世界のヤンデレシリーズ~美女と野獣~
彼女を引き止めておけるだけの方法があるのならば。
彼女が私だけを見てくれるならば。
冷め切ってしまった夫婦というのは、他人より厄介だと誰かが言った。
ただ正確に言うならば、私たちの間柄は、完全に温度を失っているわけではない。
私は彼女を未だ愛している。
たとえ彼女が私を鋭い目で睨みつけて威嚇しようとも、この体にその長い爪を立てられようとも、私の彼女に対する愛情は、簡単に消えたりしないのだ。
「おはよう、ヴェニス」
「…………」
今日も返事はない。
何かを訴えるかのように、黙ってこちらを見るばかり。
その美しい双眸は、カーテンも開けていない暗い部屋で、鈍く光っていた。
「今日は、出かけなければならないんだ。できれば、少し話をしたかったんだが……」
「……」
「なるべく早く帰るよ。お土産に君の好きな真っ赤なバラの花を買ってこよう。」
「…………」
反応はない。
私は仕方なく、その部屋を後にする。
背中に熱いほどの視線を感じながら。
そろそろ結婚を考えないかと言われたのは、ちょうど二年ほど前だっただろうか。
友人から、私は一人の女性を紹介された。
名をヴェニスといい、名に恥じることない美しい女性だった。
ブロンドの髪に、陶器のような肌。
エメラルドを思わせる、気の強そうな深緑の瞳。
血色の良い唇は紅く厚く、女性らしい色香を漂わせている。
まるで、薔薇の花のような真紅のドレスが、彼女の美しさを一層際立たせていた。
「はじめまして、リオン公爵。私はヴェニス・ロジェ。どうぞよろしく」
「あぁ、こちらこそ。……?」
自己紹介をしてから、彼女はじっと私の顔を見ていた。
私が不思議そうにしていると、彼女はニコリと笑う。
「いえ……名前の割に可愛い顔をしているのね」
「そんなことを言われたのは、初めてだ。」
「あら?気に障ったかしら?ウフフ、ごめんなさい。」
全く感情の篭らない謝罪をして、彼女は笑った。
可愛いと言われたことに特に思うところはなかった。
ただ私は、一目見て彼女に惹かれ、彼女が私に笑いかけてくれたその時には、もう彼女の虜になっていた。
ヴェニスは活発な女性で、私が今まで関係を持ってきた女性とは一線を画するタイプの女性だった。
よく笑い、よく喋り、積極的。
女性らしさと悪戯好きな子供のような二面性を持っていた。
どちらかというと、私とはまるで逆であったが、彼女が話せば、私がそれを聞くと言った感じに、むしろ相性は良かったように思う。
彼女の話は、どれも新鮮で魅力的。
慎ましい女性にいささか退屈していた私は、社交的で、派手好きな彼女の性格もむしろ快く感じた。
私とヴェニスは時間の限りの逢瀬を重ねては、その仲を深めていった。
私は口の達者な方ではなかったが、彼女は気にしていなかったし、私自身は彼女が隣にいるだけで幸せだった。
だから私は言葉の代わりに、彼女が喜べばと、会う度に彼女に似合いそうな装飾品を贈ったものだ。
私に選んだものを身につけ、ますます美しさに磨きのかかる彼女に、私の心はことのほか満たされていた。
それから数ヶ月、友人の紹介から半年もしないうち、私は彼女との結婚を決めた。
それなりに金もかかったが、ドレスや指輪も結婚式は彼女の好きなようにやらせてやった。
幸せと、自信に満ち溢れ、純白を纏い私の隣で笑っていた彼女は、他のどんなものよりもやはり美しく輝いていたように見えた。
しかし、結婚というものは、相手と常に寄り添うこと。
どんなにお互いを愛しているつもりであっても綻びは生じてしまう。
恋人であった時には知り得なかったことを知ってしまい、思わず心が沈むことも少なくはないのが常だ。
結婚して一年ほど経った頃だろうか。
ヴェニスは私の伴侶となってからも、相変わらず外へ出かけてばかりだった。
社交会であったり、会食であったり、なかなか家で私の帰りを待っていてくれる日はない。
元々の彼女の性格上、一つの場所にとどまることが出来ないことは、わかっているつもりだった。
なので、それぐらいのことならば目を瞑る覚悟はして、婚約した。
たとえ、どこで遊んでいようが、最後には婚約相手の自分の元へと帰ってくるならばと私は考えていたのだ。
しかし、それは甘かった。
彼女はあろうことか、私に彼女を紹介してくれたあの友人と、関係を持った。
さすがの私も、これには口を出さずにはいられない。
しかし、彼女は悪びれもせずに言った。
「だって、貴方つまらないんですもの」
「お金を持っているから結婚してあげたの。愛してなんていないわ」
「嫌なら別れましょう、やっぱり結婚なんて堅苦しいのは柄じゃないわ。」
そう言って、彼女のその血のように赤く染まる口元が孤を描いた。
私はそれを聞いて、言葉がでなかった。
私が信じていたものとは一体なんだったのであろう。
こんなにも愛しているというのに、全ては一方的なものに過ぎなかったというのか。
私には、彼女を諦めることなどできない。
私は、なんとか彼女を連れ戻す方法がないものか、悩みに悩んだ。
どんな方法でもいい。
例え、許されざる力を使うことも、厭わなかった。
そうして暫くして、努力の甲斐あって、私は一つの方法を見つけた。
辺境に住む仙女に教えてもらった、彼女をつなぎとめておける魔法の薬。
ただ、できればこの方法はあまり使いたくなかった。
だから私は、必死になって彼女を婚約の解消をやめるように説得した。
最後はプライドを捨て去り、彼女に懇願したほどだ。
彼女には、それを鼻で笑った。
「おや、リオン公爵。貴方がこんなところにいらっしゃるなんて珍しい。奥様はご一緒ではないのですか?」
久々に知り合いの祝いの席に出席した私は、古くから付き合いのある知り合いに声をかけられた。
初老の紳士とその奥方が仲睦まじく並んでいる。
思わず、舌打ちしてしまいそうなほどに。
「えぇ、生憎妻は体調を崩してしまいまして。暫くはこちらの方へ顔を出すこともないかと。」
「ご病気ですか?それはさぞ心配でしょうに。」
「えぇ。それでも家で私の帰りを待っていてくれるかと思うと、ほっとしますがね。」
「それは……まぁ、そうですか。」
ヴェニスの遊び癖は、悪い意味で有名だ。
そのせいか、私に話しかけてきた男は申し訳なさそうな顔を見せる反面、何処か納得したようにそう言った。
私は、その場は適度に愛想良く振る舞い、ある程度の挨拶を済ませれば、あとはそこを後にしようと考えていた。
しかし、あの男が、私を引き止めた。
「オイ、待ってくれ。」
私にヴェニスを紹介しておいて、彼女を私から奪おうとした忌々しい男。
友と呼ぶのも甚だしい。
「なんだ、ジャン?私は君に用などない。」
「くっ……たしかに、僕は君に話しかける資格などないかもしれない。けれど、ヴェニスはどうしたんだ?最近、すっかり姿を見せないじゃないか。」
「ヴェニスは家で私の帰りを待っている。」
「嘘だ、彼女は家で君を待っているような女では……」
「ほんの少し遊ばれた程度で、私の妻の何がわかる?」
全く苛立たしい。
たった数度、彼女の気まぐれに付き合わされた程度で、なんでも知っているかのような面をされては堪らない。
「だいたい、お前がヴェニスにあてた手紙が返ってこないのは、ヴェニスにその気がないからだろう?」
「なっ……何故それを……」
「お前が私の使用人に、ヴェニスへ手紙を渡すよう言ったことは知っている」
「貴様、まさか……」
「勘違いするな。手紙は確かに渡してやった。けれど、ヴェニスは返事を書かなかったんだ」
「そんな……」
「わかったら、もう私の妻に手を出すのはやめることだな」
私はそう言って、それ以上は男に背を向けて歩き出す。
後ろでまだ何かいっているようだが、私はそれを無視して、その場から出て行く。
これでもう、あの男がヴェニスに近づくことはないだろうか。
まぁ、これだけ言ってもしつこいようならば、その時はその時だ。
それにしても、人付き合いが苦手なわけでもないが、どうもああいった派手な場所は好かない。
家で酒でも飲んでいた方がよっぽど有意義だ。
私は帰り道に、約束通り赤薔薇を買い、そのあとはまっすぐ家路に着く。
家には愛しい妻が待っている。
どうして寄り道などしていられようか。
ヴェニスの部屋は、鍵もかかっておらず、扉を押せば簡単に開く。
扉の向こうは相変わらず、カーテンが締め切られ、明かり一つついてはいない。
「ただいま、ヴェニス。君が心配だったから早く帰ってきたよ。」
相変わらず反応はない。
ただ、いつもであれば、こちらを威嚇するようにギラギラとした瞳を向けてくるはずの彼女は、この日ばかりは、起き上がる様子すらない。
妙だ。
僕は急いで、部屋のろうそくに火を灯す。
いつもならば、こうすれば私を襲いかからん勢いで向かってくるはずだが、その様子もない。
明かりをつければ、部屋の様子がよくわかる。
爪痕のある床や家具。
割れた鏡。
引き裂かれたドレス。
……なんら、いつもと変わりない。
どれも彼女が自分でやったものだ。
高価なドレスも、宝飾品も、昔ならば喜んで受け取り、着飾って私に見せたものだったが、最近では抑えきれない衝動や怒りを発散するだけにための道具になってしまった。
しかし、たった一つ、いつもと違ったのは、彼女が部屋の隅で丸くなっていたことだ。
「ヴェニス……?」
相変わらず彼女は動くことなく、その長く伸びた艶のない茶褐色の毛並みが顔を隠し、表情を見ることができない。
私は少しためらったが、彼女に少しずつ近づく。
あとほんの数歩のところまで近づいても、様子は変わらなかった。
まさか……。
私は急いで彼女に駆け寄り、彼女の顔を覗き込む。
そして……。
結婚なんて自分にはやはり似合わないものだった。
口数が少なくて、浪費にも文句を言わない男だから、婚約をしてやったのに。
ちょっと他の男と遊んだくらいで嫉妬するなんて、器の小さな男ね。
でも、婚約を解消しようと私が言ってからは、滑稽なものだったわ。
だって、今まで怒っていたくせに、急に行かないでくれって必死なのですもの。
まぁ、私はそれを鼻で笑って、素知らぬ顔で紅茶をのんでいたのだけどね。
そういえばあのお茶、今まで飲んだことのない味がしたわね。
お酒でも入っていたのかしら?
「いたっ」
自慢ともいえるブロンドの髪をとかしていると、急に頬に引っかかりを感じた。
どうも、自分の爪で傷つけてしまったらしい。
頬からは微量の血がにじむ。
みると、爪は手入れが必要なほど、長く鋭利になっていた。
あぁもう!
誰にもぶつけることのできない怒りに一層苛立ちは強まる。
でも、おかしいわね。爪はこの前綺麗に手入れをしたはずなのに。
全く最悪。
肌も爪も、これじゃあ台無しだわ。
そう、その時は、爪の手入れをすることしなければならない程度のこと以外、何も考えていなかった。
けれど、日に日に私の体は変化していた。
爪は何度手入れをしてもすぐに伸びて鋭くなり、自慢のブロンドは黒や茶色の混じる汚らしい色になっていった。
徐々に肌が浅黒くなり、その歯はまるで肉を噛み切るためのように細く尖っていった。
そして、一番嫌だったのは髪と同じ色の体毛が腕や足、背中というありとあらゆるところから急速に生えてきていることだった。
苦労して剃ろうが、抜こうが、次の日には倍になって生えている。
例え、肌を傷つけるほど処理をしようが、全く意味をなさなかった。
罰があたった。
そう思った私は、何度も何度も赦しを乞うた。
しかし、全く意味をなさない。
私は、自分の容姿が日に日に変わっていく恐怖に怯えていた。
外に出ることを控えるようになったし、部屋にあった鏡は全て割ってしまった。
誰にもこの姿を見られたくなくて、カーテンをしめ、部屋の扉を閉ざした。
さらに日が経つと、異変は見た目ばかりでは無くなっていった。
よく鳥がさえずるようだと言われていた声は、嗄れて、言葉を話そうとしても呻き声のようにしかならない。
目は、暗闇でもはっきりと物を捉えることができ、日の光には嫌悪を感じるようになり、さらに手先の器用さが失われ、筆を持つことすらできなくなった。
どんどん、自分が自分とは別の何かになって行く感覚。
いっそ、頭がおかしくなってしまった方が、よほど楽だった。
そして、妙なのはあの男の態度だ。
あの男は、私のこの姿を見ても動揺一つ見せない。
怯えも、哀れみも見せないあの男に、私は元凶があの男にあることを確信した。
しかし、もう遅い。
私の悲痛の叫びは、すでに獣の鳴き声にしかならず、訴えを文字におこすことも叶わない。
私にできるのは、あの男を睨むこと。
そして、かつての美しい姿であった自分を思い出させるかのように、残酷にも高価なドレスや宝飾品を贈りつけてくるこの男の目の前で、それらを無残に引き裂くことぐらいだった。
しかし、それも限界だ。
もう、これ以上自分を苦しめるものはないと思っていたのに、私は理性を失い始めている。
獣の姿であっても、心は人間であると自負していたが、どうやらその心さえ、獣に蝕まれようとしている。
醜い姿に、心までも人でいられないのならば、私に生きる価値などない。
せめて……
できることなら……に……たい。
それだけ叶うなら、私は……。
私は息を殺し、男が近づいてくるのを待っている。
自分の部屋の床の上、目を閉じて、丸くなって動かない。
悟られてはいけない。
もう少し、もう少し近くに……。
目を閉じているにもかかわらず、この獣の耳は男の足音だけで、男の居場所を正確に把握できた。
私は、一歩一歩確実に近づいてくるそれに、緊張しつつ、気分が高揚していることに気づいた。
まるで初めての狩を心待ちにしていたような感覚。
まさに獣の感覚だった。
そして、男が私の顔を覗き込もうとした瞬間だった。
私は目を開き、一瞬の間に、男の喉笛を捉える。
確実に仕留めるために、力の加減などはしなかった。
抵抗を見せる前に、男を床に押さえつけ、そのまま肉を食い千切ってやる。
男は体を痙攣させ、私の目を見てぱくぱくと何かを訴えようとしていたが、すぐに動かなくなった。
情けない顔。
なんて哀れな最期なのかしら?
私は男を侮蔑し、見下してやった。
しかし、気がつくと、男の血を賤しく舐めている自分がいて、現実を悟る。
あぁ、本当に戻れなくなってしまった。
「ひっ……ばっばけものっ!」
男の血の匂いに夢中になっていた私は、その声を聞くまで、もう一人の存在に気づかなかった。
その男には見覚えがある。
ジャン……。
かつて、私にこの男を紹介しておきながら、私に愛を囁いた馬鹿な男。
けれど、私はそんな馬鹿なこの男を……。
「くるなぁぁぁ!!」
男の叫びと重なるように、銃声が響いた。
男の手にあった小型の銃の銃口が硝煙に覆われる。
彼は、私に躊躇いもなく銃弾を撃ち込んだの。
私はその場に力無く倒れる。
わかっていた。
これはおとぎ話みたいな真実の愛ではない。
私は、後ろめたいことのない純粋な少女ではないし、幸せな結末も存在しない。
だから、醜い姿のままでは、私が私であることは、気づいてはもらえないのだ。
現実はどうしてこうも残酷なのだろう。
私は醜い姿で、獣として死ぬ。
ヴェニス・ロジェという一人の女であったことも、
愛してくれた男を殺したことも、
愛した男に殺されたことも、
もうどうだっていい。
だって、私はもう人間ではないのだから。