代わらない志 vorbesc.カグラ
「じゃあ静。私がデートしてあげるわよ」
その私の言葉にピタリと動きが止まったしーちゃんの手から、小さなグラスが重力の赴くままにぽろりと溢れて落ちる。カシャンという硝子が割れる軽い音が閉店した店の中響き渡るが、それによってしーちゃんの硬直が解ける気配は全くない。
瞬きする事すら忘れ体を固まらせながら私を凝視する女の子。名前を進藤つなぐ。しーちゃん。
ナオトと言う名の吸血鬼の、この世界においての絶対的に一番大切な女の子。
「しーちゃん、久々に割ったわね」
無理もないけど、と思いつつ私は隅に置いてあった箒と塵取りを片手にしーちゃんが割ってしまったグラスを片付ける。破片が残っていないか注意しなければならないので、地味に面倒な作業だ。後で掃除機もかけた方がいいのかもしれない。
「か、カグラちゃん?」
しーちゃんと同じように、私の言葉に茫然としていた静が私に話しかけてくる。
名々賀静。カメラマン。
「何?静」
「いや、あの、デートって……」
「デートしたいデートしたいって騒ぐから。私がデートしてあげると言ってるのよ」
「…………わ、罠?」
口許に手をやりがくがくと震える唇で静が小さくそう問うてくる。無理もないけれど。
「あら、私じゃ不満なわけ?」
「いや、不満とかそういうんじゃなくて、さ……。どういった風の吹き回しかな、と……思って……」
「デート、したかったんでしょ」
いや、そうなんだけどと静。
最近の静は嫌にデートデートと煩かった。事あるごとにその言葉を飽きもせず懲りもせずしーちゃんにぶつけていた。その訳と言うのが静の意中の相手でもあるしーちゃんが、鎹双弥という男の子とつい先日デートをしてきたため。
「よくよく考えたら、やっぱり狡いと思うんだよね。だって、俺へのクリスマスプレゼントのお返しなら、俺と一緒に買いに行くべきじゃん。それをさぁ、鎹と行くなんて……狡い!俺もデートしたいっ!!」との事。
あほか、と言いたくなる程の見事な自己発言ぶりに呆れてしまうが、静は知り合った当初からこんな感じだったので今更驚く事もない。大人気ない対応をいつまでも変わらず簡単にやってのけてしまう男なのだ。静は。
「あの、カグラちゃん?でも、そもそも俺がデートしたいのは進藤ちゃんであって……。あっ、でも別にカグラちゃんが嫌ってのでも無いんだけど」
「ならいいんじゃないかしら」
「え゛」
私は集めたグラスの破片を処理するべく、箒と塵取りを持ったままバックヤードへと続く扉を開ける。掃除機はしーちゃんに任せる事にしてしーちゃんに一言声をかけるが、目を真ん丸にして私を凝視しているままのしーちゃんがちゃんと聞いているかどうかは不明だった。
「じゃあ静。今度の日曜日、朝九時に駅前で待ち合わせという事で」
そして静の返事も聞かぬまま、私はパタリと扉を閉めた。
そうして日曜日当日。
「あら静。十分前に待ち合わせ場所に着いてるだなんて。さすがね」
「…………」
腕を組み、疲れたような顔で私を見る静は普段とは少しだけ違う装いだった。正装、とまではいかないまでもそれなりにキチッとした服を着てきている。一応『デート』なのだという認識はあるらしい。
がりがりと頭をかき静は言う。
「カグラちゃん、これには何の意図があるの?」
「意図?失礼ね。デートに意図も何も無いでしょうが」
「…………」
はぁ、と一度ため息を吐いて「とりあえず歩こうか」と静は私を促した。手慣れたエスコートの仕方はさすがだと称賛に値する。何だかんだでこの手の事をスマートにやってのける静を、何も知らない赤の他人が見ればさも良い男に映るのだろう。
二人は横に並んで歩く。背丈の違いからか静の歩幅は狭い。合わせてくれているのだろう。
「あの後大変だったんだよ?進藤ちゃんにはカグラちゃんになんかしたのかって疑いの目を向けられるし」
「あら、そうなの」
「……妬いてるの?っていう軽口すら叩けなかったあの時の俺の身にもなってよ」
あの日、私が立ち去った後のしーちゃんの静に対する態度など気にも止めていない様子の私に、静が可哀想なくらい弱弱しくため息を吐きながらそうぼやいた。
「で、本当に何の目的なのさ。カグラちゃん」
日曜日の街は騒がしい。静の声も、ふとしたら喧騒に紛れて聴こえなくなってしまいそうだ。
「静もしつこいわねぇ。女が男をデートに誘うだなんて。意味も意図も目的も一つしかないでしょう?」
にっこりと笑顔で私が隣を見れば、静がじと目でそんな私を見下ろす。
「俺が好きなの?とか聞いて欲しい訳?」
「貴方が好きなの。と、言って欲しいわけね」
「…………」
こっち、と疲れた静が指を差し示し方向、角を曲がると人通りが最も多く賑わう大通りに出た。通りは既に人で埋め尽くされ、煩わしさに私が眉間に皺を寄せていると静が道を作るかのように私の少し前を歩く。
行き交う人の波は止まることを知らない。波に流され、また縫い歩きながら、静がぼそりと呟いた。
「これで撒けるかな」
私が人にぶつからないように気を使い、気を付けながらも、それでも歩調は少し早めに歩く静。そんな静の言葉に私はくすりと笑う。
「しーちゃん?」
「カグラちゃんも気付いてたの?」
しーちゃんが私達の後をつけて来ているらしい。静が少し後ろを歩く私を返り見る。私は首を横に振った。
「あの子ならそうしそうだな、と思っただけよ。私と静のデートの動向を探る、だなんて下衆なこと」
「……下衆って……。もしかして後つけさせたくて進藤ちゃんの前で俺をデートに誘ったわけじゃないよね」
「さぁ?どうかしら」
別にしーちゃんが私達の後をつけようがつけまいが、それはどちらでも構わなかった。ただ、こうなるだろうとの予想だけはあの時していたけれど。
「でも、よく気付いたわね。まだ近くにいるの?」
「俺が進藤ちゃんの気配に気が付かない訳ないじゃない。しかも進藤ちゃんってばカグラちゃんとの待ち合わせ場所に俺よりも早く来てたからね。しかもご丁寧に数人引きつれて来てるっぽいし……あー、まだいる」
諦めてくれないかなー、と後ろを見もせずに前を向いたままそう溢す静。私はそんな静に少しだけ恐怖を感じてしまう。
「……静、貴方それちょっと気持ち悪いわよ」
しーちゃんの気配に俺が気が付かないわけがないと静は言う。だが、普通の人間である静に何故そんな芸当が出来るのか。静がにやりと口の端を上げ笑う。
「愛の力かな」
「そんなんだから嫌われるのね……」
「愛が大きすぎて?」
「不気味すぎて、よ」
不気味かなぁ、と心の底から不思議がる静だが自分で分かっていないのだから尚更たちが悪い。
それにしても、静のしーちゃんに対する執着は少し異常だとも思う。好きだ好きだと言い好意を寄せているだけならまだしも、しーちゃんの気配までもが分かるだなんて。
静はしーちゃんだけではなく『吸血鬼』に対してもわりと敏感に体が反応するらしいので、その影響もあっての事なのかもしれないが。
「それにしても……、久遠も進藤ちゃん達と一緒にいるのかな」
横断歩道。赤信号で立ち止まる私達。
一応、久遠には言わないでよと進藤ちゃんには口止めしといたんだけどなぁ、と静が後ろを窺うように少しだけ視線を横にする。
「くーちゃんならいないと思うわよ」
そんな静にはっきりとそう発言した私。静が目を丸くする。信号はまだ赤のままだ。
「しーちゃんがくーちゃんに今日の事を話していようがいまいが、くーちゃんは私達の後をつける事はしないわ」
「……凄い自信だね」
私は静に微笑みかける。自信も何もない。くーちゃんの事なら手に取るように私には分かる。
「……愛の力?」
「そうね。静がしーちゃんに向ける『愛』とは種類が違うけどね」
信号がようやく青に変わった。私が歩き出すと、静がそれに続くようにして一歩踏み出す。
「久遠、デートの事知ったら怒り狂うんじゃないかなぁ」
久遠が怖すぎて店に行けなくなるんだけどと責めているのか責めていないのか微妙な口調で静がぼやく。怒り狂うくーちゃん。私は笑う。
「で、結局カグラちゃんは進藤ちゃん達にこのデートの後をつけさせたいの?」
「別に。それはどっちでもいいわ」
「『それは』、ね」
静は存外察しがいい。まぁ、だからこそ静を選んだのだとも言うべきか。それとも静が使いやすかったからだろうか。
「静はどうなの?つけられたい?つけられたくない?」
「つけられたくないに決まってるでしょ」
進藤ちゃんが妬いてくれるなら未だしも、進藤ちゃんは絶対に妬いてくれないし。好きな女の子に他の女の子とのデート現場だなんて見られたくない、と今日初めて見せる真面目な顔で静はそうはっきりと口にした。
好きだ好きだと軽く口にしてしまう静。ちゃらけた感じで毎回毎回しーちゃんに近付く静は、それでもしーちゃんに対しての想いは本気なのだ。好きという言葉に嘘はない。
それでも私との『デート』にこうやって付き合ってくれるのは何故か。
「可愛い女の子からの折角のお誘いですから」
「あら、ありがとう」
私達は二人して小さく笑い、そうしてまだ後をつけて来ているだろう面々から逃れるため速度をつけて歩き、そして走り出した。
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デートを丸一日楽しんだ後、夜も更けた頃に静は家まで送り届けてくれた。
久遠の表札がかけられている家屋。
私と弟のヒナは七、八年ぐらい前からずっと、くーちゃんとくーちゃんのおじい様おばあ様が住む家に身を寄せさせてもらっている。
「ありがと静。紳士ね」
「夜も遅いんだから当たり前の事だと思うんだけど」
お礼を言う私に静は小さく苦笑した後、ふとその表情を素に戻し私を再度見下ろした。
「カグラちゃん、結局何がしたかったの?ちょっと破目を外したかったから、とかじゃないんでしょ?」
「…………」
ここまで付き合わせておいて、静に何にも話さないと言うわけにはいかないだろう。何にせよ静にはまだ頼みたいこともあったから。
まぁ、聡い静なら大体の予想は既についているのだろう。
「久遠?」
「ご明察」
私は微笑む。
「でも久遠は今日のデートの事、知らないんじゃないの?」
「それはどうかしらね」
私からくーちゃんに今日静とデートだなんて事は一切伝えていない。だけど、しーちゃんがくーちゃんに話している可能性は大いにあり得る。そして。
「デート現場を目撃させて自分の事は諦めさせようって事?」
静の問いに私は微笑みで返す。
「だけどさぁ、それ、逆に暴走するんじゃない?」
「この程度でくーちゃんは暴走なんてしないわよ」
「……カグラちゃん、男を甘く見てると……」
ぐいっ、と私はまだ喋っている静の襟元を掴み引き寄せる。驚く静の、その口許近くに、私は唇を寄せキスをした。
「これぐらいやらないと、くーちゃんは暴走なんてしないわよ」
「…………カグラちゃーん」
唇ではないにしろ不意打ちでキスされた静は疲れたように手を顔に当てて脱力。そんな静に私は唐突に話を切り出す。
「静。私とくーちゃん、今度温泉旅行に行くのよ」
静が目を見開く。
「その間、吸血鬼様としーちゃんのこと、宜しくね」
「温泉旅行って……、ふ、二人で?」
「まさか。くーちゃんのおじい様おばあ様も一緒よ。弟のヒナはこっちで留守番したいって言ってるけどね」
くーちゃんの育ての親であるおじい様おばあ様への感謝と労い。そして、初任給はとっくの昔に入ってそれなりに稼いで来ていると言うのに、未だ二人に大きなプレゼントもしていないくーちゃんのために私が前々から考えていた事だった。
「私がいない間にもし何かあったら、……吸血鬼様の力になってあげて」
「何かって……、何かが起こりそうって意味?」
そんな予兆は全くない。今も変わらず穏やかな時間が過ぎていっている。だけど、ナオトが他の吸血鬼達を何処まで信用して、そして安心しているのかは分からないが、終始用心しておくに超したことはない。注意を払っておくことは決して無駄にはならないから。
「静、吸血鬼様達にとってしーちゃんの存在はきっと今も変わらず『危険な者』よ」
そうして、ナオトが吸血鬼だからこそ守れないものは『人』である静に頼るしかない。
「しーちゃんも、そしてあの鎹という子もまだ子供。あの子達は静と違って揺らせば容易くブレて歪んでしまうわ」
「…………」
「静も気付いているでしょう?」
脆いのだ。
あの二人の今の関係は一番脆くて一番危うい。そんなおりにもし吸血鬼達が何かを仕掛けて来てしまったら。
ナオトだけで手に負える話じゃない。私が側にいたとしても、私は本当の意味で吸血鬼に逆らうことは出来ない。手を出せない。
それに、もしかしたらナオトよりも静の方があの子達の助けになるには適任なのかもしれない。
「まぁ……、進藤ちゃんの件に関しては言われなくても分かってるけどさぁ……。久遠はどうなわけ?」
私は静を見上げる。
「久遠は、どう頑張ってもカグラちゃんの目には写らない?」
淡々とした表情。
もしも私が蝙蝠じゃなければ、あるいはそれもアリだったのかもしれない。くーちゃんの事は嫌いではない。だからきっとそれなりに楽しい付き合いをしていけるのだろうだけど、私は蝙蝠なのだ。
「ねぇ静。蝙蝠が蝙蝠たらしめるものって何だと思う?」
訝しむ静。
静は吸血鬼に関してはナオトからそれなりに聞いているのだろうけれど、蝙蝠に関しては全くの無知。
私は背中に意識を移す。瞬間、背中から黒い蝙蝠羽根がバサリと音を立てて現れる。夜の闇に紛れるほどの真黒の翼は、だけど見る角度を変えれば茶色くも見えるらしい。
「蝙蝠が蝙蝠たらしめるものはこの羽根だけ」
羽根以外他は人間とさして変わらない。この羽根が無くなれば、それはもう人間と同じなのかもしれない。
「蝙蝠にとって吸血鬼は主。吸血鬼にとって蝙蝠はしもべ。そして人間は餌。蝙蝠が餌である人間と恋に落ち一線を越えれば……、この羽根は朽ち果てる」
羽根は消え去り、蝙蝠は『蝙蝠』であるものを失い人間に成り果てる。
だけどそれは偽りの人間。『人間』のカワを被ったただの蝙蝠。堕ちた蝙蝠。
『罪と罰』。よくある話だ。
「静、私は『蝙蝠』を捨てる気はないの」
「…………」
静は何も言わなかった。暫くの沈黙の後、静が上を見上げ一点に視線を向けながら「カグラちゃん。さっき、どうして俺にキスしたの?」と聞いてきた。
くーちゃんは私が誰かとデートしたぐらいで暴走したりはしない。だけど、私が誰かとキスをしたのだとしたら?私からその誰かにキスをしたのだとしたら?
「ねぇ、もしかしてカグラちゃん……。久遠に暴走して欲しいわけ?」
私は微笑む。
そんな私を見る静の瞳に、私は今どう映っているのだろうか。
「カグラちゃん。男はさ、本気で好きな女の事には、諦めが悪いんだよ」
『じゃあ、どうやったら男として好きになってくれるんだ?』
静が帰った家の前。私は上を見上げる。
家屋の片隅。視線をやればくーちゃんの部屋のカーテンは締め切られたままだった。だけど、その向こうには影がある。
くーちゃんの部屋からこの場所を見ることは出来る。だが、声までは聞こえない。
「…………」
くーちゃんはとても優しい子。
だから一度の過ちでも、きっともう二度と私に『付き合って欲しい』などとは言ってこなくなるだろう。
くーちゃんは優しくて純良。
そして直情的でもある。
だからこそ、もうそろそろ本気で突き放しておいた方がいいのかもしれない。
私は羽根をしまい目を閉じる。目の前は暗闇。だけど頭の中はとても鮮明だ。
鮮明過ぎて怖くなる。分かりすぎるのはきっと毒にしかならない。知りすぎるのはきっと蝕む病にしかならない。感じとりすぎるのはきっと嘆きにしかならない。
これは惨めな事なのだろうか。
「さぁ、くーちゃん」
私はゆっくりと目を開ける。
良い子だから、ちゃんと暴走してね?




