当惑
キリは頭を抱えて何かを思い出そうと悩んでいた。
今いる場所はエントランス付近にあるカフェテリアである。テーブルの上には次の授業に使うテキストと買ったばかりのジュースがあった。
「あの人、誰だっけ」
悩ましくも必死に思い出そうとする。あの人とは――それは二時間前に遡る。
◇
ほぼ徹夜で反省文を書き終えたキリは痺れる腕を手にして悶絶しながら登校していた。すると、偶然にもハイチによく似た女子生徒に「おはよう」と笑顔であいさつをされる。思わずキリもあいさつを返したのだが――。
「キリ君、なんか手を押さえているけど、どうしたの?」
――誰だっけ?
普通に親しげに話してくるものだから、自分の知り合いなのだろう、とキリは愛想笑いをするしかない。
「昨日反省文を書かされまして」
彼女が同学年なのか、上級生なのか、よくわからなかった。だから、敬語で答える。前にも見たこの女子生徒。あのときはヤグラの研究室で見かけたんだっけ? どうも、自分たちが置かれていた状況を把握していたようだが――。
「誰ですか?」なんて面と向かって言えやしない。名前を今更ながら訊けそうにない。だって、向こうは自分のことを名前で言っているんだもの。おそらく、とキリは目測する。見た目はハイチに似ているから、兄妹関係者なのだろう。
「反省文? 何したの」
「友達と幼馴染にはめられましてね」
「失礼だな。お前が一人で勝手に自爆したんだろ?」
後ろからやって来ていたガズトロキルスに頭を軽く小突かれてしまった。
「痛いな」
「なんでもかんでも人のせいにしてはいけませんっ!」
「おい、その母親風気取りは止めろ。腹立つから」
「まあ、この子ったらひどいっ」
そんな二人のやり取りを見て、女子生徒は面白おかしそうに笑っていた。その笑顔を見たキリは一瞬デジャヴに陥る。もしかして、自分はこの笑顔を見たことがある?
「意外ね、二人とも。なんだかキリ君、ハイチっぽい」
やはりハイチの兄妹関係者のようだ。そして、自分とは知り合いのようである。
「はは。ハイネさん、面白いことを言いますね。次席と戦力外、意外にも精神年齢は一緒だった?」
面白おかしく言うガズトロキルス。今度は後ろにいたのか。ハイチに軽く頭を小突かれてしまった。
「あっ、おはようございます」
頭を叩かれたことなんて全く気にしない。ガズトロキルスは元気にあいさつをした。続け様にキリもあいさつをする。
「冗談じゃねぇぞ。俺の方が年上なんだから、精神年齢は俺の方が上だろ」
「どうだか。明らかにキリ君の方が年上に見えるよ」
「嘘!?」
一人ショックを受けているハイチに対して、どう声をかけていいのやら。戸惑っていると、ハイネが「ばかは放っておいて行こう」とキリを連れて行ってしまった。
◇
それで、エントランス内で別れた。解放されたからいいものの、これからハイネという女子生徒をどう扱っていいのだろうか。あまり馴れ馴れしいと、兄のハイチから何か言われるかもしれない。だからと言って素っ気ない態度だと、今まで仲良かったのかもしれないのに、彼女が悲しんでしまうだろう。
「どうしたもんだか……」
キリがため息をつき、ジュースを飲んでいると――「大丈夫?」そう、声をかけられた。声の持ち主はメアリーだった。彼女は心配そうに見てくる。
――そう言えば、ライアンもどこかで見たことがあったんだよな……。
「なんか、疲れているね。もし、よかったら、私が相談に乗ろうか?」
メアリーは謙虚ながらもそう言った。
「うーん、それは悪いなぁ」
それもそうだ。メアリーの場合だと、一緒に悩み過ぎて却って彼女の方が悩みそうだ。なんて思ってしまい、思わず吹き出してしまう。
何が面白かったのだろうか。不安ながらメアリーがおどおどしていた。
「ああ、ごめんごめん。それじゃあ、話だけでもいいから、聞いてくれる?」
「もちろんだよ!」
どこか嬉しそうなメアリーは意気揚々に向かいの席に座った。そして、どこからでもかかってこい、と言わんばかりの面構えでキリを見てくる。これでは逆に話しづらかったが、お願いした以上は話すべきだ、と口を開くのだった。
「……名前が思い出せない人が今いるんだ。その人は俺のことをよく知っていて。でも、俺は何もその人のことを知らないんだ。それで、その人を傷付けるのが怖くて、事実を言うのが怖くてさ」
「……わかるよ」
その返答にキリは目を丸くした。
「私も自分が知らなくて、相手が知っている境遇に合ったことあるよ。本当にその人を思い出せないの」
「ライアン」
場の空気が神妙さに増したときに「青春ねぇ」と横からアイリが割って入ってきた。これには二人はあまりの驚きに席から立ち上がる勢いである。
「あ、アイリ!?」
「お話し中、ごめんねぇ。あたし、二人が真剣な顔をしているところを見てしまったから、心配でさぁ。恋煩い?」
「……しつこいぐらい言っているけど、急に現れるの止めてくれない?」
そう言うキリは自分たちが座っている席のテーブルを指差す。そこはジュースで水浸しだった。
「あ、ハンカチあるよ」
メアリーが気を利かせてポーチからハンカチを取り出して、濡れたテーブルを拭こうとしたとき――彼女の手は誰かの手によって掴まされてしまった。
「え?」
三人はその手の持ち主に注目した。その人物はメアリーがしている青いリボンとは対照的に、赤いリボンをした少し目付きの悪い少女だった。彼女はじろりとキリたち二人を睨む。
「何をしているのですか」
「て、テーブルを拭こうと……」
「そのようなことはこちらの者たちにさせるべきですわ。あなたがする必要なんてどこにもない」
少女のその態度にアイリはガラの悪そうな雰囲気で口を尖らせていた。キリも彼女のその態度はあまりいいものとは思えなかった。
「あのさぁ、確かにライアンが拭く必要はないけど、ライアンにそういうことするのは止めてあげたら?」
「あなたは自分の立場をわかっているのかしら?」
「は?」
少女は高飛車にヒールの音を鳴らした。
「あなたは私たちがどのような立場にいる者たちなのかわかっているのかしら?」
あまりの気迫にキリは仰け反ってしまう。
「私たちは貴族。あなたたちはただの一般市民。場の立場を弁えなさい」
「あんたこそ、場の立場を弁えたらぁ?」
少女に反抗するように、アイリはポケットブックサイズの学徒隊員規則条を取り出した。二人の視線が合い、彼女たちからは火花が散っている気がしてたまらない。
「学徒隊員規則五十三条。隊員に身分は関係なし、隊員たる者平等であること。ってあるけど? 『編入隊』した『あたし』だってきちんと知っていることを貴族様は知らないんですかぁ?」
「ちょっと、ハルマチ」
キリはアイリを止めようとするが、それができなかった。彼女が押し退けたからである。
「何さぁ、デベッガ君だってシルヴェスター君に言い返しているじゃん。あたしはそれの真似をしただけ」
「いや、何も俺の真似をしなくても」
「ばかばかしい」
少女は髪を掻き上げて鼻で一蹴した。それが癪に触ったのか、アイリはまたしてもガラの悪そうな表情で彼女を睨みつける。
「ただの隊員であろうが、私はメアリー様にお仕えする三銃士軍団の団長。存在価値は全く違うのよ」
そう少女は自慢げであったが、どうもキリとアイリの態度がおかしかった。二人はそちらの方を見て、怪訝そうにする。
「さんじゅうしぐんだん? 知ってる?」
「……知っているようで、知らない」
一応、少女に聞こえないような音量で確認を取り合う二人。しかしながら、その対話は彼女に聞かれてしまっていた。
「あ、あなたたち、三銃士軍団も知らないだなんて! これならどうかしら!? 私は青の王国建国より王族に仕えしロジャー・ボールドウィン家の子孫、マティルダ・ロジャー・ボールドウィンよ!」
これだけの情報を与えれば、流石の二人も目玉が飛び出す勢いで驚くだろう、と少女――マティルダは鼻を高々にしていたが――。
「えっ。ライアンって、王族? なんか、粗相とかしてないよね?」
「大丈夫だよ。ほら、アイリが言っていたように学徒隊員は身分なんて関係ないから、いつも通りで」
「そうそう、大丈夫だよ。って、デベッガ君知っていると思っていたけど」
「……いや、パレードの中継とかで王女様の顔は見たことあったけど、雰囲気がなんか違うから」
「女は化粧で変わるしね。あっ、それで思い出したけどさ、明日休みじゃん? またみんなでケーキを食べに行こうよ」
「お、いいねぇ」
「行きたい!」
話題を取り換えて明日の予定を立て始める彼ら。すべてをスルーされた気がしたマティルダはわなわなと握り拳を作り、怒りを表していた。その怒りが大爆発する前に『ケーキ屋に行く』という話を聞きつけてきたガズトロキルスが押し退けて登場する。
「呼ばれた気がした!」
「まだ呼んでもねぇよ」
「相変わらず、食い意地が張っているねぇ」
和やかな雰囲気の最中、押し退けられて転んだマティルダはこめかみに青筋を立てていた。彼女にメアリーが怒りを落ち着かせようと、心配そうに声をかけてきた。
「マティ? だ、大丈夫?」
「なんなのよっ! 貴族と言えども、私はメアリー様に仕える三銃士軍団なのよ! ここまでぞんざいに扱う一般人どもがっ!」
「お、落ち着いてよ」
そんな二人のやり取りに気付いたガズトロキルス。彼は床に座り込んでいるマティルダに、そっと手を差し伸べた。
「もしかして、俺のせい? 大丈夫か、あんた」
優しいガズトロキルスをよそに、アイリはキリにしか聞こえないくらいの小さな舌打ちをした。
「放っておけばいいのに」
「いや、放っておいたらそれこそガズは悪いやつになるぞ」
苛立っていたマティルダは「気をつけなさいよ!」と激怒しながらガズトロキルスへと振り返るが、急に大人しくなった。
「あれ? どこか痛いのか? 立てないなら医務室まで運ぶけど」
「あ、えっと、その……た、立てますわ!」
その割にはガズトロキルスの手を取り、立ち上がる。立ち上がると、埃を払うように身だしなみを整え始めた。
「と、殿方! このお礼をしたくって? 私はマティルダ・ロジャー・ボールドウィンと申します。殿方の名前は?」
「俺? 俺はガズトロキルス・オブリクスって言うんだ。長いし、ガズでもいいよ。って、あんたも長いな。どう言えばいいかな?」
「私はマティって呼んでいるよ」
恥じらい、照れを見せるマティルダに変わってメアリーが教えてくれた。
「そっか、いいなそれ。じゃあ、俺も呼ぼうかな。よろしく、マティ」
歯を見せて笑うガズトロキルスに、マティルダが答える一足先にアイリが「よろしく、マティ」と割って入ってきた。どうやら邪魔をしたいのだろう。
「あなたにはそう言われたくなくってよっ! よ、よろしくお願いしますわ、が、ガズ様!」
愛称で言ってしまった、と嬉々するマティルダは顔を真っ赤に染め上げていた。
「ライアンの友達だったんだな。それならマティも一緒に行こうぜ。いいだろ、みんな」
「うん」
「俺はみんながよければ」
ガズトロキルスの提案にメアリーとキリは快くマティルダを迎え入れるつもりのようだが、発案者のアイリは歓迎しないようであった。
「他にもクラッシャー先輩たちも呼びますけど?」
「いいんじゃないか? 多分、ヴェフェハルさんも来るんじゃないか?」
「とりあえず、誘っておくから。人数激増でどこのケーキ屋がいいのかな?」
行くメンバーは決まったのだが、肝心の場所が決まりそうになかった。
「前のところはまだ建て直っていないんだよね?」
「信者の町の東通りのケーキ屋は食べるところが必要になってくるしねぇ」
「だったら、いいところがありましてよ!」
マティルダは自身が勧めるのケーキ屋について語り出す。
「王都にある――」
プレゼンをしようとするが、それはアイリに止められた。
「却下」
「なっ!? それじゃあ――」
「却下」
まだ何も言っていないのにな、とキリは苦笑いする。
「何よ! 人の意見を遮って!」
「他の提案も却下ね。あんたさ、紹介するお店はどうせ全店王都にあるんでしょ? 行くのは明日だけよ? 明後日、学校があるのに遠出できないから」
そう、学校の敷地内から王国の王都までは半日以上もかけないと着かないのである。アイリとしては行ってみたいとは思っていたが、そこまでして行くものではないと判断をしていた。
「もっと近いところない? あんた、貴族なら百や千の店を知っているでしょ?」
「王都以外の町は知りませんの」
「使えないわね」
「何よ!」
アイリとマティルダが言い争う。メアリーが仲裁に入っている中、手出しができないキリはガズトロキルスに「何かいいところなかったっけ?」と訊く。
「俺もあんまりウロウロする方じゃないから知らないんだよな」
「そうだなぁ」
ガズトロキルスも一緒になって考えていると――「あっ!」と声を張り上げる。つられて喧騒の二人とメアリーは彼に注目した。
「飲食街にあった気がする」
「飲食街?」
キリがそう聞き返すと「おう」と返ってきた。
「俺がここに来るまで金を稼いでいた町だよ。確か、信者の町の近くにあったはずだ」
◆
「じゃあガズ君ってお金が貯まるまで働いていたの!?」
当日、公共機関の乗り物に揺られながらアイリは目を丸くしていた。
「うん。親に負担をかけたくなかったし。それに、働ける年齢だったしな」
「懐かしいね、飲食街なんて」
ガズトロキルスとハイネが町の思い出話に花を咲かせている最中、揺れに揺られて公共機関の乗り物自体初めて乗ったらしい。マティルダは真っ青の表情で窓の外を眺めていた。
「大丈夫?」
「こ、こんなに揺られるなんて」
「大変そうだな、マティ。で、キリは普通か」
今回は乗り物酔いをしないキリを見てガズトロキルスは素直に驚いていた。そんな反応をされて口を尖らせる。
「いつも普通だし。この前はお前らが夜中まで騒ぐからいけないんだろ」
「デベッガ君も騒いでいたじゃん」
「……それで思い出したけどよ、ハルマチはなんで男子寮にいたんだ? 実況は自分の部屋でもできただろうに」
珍しくテンションは少しばかり低いハイチが怪訝そうにそう訊いた。彼は寝不足ではないようだが、取り分け機嫌はさほどよくないようである。
「聞いてくださいよ。こいつ、ライアンは起こしたら悪いけど、俺は起こしても問題ないとかほざくんですよ」
「ああ、それなら問題ないな」
「ちょっ、ハイチさん!?」
「確かに問題はないな」
セロまでも同調してしまう。これにはキリは味方が一人もいなくて泣きそうになってしまった。が、慰めてくれる者は誰一人としていなそうなので自分だけで勝手に立ち直るしかない。
「あなた、珍しくメアリー様を尊重するじゃない」
顔色の悪いマティルダも少しばかり遅れならも、アイリを称賛する。これにより、完全にキリは立ち直ることは難しいくらい窓の外を眺めて一人いじけるのだった。
「キリ君もそんなに落ち込まないで。このばか二人の意見だけは無視してもいいから」
「あ、ありがとうございます」
隣に座るハイネの慰めにほんの少しだけ立ち直れたが、やはりどこか遠慮感はあった。自分たちは仲のいい者同士であることはわかる。が、彼女の記憶だけないことがおかしかった。
――なんで、この人の記憶だけないんだろ。
記憶がない、覚えていないことを覚られたくないキリ。独りでに連絡通信端末機を取り出してオンラインゲームで遊ぼうとする。そうしていると、一件のメールが届いていた。ガンからである。以前にデータの世界へと入り、仲良くなった友達だ。その証拠に何度かメールのやり取りをしている。それは当然、もう一人の友達でもあるアイリもなのだ。
『見回りをしていたら、知らないデータが落ちていたんだけど』
知らないデータが落ちていた? それはキリにはわからなかった。確かデータの世界に入ったのは自分とアイリに助っ人のハイチだけである。自分たちがデータを落としただなんておかしな話である。
『俺は多分違うよ』
そうキリは返信してしまう。ガンからの再返信はしばらくして返ってきた。
『アイリからも確認を取った。知らないらしいし、ここには不要なデータだから捨てるね』
『捨てるって、ごみ箱とかに?』
なんとなく気になったから訊いてみた。今度はすぐに返ってくる。
『いいや、データ・スクラップ・エリアっていうところ。要らなくなった色んなデータがごたまぜになっているんだ』
『そっか。じゃあ、悪いけどよろしくな』
『うん。またね』
ぼんやりとガンとのメールのやり取りをしていると、ハイネが「お友達?」と訊いてきた。
「あんまり画面ばっかり向いたらダメだよ。酔っちゃうから」
「あはは、そうですね」
ハイネとの会話が続かない気がする。反応して、そのあとどう会話したらいいのだろうか。彼女もいつもと違うと思っているのか。どこか寂しそうに会話を終えると、つらそうに窓の外を見ているマティルダを心配そうに声をかけた。
そんな二人をじっと見ていたハイチは片眉を上げると、自身の連絡通信端末機を手にして弄り始める。
◆
「おお、この町もあんまり変わっていないな!」
「本当だね。少しばかり知らないお店が増えている感じかな?」
町へ着いてガズトロキルスとハイネは懐かしく感じていた。飲食街――商業が発展しているが、飲食店が軒並み並ぶ町としてでも有名である。また、表通りには若者向けのお店が並んだりしていた。
「ふうん、まあまあなところね」
いつの間にか乗り物酔いから復活していたマティルダは腕を組み、町中を眺める。
「マティはもう大丈夫なのか?」
「ふふっ、ガズ様。私は乗り物酔いごときでやられる女ではなくてよ!」
自信満々に言ってはいるものの、あとから降りてきたアイリに「袋片手に死にかけてたじゃん」とツッコミを入れられる。ここで、反応をしてしまったマティルダ。彼女たちは火花を散らしつつも互いに相手を睨んでいた。
「入り口で争うなよ。俺も他の人たちも出られないだろ」
アイリのあとから降りようとするキリであるが、二人が邪魔をしていて降りられず。更には後続で降車する客たちも呆れ返っていた。
「そんなの、関係ないわ! 私はこの庶民を蹴落とさなければ気が済まないんだから! もちろんあなただってそうでしょう!」
「いや、デベッガ君の言う通りだから。普通に退こうよ」
自分を巻き込まないでよ。アイリはその場から引いた。彼女に言われたことと、降りるのを待っている者たちの視線に耐えきれず、マティルダもその場を退いた。
降車客の向こう側からアイリは鼻で笑い出す。
「ぷぷっ、常識ないんじゃないの?」
にやにや顔にマティルダはわなわなと震え出す。拳を強く握る。今にも飛びかかろうとしていた。あとから降りてきたキリはアイリに「あんまりからかうなよな」と咎めた。それが逆にマティルダの怒りの火に油を注ぐ形となってしまう。
「なんですの!? あなたは私をばかにしているの!?」
「ちょっ、マティ!?」
今度はキリに掴みかかろうとするが、それはメアリーに止められた。彼に至っては先ほどの一言で逆上するとは思ってもいなかったようで、あたふたとする。それらを逃げるように、遠目から傍観しているのはハイチとセロ。そして、昔話で気付いていないガズトロキルスとハイネである。
「南通りの方にケーキ屋があったよね。大きいところ」
「種類が多かったっスよね。みんな、早く行こう――」
行けるはずがない。三人がけんかをしているのだから。
「あらら。何がどうしたの? ちょっと、三人とも――」
ハイネは仲裁に入ろうと、彼らの中へと入って行く。これには怒り騒いでいたマティルダもほんの少しばかり大人しくなる。
「けんかはダメよ。ケーキが美味しくなくなっちゃうよ」
「元より、美味しくなくなるわ! こんなばかたちのせいで!」
「ばかって言う方がばかなんですぅ」
アイリは喧騒を止める気がないのか、さらに口答えをする。少しばかり落ち着いたはずのマティルダがその一言に地団太を踏み出した。
「小さい子どもみたい」
まさかのハイチを巻き込む気でもあるのか、彼の方を一瞥した。だが、今回は小さな反応も見せずに連絡通信端末機を弄る。
「ちょっと、アイリちゃん!」
反応なしのハイチがつまらないのか、アイリは少しばかり不機嫌そうな顔を見せていた。
「あのさ、俺、変なこと言ったみたいでごめん」
このままでは埒が明かない、と判断したキリはマティルダに謝礼の一言を詫びた。そして、アイリにも謝るように促す。
「ほら、ハルマチも」
「えぇ」
「いや、原因はハルマチの煽りだから」
キリにそう促され、渋々ながらもマティルダに「ごめんなさぁい」と反省ゼロの謝罪をした。
「はい、これでいいでしょ」
「雑だな、おい」
その謝罪にマティルダは許す、とは言わない。
「きちんとした謝り方があるんではなくて?」
今度はマティルダが少しばかり調子付き始めてくる。なるべく、自分を高貴な人間に見せるようにと背筋を伸ばしつつ、二人を見下すような目で見てくる。
「それとも、きちんとした謝罪の礼儀作法を存じ上げないのかしら? 特にあなた」
もちろん指されているのはアイリ。キリに関しては特に気にはしていないらしい。それに対し、彼女は明らかな不機嫌な表情を向けていた。これには誰もが頭を抱え出す。
「もぉ、マティ」
メアリーも半ば呆れ気味になっている。彼女から読み取れるのは「大人になれ」と言っているようである。しかし、マティルダは譲らない。
「メアリー様、いいですか。礼儀のなっていない不躾な者たちとの接触はダメですわ!」
「それはいくらなんでもひどいよ」
「いいえ、ひどくありません。あなたは王国民の頂点に立つのですから」
「いや、もうどうでもいいだろ」
ここでガズトロキルスが割ってきた。彼は若干キレ気味の様子でその場にいる五人を見ている。その表情を一目見て、キリは冷や汗を掻いた。あ、これはどちらかが折れないとダメである、と。
「ハルマチ、ここはボールドウィンの言うことは気にしたらダメだ。さっきの俺みたいにして謝れ。な?」
厄介事が起きる前に、と耳打ちをするが――そのようなことを守ろうとするのはアイリのポリシーではないし、悪いところでもある。
「嫌」
即答。だが、キリはそこで食い下がろうとはしなかった。
「いいから」
「だから、やぁよう」
眉根を寄せ、じろりとマティルダを見る。何か言いそうだ。それを止めようとするが、アイリが肘で押し退けた。
「なんでもかんでも貴族である自分が常識だと思っていたら、大間違いよ。いい? 常識は一般世間で知られていることが正しい。すなわち、庶民の言うことすべてが正しい!」
「正しい? あなたみたいな人間が?」
マティルダはおかしい話だと言わんばかりに、鼻で笑い出す。
彼女たちはガズトロキルスの妥協案を無視して、言い争い合いを始め出す。喚く二人をよそに脇腹に肘を食らったキリが悶絶していると、心配の顔を覗かせるメアリーとハイネ。
「大丈夫?」
「お、俺はいいんですけど、ガズが……」
二人がガズトロキルスを見た。彼は眉間にしわを寄せ、こめかみに青筋を立てて、喧騒する彼女たちを見ているだけ。その異様な雰囲気にハイネは大騒ぎが怒る前に傍観しているハイチとセロを呼び出した。
「なんだよ、早く終わらせろ」
ハイチたちは自分が関わりたくないのか、連絡通信端末機で弄るのを止めない。
「いや、早く終わらせたいなら手伝ってよ!?」
「お願いです。ヴェフェハルさん! マティたちを、オブリクス君を止めてください!」
だが、メアリーのお願いとあらば、セロは動き出す。
「落ち着け、二人と――!?」
即座に二人の仲裁に入ろうとしたセロだったが、ガズトロキルスの異様な雰囲気に圧されて言葉が詰まる。彼はすぐに戻ってきた。
「ヴェフェハルさん?」
「俺は無理。誰か、あの二人を止めてきてくれ。オブリクスがめちゃくちゃ怖い」
「そ、そうなんです」
ようやく脇腹の痛みが治まったキリが語る。
「実は、あいつは食べることに関してはとてもシビアでして。今回みたいにすぐに目当ての物が食べられないと、横から黙って威圧感丸出しの顔を見せるんです。って、あの二人、気付いていないのがすごいんだけど」
「あの二人の中に入ると、めちゃくちゃわかるぞ。ということで、ハイチ行ってこい」
セロが何も動かないハイチに促した。
「やだよ、面倒くさい」
明かな嫌悪感丸出しの表情を周りに見せつけるハイチにハイネは頬を膨らまかせた。
「早く終わらせたいんでしょ!?」
「俺、関わりたくないもん」
「つーか、お前がこの中で年長者だろうが。年上の威厳を見せてこいよ」
そう言うセロは彼を押しつける形で赴かせようとするが、ハイチは鼻白む。
「お前に言われても説得力ねぇから」
「ねえ、デベッガ君。こういうとき、どうしたらいいの?」
メアリーはキリと三人を交互に見て、最善策を訊いてみるも首を横に振られてしまう。
「悪いが、あの二人が威圧感に気付くまではガズに声をかけても聞く耳は持たないんだ。二人が口論を止めれば、あの顔を止めてくれるはずなんだけど」
二人を止めることならば、この中の誰でもできること。だが、その中に首席であるセロでさえも怖けつくオーラをビシビシと放つガズトロキルスがいるせいで手出しができなかった。
――それ以前に、あの二人はなんで気付かない?
その思いは五人の心の中で息ぴったりに合ってしまう。
「逆にあの二人の神経が怖いわ」
ハイネの呟きが、四人の本音に同意していた。本当にこのままどうするのだろうか。なんて考えていると、偶然にも「あれ?」と声をかけられた。そこにはヴィン。そして、半歩後ろにはケイもいた。
彼らを見て、キリは歯車のアクセサリーは首に提げていないか、首元を確認した。二日前の夜のこともあって、彼は人の前で迂闊にアクセサリーをしているように見せないことを決めたのだ。幸いのところ、自分の強い願いが通じたとでも言うのか。ヴィンからは歯車のことで何も言ってこないようだった。それにキリは安堵する。
「ヴィン。それにシルヴェスターも」
「ボールドウィンさんから連絡をもらっていたからね。姫様が町に遊びに行くって――ととっ! 姫様、お初にお目にかかります。私はヴィン・ザイツです。三銃士軍団の下っ端ですが、以後お見知りおきを」
そう自己紹介をされたメアリーは困惑した。二日前の夜に会ったはずなのに? 確かキリたちとも会っていたはずだ。あれは夢? いや、違う。現実だ。
どう反応していいのかわからないメアリーにケイがヴィンの服の裾を引っ張った。
「突然過ぎだ。困られているだろう。姫様、申し訳ございませんでした」
「おっと、失敬、失敬。ややっ! そちらにいらっしゃるのは首席と次席の方々ではないですか。サインと写真をください!」
「いいぞ」
先ほどまで周りに微塵も興味がなかったハイチは自身にとって最高のキメ顔を作り、写真の被写体となる。それはセロも同様であった。そんなことするんだったら、早くあの三人をどうにかしろと思う。
レアな写真が撮れて満足そうなヴィンは話題を変えるようにキリの方を見た。
「で、こんなところで何してるの?」
「ああ、ちょうどいいや。二人とも、あれを止めることができる?」
キリは彼らに先ほどと何も変わりない様子の三人を指差した。
「けんか?」
「そう。基本無神経のヴィンなら止めることができるだろ」
「はっはっはっ。何を当たり前のように言っているのやら。私のハートはガラスなのだよ」
「防弾ガラスの、だろ?」
「もちろんグリーングループのね」
「なら、安心安定の会社だ。早く行け」
ヴィンはカメラを手にして険悪モードな三人のもとへと近付いた。それを遠目で見ていたケイは「扱いが上手いな」と珍しくキリを褒める。
「あいつの腕は一流なんだが、職人気色でもあるのか、なかなか中身を掴めないんだ」
ヴィンは二人に声をかけようとする。
「慣れればわかるさ。でも、ヴィンの呼び出しには気をつけろよ」
「なんでだ?」
「……呼び出される度に落とし穴にかけられるから」
その言葉にケイは鼻で一笑した。どうやら自分は引っかけからないとでも言いたいらしい。
「学習しろ、戦力外」
「いや、俺もお前も学習したって無駄だ。あいつのヴァリエーションを舐めんな。無限大だぞ」
そう言いきったとき、三人を止めに行ったはずのヴィンは急ぎ足で戻ってきた。彼の顔は真っ青である。戻ってきて早々キリにドロップキックをかまそうとするが、避けられた。それはケイの顔面に当たってしまう。
「貴様、図ったな!?」
ヴィンはケイを下敷きにしてそう怒鳴った。とても剣幕感のある表情にキリはたじろぐ。
「なんなの、彼は!? 怖いわ!」
「無神経のヴィンでもダメだったか」
「おい、俺のことは無視か?」
下敷きにされたケイはこめかみに青筋を立てて、キリとヴィンを睨んでいた。慌ててヴィンは足を退け、彼を起こした。シャツの後ろに足跡がついているのはメアリーとハイネの二人だけの秘密である。
「ていうかさ、彼はずっとあの状況なの? 声をかけて顔を見たとき、本当に逃げ出してしまったんだけど」
「ガズは二人の争いが終わるまでああだよ」
「ふん、俺にはどうってことのない話だな」
そう言うケイは彼らを止める気があるようで、三人の方へと歩み寄ろうとした。
「状況は大体把握した。姫様、必ずや三銃士軍団であるシルヴェスターが止めてみせましょう!」
なんて向かうケイの背中の秘密は彼女たち以外の全員に知られてしまったが、彼はそのことを知らない。
「あの坊ちゃん、大丈夫なのか?」
「どうでしょうか? 同じ教室のシルヴェスターでもあのガズは知らないでしょ」
どうやらキリの予想は大当たり。三人に声をかけたとき、ダッシュでこちらへと戻ってきた。
「オブリクスって、ああだったっけ?」
「食べ物関連なら、ああだよ。そういった関連で揉めたことがなかったからな」
さて、ここで行き詰まってしまった彼らに一人が新たな提案を考え出す人物がいた。それはハイネである。
「いいことを思いついた」
「いいこと、ですか?」
果たして、彼女は何を思いついたのだろうか。一同はハイネに注目した。
「ガズ君は食べ物関係でああいう状態なんだよね? だったら、ここで食べ物を用意しちゃおう!」
「それはいい考えですけど、引っかかるか、あいつは」
「いや、食べ物の恨みなんでしょ? においでなんとかなるはず!」
と、一同が店やら屋台やらで買って集めてきた食べ物を仰ぎ、ガズトロキルスが気付くようにした。だが、逆ににおいに涎があふれ出てくる。ずっと、ここにいるからお腹が空いてきて仕方がないのだ。
「腹減ったなぁ」
セロの呟きには全員が同意。だが、ここは我慢である。ガズトロキルスがこちらにやって――来た! 食べ物のにおいにつられられて来たのである。
かと、思われたが――。
「みんな、何してんの?」
表情が変わっていないせいで、怒られている気分である。声音だけは普段と変わりないのに。
「い、要る?」
恐る恐る、ガズトロキルスに屋台で買ってきた串焼きを差し出した。彼は「ありがとう」と声だけは嬉しそうに受け取ると、食べながら平行線上で喧騒している彼女たちを見ていた。まだケーキの恨みは大きい。
「これ、成功じゃないよな?」
近くの店で買ってきた物の袋を手にしたケイはそっと耳打ちをする。
「う、うーん。じゃない、と思う……」
「シルヴェスター」
ケイはガズトロキルスに声をかけられ、肩を強張らせた。彼のそんな様子を見るのは初めてであり、新鮮でほんの少しだけいい気味だとキリは思った。しかしながら、自分も同じ状況なのでそのような感想はすぐに捨てることにする。
「なっ、なんだ?」
「それ、食べないならくれ」
「あ、ああ」
ガズトロキルスは袋を受け取ると、中身の物をぺろりと大口で食べ終えてしまう。これにはみんなびっくりする以外どうしろと。次々と食べ物を持つ者に声をかけては一人で早々と食べきってしまう。まるで、バキュームがごとし。掃除機人間と、たとえることだって可能だ。だとしても、そんな冗談言っていると、あの怖い視線がこちらへ切り替えられてしまう。それだけは勘弁だ。だからこそ、みんなして何も言えないのだった。
やがて、すべてを食べ終えたガズトロキルスは元の位置へと戻り、争い合うアイリとマティルダをじっと見つめるのを再開するのだ。
「あれで満足しねぇのかよっ!!」
一息遅れてハイチが今日一番の大声を出した。
「表情一つ変えずに食うだけ食って、まだ怒っているって、どういうこと!?」
相当苛立っているのか、ハイチはキリに問い詰めた。これには彼も困惑するしかない。
「いや、俺、ガズの生態にそこまで詳しくありませんから! ていうか、ヴェフェハルさんがケーキを買ってきていたみたいですけど!?」
「そうだな。俺は本来行くはずだったケーキ屋で試しに買ってきたんだがなぁ」
「効かなかったのね」
「腹立つな。こっちは腹減ってるのに。いや、あいつらどんだけするつもりなのよ。全くと言っていいほど互いに一歩も引く気配すらねぇぞ」
どうもハイチはケーキ屋に早く行きたい上、お腹が空いているのか、その場にしゃがみ込むと項垂れた。
「ああっ!」
何かを思いついたハイネ。声を上げると、その場にいる一同にここで待つように指示をかけた。彼女は一人町中へと行ってしまう。
「また別の飯でも買ってくるってか? どうせ無駄だろうよ」
ハイネの後ろ姿にハイチはそう吐き捨てた。だが、何とかするにあたって、彼女が思いついた案にすがるしかないのだ。この状況を打破するためには。
◆
数十分後。相も変わらずの状況で町を行き交う人々に好奇の目で見られ、周りを固められてしまった頃にようやくハイネが戻った。彼女は息を切らして「待たせてごめん」とひとつ大きな息を吐く。
「何しに行っていたんだ?」
しゃがみ込んでいたハイチはゆっくりと立ち上がった。ハイネの手には何もない。何かしらごはんを買ってきたのかと思われたのだが、そのような物は一つたりともなかったのだ。
「ガズ君は行く予定のケーキ屋の物を食べても動じなかった。それならば、昔出禁になった食堂に招待するのはどうかなって思って、お店の人に無理を言って頼んだの」
「それはいいアイディアなんですか?」
ケイは不安そうにハイネを見た。
「大丈夫よ。多分、これで収まるはず」
「じゃあ、オブリクス君を呼ばなきゃ」
そう言うメアリーは人だかりに囲まれた三人の方を指差した。すべての原因である彼女たちを見る気が起きなかったが、二人とも喧騒よりも別のことをしている気がする。いや、気のせいではない様子。
「何してんだ、あれ」
「おお、ハルマチさんリズム感あるね」
彼女たちはダンス対決をしていた。それを見てヴィンが写真を撮りに行こうとするが、キリに止められる。
「ああーん。何をするのさ」
「余計なことすんな。もし、その行動がガズに見られて、あの顔でずっと見られたいか?」
「彼には誰が呼びに行く?」
キリの脅しとまではいかないが、ヴィンはすぐさま別の話題へと変えようとする。
「ああ、それなら私が行くけど、キリ君。一緒にいいかな?」
ハイネが自ら立候補する。一緒にと言われ、少しばかり戸惑いを隠せなかった。一緒に行く理由はわからなくもない。ガズトロキルスの生態を誰よりも知っている友人であるからということだろう。だが、ハイネという人物をよく知らない。だからこそ、戸惑いが隠せないのだ。しかし、そのようなことを口には出したくない。その場全員が彼女と親しい仲だと思われているから。
「は、はい」
キリは承諾するしかなかった。
◆
二人揃って、野次馬を分けてガズトロキルスのもとへとやって来る。キリは声をかけにくかったが、この状況をなんとかするためにも勇気を出した。
「が、ガズ!」
返事をしてくれない。彼らは顔を見合わせる。ハイネは頷く。
「うん、次は私が言ってみる」
ハイネはガズトロキルスの横へと並び、声をかけた。
「ねえ、ガズ君。フレッチってお店、覚えているよね?」
その質問に彼は機械のように首を動かしてこちらを見てきた。表情は眉一つ変わらぬしかめっ面。彼女から流れる冷や汗は尋常ではなかった。こんな体験をしたのは初めてである。マックスがする地獄のような朝の訓練よりも。過酷な任務よりも嫌な汗がだらだらと流れるだなんて。
「もうさ、お昼だし。そこでご飯を食べないか?」
続け様にキリも割って入る。彼らはにこにこと笑顔を作る。少しでも場の雰囲気をよくしようとして。
「……俺、そこ出禁です」
食べ物をもらいに来たときよりも、声のトーンは低かった。体の向きがこちらへと向けられてきている気がする。ああ、今度の標的は自分たちなのか!?
「で、でもね! お店の人にお願いしたの! 店長!」
ハイネは人ごみの中の方へと叫び出すと、そこから小柄な中年男性――『フレッチ』の店長が現れる。にこにこと彼ら同様に笑顔であるが、若干表情が引きつっていた。
「ね、店長。ガズ君の出禁を取り払ってくれるよね?」
「もちろんハイネちゃんのお願いとあらば、いいよ。ただね、ガズ君。前みたいな食べ方はダメだよ?」
店長のその言葉にガズトロキルスの眉間のしわは徐々に取れ始めていく。段々と表情が柔らかくなっていく彼を見て二人は安堵した。
「いいんですか?」
「うん、いいよ」
その許可により、ガズトロキルスの眉間のしわは完全に取れる。いつもの穏やかな表情を見せてくれた。あまりの感激に浮足立っているという表現が正しい感じがする。何がともあれあの怖い顔を止めてくれたことには安心だ。
と、安心するのは少しばかり早いようで、騒いでいるアイリとマティルダの方を見て、少しばかり眉根を寄せ始めた。
「でも、二人が……」
「それならっ!」
ハイネの合図と共にハイチとケイがそれぞれ彼女たちの頭を叩き、そのときの衝撃の顔をヴィンがすかさず撮影した。
「面白いもの、いただきました! ごちそうさま!」
「はあ!?」
「待ちなさいよ、ザイツさん! 面白いものって、まさか私の顔を!?」
「それとハルマチさんのもだよ。いやぁ、本当にいいものが撮れた」
ヴィンのカメラは撮影したものがすぐに現像できるタイプの物らしく、写真がすぐに出来上がった。彼が手にする写真を見たハイチとケイは手で口を抑え、失笑し出す。
「お前、変な顔」
「マティルダ、こいつにこの写真をばらまかれなければいいな。これ、上が見たら――」
ばかにされる二人。彼女たちは顔を真っ赤にさせて標的を互いではなく、ヴィンに向けた。だが、ここでキリが二人の前に出る。
「こいつを処刑する前に、俺から話がある。もう昼だよな? みんな、二人を待っていたんだぞ」
「で? 退いて。なんか棒状の物で叩くから」
「そうよ、退きなさいよ」
キリを押し退けようとするが、彼は制する。
「待てって。ここでこの町に来たときのことを思い返せよ。みんなの迷惑になるから二人は出入り口から退いたんだろ?」
「うん、邪魔だから退いて」
「最後まで話聞けよ。これはそれと同じなんだって。ハルマチはすぐに折れて退いてくれただろ? あれはいいことだと思う。ボールドウィン、きみも折れることを覚えておいた方がいいよ。確かに、俺たちはきみよりも身分は低いし、貴族と庶民じゃ対等発言は許しがたいかもしれない。でもさ、みんなのことを考えようよ」
マティルダは口を尖らせながらキリを見て、ちらりとガズトロキルスを見た。
「なあ、みんなのことを思えば、小さな幸せが来ることもあるんだぜ?」
「小さな、幸せ」
「マティ」
ガズトロキルスは眉間にしわを寄せることのない、いつもの穏やかな彼の表情を見せていた。
「腹減ったし、昔の俺の行きつけの店を紹介するぜ」
「……ガズ様、みなさん。ごめんなさい」
本当にマティルダは折れたようで、一同に謝罪をした。自分はどれだけ悪いことをしたと理解しているようで反省している表情を見せていた。
「いいよ。早く食べに行こう!」
ガズが手を引いて、フレッチへと行こうとするが、それはキリがまだ止めた。
「まだ残っている。これしないと、昼ご飯を食べても美味しくないからな。なあ、ハルマチ」
一同がアイリへと注目する。それに彼女は眉根にしわを寄せた。
「なんで?」
「ボールドウィンに謝ろう」
「謝ったじゃん。あれ以上のことをしろと?」
「ああ。おふざけで謝っても意味がないからな」
そうキリは言うと、アイリの背中を軽く押した。あごで謝罪をするように促す。だが、彼女はなかなか謝罪の言葉を口に出すことが難しそうにまごついていた。
「ほら、ハルマチ」
「……煽ったりして、ごめん、なさい」
ようやく口に出た言葉。今まで聞く耳を持ちそうになかったマティルダも小さく何度も頷きながら「私も」と言葉を続ける。
「私もあなたに対して執拗な言い方をして申し訳ないと思っているわ。ごめんなさい」
これで二人は仲直りした、と一安心するキリにメアリーがそっと耳打ちしてきた。
「ありがとう、デベッガ君」
「え? いや、俺は何もしていないよ。『キンバーさん』がお店の人に話をつけてくれたし」
「……う、うん。でも、二人をああさせるのはよかったと思うよ。私も二人がけんかしたままは嫌だったしね」
どこか違和感があった。メアリーはその違和感について考えようとするが、ハイネに呼びかけられる。
「メアリーちゃん、みんな行っているよ」
「あっ、待ってください」
一緒に向かう二人であったが、ハイネの表情がどこか暗いことにメアリーは気付いた。解決したのに、どうしてだろうか。
「ハイネさん?」
「うん? 何?」
「大丈夫ですか? 何か、考え事でも?」
「ううん、気にしないで。そうそう――」
先にフレッチへと向かっている者たちを除いて、ハイネはこっそりと耳打ちをしてきた。
「ガズ君の出禁話ね、ハイチが閉店まで手伝うからってことで片付いたんだよ」
「ええ!?」
その衝撃的事実にメアリーはハイチの後ろ姿を見た。
「これ、ハイチには会計まで内緒で」
「いいんですか?」
「いいの、いいの。ほとんど動かなかったのが悪いんだし」
つまりはハイネの仕返しである。
「そうですか。――あの、どうしてオブリクス君は出禁になったんですか?」
「うん? それはね、食べ過ぎが原因なのよ……」
◇
夕方になり、ディナーの時間帯が訪れた。そろそろ客が増えてくる頃だと『フレッチ』の店長がハイネに促す。
「わかりました」
笑顔で答えたそのとき、店のドアが開かれた。赤髪で同世代の少年が入店してくる。彼は少しばかりくたびれた様子である。
「いらっしゃいませ」
「どうも。席は適当でいいっスか?」
「どうぞ」
少年はカウンターの席に座り、メニュー表を眺めた。ハイネが皿の片付けをしていると、彼が声を上げる。
「この『チャンスタイム』ってなんですか?」
「ああ、それは制限時間以内の食べ放題ですよ。この時間帯でしたら構いませんよ」
「制限時間以内でいくら食べてもこの値段?」
「はい」
一人納得したように頷くと、少年は『チャンスタイム』を注文した。
「はい、チャンスタイムのご注文ですね。まずは一品目はなにに致しますか?」
「えっ、五品くらいはダメ?」
「構いませんよ?」
「じゃあ、魚のステーキと肉巻き二つに、山菜フライの盛り合わせとフルーツスープをお願いします」
「はい、少々お待ちください」
ハイネはよく食べる人なのかな? とセロのことを思い出していた。彼もまたよく食べる者であるからだ。今頃、この赤い髪の少年と同じくして退勤時間だろう。くたびれた様子でいるに違いない。
十分経った頃、少年の席に注文の五品を置いた。ちらほらと夕食を食べに来た客が増え始める。
「今から一時間、メニュー表に載っている物であるならば、無制限に食べることができます。他の物を頼むときは店員をお呼びください。一度、時間を止めますので」
「わかりました!」
すでに食べる気満々のようで、フォークとスプーンを手にして料理を見ていた。目をキラキラと輝かせていて、ますますセロと同じだなと思うハイネ。
「スタートです!」
その合図後、一品目である魚のステーキをぺろりと大口開けて完食してしまった。これにハイネは手に持っていたお盆を落としそうになる。店の奥から眺めていた店長も瞠目する。その口は掃除機のごとく、すべての食べ物を吸い込んでいく。最初に注文した五品は三分も経たずして完食してしまった。
「すいません、一気に十品お願いしてもいいですか?」
「は、はい……」
ハイネは店長を見た。明らかに表情を引きつっている。心配そうに業務用の冷蔵庫の中身を確認していた。
◆
少年がチャンスタイムを注文し出してから三十分が経った頃、ハイネは流し台の前に立って皿洗いをしていた。枚数からして百枚は近い。この皿全ては彼が完食した物なのである。
「嘘でしょ」
洗っても洗っても追加される皿の数々。水と洗剤ばかり触れているハイネの手はふやけ始めてきていた。店長に至っては止まらない注文に追われて焦っていた。何も注文をしているのは少年だけではない。普通にディナーを食べに来た客や大食いがいると見物ついでに注文する客もいて厨房はてんわやんわ状態であるのだ。
「……は、ハイネちゃん! 皿洗いはあとでいいから、調理を手伝って!」
普段は料理の配膳や片付けてのみをしていたハイネだったが、店長のギブアップにより調理をすることになる。元々は料理好きで得意ということもあったため、てきぱきとした対応をしていた。応援の店員が来るまでは店内には二人のみである。
「すいません! 追加!」
まだまだ勢いは止まらない。少年の周りに積み重なった皿の山も片付けなければならないし、他の客の注文も承らなければならない。手が足りない状況の中、注文の嵐に嫌気が差したのか、とうとう店長は彼の方へと赴いて謝罪を詫びる。
「……申し訳ありません、お客様。確かに無制限の品が食べれると言いました。ですが、経営状況の都合により、オーダーをストップさせていただきます」
「そうなの? もしかして、在庫が足りないとか?」
「左様です」
本当はまだ六十食分ほどの材料は残っているが、調理や皿洗い等の片付けの手が足りないのが現状である。そして、なんと言ってもこのままやり続ければ、今日の店の売り上げは赤字確定なのである。だがしかし、そのことを口にはできずに、つい嘘を言ってしまった。これにはハイネも同意せざるを得ない。
「それは残念だなぁ」
と、本当に残念そうな表情を見せる少年の顔を見て、ハイネや店長は心が痛んだ気がした。彼は席を立ち上がり、チャンスタイム分の金額を払った。
「物足りないし、隣の店に行こうっと」
会計時の言葉に周りは仰天の眼差しを向けるしかなかった。
◆
翌日、少しばかり早い時間帯にあの赤い髪の少年がやって来た。彼は昨日同様にチャンスタイムを注文するが、その前に店長が割り込んできて「申し訳ありません」と詫びる。
「今日のチャンスタイムは終了致しまして――」
嘘である。今日までもこれを注文して、店側が赤字になるのは洒落にならない。だが、少年は「じゃあ、別のを」と他のメニューを頼み出す。
「とりあえず、このフィッシュフライセット二つにサイドメニューを全部」
注文を受ける店長は手に持っていたペンを圧し折りそうになる。だが相手は客である。いかなる客であろうが、全すべての客と同様に接しなければならない。それはこの店の方針でもあった。
「か、かしこまりました」
急いで厨房に入ると、ハイネともう一人いた店員を呼びかけて、調理を手伝わせる。もちろん、運ばれてきた料理は少年の胃袋の中へと吸い込まれるように入っていく。
今日はゴールがある。終わりのないゴールよりかはマシだと最後の品を調理していた最中――。
「すんません、この海鮮焼きセットを三つお願いします」
ハイネが注文を承ってしまった。いや、彼女が悪いわけではないが、最悪だ。
「て、店長、申し訳ありません。注文を承りました」
「ハイネちゃんが謝ることはないよ」
ふらふらと最後の品になるはずだった皿を手にして店長は少年に頭を下げた。
「申し訳ありません、お客様! 今日も在庫がなくて、これで最後になります」
「あらら、本当? それは残念。ここの美味しいんだけどなぁ」
そう言ってもらえるのは嬉しい限りなのだが、今の店主にとってその言葉は恐怖以外の何でもなかった。
少年は最後の品を一口で平らげると、会計をして店を出て行った。しかしながら、彼の懐金銭事情は何も問題はないのだろうかとハイネは思う。彼が出た瞬間に店長は一枚の紙を手渡す。そこには少年の顔写真と、『この者、出禁』と書かれていた。
「それ、表に張っておいて……」
なんて言う店長は疲れきった表情で他の客へと接客をするのだった。
◆
更に翌日、店の前で掃除をしていたハイネのもとへとあの赤い髪の少年があいさつしてきた。
「こんちは」
「ああ、昨日の。こんにちは」
ハイネもあいさつをする。ここで、少年は店の扉に張り出されている紙に気付いた。それを眺める彼に彼女はこの場の居心地が悪くならないことを祈るのみだ。
「あ、あの、お客さん。申し訳ありません。店長が経営的状況の都合が悪いらしくて……」
「うーん、俺、食い過ぎだったかな?」
「そう、いうわけでは……。は、はい。そうです」
嘘がつけないハイネは頭を下げるばかりである。だが、少年は頭を上げるように彼女に促した。気にしていないらしい。
「謝ることないっスよ。こればかりは仕方ないっスもんね」
「は、はい」
「俺、ガズって言って、あっちの方の工場に出稼ぎで来たんだけど、見た感じ同年代ですよね。出稼ぎ?」
「は、はい。私はハイネって言います。えっといくつ、ですか?」
「十四。そっちは?」
「あっ、年、そんなに変わんなかったね。私は十五だよ」
「本当だ」
にかっと笑うガズと名乗った少年――ガズトロキルスに連れられてハイネも歯を見せて笑うのだった。
◇
「っていうことがあってね」
「それじゃあ、今日のそのお店さんは大丈夫なんですか?」
メアリーは心配そうだ。あんな過去があって、更に大勢でその店に自分たちは食べに行くのだ。
「今はまだランチタイムだし、ディナーみたいに食べないでしょ」
なんて呑気にハイネは笑っていたのだが――。
フレッチへと遅れてきた二人が見た光景はとんでもなかった。まず、一番ど真ん中のカウンターに座るガズトロキルスはすでに山積みになった皿に囲まれており、マティルダが彼の食べっぷりを褒め称えている。それらを他の六人は他人のふりをしながら各自昼食を取っていた。
「ハイネちゃん」
厨房内で『フレッチ』の店長は苦笑いする。
「おじさん、これ美味いね! もう二皿ちょうだい!」
ガズトロキルスが頼んでいるのは『チャンスタイム』。食べっぷりはあのときのディナータイムと全く劣りない。
「……これじゃあ、交換条件だけじゃ厳しいかなぁ? いける?」
ハイネの独り言を聞き逃さなかったハイチは眉を僅かに動かした。
「おい、聞き捨てならないような台詞が聞こえたんだが?」
「気にしないで。さあ、メアリーちゃん、食べよう」
ハイネたちはマティルダの隣の席へと座る。彼女はなにも食べず、ガズトロキルスが食べているところばかりを見ていた。それにメアリーは「食べないの?」と訊く。
「私は一向に構いませんわ! 一時も多く、ガズ様を見ていたいもの!」
要はその食べる姿を見るだけでお腹いっぱいらしい。それに関してはキリも同様で、軽食物しか頼んでいなかった。
「ていうか、デベッガ君はガズ君と比べると逆だね」
アイリがキリにスプーンを向ける。キリはそれを止めるように促す。行儀が悪いと顔をしかめた。
「元々、体力切れのときにそこまで食べられないし」
「だから言っているじゃねぇか。キリは体力作り云々を言う前に食え!」
ガズトロキルスは口の中に物を入れたまま、そうシャウトする。周りに飛び散りそう。いや、もう飛び散っていた。汚いな。
その意見にはマティルダも同調する。
「そうですわ。デベッガさん、あなたはガズ様と一緒にいるくらいならば、ガズ様同様の量を食べなさい!」
「いや、無理だって」
「どうしてですの!? いいから食べなさい!」
「ボールドウィン、無茶言わないでお店の人を見ろよ。こいつの食べっぷりに引いているから」
それでもガズトロキルスとマティルダの二人は食べることが正義だと言わんばかりに、キリへと料理を押しつけてくる。すぐに彼の目の前には大量の料理の山ができた。
「これ、食えってか」
絶対に無理だと口を押える。
それに見かねたようだ。アイリが「ちょうだい」と言ってきた。
「全部食べられないでしょ。半分くらいなら食べられるから」
「えっ」
アイリがその料理に手をつけようとするが、マティルダがそれを止めた。
「なんなの?」
「デベッガさんが体力をつけるためにあなたは手出しをしないでくれます?」
「いや、体力をつける云々より腹の中身を出すが先でしょ。それに食べることばかりが大切でもないんだし」
そう彼女が言いきると、ガズトロキルスが何かを言う前にマティルダが反論をしてきた。
「あなた、ガズ様を侮辱するつもり!?」
「はぁ? そんなわけないし、被害妄想もほどほどにしなよ」
「なんですって!?」
またしても始まった彼女たちのいがみ合い。間に挟まれたキリはどうすることもなく、ただ単におろおろとするばかり。ガズトロキルスは二人を止めようとする意思すらもなく、どうでもいいや精神でひたすら食事を続ける。
「だ、誰か……」
キリが助けを求めようと、他の者たちへと顔を向けるが――助ける者や仲裁をしようとする者は誰一人といない。いつの間にか食べ終えていて、会計を済ませようとしていた。
「嘘!?」
「ご馳走様でした」
しかし、食べ終えて店を出ようとしたハイチのもとへと店長がやって来て「ハイネちゃんから聞いているよ」と言ってくるではないか。どういうことなのか。
状況を理解できないハイチはハイネを見るが、彼女はすでに会計をし終えて店の外へと出て行ってしまっていた。
「え?」
「ガズ君の後始末として、店の手伝いをしてくれるんでしょ?」
ここで、ようやくハイネが呟いていたことを理解する。
「ハイネぇ!!」
怒鳴るハイチであるが、その怒声がハイネには届かない。結局、閉店まで手伝いに借り出された。また、言い争うアイリとマティルダに板挟みのキリの三人も彼同様に閉店までいた。というか、なんとかハイチに助けてもらったが、店の手伝いをする条件を課せられてしまったのであった。いや、あの二人の間から抜け出せるならば、お安いご用である。
「あいつ、マジで冗談じゃねぇぞ」
「それよりも、二人をどうにかしません? 周りが見ているんですが」
「他人のふりをしろ。知り合いだと思われたらオシマイだ。こいつらの記憶を一旦消せ」
「二人には悪いですけど、そうします」
学校の寮へと戻る頃には、キリとハイチは彼女たちの言い争いのおかげでかなり消衰しきっていたという。




