翻弄 後編
果たしてその場から存在ごと消した者をすべて復活させることは可能なのだろうか。アイリを背負いながらキリは走っていた。視界には一足先前にいるハイチとセロ、メアリーがいる。
マッドは今どこにいるのだろうか。自分の姿をして、誰かを騙そうとしているのは間違いないだろう。
しかめっ面のキリの横顔を見ていたアイリはそっとささやいた。
「あまり深く考えちゃダメ」
キリの顔色が変わった気がした。
「きみとあいつは全く違う。デベッガ君をよく知っている人ならば、わかってくれる」
「……ありがとう」
五人が講堂の方へと向かっていると、前方からおめかしをしたレナータが来ていた。彼女は彼らのそのただならぬ空気を察知して、端の方へと避ける。だが、ハイチが手を引いた。
「こっちです!」
「えっ!?」
状況を把握できず、レナータはハイチに引かれるがまま走らされた。
「講堂で話します! 今は俺らについて来てください!」
「は、はいっ」
◆
バタバタと講堂内へと駆け込んできた六人。会場ではあり余るほど、はしゃぐなと注意するマックスにセロが「異形生命体が出ましたっ!」と大声を出した。
この発言はその場にいた学徒隊員や教官たち、来賓客らに沈黙を誘う。一斉に静まり返る会場にはゆったりとした音楽が流れているだけ。
「ヴェフェハル? な、何を?」
「教官、本当ですっ。式典に現れた、私のぱ……父を殺そうとした彼らが――」
すぐさまケイやマティルダがやって来る。キリにどういう状況だと目で訴えた。彼はアイリを近くにある椅子に下ろす。
「本当だよ。見たことあるか? 俺とハルマチに似たやつだ」
「ああ、見たことはある。が、見たにしても、詳しくその話は聞かされていない。お前が何らかの任務で倒したぐらいだ」
「ええ、だからこそ、教えてちょうだい。彼は何者なんですの?」
詰め寄ってくる二人。遠巻きにガズトロキルスが怪訝そうに見ていた。そんな彼らを椅子に座るアイリは「あのさぁ」と言ってくる。
「知りたいことは色々あるだろうけどさぁ。それ、後にしない? 今はそういう状況じゃないでしょ?」
そう言うアイリをあまりいい顔せずして二人は見てきた。それでも彼女はいつもとかわらない表情を見せながら、メアリーを見る。
「一番の問題はメアリーを守ることだと思う。あいつらは王族を狙ってやって来たんだから」
正論だ。それでも、二人は納得しない様子であった。だとしても、アイリの言い分はわからなければならない。彼らはメアリーを会場内で一番安全な場所へと誘導した。
学校内に異形生命体がいる不安を覚えた学徒隊員たちは、落ち着きを見せてはいるものの、しきりに窓の外を気にしているようだった。
「外にいるやつらは?」
誰かがそう言う。その言葉にハイチは会場中を見渡し始める。そんな彼にレナータは気付く。
「どうかされましたか?」
「ハイネがいない。教官、外に行ってきます」
許可の有無も聞かずしてハイチは手を離すと、外へと出て行ってしまった。レナータは愁眉を見せながらも彼が出ていったドアを見つめる。
◆
会場にはハイネがいなかった。そして、ワイアットの姿もいない。ということは、二人で外にいるのは確実であると確信をする。暗くて周りがよく見えない敷地内を駆け抜ける。中庭の方から講堂へと向かう際はいなかった。
「どこだ?」
無事でいて欲しい。遭遇していないで欲しい。
偶然見つけた掃除用具入れ。そこから掃除用具のモップを二つ手に持ち、広場の方へと走っていく。ハイチの直感が告げる『広場』。
「ハイネさん!」
その直感は正解のようである。そちらの方からワイアットの声が聞こえてきたから。二人はマッドを見ているはず。きっと、逃げようと来ているはず。
ただ、ハイチがそう思っていただけだったようであり、彼が広場へとやって来たときには――。
「大嫌いだよ」
マッドはハイネに自身の唇を重ねていた。彼女の目には涙。ワイアットは固まっている。
――っンなよっ!!
ジャケットに装着していた三銃士軍団の証を引き千切り、マッドに向けて投げつけた。それは正確に顔へと当たる。それがきっかけでワイアットは我に戻ると、同時にその横をハイチが横切った。
「ハイネ連れて逃げろっ!」
ワイアットにそう言うハイチはモップの柄でマッドを殴った。その隙にハイネを引きはがすと、彼女の背を押す。
「早く行けっ!!」
その大声にワイアットはハイネを連れて逃げ始めようとするが、彼女は呆然と涙を流すだけで動こうとしなかった。そこでハイネを抱えて逃げることに。
「何してんだ、テメェ」
地面に転がって、何の反応も見せないマッド。モップの先を突きつける。ハイチは形相の睨みを利かせており、こめかみには青筋が浮き立っていた。
殴られた箇所を右手で押さえながら、持っていた腕なしの仮面を着けるとゆっくり起き上がった。その姿にハイチは動じない。
「誰だ?」
こちらに対して問いかけているのに、笑い声が聞こえてくる。ハイチは何も答えない。ただ、向けるのはモップの先と殺気だけ。
「お前も大嫌いだ」
急激にマッドは笑いを止めると、向けられたモップの先を掴んできた。ハイチの顔に掴みかかろうとしてくる。保護区で目玉を抉られそうになったときの恐怖感が襲いかかってくる。反射的に彼はもう一つのモップで顔面を殴った。
急いで間合いを取る。どっと嫌な汗が体中から噴き出てきていた。
殴られて仮面は左目のところだけ欠け、そこからキリと同様の薄くて青い目が覗かせていた。その目から窺えるのは底が見えない闇。思わず、ぞっとした。
「嫌いだ」
頭を抱え出したマッド。いつ攻撃を仕掛けてくるかわからない状況の中、二本のモップを構える。ワイアットがハイネを安全な行動まで連れて、応援が来るのを待つしかない。
「嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ」
しかし、あのマッド相手に数年前の型落ちした兵器しかない学校が勝てるだろうか。王国軍応援到着を待つとするならば、数時間は相手に耐える他ない。
もしも、キリがあの不思議な剣を手に来てくれたならば。そうではないっ、今はそんな希望にすがるよりも――。
「俺も嫌いだ。お前も嫌いだ。あの女も、誰も、この世の罪人が大嫌いだっ!」
――ハイネを泣かせたお前が憎い。
◆
抱きかかえられているハイネは彼の服にしがみついていた。キリ――否、マッドの言行が胸に深く突き刺さる。思い出せば、思い出す度にその光景は嫌に鮮明に思い出す。
【大嫌いだよ】
悲しい、悔しい。覚悟はしていたが、とても嫌な気分だった。流れる涙は止まらない。嫌だ、嫌だ。
「ハイネさん……」
ワイアットもそんなハイネを見て心が痛んでいた。
◆
講堂内の会場では窓やドアを完全に閉めきり、三回生以上の学徒隊員たちは床下にある非常時装備品を手にして外を警戒していた。アイリも椅子に座ったままだが、非常時装備品である軽量銃を手にしている。その傍らにはターネラがいた。怯えているのか、少しの物音でそちらの方を見る彼女に声をかけてあげていた。
「大丈夫。落ち着かなきゃ」
「は、はい」
「いい? 弱気は見せちゃダメ」
ターネラは頷く。そんな彼女たちの様子をキリは少し遠いところから横目で見ているも――。
「俺、お前がなんなのか、わからねぇよ」
ガズトロキルスからそのようなことを言われてしまった。何も答えられない。彼の発言の意図を脳内で処理しきれそうにないから。キリが黙っていると、話はまだ続いた。
「ハルマチに言われた。俺はお前と一緒にいるべきじゃないって」
キリはアイリの方を一瞥する。
「あいつにそう言われたのか」
「別に信じているわけじゃないさ、別に……。でも、キリって前とすごく変わっているのは断言できるよ」
「つまり、俺は俺じゃないみたいだって言いたいの?」
小さく頷かれた。その答えに更にどう反応していいのかわからない。二人の間には沈黙が圧してくる。
「俺が俺じゃなかったら、どうなんだよ」
しばらくの沈黙をキリが破ると、そう設問した。講堂内にある壇上控室前にはケイとソフィアの姿が見える。その中にはメアリーとマティルダ、レナータがいるのだろう。
「お前じゃないだけだよ」
吐き捨てられた。キリにとってはひどく心に刺さる一言。軽量銃を握る手が強くなる。何も言い返せないでいると、講堂内のドアが勢いよく開かれた。そこへとやって来たのはワイアットとハイネである。彼女は抱きかかえられており、泣いていた。彼らのもとにはセロとヤナ、そしてマックスが駆け寄ってきた。
「き、キンバー!? 何があったんだ!?」
「今、お義兄さんが広場で交戦中です! 僕も、応戦に行きます!」
ヤナが手にしていた非常時装備品を取ると、広場へと向かおうとした。そんなワイアットの首根っこを掴むようにしてセロに止められた。
「行くなっ。教官、応援はどれぐらいで到着しますか?」
マックスにそう訊ねると、ブレンダンの方を見た。
「ほ、本軍に連絡したところ、最低でも一時間はかかると――」
学校の敷地内の広さが仇となったか。一番近い軍施設でも隣の町にあるのだから。
「時間的に厳しいな。俺が応戦してきます。万が一にも備えて、みんなを寮棟の方へと避難させましょう。広場だと、こっちにまで被害が及ぶかも――」
そうセロが言いかけたときだった。突如として会場の上の方の窓が激しい音を立てながら割れた。一同、その音の根源を見る。
「は――」
声を上げる隙もない。講堂の会場内へと乱入してきたのは二本のモップの内、一本だけが折れた物を持つハイチと――巨大なバケモノの手。
――腕なし!?
一瞬だけ、腕なしの姿が頭に過るキリ。
ハイチは壇上へと落ちた。割れた窓からは肩から巨大な腕を一本生やした腕なし――否、マッド。誰もがその異形なる存在を見て戦慄する。これを人と呼べるのだろうかという問題なんて最初からないような気がした。
欠けた仮面から覗くその目は――薄青色の目は入り口付近にいるキリの姿を捕えていた。巨腕は窓の枠を握り潰す勢い。そこから軋む音が聞こえてきていた。
「俺もお前も大嫌いだ」
気付いたときにはマッドは目の前。殴られると理解しているのに、体が脳の命令を聞こうとしない。
「デベッガぁ!」
キリをその場から動かすため、マックスがこちらへと引き寄せた。異形なる腕はそのまま入り口前の床を破壊する。また彼に狙いを定めるかと思いきや――。
顔をガズトロキルスの方へと向ける。マッドと目が合いその場で硬直した。鋭い視線と目が合っただけで、こんなにも動けないものなのか。
「お前、嫌い」
ガズトロキルスをその大きな腕で殴ろうとする。
――間に合えっ!!
手近にあった椅子を手にし、キリはマッドに向けて投げつけた。ぶつかったその一瞬の隙をついて、軽量銃を一発発砲する。その弾は巨大な腕に当たるが、軽々と弾いていた。標的は自分だけでいい。マッドが自分であるならば――。
「へぇ」
好奇の目で見てくる。逃げる隙――それ以上の速さでキリをマッドは潰すようにして捕まえた。周りが耳を塞ぎたくなるような嫌な音が響く。大きな手の平の周りには潰した痕跡と思われる血が広がっている。彼は潰された? 違う。マッドの異形的な手の甲から何かが突き出してくる。そこから、赤い血が出てきていた。
そのままその何かは手の甲から飛び出すようにして現れた。誰もが驚愕する。瞬きをするだけにしか見えなかったその光景、妙な剣を手にした血塗れのキリ。
その一瞬はすぐに消えた。今のは何があったのか。現在、一同が目のするキリの姿は血に濡れて肩で息をし、軽量銃を手にしていた。マッドの腕が治っていく。
さっきのは幻なのか。
壇上から降りてきて、余りの非常時装備品とモップを手にして近付いてくるハイチ。彼は頭を振って、目を覚まそうとしていた。
「クソが。教官、これは俺とデベッガがします。みんなに避難を」
その言葉を合図に、ハイチは武器を手にしてマッドに突進して行く。そんな彼をキリは手近にある物だけで援護に入った。そんな状況の中、マックスは非常口からメアリー優先にセロが指示していた寮棟へと避難指示を出した。それはもちろん誰もが従う他ない。
キリが傷をつけたはずだと思うのに。その傷はすぐに治ってしまっている。いや、あれは結局幻なのか。謎が謎を呼ぶ。違う。そんなことを気にするよりも、こんなバケモノ相手なんて。普通に太刀打ちできるない。
「デベッガ、あいつの動きに注意しながら足を狙え」
「はい」
二人はマッドの攻撃をかわしながら、攻撃を仕向ける。なるべく、他の学徒隊員たちに被害が及ばないように。なるべく、標的は自分たちだけになるように。
◆
寮棟へと避難して行く学徒隊員たちに混ざりながら、走れないアイリを背負いながらガズトロキルスは走っていた。瞬きの最中に見えたあの光景は一体?
ふと、足を止める。
「どうしたの? 走れないんだったら、自分で行くからいいよ」
立ち止まったガズトロキルスの背中から下りようとするアイリであるが「なあ」と問いかけられた。
「あいつが……キリなのか?」
「はぁ?」
「あの訳のわからない武器を持っていたやつが本当のキリなのかって訊いているんだよ」
何を思ったのか、アイリは背中から下りた。それを機に振り向く。彼女を見ると、その黒い目はじっと自分の姿を捕えていた。
「そうだよ」
視線を逸らさせまい、と見て続ける。
「今までが偽者のキリ・デベッガ。きみが見た者こそがキリ・デベッガだよ」
ずっとそうだったのだろうか。ずっと見てきたキリはキリではなかったのか。ならば――それならば、今まで見てきた偽者の彼の存在意義は一体何か。わからなくなってくる。
「偽者って……」
「中身だよ。中身」
「は?」
「デベッガ君は本音を隠し続けて建前で生きてきていただけだよ。言わば、ようやく本心をさらけ出してきたってこと」
「あいつ、今まで嘘をついていたのか?」
【お前じゃないだけだよ】
言い放った言葉を思い出した。今のキリがキリじゃないような気がしていたのに。今のあの彼が本当のキリ――。
「そっ。今もそうだけど」
ガズトロキルスは講堂の方を見た。つられてアイリもそちらの方を見る。
「ガズ君はどっちがデベッガ君らしいと思う?」
どちらがキリらしいか。脳裏にはあざだらけの顔でこちらを睨んでくる『キリ』と先ほど助けてもらった『キリ』の姿がフラッシュバックする。
「『昔の彼』か『今の彼』か」
◆
「ああああああ!!」
「うぉおおおおお!!」
キリは歯車の霊剣、ハイチは誰かが置いていった非常時装備品である軍刀。二人はマッドに向けて同時に攻撃を仕掛けた。だが、その攻撃は巨大な腕により受け止められる。
攻撃を受け止められた彼らにマッドは押していく。その力は強大なもので一瞬の気の緩みすらも許されない状況だった。
そちらばかりに気を取られてしまっていた二人は蹴り飛ばされてしまう。マッドのその蹴りをもろに食らったキリ。ハイチはそれをきちんと見ていた。
「おまっ――」
キリに声をかける前にハイチの目先にマッドがいた。
――あ。
気付いたときは死を連想させてしまうのだが、二人の間に歯車の剣が飛んできた。その剣が飛んできた方をマッドが顔を向けたとき、キリが椅子を手にしていた。目の前にいる異形生命体を倒さんと、その椅子を叩きつけようとした。だが、大きな腕がそれを破壊する。
マッドの肩からもう一本腕が生えてきた。それがキリを攻撃してくるも、間一髪で避けられてしまう。着ていたジャケットを脱ぎ、それを被せる。その直後に素早く歯車の剣を手に取った。その剣で彼は異形なる腕を斬り落とす。
立て続けにハイチがマッドに目掛けて軍刀を突く。
――反撃の隙を与えんなっ!
ハイチの意図に気付いたキリは、斬り落とされていない方の腕を斬り落とそうとする。だが、マッドに講堂の窓から外へと殴り飛ばされてしまった。追い打ちをかけるようにして異形なる者は窓枠を壊してまでも彼を追う。その際の衝撃でハイチ自身も飛ばされ、壁に頭をぶつけてしまった。
「嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ」
急いでキリは起き上がると、追ってくるマッドの囮にならんとして、こちらに誘導し始めた。頭をぶつけたハイチは一人悶絶しながらも、壊れた窓を睨みつけていた。彼らは広場の方へと行ってしまったようだ。
「クソッ」
小さく舌打ちをすると、刃先が欠けた軍刀を握り直してその窓から彼らの後を追った。
――デベッガのあの武器って……?
一瞬の気の逸れが死へ直結してしまう事態なのに、キリが持つ歯車の霊剣が気になって仕方がない。見惚れてしまうほどの美しき剣はあのマッドすらも魅了してしまうのか。
「なんだよ、あれ」
自分が手にしている軍刀よりも錆びついているのに、あの堅い皮膚を斬っていた。異形生命体の頑丈な皮膚は、最新兵器を何度も浴びせないと通せないのに。
何よりも、あの剣からはキリを包み込むように淡い光が漂っている。あれこそが見惚れてしまう原因のものなのだろうか。
ハイチが広場へとやって来ると、そこには自分が割り込めないような戦い方をするキリとマッドの姿があった。
斬り落とされた腕はすでに再生しており、潰しにかかろうとする。一方でキリは攻撃が仕掛けられる度に、美しき霊剣で受け止める。しかし、互いの力の差は歴然であり、マッドが押していた。
――応援が来るまで、持てるか?
迫りくるマッドの攻撃に耐えながらも、キリはそう考える。今、自分自身が手にしているのはアイリからもらった歯車の剣だ。本物の過去の歯車と違って、これの斬撃は癒えいくが当然。カムラの剣さえあるならば、ターネラが持つ本物の過去の歯車の所有権が自分であるならば――。
「うぐっ!?」
隙をつかれてキリは地面に叩きつけられた。
もう周りのみんなにもハイチにもこれの存在を見られた。ヴィンはどう思っているのか。みんなはこの自分の姿を見てどう思っているのだろうか。隠せばいい? ああ、隠さないと。
つけられた傷は塞がった。回復が追いついているのは傷だけ。痛みや疲労は回復しない。ただ、今の自分がこの場に立っていられるのも、気力だけと言っていい。
「…………」
目の前に映る自分自身の姿におぞましい異形なる腕が二本。マッドは攻撃をしなくなった。じっとこちらを見ているだけ。これは罠?
キリは呼吸を整えて、歯車の剣を構え出したときにマッドが口を開いた。それに体が固まってしまった。
「お前を殺す前に訊きたいことがある」
マッドは蠢いていた巨大な腕を体内に仕舞い込んだ。彼の現在の見た目はキリそのもの。強いて言うならば、腕なしと同じ仮面を被っていることくらいか。
その問いかけに警戒と構えを解かず、じっと彼を見つめていた。
「……お前の存在意義はなんだ?」
「お、俺の存在、意義?」
突然何を言い出すのか。答えるのが難しい質問だ。一瞬だけ、目の前にいるマッドがガズトロキルスに見えた。
「俺はお前だ。だから訊きたい」
「そ、そんなこと言われても……俺は俺としか言いようがない」
「自分に存在意義を問い質したことなどないのか?」
「あ、当たり前だ。人は、人は人で在り続ける。その人が、その人で在り続ける……。誰かが誰かの代わりなんて存在しない」
「じゃあ、俺の存在意義は?」
欠けた仮面の隙間から目が見てくる。一気に空気が変わった気がした。なんだか、前に会ったマッドとは少しだけ雰囲気が違う気がする。
「俺がこの世に生きる意味は? お前は俺であるのに違うのはなぜ?」
「そんなの、俺が知るか!」
それを自分自身は知らない。ただでさえ、マッドの言う『存在意義』の質問に困惑しているのに。
キリが若干キレ気味にそう答えると、再びマッドの肩から巨大な腕が生え――ハイチは攻撃を防いだ。その衝撃が重たかったのか、彼は歯噛みする。
「ちょうどいい。そのお前も。お前の存在意義はなんだ?」
答えられない。押されないようにするのが精いっぱいなのだから。
「ごちゃごちゃうるっ、せぇええ!!」
マッドの巨膊を払い除け、ハイチは怒鳴った。その拍子に軍刀は折れてしまったが、折れてもなお、その先を向け続けていた。
「さっきからクダクダと面倒くせぇ野郎がっ」
「…………」
「ハイネを泣かせた野郎なんざ、存在価値などねぇ。とっとと、この世から消え失せろ」
ハイチのその言葉にはキリの胸にも突き刺さった。それは事実であるからこそ、否定ができないからである。
「お前は俺に存在価値をつけるのか」
「あぁ? 俺にそんな権利がないとでも言いたいのか、人でなし。ただのバケモノが自分と他人の存在意義について語っているんじゃねぇぞ」
ハイチのその言葉にキリは動いた。マッドに歯車の剣を突き立てるようにするも、巨腕が止めてくる。彼は強く歯を噛んでいた。この攻撃に対する感情は? 絶対にこいつに対するものではない、とわかりきっている。
ハイチは自分にではなく、マッドに言い放ったと理解はしている。だけれども、その言葉は己にも来ている気がして、耐えきれなかったのだ。
「……バケモノ」
言われたことが癪に触ったのか、ハイチを腕で殴りつけた。身構えた折れた軍刀では防ぎきれずに、広場の隅へと追いやられてしまう。
「俺がバケモノであるならば、お前らはなんだ? 俺が人でなしであるならば、お前らはなんだ? ああ、これだから嫌いだ。すべてが憎い、嫌い……」
マッドはキリの方を見てくる。欠けたところから覗かせる目がこちらを睨みつけているようだった。
「あいつは、ディースはお前が好き。俺の方がディースを好きなのに。お前さえいなければ、お前さえいなければぁ!!」
キリを押す力が段々と強くなってくる。今にも地面に足が減り込みそうである。手が痺れてきた。気休めなどない。全身から汗が噴き出てくる。
「ディースは俺の物だ」
力を加えられており、身動き一つできないキリの腹をマッドは空いている巨大な腕で殴った。それで吹き飛ばされるキリの方から鈍い音がハイチの耳に聞こえてくる。明らかに骨も内蔵も潰れたような音。思い出そうとすればするほど、その鈍い音は鮮明に記憶から呼び覚ましてくる。
「――っ!!?」
歯車剣はハイチのもとへと転がり込んだ。
言葉にならないような大声を上げるハイチ。この状況、どう考えてもひっくり返えそうとするのは不可能に見える。今はどれぐらいの時間が経ったのだろうか。本軍はいつ来る?
「お前なんかにディースは渡さない」
地面に転がっているキリにそう言った。おそらく、折れた骨が肺などに刺さっているに違いない。その内呼吸することもままならないだろう。いや、このままだと殺され――死んでしまう。
何をするべきか。そう考えたハイチは転がり込んできた霊剣を手にすると、マッドに向かって斬りかかってきた。当然、その攻撃を巨腕で受け止める。ずっと攻撃を防がれっぱなしで、まともな攻撃など与えていない。
――だから、どうした!?
ここで力負けをしないように歯を食い縛り、両足を地面に強く押しつけた。両腕の骨が軋んでくる。膝が震えてくる。
「……言っておくけどなぁ!」
反撃されず、ハイチは腕を払い除けた。
「デベッガはそこまで悪趣味じゃねぇぞ!!」
マッドに対して拝み打ちをする。彼からは一閃の真っ赤な血潮が噴き出ていた。
◆
何かを感じ取ったかのように、メアリーは避難先にある窓の外を見た。真っ暗で何も見えない。マッドと戦うあの二人は無事なのだろうか。彼女は不安で仕方なかった。
「ひ、姫様」
そんなメアリーを心配そうにターネラが声をかけた。また彼女自身も恐れているのか、膝が笑っているようだ。怖くても、目の前には忠誠を尽くす主がいる。一人で怖がっていては何も解決はしない。
「だ、大丈夫です、か?」
「あなたはメアリー様のご心配よりもご自分の心配をしていなさい。メアリー様は三銃士軍団が命に変えても守るわ」
怯えているターネラを察したのか、近くにいたマティルダがそう言い放った。彼女は周りを見渡した。真っ暗で見えない外を気にしながら王国軍の応援を待つ。この学校で使われている武器で、あの異形生命体に太刀打ちなんてできないと誰もが思っていた。
周りを見渡していたマティルダはどこか落ち着きのないガズトロキルスを見た。先ほどから様子がおかしい。アイリと少しばかり遅れてやって来たときからだ。もしかして、何か言われたのだろうか。
「…………」
「お前はオブリクスを心配するならば、あいつのところに行けよ」
非常時装備品を手にするケイがそう言ってきた。メアリーを守るようにして、ヴィンとソフィア、フェリシアを従えている。
「な、何を仰いますの!」
「いいから、姫様はシルヴェスター団に任せておけ。ワイアットもキンバーさんのところにいるからな」
ケイに言いくるめられて、ガズトロキルスがいるところへと近付いた。マティルダに彼は「大丈夫か?」と無理に元気付けてくる。
「ライアンはシルヴェスターに任せたのか? 休むんだったら、少しは休んでおけよ。あんまり、寝ていないんだし」
「それもそうですけど、私はガズ様が気になりましたので……」
「俺? 俺はどうもないよ。ハルマチを背負って走ってきただけだし」
「本当に、あの方を背負ってきただけですか?」
マティルダには見透かされている気がした。ガズトロキルスは横目で少し離れたところにいるアイリを見る。
マティルダの言う通りである。『だけ』ではない。自分は今、選択を選ばなければならない状態にいるのだから。
「もし、心配事があるのであれば、私も一緒に悩みますわ!」
「ありがとう、マティ。でも、俺一人でも大丈夫だから。それよりも、ハイネさんが……」
「そうですわね」
二人は膝を抱えて、生気のないハイネのもとへとやって来る。彼女の周りにはアイリとワイアット、セロがいた。会場へと駆け込んで来たときから様子はおかしかったのである。
「ハイネさんの様子は?」
ガズトロキルスがセロにそう訊ねると、首を横に振られた。気難しそうな表情を見せると、彼らに手招きをする。ハイネがいるところとは少し離れた場所へと連れてくる。
「フォスレターから聞いた。あの異形生命体に嫌いと言われた直後にキスをされたそうだ」
「異形生命体?」
マティルダは式典に現れた人物を思い出した。どうして、あの二人に似た敵がここに現れるのか。
「キリに似た……?」
異形生命体が会場へと乱入してきた際に見たあの目、背丈。確かにキリに似ている気がした。もし、あの仮面を外していたならば?
【お前、嫌い】
【お前なんて、嫌いだよ】
嫌な思い出が重なり、よみがってくる。
「オブリクス?」
顔色なしの様子のガズトロキルスを気にかけてか、セロが手を振ってきた。マティルダも心配そうにしている。
「気分でも悪いか?」
「い、いえ」
「でも、顔が青いですわ」
ガズトロキルスは否定する。
「いや、ハイネさんがキリの偽者に、って聞いて……」
恐れているのだろうか、あの偽者にもアイリの言葉にも。自分が翻弄されているのか。そんなガズトロキルスにマティルダは察知したかのように彼の手を握った。
「本物と偽者は違いますわ!」
「…………」
「本物と偽者を知っているのは、親友であるガズ様にしかわからないと私は思いまして? あなたがそんな自信失くしては、本物のデベッガさんは誰を頼ればいいんですの!?」
「……マティ」
「そりゃ……デベッガさんの偽者が現れて、誰もがデベッガさん自身をあやしむのは当たり前のことです。でも、ガズ様は友人なんでしょう? 親友なんでしょう? 信じてあげるべきですわ!」
友達だからこそ、信じる。
ガズトロキルスはなぜにキリと友人になろうとしたのかを思い返した。
「私も一緒に信じますから!」
「ありがとう、マティ」
段々と強張った表情はゆっくりと柔らかくなっていく。ガズトロキルスにとってマティルダという彼女の気持ちは素直に嬉しい。貴族の子がこんな一般庶民を慕ってくれるとは思わなかったから。だけれども、この自分の問題に彼女を巻き込むわけにはいかない。これが原因で自分は幸せだと言えない人生を歩むかもしれないから。
マティルダにはマティルダの人生があるのだ。
そう考え込むガズトロキルスの考えを遮るようにして、セロはハイネの方を見た。
「そのデベッガの偽者は厄介なやつだな。オブリクスを混乱させるし。何より、ハイネにとって、すごくショックだったんだと思う。でも、一番傷付いているのはハイチだろうな……」
三人の会話を離れたところにいるアイリ、そして別の場所からマックスが静かに聞いていた。
膝を抱えるハイネは元気付けようとしているワイアットの言葉をすべて無視していた。色んな万感がぐるぐると心や頭の中を支配していくのだ。何を考えれば? わからない。どうすれば? わからない。周りの話は耳に入ってきている。だから、自分にキスをしたのはキリでないのも知っているし、彼に似た異形生命体が存在するのも知っていた。
あれがキリの答えではないのも重々承知している。ずっと、ワイアットがそう言っているからだ。そうわかっているはずなのに、理解しているのに――心が痛い。
――嫌い……。
マッドの言動を思い返す度に胸の奥が熱くなってくる。目の奥が熱くなってくる。ほら、また。こんな風にして落ち込んでいる場合じゃないのに。
そんなハイネをメアリーは眉根を寄せて見ていた。とても複雑な気分で、何も考えられない。とても不安でこの場にマッドが現れたならば、自分もハイネも心が潰れてしまうんじゃないかと思ってしまう。それほど、彼女たちの思いは圧し潰れそうなのだ。
「……姫様」
メアリーもハイネ同様の雰囲気に陥ってしまっているせいか、心配するケイが声をかけたときだった。ヴィンが服を引っ張ってきた。
「なんだ、ザイツ」
「あんな人、いた?」
あごで差す方向に二人の人物がいた。一人はターネラ。彼女わかるが、その目の前に青の民の民族衣装を着て、軍刀を腰に提げ、マントをした青年がいるのだ。彼はターネラに何かを話している。
「お兄さん?」
突然、メアリーがそう言った。周りにいたシルヴェスター団の全員が注目する。
「ひ、姫様? あの方をご存じで?」
「え、ええ……」
『お兄さん』? ケイは団員たちを見る。メアリーに兄がいるのはありえない。というか、いない。それは誰もが承知している常識だ。
「お兄さんとは? 王族の方ではないですよね?」
「前にデベッガ君の偽者からデベッガ君とあの人に助けてもらったの」
メアリーから言い放たれた衝撃的事実に一同愕然とする。あの男、何者なのか? ケイは警戒心をむき出しにしながら彼らのもとへと近寄った。
「し、失礼、そこのあなた……?」
ケイに呼びかけられた青年――『お兄ちゃん』は振り返った。顔立ちを見ると、メアリーやワイアットに似ているのがわかる。王族に近しい者の顔立ちのようであるが――。
「おっ? あっ、メアリー!」
メアリーに小さく手を振った。こいつ、彼女を呼び捨てで言ったぞ。これにヴィン以外の団員はあまりいい顔をしない。
「お兄さん。ここで何を?」
「んー? ちょっとね」
「スタンリーに何を?」
「拝借」
そう言う『お兄ちゃん』の手には錆びついていない、過去の歯車が握られていた。これを見たヴィンは大きく目を見開く。彼が何かを言おうとした瞬間、『お兄ちゃん』の姿はどこにもいなくなっていた。
◆
広場中の地面には血だまりや血痕がある。その中央ではつけられた傷を修復中のマッドの姿が。そいつを目の前にして立っているのがやっとな者が一名だけいた。唯一異形生命体を斬り裂くことができる武器、歯車の剣を持ってしても倒れない。――否、倒れないと地面に転がったままのキリは知っていた。
「嘘だろ」
その剣を杖代わりにして、肩で息をするハイチはマッドを見て苦笑いした。以前、キリが持っていたあの剣と同じような物なのに。
目で周りを見た。あの髪の長い者、カムラの姿はどこにもいない。これ以上、どうしたらいいのか。自分たちは彼に見捨てられたのか。
「嫌いだ、嫌い」
――そうだよ、カムラは俺たちを嫌っているんだ……。
もう手の施しようがない、と諦めるしかない。目の前にはマッドの巨腕が迫っていた。
――ごめん、ハイネ。
「は、ハイチさんっ!」
キリは気力を振り絞ってハイチのもとへと走り出した。自分がやられるのはまだいい。それがあるから。だが、彼は生身の人間だ。あれを直に食らえば――。
ちらりとハイチがこちらを見て柔らかい笑みを浮かべた。剣先をこちらに向けてくる。その笑顔を見たキリはハイネの笑顔を思い出した。ああ、この二人はそっくりなんだな――今更ながらそう思う。だって、兄妹だから。
――言うこと聞けよ。体。
「あああああああああああ!!」
――俺のこと知っているんだろ?
キリの視界の端に何かが光った。ハイチを手に取ろうとしていたマッドの異形なる手はその光が切断する。そして、それはそのまま、彼の足下の地面へと突き刺さった。その場にいた全員は何が起きたのか見当もつかず、光が着地した場所を見る。
それはあの歯車の霊剣と同じ剣だった。強いて言うならば、この剣には錆がついていないぐらいか。だが、この剣の雰囲気――漂うオーラは二人にとって見覚えがあった。そう、これは――。
「きみはカムラに愛されているよ」
どこかで聞き覚えのある声が聞こえてきた。光がやって来た方向より、三人の前に現れたのは一人の青年である。マッドは彼を見ながら、切断させた腕を修復させている。
呆然とするハイチの隙を見て、マッドは空いている巨大な腕で攻撃するが、それはキリによって止められた。カムラの剣で。
「それは何も悪いことではない」
腕を払う。一度マッドは距離を置いて二人を見据えた。地面をにじる三人。張り詰めた空気の中、微風が周りの木々に呼びかけている。その風が止んだ瞬間に彼らは同時に動き出した。
「ああああああああああああ!!」
彼らの各々の武器が当たる直前、間に首のない異形生命体が割り込んできた。二ヵ所胴体を斬られてそこからは骨が、内臓が潰れるような鈍い音が聞こえる。そのまま、その怪物は絶命した。
このイレギュラーな事態にはマッドも予想していなかったらしい。すぐにその場から離れる。
一体、何がどうなっているのか。キリとハイチが目を丸くしていると、雑な拍手が聞こえてきた。一斉に一同はそちらの方を見る。そこにいたのは、あやしげな笑みを浮かべた仮面を被る男。誰だ、と二人は怪訝そうに見つめていた。
「……カムラに愛された、少年ですか」
男はじっとキリの方を見てそう言ってきた。
「誰だ?」
キリは男の方も気になるが、マッドの方も見る。いつの間にかあの巨腕を引っ込めていた。これには目を疑う。彼は戦いを放棄するのか。
キリの問いかけに仮面の男は「さあ、誰でしょう」とからかってきた。
「私はただ単に『こんばんは』とだけを言いに来ようとしただけなんですけどね。マッド」
この男はマッドを知っているとでも?
「お前、反軍か? 皇国軍か?」
睨むハイチは歯車の剣で二人を差した。いや、そうとしかキリも考えられなかった。マッドを従わせるだなんて。そんなの反政府軍団や黒の皇国軍ぐらいだ。
「いえいえ。私はどちらでもない、とでも言いましょうか。まさにあなたと私のことですよ」
そう仮面の男はキリに指を差して言った。それに失礼にも甚だしいと憤りを感じる。それはもちろんハイチにも伝わっている。勝手を言うなと目線で訴えていた。
「どちらでもないだろうが、お前は王国軍の敵であることには変わりなさそうだな? 捕まえてやらぁ!」
ハイチは地面を蹴り上げて、男とマッドへと剣を構えて走り出した。だが、彼の目の前にまたしても首のない異形生命体が現れた。足を止め、バケモノを見上げる。
「言ったでしょう? 私は『こんばんは』とだけ言いに来た、と」
二人はその場から逃げようとする。それを追いかけたいハイチであるが、巨大な動く壁によって身動きが取れる状況ではなかった。
ふと、仮面の男はキリの方を見た。
「その内、会えるでしょうね」
その一言を残して。急に頭が真っ白になってしまう。また、会える? どういう意味なんだと必死に思考回転させていると――「手伝え!」そう、ハイチが言ってきた。
我に戻ったキリはカムラの剣を握り直して、ハイチと共に戦う。『お兄ちゃん』の方を見るも、いつの間にか彼はいなくなっていた。
◆
それから王国軍の応援が来たのは二人が異形生命体を倒してしばらくしてだった。すでに彼らの手元には元の歯車のサイズに戻った物が握られている。
ハイチはその歯車を見ていたが、キリにそれを返した。
「よくわからねぇけど」
「あ、ありがとうございます」
「それ、上には黙っておいた方がいいか?」
その質問にキリは小さく頷く。「そうか」の一言でハイチは講堂の方へと行ってしまった。
キリは本物の過去の歯車を手にした。こちらは全く錆がついていない、真新しいような物である。これはキャリーが言っていたターネラの物か。だとするならば――返すべきなのだろうが、どう言い訳して渡せばいいのか思いつきそうにもない。彼はそれをスラックスのポケットへと二つとも仕舞いこんだ。そして、講堂の方へと向かうのだった。
◆
講堂の方にキリが赴くと、一人だけぽつんとガズトロキルスが座っていた。ぐちゃぐちゃになった会場をぼんやりと眺めている。
「ガズ」
「嫌なことばかり起こるな」
小さく頷くキリ。だが、こちらの方を見てくれない。
「覚えているか?」
「何を?」
「キリと殴り合いしたとき」
「殴り合い? ああ、あのときか。うん、覚えているよ」
急に何を言い出すのかとキリは思った。一年以上も前の話だ。
「あのあと、俺が言ったことを覚えているよな?」
「……ごめん、そこまでは何も」
「『お前は俺にとってすごいやつだし、俺もお前にとってすごいやつだ』」
ガズトロキルスのその言葉にキリは視線を逸らした。ふと、足元に自分のジャケットが落ちているではないか。それを拾い上げる。
「……うん」
「返事、前と一緒だな。あのときも『うん』って返していたぞ」
「そっか」
ガズトロキルスは椅子からゆっくり立ち上がると、キリの方に歩み寄ってくる。
「正直、キリが変わったことに関しては否定しないよ。ああ、お前は変わった。別人みたいにな」
「…………」
「でも、戦力外も三銃士軍団員も本音も建前もひっくるめて、俺はキリなんかじゃないかなって思っている」
「…………」
「だって、キリ・デベッガってお前しかいないじゃん」
ガズトロキルスはそう言うと、自分の手を差し出して「もう一度言わせてくれ」とキリの目を見て言った。
「お前は俺にとってすごいやつだし、俺もお前にとってすごいやつだ。キリは俺が持っていないものを持っているし、俺はキリが持っていないものを持っている」
キリも目を逸らさず、ガズトロキルスを見た。
「厚かましい話かもしれないけど、俺と友達になってくれないか?」
その質問にキリは差し伸べられた手を握り返した。
「もちろん」
◆
今回の騒動を受けて、学校側は翌日の行事であるサバイバル・シミュレーション実施を延期することを決定した。それは王国軍による校内調査を優先にするからなのである。
その事実を聞き受けて、アイリは最上階にある空き教室から校内の景色を眺めていた。今は休み時間。だが、メアリーは王都へと出向いているため、一人だった。
ふと、入り口の方から人の気配がした。そちらを見る。そこにいたのは以前に廊下で会ったあの黒髪の男であった。
「やあ」
アイリに小さく手を振ってきた。
「またっスか」
そう言うアイリの手には連絡通信端末機が握られていた。それをすぐさま男は止めようとする。
「警備員さんに連絡は止めて。僕、そういう変質者でもないから」
「でも、不審者であることには変わりないですよねぇ?」
「いや、僕って偉い人だよ?」
「何のですか」
またか、とアイリは疑いの眼差しを向けた。
「偉い人って言ったら、偉い人だよ。キイ教のね」
嫌な予感でもしたのか、連絡通信端末機でセキュリティ会社に連絡を入れようとするが、素早い反応を見せた黒髪の男に奪われてしまう。彼の手にはアイリの物が握られていた。
「そう、焦るなって。僕は確認しに来ただけなのに」
そう言うと、男は連絡通信端末機を床に落として踏み潰した。潰された音を聞いて不愉快そうな顔を見せている。
「ねえ、あの子でしょ? 過去の歯車を持っているのって」
開けられた窓から妙に冷たい風がアイリの背中に当たるのだった。




