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02

 彼女は暗闇の中から意識が浮上するのを感じた。


「けほっ、かはっ」


 喉に違和感を感じ、二度、三度と繰り返し咳をすると、それに伴って目が覚めてくる。

 口内に付着していた薬草の破片や血が咳とともに吐き出され、酷く喉が痛むのを感じたが、断続的に続くそれ(・・)はいつもの事なので意識の底に留め置く。

 あたりの空気を嗅ぎ分けると、水の匂いとカビの匂い、それとかすかに獣の匂いが鼻腔をくすぐった。


 獣の匂いは遠く、追ってくるはずの奴等の気配は感じることはない。

 害するモノが居ないことに安堵した彼女は、重いまぶたをゆっくりと開き、周囲の状況をゆっくりと把握する。


 眼前に広がるのは石で作られた床と壁の建造物。見上げると石は天井まで続き、どこまで広がっているか把握することもできない。広間の中央には水を吐く石の塊が鎮座しており、その足元には大きな水たまりが広がっている。

 周りには人の姿も獣の姿もなく、獣の匂いも遠く離れていることから改めて逃げ延びることができたと安堵する。


 ――生き延びることができた。


 それだけが彼女の意識を占める全てだった。

 だが安堵したことで気が緩み、飢えと乾きが彼女を襲う。気が狂いそうになるほどの狂気に耐えながらも彼女は記憶を手繰りよせ、現在の状況を考察する。


 いや、考察するまでもなく、おそらく逃げ込んだ洞窟で開いた穴がここに続いていた。というだけだろう。


 それよりも飢えが、渇きが彼女の精神を蝕み始める。魔獣となって今まで、飢えと共に生きていたはずなのに、この飢えは酷く乾き、かつてないほどの狂気が思考を鈍らせる。


 ――考えるようになったからか? いや、そもそも考えるとは何だ? 


 あの声が聞こえて以降、彼女は自分が自分でない何かに感じられるようになった。


 ――そんなことはどうでもいい。今は何よりも飢えを凌ぎたい。いや、渇きだ、渇きさえ無ければ飢えは耐えられる。……そうだ、水だ……。水さえあれば渇きは抑えられる。


 目の前に広がる水場へ視線を投げかけ、その水を飲もうと考えるが、同時に体の中の何かが悲鳴を上げた。

 "あの水に近づくな"と全力で訴えかけてきたのだ。


 だが、堪え難い程の渇きは喉を潤す何かを欲し、訴えかける何かよりも精神を蝕んでゆく。

 少なくとも目の前に広がる水からは、腐った匂いも、毒物の気配も、敵の気配だって感じとることはない。ならば安全。そう、安全のはずなのだ。


 彼女はそう結論付けたというのに、体は自然と水を怯えるかように後ずさろうとする。

 ずっと後ろには通路が伸びており、その奥からかすかにかおる獣の匂いに体はそちらを目指せ、奥の獣を貪れと訴えかけてくる。


 だが、渇きは精神を蝕み、彼女の目には目の前の水しか映らない。思考を蝕む渇きはただ、喉を潤おすことだけを求めてくる。


 湧き上がる怖れは次第に渇きに上書きされてゆき、目前に広がる水辺へ向かうことしか考えられなくなっていた。

 立ち上がるため、体に力を込めると身体中に痛みが走る。先程の戦闘でつけられた傷が血で固まっており、そこから焼け付くような痛みが身体中を巡っているのだ。だが飢えに支配された彼女は、痛む体を引きずり、力の入らない後ろ足を床に滑らせながら、ゆっくりと前足だけで水場へと近づいてゆく。


 水辺まであと一歩の距離まで近づくと、渇きに上書きされたはずの耐え難い怖れが体を襲った。

 渇きと怖れ、二つの感情がせめぎ合おうとするが、一度上書きされた怖れが渇きに勝てるはずもない。

 逃げようとする体を水を求める欲望で抑えつけ、舌で少量の水をすくい取る。ぴちゃぴちゃと音を鳴らしつつ、渇きを抑えるために水を摂取すると……。


 ……!?


 水分が体に浸透する度、何かが身体中を駆け巡るのを感じた。

 水分……、いや、それとは違う何かが体の中を縦横無尽に駆け巡ると、それは痛みと苦しみをもたらし始めた。


「ぐる……、がっ……」


 あまりの苦しみにうめき声が漏れるが、それで痛みや苦しみがやわらぐ事はけしてない。

 飢えと同様にたくさんの情報が入り込んできた(魔獣化)の時同様、いや、比べ物にならないほど酷く、体が末端から崩壊するかのような痛みがじわじわと広がってゆく。

 だが……、不思議な事にあの時のような死の恐怖だけは沸いてこなかった。


 どれだけの苦しみが続いただろうか? いつしか痛みと苦しみは不思議な高揚感へと変わってゆき、体全体を覆っていった。

 熱を持ったように体が熱くなる。不快な気持ちなど最初から無かったかのように爽快な気分だ。それどころか力すら湧いて来る。

 常に続いていた飢餓感が無くなっていることに気づき、空腹は残るが飢えのそれでは無いことに気づき、水に対する忌諱感すら消えた今、目の前の水に何の感情を抱く事もない。

 いや、それどころか更に欲する気持ちさえ湧いてくる。


 彼女の変化は内面だけではない。体中についていた傷すらも無くなったのだ。

 飛び込むように水の中へ体をつけると、毛に付着した血の塊や汚れなどが綺麗に落ち、あの時(幸せだった時)のように美しい毛並みが戻ってきた。


 体に力が満ちてくる。今までは膜を一枚隔てていたように思える思考が完全にクリアになり、持っていた情報が知識へと変わった。

 理由など分からない。だが、全てはこの水が与えてくれた恩恵と理解できる。

 この場所に関する知識は無かったが、ここは何よりも必要な場所、彼女にはそう思えてならなかった。


 思考を巡らせる。


 ――先ほどまでのように自問自答する必要などもうない。何故できるかなど考える必要もない。出来るからそうする。ただそれだけの事に今まで何をこだわっていたのだろう。


 そして自分に起こった変化について考える。


 ――自分は今まで猫と言う愛玩動物だった。それが狂気へと感染し、魔獣である戦闘猫(アタックキャット)と人が呼ぶ存在へと変化した。

 そしてあの声(・・・)が頭に届き、思考する権利を得て生き延びることが出来た。

 ……あの声が何かは未だに何かわからないが、あの声は知識を求めよと言った。ならば知識を集めれば分かる日もくるのだろうか?

 そして声の言うように、生き延びるためには力が必要だ。知識だってまだまだ足りない。あの"エルフ″のように自分より強い生物など幾らでもいるのだ、次に出会った時、群れることのできない自分では抗うことすらできない。


 そして自分の変化にも気づいた。


 ――幸いにも【声】の言う通り、何かを殺せば殺す程自分の力は強くなった。同朋だったものを殺した時、まさに流れ込んでくる何かが力だったのだろう。

 いや、もはやあれを同朋とは呼ぶことはできない。……あれは獲物だ。

 だが、一匹(ひとり)で生きて行くには力が足りない。

 ならば力を求めなければ……。幸いにもこの水を飲むことで傷は癒える。

 この場所やこれからどう生きるかなど全くわからないが、今、出来るのは一匹(ひとり)でも生き延びることが出来るよう力を求める……。ただそれだけだ。


 思考を纏め、改めて体を動かすと問題なく動いた。

 改めて周囲を確認する為に鼻を鳴らすと、先程は体が弱っていたために漠然としか分からなかった匂いも鮮明に判断できた。


 ――遠くから獣の匂いがする。数は1、始めて嗅ぐ匂いなので相手が何かは分からない。


 一匹での狩りは初めてだ。と多少怖気づくものの、すぐに群れることが出来ない以上やるしかない。と結論付けると、彼女は水辺から上がり、体を震わせる。


 ――単独で行動する獣なら相応の力を持っているはず。

 それが力ある獣か、自分と同じように群れからはぐれた存在か、全ては対峙しなくてはわからない。

 それに……、獲物は襲いかかってくれとばかりに1匹でうろついているのだ。


 ――ならば。

 力を得るために狩る。可能ならば喰らおう。


 瞳に力を宿し、彼女はゆっくりと歩み始める。

 気配を消し、足音を忍ばせ、匂いを辿って広間から伸びる通路へとゆっくりと移動する。


 通路へ入った瞬間、空気の変化を感じた。

 広間では緩やかに感じていた風が強く吹き抜け、風は向かいからこちら側へ吹くように通路から広間へ向かっている。

 風が強くなったことで獲物の気配も感じやすくなった。さらに向かい風なので彼女が獲物に気づかれる心配も少ない。


 気配を隠し、ゆっくりと足音を立てないよう、慎重に慎重を重ね、匂いを辿りつつ通路を進む。


 ――見つけた。


 獲物は二足歩行する犬(コボルト)だった。彼女より二倍以上の体躯を持ち、右手には錆び付いたショートソードと左手には木製の盾を構えている。

 彼女にはまだ気づいてないようで、背を向けたまま通路の奥を警戒しながら歩いている。


 ――ちょうど良い。この先に2つの曲がり角が見える。

 角で曲がり、こちらの通路がうまく死角となった際に後ろから襲いかかろう。


 彼女はそう判断し、息を殺し、獲物がゆっくりと通路の先に向かうのを待つ。

 コボルトは警戒を怠ることなく、鼻をヒクヒクと動かしながらしきりに左右を伺う。

 勿論彼女も警戒を怠ることは許されない。常に目の前の獲物から捕捉されないように風を読み、挟撃されないよう後方の警戒を怠ることはない。


 コボルトは未だ彼女に気づいていないようで、周囲を警戒しつつもゆっくりと進んでゆく。そしてとうとう分かれ道へ差し掛かった。

 コボルトは2つの通路を何度も見比べた後、脅威がないことを悟ったか、構えていたショートソードを下へぶら下げ、盾を降ろすと警戒を解いて、彼女から死角となる方向の通路へと入って行った。


 ――今だ!

 

 目立たないよう隠れていた壁際から離れ、足に力を込め地面を駆ける。気づかれないように保っていた距離を全力で駆け抜け、獲物の曲がった角を高速で曲がる。

 そして振り返るであろう獲物の喉笛へ向けて喰らいつけば――


「ガルッ!!」


 が、そううまくは行かなかった。

 コボルトは待ち伏せをするように壁の死角で木の盾を構え、ショートソードを振りかぶって待っていたのだ。

 喉笛を噛みちぎろうと、飛び上がった体勢のままだった無防備な彼女へ向け、風を切って盾が迫ってきた。


「ッカフ」


 当てることを優先したのか、盾の面となる部分で殴られた為に壁に叩きつけられただけで済んだのは幸いだったが、体を強く打ち付けすぎたのか彼女の目の前が真っ暗になる。


「グルアッ」


 咆哮が響き渡り、彼女は飛びかけた意識を繋ぎ直す。

 コボルトはショートソードを振りかぶり、彼女の頭へ向けて振り下ろす。

 壁に打ち付けられ、動けない姿を見て終わりと思って力を込めていたのだろう。なんとか体をひねって一撃をかわすと、コボルトの体勢が目に見えて崩れた。


 ――くっ!!


 その隙に体勢を立て直し、コボルトと正面から相対するように移動する。


「グルルルルルゥ」


 コボルトは予想が外れた事で不機嫌になったのか、唸り声を上げショートソードを構え直す。

 ただし油断などはせず、盾で体を隠しショートソードを上段に構えたままダッシュで彼女へと近づく。そのままショートソードの範囲になると、胴体めがけてショートソードを振り下ろして来た。

 大振りな一撃は冷静に対処さえできれば避ける事は容易い。ショートソードを避け、隙を見て反撃しようとするが、盾が邪魔で彼女には隙を伺うことが出来なかった。

 次の斬撃をバックステップで避け、横殴りに叩きつけられたショートソードを避け、その下をくぐり抜けると目の前に盾があるので横へ飛んで逃げる。

 隙をさぐろうとするが戻ってきたショートソードでの突きに、避ける為に更なる移動を余儀なくされる。


 どのぐらい攻撃を避け続けただろうか。ふと気付く彼女達のすぐ近くに獣の匂いが二つ増え、通路の奥から近づいてくるのが分かった。

 本能が警鐘を鳴らし撤退を叫ぶ。一匹すら御しきれない彼女に、さらに二匹追加されれば間違いなく"死"が待っている。


 ――悔しいが自分ではコボルトを獲物とすることができなかった。自分の方こそ獲物とされる側だったらしい。


 そう判断すると、コボルトが上段からショートソードを振り下ろしてするのに合わせ、バックステップでかわし、二度、三度とバックステップを続けた。

 このまま走ってきた方向へと戻れば敵は居ないはず。一旦離脱するとしよう。


「グルッ」


 唐突に後ろから唸り声が聞こえ、続けて背中に熱い衝撃が走った。

 衝撃に耐えきれず、そのまま吹き飛ばされるとまたもや壁に打ち付けられる。どうやらバックステップの先――後ろの通路にもう一匹のコボルトが待ち構えていたようだ。


 背中が焼け付くほどに熱く視界が揺れる。……だが、このまま何もしなければ"死"あるのみだ。

 彼女は無理矢理にでも周囲を見渡すと、先ほどまで戦闘を行っていたコボルトと、後ろから近づいてきていたコボルト、二匹が視線を合わせ、揃ってこちらに近づいてくるのが見て取れた。


 ――嫌だ、自分はまだ生きたい。


 渇望を胸に二匹の様子を伺いつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 痛みは激しいが体はまだ動く。しかし消耗は激しい。全力で駆ける事ができる距離はおそらく短いだろう。

 逃げ出すチャンスは一度きり。


 ゆっくりと近づいてきた一匹は、先ほどと同じように上段から頭に向かっての振り降ろしを、もう一匹は腹部に向けて突きを放ってきた。

 二つの軌道を読み、彼女は避ける為に斜め上へジャンプする。

 しかしその行動は読まれていたのだろう。放たれた突きはそのまま薙ぎ払いに変化し、切り上げてきた。……が。


 ――それこそが予定通り。


 勢い良く横壁を蹴り、角度を変えて二匹の頭上を飛び越えると、そのまま水場のあった広場へ続く道へ駆け抜ける。二匹は必殺の攻撃と考えていたのだろう。体勢を崩しでもしたのか追ってくる気配を伺うこともない。

 他のコボルトが行く手を塞いでいないか、残る体力で前方のみに警戒を続け、力を振り絞るように全力で水場へと向けて駆ける。


 ――あの水さえ飲めば傷が塞がる。


 確信はないが、すがる手はそれしかない。

 敵の追撃を確認する余裕などなく、ただひたすらに水場へと向けて走り抜け、狭い通路の終わりが確認できると残った力を振り絞る。


 視界に何かの影が入ったが関係ない。

 何があっても大丈夫なよう、トップスピードを維持したまま水の中へ体を投げ出した。


「うわっ!?」

「何っ!?」


 水の中で水分を摂取すると、嘘のように背中の痛みが消え、体に力が戻ってくるのを実感する。


 ――助かった。


 安堵したことで先程視界に入った影のことなどまったく忘れてしまい、油断したままに岸へと上がった。


「縛っ!!」

「っギッ!?」


 突如、人の言葉が響くと体の自由を奪われ、動くことさえ出来なくなった。


 ――先程油断から襲撃を失敗したばかりと言うのに自分は……。


 唯一動かせることの出来る首を巡らせると、二人組の人が見えた。

 抵抗したくとも体は動かない。

 頭をよぎるのは"死"の文字。

 そんな言葉が心をよぎるが、人は彼女の怖れなどお構いなしにそのままゆっくりと近づいてくる。


 ――死ぬのは……、嫌だ。


 彼女は近づいてくる人をみながら、そう思いつつぎゅっと目をつむった。


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