がざらざらするそれはあの歯車だった。気がつけば、首には引き千切ったあとの紐がある。


「数ならぬ身のきみはあたしの運命でさえも変えたんだ。それならば、最後まで付き合ってくれなきゃ」


 にやりと可愛くもない笑顔を見せてくるアイリ。彼女はキリの腕を急かすように引っ張る。


「早く行こうよ」


「ちょっ、ハルマチ!? さっきのことって――」


「うん? あたしのこと? 強いて言うならば、あたしは『しにん』だよ」


――『しにん』。俺の目の前に舞い降りた運命は必然か、それとも偶然か。


 すべては運命のみが知る。

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