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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
第一章 巡り出会う者たち
2/96

運命 前編

 にっちもさっちもいかないな、とキリはケーキ屋の店内で悩んでいた。


 どのケーキを選ぼうか、どれにしようかなどと迷っているのではない。別の意味で渋面を見せていた。おそらく、ショーケース越しにいる女性店員はケーキで迷っているとしか思わないだろう。いや、思えないはず。なぜならば、キリが悩んでいるのは――店の外を瞥見した。道路を挟んでの路地の方から銃砲を手にした男たちが見える。彼らの存在が気にかかっていた。


「お兄さん、彼らは大丈夫ですよ。この町の自警団の方なんですよ」


 なんて女性店員はキリを安心させようと言葉をかけてきてくれるのだが、彼にとってそういう意味で彼らの方を見ていないのに。


 むしろ、気付かれない方が安全なのだろうか。自分自身の格好を見て思った。キリの格好は一般の年頃の少年が着ていそうな服装である。どこかおかしかったり、あやしかったりする物はないはず。強いて言うならば、首に提げている錆びた『歯車のネックレス』ぐらいだろうか。それでも女性店員はおかしいとは思っていないようだった。


「そうなんですね」


 もう一度キリは武装した自警団の方を見た。


「ここ、一応王国の領土なんですけど、王国軍が何もしてくれないから彼らが町を守ってくれているんですよ。あっ、こちらのケーキなんて期間限定なのでオススメですよ」


「……じゃあ、それを四つください」


「お買い上げありがとうございます!」


 女性店員の満面の笑みを見て、キリはなにも言えなかった。彼にとって、この甘いにおいのする場所が息苦しく感じ始めていたのだ。


――この町だからこそ、俺たちが来ているのに。


 ケーキ代を支払いつつ、釈然としないまま店から出た。微かに遠くから火薬臭がしてくる。ケーキ屋の店員が言っていた『自警団』の者たちが持つ銃火器類から発する異臭だろうか。それだけに飽き足らず、周りから感じる視線にキリは足が竦みそうになる。もしかすると、彼らには自分の正体を見破られてしまったのかもしれない。


 なんて愁色を見せるのだが、すぐに新たな疑問が生まれてくる。それはありえる話だろうか、と。まさか、自警団を名乗る彼らは反政府軍団の制圧をしに来た軍人が潜伏してケーキを買っていると思うだろうか。


「ありえない、かな」


 キリはそう思わなかった。だが、彼は軍人というには見るからに頼りない背格好ではある。そして、キリは正式な軍人とは言いがたい。彼はただの一軍隊に所属する学徒隊員――すなわち、軍人の卵。国が作った軍人育成学校の生徒であるのだ。それに加えて現場の経験はゼロに等しい。キリにとって、軍事任務は今回が初めてだった。


――今の俺はただのケーキを買った一般人だ。軍人らしい振るまいなんてするな、俺。


 自分にそう言い聞かせると、ケーキ屋の隣にある路地へと入って行く。そこへ入るや否や、物騒な物を持った人物がすぐそこにいた。こちらを見ながら銃砲を弄る男。目付きが恐ろしい。ここへと迷い込んだキリの場違い感は、傍から見てもわかるほど。そして、路地の奥の方にも物騒な物を手にした男たちの様子が窺えた。


 そんな路地に入って五百メートルもないところに、一棟の小さなアパートがあった。あの小さなアパートこそが、キリが現在向かっている場所――拠点なのだ。


「おい」


 早く戻ろうとするキリに武装をした自警団の人物の一人が声をかけてきた。


「は、はい!?」


 思わず声が上ずる。とっさに口を押える。恐怖と不安に駆られてその場を逸走しそうになった。殺されるかもしれない。嫌な予想をする自分がいる。だが、ここで逃げ出してしまえば余計にあやしまれるだろう。


「お前……」


 男は弄っていた拳銃の銃口を向けてくる。指は引き金より遠ざかっているが、それでも怖くて恐ろしい。キリは顔面蒼白である。本当に殺されるのではと思い込んでいるのだろう。歯車のアクセサリーを握った。


「そこのケーキ屋で買ったのか?」


「は、はい」


 キリは伏し目で答えた。銃口を見るのが怖いから視線は上げたくない。


「……そこも美味しいが、東通りにあるケーキ屋の方が美味しいぞ」


 男は銃口を下げた。それが視界の端に見えたキリは顔を上げる。呆気に捉われた表情で彼を見つめる。


「そうなんです、か?」


「俺個人の意見だ。こっちのは甘ったるくてしょうがない。あっちはあっさり系の物が多い。特にフルーツタルトがオススメだ」


「あっ、お、ぼ、僕、そこで期間限定のケーキを買ったんですよ」


「おっ、そうなんだ。それは知らなかった。買いに行ってみようかな。まあ、なんだ、急に引き留めて悪かったな」


 少しだけ悪びれた様子で男は小さく頭を下げると、路地から出て行った。そのケーキ屋にでも行くつもりなのだろうか。その男がいなくなったのを見計らって、キリは長大息を吐いた。


「びっくりした……」


     ◆


 拠点のアパートのとある一室の鍵を開けた。中へと入ると、奥の部屋の方から怒号が飛び交っているのに気付く。ここへ戻って来るまで不安はあったのに、新たな不安の波が押し寄せてくるのか。


「ただ今戻りました」


 玄関先から声をかけるが、奥の部屋から聞こえる怒声は鳴り止まない。何があったのだろうか。奥の方へと近付くにつれて、大きな声ははっきりと聞こえていた。そこから聞こえてくるのは青年と少女の声である。彼らの声はキリにとっても知っている人物の声だ。もしや、彼らは口論でもしているのだろうか。


「戻りました」


 そっと部屋のドアを開けた瞬間、キリの顔の横壁にナイフが勢いよく突き刺さった。それにたじろぐ以外に何ができようか。あと少しで顔に刺さるところだった。


「身勝手なてめぇのせいで、ふざけるなよっ!」


 そう喚きながらモニターやキーボードが設置された机を拳で叩いている高身長の青年――ハイチがいた。彼はこめかみに青筋を立て、顔を真っ赤にして激昂している。


「勝手で結構。大体、あなたのやることは遅いんですよ。どれだけ時間食っているかわかっています? 三週間ですよ、三週間!」


 対抗するように、そう鼻で笑う少女――アイリがいた。彼女は部屋にある椅子にふんぞり返るようにして座っていた。どことなく、ハイチに対して嫌悪感を抱いているようである。


「遅いだと? こっちの正体やら、足跡やらがつかないように細工して向こうのシステムに入ろうとしているんだよ! これは遅いじゃなくて、正常なことだろ!」


「はぁ。あーあ、リスター副隊長殿はどうしてこんな面倒事をあたしに押しつけたんでしょお」


 アイリは聞く耳持たずに、一人嘆いていた。それは嫌みにも聞こえる。


「おい、どういう意味だ? お前の台詞じゃねぇだろ。むしろ、俺の台詞! 大体、クソ女や戦力外のお守りだなんて最初から願い下げだったんだよ!」


「その戦力外君がご帰還しているのに気付きませんか?」


 アイリはキリを指差した。それにハイチは悪びれない様子――否、舌打ちをする勢いで頭を掻いた。彼は黒い手袋をしているせいか、髪の色と同化している。


「戻ってきていたのか。外回りしても武器持った野郎ばかりで情報は微々たるモンだろ」


 ハイチはキリからの報告を待っているのか、じっと見てくる。彼の威圧感に気圧されていた。


 どうしよう、とキリは焦っていた。確かに反政府軍団の情報を集めると言った。だが、外に出ても有力な情報どころか、その反政府軍団に関する情報なんて何も集まっていない。集めていない。何もわからなかったのだ。強いて言うにしても、あれだけは言えそうにない。意味など全くないのだから。


「そう言えば、物騒な人たちと何か話していなかった? そこの窓から見えたけど」


 なぜに知っているのか。アイリは余計な情報を言ってしまった。ハイチはあごに手を当て、一人勝手に頷く。


「できることなら接触は止めろ、と俺は言ったんだがな?」


「向こうが話しかけてきたんです」


「ほう! 軍だとバレるような佇まいでもしていたか? そんな華奢な体して」


 答えは見えているのに、ハイチはわざと外して答える。これにキリは眉間にしわを寄せた。


「……いえ。ケーキは東通りのケーキ屋の方が美味しいって」


「どうでもいい情報だよな、それ」


 鼻で笑われた。キリを見る目が憐れみを帯びている。


「そうですね」


 キリが愛想笑いをする傍ら、ハイチの手には壁に刺さったナイフと同様の物が握られていた。


「どうでもいい情報を教えてくれたお前に、こっちからどうでもよくない情報を教えてやろうか」


 どうでもよくない情報? その言葉にキリは首を捻った。何かしら進展があったのだろうか。それとも、先ほど口論になっていたことだろうか。


「その情報を話す前に、ハイネが戻ったら話す」


「いや、もう戻ったから話して」


 いつの間にか、キリの後ろにはスーツ姿の知的な女性が腕を組んで立っていた。彼女こそがハイネという人物である。


「二人の声、アパートの廊下先まで聞こえていたけど」


「へーへぇ、それはどうもすいませんでしたね」


「謝り方が雑過ぎる」


 ハイネはそう言いながら、ドアを閉めた。


「それって、ケーキ?」


 キリの手に持つケーキの箱にハイネは嬉しそうな声を上げた。アイリもどこか物欲しそうにケーキの箱を見てくる。ハイチも少し気になるのか、ちらちらと箱を見ていた。


「話は、ケーキを食いながらでもするか?」


――どうでもよくない情報で、深刻そうなものなのに? もしかしてケーキを食べたい?


「ケーキはあと回し。先に話して」


 彼女にそう言われると、ハイチは残念そうにナイフを机の上に置いて、椅子に深く座り込んだ。そして、アイリを指差す。


「こいつが裏切った」


「えっ!?」


 衝撃的事実にキリとハイネは見交わした。


「裏切るとか、失礼にもほどがありますよ」


「ほぼ、事実じゃねぇか」


「話が飛躍し過ぎです」


 ハイチが言葉足らずなのか、彼らには話が全く見えなかった。そのせいで余計に混乱する。


「えっ、ちょっと待って二人とも。話が見えないから、一から説明して」


「だから、あれだよ。反政府軍団のシステムデータにハッキングするって言っていただろ? それを無謀にもこいつが侵入したんだよ」


 その物言いはハイチにとって、首肯的ではないようだった。だとしてもハイネにとっては彼の否定的な発言に怪訝そうにする。


「すごいじゃないの? 嫉妬?」


「ちげぇよ! 話はまだ終わっていないから。そんで、パスとかどうやったのか訊いたら、町の情報屋で俺たちの情報と交換したんだとよ」


 ハイチの言葉にハイネは眉根を寄せた。


「それって……」


「逆に俺たちの情報がどこまで知られてしまったんだろうな? システムデータの方も逃げてきたから何も情報がわからなかったし、いつまで経ってもアジトが割れないし。もう終わりだぁ」


 為す術なし。ハイチは肩を竦めた。ため息をつきながらキリが持っていたケーキの箱から一つだけケーキを手に取る。彼は部屋を出て行ってしまった。


「アイリちゃん……」


 ハイネがアイリを咎めようとした。しかし、彼女は「仕方ありませんよ」と開き直っていた。


「足がつかないようにするとか言ってもねぇ。結局は調べなきゃわからないのに。あたし、お茶でも淹れてくるんで、ハイネ先輩は着替えてきてください」


 アイリは逃げ口上でも作ると、部屋を出て行ってしまう。ハイネも着替えるため、部屋を出た。一人この場に残されたキリは彼女が使っていたであろうコンピュータを一瞥すると台所の方へと向かうのであった。


     ◆


 台所へと来ると、お茶っ葉の缶を手にしたアイリがお湯を沸かしていた。


「あの人、お茶要らないかなぁ?」


「俺に聞かれてもな。ハイチさんなら外に出たぞ」


「あぁ、そう」


 キリは無言で三人分のコップを戸棚から取り出す。アイリを瞥見しつつ、お茶の準備を手伝った。


「ねぇ、今度東通りのケーキ屋でフルーツタルトを買ってきてよ」


「お前さ、本当は盗聴でもしていたの?」


「いや? ここら辺じゃ有名らしいよ。そのふわふわした甘そうなケーキも美味しそうだけど、タルトも捨てがたい」


「あっそ」


 今度はキリが素っ気なく返した。そして、アイリは彼が首に提げている歯車のアクセサリーを見る。


「かっちょいいネックレスしているね」


「拾ったんだ」


「へぇ、拾った。して、どこで?」


「知らない」


 その答えが二人同時返ってきた。声はキリとアイリ。彼は意表をつかれた様子で彼女を見た。


「知っているのか?」


「知らないよ。きみがそれを拾った場所なんて」


 お湯が沸いたのかアイリは火を消して、キリが用意したコップにポットの中身を注ぐ。台所中に優しくて爽やかな香りが漂った。


「もっとも、自分が持っているのに、拾った場所を忘れたのも滑稽だよねぇ」


 アイリはあからさまに挑発的な発言をした。その言葉にキリは不快感を覚える。


「……勝手に笑いたければ笑えばいいさ。こっちだってまだこれ拾ったときの前後の記憶の整理がついていないんだから」


「記憶喪失? 大変だねぇ。そんな状況で任務にあたるなんて危険過ぎる。大丈夫なの?」


「ああ。危険過ぎるのは、お前がこの作戦に加わっているからだろ?」


「わかっているねぇ、戦力外君。拍手をあげる」


 そう言うアイリはキリに適当な拍手を送った。全く嬉しくない。


「あのなぁ、わかっているのか? ここじゃ、お前が一番の戦力外なんだぞ? なんで俺らの情報を売ったんだ?」


 アイリは何も答えず、お茶とケーキをダイニングテーブルへと運んでいく。


「きちんと任務書に目を通したのか?」


 アイリは何も答えない。何食わぬ顔で先にケーキを食べ始めた。ことの重大さを理解しているのだろうか? ハイチの「もう終わり」だという言葉は今の自分たちにとって相応なのに。


 この案件に指示が加わったのは一ヵ月ほど前だ。キリたち四人はとある人物に呼び出されていた。


     ◇


「学徒隊員であるきみたちには厳しい任務かもしれんが、王国のためにその身を尽くすのは当然だ」


 そう言うのはブレンダンという男であった。彼は王国の軍に所属する学徒隊員たちの副隊長だ。当然、キリたちは上司であるブレンダンに従わなければならない。


 ハイチは「もちろんです」と答えた。


「リスター副隊長、厳しい任務とはいかがなもでしょうか?」


 ハイチとハイネが畏まった様子でいる傍ら、キリ自身も畏まった態度でいた。だが、彼の隣に立つアイリは面倒くさそうに大きな欠伸を掻いた。なんという能天気な。それで緊張感がなくなるではないか。そんな緩い雰囲気にキリ以外にも全員は察知していたが、関わらないように無視をしていた。


 ブレンダンは咳払いをしつつ、四人に任務指示書を渡した。





<反政府軍団制圧作戦>


ハイチ・キンバー

ハイネ・キンバー

キリ・デベッガ

アイリ・ハルマチ


 上記の四名は後述の任務を遂行せよ。


 西地域にある信者の町にて王国軍に仇なす反政府軍団の住処となっているという情報が入った。諜報部がこの町にて外国製武器の密輸に関する対談を確認済み。

 密輸関連が明らかになれば現場に居合わせた者たち全員を捕縛せよ。

 もしも、一般市民や自分たちの身の安全が確保できそうにないときにだけ戦闘を許可する。ただし、信者の町は宗教信者の町でもあるからして増援は望めないため、心してかかること。また、今件にて作戦の失敗の見込みがあれば、自決あるいは処刑処分を下す。





「噂によると、反政府軍団は自警団という名目で町を根城にしているらしい」


 指示書を見たハイチは明らかに険しい表情で任務指示書とブレンダンを交互に見た。気に食わないのではないようだが、不承不承という面持ちの様子だった。


「きみたちが言いたいことは痛いほどわかる。だが、こちらの言い分にも納得してもらいたい」


「是非ともお願いします」


「きみたちを選んだ理由は、まず学徒隊員であること。ただの軍人だと見つかりかねない上に、任務の舞台はキイ教を国教とする隣国との戦争になるような町なのだ。反政府軍団はこの国の問題だから、あまり町で銃撃戦でも起こせばわかるね? 何も信者の町には国民だけじゃなくて、隣国の人たちもいることもあるのだから」


「隣国の人が抗争に巻き込まれたら、国際問題に発展しかねないということですか」


「その通り。だから、きみたちキンバー兄妹を抜擢したんだ。二人の噂は聞いているよ」


「……で、彼らは?」


 ハイチはキリとアイリの方を見た。


「彼は筆記試験学年トップのデベッガ君だ。何も問題はあるまい」


「そっちのやる気なさそうなのは?」


 随分とはっきり言うな、とキリは微苦笑した。


「彼女は……あれだ。どこの任務にも人材が足りなくてな」


「お守りですか」


 少しだけ頭にきたのか、アイリはふてぶてしい態度を取った。


「だったら、おぶられましょうか?」


 なんの悪洒落だ。これには誰もがうろたえた。ただ、ハイチに至ってはまごついてはいなかったものの、鼻白む。


「嫌だよ。何言ってんだよ」


「冗談も通じないんですかねぇ。頭が固くて残念です」


 この発言にハイチは焦燥の色を隠せずにアイリを殴りそうになったが、そこは耐えた。代わりに任務指示書だけをぐしゃぐしゃにする。彼は腹の中が煮えくり返っているようだった。


「まあ、彼女は隊長が編入させた人材らしいから、期待はしてもいいはずだよ」


     ◇


「ははっ。あんな紙切れを熟読しても意味ないし」


 アイリは指でキリを差しながら笑った。


「あの人もリスター副隊長の目の前で指示書ぐしゃぐしゃにしていたし」


 そのぐしゃぐしゃにした要因が自分であることがわからないのか? そうキリはケーキを一口食べながら思う。


「ハルマチ一人の身勝手な行動のせいで、完全に俺たちはとばっちりだ」


「意外に心配性だねぇ。大丈夫、大丈夫。情報がバレても、あの人だけだろうだし」

 

 アイリの傍若無人さにキリは呆れるしかなかったが、手が止まった。彼女は何を言ったか。


「ハイチさんだけがバレるだって? どういう意味だよ」


「そのまんまの意味。情報は情報かお金でしか買えないもん」


「まさか、ハイチさん自身の情報だけを売ったのか?」


「そうだけど?」


 何か悪いことでも? そう言いたげなアイリの心情を上手く読み取れないキリ。いや、彼女自身は読み取らせないような振る舞いであった。


「一人の情報でも、俺らの身バレの可能性はありえるんだぞ」


 キリがアイリを睨みつけていると、ハイネが着替えを終えてダイニングへとやって来た。先ほどまでのスーツ姿とは打って変わって白と黒のワンピースである。眼鏡も外していた。


「あっ、私の分まで用意してくれたんだ。ありがとう」


 ハイネは彼らの会話が聞こえていなかったのだろうか。にこやかな笑顔を二人に向けてくる。席に着き、ご満悦の様子でケーキを食べ始めた。


「美味しいね。これ」


「ですねぇ。ハイネ先輩知っていました? 東通りのケーキ屋のフルーツタルトが美味しいって」


「へぇ、そうなんだ。ああ、そう言えば、お客さんも言っていたなぁ」


 彼ら四人はこの町、信者の町を根城にしている反政府軍団の制圧に来ている。その一方で情報収集の一環としてもう一つの拠点も持っていた。それがこのアパートから東の方にある雑居ビルのとある一室だ。そこには『法律相談事務所』と掲げた看板があった。そこでハイネは一人で法律に関する相談を承っており、同時に町の情報を得ようとしていた。だから、身拵えでもしないとあやしまれてしまうのだ。そうして長いことやっているのだが、情報がなかなか集まらないものである。


 ガールズトークで盛り上がっている中、一人残されたようにキリはケーキを食べる。ハイネを見て少しだけ不信感を抱いていた。ハイチのことが気にならないのだろうか、と。


「あの、ハイネさん」


 どうしても気になるキリはハイネに声をかけた。


「うん、何?」


「ハイチさん、大丈夫なんでしょうか?」


「ハイチね。よくわからないけど、ハイチなら多分大丈夫じゃないのかな?」


「そうなんですか?」


「うん、大丈夫。きっと対処法を考えてくれるよ。なんで?」


 不思議そうな表情を見せるハイネ。それと同時に彼女に一件の着信が入った。連絡通信端末機を手にして席を立つ。会話を察するにハイチと対話をしているようだった。


「果たして対処できるかな?」


 そう言うアイリはのんびりとお茶を飲む。キリはそちらの方を見た。


「なんで、ハイチさんの情報を売った?」


「あたし、あの人の偉そうな態度が嫌いなんだよねぇ。わかる? 戦力外君」


「……その言い方止めてくれる?」


 キリは席を立つと、食べ終えた食器類を片付け始めた。そんな彼の背中を眺めながらも、アイリは口を止めない。


「聞いたよぉ。きみって筆記試験はトップクラスなのに戦力外って呼ばれているんだねぇ」


「…………」


 キリは無言でアイリを横目で見た。が、すぐにシンクへと視線を戻す。水が流れる音が虚しく聞こえていた。


「もしかして、あれかなぁ? 知識はあるくせに、実戦や実習じゃ使いものにならない残念系の人」


「…………」


 食器を洗い終わり、それらを戸棚の中へと仕舞っていく。


「哀しいよねぇ。せっかくの知識があるのに、いざというときは頭が空っぽになってしまうって」


「……何が言いたいんだよ」


 キリの手には陶器のコップが握られていた。


「その答えは自分で見つけるべきだ、戦力外君」


 我慢の限界。手に持っていたコップをアイリに向かって投げようとしたとき、タイミングよくハイネが戻ってきた。


「ご、ごめんね。ハイチが用があるって……アイリちゃん」


「あたしに用ですか。珍しい」


 ハイネにそう言われて、アイリは逃げるように外へと行ってしまった。彼女がいなくなり、ハイネは心配そうにキリを見てくる。


「あの子に何か言われた?」


「いいえ」


「なら、いいけど……あっ、もうお茶っ葉がなくなってる。忘れない内に買いに行かなきゃね」


 そうハイネは自身の食べかけのケーキを平らげた。アイリが残していった食器類を手際よく片付けると、キリ一人残してアパートを出る。


 そのまま突っ立っていても仕方がない。そのため、握って温かくなったコップを戸棚へ仕舞い込むと、奥の部屋へと赴いた。ハイチが投げたナイフは壁に突き刺さったままである。それを抜き取り、机の上に置いた。


 ふと、コンピュータに一件のメールが届いていることに気気付く。差出人はハイチであり、宛て人はキリとハイネだった。キリはそのメールの内容を確認する。


『お前たちだけでも逃げろ』


 どういう意味だろうか。キリが首を傾げていると、彼の連絡通信端末機に一通の着信が入った。


「はい」


《キリ君? 私、ハイネよ》


「どうされました?」


《ハイチとアイリちゃんが反政府軍団に捕まったの》


 それを聞いて、キリは手にある物を落としそうになった。


《私は変装とかしていたから、今のところ問題ないみたい。だけど、きみは気をつけて》


「は、ハイネさんはどうするんですか?」


《二人を助けなきゃ。大丈夫、護身用に小銃を持っているから》


「でも、あいつらって、一人じゃ危険ですよ!?」


《……そうね。でも、私は逃げたくない。自分の兄だろうが、兄を売った最低な女でも私は助けたいの。危険でも行って、後悔する方がいい》


 決然たる声音でハイネは通話を切った。キリは耳元からそれを遠ざける。


 コンピュータにキリ宛てのメールがもう一通届いた。ハイチからではない、アイリからだった。


『チャンスだよ』


 モニター前にて固まるキリ。彼の心中には万感の思いがあった。


「ハイネさんのところに行って、下手したら死ぬ。逃げたら……」


【今件にて作戦の失敗の見込みがあれば、自決あるいは処刑処分を下す。】


 任務指示書の一文が思い浮かんでくる。だが、頭を振った。今に考えたり、思うことにそれは要らないだろう。もう一度アイリからのメールの本文を見た。彼女が示すチャンスとは可能性に置き換えることができた。


「俺に何かを賭けているのか?」


 自分にどの可能性があるのだろうか。もしかしたら、アイリは自分を貶めるため、わざと混乱するような文章を送ってきたのかもしれない。それでも、こんな自分に僅かな可能性があるならば――。


 キリは小銃とそれの替え弾丸を手に持って外へと走り出すのだった。


「だったら、俺も後悔するべきだ!」


     ◆


 町中へ出てすぐにキリは反政府軍団のアジトを知らないことに、今更ながら知る。どこへ行けばよいのか。そうだ、ハイネに連絡を入れて合流をすれば――駄目だ。連絡手段がない。自分の連絡通信端末機をアパートに置いてきてしまった。


「俺って、本当ダメ!」


 急いで取りに行こう。踵を返してアパート前へと行くが、キリはすぐに物陰の方へと隠れた。そこには武装をした自警団――否、反政府軍団が囲んでいたからだ。遅かった。もう戻れない。


「事務所は……」


 キリは反政府軍団に見つからないようにして、周りを警戒する。町の東側にある自分たちのもう一つの拠点である事務所へと急いだ。


「いたか!?」


「いや、いない。まだ近くにいるはずだ。手分けして探せ!」


 物陰に隠れながら、ポリバケツの中に逃げ込みながら、慎重に行く。だが、あまりにも反政府軍団が多過ぎて前進ができない。そんな状況の中、今のキリには人心地なんて全くなかった。


「ハイネさん、捕まっていなければいいけど」


     ◆


 暗がりの中、ハイチの目の前には鉄格子があった。どこからか、微かに妙なにおいがする。血か?


 ハイチは椅子に座らされ、手足を縛られた挙句に頭には袋を被せられていた。引っ括られた縄から抜け出せそうにないようだ。ただ、右目のところに穴が開いていた。そこから覗いてわかるのは鉄格子の向かいに立つ誰か。反政府軍団か。その人物は目深くフードを被っていて、表情が読み取れなかった。


「お兄さん、起きてるぅ?」


 聞き覚えのある声。どこか間延びした声。誰だっけ?


「反軍のやつらか?」


「質問を質問で返さないで。こっちが質問をしているのに」


「てめぇの質問は俺がしゃべっている時点でわかることだろ」


「意外。お兄さん、頭いいねぇ」


 その人物はは軽侮しているのか、ハイチに苛立ちが見えていた。


「てめぇらに褒められても嬉しくない。さっさと、俺の質問に答えろ。お前は反軍の人間か?」


「そうだけれども、そんな言い方は好ましくないなぁ。どちらかと言うならば、王国軍の連中の方が悪役なのにぃ」


「けっ、滅多なこと言うじゃねぇか。寝言は寝て言え。」


「そんな無様な格好してるのに、お兄さんこそよく言えるねぇ」


「だからなんだ」


 フードの人物は懐からあやしい液体の入った注射器を呈出した。偶然にもそのフードの下の姿が露わとなる。それを見たハイチは歯噛みした。ああ、この小面憎さは――。


「あーあ、もしも王政の下僕が異形生命体になったら、どうなるんだろうねぇ?」


 フードの人物の相貌が見えたハイチは苦い表情でその人物――彼女を見ると、なぜだか口角が緩んできた。今にも笑いそうだ。


――なるほど、やっぱりあいつは内通していたか。


「マジで裏切りやがって」


     ◆


 ハイネは現在、広小路から外れた路地にあるサパークラブ前の物陰に隠れていた。この中へと二人は反政府軍団員たちに連行されてしまったのだ。もしや、ここが反政府軍団の根城だろうか。全くの情報なしでここまでやって来た。引き返すわけにはいかない。それにアパートにはキリがいるからなにも問題はないはず。なんて考えながら店の方を覗こうとすると、誰かと体がぶつかってしまった。思わず彼女は隠し持っている銃砲を手にかけようとした。


 一方で、ぶつかってきた相手はハイネが持つ銃砲に似た型を手にしていた。そう、その相手はキリである。彼らは偶然にも合流を果たしたようだった。


「き、キリ君か」


「ハイネさん」


 ぶつかった相手がハイネだと知り、キリはそっと銃を下へと下ろしながら安堵する。


「アパートにいたんじゃないの?」


「それが、反軍にバレてしまったようで」


「じゃあ、あとを着けられていないよね?」


 ハイネはこそっと物陰から顔を覗かせた。通りを徘徊するのは武装していない町の人々だけのように見えるが、安心はできない。信者の町の住人は反政府軍団をしっかりと信用しているのだ。だから我こそもと武器を持とうとする者は少なからずいるはずだ。


 さて、少し問題が出てくる。キリをどうするかである。人の噂なんてあまり気にしないハイネにとっても、今回ばかりは戦力外と呼ばれている彼を気にしていた。自分がキリを庇いながら突入するか? 否、不可能だ。そんな芸当は自分にはできない。それならば――。


「裏口を探して、そこから入ろう」


     ◆


 サパークラブの裏口のある場所へとやって来た二人は人の気配を確認しつつ、入り口を見た。ドアの前でタバコを飲むのは店の従業員だろうか。男が一人いた。


「キリ君、お願い」


「はい」


 ハイネがキリに指示をすると、彼は銃砲を彼女に預けて男性従業員へと近付いた。そんなキリに男性従業員は気にかけていないのか、タバコを吹かしている。


「あ、あのっ」


 声をかけると、男性従業員はキリに素っ気ない態度で返事をした。


「はい?」


「東通りへ行きたいんですけど、ここに越してきたばかりだから道に迷ってしまって」


「ああ、それなら――」


 男性従業員は快く道案内をする。ハイネは、彼の隙を窺ってキリから預かっていた銃砲を喉元に当てた。男性従業員の喉には不気味なほどひんやりとした物が当たるから、一気に血の気が引いていく。


「ごめんなさい!」


「なっ!? 誰!?」


「ご、ごめんなさい!」


 ハイネの行動が合図だった。キリは男性従業員のあごに強烈な一発を当てた。そして、行動不能の状態となった彼を動けないように両手足を縛り上げ、口を塞いでポリバケツの中へと押し込めるのだった。


「本当にごめんなさい」


 二人は男性従業員が入ったポリバケツへと平謝りをする。入り口のドアを見るも、その向こう側からは人の気配はしないようだ。それに彼らは銃砲を手にして慎重に中へと向かう。


「落ち着いてね?」


 そうキリに言い聞かせた。彼は不安げに小さく頷く。それに伴い、ゆっくりとドアを開けた。中はもちろん、自分たち自身の周りをも確認する。


 誰もいない様子。足音をなるべく立てないように、侵入していく。入ってすぐに段ボールが高く積み上げられた陰へと隠れ込んだ。周りの警戒心は片時も怠らないように。


「人いない?」


「奥ですかね?」


「かも。私が先に行くから、キリ君は入り口の方を見ていて」


「はい」


「誰か来たら、ここにある段ボールを落として合図して」


 キリにそう指示をするハイネには案じ顔が窺えた。彼は彼女に心配をかけないように大きく頷く。


「はい」


「なるべく、戦闘は避けてね」


「はい」


 返事をするキリが心配なハイネ。不安が拭えぬまま、奥へと足を進めれば、二つのドアを発見した。ここに来るまで従業員や反政府軍団は見かけなかった。ここはただの店の倉庫なのか。身を隠せそうな段ボールの山は逆に敵が隠れている、と考えれた。


 もしも、そうであるならば、入り口付近で見張りをしているキリは平気なのか。危険はないか。自分のことよりも彼のことが気になって仕方がない。


――いや、彼は落ち着いてすれば、問題はないはず。


 ハイネは半信半疑ながらも一つ目のドアをほんの少しだけ開けた。その向こう側は店の事務所のようで、書類関連やコンピュータなどが揃っていた。その部屋には一人の男性従業員が仕事をしている。こちらが事務所ならば、もう一つは――ハイネが予想していた通り、向こう側はクラブの中のようで、薄暗くてあやしい雰囲気を漂わせていた。店の客は武装した人々――つまりは反政府軍団員たちがいる。


 ここや事務所、店の中にハイチとアイリはいないようだった。彼らはどこへ連れて行かれてしまったのだろうか。そっと店へのドアを閉めると、ハイネは腕を組んで考えた。確かにあれは自分自身の目で見たはず。大柄な男が高身長のハイチを小脇に抱えていたし、アイリに至っては脅されているのか、ナイフを背中に突きつけられて中へと入って行ったのだ。まさか、敵と仲良く騒ぐなんてありえない。


 そうハイネが思っていると、二人が侵入してきた入口の方から物音が聞こえてきた。音から察するに、誰かがこの倉庫へとやって来たのか。彼女が動き出そうとするも、事務所へとつながるドアが開かれた。一瞬だけ心臓が止まったかと思ったが、上手く段ボールの陰に隠れる。


「休憩、終わったか?」


 男性従業員は入り口の方へと向かう。キリが危険だ。


「おーい?」


 その呼びかけが倉庫にこだまするだけで、何も反応は見せなかった。それどころか、入り口付近にいるはずのキリに気付いていないのか。外のドアが開く音が聞こえる。しばらくしてドアが閉まる音が聞こえると、従業員の足音がこちらへと近付いてきた。


「どこまで休憩しに行っているんだ?」


 そう呟きながら男性従業員はハイネに気付かず、事務所へと戻ってしまった。完全に気配が消え去ったと判断した彼女はキリがいるであろう場所へと足を向ける。そこには段ボールが一つ落ちているだけで、彼はいなかった。まさか、キリ自身も連れ去られてしまったのか? 


「き、キリ君?」


「はい、こっちです」


 キリの声が聞こえてきた。声がする方を見ると、段ボールの陰から顔を覗かせる彼がいた。無事がわかったハイネは安心して腰を抜かしたのか、その場に座り込む。どうやら、驚かせてしまったようだ。キリは申し訳なさそうな面持ちでいた。


「すみません。俺がそっちに行くよりも、こちらの方が安全だと思って……」


「いや、無事で何より」


 ハイネはゆっくり立ち上がると、キリの方へと歩み寄る。


「どうしたの? 何か見つけた?」


「ここなんですけど」


 キリは自身が隠れていた段ボールの山を少しだけずらした。すると、その陰からは他のドアよりも一際小さなドアが露わとなる。


「隠れる場所がここしかなくて」


 本人曰く、もっと安全な場所に隠れるべきだったが、ここしか身を隠せる場所がなかったそうだ。いや、賢明な判断か。


「このドアは?」


「わかりません。ハイネさんを呼んだ方がいいと思って段ボールを落としたんです」


「なるほど」


 一人頷くと、ハイネはドアに耳を当てた。このドアの奥には狭い空間がある様子。少しだけ開けてみた。奥は真っ暗で何も見えないが、この倉庫の電気の明かりでこの奥が地下へと通じる階段であることが確認できた。


「地下?」


「下はなんでしょうか?」


「行ってみるしかないよね」


 二人は地下へ続く階段に足を踏み入れるのだった。


     ◆


「そりゃ、王国に忠誠を誓うお兄さんらからしたら、あたしは裏切り者だろうねぇ」


 注射器を手にする彼女は皮肉りながらハイチのいる鉄格子の中へと入ってくる。彼女が見せる笑顔に裏など一切見られない。


「でもさぁ、あたしは何にも悪くないんだよねぇ。ただ単に、世紀の実験を成功させただけなのにさぁ。それときたらあいつらが……ああ、思い出すだけでもムカつくなぁ。そういうときこそ、こうしよう」


 フードの彼女はハイチの頭をわし掴みすると、首元に目掛けて針を当てようとした。彼の喉元の頸動脈が大きく聞こえる。こんな物を体内に入れたらば、人間じゃなくなる。そう考えるだけで冷や汗が止まらなかった。あんなバケモノ、存在自体がありえべからざる。どうすれば、この状況から打破できるか。手足は強く固定されたままで身動きが取れない。針はすぐそこまで迫っている。


「ディース」


 注射の針が当たる寸前で鉄格子の向こう側から大柄の男がそう呼びかけてくる。彼女――ディースは手を止めて男の方を向いた。あと少しのところで邪魔をされたせいか、不機嫌そうな表情を見せている。


「なんなの?」


「それはあとからでもできるだろうが。今、町にこいつらの仲間がいるんだ。本軍が来る前に手を打つんだ」


「はぁ、やだやだぁ。面倒だなぁ」


 ディースは煩わしそうに注射を懐へと仕舞い込むと、ハイチの頭から手を放した。そして、鉄格子から出て行く。なんとかやり過ごせたハイチはあの男に僅かながらも感謝した。


――異形生命体にならなくてよかった。


「あんなモンになったら、それこそあいつに顔なんて合わせられねぇし」


「あいつって、妹さんのことですか?」


 聞き覚えのある話調が真後ろから聞こえてきた。ハイチは急いで顔を振り向く。そこにはアイリがいた。


「いつの間に戻って!?」


「戻って? なんですか、戻ってって」


 片眉を上げるアイリに対して、ハイチは怫然たる態度を取った。


「俺をバケモノにするために戻ったんだろ!」


「はぁ?」


 どうも話が噛み合わないようで、アイリは声を漏らした。一方でハイチは彼女に敵意をむき出しにしていた。


「せっかく、人が脱走してきてまで助けにきたのに不愉快なんですけど」


「ああ? どういう風の吹き回しだ?」


「いや、意味がわからないんですけど」


 アイリは嘆息をすると、ハイチを縛っていた手足を解いてあげた。それを狙ってなのか、彼は彼女の首を掴む。今にも首を絞めそうな気迫である。


「恩を仇で返す気?」


「悪いな。俺に恩という言葉は知らねぇよ、ディース」


「そのディースって誰ですか」


「とぼけんな。お前はアイリ・ハルマチとして俺らには通っているようだが、ここじゃディースだなんて言われているらしいじゃねぇか」


「初めて来たんですけど、ここ。ていうか、この仕打ち――マジでふざけるんじゃねぇぞ」


 ハイチから反感を買ったのか、アイリは目に角を立ててくる。その目から嘘は見えない。いつもの彼女ならば掴み処のない、腹の中を見せようとしない飄々たる性格の人物なのだ。ここまで本気で怒るアイリは見たことがなかった。もしかして――ふと、ハイチの脳裏にそんな思いが過った。


「脱走ってなんだ? お前も捕まったのか?」


「じゃなきゃ、あんたみたいなやつなんて助けたりしない」


「ひどい言われようだ」


 ハイチは鼻で笑うと、ディース――否、アイリの首から手を放した。彼女は不愉快そうに頭を振る。


「人を縊ろうとするからでしょ」


 アイリはハイチに向けて一本のナイフを投げ渡してきた。


「これは?」


 捕まったのであれば、武器は押収されるのに。事実、ハイチだってその通りだった。町中を歩いてみれば、大柄の男にやられて縛られていた挙句、隠し持っていた武器すべてに至るまで取られてしまったのに。


「パクった。隙さえ見れば、ちょろいですよ」


 そう言うアイリの手にはハイチが持つナイフと同じ刃渡りの物が握られていた。


「だろうな。どうせ、それで金払う代わりに俺らの情報を売ったんだからよ」


「……ははっ。さあ、こんなところにいると、敵さんがやって来ますよ。逃げましょ」


     ◆


 暗がりの階段を下りた二人の目の前には小さな電気のついた地下通路が続いていた。町にこのような通路があったなんて。そうハイネは眉根を寄せた。自分たちはもうあと戻りができないところまでいる。逃げ場所はない。ひたすら前に進むしかない。


「キリ君、ここは戦闘を避けることができないみたい。慎重に行こう」


「ええ」


 返事をするキリの声音は先ほどよりも怖けついているようだった。横目で見る彼は心構えはあるようだが、所詮は上辺だけのようで、本心は不安がっているようである。


 前へ、前へと進む。彼らの先には前の見えない一本道。左右に部屋などない。不意打ちからは逃れることはできるようだ。だが、前から、後ろから相手がやって来るならば、銃砲二丁でどこまで対処が可能だろうか。


「どこへつながっているんでしょうか?」


「わからない。それよりも、逃げ道がないなんて」


 できるならば、相手に会わずにハイチとアイリに合流できますように。なんて願うだけのハイネ。事実そうである。それ以外に考えることも、願うことはないのだから。


 願えば、反対のことが起きるなんて、神かそれとも運命のいたずらか。例として挙げるならば、彼らの前方からは人の足音が聞こえてきたのだ。そう、二人はそのような目に当たってしまったのである。


「えっ」


「嘘っ!」


 とっさにハイネは周りを気にし出す。何も物陰すらないこの通路でどうするべきか。


――ええい! 戦う他、考えつかない!


 完全に行き詰まってしまったハイネは自身が持つ銃砲を構え歩き出した。キリも見様見真似で構えてあとを追う。足音は大きく聞こえてくる。音からして一人か? ハイネは大きく息を吸い、吐いた。足を止める。キリも止めた。


「私たちは王国軍の学徒隊員です。国の法に則り、大人しく投降してください」


 足音の持ち主は彼らの目の前に現れた。その人物はフードを深く被ったディースである。二人に彼女の顔は見えない。


「こっちの方に来ていたんだ、王国の連中が。あぁ、イライラするなぁ」


 ディースはそう嘆くと、懐から逆手に持った空の注射器を取り出した。これで二人の相手をするらしい。


「無駄な抵抗は止めてください。その飛び道具の私たちに勝てると思っているんですか?」


「思ってないよ。何をばかなことを」


 声からして同世代の女の子だろうか。これならば、キリに任せて自分は先を急ぐという手もある。さすれば、向こうにいる反政府軍団の相手は彼を庇わずとも一人で心置きなく戦えるだろう。


「キリ君、お願いしてもいい?」


「大丈夫です」


 キリ自身も彼女の相手に不足なしというような面持ちで返してきた。少しは自信があるらしい。


 ハイネはディースに攻撃されないように、通り去ってしまう。残された二人。キリは未だとして銃砲を構えたまま。だが、彼女は構えを解いた。大人しく投降する気なのだろうか? そう考えても油断はできそうにない。罠かもしれないからだ。


「それを後ろに投げ捨てて、下に伏せろ」


 ディースは注射器を後ろへと投げ捨てた。しかしながら、地面に伏せようとはせずに、見えない表情を彼に向けてくる。


「早く、下に伏せろ」


 何も言ってこない。ただ、ひたすらに自分を見てくる彼女に謎の恐怖を覚える。それだから手が震えてくる。なんだ、こいつは。ややあって、ディースはようやく口を開いた。


「……カッコいいねぇ、きみ」


 突然、関係ない発言にキリはたじろいだ。強張っていた肩が緩んでしまう。


「は?」


「本当は怖いのに、そうやって立ち向かおうとする姿勢、あたしは好きだよ」


「からかっているのか!」


 その悪洒落を言うのは自分を混乱させて、隙を見せるための挑発行為なのか? だが、キリはあまり『カッコいい』と言われたことがないのか、顔を赤らめていた。


「別にからかっていないけど?」


「だ、だったら、早く下に伏せろ」


「伏せてどうするの? あたしのことを襲う?」


 ディースのその物言いは明らかにキリをからかっているようだった。


「くだらない冗談は止めろ!」


「いや? あたしとしてはきみみたいな人に襲って欲しいなぁ。ていうか、きみだってそうしたいでしょ」


 こいつ、勘違いも甚だしい。何を言い出すのか。煽るディースに憤りを感じるキリは睨むと、引き金を一発だけ引いた。その弾丸は彼女のフードを擦過する。それで彼女の顔が明らかとなった。


「え?」


 今の自分を見られたくないのか、ディースは手で顔を覆いながら背を向けて逃げ出した。逃げられたキリは狼狽の色を見せながらも、走って彼女を追いかけることしかできない。あれが気のせいでなければ、彼女は――彼女の顔はアイリである。


――本当に裏切ったのか?

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