赤面
誰しもが何を考えて行動するのかわからない、と大きくため息をつく。
キリは今、男子トイレの手荒い場で自身のハンカチを洗っていた。なぜにこのようなことをしているのか。それは休み時間にガズトロキルスとアイリ、そしてメアリーと昼食を採っていたのだが、そこへマティルダがキリを押し退けるようにして割って入ってきた拍子に座学用制服を汚されたのだ。
「冗談じゃねぇぞ」
マティルダは悪びもせずにして、ガズトロキルスにベタベタだった。さらには汚れた部分にメアリーがハンカチを貸そうとするが、そこだけは過敏に反応してくるから一応は持ってきていた自分のハンカチを使ったのである。それで今は汚れて染みになった制服を着ている状況だ。
今日はもう授業を取っていなくてよかった、とキリが思っていると、個室の方から「誰かいるのか?」と聞こえてきた。
博奕闘技場での出来事を思い出し、思わず勢いよく振り返った。またアイリかと思ったが、声質的に彼女ではない。先ほどの声は男性的だ。流石に学校内のトイレには侵入もしないだろう。誰かいる。少しばかり不安が胸に過る。トイレ内には水が流れる音だけが聞こえていた。
今度は個室の方からノック音が聞こえてきた。返事をするべきなのだろうか、と恐る恐るノック音が聞こえてきた個室へと近付く。ノックを返した。
「誰かいるじゃねぇか」
どこか不満げな声に聴き覚えがある。この声はハイチか。
「ハイチさん?」
「その声は誰だっけ?」
「俺です、デベッガです」
「ちょうどいい、紙が切れたんだよ。取ってくれない?」
このような状況でハイチと会うとは思いもよらなかった。だが、彼は困っている。助けなければ。
早速キリは返事をした。掃除用具入れを開けてトイレットペーパーを探した。そこにはなかった。ここにはないのだろう、と他の棚や開いている個室から探し出す。ない。このトイレには紙がなかった。
「ちょっとばかり時間かかってもいいですか?」
「掃除を適当にしやがって……。構わんが、俺がここにいることを誰にも言うなよ」
一応は返事になるのか、ハイチは低いトーンでそう言った。少しだけ怖い。急ぎ足で他のフロアにあるトイレへと駆け込み、トイレットペーパーを探そうとするが――。
「ない……」
これを校内のトイレに関わらず、寮棟のトイレも確認する。
「なんでないの!?」
これはもはや奇跡に近い状況。というか、紙がなくて困っているのはハイチだけではないはずなのに。困った様子でトイレを出ると、男子寮の管理人と出くわした。管理人――彼女は書類を手にしているようだ。
「あら、こんにちは」
「こんにちは。ちょうどよかったです。すみません、トイレットペーパーの替えってありますか? ここも校舎もなくて」
「そうなの? じゃあ、ちょっと事務室に行ってみて。入って右側に大きな箱があるからそこの中にあるよ」
やっと、紙の在処がわかった。そう、キリは安心した。管理人にお礼を言うと、早速寮棟のロビーの隣にある事務所を訪れて右側を見た。あった、一際大きな箱だ。それを開ける。
「…………」
箱の中身を見て沈黙の戸惑いを隠せない。ややあって、管理人が戻ってきた。
「あった?」
「ないです」
「あら、困ったね」
軽く言っているが、困り果てているのが一名だけ校舎の一階トイレにいるのだ。今頃は遅いだなんてぼやいているに違いないだろう。
「他、校舎の方に予備ってありましたっけ?」
「基本的にここの事務所しかないよ」
「そうスか」
さて、ハイチにどう説明すればいいのだろうか。なんて焦った様子で考え事をしていると、管理人が「次、授業ある?」と訊いてきた。
「いえ、ありません」
「ちょうどよかった。私、この書類を至急仕上げなければならないの。お金を渡すから町で買ってきてくれない?」
キリは大きな箱を一瞥した。一人くらいならば、余裕で入れそうな大きさの箱である。そして何より彼自身、車も運転免許も所持していない。まさかとは言うが、これを抱えて公共機関に乗れと?
「隣の町の日用品店に業務用のがあるわ。多分、これ持っては無理があるだろうから。速達郵送でお願いすれば、あなたより速く学校側に来るわよ」
「ああ、それなら安心ですね」
そんなシステムがなければ、周りから好奇の目で見られるところだった。キリは一安心する。
「じゃあ、これがお金ね。外出届は私が出しておくし、制服をクリーニングに出しておこうか?」
すっかり忘れていた制服の染み。もう染み込んでいて、クリーニングでなければ落ちそうにない。
「はい、お願いします」
キリは急いで私服に着替え、管理人から染みのついた制服を渡してお金を受け取った。そのまま町へ向かう公共機関へと乗ると、ハイチにメールを送る。
『校内のどこにも紙がなかった上、管理人さんにその買い物をお願いされたのでもう二時間ほど待っていただけますか?』
そのメールの返信はメールではなく、すぐに電話がかかってきた。それに出る。
「はい――」
《嘘だろぉ!?》
トイレの個室内で絶叫しているのだろうか。キリ個人の連絡通信端末機を耳から放さなければならないほどにまで声が響いた。周りは何事か、とこちらを見てきていた。
「う、嘘じゃありませんよ。寮にもなくて、事務所にある予備もなかったからお願いされました」
《そこはあの人が行くものだろ?》
「至急、書類を仕上げなければならないらしくて。でも、俺がこっちに戻る前に紙は速く届きますよ」
《お前、どうせ俺がここにいること、誰にも言っていないだろうな?》
それはもちろん、と答えれば、《ばか!》と罵声が返ってきた。声音がもう泣きそうのようだ。自分は何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。
「え?」
思わず声を漏らしてしまう。それによって、ハイチはふざけるなと言わんばかりにの雰囲気を連絡通信端末機の向こう側からオーラをかもし出しているようだった。黙っているからなおさらである。
《……誰かが設置してくれる保証があるならば、俺は何も言わん》
その保証はどこにもない。紙がないことを話したのは管理人ただ一人だけなのだから。そもそも、トイレ掃除は一応フロアごとに各教室が当番制でするものであり、掃除時間はすでに終えている。これはもう管理人が設置してくれることを願うか。それとも、ハイチがいるトイレに誰かが入り、紙がないことに気付いて取りに行くかになる。
「と、とにかく、至急トイレットペーパーを買いに行ってきます」
今のキリはその言葉しかかけることしかできない。
《大至急だ、バカヤロー! 俺、ここにどれだけの時間で座ってりゃいいんだ!? 俺、どんだけ運がねぇんだよ! 紙の神に見放されたってか!? って、何言わせるんだこんちくしょう!》
それはハイチが一人で言ったまでの話であり、そこまでの罪を自分に被せないで欲しい。そう思っていると、向こうから勝手に通話を切られた。キリはそれをポケットに仕舞い込んだ。町の姿一辺すら見えない自然一帯。ここはまだ学校の敷地内。早く着かないだろうか。そんな不安が過っていた。
◆
連絡通信端末機で時間を見た。学校を出て、小一時間ぐらい経っている。キリが現在いる場所は学校の隣にある町である。ここはそこまで大きな町ではないのだが、温かみのある町であるのだ。彼も休みのたまにはここの本屋へ来たり、お昼を食べたりして過ごしていた。
「確か、メインストリートの突き当たりの右角って言っていたな」
早速キリが行こうとすると、誰かと肩がぶつかってしまった。すぐに彼は謝る。
「すみません」
「あ、いえ。こっちこそ」
ぶつかった者同士顔を合わせると、互いは驚いた表情を見せ合った。キリがぶつかった相手はアイリだったからである。彼女は授業ではなかったのか。そんな思いが過るが、ただのサボりの可能性が高く見えてきた。本人もサボりに関しては抵抗感が全くなさそうなので、無下に突っ込まない方がいいだろう。
「ここに、来ていたんだ」
「う、うん」
アイリはどこかぎこちない様子で返事をした。向こうもまさか自分に会うとは思ってもいなかったことなのかもしれない。それに、キリに至っては上手く顔を見合わせることができない。周りに誰かがいれば問題ないのだが、二人きりになると――数日前を思い出して、この場にいる自分が恥ずかしくなってくるのだ。
何か話すべきだろうか、と気迷いをしていたが――ハイチのことを思い出した。後が怖いため、すぐにその場を離れようとする。
「ごめん、用があるんだった」
日用品店へと行こうとするキリをアイリは止めた。その表情はどこにも行かないでと言っているようである。
「どっか、行くの?」
「頼まれたんだ。これから日用品を買いに行くところ」
「せっかく、来たのにつまらなくない?」
キリの服の裾を引っ張ってくる。どこかへと遊びに行こうと促しているようである。だが、彼は遊んでいる暇などないのだ。
「急ぎなんだ。ある人が困っている」
「誰のこと?」
そう訊いてくるが、特にアイリには言えそうになかった。言ったら言ったで、彼女は絶対に誰かにバラすだろうし、そのことがバレたならば、ハイチからの鉄槌が怖い。ただでさえ、短時間で二時間近くかかるのに。
「教えて。誰にも言わないから」
「言うだろ、絶対」
「言わないもん。誓うよ、きみのためならば」
にっこりと笑顔を見せてくる。その笑顔こそがトラップなのかもしれない。そうわかっていながらも、密着してくるアイリに上手く言葉を表せない。遠慮なしにくっつくいてくるのも珍しいと言えるか。
「……俺のため?」
「うん、あたしはきみの存在を大切にするからね」
その物言いはまるで普段の自分は『存在なし』の人間のように思われている気がして、ほんの少しばかり腹が立ってしまった。ムッとした表情のキリにアイリは笑顔から一変して、少しだけ暗い表情をする。
「あっ……なんか、嫌なこと言ったみたいだね。ごめんね、あたしはきみが好きなのは変わりないから」
「そう」
よくもまあ、平然と周りに人がいるのに、「好きだ」と言えるものである。恥ずかしくはないのだろうかと思っていたが、同時に嬉しさが心の中を支配していく。
「それで、それで? 誰が困っているの?」
――ハイチさん、ごめんなさい。
「誰にも言うなよ? ハイチさんだよ。今、あの人紙のない個室にいるんだ。それで、学校中のトイレや予備がないから俺がトイレットペーパーを買いに来たんだ」
「あの人がねぇ。きみも大変だし、学校も大変だね。女子トイレもないんだ」
その言葉に硬直した。今まで焦って気付かなかった。女子トイレのトイレットペーパーの有無なんて知らない! ああ、管理人に頼んで女子トイレから一つだけ拝借すればよかっただけなのに。先走ってしまった気がした。これならば、すぐに――とハイチに朗報を伝えようとするが、この時間帯はまだ授業中である。ハイネは授業に抜け出せないだろうし、終わるまであと一時間近くもあるのだ。どちらかが早いのかなんてわかりっこない。
電話をかけるか、かけないかで迷っていると、アイリは素早く連絡通信端末機を拝借した。ハイチにかけ出す。当然、ハイチは着信相手がキリだと認識しているから――。
《デベッガ、早くしてくれ。便座が俺のケツと融合しそうだ》
なんて冗談を女子を前にして言い放ってしまう。
「どもどもぉ」
アイリはアイリでからかっているのか、一言目を無視してあいさつをした。向こう側はだんまりである。聞こえていないと思っているのか。それとも、もう一度からかうつもりか「どもどもぉ」と調子のいい声であいさつをした。
「聞こえてますかぁ?」
《……これ、デベッガのだよな?》
「聞こえてますね。ダメですよ、返事はしないと」
《おい、デベッガに代われ》
ハイチは怒り心頭のようで、アイリにそう言う。もちろん、その会話は聞こえないはずなのに、キリには聞こえていた。それが一番嫌である。
「はい、代わってって」
「余計なことしないでくれよ」
キリは連絡通信端末機を受け取ると――それの向こう側から凄みある声音が聞こえてきた。ひえっ、めちゃくちゃ怒っているじゃないですか。
《俺、言ったよな? ええ?》
「ご、ごめんなさい。でも、朗報っちゃ朗報です」
《ハルマチにバレているのに? あいつサボりか?》
「多分は」
《で、朗報とは? 悲報の間違いじゃねぇよな?》
そのようなことを脅し半分で言われるのは、逆に合っているのだろうか。この情報を伝えてもよいものだろうか。不安になりつつも「えっと」と言葉を見つけていく。
「俺、女子トイレの方は確認していなかったから、どうかなって。授業のない友達に持ってきてもらう手なんですけど。その友達が女子っていうだけで――」
そこまで言いかけたキリにハイチは怒声を上げた。
《女子の友達がいれば、苦労はしねぇよ! ハイネは今授業中だから、絶対後回しだしぃ! あと、ライアンとかの連絡先なんて知らねぇし! お前、知ってる!?》
「……すみません、知りません」
《ほらぁ! そんな情報、どうでもいいからさっさと買って、戻ってこいっ! 長時間ここに座るのつらいんだよ! 精神的に!》
キリがわかりましたと返事をする前に、アイリが連絡通信端末機をまたしても拝借した。
「はぁい。彼をお借りしますんで、その状態でいてくださいねぇ」
勝手に通話を切りやがった。それを返してくる。唖然とするキリ。その視線に小首を傾げるアイリ。
なんてことを言ってしまったんだ! キリの冷や汗は止まらない。逆にハイチからの着信がなかなか来ないのがとても怖い。どうしよう。
「ねぇ、遊びに行こうよ」
アイリはキラキラと輝くような笑顔を見せつけてくる。その笑顔と連絡通信端末機を交互に見た。
「それ、気になるなら壊してあげようか?」
「……やだよ、連絡手段がなくなるし」
「じゃあ、壊されたくなければ、あたしと遊ぼう」
それでも渋るキリ。ここでアイリは一つ提案をした。
「それじゃあさ、先にきみが買う物を買ってから遊びに行こう。郵送とかできるでしょ?」
「うん、できるけどさぁ……」
「……きみは、あたしよりもあの人の方が大事なんだね?」
そう言われると、口ごもってしまう。言葉が詰まる。そんなのどちらも大事だとキリは思っているのだ。ハイチはこんな弱い自分でも一人の人間として見てくれているし、アイリは自分にとって特別な人物だと思っている。だからと言って片方を取るだなんて、片方を捨てるのと同等である。
「ち、違う。俺にとって、二人は大切な人だよ。だから、どっちを捨てるだなんて」
アイリに反論をしようとするが、彼女はじっと見てくる。その視線が語る言葉は「嘘つき」とも言っているようだ。
「つまらないことを言っていないで、素直になりなよ」
「は、はあ?」
「それにあれくらいじゃあ、死ぬってわけじゃないし。ほら、ほら。早く買いに行って遊ぼうよ」
あまりにも強引過ぎるアイリに反論を与える隙すらない。彼女の手に引かれて町の中へと連れ込まれてしまうのだった。
◆
「……んだよ、ハルマチもデベッガもよぉ」
ハイチは個室の奥から嘆きを漏らしながら、自身の連絡通信端末機の画面を眺めていた。すると、一件のメールが届いた。差出人はアイリからである。ちょうどいい、返信にたっぷりと嫌味ある文章を送ってやろう、と内容を見た。
『先輩って今どこにいるんですか? エイケン教官が捜しまくっていますよ』
「あ?」
先ほどの言動と文章が合っていない。これはどういう意味だ? なんて考えているとハイネとセロからもメールが届いた。
『至急エイケン教官の研究室に来て、だって。サボっていないで早く行きなよ』
『エイケン教官がお前を捜し回って、俺のとこの教室に来たぞ。早く行けよ』
アイリのメールの内容と二人のメール内容は合致している。これが合うということは、彼女は校内にいることになる。それに片眉を上げつつ、アイリへと返信を送る文章を打った。
『お前って、教室で授業中? サボり?』
返信はすぐに戻ってきた。
『教室にいますよ。あの、どこにいるんですか?』
自分の教室にいるというメール内容に、ハイチは驚愕した。それならば、あの電話に出ていたアイリの声の持ち主は一体誰だと――。
「ディース!?」
であるならば、アイリと一緒にいると思っているキリが危険である。急いで彼に着信をかけた。いつものキリならば、すぐに出てくれるのだが、出てくれない。着信音に気付いていないのか!?
「何やってんだ、あのばかはっ!」
ディースの狙いは彼女が悪と見なしている王族のメアリー、もしくは個人的に惚れてしまったキリ。
「最悪っ……!」
今のハイチは動けない。
◆
業務用トイレットペーパーを速達郵送でお願いし、キリはアイリ――もといディースに連れられて、町中を散策することになった。ハイチに対する後ろめたさはあるものの、正直を言うと、彼女と一緒にこういう風にして遊ぶのも悪くないと思っていた。
ふと、通りを歩いていると、こじんまりとしたケーキ屋を見つけた。小さな店であろうとも買ったケーキを食べられる席はあるようである。
「なあ、甘い物好きだろ? 食べて行かないか?」
「うん!」
店内に入り、二人は食べたいケーキを注文した。キリはクリームチーズケーキ、彼女はフルーツタルト。またフルーツタルトか、と彼は苦笑いする。
「好きだな、フルーツタルト」
「えへへ。だって、あの町のフルーツタルト好きだから」
あの町とは信者の町のことだろう。結局食べず仕舞いであったが、アイリはあの老人とケーキの争奪戦をするほど美味しいと好評していたのだ。また彼女と行こうかな、と思いを馳せる。
「そうだ、半分こずつしようよ。あたしもそっちの食べてみたい」
「おお、いいよ」
早速、クリームチーズケーキを半分にし、それを渡そうとした。だが、彼女は一口サイズにケーキをすくい、キリの口元へと持ってきた。
「はい、あーん」
「い、いや、それは……」
飲食街でも思っていたことだが、こういう恥じらいはないのだろうか。これでは間接キスになってしまうのに。という悶えるような思いをするのは何度目か。
「嫌?」
「い、嫌っていうか、なんていうか……」
恥ずかしいという一言が言えず、顔を真っ赤にする。なかなか食べてくれないのか、彼女は先にその一口食べると、キリのケーキを一口勝手にもらった。
「うん、どっちも美味しいね。あ、勝手に取ってもいいよ。早く食べないと、あたしがぺろりといっちゃうよ」
「うっ……」
周りは誰も気にしていないようなのに、キリは恥ずかしそうにフルーツタルトを一口食べた。甘さは感じられるが、このタルトの本来の旨味は全く感じられない。恥ずかしいせいで、味がよくわからないのだ。
「美味しいでしょ?」
「う、うん」
「そっちのケーキも美味しかったなぁ。どうかなぁ?」
そう促され、自身のケーキを口に運ぶ。こちらも恥ずかしさで味がわからない。ちくしょう、このためにケーキ屋に入ったわけじゃないのにな。
「お、美味しいよ」
「よかった」
そんな笑顔を見て、キリは更に頬を紅潮させた。顔が熱い。そんな自分を見て、おかしいと思っているのだろうかと少しばかり不安になる。というよりも、味もそうであるが、会話の内容が頭に入ってこない。何か話しかけてきているのはわかる。口が動いているのはわかる。こちらに同意などを求められても、「はい」か「いいえ」ぐらいしか答えられないだろう。彼女が何かを言う度に、適度に頷くだけだった。
◆
ケーキを食べ終えた二人は店から出ると、ディースがキリ手を引いてどこかへと連れて行こうとした。
「どこ行くんだよ」
「裏通りにね、面白いものがあるんだよ」
「面白いもの?」
キリは彼女に言われるがまま、裏通りへと向かった。面白いものとは一体なんだろうか。
奥へ、奥へと進んで行くと、とある露店商が商いを展開していた。商品は手作りのアクセサリーだろうか。上の方から降り注ぐ光に反射してキラキラしていた。綺麗だなと思ってぼんやりと眺めていると、その露店商人は「いらっしゃい」とキリに声をかけてくる。
「彼女に一個どう? それともペアでつける?」
「えっ? いや、俺たちは……」
「これら、キイ神の力のご加護があるんだよ」
「それ、本当?」
その話に食いついてきた。これにキリは驚く。宗教関係なんて興味の微塵もないはずなのに。どうでもいいみたいなことを言っていたのに。これには興味津々のようだ。いや、こういうパワーストーン系とかには大抵の女子が食いつくことはある。同じ教室の女子生徒が休み時間それらしき会話をしていたことを思い出す。女子というのは、ほとんどがこういうことに気になる年頃でもあるのだろう。そう彼は適当に解釈をするのだった。
神様の力の加護があるという、いかにも胡散臭そうな物であっても食いついた客は逃すまい。露店商人は「本当、本当」と大きく頷く。
「こっちが恋愛アップものね。で、こっちが金銭アップ。こっちが健康アップ。こっちが――」
露店商人は展開している商品の説明をし出す。彼女は真剣に話を聞いている。これでは立ち去ることができないではないか。キリは仕方なしに、商人の話を聞くしかなかった。
「――でさ、こっちはペアリング。どう?」
「ねぇ、どうしよう?」
ディースは本気で欲しいと思っていた。明らかに一つの商品をちらちらと見る。気付いて欲しいな。それは露店商人が紹介した物ではない。並べられた商品たちの端っこに追いやられている赤い石のビーズで作られたブレスレットだった。
「じゃあ、それください」
視線に気付き、欲しい物がわかったキリは、その赤い石のビーズのブレスレットを購入した。そして、それを彼女に渡す。
「はい、これが欲しかったんだろ?」
「えっ。あ、ありがとう!」
予想は的中し、彼女は喜色を浮かべた。その柔らかい表情に、キリは頬を赤くする。正直な話、その笑顔が可愛いと思ってしまった。
「きみは『優しい』ね!」
だがしかし、その言葉にキリは真顔になってしまう。何か違和感があった。なんだろう、このもやもや感は。彼のその思考は腕を引っ張られるようにして、記憶の奥底へと途切れてしまった。
「おい、ちょっと待てって」
「ふふっ。あぁ、早く見せたいよぅ」
いたずらっ子のようにキリを奥へ、奥へと引き込んで行く。彼らは段々と人気のない路地裏へと入っていく。とある扉の前へとやって来た。見た感じは人気がないこと、扉の前にいることからの目測で――新しい情報屋でも見つけたのだろうか。
「情報屋か?」
そう訊いてみるも「違うよ」と首を横に振った。
それならば、なんだろうかと考える。キリにとって路地裏なんてそれ以外は考えられそうになかった。だから、面白いものとはなのだろうか?
「さぁ、なんだろうねぇ」
にこにことディースは扉に向かってノックもせずに開けた。開けられた扉の奥は真っ暗で何も見えない。
「……本当、あいつらには参ったよ」
「あいつら?」
「いや、きみはよく知っているでしょ?」
「へ?」
言っている意味がわからなかった。アイリが参って、自分がよく知っている人たちだろうか? それは誰だ?
扉の奥は下へ続く階段となっていて、足元に気をつけながら二人は進む。キリは前へと進みながらも、どこか後ろ髪を引かれている気がした。これ以上、深く関わってもいいものなのだろうか、と。
「わからない?」
キリの方を向いて、そう訊いてくる。もちろん答えがわからない彼は頷く。それに彼女は「そう」と残念そうにして、階段を再び下りた。だが、勢い余って階段の段差から足を踏み外してしまう。
「危ないっ!」
転倒しそうになる彼女の手を引き、自分のもとへと引き寄せた。
「うっ!」
「だ、大丈夫か?」
キリは不安げな表情を見せた。それに気恥ずかしく頬を染めた。ややあって、もう大丈夫だと彼女はキリから離れる。
「ありがと」
「い、いや」
「やっぱり、きみは『優しい』。カッコいいよ」
その言葉、違和感の原因を理解した。だが、確信はまだである。
「行こう」
ディースはキリの手を引っ張り、一番下までやって来た。急に彼の鼻に刺激臭が漂ってくる。
「こっちだよ」
キリの手を引いて行こうとするが、彼はそれを拒否するように、その場に止まった。手を振り解く。にじるようにして、後退しようとする。
「どこに行くの?」
「外。そっちに俺は行かない」
「いいもの、見せてあげるのに?」
ディースは一歩だけキリに近付いた。それに伴い、彼は一歩下がる。
「遠慮する」
「拒絶しないでよ」
「嫌だ。お前だろ? 軍のコンピュータシステムに侵入したのは」
「勝手に拒絶して、勝手なことを言わないでよ。あたしにそんな技術は持ち合わせていないのに」
ディースの声のトーンが低くなった。キリは一歩だけ後ろに下がる。
「お前以外に誰がいるんだよ。盗んだ資料は異形生命体と追憶の洞、俺の個人情報だろ?」
「本当にあたしじゃないったら」
段々と怒りを表してくる。それは暗くてもわかった。
「あいつらのサーバーなんかに侵入するほどの価値があるとは思わないもん。きみだって、あんな腐った連中に尽くすよりも――」
ディースがこちらに向けて攻撃を仕掛けてきている気がした。暗闇でも多少の光は見える。彼女の手にはあの注射器が。ディースの両手を塞いだ。
「拒絶なんてしないで、人を……理性を捨てちゃいなよ」
「お、お前、信者のくせにして悪神につく気か!?」
ディースの足を払い、地下から走って逃げ出した。一気に階段を駆け上がり、外へと出て、扉の方を見た。そこからは彼女があやしげな液体の入った注射器を手にして上がってきているではないか。
「違う。汚らわしいこと言わないで」
ディースが睨んできた。
「あたしが敬い、崇拝するのはキイ様だけ。カムラなんて、ただのキイ様を冒涜する不届き者じゃない」
「人を捨てなければならないような生物を作っているのにか」
「何か勘違いしていない? あいつらだなんて所詮は人の形をした薄情者だよ。人の器をしただけの人でなし。だから、あたしがあいつらに本当の姿に戻してあげているだけ。言わば、教典通りの世界にしてあげているってだけ。ねぇ、あたし、何か『おかしいこと』言ってる?」
あいつらとは総合的に見て青の王国民たちのことだろうか。キリは歯噛みする。
「ああ、おかしいさ。人をバケモノに変えて、お前が思っている理想郷を作り出そうとする、そのおかしな考えがなっ!」
「おかしいのはそっちじゃない! きみ、あいつらと同じような特徴をしているよね? その薄い目は情を一切持たない者の証拠。だからきみは人じゃない」
「何をっ!? 俺も王国の人々もみんな人だ! 勝手な決めつけをするお前こそ、人でなしだろ!」
ディースの言っていることが怖い気がした。人の目の色でそんなことを決めつけているだなんて。そんなもの、何を以てそう言うのか。
「……心外。そんなこと言われるとは思わなかった」
「可哀想だねぇ、ディース」
ふと、誰かの声が聞こえてきた。この声は――。どこか期待を寄せる思いで、キリは声がする方を見た。そこにいたのは本物のアイリだった。彼女は本当にサボったのか、座学用制服を着用しているよう。
「偽者っ!」
「じゃないし。あたしがアイリ・ハルマチ。あんたと違って本名を言えるの」
「そんなの、どうだっていい! 死ねっ!」
投げつけられた注射器を軽々しく避ける。やがて、避けた先はキリのもとであった。
「クラッシャー先輩の様子がおかしいと思って抜け出してきてみれば、こういうことかぁ。こいつとデート、敵とデートしていたんかい」
「ハルマチだと勘違いしていたんだよ」
「えぇ、あたしの真似するの止めてくれない?」
アイリは嫌そうな顔を見せながら、ディースにそう言うが、逆鱗に触れてしまった。
「あんたが真似しているんでしょうが! ムカつくったらありゃしない!」
「まぁ、元よりデベッガ君が勘違いしなければすべて丸く収まる話なだけであるんだけどもね。さあ、どう落とし前をつける?」
「捕まえて、軍に突き出してやる」
ディースを睨まえながら、歯車のアクセサリーを剣へと変えた。いつもの淡い光とは裏腹に、どこか怒りに満ちた様子の雰囲気を出している。
二対一。ディースの方が人数的に不利で二人に捕まってしまうかと思われた。
キリが剣を振り下ろそうとした瞬間、黒ずくめの服を着た人物が割って入って、ディースを守るように偃月刀を手にして防いだ。この黒い服に彼は見覚えがあった。それはもちろん、アイリだって。
「なんで、皇国軍が!?」
黒の皇国軍人は何も言わず、キリの一撃を軽く払い除けた。ディースを抱えると、その場から逃げ出す。慌てて追いかけようとするも、深追いは危険だ。アイリが止めた。二人はこの国にとっての犯罪者を逃してしまったのである。
「なんで、止めた!?」
「あの人に勝てっこないと思ったから。ほら、早く軍を呼ぼう。その下に異形生命体がいるんでしょ?」
そう説明するアイリは連絡通信端末機を取り出して、軍の方へと連絡を入れようとした。だが、それを今度はキリが止める。
「勝ってこない? 俺にはこれがある。これで俺は死なないんじゃないのか?」
「そうだけど、あそこでデベッガ君が深追いしても厄介なだけだと思うよ。だって、ディースは皇国軍とつながりがあったんでしょ? これはもうあたしたちだけの問題じゃなくなってくる。国の問題にも関係してくるはず。だから、大人しく軍を呼ぼう?」
諭されたキリは渋々と軍の応援を呼ぶことに承諾した。煮えきらない気持ちが腹の底に溜まり、溜まって苛立っているようだった。
――そんなことしている場合じゃないのにっ!
◆
アイリの通報により、二人は王国軍に事情聴衆を受けた。学校に戻ってきたのは日が暮れる頃である。未だとして、心の中のもやもやが取れないキリが寮棟へと足を運ばせる。そうしていると、彼の前にハイチが現れた。
その彼の姿にどこかデジャヴを感じていると「疲れきった顔しているな」そう、労いの言葉をかけてくれた。その声音はどこか優しい。
「すみません、俺がディースと気付かずに……」
「ああ。まさか、俺の着信を全部拒否するとは思わなかった」
キリは急いで着信履歴を確認する。確かにハイチからの着信が十件以上あった。着信音は? 絶対に鳴るはずなのに――。
「あ」
今更ながら原因が判明。キリは着信音をオフにしていた。午前中は授業があったから、それを解除するのを忘れていたのだろうか。
「あれだな。デベッガってハルマチとディースの見分けがつかないのか?」
「いえ……いや、はい。面白いもの見せてあげるって言われて着いていったら、異形生命体のにおいがして初めてディースだって気付きました」
ハイチはあごに手を当てて、斜め上を眺めた。
「……ふぅん、それだけやつに似ているのか。俺が前にライアンに教えたハルマチとディースの見分け方は使えないってことかな?」
「えっ? 見分け方?」
「ハルマチは変人、ディースは変態。これで見分けろって教えた」
ハイチ独自の見分け方にキリは苦笑いをした。そんな方法があっただなんて。
「でも、俺もハルマチとメールしていなかったら、ディースだってわからなかった。エイケン教官様々ってことだ」
「なぜ、エイケン教官が……?」
「俺を捜すために全教室を回っていたんだと。そこで、あの電話とあいつのメールの言い分が合わなかったから」
「ああ、結局ハルマチは授業をサボってまで来てくれましたよ」
キリがそう言うと、ハイチは小さく頷きながら「ふうん」と声を上げる。
「あいつにも情はあったのか」
「いや、人って多少の情くらいありますよ」
――その割には、ハルマチの情はお前に対して大きそうだがなぁ。
鈍いのか、とハイチは思ってしまう。いや、事実そうなのかもしれない。アイリはおろか、メアリーもハイネもキリに好意を抱いていることに気付いていた。彼がそんな彼女たちの思いに気付いているような素振りなのはハイネ一人だけ。
――ま、俺はライアンの方を応援するがな。
ハイチにとって、アイリを味方にする発想はないようである。そんな彼にキリはそう言えば、という感覚で話を元に戻した。
「ハイチさんって、結局エイケン教官助けてもらったんですか?」
自分はこの時間帯まで戻ってこられなかった。それならばと現在ここにいるハイチが気になったのだ。その質問にハイチは「ああ」と鼻で思い出し笑いをする。
「誰かがバラしたかは知らねぇけど、教官が俺の居場所を特定したんだよ」
疑いの眼差しはキリに向けられた。その視線に彼は必死に否定する。
「俺はディースにしか話していませんよ!」
「あぁ? そいつは本当にディースだったのか? ハルマチじゃねぇだろうな?」
「ほ、本当ですってば! だって、俺はさっきまで忘れていたんですし――」
「なんだとっ!?」
ハイチはこめかみに青筋を立てて、怒鳴った。しまった、余計なことまで言い過ぎてしまった! とキリは怒声に肩を強張らせる。もう言い訳は通用しそうになかった。
「おまっ……ちょっ!? 今の今まで忘れていたって!? エイケン教官がトイレにまで来なかったら、俺は五時間以上も便座に座りっぱなしだったのか!?」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「挙句の果てに俺はディースに変なこと言ってしまったしよぉ! 相手がハルマチじゃない分はまだマシ……いや、どっちも嫌だ! 最悪じゃねぇか!」
頭を抱え、嘆く。そんなハイチを見て、キリはより一層気まずさを感じ取ってしまう。これは何かお詫びをしなければならない雰囲気である、と。
というのも、ハイチがその言葉を今か今かと待ち詫びている気がして仕方がないのだ。腹を括れ、なんて言いたげ。
「は、ハイチさん」
これは自分に非があるとは認めているのか。ハイチに声をかけた。彼は待っていましたと顔を上げる。
「俺、お詫びになにかハイチさんのお手伝いでもします。俺ができることなら、一応なんでも……」
「よし、その言葉を待っていた」
やはり、何かしらを待ち詫びていたようだ。何をされるのか、体力を使うものだろうか。
「お前に俺から個人任務を与える。ハルマチが持っているあの分厚い本な。あれの中身を探ってこい。わかったら、俺に教えろ。したらば、あいつから豪華賞品をもらえるからデベッガにはその一割をやろう」
「豪華賞品ですか?」
「おうよ。本の中身を当てたら豪華賞品をあげるって言っていたからな」
本当にアイリはその豪華賞品を渡す気はあるのか。甚だ疑問ではあるが、なんでもすると言った以上はハイチの言うことを聞かざるを得なかった。
「わかりました」
キリの返事にハイチは満足げだった。「よろしくな」と頼み、去って行ってしまう。果たしてアイリに頼んだとしても、見せてくれるだろうか。教えてくれるだろうか。キリは悩ましげな顔を見せた。そうこうしている内に、校舎の方から噂をしていたアイリがやって来る。
「そこで止まってどうしたの?」
アイリは鞄と手にはピンク色の分厚い本が握られていた。あれこそ、ハイチが言う本。見た感じ、タイトルも著者名を書かれていない。これではなんの本であるかはわからない。厚さから見て辞書だろうか。
じっとアイリの持つ本を見ていると、彼女はその視線に気付いていないのか「どうしたの?」と再度聞いてきた。
「もしかして、ディースのことで?」
アイリはそう察知すると、愁眉の色を見せた。これに少しだけ申し訳ないと思ったキリは否定する。
「いや、そうじゃないよ」
「ならいいけどさぁ。戻ろうよ。もうすぐご飯じゃない?」
キリにそう促して寮棟へと向かうアイリを呼び止めた。彼女は振り返る。夕日に照らされて、顔が赤く見えていた。
「あのさ。ハルマチが持っているその本だけど」
「ああ、これ?」
アイリはピンク色の表紙の本を掲げて見せた。
「そ、それの中身って何?」
ただ、聞くだけなのに緊張する。声が上ずっていないだろうか。ハイチの頼まれごとに気付いていないだろうか。アイリは何も言ってこないだろうか。
「中身?」
どうやら気付いていない様子。反問してくる。それにキリは戸惑いつつも、頷いた。答えてくれるだろうか。それともこの歯車を使いこなせば教えると言ってくるだろうか。彼の頭は不安でいっぱいである。
「じゃあ、中身当ててよ。当てたら豪華賞品をあげる」
ハイチ同様に、キリにもそう言った。こちらにも易々と教える気はないらしい。
「辞書?」
率直な思いつきを口に出した。その答えにアイリが「違うよ」と首を横に振る。これは当てずっぽうな答えになっていきそうだ。キリはそう思う。
「文学小説?」
「違うなぁ」
「郷土資料?」
「うぅん、残念」
思いつく限りの本の種類を発言するものの、違うらしい。キリが頭を抱えて真剣に悩む姿を見てか、アイリは「しょうがないな」とため息交じりで苦笑いする。
「ヒントあげる。第一にこれは本屋とか図書館には絶対に置いていない本だよ」
「え? じゃあ、ハルマチの家に伝わる本とか?」
「それは違う。じゃあ、第二ヒント。これは出版とかされていないよ」
ヒントをもらうも、余計にややこしくなり、更にわからなくなってしまった。何が答えで、何が正解なのか。
「言っておくけど、これクラッシャー先輩にもクイズ出したんだよね。一応ヒントもらっている分は有利だから、デベッガ君が答えないと意味ないよ」
「余計にわからないんだけど」
「いや、わかって欲しいねぇ。普通、ヒントをもらった人の方が解答は早いって相場があるんだから」
どこの相場だよ、とキリは心の中で思う。
「訊くけど、それはハルマチにとって大切な本なの?」
「もちろん。じゃなきゃ、あたしはこの本を持たない」
「図書館って利用していたっけ?」
アイリを学校の図書館で見かけたのは、たったの一回である。
「図書館ね。堅苦しいのは好きじゃないよ」
「そう言えばそうだったな。でも、別に堅苦しいところじゃないと思うけど。図書館員の人も丁寧で優しいし」
「……デベッガ君ってさぁ、年上が好み?」
唐突にそのようなことを言われ、キリは思わず吹き出してしまう。突然、アイリは何を言い出すか。
「別に年上が好きってわけじゃ……」
確かに図書館員の人は黒髪の綺麗な女性で、年上のお姉さんという雰囲気を持っているが、恋愛対象とまではいかない。
「あぁ、それならよかったよ」
安心した様子でアイリが息を吐いた。彼女のその安堵にキリはあの夜を思い出した。もしかしすると、自分は嫉妬をさせてしまったのだろうか。
「だって、デベッガ君があの人を好きになったら、クラッシャー先輩が怒りそうだもの」
「なんで?」
なぜにそこでハイチが出てくるのか。思わず彼は疑問を顔と口に出した。
「いや、この前嬉しそうに会話しているところを見たから」
「だからと言って、別に恋愛対象じゃないかもしれないだろ?」
「いいや、絶対図書館の人が好きだねっ! これは断言できる。ていうか、決定事項じゃないの?」
「……仮にそうだとしても、ハイチさんをからかったらダメだぞ」
アイリならば、ハイチをからかうことや煽ることは容易いだろう。それをする前に止めなくては。
「えぇ、それはつまらないよ」
「つまらなくないから。年頃の男子からお願い。恋愛に関しては絶対にからかわないで」
「それはデベッガ君だけ? わかった、じゃあ今からからかってくる」
いたずら好きのような子どもの顔を見せると、軽快に寮棟の方へ走って行ってしまった。キリは「待て!」と静止をかけるも、アイリを止めることができなかった。もう彼女の姿は見えない。
「あ、あいつ! 勝手に解釈して行きやがったっ……!」
キリは追いかければ、まだ間に合うかもしれない。そう思って寮の方へと走って向かうのだった。
◆
寮棟の方へと若干息を切らしながらやって来ると、男子寮の入り口でアイリとハイチが話し込んでいる姿が見えた。とっさに建物の陰へと逃げるようにして身を潜める。そこからは二人の場所からほど近いため、会話が聞こえてきていた。
「なんだよ」
「いやぁ、実はですね――」
今ならまだ間に合う。そう見込んだキリはその場から躍り出るように出てきて、アイリの口を塞いだ。
「ま、また会いましたね!」
「……おう」
「ちょっ、デベッガ君!」
「あーっと、ハルマチ! 教官が呼んでいたぞ! 行くぞ!」
アイリを引き連れて、その場から退散しようとする二人にハイチは呼び止めた。何かを察したようだ。
「ハルマチ。デベッガの質問な、あれはなかったことにしてくれ。俺がこいつに頼んだんだよ。だから、チャンスをくれよ」
「はぁ? チャンス?」
ハイチの言葉に二人は理解できなかった。どういう意味だろうか。チャンス?
「なんのことですか?」
片眉を上げるアイリ。どうも話が噛み合っていないようで、ハイチ自身も眉根を寄せた。
「いや、ハルマチが出したクイズの答え、デベッガを使って知ろうとしたことがバレたんじゃ……?」
「えっ、そうなの?」
「……えっと……」
キリのまごつきにハイチはまだバレていないことを察知した。ああ、余計なことを言うのではなかったかもしれない。
「あっ、やっぱりそれも忘れてくれ」
ハイチがすべてをなかったことにしようとする。しかし、それを見逃してくれるほどアイリは甘くない。
「なぁるほど。嫌ですね。だから、ここで一丁言いますかぁ」
「言う? 何を?」
「クラッシャー先輩、あなたは――」
「わぁっ!!」
大声を出して、アイリの発言を遮った。それが原因もあるのか、周りの視線の注目を集める。行き交う学徒隊員たちは訝しげに三人を見る。
「おい、大声出すなよ。ビビるだろうが」
「そうだよ、デベッガ君ったら。ご近所迷惑も考えなよ」
――お前が一番の困り者だよ、コノヤロー!
言いたいことはいっぱいあった。それを口に出してしまえば周りにハイチの秘密とやらがバレてしまう。これは別に彼に媚を売ってはいない。ハイチの立場を守ろうとしているのであって――。
「ハルマチさぁ、そろそろ女子寮の方も夕食じゃないの?」
「そうだねぇ。でも、誤魔化してどうにかしようっていうほど、あたしは絶対に見逃さなぁい」
そんなアイリに、ハイチは弱気な表情を見せた。キリはあたふたと交互を見る。いくら対等交換だろうが、こちらが出す方は一番痛いものなのに。
「しゃーねぇ。俺が悪かったよ。それに、デベッガも」
「じゃあ、あたしが言いたいことも言っていいんですね?」
「そうだな、構わない」
――後悔しなければいいんだけど。
「クラッシャー先輩って、図書館のお姉さんに恋をしていますよね?」
アイリの発言にキリは頭を抱え、ハイチは目を丸くし、周りで偶然聞いていた者はこちらを見た。一気に注目がこちらへと集まる。そんな中、ハイチの方からは無言の視線を感じていた。この感情は怒っているのか、それとも――?
「お、俺は止めようとしたんですけど……」
なんとか言い訳を言おうとするが、何も思いつかない。どうしよう。
「ですよねぇ? ですよねぇ? あの、綺麗なお姉さん。この前、嬉しそうに話していましたもんねぇ」
意地悪そうな顔を見せてアイリはそう言った。視線は彼女へと変えられた。無表情であり、何も反応や発言をしない。だから何を思って、考えているのかが疑問に思う。
「……勘違いじゃねぇの?」
ややあって、口を開いたハイチの一言がその言葉だった。アイリの言うことが本当であるならば、普通人は恥ずかしそうに顔を赤らめたり、目を泳がせたりするはずだろう。だが、彼にそのようなことはなかった。顔色を必死に隠しているようでもないようである。ということは、その説は真実ではない。彼女が勘違いをしていたことになるのだ。
「えっ?」
アイリも予想外の答えが返ってきて、戸惑いを隠せていないようである。本当にハイチをからかうつもりだったようで、悔しそうに口を尖らせていた。
「まあ、だからと言って嫌いじゃねぇけど、恋愛的にはな」
「なぁんだ。つまんなぁい」
自身の予想が外れてしまい、つまらなく感じてしまったアイリは女子寮へと帰って行ってしまった。もう言うことはなにもないということだろう。
これで一応はハイチの面子が保たれたぞ、と彼の方を見ると――袖口で顔を隠すように頬を赤く染めていた。これにキリは目が点になる。
「は、ハイチさん?」
「こっち見んな」
まさか、本当は好きだとは思わなかった。ということはアイリが見た光景は本物だったのだ。想像がつかない。
「……お前さ、絶対あいつに言うなよ? あいつは話のネタにしてくるし、あの人と話しているときは絶対からかってくるからな」
そちらは嫌でも想像がつく話である。
「で、でも意外です。ハイチさんにもいたんですね」
「えっ、俺のことなんて思ってんの?」
「ハイチは年上好みだからなぁ」
突然後ろから声が聞こえてきて、二人は肩を強張らせた。そにいたのはセロである。その彼にハイチはしかめっ面を見せた。
「聞いていたのかよ」
「あの子の声がでかかったからな。何事かと聞いてみれば、面白いものが聞けた」
セロはにやにやとからかうように笑っていた。それに機嫌を悪くしたハイチはムッとした表情を見せると、ぼそりと呟く。
「お前こそ、ライアンが好きなくせに」
その呟きに何を思ったのか、セロは「絶対に負けないからな!」とキリに布告してくる。
「はぁ!? えっ? いきなりなんですか!?」
鈍い。キリは困惑し出す。本当になんのことだか理解していないようで、助けを求めるようにハイチの方を見た。だが、彼は助ける気は一切ないようである。逆に――。
「この際、知られたくない秘密がバレたんだ。ついでにデベッガの好きな人を教えろ!」
「そうだ、そうだ! 教えろ!」
「いっ!? えっ!?」
大声で言う彼らに周りは再び注目する。それもそのはずだ。校内の首席と次席が一人の隊員に詰め寄ってきているのだから。キリはそう言われ、周りに注目されて真っ赤にした。こんな周囲が見ている中、心の内をさらけ出すことはとても恥ずかしいのである。冗談じゃない。
「早く言え!」
――ハイネって言ったら投げ飛ばしてやる。
「早く!」
――ライアンって言ったら投げ飛ばしてやる。
なぜかキリは二人が考える思いの内を察知した気分となる。それが原因で言いたいことも言えやしない。
「えっ、あの……ここで言うんですか?」
視線が集まるこの場で言うのは絶対に嫌だと思っていたキリ。別の場所でなら、と彼らにそう提案するが、聞く耳は持ち合わせていないようで――「ここで言え」と強引さを見せる。
このままでは逃げられそうにはなかった。言うしかないのか、と頭に思い浮かんだのはアイリである。だが、彼女の名前を言うことが一番怖い気がした。よしんば、凌ぎで答えたとしてもそれが周りに広まったら? いくらなんでもアイリが自分のことを好きだと言ったとしても彼女自身も恥ずかしいだろう。
「誰だよ、言えよ」
強引に迫ってくる長身の男どもを見上げて、後ろへとにじり寄る。後ろへ、後ろへ逃げていく内に壁にまで到達した。逃げ道はなくなってしまった。あ、もうこれはダメだ、と諦めかけたときだった。「こらぁ!」と女子生徒の声が聞こえてきた。ある種の救世主だ。
「何してんの!」
二人に叱責するのはハイネだった。腰に手を当てて、頬を膨らまかせている。
「何って、お前には関係のない話だろうが」
「関係なくないっ! キリ君が嫌がっているじゃん!」
ハイネは彼らの背中を一発叩くと、キリを助けた。そして、彼女は申し訳なさそうな表情をする。
「ごめんね、ばか二人が。何かあったら、私に言っていいんだからね?」
「あ、ありがとうございます」
まさか助けられるとは思わなかった。そんなハイネを見てカッコいいなと思う。ああ、自分もこんな風に困っている人を助けることができて、頼りがいのある軍人になれたならば。
――だからこそ、許されない。
急にディースを連れ去って行った黒の皇国軍人を思い出す。確かにアイリの言うように、深追いは危険だということを重々理解できているが、そこで立ち止まりたくなかったのだ。
「……俺、部屋に戻ります」
眉間にしわを寄せて自室へと戻ろうとするキリを見て、ハイネは不安を覚えた。ここ最近、彼の様子がおかしい。というか、自分に対してよそよそしくなったというか――他人行儀のように見えた。それが悲しい、寂しい。
「キリ君……」
◆
ディースは皇国軍人と車で町から逃げ出していた。向かう先は青の王国に隣接する国、黒の皇国である。助手席に座り、眉根を寄せている彼女を見て、軍人は無言で瞥見をした。
「何?」
その視線にディースはどこか不機嫌そうに訊いた。
「……いいや、お前が狙っていたやつって、『過去の歯車』を持っていたから」
「うん。死が恐ろしくて、不死になることを選んだくせに、自分は人間だって言い出すんだもん。おかしいよ」
「なるほどな。それだから、あいつをMADにしたかったのか」
「別にあれを持とうが、あたしは関係ない。あたしの目的は追放しやがった生物学会と青の民族を根絶やすだけ。本当、あいつらって人間じゃない」
ディースはぼんやりと外を眺めていたが、巡回中の王国軍の装甲車両を見つけた。その中で軍人たちが目を丸くしてこちらを見ているではないか。
「ねぇ、クソ野郎たちに見つかったみたい」
「そうか、それは危険だな。あっちまで飛ばすぞ」
「はぁ、MAD作るのまた一からやり直しかぁ」
皇国軍人はアクセルを踏み込みつつ、空笑いをした。
「それは大変なことで」
「でも、いいもん。これがあるし」
ディースは懐に入れていた試験管を一本取り出す。その中には数本の茶色い体毛が入っていた。皇国軍人はそれを見て「なんだ、それ」と訊ねた。
「彼の髪の毛よ。こっそり、取っておいたんだ」
悪い笑みを見せているのは――キリを我が物にしたいというディースである。




