悪神
最近夜に汗を掻くほど暑い。キリはそう思うようになった。朝は比較的に汗が引きそうな涼しい風が吹いてくるが、昼と夜に吹く生暖かい風が体に当たると、ほんの少しばかり不快に感じるのだ。彼はぼさぼさの頭をしながら、眠たい目を擦りつつカーテンを開ける。眩しいと目を細めながら、爽やかな朝をこの目で確かめていた。
確実に目を覚ますと、キリは未だベッドの上で丸まっているガズトロキルスを起こそうとした。
「ガズ、朝だぞ」
「――ふぁっ? まだ二十四時間以上もあるじゃん」
不機嫌そうな低い声。再び眠ろうとするため、キリは「それ以上寝たら、明日が来るぞ」と言った。
「二十四時間も寝て、朝の訓練に備える気か?」
「そ、そそっ。だから、お休み」
これ以上起こすのはいいか。ガズトロキルスをそのままにすることに。キリは身支度を始めた。洗面台で歯を磨きながら、自分の脱衣籠へと服を入れていると――ガズトロキルスの脱衣籠から服がはみ出しているのに気付いた。仕方ないと綺麗に入れ直そうとするが、それはできるなかった。いや、するべきではなかったのだ。
脱衣籠の蓋を開けた瞬間、男臭と汗臭さのデュエットがキリの鼻に突き貫ける。あまりの刺激臭に蓋を強く閉めた。その勢いの風に乗り、またしてもそのにおいが漂ってくる。
「くさっ!」
キリは口の中に入っている歯磨き粉を捨てて、真っ先にガズトロキルスのもとへと向かた。布団をはいだ。強制的に目を覚まさせようとする魂胆なのである。
「起きろっ!」
「寝かしてくれ……」
自身の布団がなく、代わりに枕で頭を塞ぐ。
「いや、起きて洗濯しろよっ! おまっ、自分の脱衣籠に違和感がなかったのか!?」
「脱衣籠ぉ?」
キリの言葉にガズトロキルスは寝ぼけ眼で洗面所の方へ行き、脱衣籠の蓋を開けたり閉めたりを繰り返す。
「問題ねぇぞ」
「あるわ! そこから強烈なにおいがするんだよ! 絶対、その量の洗濯物は前々回の休みのときから洗ってねぇだろ!」
「しょうがないよ、昨日はみんなでシエノ港町に行ったんだから」
「俺も行ったけど? 帰ってきて洗濯したけど? いや、しろよ。つーか、授業が終わってもできるし、寮に洗濯機がいくつあると思っているんだよ」
そうキリが言うと、ガズトロキルスは真面目に男子寮にある洗濯機の数を思い出そうとする。
「二十機くらいか?」
「たくさんあるじゃん! 俺、誰かが終わるのを待った記憶がないくらい、あり余っているんだよ! 使えっ! どうせ、今日は俺もお前も授業を取っていないんだから」
「あぁ、後で」
せっかくの休日なのだから、と再びベッドの方へと戻ろうとするが、それはキリが服の裾を掴んで止めた。
「今やれよ! 絶対に忘れるだろうがっ!」
「大丈夫、大丈夫」
「絶対、大丈夫じゃない! 絶対に次の休日まで残りそうだろうが!」
強引さもあり、ガズトロキルスは多少不機嫌そうな顔を見せながら、寮の洗濯機のある場所へと送られた。彼を送って一安心したキリはため息をつきながらテーブルの席に座ると、その上に紙の束があることに気付いた。なんだろうかと手に取ってみると、それは以前に信者の町に住む老人から借りた論文だった。
「読んだんだよなぁ」
そろそろ返すべきだろうな、とアイリへメールを送る。
『今日、授業取っている?』
すぐに返信のメールが来た。
『一時間目だけ。なんで?』
アイリが二時間目以降休みならば、ちょうどいい。場所と行き方は知っているが、まだ一人で行くには不安だと思っていたのだ。
『情報屋のじいさんのところに行こうかなって。一緒にどうかな? 俺、まだフルーツタルト食べていないし』
『行く。食べたい』
どうやらアイリの目的はフルーツタルトのようである。彼女はこれで動かせるようだった。
キリはアイリに集合場所と時間を指定して、彼女の授業が終わるまで部屋の中にある本を読むことにした。その間にガズトロキルスは戻ってきて、乾燥までさせた洗濯物を頭の上に落としてくる。
「どうだ、ふわっふわっだろ!」
「柔らかくていいんだけど、ビビるから止めてくれない?」
「周りに食べ物とか飲み物がないからやってやったんだぞ」
ありがた迷惑である。キリが嫌そうな顔を浮かべて、落としてきた衣類を払い除けた。
「そういう問題じゃねぇし。――と、ガズ。俺、急用ができたから出かけてくるな」
椅子から立ち、ガズトロキルスにそう言った。そろそろ時間だ。すると「お土産よろしく」とまあ、図々しくも注文をしてくる。
「どこ行くか知らないけど、食べ物だったら大歓迎」
「買えたらな」
キリは連絡通信端末機と論文を手にして部屋を出た。寮内の廊下を歩きながら、アイリから送られてきたメールを確認する。ちょうど彼女から送られてきたのだ。アイリは『準備オッケー。ターミナルにいるから』という文面を送ってきていた。それに彼が返事を送り、彼女が待つターミナルへと急ぐ。
◆
「ごめん、待たせた」
公共機関のターミナルへとやって来ると、アイリは着替えていないのか、座学用の制服を着ていた。
「ううん、大丈夫よ」
「別に、私服に着替えてきても時間はあるのに」
「女子寮の乾燥機が壊れているの」
「そうなんだ」
これ以上の詮索はアイリに変態的だと見られたくないため、何も言わないが――現在の手元に使える私服が存在しないのだろう。そう解釈しておいた。
「まあ、デベッガ君が大金を持っていたなら、町に行って、見つけた服屋にでも強引に連れ込もうとは考えていたんだけど」
悪意のない笑顔を見せるアイリであるが、それを本気にしてしまいそうだ。キリは若干引きつった表情を見せていた。
「そう言えば、話は変わるけど、あのおじいさんに何の用なの?」
「これ。読み終わったし、返そうかと思って」
アイリに老人が執筆した論文の束を見せた。それを見て、彼女は思い出したように相づちを打つ。
「読んでいたもんねぇ。どう? 面白かった?」
「……のかは、俺はよくわからなかったんだよな。言ったら悪いけど、出版したとしても大量の本に埋もれてそうな物だって思った」
「面白い本はほんの一握りだなんて聞くからねぇ」
「そうだな。で、ハルマチが持っているその本の中身って、あのじいさん同様に誰かの手書きの論文とか何か?」
「おお、手書きは正解。でも、論文じゃない」
半分当たったキリは嬉しく感じた。しかし、もう半分当たっていなかったからか、悔しく思う。
「まぁ、まぁ。それはさておき、もう来ているし行こうよ」
アイリにそう促され、二人は信者の町行きの便に乗り込んだ。その際に、キリの連絡通信端末機に一件の着信が入る。座席に座り、中身を確認した。メールだった。差出人はガンからである。あのデータのことかとすぐさまメールの内容を確認した。
『データ・スクラップ・エリアに確認しに行ったんだが、欠片だけ見つけたんだ。他のデータは情報の大海にもみくちゃにされて、見つからないんだ』
そのようなことが書かれており、残念そうに項垂れた。その様子を見ていたアイリはそっと、画面を覗き込んだ。
「ガンに何かお願いしていたの? データ?」
「うん。どうも、俺が持っていたデータを向こうに忘れてきたみたいで……」
「大変そう。向こうの世界って、もう行けないのかなぁ?」
「行けないことはないみたいだけど、ルーデンドルフ教官の戻りが今日の夕方って言うから。それまでにこれを返してから行こうかなって思って。部屋でじっと待っていると、落ち着かないし」
「……デベッガ君さ、記憶は思っている以上に大切なものだって頭に入れておいた方がいいよ」
そう言うアイリに、キリは目を丸くして見てきた。どこか図星を突かれた気がして――だが、なぜにそうであるのかすら把握できていない。
「えっ? どういうこと?」
「バグ・スパイダーの親玉倒したとき、それを使ったでしょ」
アイリは服の下に隠している歯車のアクセサリーがある場所を指差した。キリは小さく頷く。
「ルーデンドルフ教官が言ったこと、覚えてる? ウィルスは全滅したって」
「あ、う、うん」
あのときは褒めてもらえたから、とても嬉しかった記憶がある。それがどうしたと言うのだろうか。
「もう一度思い出して。デベッガ君が持っているそれはどんな代物であるか」
どのような代物――歯車は事実を書き変えることができる。それは致命傷だろうが、即死だろうが変えられることである。キリはそう答えた。アイリは満足そうに大きく頷く。
「でも、それだけだったかな? その行為は許されるかな?」
「あっ」
世界が、歯車がする事実の書き変えの行為を許さず、更にそれ自体をなかったことされることを思い出した。
そう、キリはその歯車の霊剣を用いてバグ・スパイダーの親を倒した。それですべてのウィルスが消え去った報告を聞いているし、ガンからもいなくなったと嬉しそうにメールを送られてきたことも覚えている。
「あ、あのさ……」
もしかしすると。訝しげ面持ちでアイリを見た。
「これって、使いこなせているのか? 使いこなすって、世界にその行為を認めさせたってことか?」
「そうと捉えるのも悪くないけど、きみは払うべきではない代償を払ってしまったことを理解しているの?」
ハイネの記憶と引き換えに手に入れた勲章がある。それがハイネでなくとも、他の誰かの記憶を捨てていたかもしれない。そうしてまで得た栄光を噛み締めていたキリは気分悪かった。
「教えてくれるかわからないけどさ。教えてくれるなら、教えてくれ。差し出すべきではない代償を差し出したとするならば、世界は事実の書き変えの行為を見逃してくれるのか?」
「……うん」
珍しくもアイリは答えてくれた。だが、そのわかりきっているような答えにキリは閉口してしまう。
「あたしとしては、あんまり好ましくないと思っているよ」
その意見には同意する。自分だって、記憶が消え去るのは怖い。今、それを目の当たりにしているからこそ、もっと怖いのだ。
「うん」
◆
二人はその会話を最後に信者の町へと足を踏み入れる。ずっと、沈黙を守っていた。キリもアイリも何を話すべきか、わからないし。この雰囲気や状況でおふざけだなんてとんでもないようなものだからだ。
キリはただアイリの一歩後ろを歩く。その後ろ姿を見て、どこか寂しそうだったり、悲しそうに見えるのは心が痛んだ。本当に自己判断というものは、ろくでもない。なぜ、あのときの自分は死ぬことを拒んだのだろうか。なぜ、あのときの自分は記憶と引き換えに悲願したのだろうか。
――俺はどうかしているのか?
ヴィンのあの焦りよう。アイリが自分を唆した、だなんてキリは思っちゃいない。すべては偶然だと思いたい。だが、自身を責めることよりも、彼女があの場所に現れなかったらばと考えてしまう今更な自分がいた。それに、そのようなことを考える自分を顧みて、最低な人間だとも思える。
ぼんやりと歩いていると――「デベッガ君」そう、アイリが声をかけてきた。
突然の呼びかけに声の方を見た。アイリは十字路の真ん中に立ち、道を指差していた。彼女は自分に行くべき道である人生を教えてくれているのだろうか、と思ってしまった。
「東通りはこっちだよ」
だが、実際はそうではない。ある意味でのキリが行くべき場所を差しているだけであった。
「あ、ああ」
アイリに促され、踵を返して彼女の後を着いていく。
「ねぇ、今日のフルーツタルトってどれだけ余っているかな? 他にも美味しいのってあるかな?」
アイリは重たい沈黙のことを忘れているのか、キリにそう言った。こちらとら、悩んでいるのに。
「さあ?」
別段フルーツタルトに興味がないのではない。むしろ、食べてみたいのだが、今はそれどころではないのだ。
――もしも、ハルマチのお願いを叶えたならば、俺はどうなるのだろう?
腹の奥底から沸き上がる不安や不満により、その疑問が心の中に溜まっていく。恐怖心がキリを支配していった。それにより、段々とアイリの存在が今までよりも、もっと大きくなっていく気がする。ハイネの記憶を取り戻したい気持ちよりも、自身のことをどうにかしたい。安心したい。つまりはガンに頼んでいたデータの回収なんてどうでもよくなってきていたのだった。
キリの様子がどこかおかしい。そう感付いたアイリは顔を覗き込んだ。
「……何?」
「あのさぁ、失くした記憶なんてどうでもいいとか、思ったりしたらダメだよ」
アイリには何でも見透かされている気がした。
「誰の記憶かは知らないけどさぁ。人は最終的に自身が持つ記憶をすがって、生きるしかないんだよ? そんな最終手段をあっさりと投げ捨てるのあたしは許さないから」
「じゃあ、なんで俺を見捨てなかった? 放っておけばよかったじゃん。それなら、こんなつらい思いなんてする必要もなかったのに」
ほぼやけくそ並みの発言をする。キリにとって今のすべては投げ捨てたい気分なのである。その言葉にアイリは眉間にしわを寄せて、不快感ある表情を見せていた。それが癪に触ったのか、逆ギレを起こしそうになる。
なぜにそのような目で自分を見る? 何かしたか? 俺、何かした? 勝手に自身の拳が動きそうだった。それを自分の理性が押さえつけていて、手が重く感じる。
周りを行き交っていた町の住人は彼らの険悪な雰囲気を瞥見しては通り過ぎていく。キリにとってそれでさえも苛立ちの元だと思っていた。
――なんだよ、もう。
二人の中に入って仲裁をする者がいない中、彼らの前にあの老人が現れた。
「どこぞのカップルがけんかしているかと思えば、お前さんたちか」
「ども」
アイリは軽いあいさつをするが、キリは反応しなかった。いや、老人に煩わしさを感じているようである。その証拠にしかめっ面を見せていたのだから。
「二人がこっちに来そうだと思って、フルーツタルトを買い占めておいてよかったなぁ。どうだ、ウチに来ないか? 弟子も今日は仕事が休みだそうだ」
二人は何も答えない。そうしなくとも、老人は半分強引的に「よし、決まり」と決めつけた。
「そうと決まれば、急ぐぞ」
老人は彼らの意見を聞かずして、二人を自宅へと招いた。
◆
老人の家は相変わらず本の山があり、中へと踏み入れるとお茶のいい香りがしていた。それにより、キリの心のもやもやがほんの少しばかり晴れた気がする。奥からはタイミングがいいのか、ポットをお盆に乗せて、情報屋――ゴシップ・アドバイザーの者が出てきた。
「おう、来たか。カムラ、それにキイ。久しぶりだな」
「お久しぶりです、ウノさん」
アイリは小さく手を振り、ゴシップ・アドバイザー――ウノにそう言った。
「今日もケーキ屋に行ったら、タルトが四つしかなくてな。ちょうどいい、四人いるからな」
なんて独り言を言いながら、キリの方に手を置いた。彼のしわくちゃの笑顔を見て、不思議と苛立ちは解消されていく。どうして、この人に対して苛立ちを感じていたのだろうかとまで疑問に思ってしまうほどである。
「あっ、あの……さっきは失礼な態度を取ってしまって、すみませんでした」
そうキリは頭を下げる。だが、老人は頭を下げることに関して理解ができていないようで、首を傾げた。
「うん? そうなの?」
どうやら、先ほどの態度は気にしていないようである。それにキリは安堵すると、持ってきていた論文の紙の束を返した。
「これ、ありがとうございました。興味深く拝見させていただきました」
「これは、これはご丁寧に。どう? 面白かった?」
早速と言わんばかりに老人は意見を訊いてくる。その期待を寄せるような目で見られ、キリは閉口してしまった。いや、顔すらも背けたくなるほどだ。
「えっ。まあ、面白かった、ですよ」
「どの辺が?」
「あ、ああ。追放の洞のところ、とか……」
確かに興味深い内容ある論文であったことには間違いないなかった。知らない地名や言葉は地図や辞書を利用して読んでいたから。しかし、文の後半になるにつれてつまらなくなった、なんて言えやしない。なんだったら、半分途中で飽きてきて、読破するのに結構な時間を要したことだけは覚えている。
「他には?」
自分の書いた物の評価が気になっているのか、老人はあれこれと訊いてくる。キリが困惑する最中、遠目で彼らを見ていたウノは「あの人の文章ってつまらないんだよな」とアイリにだけ聞こえるような音量で呟いた。
「カムラは読んだか?」
「読まないです。文章を見ていると、眠たくなるんですよ。たとえ、筆者が目の前にいても寝ますよ」
「ははっ。じゃあ、お前は先生の文章を見た瞬間に寝るなぁ。あの人の文章だけは見る気が起きねぇんだよ。読んでくれと言われ、初めて読んで、居眠りしていた俺を見ていた表情が忘れられねぇ」
「今でも見るんですか?」
「大体仕事が忙しいって言って、逃げている。あの坊主は優しいやつだな。はっきりとつまらない、って言えばいいのに」
ウノはキリに助け舟を出すつもりのようで、家の奥から東通りにあるケーキ屋のフルーツタルトを持ってきて「先生、そろそろ食べましょう」と促した。
「そういうの、後でもいいじゃないですか」
「むう。心名残惜しいが、キイにはまだまだ傑作の論文や小説があるから渡してやろう」
ありがた迷惑だ。キリは表情を引きつらせる。それでも、助けてくれたウノにはアイコンタクトで謝礼をした。
「ねぇ、知っている? おじいさんの文章ってかなりつまらないらしいよ」
アイリがこっそりとキリにその事実を伝えると、一安心した表情から一変してどこか絶望感ある顔を見せていた。
「嘘だろ?」
「本当、本当。ウノさんが言っていたもん」
アイリがウノをあごで差した。老人の弟子であるならば、信憑性があるのは確かである。そして、今更ながら思うが、老人が本を出版できない理由は単純に「つまらない」の一言で終わるからではないだろうかと思ってしまうキリだった。
「ほら、タルトだ」
ウノは二人の前にフルーツタルトが乗った皿をテーブルに置いていくが――。
「あれぇ?」
アイリの皿にはフルーツタルトが半分なくなっていた。これはどういうことだ、とウノを見れば――彼の皿には明らかに彼女の皿の上に乗っていたはずの半分のフルーツタルトがあるではないか。
「ウノさん!? それ、あたしのじゃないですか!? なんでぇ!?」
「いいのか、俺に質問をして。答えてやるが、皿の上にある残りをこちらに寄越せ」
その言葉にアイリは悔しそうな表情をする。忘れていた。ここでは情報という存在は価値ある物であり、質問に答えるのは情報を提供することに相応する。つまり、ウノは彼女はの質問に答えたからこそ、報酬としてフルーツタルトを半分取ったのだ。
そう考えると、アイリはキリの方を見た。
「そういうシステムならっ!」
一瞬にして、自分の皿とキリの皿を交換した。
「はっ!? おまっ!?」
「いただきます」
唖然とするキリを差し置いて、フルーツタルトを一口食べる。その美味しさにアイリは彼に「美味い!」と、してやったりの顔をした。
「ねぇ、これ美味しいよ。やっぱり」
「じゃあ、俺も!」
まだ老人はタルトに手をつけていないだろう、と思ってそちらの方を見るが――すでに彼は手をつけており、ほぼパイ生地だけになっていた。
「……まあ、いいや」
キリは諦めが早いようで、半分もなくなったフルーツタルトをぼそぼそと食べるのだった。
◆
「さて、ここからは情報屋の報酬ルールには則らないで、この論文についての質問でも承ろうではないか」
老人の発言に誰しもがお茶を吹き出しそうになった。
「えっ、し、質問ですか?」
特にない、だなんて言えやしない。読んでしまった手前、何かしら質問をするべきなのだろうか。必死に老人が書いた論文の文章を思い返しながら、質問を考える。
「ほら、何でも。何でもいいから」
余程、キリが興味深いやら、面白いだなんて感想をもらったのが嬉しいのだろう。どんとこい、と目をキラキラとさせてこちらを見てきていた。
「あっ、えっ……」
当然、つまらない作品を読破したキリは言葉に詰まる。助けを求めようにもアイリもウノも顔すら合わせないようにしていた。そのため、彼は苦し紛れながらも「そう言えば」とひとつの疑問を思い浮かべた。
「俺は実際に教典を読んだことがないんですが、どうしてカムラは人々を唆そうとしたんですかね?」
「それか。それは……色んな説があるらしい。人々の欲望が具現化した存在であるとか、あるいは節制を司るキイがいて、欲望を司るカムラがいるからこそ、この世は成り立つと提唱する学者もいる。それについて、教典には全く書かれていないのだよ」
「欲望、ですか」
カムラと欲望。この二つを聞いて、アイリの方を見た。本人はカムラではないと発言していたが、疑わしいことはいっぱいある。
「欲のない人間なんていないのに、自分たちは欲はないと言い張るキイ教の連中の苦し紛れの言い訳だろうよ。どうせ」
鼻で一笑する老人はタバコを取り出して火をつけ始める。つられるようにして、ウノもタバコを吸い出した。部屋中に煙たいにおいが充満する。
「あのさぁ、おじいさん。訊いていい?」
アイリは小さく手を挙げた。
「おっ、カムラも論文を見てくれたかな?」
「見ていないけど、キイ君から聞いた話。南地域の洞はどうして追放の洞だなんて言われているの?」
「それ見たら、わかるぞ」
どうやら、アイリにも自身が執筆した論文を見せたいらしい。だが、それを彼女は断った。
「さっきから情報屋ルールは乗っ取らないでしょ? 教えてくださいな」
「……お前は頭がいいなぁ。いいだろう。キイは知っているだろうから、おさらいという形で聞いてくれ」
キリは頷く。
「この世に最初にいた神様はカムラだ。それを後からキイがやって来て、人々を味方につけ、戦いが何度か起こった。カムラは一人で人間とキイ相手に戦った。それでも、一人だから負けて、負けて――今の南地域の『追放の洞』へ追放されたんだ。そこへ逃げ込んだカムラに追い打ちをかけるように、キイが封印をしたとも言われているな」
「二人とも、知っているか?」
老人の発言後、ウノが彼らに声をかけてきた。二人は彼に注目する。
「王国と皇国が小競り合いしている本当の理由」
「……この国を乗っ取るためでしょう?」
皇国という単語を聞いて、キリはしかめっ面をする。しかし、その答えにウノは首を横に振った。答えが違うと知り、片眉を上げる。それでは、何のために戦争を起こしているのか。彼の正解を待った。
「それこそ追放の洞を本格的に破壊するため、カムラを倒すためだよ。ほら、一応あの場所は一般が立ち入り禁止区域だろ? あれは王国の王政府がそうせざるを得なかったんだ」
「えっ……じゃあ、う、腕なしは!?」
「腕なし? キイ、あいつと立ち入り禁止区域で会ったのか?」
ウノは笑いながらそう訊くと、キリは神妙な面持ちで頷いた。それにより、周りは緊迫感が張り詰めてくる。
「嘘だろ?」
「俺、会いました。王族の姫様も見ています」
「……へぇ、姫様も任務をするのか」
「建前上はつかせるでしょ。お姫様が軍人として在籍しているなら」
ウノは頷きながら、徐々に納得していく。
「で、キイは腕なしと会って、倒せたか? カムラが言っていただろ」
「それが、逃げられました」
そう言うと、アイリがこちらを見てきた。妙に痛むその視線。彼女は何か言いたげのようだった。だが、口は出さない。口を一文字にしている。
「逃げた? ははっ、面白い話だな。腕なしはそんじょそこらの十代半ばの若者に怖けついたのか」
――まさか。それはありえないだろう。
「あの、なんで腕なしは『腕なし』って名前があるんですか?」
話をすり替えるかのようにして、素直な疑問をぶつけた。腕なしには、名前の割にはきちんと腕や手は存在する。ただ、その腕が人の物ではないことが明らかなだけ。その疑問にウノはタバコを吹かしつつ、老人の方を見た。
「それは俺よりも先生が詳しいはず、ですよね?」
「うむ、教典に載っている人物がキイとカムラ以外の登場人物を知らないかな?」
キリに自身が書いた論文の紙の束を見せつけた。それに彼は頷いた。
「もしかして、腕なしについて載っているんですか?」
「ああ腕なし以外にもいるにはいる。だが、あのコインストの腕なしではないぞ。一種の神話だ。カムラに心を支配された腕のない男がキイに制裁されてしまう話」
「制裁を?」
「正確にはその男、腕なしを殺したんだよ。世界の教えではそれが正義となる」
なんてひどい話なんだ、と内心憤慨する。キイが神様であるならば、男を諭したりして、平常心を保たせてあげるべきなのに。たとえ、これが神話だろうが、作り話であろうが、あまりキリにとっては好ましくない話であった。どことなく、心が絞めつけられるような悲しさがあるからだ。
「ひどい話だと思ったかい?」
「神様はカムラに心を支配されていると判断したら、誰でも殺すんですか?」
「そうとは限らない」
老人は新しいタバコを一本だけ取り出して火をつけた。
「男はキイに殺されるべきことをしたまでだ」
「それは何ですか?」
「あくまで、創作物語として捉えた方がいい。現実ではありえないからな」
前置きにそう言われても、神話に出てくる人物の名前を使っている時点で。アイリや歯車の力が存在するせいで本当にあった話として捉えてしまいそうだ。たかが、神話。たかが、言い伝え。もしかしたらという疑念が頭にあった。
「話としては、実の娘の腕を斬り落とした男がいたんだよ。斧でな、両腕を。そして、その両腕をカムラが力を使って男につけてあげた。男はそれを自分の腕だと称したんだよ」
「えっ」
「多分、あの腕なしの腕は自分の腕ではないのに、まるで我が物のようにして扱っているからそんな名前がついたんじゃないか?」
タバコの煙を吐きながら「ところで」と話を変えた。
「コインストバトルに関係するやつらのほとんどがこの前、一斉逮捕されたらしいじゃないか。腕なしと会ったのはいつ頃かな?」
「先々週です」
その情報にウノがあごひげを触りながら「じゃあ、あいつは逮捕される前に逃げ出したかもな」と憶測を立てた。
「逮捕に関することは報道もされていて、メディア関係も賑わっていたし。今も賑わっているけど……同時期の話だから、その可能性はありえなくはない」
「腕なしって人に危害を与えるなら、危険ですよね?」
「うん、だから止め刺せって言っているじゃん」
アイリが横入りしてきた。彼女を見ると、不満げたっぷりの表情をしていた。
「だから、逃げたんだって。追いかけるにしても、らいっ――姫様を置いていくわけにはいかないだろ」
「まぁ、そこはキイ君の自主性に任せるけどね。でも、あいつは放っておいたら大変だよ。この世がめちゃくちゃになっちゃう」
相変わらず、大袈裟な話になってくるな。アイリに生返事を送った。
「わかっているって。やればいいんだろ、やれば」
◆
アイリとキリは老人宅から出ると、公共機関のターミナルへと向かう。
「はぁ、タルト美味しかったねぇ」
「半分しか食べていないけどな。確かに美味しかった」
と、ここでキリは一つの疑問が浮かび上がった。その場に立ち止まってしまう。そんな彼を見てアイリは「どうしたの?」と顔を覗かせてきた。そんなに重要なことではないにしろ、ふと思ったことだ。
「そう言えばだけど、ディースってハルマチと同じ嗜好していたような……」
「あたしとあの女が? ちょっと、変なこと言わないで」
「い、いや、あいつもあのフルーツタルトが美味しいだなんて言っていたし。ほら、ハルマチって休日の町のケーキ屋でもフルーツケーキばかり食べていたじゃん」
よくよく思い返せばの話。ディースもそうであるが、アイリはフルーツ系のケーキが好みのようである。これらから考えられるのは二人とも同じような嗜好をしているのではないか、ということ。見た目がそっくりで本性が見えないと、どちらかなんてわかりっこないのだ。これほどまで見分けがつかないほどの赤の他人が存在するとは思わなかった。
「そうだけどさぁ、癪に障るなぁ。あたしはディースじゃないし、ディースもあたしじゃない」
「いや、わかっているよ。それくらいは」
「じゃあ、二度とそんなこと言わないでよねっ」
アイリは頬を膨らまかせて、キリにそう文句を言った。少しばかり怒っているようで、そっぽを向く。
「全く、きみという人は……腕なしを見逃すし、自身の記憶を捨てるほどの行動を取っちゃうし。挙句の果てにあたしとディースを間違う厄介事をやらかすし」
「それで、思ったんだけどよ。ハルマチは腕なしを殺したいの?」
あれほど止めを刺せ、止めを刺せ、と言ってくるのだ。それは一瞬だけ事実の書き変えができる歯車を以てでもである。それでも腕なしに止めを刺すべきだと提唱するアイリは彼に恨みでもあるのだろうか。いや、そうとしか考えられそうにない。
アイリは後ろ姿を見せながら「そうだね」と答えた。
「常々そう思っている。けど、それの所有者はデベッガ君だ。だから、きみがあいつを殺さなければならない」
「これじゃなくてもさ、銃砲じゃダメなの?」
「最強の異形生命体を最新の兵器を持ったとしても倒せると思っているの? あたしはそう思わない。ただ、それが唯一効く武器だから」
「それなら――」
キリはそこまで言うと、口を噤んだ。なぜか。アイリがこちらを振り返り、真っ黒なその目でこちらをじっともの悲しそうに見てきていたから。
「それなら、何?」
「は、ハイチさんとか頼むのは? あの人、異形生命体に勝っただろ?」
「……他の人たちを巻き込みたくないのは、デベッガ君のスタンスじゃなくて?」
それを言われてしまえば、もう何も言えなかった。確かに、自分が思う大切な人を巻き込みたくないのはキリの意思であるのだから。
キリは黙って釈然としないまま、アイリと公共機関ターミナルへと歩き出すのだった。
◆
学校の敷地内に着き、キリが茫然とベンチに座り込んでいると――「大丈夫?」そう、ハイネが声をかけてきた。
「お疲れ気味みたいだけど」
「あっ、いえ。大丈夫ですよ」
ハイネは隣に座っていいかと訊いてきた。それにキリは承諾し、ハイネは隣に座り込む。足をプラプラとさせて花壇の花を眺めた。
「今日、天気いいね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
これ以上の会話が続かない。ハイネ自身もどこか困り果てているようだった。何を話せばいいのか。記憶を失う前の自分は彼女とどのような会話をして盛り上がったのか。とても腑がないと思ってしまう。
「ねぇ」
重たい沈黙の最中、ハイネが口を開いた。
「は、はい」
「キリ君って、私のことを嫌いになった?」
心に響くような質問である。なんと答えるべきか。ハイネが言いたいことは、どうして私に対する態度が変わったのかということだろうか。
「嫌いではありません」
「訊いていい? 私のこと、どう思っている?」
これぞ、どのような答えを返すべきなのだろうか。正直な話、何も思えないのだ。好きでもないし、嫌いでもない。だからと言って――失礼ではあるが、どちらでもいい。キリの中でハイネに対する思いのカテゴリーなど存在しないのだ。
何も答えられずに、口をぱくぱくとさせていた。答えられないから動揺を隠せない。記憶がないことをこれ以上誰かに知られたくない。だが、いつまでも答えをはっきりさせないべきではない。これはもう――。
「ハイネさん、ここにいましたか!」
正直に記憶がないことを伝えようとするが、邪魔が入った。ワイアットである。彼の手にはピンク色の花束が握られていた。
「あっ、ワイアット君」
ハイネはキリから答えを聞けずに残念そうにしていたが、彼自身は安堵する。ナイスタイミングでやって来たと心の中でワイアットを褒めた。
「いやぁ、ハイネさん。今日もこの美しい花よりも更にお美しい! どうぞっ!」
「ありがとう」
若干困惑した表情を見せながら、ハイネはその花束を受け取った。要らないとは言えないお人好しのようである。
「むっ、デベッガさんと一緒でしたか。何のお話を?」
言えるわけがない。キリとハイネは心の中の思いが一つになっていたが、そのことに関しては当の本人たちは知る由もない。
「何もないよ。大したことじゃない」
慌てるように、ワイアットにそう言った。それに続けて、ハイネも大きく頷いた。だが、肝心の彼はあやしむようにして、じろじろと二人の方を見てくる。
「本当ですか? 本当は僕を差し置いてハイネさんにプロポーズとか?」
「まさか」
「あやしいですねぇ」
「何もないよ」
ハイネは苦笑いをしながら花束を手に持ち、その場を後にした。そこにはキリとワイアットが残る。ワイアットは未だにこちらを訝しげに見ていた。
「そんなに俺、信用ないの?」
「ハイネさんと二人だけだったので。ま、まさかっ! ハイネさんの手首にブレスレットがありましたけど、あれをプレゼントしたんじゃ……」
「していない」
そう言えば、ハイネの右手にはディースにあげた赤色の石と対照的な緑色の石のブレスレットをしていた。だが、あれはキリが渡した物ではなく、最初から彼女の物なのである。
「そうですか?」
「ていうか、俺、キンバーさんにプレゼントなんてしたことないし。フォスレターの方が花とか渡しているんだから、そっちの方が好感度高いだろ」
自分の方が好感度高い。ワイアットは嬉しそうな表情を見せた。
「いやぁ、それほどでも」
「本当だよ」
苦笑を浮かべるキリを見て、ワイアットは何かを思い出すように「そう言えば」と話を変えた。
「お友達と会えましたか?」
「友達?」
突然何を言い出すのだろうかと思った。そうだった。ガンと会う約束をしていたが、会えずにいたことを思い出す。もう空は赤く染まろうとしている。そろそろヤグラが戻ってくる頃だろうか。
「ああ、まだなんだ」
「今日は授業がなかったんですよね? 制服ではないようですし」
「うん。別件があったから」
「それならば、仕方ないですよね。会えたらいいですね」
用事があるからと、キリのもとを離れた。彼自身もデータ世界へ行くべく、電子学準備室の方へと向かうのだった。
◆
キリは薄暗い電子学準備室のドアにノックをかけた。返事がきたということは、ヤグラが出張から戻ってきたようである。早速、ドアを開けて中へと入室した。
「失礼します」
「ああ、デベッガ君か。ガンに会いに行きたいんだっけ?」
「はい」
「いいよ。一応準備はしているから」
ヤグラが指すその先は電源の入ったマシン――脳情報変換機があった。キリはそれに近付く。
「デベッガ君だけかな? 行くのは」
「はい」
「じゃあ、座って。するから」
キリがそのマシンに付属された椅子に座り込み、手足をベルトで固定した。ヤグラが起動スイッチを押す。瞬時に体中に強烈な電撃が走り、気を失ってしまった。
▼
どこからともなく無機質な音が耳に入ってくる。ぼんやりと薄目を開けた。白い風景に細い青色の光のラインが走っている。
――ああ、そうか。
キリはゆっくりと起き上がった。彼は再びコンピュータ世界へと訪れたのだ。起き上がってすぐに、キリに一件のメールが届いた。差出人はヤグラ。ガンは青の王国の軍のシステムにいる。そこへ行くまでヤグラはアクセス・ライダーを用意してくれていたのだ。
それに乗り、王国の軍のシステムへと向かおうとするも――ガンから着信がかかってきた。
《ああ、キリ? ヤグラから聞いたよ。こっちに来ているんだってね》
「うん、今からそっちに来るよ」
《いや、多分アクセス・ライダーの行き先は軍のシステムじゃないよ。データ・スクラップ・エリア直行だ。アドレスをヤグラに教えたから》
「わかった。ガンとはそのデータ・スクラップ・エリアで合流するんだな?」
《ああ。そこでデータの欠片も持ってくるよ》
「ありがとう」
キリは電話を切ると、アクセス・ライダーのエンジンをかけ、合流場所であるデータ・スクラップ・エリアへと走らせた。それを走らせてはいるが、前回通った町中は走ってはいない。今回の光の道は雰囲気が違う町中を通る。そこは真っ白な建物こそはあるが、その建物からは光の筋があった。それは彼自身が向かう先へと伸びていた。よくよく見れば、光の筋はアクセス・ライダーに道を示すような光の道に見える。
「あっ」
まさにその通りだった。ユーザーがキリと同様にアクセス・ライダーに乗り、データ・スクラップ・エリアらしき場所へと向かっていたからである。彼らはそこへ用があるのだろう。
キリは一刻も早くハイネの記憶を取り戻すべく、先を急いだ。
▼
アクセス・ライダーの光の道が示した先には大勢のユーザーが何かを囲っていた。彼らの手にはさまざまな形をした色とりどりの物体がある。それをデータ・スクラップ・エリアの中央にある穴の中へと入れていく。あれがデータなのだろう。そして、あの穴の中の下の方には要らなくなった情報の大海が存在していた。
「ガン、どこだ?」
データが捨てられている穴が気になるが、先にガンを見つけて合流せねばならない。そう考えて辺りを見渡す。他のユーザーとは違って、ガンには顔も表情も存在する。それは自分もそうであり、わかるはずだろう。
「あっ、いた」
キリが見つける前に、ガンに見つけられた。声がする方を振り返った。自分と同じような王国軍の軍服に似た物を着用して、きちんと顔のパーツのある人物――ガンだ。
「久しぶりだね」
ガンの手にはおそらくキリの『ハイネに関する記憶のデータ』らしき物があった。だが、それは思っていたよりも小さい。彼女の記憶はこれだけの小さな物なのだろうか。
「うん、久しぶり。変わらないね。それ、ガンが見つけてくれたデータ?」
ピンク色をした塊を指差して訊ねた。それにガンは頷きながら、その塊を手渡す。
「私がここに捨てたのは確実だけど、下の大海によってもみくちゃにされて。これだけしか見つからなかったんだ。すまない」
「そんな、ガンが謝ることはないよ。俺がきちんと確認していなかったのが悪いんだし」
そう言うキリではあるが、内心残念そうに見せていた。それによりガンは更に申し訳なさそうな表情をした。
「本当にすまない。キリが大切にしていたデータなんだろう? これ、何のデータなのか、教えてくれるかい?」
「俺の記憶みたいなんだ。今、思い出したくても思い出せない、記憶にない人がいるんだ。でも、その人は俺のことを知っている。だから、もしかしてって思って……」
「それは大丈夫なのかい!?」
衝撃的事実を聞き、ガンは焦り出す。キリと穴の方を交互に見る。少しばかり俯いて、暗い表情を見せていたが、彼に心配をかけまいと無理やり笑顔を見せた。
「平気。要は下から記憶の欠片を集めればいいんだから」
なんて虚勢を張りつつ、キリは穴の方へと近付いた。下を見た。直後、表情を固まらせて手に持っていた記憶の欠片を落としそうになる。ガンが愁眉を見せて、近寄ってきた。
「前にも言ったが、元々データは下の情報の大海で他のデータともみくちゃにされて、ばらばらにされているんだ。捨てた一つのデータをそこから元々のデータとして復元するのは難しいんだ。私がそれを見つけたのはただの偶然だ」
キリの目に映る情報の大海は様々なデータが捨てられて、ごちゃ混ぜになった状態である。あまりにもごちゃごちゃしていて、真っ黒に見えた。確かにガンの言う通り、すべての欠片を集めて一つのデータを復元させることは可能だろうか。いや、やるしかない。
「ガン、これを持っていてくれるか?」
キリはガンにハイネの記憶の欠片を渡すと、そのデータ・スクラップ・エリアの大海へと飛び込もうとした。だが、それは止められてしまう。
「待ってくれ、キリ! それは危険だ!」
「でも、俺は自分自身の記憶を取り戻したいんだ」
「キリの気持ちは痛いほどにわかる。けど、この情報の大海に飛び込むのはダメだ。私は許さない」
絶対に行かせないと言わんばかりに、ガンはキリの腕を握って放さなかった。何がなんだろうと大海へ飛び込むのは許しがたいこと。それに不満があるようで彼は眉根を寄せていた。
「なんでだよ。ガンだって、俺のために探してくれたんだろ?」
「ああ、探した。だけれども、私はここから飛び込むようなことはしていない。そもそも、ケア・プログラムだろうが、一般ユーザーだろうが入って戻ってこられる保証はないんだ。もし、そんなことすれば、自分自身のデータすらも大海の底の藻屑となるだけだ」
どうなるか目に見えている、と言われたキリは下唇を噛みしめ、情報の大海の方を一瞥した。
「じゃあ、ガンはどこでそれを見つけたんだ?」
「ここから近い場所の情報の海岸で流れ着いているのを見つけたんだ。だから、元のデータが欲しいのであれば、そこへ行って見つけるしかないんだ。一つでも見つかれば、御の字なんだ」
「そっか……。俺をそこに案内してくれる?」
「ああ」
ガンはキリを引き連れて、そのエリアの端に存在する下へと続く階段を下りる。ゆっくりと下へ行くと、上の方から様々な要らなくなったデータが海の中へとこぼれ落ちいく光景が見られた。
ここから見える海岸には彼ら以外にユーザーたちは誰一人としていない。粉々になって、何のデータかすらわからなくなった粒上の物や塊のような物がある。これは砂浜みたいな物だろうか。いずれにしても大海だろうが、海岸だろうが、視界に映る景色すべては黒い。
「まだこのデータの砂浜はいい方だ。歩けるから。だけれども、大海の底は足が着かなくて、上からどんどん要らなくなったデータが降ってくる。逃げるなんて安易じゃない」
「海に入らなければいいんだよな?」
「私がそう言わなくとも、キリが訊かなくとも絶対に入ろうとしないでくれ。外の世界に帰られなくなったら、アイリもヤグラもキリを思う人たちは悲しむよ。もちろん、私だって悲しい」
「……嬉しいな」
「ほら、こうして欠片一つ見つけたんだ。もっと探していれば見つかるさ。だから、元気出して」
どうやらキリに元気がないことを気にしていたようである。先ほどの笑顔にも無理があることを察知していたらしい。
「ありがとう」
「あっ、そうだ。だったら、アイリにも声をかけて一緒に探してもらおう。それならば、見つかる確率も上がるんじゃないかな?」
そんな提案を考えるガンがアイリに連絡を入れようとするが――それはキリが止めた。彼は首を横に振り、その案を拒否する。
「ダメ」
アイリはキリが記憶を失っていることを把握している。だとしても、記憶のデータの欠片を探してもらう手伝いを拒否した。なぜなら彼女は手伝う以前に、何かしら自分に言ってきそうだったから。またアイリと口論になるのが嫌なのである。あの張り詰めた空気は苦手で気分悪くなりそうだ。だから、呼びたくない。
「ガンが忙しいなら、俺一人でも平気だから。大丈夫。絶対に海の方には行かないから」
「アイリとけんかでもしたのかい?」
「そ、そうじゃないよ。ただ、ハルマチには迷惑をかけたくないから」
友達に嘘をついてしまった。ガンは本気で自分の言うことを信じている。なぜって、自分のことを友達だと思ってくれているから。友達として信頼しているから。だからこそ、彼には申し訳なく思う。本当のことを言えば、ガンが悲しむだろうと思ったから。
「そっか、キリは優しいんだな」
――優しくなんかないよ。
心の奥が痛んだ。アイリが以前に発言した優しくないという事実は本当だ。自分はただ怖いと思っているだけなのだ。
「は、ははっ。それよりも、ガンは大丈夫?」
「うん。今のところ軍関係者以外のログインはないようだし、ウィルス関係もいないよ。さあ、探そうか」
「そうだな」
▼
ずっとデータの欠片でできた砂浜を歩いて足が疲れを見せ始めた頃、ヤグラから一通のメールが入った。
『作業中、ごめんね。リスター副隊長がきみを呼んでいるみたい』
ブレンダンが自分を呼んでいる? キリは片眉を上げると、少し離れたところで彼のデータの欠片を探してくれているガンの方へと駆け寄った。
「見つかったかい?」
足音に気付き、キリの方を見てきた。彼は首を横に振った。
「見つからなかった。けど、呼び出しを食らったみたいで。今日はここまでみたいだ」
「そっか、それは仕方ないな」
ガンはキリ自身の連絡通信端末機を貸すように指示をする。彼は素直にそれを渡した。
「すまないが、軍のシステムには置いておけないんだ。だから、こうしてキリの端末機に保存しておくよ」
そうガンは手に持っていたハイネに関する記憶のデータをキリの連絡通信端末機のシステムの中へと保存した。
「キリはネットワーク使っているようだね。ウィルスが入らないようにしてロックもかけておくよ」
「ありがとう、ガン」
キリは返してもらうと、ヤグラに返信を送った。
「じゃあ、また来るときも連絡をくれるかい? 手伝うからさ」
「うん。じゃあ、またな」
そのあいさつを最後にキリの体は淡い光に包み込まれ――気がつくと電子学準備室の景色が見えた。この部屋には自分とヤグラ以外にブレンダンがいた。彼らは椅子に座ってお茶を飲み、談笑をしているようだった。
「……あっ、気がついたみたいだね」
「教官、ありがとうございます」
はっきりと意識を取り戻し、ヤグラに頭を下げると、窓の外を見た。すっかり暗くなっている。相当な時間が経っていたようだ。そして、キリはブレンダンの方へと顔を向ける。
「すみません、リスター副隊長。お待たせしました」
「いやいや、こちらこそすまないね。それにしても、ルーデンドルフ教官はとんでもない物を造り上げましたな。デベッガ君、きみは本当にデータの世界に行っていたのかな?」
「は、はい。ガン――王国軍のシステムデータを守っている警備隊の人に用があったので」
「すごいな。ああ、確かデベッガ君はシステムデータに侵入したウィルスを倒したんだったか。デベッガ君って電子関係が強いんだなとばかり思っていたけど、物理的な話だったんですね」
ブレンダンは若干表情を引きつらせながらヤグラに視線を移した。彼はその通りだと肯定するように頷いた。
「他にも二人ほど、中に入ってもらったんですが、ウィルスの根源を倒したのはデベッガ君だと称賛していました」
「すみません、他の二名とはどなたですか?」
「キンバー君とハルマチさんです。彼はシステムデータ同様、端末機がウィルスに感染したのでその修理代わりに。ハルマチさんは単位のためにです」
「ためらいなくですか?」
「はい」
「勇気がありますね」
もはや、苦笑い以外の表情を見せることができないブレンダンはこれ以上、ここにいても仕方ないらしい。キリと共にその部屋を退室した。
「話は私の部屋でいいかな? 隊長もデベッガ君のことを待っている」
「は、はい」
話とはなんのことだろうか、とキリは不安になった。しばらくの間、任務はなかったから。ブレンダンやエドワードとはご無沙汰だったのだ。
二人はブレンダンの部屋へとやって来た。中では資料をテーブルの上に並べてソファに腰かけるエドワードがいた。キリは彼に頭を下げる。
「こ、こんばんは」
「やあ、しばらくぶりだね。元気にしているかい?」
「お陰様で。あ、あの、俺って何かしましたか?」
恐る恐る、呼び出しの件でそう訊ねるキリに、エドワードは小さく笑った。
「その言い方、懐かしいね。私も学徒隊員だった頃に教官に呼び出されると、真っ先に『自分は何をしたんだろうか』って不安になったものだよ。――ああ、話が逸れたね。こっちに座って本題でも入ろうじゃないか」
向かいにあるソファに座るように促され、言われた通りに座り込んだ。そこから見えるテーブルの上に置かれた資料。それはすっかり存在を忘れていた『MAD計画』と『オリジン計画』の資料だった。
「時間外になってしまうけどね。どうしても今日、きみに訊きたいことがあったんだ」
「は、はぁ……」
「今日、ハルマチさんと信者の町に行ったでしょ?」
問い質され、キリはこれらの計画資料の新たな情報を得ようとしているのかと憶測した。
「行きましたけど、俺たちはケーキを食べに行っただけですよ?」
「でも、町中にあるケーキ屋には行かずに、一人のご老人の後に着いていったでしょ? 実はね、それをリスター副隊長の部下が見たと報告が上がっている」
「……は、はぁ」
この事実を肯定するべきか、否定するべきか迷う。
目線を合わせようとしないキリを見て、彼の何かを見抜くと、重たそうに口を開いた。
「デベッガ君はハルマチさんの正体を知っているだろう?」
「正体?」
「きみはよく彼女と一緒にいることが多い。いや、一緒にいるのはダメではないがね。これは私たちから見た憶測に過ぎないが、デベッガ君は私たちの知らないハルマチさんの秘密を知っているんじゃないのか。本当は彼女が反軍や隣国のスパイだと知っていながら、黙っていたのではないかと思っているんだが」
「ハルマチがす、スパイ!?」
キリの反応を見てエドワードはあごに手を当てた。どうやらアイリが内通者の線は薄い気がした。だが、まだ質疑応答を繰り返していけば、自ずとして何かがわかるだろうと信じて疑わない様子である。
「スパイは言い過ぎたかな? でもね、ありえなくはない話なんだ。なんせ、彼女の出身地は不明なのだから」
「そ、それは俺も、ハルマチの出身地は存じ上げませんが……」
「だから、きみに聞きたい。アイリ・ハルマチは何かしらの秘密を持っているか、否か」
エドワードの傍らに立っていたブレンダンがそう選択肢を提示してくる。これにはキリは閉口をせざるを得ない。自分が知っているアイリの秘密。それはこの歯車のことくらい。これを話すのは危険だとは認識できる。自身の幼馴染が歯車の存在を知っていたとしても、彼ら二人も存在を知っていたならば? ヴィンはこの歯車を『悪』として見なしていたようだった。そうであるならば、きっと二人も――。
もしも、歯車の件について話したならば、自分やアイリはどうなるのだろう?
「デベッガ君は口に出しにくい秘密を知っているのかね?」
口を割らないキリに、二人は怪訝そうな表情を見せてくる。それに彼は慌てて「そのようなことはない」と言いつつも、口をまごつかせていた。これに大当たりだ、と彼らはキリの反応を見て、確信を得た。キリはアイリが公には出せない何かしらの秘密を知っている。これにはどう口を割らせるべきか。おそらく彼女に口止めでもされているのだろう。なんとかして吐き出させるべきだ。
「デベッガ君、私の目を見て答えて欲しい」
なんて言われても目を合わせると、隠していることが見透かされそうだ、とキリは余計に視線を合わせづらそうにする。だが、ここで目を逸らすわけにはいかない。
「問おう。アイリ・ハルマチは王国の敵であるか、否か」
【あたしは軍も反軍でもどちらの味方じゃないから】
アイリは普通に王族であるメアリーとも仲がいい。二人一緒にいると楽しそうにしていた。本当は王国軍の味方なのではないか? 情報屋の前だから、本音を隠し――いや、彼女は建前が嫌いだった。ということは、あれこそが本音?
「…………」
自分自身が思うに、少なくともアイリのこれまでの言行を見て、王国の敵ではないことがわかる。
「ハルマチは多分この国の味方です」
だが――。
「彼女が何かしらの秘密を持っているのは明らかですが、それは俺にはわかりません」
――ハルマチはどうして自分自身ではなく、腕なしを俺に殺させたいのだろう? 腕なしを殺して、あいつは何をしたいのだろう?
次々と疑問が生まれてくる。それは頭の中で思うだけであり、口には出さない。なぜなら、キリの今の答えに二人は何かしら納得をしているから。これ以上言えば、話が拗れてくる。だから、黙っておく。自分の前からアイリが急にいなくなっては困るから。すべての話を訊かずして会えなくなるなんて、もっと嫌だ。だから、黙っておく。
――だから、俺はハルマチが納得するくらい、びっくりするくらい、これを使いこなさなければいけない。
「それならば――」
ブレンダンの声で我に戻り、二人の方を改めて見た。彼の手には一枚の用紙がある。何度も見た任務指示書と同じ紙だった。それを受け取る。
「デベッガ君にも任務指示を与える」
<特定人物調査:補記>
キリ・デベッガ
上記の者は後述の任務を現在進行中であるセロ・ヴェフェハルと共に遂行せよ。
学徒隊員・軍人育成学校三回生アイリ・ハルマチの行動、言動に関する情報を調査し、報告せよ。
「ヴェフェハル君だと彼女は警戒しているようだが、きみは全く警戒もされていないようだな」
その言葉は称賛か、それとも嘲笑か。キリはエドワードの言葉に耳だけを傾けて聞いていた。
「近々、その彼と三銃士軍団と姫様を交えた危険性のない任務がある。そこにきみとハルマチさんを追加させる」
任務と聞いてキリは顔を上げた。
「デベッガ君はその任務よりもこの任務を最優先させて、アイリ・ハルマチの秘密を探って欲しい」
「……はい」
この前の老人の言っていた言葉の意味がようやく理解できた気がした。
――俺はどちら側にもついたらいけない存在。
正義である『王国軍』か、悪である『アイリ』か。彼は改めて闇深いところまで迷い込んでしまったことを深く後悔する。




