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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第一章 巡り出会う者たち
24/96

翻弄 中編

【ばいばい】


 ずっと頭から離れないキリの言葉。メアリーは自室のベッドの上に座り込んで、いつも髪に結わえている青いリボンを眺めていた。


 昔出会ったキリに会いたくて、思い出してもらいたくて。気付いてもらいたくて、着けていた。だが、彼は全く気付いていない。覚えていない様子。すごく寂しいし、悲しい。


「どうしたの?」


 シャワーを浴びていたアイリが戻ってきた。タオルを肩に引っかけて、ラフな格好をしている。


「ううん、何でもないよ」


――羨ましいな。


 アイリに対する嫉妬が自分の心の中を支配していく。彼女は自分にとってよき友人である。身分など関係のない、友達。だから、そんな黒い心に変わっていく己自身が嫌い。好きな友達のはずなのに。


「そっかぁ。明日のパーティー、楽しみだねぇ」


「うん」


 もう一度、気付いてもらいたい。壁にかけられたパーティードレスを見た。青色と赤色の物がそれぞれ一着ずつある。青色を基調としたドレスはメアリーの物。赤色を基調としたドレスはアイリの物。まるで二人の相対を表すかのようにそれらは存在していた。


「そう言えば、そのリボンって気に入っているの?」


「うん。私にとって、とても大切な物なの」


「みたい、だねぇ。随分と古い感じがする」


 自分の気持ちを押し殺すように、メアリーは無理やり作った笑顔を見せていた。


     ◆


 前を歩くのは見慣れた赤い髪の人物だ。そうキリはガズトロキルスに声をかけた。その声に振り返ってくれた。どこか元気のない雰囲気。いつもの好漢あふれるような彼はどこへ行ったのか。なんて思いつつも、ガズトロキルスの方へと歩み寄った。


「ガズ、ヒマならこれ運ぶの手伝ってよ。前夜祭に使うらしいから」


 そう言うキリの両手にはテーブルクロスが詰め込まれた紙袋がある。それを一瞥した。


「悪い。俺、それどころじゃないんだ」


「ははっ、あれか? パーティーで出る料理を楽しむために腹を空かせているとか?」


「いいや」


 それだけ言うと、逃げるようにしてその場を立ち去ってしまった。残されたキリは先日からどこかよそよそしさを感じるガズトロキルスに不審がる。


「なんだ? あいつ」


「どうかしたか、デベッガ」


 キリの後ろからは、セロと茶色かかった髪の少年が荷物を抱えてやって来た。彼らもキリと同様に、前夜祭の準備を手伝っているのである。


「さっきのってオブリクスだよな? 逃げたか?」


 茶色かかった髪の少年――イヴァンはガズトロキルスが去って行ってしまった方向を見ていた。だが、いなくなってしまったら無理はない。


「仕方ないな、ハイチもオブリクスも。あいつらには別件で働いてもらえばいいか」


「まあ、そうですね」


 三人は両手に持つ荷物を前夜祭の会場ともなる講堂へと向かうのだった。


     ◆


 思わず逃げてしまった。後ろめたさがガズトロキルスにあった。ここ最近、きちんとキリと対等に話すらもしていない。すべてはアイリのあの一言を信じきっているから。それ故に訊きたいことがあっても、話すことに恐怖心があるのだ。


――あいつはキリの何を知っているんだ?


 なんだか、自分はとんでもなく、知るべきではない事実を知ろうとしているのかもしれない。


 ここ数ヵ月でキリは変わった。それも誰もが驚くほどの名誉と勲章を手に入れている。確かに、彼の功績は羨むようなものである。嫉妬もあるが、妬むほどではない。一人の友人として誇らしいと思っているのに、アイリの言葉で――。


「近付かない方がいいよ」


 背後から誰かしらの声が聞こえてきた。あまりにもびっくりしたガズトロキルスは後ろを振り返る。そこにいたのは、茶髪かかった髪をした少女である。


「ヤナさんですか」


 ヤナと呼ばれたその少女は、ガズトロキルスをどこか心配そうにして見ていた。一瞬だけ彼女のその物言いがアイリと重なって聞こえた気がする。


「どこへ行こうとしているか、わかんないけど。前」


 指差す先を見ると、目の前には壁があった。後一歩のところでぶつかるところだった。


「あ、ありがとうございます」


「いいよ、いいよ。同じチームメイトだもんねぇ。仲間は大事だもん」


「……はあ」


 ヤナに励まされ、ガズトロキルスはぶつかりそうになった壁にもたれかかった。なぜか、彼女のその発言が心に突き刺さった気がする。どうしてだろう。


「きみってさ、いつも元気ないよねぇ?」


「そうですか?」


「本当、本当。ハイネだってここ最近暗いし、よかったらボクに話してみてよ。解決できるとは限らないかもしれないけど、話せばスッキリするかもよ?」


 話せばスッキリするかもしれない。その口車に上手く乗せられそうになる。果たして、アイリの言っていたことを誰かに話してもいいものなのだろうか。自分の小さくて、くだらない悩みを誰かに話してもいいのだろうか。


 ガズトロキルスが話すことにためらいを感じていると、ヤナが顔を覗いてきた。じっと、茶色のその目が自分自身を捕らえていて動けそうにない。


「実は――」


――なんで?


 勝手に動き始める自分の口。急いで塞ごうにも指先一本が動かない。言う気なんてないのに。


「ある人が、俺の友達には近付かない方がいいって、言ってきて……。で、そんなこと気にしなくていいはずなのに、その人の――」


 そこまでベラベラと話してしまったときに、どこからともなくヒールの音が聞こえてきた。その音がガズトロキルスの耳に入ると、何かに解放されたかのように口の動きが止まる。体の自由が利くようになった。


「……何をしていますの?」


 そのヒールの音の持ち主はマティルダであり、ヤナに敵意あるオーラを放っていた。彼女が現れたからか、心なしか周囲は険悪ムードに。


「何も? ボクはただ単に相談に乗っていただけの話。何かおかしなことでもしていたって言いたいの?」


「相談という割にはいささか強引過ぎません?」


「強引? どこが?」


 ヤナはマティルダの目の前へとやって来る。顔を合わせる二人の雰囲気はただ事ではないと感じていた。


「あんまりさぁ、こんなことやりたくないんだよねぇ。仲間は仲間同士、楽しくやろうよ」


 両手を取って握ると、その場から立ち去って行ってしまった。握られた手が地味に痺れている気がする、とマティルダは思う。いや、そのようなことはどうだっていい。一番はガズトロキルスだ。


「ガズ様、バーベリさんから何か言われましたか?」


「い、いや、何も。大丈夫だよ」


 マティルダには心配をかけたくないと思っているのか、笑顔を見せた。だが、その笑みはどこか無理して作っている様子である。


「そうですか? 先ほど、どなたかのことを仰っていましたわよね? バーベリさんよりも私の方がお力になりましてよ」


「ううん、大丈夫だよ。マティを見て安心した」


 自分を見て安心した、と言われたマティルダは恥ずかしそうに顔を赤らめた。そう言われるのはとても嬉しいし、この言葉は嘘でないとわかる笑みであったからだ。


 ガズトロキルスは自身が言い放ったこの言葉に偽りはないと断言できた。先ほどのヤナと一緒にいるときがどうしても不安に感じてしまっていたからだ。数日前から顔を合わせ、雑談もしたりしているのに。妙に他の人たちとは違う雰囲気を持っている気がした。そう、それはアイリに近い――いや、彼女とはまた違うあやしくも不安になるような感じなのだ。だからこそ、マティルダを見たときが一番安心した瞬間だったのだ。そうだ、しばらくは彼女といれば、この胸騒ぎも落ち着くはずだろう。


「マティも今日のパーティーに出るだろ?」


「もちろんですわ。私、今日のためにドレスを新調しましたのよ」


「そっかぁ。俺は料理が楽しみだ。ああ、早く始まらないかな?」


「もう、ガズ様ったら」


 マティルダは自身の腕をガズトロキルスの腕に抱きつき、校舎の方へと行こうとするが――こちらに向けられた視線にそちらの方を見た。


――えっ。


 こちらを見ているのは誰? だが、瞬きの内に視線はなくなってしまった。今のはなんなのだろうか。幻覚だろうか。この目が疑わしいと、目を擦った。


 そんなマティルダにガズトロキルスは「どうしたんだ?」と訊いた。


「目にごみが入ったか?」


「い、いえ。昨日、緊張していて眠れなかったのかもしれませんわ」


「えっ、それ大丈夫か?」


「ええ。今日も明日もいつまでもガズ様と一緒にいたいですもの」


「んー、でも無理はよくねぇよ。サロンの方に行って、時間までのんびりしようぜ」


「はい、そうですね」


――そう、あれは何か見間違いのはずだわ。


     ◆


 校内の広場にあるベンチに座って、青いリボンを見ているメアリーのもとにハイチがやって来た。


「よお。隣いいか?」


 珍しく白いカッターシャツを着ていた。そのせいで、一瞬だけハイチが誰だかわからなくなってしまいそうになる。


「はい、どうぞ」


 メアリーの許可をもらい、ハイチは彼女の隣に腰を下ろした。そのときに気付いたが、手袋が今日は白い。パーティーに合わせた仕様なのだろうか。


「…………」


「…………」


 互いに何も言葉を交わさない。メアリーにとって色々と気になることがあるのに、その質問ができずにいた。また、それはハイチも同様である。彼女はおそらくキリのことで悩んでいるのは明確だ。だが、そのことを口に出してもいいのか悩ましい。傍から見れば、からかっているように見えるようだからである。


「お兄さん。手袋、白いですね」


「ああ。たまにはな、って思って。それに今回はタキシードなんだし。ライアンは新しいドレスでも買ったか?」


「はい、このリボンに合わせた色を」


「ふうん。好きだな、そのリボン。まあ、なんだ。その、今日の前夜祭でデベッガをダンスにでも誘ったら?」


「だ、ダンスですか?」


 メアリーはハイチの方を見た。彼は優しい表情を見せている。


「そうだ、ダンスだ。今、あいつにはハイネに近付くなって念押ししているからチャンスだぞ」


「で、でも、デベッガ君って、アイリと仲いいから……」


 なんてネガティヴ思考に陥っているようがだ、ハイチは笑った。それにメアリーは青いリボンを持っていた手を強く握る。どこかばかにされた気がした。


「俺はあいつらがどういう関係かは知らねぇ。ていうか、そんなの全く関係ない話だよ。多少の強引でもいいから誘えよ。これでも俺はライアンの方を応援しているんだからよ」


「そうですか、ね?」


「おうよ。今日はただのパーティーだ。羽目ぐらい外したって、誰も咎めやしねぇよ」


 そう言うと、ベンチから立ち上がった。メアリーハイチのその姿を目で追いかける。


「気持ち、わかるぜ。好きな人に自分の思いを気付いてもらいたいって」


 メアリーには「じゃあな」と残して、寮棟の方へと行こうとするハイチを彼女は呼び止めた。


「私、そ、その……デベッガ君に好きだって言います! ずっと、言いたかったことを言います!」


「……そうか。じゃあ、俺があいつをこっちに誘導してやるよ」


 去り行くハイチの背を見送った後、メアリーは手に握っている青いリボンを見つめていた。


     ◆


 空が赤く染まる頃、学徒隊員や教官たちのほとんどは講堂の方へと赴いていた。そこからの賑やかな声をキリは遠くから聞いていた。彼は一人慣れないタキシードを着て、大騒ぎしている方へと向かっている。結局、ガズトロキルスとは会わないまま時間を迎えてしまったが――もしかしすると、一足先に向かっているのかもしれない。


「あっ、デベッガさん」


「お、フォスレター。今から?」


「そうです。一緒に行きましょう」


 ちょうどワイアットと居合わせた。流石は貴族と言うべきか。明らかに高価そうなタキシードを着ているではないか。


「いやぁ、実はハイネさんに、この日のためにドレスを送ったんですよ」


「ドレスを?」


 そう言うワイアットはキリにハイネに送ったというパーティー用のドレスの画像を見せてくれた。連絡通信端末機を覗き込むと、それは眩しい煌びやかなピンク色のドレスのようであった。


「ほら、ハイネさんってピンク色が似合うから」


「派手じゃないか?」


――むしろ、ボールドウィンが好みそうな服だな。


 キリは苦笑いをしながら「まあ、いいんじゃないか?」と曖昧な答えを返す。それをハイネが着てくるかはわからないが、ワイアットにとっては送ったこと自体が満足げのようである。


「ふふっ。それに、何もドレスだけじゃないんですよ」


 連絡通信端末機をスラックスのポケットに仕舞い込んだワイアットは、今度は反対側のポケットから小さな箱を取り出す。なんとなく、その中身を察したキリはこれまた苦笑いするしかなかった。


「何度もお義兄さんに邪魔をされていますからね! 今回はハイネさんを連れ出して――」


「誰が、誰を連れ出すって?」


 突如としてワイアットのセット済みの頭をわし掴みする手が現れた。それはもちろん、二人にとって誰なのかは顔を見なくても理解できた。


「おお、これはこれは。お義兄さん! デベッガさん、僕はどうやらここまでのようです」


「だろうね」


 ハイチの片手にはワイアットの頭、もう片方の手には小さな箱。この状況から逃げられないと覚るが、まだ諦めてはいない様子ではある。


「お義兄さん、講堂の方へ行きませんか? 僕はハイネさんのドレスを見たいです!」


「あぁ? とか言って、逃げるからダメだ。お前は時間が来るまで訓練場の裏の木でぶら下がりの刑だ」


「そ、そんなっ!?」


 そうハイチは言うと、強引にワイアットを訓練場へと連れて行こうとした。だが、急に何かを思い出したかのようにして、キリの方を向く。


「そうだ、デベッガ。上の空き教室に忘れ物をしてきたんだよ。取ってきてくれないか?」


「わかりました」


 キリはハイチに促され、校舎内の方へと向かった。


     ◆


 最上階の空き教室にて。メアリーはその教室の窓から見える講堂を眺めていた。夕日が教室内に入り込んでいて、全体的に赤い。自分が今着ているドレスも青色から赤色に変わりそうな感じではある。


【俺があいつをこっちに誘導してやるよ】


 ハイチは自分の応援をしてくれるいい人だ。彼の手助けに応えるようにしなくては。なんてメアリーが意気込んでいると、教室のドアが開かれる。やって来たのはキリだった。彼は少しばかり驚いた様子でこちらを見ている。


「……いたんだ」


「あっ、う、うん」


「…………」


「…………」


 なかなか、言いたいことが言い出せない。キリも困った様子でいるのか、伏し目がちにその場に立ち尽くしていた。


 言うのは簡単だと思っている。そう、言うのは簡単。それなのに。そう思っているのに、とても恥ずかしく思う。これから言いたいことを言う自分は変ではないだろうかと視線を下に落とした。


「で、デベッガ君」


 だが、ここで言わなければどうする。チャンスを作ってくれたハイチに申し訳ないだろう。


「あ、あのね――」


 メアリーは顔を上げて、キリの方を見た。彼はじっとこちらに薄青色の目を向けているかと思えば、教室内へと入ってきた。二人の距離は一メートルもなかった。そんな接近に彼女の顔は熱くなってきている。


「わ、私、デベッガ君のことが――」


 言葉を続けろ、とここにはいないはずのハイチが背中を押してくれた気がした。メアリーがその先を言おうとすると、キリは彼女の言葉を止めてくる。彼は微笑みを見せており、優しく髪に結わえられた青いリボンに触れた。


「えっ?」


「そうだったな」


 もしかして、あのときのことを思い出してくれた? キリはどこか懐かしむような目でリボンを見ているようだ。


「俺は――」


 段々と距離が縮まってきている気がして、あまりにも恥ずかしくてメアリーは目を瞑る。じわりと汗がにじみ出てきている。汗を掻いているのに、気付いているのだろうか。彼女の耳に自身の鼓動が聞こえているのがわかっていた。


「あれぇ? メアリー?」


 突然、アイリの声が聞こえてきた。目を開ける。目の前にいたはずのキリはいない。代わりに入り口の方にアイリがいた。


「いたいた。図書館のお姉さんが捜していたよ。行こ」


「えっ!? ちょっ!? アイリ!?」


 メアリーの手を引いて、空き教室を後にしようとしたところを止めた。足は止まり、彼女の方を不思議そうに見る。


「ねえ、デベッガ君は?」


「へっ? いや、知らないけど……えっ、何?」


 何を言っているんだと言わんばかりに、アイリは困惑していた。確かに、この教室に来ていたのに。自分のこの青いリボンも触っていたのに。


 アイリはよくわからずして、メアリーに「行こうよ」と再び促し、連れ出して階段を下りていると――欠伸をしながら上がってくるキリの姿があった。


「おっ、二人とも。こんなところで何しているんだ?」


「メアリー捜していたの。上にいたみたいだから」


「そうなの? なぁ、ライアン。あの教室に行ったなら、忘れ物とか見ていないか?」


 そう訊ねるキリに、メアリーは怪訝そうな表情を見せた。


「デベッガ君が上にいたんじゃないの?」


 その発言にキリとアイリは互いに顔を見合わせてしまう。自身の行動を思い返しながら表情を引きつらせていた。


「ま、待って? 流石にそれはないぜ? 俺、さっきまで講堂の方で準備していたし」


「嘘。じゃあ、さっきのデベッガ君は? 『あのときのこと』を思い出してくれたんじゃないの?」


 話が見えてこない。キリはもっと混乱する。さっきの自分? 何の記憶を思い出すって? そんな彼の様子を見てアイリも「夢でも見ていたの?」と苦笑いする。


「ちょっと話が見えてこないけど、あたしがこっちに来たときはメアリーしかいなかったし。それに、話し声も聞こえてこなかったよ? ほら、気付かない内に寝ていたってこともあるし。昨日、あんまり寝れなかったって言ってたじゃん」


「かもしれないな。意外と夕方って眠たくなる時間帯だし」


――本当なのに……。


 このまま張り合いをしても仕方ないと思ったのか、キリは「後でな」と二人にそう言って階段を上っていってしまう。うやむやにされてしまったメアリーは納得がいかない様子で最上階の方を見つめるのだった。


      ◆


 きっと、夢でも見ていたんだろうな、とキリは勝手にそう決めつけながら空き教室へと入室した。真っ赤な光が教室内へと入り込み、どこか哀愁漂う雰囲気をかもし出しているようだった。その教室で彼は周りを見渡す。ハイチが忘れた物とは一体何か。


 一つ一つ机の中をチェックしていくと、一つの机の中にガスマスクが入っていることに気付いた。もしかして、これを本番で使うのだろうか。本番はヴァーチャルの世界であるのに。これは必要と言えるのだろうか。


 なんて苦笑いしつつ、それを手にして教室を出ようとしてそのマスクの中に何かが入っていることに気付いた。よくよく触らないとわからない物のようだ。それを取り出すと、そこにあったのは――以前ケイと任務の際に使用した仮面だった。口元のところが欠けている。だからこれは自分が使用した物のはずだ。


「もう、捨てたんだっけ? なんであるんだ?」


 首を傾げながら、久しぶりに被ってみた。なんだかおかしな気分である。


「変なの」


 少しばかりの小恥ずかしさに耐えきれなくて、すぐに外した。そして、そのガスマスクを手にひとまず訓練場の裏側へと向かう。


     ◆


「デベッガさん、助けてください……」


 訓練場の裏側に来てみれば――案の定、木に縄で括りつけられているワイアットを発見。空中に浮いているせいでブラブラと虚しく回っていた。彼は大きく項垂れており、つらそうな表情をしている。


「大丈夫か?」


 周りにハイチはいない。講堂の方にでも行ったか、とワイアットを下ろすために縄を解いた。


 ようやく自由の身になれたワイアットはキリに感謝の言葉を述べる。


「本当、デベッガさんが助けてくれなかったら。ありがとうございます」


「うん、俺も来てよかったと思っているよ」


 苦笑いするキリの手にガスマスクと仮面に言及してきた。それを彼はワイアットに見えるように見せる。


「これだけが上にあったんだ。ハイチさん、これを忘れたのかな? しかも、この仮面は捨てたと思ったんだけど」


「なんでしたっけ、それ。ああ、ニュースで見ましたね。違法博奕地下闘技場ですよね? 逮捕されている人たちはみんなそんな仮面を被っていたような」


「うん、これ俺が潜入捜査で使った仮面なんだよ。なんで上にあったか甚だ疑問だけどな」


「まさか、お義兄さんが、っていうわけでもないですしね。すでに関係者は逮捕されているようですし」


「デベッガ。何そいつを自由の身にしていやがる」


 ワイアットと話し込んでいると、ハイチが掃除用具片手にやって来る。そんな彼の登場に二人は見た。ちょうどいいタイミングだ、とキリはガスマスクと口元が欠けた仮面を渡した。


「これですか? 忘れ物って」


「は?」


 ハイチは怪訝そうな顔をしてキリを見た。それに彼は違和感を覚える。


「えっ、いや。ハイチさん、忘れ物したからって……」


「いや、確かに忘れ物って言ったけど。あれ? ライアンと会わなかった?」


「ライアンなら、ハルマチと上に行く途中で会いましたけど?」


「……ああ、そうかい。ありがとよ」


 妙に納得しないような面持ちでハイチはキリからその二つを受け取ると、代わりにワイアットに掃除用具を渡して立ち去ってしまう。講堂の方へ行ったのか。彼らは不思議そうに顔を見合わせると、そちらの方へと赴き出した。


「お義兄さん、神妙な顔をしていらしたみたいですけど、何があったんですかね?」


 ハイチから受け取った掃除用具片手に、呟くようにワイアットはそう言った。


「うーん、わからないなぁ。ていうか、ここ最近、みんなの様子がおかしい気がするんだよな」


「それは同感です。ハイネさんも、いつもの笑顔を見なくて五日目ですもん」


 ハイネのことに関しては自分に責任がある。そのことは自覚しているキリではあるが、口には出せなかった。


「そんなに気になるのならば、自分から訊いてみるっていうのも一つの手だと思うけど?」


 悩ましい表情を見せていた彼らの前に二人の男女が現れた。


「えっと?」


「初めまして。あなたたちのチームとは敵対関係のあるヴェフェハルさんのチームのヤナ・バーベリです。こっちはイヴァン・バーベリ。ボクたち、双子なの」


 ということは今日までわからなかったセロのチームの最後の二人である。まさか、このようなところで出会うとは思わなかった。


「やっぱり、きみたちも気になるよねぇ? うん、うん。わかるよ、わかるよ。その気持ち」


 ぐいぐいと詰め寄ってくるヤナに二人が戸惑っていると、イヴァンが彼女の首根っこを掴み彼らから離してくれた。これに安堵する。


「強引だな。すまない、うちのヤナが。こいつ、結構しつこいんだよ」


「いえ、そんな」


「俺たちも講堂の方に行くが、二人も行くだろ?」


 イヴァンに誘われてキリとワイアットは頷く。二人は彼らと講堂の方へと足を向けた。


「あっ、僕。仕舞ってきます」


 渡されたままの掃除用具を手にしていたワイアットは、近くに設置してある掃除用具入れへと仕舞いに行った。その一瞬――ほんの一瞬だけ、彼は奇妙な視線を感じ取った。振り返るも、辺りは日が沈んでいるために暗くて何も見えなかった。


「……気のせい、かな?」


 ただならぬ気配でもない。もしかしすると、ハイチが自分の監視をしているだけかもしれない、とワイアットは思い込む。


――ま、まさか! お義兄さんは僕がハイネさんに相応しい男かどうかの監視を!?


「ふふっ! 燃えてきましたよぉ!」


 一人意気込むワイアットはハイネのもとへと一足先に行ってしまう。置いていかれた彼らは顔を見合わせるしかなかった。


     ◆


「これ美味しいよ」


 アイリは講堂に展開された料理を一口食べて、一緒にいるメアリーに勧めていた。どこか浮かない顔をしながらも、連れられて彼女もその料理を食べる。


「うん、美味しいね」


 元気のないメアリーを見抜いているのか、アイリはどこか愁眉を見せる。


「大丈夫なの? 暗いけどさぁ」


「平気だよ。なんか、変に心配かけちゃっているみたいだね」


 アイリの優しさが嬉しい。だが、あのことには未だに納得がいかない。だとしても、それを口にすることがメアリーにとってできそうにない。


 ぼんやりチビチビ料理を食べていると、向こうの方からガスマスクと仮面を手にしたハイチがやって来た。


「おう、ちょっといいか?」


――お兄さん、ごめんなさい。せっかくチャンスをくださったのに。


 メアリーは小さく頷くと、皿を近くのテーブルに置いてハイチと講堂の外へと出た。その雰囲気や面持ちが妙に不自然な気がするアイリは出ていく二人の背中を見つめる。


「どうしたんだろうね、二人とも」


 その様子を見ていたハイネも心配そうな顔色である。


「ですねぇ。ていうか、ハイネ先輩のドレス、綺麗ですねぇ」


 アイリはハイネを羨ましそうな目で見つめていた。薄いピンク地に刺しゅうを施されたドレスを彼女は着飾っており、右手につけた緑色の石のブレスレットがそれによく映えている。


「これ? 実はワイアット君からもらったの」


「へぇ、その割にはキラキラごちゃごちゃしていないですねぇ。うぅん、あの坊ちゃんは逆に考えたセンスがいいんですかねぇ?」


「あははっ、別にそうじゃないよ。ほら、元のドレスがこれ」


 連絡通信端末機から見せてもらった画像は、宝石がいっぱい散りばめられたパーティー用ドレスである。これにはアイリも引きつり笑いを見せる。これを買うのは悪くないが、ハイネにとっては好んで着ようと思わない類の物だろう。そして、これを着るような人物は――。


 会場の端の方に目をやる。椅子に座ってガズトロキルスに料理を食べさせている女子学徒隊員は――マティルダだ。更に、驚くことに彼女が着飾っているパーティー用ドレスは画像通りの物であること。


「これ二枚着になっていてね、上のキラキラしたところだけ脱いできてよかったよ。マティちゃんと被っちゃうし」


「被る、被らない以前に同じ物には見えないですねぇ」


「んー、ワイアット君の気持ちは嬉しいけどね」


「それは僕と結婚をしてくれるということでしょうか!?」


 突然目の前に真っ赤な花束を差し出された。無論、差出人はワイアットである。ハイネの先ほどの言葉を聞いて余程嬉しかったのか、頬が上がっているようである。


「いや、結婚は……」


「ははっ、照れなくてもいいんですよ。これも、毎日ハイネさんに会いに行っている努力の賜物ですから!」


「うん、でも毎日の花束贈呈はちょっと……」


 どうやら知らないところでワイアットはハイネに毎日会いに行く度に花束を贈っていたらしい。ある意味ありがた迷惑だな、と遠目で見るアイリは苦笑いをしていた。


――というよりも……あの二人は?


 何しに行ったのだろうか。やはり気になるのか、アイリが講堂から出ようとしたとき、セロとぶつかった。


「あっ、悪い」


「こちらこそ」


 小さく頭を下げ、行こうとしたところをセロに止められた。


「どこへ行くつもりだ?」


「いやぁ、クラッシャー先輩が……じゃなくて。キンバー兄さんがメアリーを連れ出したから、気になって」


 それはセロも気になるところ。


「俺も一緒に行ってもいいか?」


「もちろんですとも。あ、やっぱり気になっちゃいますぅ? ヴェフェハル先輩、メアリーのこと……」


「からかうの、止めてくれ。好きなのは、好きだけど」


――やっぱり俺よりもデベッガのことばっかり見ているんだよな。


 メアリーが好きなのは否定しない。だが、彼女がキリを好きなのも否定はしない。知っているから。ハイチが言おうとしているのも。メアリーが自分のことよりもキリの方ばかりを見ていたのも。


 実際に自分は誰よりも任務が多くて、メアリーと会う機会も少ない。任務時で一緒になりがたいがために、護衛名目でエドワードに直談判をして許可をもらったが――結局は最初の内だけ。特に式典での事件があってから、国内の情勢は険悪ムード状態。王国軍に人員が足りないと言われ、前と変わらぬようになってしまった。更にはキリとハイチが三銃士軍団に入団。自分は気絶してしまっていたから功績だなんてあるわけがない。それも南地域での土地調査のときも同様だ。すべての功績は彼が持っていってしまっている。とてもキリが羨ましいと思っていた。彼女に対しての思いはどこか冷めかけているような気がしているようでたまらなかった。その矢先に、だ。


「何があったんでしょうかねぇ?」


「わからない、わからないけど――」


――すごく気になるというのは、まだ好きなんだっていう証拠なのだろうか?


 ハイチとメアリーが向かったであろうエントランスの方へ行く二人をキリは見ていた。


     ◆


 人の気配もないエントランスにある銅像の台座に寄りかかるハイチ。その前には伏し目がちのメアリーがいた。どう切り出そうか。あまり威圧感あってもいけないだろうと彼が考えに考えて、口を開く。


「怖くなったか?」


「い、いえ」


「ハルマチに邪魔されたとか?」


 その質問に頷こうとするが、すぐに止めて首は横へと振る。メアリーのその仕草をそう簡単には見逃せない。


「あいつ、いきなり来たんだろ? 無理しなくてもいいんだぜ?」


「い、いきなり来たことには否定はしません。けど、お話をしていて、いつの間にか目の前でいなくなることってあるんですか?」


 物陰から覗き見するアイリとセロ。ここからでもはっきりと二人の会話は聞こえる。メアリーの発言に首を傾げた。


「いなくなる? なんだそれ?」


「アイリが来て、デベッガ君がいなくなったんです」


 アイリとセロは顔を見合わせた。彼女は怪訝そうにしている。それがおかしいと思ったのか「どういうことだ?」と訊いた。それに対するその答えは、自分もさっぱり何のことなのかわからないという面持ちである。


「上の空き教室のことなら、メアリーしかいなかったんですが」


「でも、デベッガもいたって……」


「いいや、見ていません。嘘じゃありません」


 じっとセロの方を見つめる。アイリの目が嘘ではないと語っているようだった。彼は「そうか」とあまり納得しない様子で再び二人の方へ向き直る。


「なんて言っていた? デベッガは」


「何かを思い出すようなことを言おうとしていたみたいなんですけど」


「そこにハルマチが邪魔しに来た、と。今みたいに」


 ハイチは物陰の方を指差した。これに焦る二人はあたふたと慌て、アイリが自身の足をもつれさせて転ぶように出てくる。


「あ、アイリ!? それにヴェフェハルさんも!?」


「やっ、メアリーにクラッシャー先輩。奇遇ですなぁ」


「カムラ女の考えそうなこった。お前、知っていただろ、空き教室での出来事」


 転んだアイリのもとへと、ハイチが見下すようにして近付いてきた。その態度に彼女はあまりいい顔をしない。


「本当知らないんですってば。だって、デベッガ君は後から来たんですから。それもメアリーは知っているでしょ? 準備をしていたからって」


「でも、私はデベッガ君とお話したもん! こ、このリボンにも触って、思い出してくれたもん!」


「あれは、夢を見ていたんじゃなくて?」


「本当だもん! あのときのこと。私のこと……!」


 あふれ出てくる止まらない大粒の涙。嘘じゃないのに、本当なのに。


――でも、アイリも嘘ついていない……。


 この解決しなさそうな、答えのない問題のせいでメアリーの心の中はもやもやとしていた。それは同時にアイリも同様である。誰もの言葉を信じたかったのだ。


――もう、嫌だっ!


 その場にいること自体が嫌になったメアリーは、エントランスから走って逃げ出す。アイリが追いかけようと、立ち上がろうとするが――足の痛みが襲ってきてまた転んでしまった。先ほど、転倒したときに足を捻ってしまったようだ。


「あぁ、もぉ!」


 むしゃくしゃする気持ちを自分自身の足にぶつけてしまう。だが、ここで怒っていてもしょうがないと思ったらしい。インヒールのパンプスを脱いで、裸足で外へと出た。このとき、ハイチとセロは手を貸そうとしたが、どうしてもアイリには声をかけづらかった。


「ハルマチ、嘘ついているようじゃなかったな」


「それはライアンも同じだが、俺たちはどちらを信じればいいんだ?」


「わからねぇ。けど、真意はデベッガしか知らないんだろうな」


 ハイチは頭を掻くと、エントランスから出ようとする。セロは呼び止めた。


「どこへ行く?」


「あぁ? 決まっているだろ。デベッガ見つけて、真実を訊くまでよ」


「じゃあ、俺も行く。ライアンを泣かせたのはハルマチじゃない。俺はあいつだと思う」


「そうだろうよ」


 二人は講堂の方へと向かった。


     ◆


 中にいてもつまらないとでも思っているのか、キリは校舎の中庭で一人薄暗い空を眺めていた。明かりがついていない校舎を不気味に感じている。それでも、ここにいることに安心感はあるのだ。何も考えずにベンチに座って一人更ける。すると、どこからか泣き声が聞こえてきた。近くの茂みからのようだ。


 気になったキリがそちらの方へと行くと、メアリーがその場にしゃがみ込んで泣いていたのを見つけた。


「ライアン?」


 キリの声を聞いて、彼の方を見るメアリーは更に泣き出した。これに戸惑いを隠せない。何か悪いことでもしただろうか。何か不安がらせるような登場の仕方をしてしまっただろうか。ひとまず、メアリーの目線に合わせるようにして屈んだ。


「どこか痛いのか?」


 メアリーは首を横に振る。


 そうでないとしたらば、なんだろうか。誰かに嫌なことを言われたにしても、メアリーは王女だ。そのようなことを口にすれば、周りにいる三銃士軍団たちなどが黙っていないだろう。それはもちろん、キリだって同様である。


「とにかく、こっちのベンチに座ろうぜ?」


 そう促され、小さく頷いた。ベンチに座り込んだ。隣にはキリが困惑したようにして座る。


 さて、メアリーをどう慰めようか。原因がわからなければ、どうしようもないだろう。


――そう言えば、前にも泣いていたな……。


 あのときはアイリが真夜中の校舎に置いていかれたことが原因のはず。


――また、今回もか?


 キリは周囲を見渡した。今のところ、アイリの姿は見ない。彼女はどこへ行ったのだろうかと。そう言えば、セロと一緒にどこかへ行っていたようだが、それをメアリーは知っているだろうか。


「ら、ライアン、ハルマチだったら――」


 メアリーの方を見たとき、デジャヴを感じた。青いリボンの子。泣いている。


――えっ?


 とても記憶が曖昧で、その子の顔が思い出せない。だが、青いリボンはどこか見覚えがあった。それはテレビとかで見た記憶ではない。雑念が邪魔をする。


 記憶の奥底へと逃げ込んでしまった何かを思い出そうと、頭を抱えているキリの前に大きな影が三つできた。それはハイチとセロ、アイリの三人の威圧感ある影である。思い出しかけていた記憶が完全に飛んでしまった。


「見つけたぞ」


「見つけた」


「見つけたし」


 三人言わなくても、それくらい理解しているとキリはたじろいだ。ふと、アイリを見ると、彼女の両手には赤い靴が握られており、裸足だった。走るために脱いだのだろうか。


「えっと?」


「えっと、じゃねぇよ。ライアンを泣かせやがって」


「す、すみません……」


 自分は悪くないとは思っているが、反射的に謝ってしまった。この状況、どうすればいいのか。


「ちょうどいい。デベッガ君、正直に答えて」


 アイリは指ではなく、パンプスでキリを差した。すると、ハイチがガスマスクと口が欠けた仮面を見せるようにして持ってくる。


「お前が上に行ったとき、誰かいたか?」


「う、上って最上階ですよね?」


「それ以外にな何があるって言うんだよ」


「俺が行ったときは、階段でライアンとハルマチに会いましたよ。教室では誰とも会っていません」


「ライアン一人だけに会わなかったか?」


 キリは涙を拭うメアリーの方を見た。彼女一人だけに会わなかった? それはない話である。ハイチに、上に忘れ物をしたから取ってきてくれと頼まれたから行っただけなのに。


「いいえ」


 そう返事すると、メアリーの目から再び涙があふれ出てきた。これに三人はキリの方をあやしむような目で見てくる。


「いや、なんで!?」


「デベッガが嘘ついているからだろ!」


「はいぃ!? 嘘ついているって何を!?」


「とぼけているんじゃねぇぞ! なんだよ、ライアンに触ったくせにして!」


「えっ!? ちょ、ちょっ――ちょっと待ってくださいよ!? 話が全く見えないんですけど!? 俺、何度も言いますけど、上に行ったとき、教室に行ったとき、誰もいなかったんですよ!? それに、この二人が下に下りてきている最中に、俺は上へ行こうとしていたんですからね!? おかしな話でしょ!」


 その反論すると、アイリはキリだけにしか見えないように服の下に隠された歯車を指差した。それに小さく首を振る。


 まさか、自分が上にいたという事実を書き変えたとでも思ったのか。そんなことはしない。そんな風にして遊ぼうとはしない。本当に使うべきときにしか使わないのだから。


――けど、みんなが言うことが本当ならば?


 そうであるならば、最上階の空き教室にいたという事実を自分は知らなくてはならないはず。記憶になくてはならないはず。なのに、知らない己がいた。これは――。


【会えて嬉しいよ】


――マッド!?


 しかし、待って欲しい。マッドはキリが土地調査の際に倒したはず。あの体は地面に還ったはず。復活だなんて。


「ディース?」


 キリのその呟きに一同がアイリの方を見る。なぜか今度はこちらが疑われ、彼女は眉根をひそめた。


「なんでそこでディースが出るの?」


「いや、もしかしたらって思って。あいつは……またマッドを作り上げた可能性があるかもしれないから」


「前から思っていたけど、あいつらってどうやってこの国に侵入しているの? 国境辺りって警備体制が厳重でしょ?」


「式典前まではさほど堅くなかったはずだが。あいつがここに来ているとでも?」


「じゃなきゃ、覚えのないことを言われて頭を抱えませんよっ」


 一つの可能性が浮かび上がってきて、五人は神妙な面持ちになった。それはメアリーもである。今は悲しんでいる場合ではないのだ。もしも、自分が空き教室で会ったのはキリではなく、マッドであるならば? もしも、あのときアイリが声をかけてこなければどうなっていたのか。


――死んでいたかもしれないってこと?


「き、教官たちにっ!」


 メアリーがベンチから立ち上がる。一同は大きく頷いた。


「あの野郎がいるっていうことは、ディースもいる可能性があるんだよな?」


「そうなりますね」


「…………」


 ハイチは何かを考えながら、セロの方を見た。知恵を貸してくれと言わんばかりの眼差しである。その視線にセロはキリとアイリを指差した。


「二人に似た敵だ。当然、捜索中に紛れ込む可能性もあるから、二人は絶対に動かされないはずだ。まずは人が多い講堂の方へ行こう。教官たちもそこにいるはず」


「ああ」


 駆け足で行こうとする一行だったが――ふと、キリがアイリを見たときに彼女はつらそうにして足を動かしていた。靴を脱いだのは足を挫いて、ヒールじゃ走れないからなのか。見かねた彼は、遅れて走るアイリへと近付いた。


「乗れ」


 中腰になり、アイリにそう言った。一瞬だけ戸惑うが、一刻も争う事態だ。キリの背中に乗る。


「あ、ありがと」


「急ぐぞ」


 アイリを背負い、駆けるその姿にメアリーは悲しそうな顔をしていた。その表情をセロは気にかけている様子である。


     ◆


「だから、僕はこう言ってやったんですよ。それはなっていない、って!」


「ふふっ」


 ワイアットとハイネは夜の学校内にある広場で散歩をしていた。ずっと、講堂にいるだけじゃ飽きてきたからである。それにいつの間にかキリもいなくなっている。こういう大賑わいは苦手なのかな、と彼女は思っていた。


――本音を聞きたいな。


 本当に自分を嫌っているのではないかと、とても不安になる。自分のことを『ハイネさん』ではなく、『キンバーさん』と言っていた。とても胸が苦しかった。だからあれ以来、キリを見かけても声をかける気にはなれなくなっている。怖いから。


 段々と暗い表情を浮かべ始めてきたハイネを見て、ワイアットはその場に立ち止まった。そして、彼女の手を握った。


「人が笑わなくなったときって、悲しいこと、つらいことがあったからだそうです」


「…………」


「僕はハイネさんが笑っている姿が一番好きです。だから、少しだけでもいいから、僕に話してみませんか? こう、的確なアドバイスとかできそうにないですけど、気持ちはほんの少しだけ和らぐと思うんです」


 ワイアットにそう言われたハイネは頬に一筋の涙が伝った。これは一体何の感情なのだろうか。訳がわからなくて、胸がいっぱいで――。


 仕舞いには声を上げて泣き出した。これにワイアットはどうしたらいいか、わからずに動揺した。そうしていると、また奇妙な視線を感じ取った。その視線の先を見ると、ハインと同じ仮面を被った少年がいた。じっとこちらを見ている彼の背格好からして、キリのように窺えるが――。


 瞬時、ワイアットの直感が「逃げろ」と告げる。その場にいる少年の威圧感が襲いかかってきていたからだ。急いでハイネの手を引いてと広場から逃げようとする。だが、彼女は仮面の少年を見て「キリ君」と呟く。


「は、ハイネさん! 行きましょう! ここは――」


 何かを決意したかのようにハイネはワイアットの手を離すと、仮面の少年の方に近付いた。


「ハイネさん、その人は――!」


「ハイネさん」


 仮面の少年はつけていたそれを外すと、ハイネにそう言った。その顔はキリ。そんな彼の容姿と雰囲気にデジャヴを感じ取ったワイアットは彼女の手を取った。首を横に振る。


「講堂の方に行きましょう! 僕、そこでお話聞きますから!」


 だが、ハイネはそれを拒否する。


「ううん、また今度、私の話を聞いてくれたら。それでいいよ」


 自然と手が離れていく。逃げなければならないのに、どうしてだろうか。どうして手が掴めない?


「キリ君、最後にもう一度だけ訊いていい?」


 一言訊きたいだけなのに、言葉が出そうにない。出てくるのは涙だけ。こぼしながら、鼻を啜りながら、ハイネはキリを見る。


「キリ君は、私のことが好きですか?」


 その質問を答えるかのように、ハイネに近寄ってくる。ワイアットは動かしたい足が動けない。それはキリから放たれているプレッシャーに気圧されているからなのか。


 ハイネの目の前までやって来ると、指で彼女の涙を拭き取り――。



「大嫌いだよ」



 キリはハイネに自身の唇を重ねた。

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