プロローグ
彼女は裕福な家庭に産まれ、なにも考えずに生きることが出来た愛玩動物の一匹だった。
あるがままに産まれ、そして成長、外敵など知らずに家族達と戯れる。そんな幸せな日々は今までも、そしてこれからもずっと続くはずだった。
——主人の気まぐれが起こるまでは。
「飽きたわ。そろそろ処分して次の子を産ませて頂戴」
ごく当たり前のように放たれた少女の言葉に、傍に控えた執事は眉根を寄せる。
そんな執事の様子など知ってか知らずか、少女は彼女を抱き上げると、「飽きた」という言葉とは裏腹に優しく撫で上げる。
「もう少ししたら大きくなるでしょ? そんなの可愛くないじゃない。大きいのはミケだけで十分」
幼い彼女に人語を理解することは勿論、執事の可愛そうなものを見る視線にどのような理由があったのかなど気づくことは出来ない。
いつものように目を細めながら、ただ優しく撫でてくれるご主人様へ擦り寄るだけ。
ある程度撫でて少女は気が済んだのか、彼女を床に下ろすとそのままソファへ勢い良く座り、テーブルに乗せられたお茶とお菓子を夢中で食べ始める。
降ろされた彼女は何時ものように与えられた餌を食べ、兄妹達と共に力尽きるまで遊んだ後、寝どころとして与えられた木製のバスケットへ体を横たえると、疲れていたのだろう、すぐに寝息を立て始めた。
そして彼女とその兄妹が充分に寝静まった事を確認すると、少女が「もういいんじゃない?」といって執事へ目配せをすると、執事は一礼を返し、バスケットをそっと持ち上げて憐憫の表情を向けながらも、寝入って動かない彼女達をゆっくりとバスケットごと籐で編まれた籠へと移し入れる。
それでもわずかな振動はあったのだろう。蓋がしまった直後、彼女は目を覚ますと、いつもとは違う狭い空間に違和感を感じ顔を上げて周りを見渡す。
それまでそばにあった母親の姿がなくなっていることに気づき、自分が狭い何かに閉じ込められていると理解したのだろうか、声を上げて鳴き始める。
母親のぬくもりを探し鳴きながら籠をかきむしる彼女の声に、兄弟達もまた起きだすとガリガリカリカリと籠をかきむしる音が部屋の中へ響き渡る。
残念ながら彼女達の爪程度でバスケットはびくともしないが、部屋に響く鳴き声と籠をかきむしる雑音は、少女を酷く不愉快ににさせてしまった。
冷めた目で籠を一瞥した少女は短く舌打ちをすると、窓の外へ遠く映る、深い樹海を執事に向けて顎で指し示した。
執事はひどく驚いた顔を一瞬浮かべ、何か言おうと口を動かそうとするが、直ぐに思い直して眼を伏せると、真顔に戻り「かしこまりました」と答えてから一礼をする。
少女は満足そうにうなずき、執事はまるで能面のような顔を貼り付け機械的に籠を手に取ると、慣れた手つきで部屋から退出し、馬を走らせ、街から出るとそのまま人知れず、街から離れた草原へ赴いて籠を投げ捨て、そのまま神獣の森と呼ばれる樹海へ向かって走り去っていった。
魔獣と呼ばれる獣や凶悪な亜人達がはびこるこの世界、ほんの少しでも他より安全と言えなくはない草原、しかも水場のそばにあった薬草が生い茂る場所へ捨てられたのは、執事なりの優しさだったのか、それとも手元が滑って落ちただけなのか、それは誰にも分からない。
答えは執事の心の内にしか無いだろうが、捨てる際に垣間見せた、憐憫の表情と「すまない」という一言が全てを物語るだろう。
--------
籠が横になったことでようやく蓋を開けることが出来たのだろう。あるいは執事が籠の留金を外しておいたのかも知れない。
バスケットから這いずり出した彼女とその兄妹達は、今までの暖炉に照らされた暖かい屋敷の中と全く違い、吹きすさぶ寒風の草原に身を寄せ合いながらゆっくりと初めて見る大自然に向かって歩き出す。
しかし、飼いならされ、野生の消えてしまった獣が自然へ帰る。それは言葉で言うほど容易いものでは——決してない。
たった数日の内に彼女の兄妹は一匹、また一匹と数を減らしてゆく。ある者は飢えに倒れ、ある者は魔獣に捕食されてその数を減らしていった。
それでも彼女達は逃げ回り、泥をすすり、腐肉を喰い漁って生きていた。
なぜなら、生き続けたいから。
過酷な大自然の環境に置かれ、当たり前であれば数日で死に絶えるはずの彼女達だったが、それでも尚、数匹となった彼女達は生き延びることが出来た。
それは彼女が近くにある水場では無く、あたりに散らばる泥を最初に啜って見せたから。
なぜなら水場のそばは危険な魔獣が蠢いており。水場へ向かった兄達は戻ってこなかったので自然と水場は危ないと気付いたから。
そして食い荒らされた腐肉を最初に喰らったのも彼女からだ。
贅沢な食事に慣れた彼女達にとって、腐肉など忌避すべきものであったがそれしか食べられるものはない。匂いに顔をしかめ、それでも生きてゆくために喰いあさった。
——だが、魔獣の肉は禁忌の味で、彼女達のように放置された腐肉を得ることができたのにも理由はあった。
何故なら、魔獣の狂気は感染する。
魔獣の死体に篭った怨念は新たな呪詛となり、その肉を喰んだモノは呪詛に侵食され、新たな魔獣へと至る。
多くの冒険者が核となる魔石や用途のある毛皮や爪、牙と言った部位こそ剥ぎ取るものの、食用に向くであろう魔獣の肉を放置するのはそう言った理由があるからなのだ。
薬草を採取に来た冒険者達が周囲の魔獣を打ち倒し、魔石や部位こそはぎ取るものの肉などは放置して帰ってゆく。だからこそこの草原には魔獣の腐肉がそこかしこに落ちていたのだ。
そして魔獣の狂気はもれなく彼女達も襲った。
乾く……、乾く……、喉が乾く。
血だ……、血だ……、血で潤せ。
飢える……、飢える……、喰い足りない。
喰らえ……、喰らえ……、全てを喰らえ。
どこからともなく聞こえてくる狂気の呪詛は、腐肉を食した彼女達を完全に包み込み、耐え難い飢えと苦しみにその身を沈めさせた。
どこからともなく流れ込んでくる知識は、脳に膨大な情報と負荷を与え、許容量を超えた情報は理性を消し飛ばす。
ただの獣から核を有し、魔力を持った魔獣へと姿を変える。
その変化は想像を絶するもので、体力の少ない兄弟達や情報の負荷に耐えられなかった兄妹達は、その変化に耐えられず力尽き、目や耳、鼻から血を吹き出すとその場へ倒れた。
最後に立っていたのは彼女だけだった。
周りに倒れる兄妹達を確認し、狂気に包まれた情報の中から"死"と言う概念を引き出すと、無意識ながらも死を理解する。
そして、それ以上に"生きたい"と強く願った。
今まで意識せずに願っていたそれは純粋なる意思となり、そして純然たる意志は魔獣の原動力、渇望へと変わっていった。
渇望とは魔獣としての生き方を示す。
多くの魔獣は得た知識の中から"憎しみ"や"恨み"のみを引き出して渇望とする。だからこそ凶悪となり、生けとし生けるもの全てに呪いを撒き散らす存在へと化す。
だが残念なことに、ただ生きたい。と言う渇望を持って魔獣となった存在は、魔獣たりえることが出来なかった。
消し飛ばされるはずの理性が残り、満足に狂いよがることも出来ない。
多少鋭くなった爪と牙を得られたとしても、戦い方を得る事が出来なかったため、衰えた狩猟本能のままでは何も出来る訳がなかった。
彼女のように負の渇望以外で魔獣へと化した者たちは生きてゆくことが出来ず、すぐにのたれ死ぬのが関の山だったろう。
勿論、憎しみや強くなりたいと願った個体は理性を飛ばし、戦うための知識を情報として引き出すことが出来たため、生きてゆくことが出来た。"生きたい"という渇望で得ることが出来たのはせいぜい死なないための知識や能力。危機判断力や薬草などの知識、驚異的な回復力を得ることが出来る程度だろう。
しかし幸運なことに、彼女は一つの群れを率いるリーダーに見染められたのだ。
まだ幼い彼女はつがい候補にとどまり、成長するまでの間手を出されることはなかったが、それでも新鮮な肉を食べ、群れに与えられる役割の中でも非力な彼女も可能な役割しか与えられなかった。
彼女は群れの中で少しづつ戦い方を学び、力を蓄え、そして何もできない子猫から役割を与えられる仲間へと成長していった。
だが、彼女の幸運はここまでにしか過ぎない。
なぜなら、彼女達は人と出会ってしまったからだ。
通常の狩りの場合、囮となる個体が獲物を所定の場所へ引き入れ、罠にかかった所を全員で襲いかかるのがこの群れのルールだった。
だがその日、人の姿を確認したリーダーは配置へつこうとはせずに、まるで狂気に支配されたかのようにうなり声をあげると一直線に人影へ向かって襲いかかって行った。
他の仲間達だってそうだ。連携を組もうとする素振りすらなく、ただがむしゃらに人へ向かって行き、そして無造作に斬り捨てられていった。
——彼女は知らない。
捨てられたその日まで主人に可愛がられていた彼女は、人を憎しみ、恨むことがなかったから。
虐待の上に捨てられた仲間達は皆、"憎しみ"や"恨み"と言った負の渇望から魔獣へ至っており、だからこそ元凶と同じ生物をその視界におさめた時、野生と言うタガが外れ、ただ目の前の敵へと食らいつく獣へと変わったことを。
もし——、目の前の相手がただの旅人であれば憎しみを晴らす糧となった可能性もあったのかも知れない。だが残念なことに、この時出会ったのは冒険者と呼ばれる、魔獣と戦うことを生業とする存在だったのだ。
あるいはいつものようにおびき寄せ、一斉にかかればなんとかなった可能性もあったのかもしれない。
たら、ればで可能性を考えればいくつもの道があっただろう。だが現実に、無作為に襲い掛かる群れは体のいい的でしかなく、寄るそばから切り捨てられてゆき、群れは既に当初の半数へと数を減らしていった。
次々と死んでゆく同胞達、なのに彼等はただ闇雲に人へ向かって突き進み、そして死んでゆく。
"生"を渇望として生きるための知識を得た彼女は、"死"へ向かって突き進む同胞達に疑問を持った。
——何故、死にに行くの? と。
しかしその疑問は、あってならないものであった。
この世界においてモンスターや魔獣と呼ばれる、狩られるはずの存在に自我を持つことは許されない。
ただ目の前の獲物へ襲いかかり、本能のままに策を練って蹂躙する。そう設定されたのが本来の彼女達だったのだ。
だが彼女は疑問を持った。
飢えや狂気に囚われながらも、恨みや憎しみを持たなかった彼女だからこそ、他の魔獣と違う存在となっていた。即ち、世界にとって彼女はイレギュラーだったのだ。
——イレギュラーは世界がその存在を知覚し、観測する。
世界は初めて、彼女にその焦点を移した。
そしてこの瞬間、世界は彼女をただの魔獣から、道化へと進化を与えたのだ。
世界は嘲い、そして問う。
【死にたくないか?】と。
道化は応える。
【死にたくない】と。
世界は尋ねた。
【ならば力を求めよ】と。
道化は応える。
【力が欲しい】と。
世界は嘲った。
【ならば隣にいる獲物を狩ると良い。貴様に力をくれてやろう。殺したものを取り込む力だ。
知恵を持て、知識を求めよ。踊れっ、踊れっ、世界を踊れぇぇぇぇっ】
道化は応えた。
【生きるためならなんでもする】と。
世界は彼女に祝福を与えた。
道化が世界を楽しませるために。
世界は呪いを与えた。
道化に産まれた自我が、更に自分を楽しませるようにと。
そして道化の瞳に意思の光が宿る。
それを見た世界は満足して嘲う。
——良い暇つぶしが出来た。と。
————
白と黒に満ちた世界へ色が宿る。
頭の中へ不可思議な【声】が聞こえた瞬間、情報と言う名の知識が意味を持ち、理解することが可能になった。
そして改めて目の前に立つ人間を見る。
目の前で同胞を狩り続けるのは人と呼ばれる存在で、10匹近い仲間に襲われてもなお、傷一つ付かずに返り討つことの出来る強者だ。
自分は死にたくはない。だからこそ【声】に応えた。
答えた瞬間、魔獣化した時と同様に大量の何かが自分の中へ入ってくるのがわかった。
例えば魔獣と呼ばれる自分について。
人類と呼ばれる世界の覇者達について。
その中でも冒険者と呼ばれる天敵の存在。
この世界のあり方から生き抜くために必要な事。
目の前の天敵には敵わない事実。
急激に入ってきた情報で揺れる頭を振る。そんな彼女の視界の中に、仲間が殺されたことを理解できず、ひたすら冒険者へ襲いかかろうとする同朋達が見えた。
そして同朋を見て思う。
——何故、死にに行くのだろうか? と。
疑問を持ち、意思のこもらない瞳を見た瞬間、先ほど声が脳裏呼び起こされる。
【ならば隣にいる獲物を狩ると良い。貴様に力をくれてやろう。殺したものを取り込む力だ】
そして理解する。
——なるほど。……と。
普通ではありえない思考。だが既に彼女にとって彼らは、"仲間"ではなく"獲物"へ変わっている。
彼らはそんな彼女の変貌に気づく余裕などなく。なおも人へ襲いかかろうと前を向き、勢い良く飛び出すため後ろ足に力を溜めていた。
彼女はそんな彼らへ無造作に近づくと、前方を見据え、極限まで伸ばされた首筋へ向かって、牙を立て食らいついた。
白い喉笛にゆっくりと自分の牙が埋まってゆく。弾力をもった筋肉に少しずつ牙が入ってゆき、その度にプチプチと音を立てて筋肉が断裂してゆく。
充分なまでに牙が埋まったと認識した彼女は、顎に力を込め、噛みちぎる為にひねりを入れて勢いよく顎を閉じた。
「かひゅっ」
獲物の喉から息の漏れる音が聞こえ、肉をえぐり取ると鮮血が噴き出した。
「仲間割れっ!?」
人間——いや、耳の形からエルフ族か。が驚きの声をあげる。勿論言葉の意味は理解できるが、既に仲間割れではない。これは彼女にとっての"狩り"だ。
声の主が動かないことを確認、安心して食いちぎった肉を咀嚼して嚥下する。
熱い塊が喉の奥を通り過ぎると共に、身体中へ力が満ちてゆくのを感じる。
【声】の言った通りだ。
彼女はその結果に満足する。
力を得られると。確信すると、次の獲物へ狙いを定め、足早に近づいて爪を振るう。
突然の行動に回避出来なかったのか、それとも同朋が襲ってくるとは露とも思っていなかったのか、さほど抵抗もなく爪が黒い首筋へと吸い込まれてゆき、爪は首筋の皮膚をたやすく切り裂き、その下にある筋肉、血管、骨、気道、食道と通って行き、ついには胴体と首を半分以上を切り離した。
「一体何が?」
エルフ族が戸惑った声でそう叫ぶ。だが、襲ってくる気配は微塵も感じられないのでそのまま爪に付く血を舐めとると、次の獲物へ向けて襲いかかる。
やっと彼女が危険と理解したのだろう。獲物は反撃しようと身構えるがその行動は既に遅く、つい先程よりも力を増した彼女にとって獲物の動きはとても鈍く感じられた。
はじけるように地面を蹴り放つと二匹の獲物の間を通り、抜けざまに爪を振るって首筋を完全に切り落とす。
残った獲物は残り二匹。
次の獲物へ狙いを定め、視線を巡らせると残っていた筈の獲物は既に火に包まれていた。
「戸惑ってはいけません、直ぐにそのモンスターを殺して下さい。
"なりかけ"です!!」
先ほどとは別の叫び声が響き渡る。彼女は声の主を探すために首をひねろうとしたところで、急激に足元から火の気配が湧き立ったのを感じる。
「っ!?」
急いで飛び退くと、先ほどまで足元だった場所に魔法陣が浮かび上がり、そこから勢い良く火柱が立ちのぼった。
火柱の大きさは彼女が軽くすっぽりと収まる大きさで、高さは天高くまで燃え上がる。
ぎりぎり避けたはずの彼女だったが、完全に躱しきることが出来なかったようで左肩を焼かれていた。
魔力の残渣を追って視線を巡らせると、そこには杖を持ったエルフ族が肩で息をしているのが見えた。
本能が警鐘を鳴らす。
あの人間は危険だ。……そして、攻めるなら今しか無い。と。
肩の痛みは歯を食いしばって耐え、杖を構えたエルフ族に向かって駆け出す。
「させないっ!!」
右側から急速に嫌な予感が湧き立ち、本能に従ってバックジャンプすると目の前を短剣が通り過ぎた。
「ちっ!!」
動かなかったエルフ族が動き出したのだろう。頭の中に連続して警鐘が鳴り響く。
先程までの戦闘でこの二人と自分の格差というものを彼女は既に感じ取っている。そしてそれは力を増した自分でもはるかに及びつかない。
ならば、考えうる中で生存の為に取るべき行動はたった一つだった。
「ケイトっ!! 逃がしちゃダメ!!」
「分かってるっ!!」
踵を返し、全力でエルフ族のいない方角へ駆け抜ける。
感覚はすべてを後ろに回し、前方は視界から得る情報に頼に頼って全速力で駆け抜ける。
トップスピードまであとわずか。と言う所で後ろから迫る気配を感じ、感覚に沿ってタイミングをずらして飛んでくる何かを避ける。
全力で駆けなければならない状態で振り返るなど、馬鹿な真似はしない。
トップスピードに乗り、これなら振り切れる。と油断した直後、先ほどとは違う何かが急速に近づいてくるのを感じる。
避ければ問題ない。そう考えた彼女は先ほどと同じようわずかに体を左へずらし、避けたと思った瞬間、——激しい熱さが胴体を襲った。
「入ったっ!!」
熱さの後に鋭い痛みが身体中を駆け巡る。
どうやら避けたつもりが避けきれず、傷を負ってしまったようだ。
避けたはずなのになぜ? 彼女の脳裏に疑問がよぎるが、すぐに今はそんなことを考えている場合ではないと考え直す。
後ろ足から力が抜けそうになるが、速度を緩めれば間違いなく奴等に追いつかれると歯を食いしばって地面を蹴る。
「っなっ!?」
「"なりかけ"って言ったでしょ!! 油断しないのっ!!」
「ちくしょうっ!! 早いっ!?」
短剣を投げた側が追いすがってくる気配はあるが、少しづつ後方へ遠ざかってゆくことに安堵する。
……だが先ほどの件もある。油断だけはせずにこのまま全力で駆け抜け、目の前に迫って来た森の茂みに分け入ってゆく。
彼女はそう判断すると、せまい獣道に態勢を低くして飛び込み、そのまま森の奥へと歩みを進める。
どのぐらい走っただろうか。彼女の意識は朦朧とそう考えるが、足を止めるわけにもゆかず前へ前へと歩み続ける。
目的はこの先、自分が捨てられた薬草の群生地までたどり着かなければ、このまま死んでしまうと分かっているからだ。
————————————————
すでに走っている感覚などなく、体も思い通りには動かない。だが、幸いなことに目的の場所へたどりつくことはできた。
彼女はぎこちなく動く口と体を動かし、草を体に擦り付けるように潰し、あるいは噛みちぎって腹内へと収めてゆく。
さらにあの二人が追ってくる可能性を考え、身を隠す場所を探してふらつく体のまま、草原の奥へ踏み入ってゆく。
草原の奥、森の入り口にはぽっかりと口の空いた洞窟があり、その洞窟からは近づくだけでも激しい嫌悪感が体を包みこむ。——だが、あそこなら人も寄ってこないはずだ。
そう考えた彼女は洞窟へ向かったが、何故か洞窟から嫌悪感を感じることは出来なかった。だが、他に逃げる場所を彼女は知らない。
せめて見つからないように……。彼女はそう祈って洞窟へ身を隠すため、ぽっかりと空いた空洞へ向けて足を向けた。
ゆっくりと洞窟の入り口に潜り込み、外の光景が映らなくなったことで彼女は安堵した。
後は身を隠す場所を探すだけだ。
洞窟の奥に向かって足を踏み出そうとした……が、警戒が疎かになっていたのか、それとも集中が途切れてしまったのか。
急激に足元へ開いた穴に反応することができなかった。
前足の爪を伸ばすが穴の縁は遠く、引っかける場所も遠く離れて抵抗することも出来ない。
不意を突く形で開かれた穴に抵抗する手段は他に無く、ただ落ちてゆく感覚を最後に、彼女の意識も闇の中へと落ちて行くのであった。