朱ケ時雨レ vorbesc. ・・・
僕は人間が嫌いだった。
流行り病で死んだ両親。両親が死んでから態度を変えた村人達。それを見て、まるで最初から何も無かったかのように僕から離れて行く友人達。
物を投げ付けてくる人。腐ったものを見るような目で見てくる人。口汚く罵ってくる人。暴力を振るう人。蔑んでくる人。軽蔑してくる人。それら全てを放棄し存在を消した人。
人間には愛があって勇気があって希望があって夢があって。それら暖かいものを人間は色々持っている分、それとは逆の冷たいものも、人間は確かにその手の中に持っているんだと僕はその時初めて知った。
僕は両親を失った。次に家を失った。友達を失った。知り合いを失った。居場所を失った。生きる意味を失った。
だから今僕にあるのは僕自身だけ。僕が持っているのは『僕』という個体だけだった。
僕という個体は何をするでも無かったけれど、欲望に赴くままに歩いて食べて寝て生きてきた。
米を食べた。野菜を食べた。果物を食べた。虫を食べた。葉を食べた。根を食べた。土を食べた。そうして幾日という日々を僕という個体は過ごしていった。
変わらない世界で終わらない今を、確かに僕は生きていた。
彼に会ったのはそんな時だった。
僕が欲望に赴くままにいつものように食べ物を口にいれ喉に流していた時。すると後ろからガサリと小さな音がした。
振り返るとそこには口元に赤い色をべったりと付けた『人間』がいた。知らない子だった。人間は嫌い。だけどその子からは僕と同じ匂いがした。口元に赤い色。口には赤い牙。僕はその子に問いかけた。
「君は何を食べてきたの?」
「人間」
淡々とした声。だけどその子の視線は僕ではなく僕から逸らすかのように違う方向へと向けられている。その子の髪の毛は長く、それが顔の半分を隠してしまっているから、その子がどんな顔をしているのかは分からない。その髪の毛ですら、少しばかり赤い色に染まっている。
赤い色を身に付けたその子は人間を食べて来たと言う。僕は人間を食べたことはないけれど、果たして人間というものは食べられるものに入るものなのだろうか。
「人間は美味しい?」
「分からない。食べろと言われたから食べただけだから」
僕はその子が少しばかり羨ましく思えた。命令されて食べ物を食べられるだなんて、なんて贅沢な生き方だろうかと。
「君は何を食べていたの?」
今度は僕がその子に問いかけられる番だった。僕は手にしていたものをその子に差し出す。
「土」
さらさらとした土は、差し出した僕の手の中から少しずつ下へ下へと滑り落ちて行く。滑り落ちずに少しだけ残った手の中のソレを僕は傾けて全て下へと落とした。
「土は美味しい?」
「美味しいよ」
嘘でも冗談でもなく僕はそうその子に伝えた。僕にとって食べられるものは全て美味しいものだ。米も野菜も果物も虫も。口の中に入れられて、喉を通って胃の中に入るものは何だって美味しいものになる。僕と言う個体が食べ物だと認識したものは全て美味しいものとなるのだ。
そんな僕の言葉に驚いたように、その子が目を見張り僕を見る。
「人間は……、土を好んで食べる生き物なの?」
その子の驚いたような表情。僕はその時初めてその子の顔を真正面から見た。
僕と同じぐらいだろう年端のいかない男の子。驚いた表情で僕を見るその子の目は夕陽のような『赤』。真っ赤だった。
その子が身に付けている赤の中で、その目の赤だけが鮮やかに爛々と照り輝いているのが分かる。鮮やか過ぎるその赤色を目を離せずにずっと見ていると、その目の赤が深いところで濃淡を増していくのが見えた。こんな赤を僕は今まで見たことがない。
その子の目の赤に僕が釘付けになっていると、そんな僕に気付いたのかその子が慌てて顔を剃らしてしまった。長い髪がその子の赤い瞳を隠す。
「どうして目が赤いの?」
「……人間を食べたから」
人間を食べた人間の瞳は赤く染まるらしい。知らなかった。
「僕も人間を食べたら君みたいに赤い目になるのかな」
別に赤い目になりたいわけじゃなかったけれど、僕はその子に聞いてみた。その子は首を横に振り否定の言葉を僕にぶつけた。
「ならない」
その子はそれだけ言って走っていった。だから僕はその子を追いかけた。追いかけたけど、その子の足は相当早いらしく、すぐに姿が見えなくなってしまった。
数日後、僕は『鬼』の話を聞いた。
「君は人間じゃなかったんだね」
その子は自分の事を『吸血鬼』だと名乗った。
「見た目は全然変わらないのにね」
「変わらなくても『人間』じゃない」
「そうだね」
その子は紛れもなく鬼だった。数日前、その子が食べた人間達を僕は見た。とてもじゃないけど、普通の人間には真似できないような『食べ方』だった。あれをこの子がやったのかと思うと『吸血鬼』というものはなんて恐ろしいもの達なんだろうと思う。僕ら人間と同じ姿で僕ら人間には出来ないことをする。
「ねぇ、人間は美味しい?」
僕は前に聞いた事をもう一度その子に尋ねた。その子は今度は「美味しい」と答えた。その言葉を聞いて、僕の顔は自然と緩み綻んでいく。
命令されて食べていた人間を、彼は美味しいと感じる事が出来るようになっていた。それが何故かとても嬉しく思えた。それが何故だかとても喜ばしく思えた。素直に良かったと、そう思えた。
「……どうして笑うの?」
彼が聞く。
「嬉しいからだよ」
僕は答えた。
僕を見る彼の目は黒。そうしていると僕とは何も変わらない彼の姿。そして、彼とは何も変わらない僕の姿。
「……僕も、食べてみようかな。人間」
ぽつりと溢した言葉。言ってみてからすぐにその言葉の可笑しさに笑ってしまった。
「どうして笑うの?」
彼が聞く。
「可笑しいからだよ」
僕は答えた。
鬼の話を聞いた。皆凄く怯えていた。恐れていた。恐怖しか感じていなかった。僕も恐ろしいと思った。怖いと感じた。だけど、それ以上にやはり彼を羨ましく思える自分がいたのだ。
目の前にいる彼と僕は何も変わらない。だけど、確かに違う存在で『人間』にとって彼は脅威の塊でしかない。『吸血鬼』という名の彼。『人間』という名の僕。僕にとって彼は脅威の塊であるべきなのに、僕は彼を羨ましく思ってしまっている。畏怖すべき存在であるはずなのに、羨望として彼を見る。それがとても可笑しかった。
「でも僕には君みたいな牙がないから。だから人間は食べられないかな」
「……あげられるよ」
小さな呟き。彼を見る。
僕を見る彼の瞳が徐々に赤く染まっていく。黒から赤へと徐々に色を変えていくその瞳がとても綺麗だった。美しかった。
人間を食べたから赤く染まったのだと言った彼の瞳。夕陽のように赤くて人間の血の赤よりも赤く光る朱い色。
ずっと見ていたくなるほど綺麗な、そんな吸い込まれそうなほどの赤い色に、僕はそっと手を伸ばした。
あげられるよと言ったものを、彼は僕にくれた。だけど、彼が僕にくれたのは人間を食べるためだけのその鋭い二本の牙だけじゃなくて、その綺麗な『赤』も確かに彼が僕にくれたものだった。
血の雨が降る。
赤い色に赤い色が染まっていく。
鮮血のようだと誰かは言うかもしれない。だけど、ここには僕と彼以外生きている者はいない。
「時雨」
ここで彼と約束を交わす。
一生で一緒の約束を交わす。
「ねぇ、オルロック」
終わらない世界の終わらない未来を。
誰かが願った希望の世界を。
何処かを探し何処かへと向かう誰かを。
変わらない世界で終わらない今を、僕達はこれからも生きていく。
頬に付いた鮮やかな『朱』を、僕は自身の手の甲で拭った。




