天使降臨
「吸血鬼の苦手なものって、何か知ってます?」
私は目の前にいる男に訊ねる。だが、男はちらりとこちらを見ただけで、それに答える事はなかった。
「吸血鬼の苦手なもの、十字架、にんにく、太陽の光。とりあえず代表的なものはそれみたいですよ」
吸血鬼。
ヴァンパイア。
血を吸って生きる、夜の生き物。
「吸血鬼さんも苦手なんですか?そういうの」
特にこれといった理由があったわけではない。ただ、疑問だったから、何となく気になったから聞いてみただけだった。
特に他意はなかった。
「試してみるか?」
「へ?」
吸血鬼の男が私を真っ直ぐに見つめながらそう言った。
じっと眼差しはこちらを見つめたまま。その瞳からは何も感じ取れない。
それが冗談なのか、本気なのか、嘲りなのか、中傷なのか、自傷なのか、からかいなのか。
『試してみるか?』
試して欲しいのか。
試して欲しくないのか。
私は吸血鬼の男に見つめられたまま、こう口にしていた。
「…やめときます」
やっぱりよく分からない。何を考えているのだろう。何も考えていないのだろうか。
大人の気持ちは分からない。
吸血鬼の気持ちも分からない。
中学生になったら解るかも、と思っていたがそうでもないらしい。まだまだ大人にはほど遠い、ということか。
「部活、決めなきゃな…」
そう呟いた私の言葉には何の反応も見せなかった。聞こえていたのか聞こえていなかったのか。
関心がないのか。
持って欲しい、とも思ってはいないのだけれど。
それから数日後、
吸血鬼の男は姿を消した。
やっぱりよく分からない。
――――――――
「あ、吸血鬼の目を使うのはやめてね」
「…………」
名々賀は腕で大きな×を作る。
「…そんなことまで知っているんですね」
名々賀は当たり前だ、とにやりと笑った。
「写真を撮るにはまずそのものについて知る必要があるからね。何処にいるか、何処が好きか、何をしている時が一番いい顔をするか、安らげる場所は何処か、この表情の時は敵を見つけた時、この動きは子供を探している時。一番いい写真を撮るにはまずその生き物の生態をよく観察することから始まる。観察に始まり観察に終わる。腕の善し悪しはそこで決まると俺は思ってるんだよね。言ったでしょ?俺、野性動物とか撮りたい人なの」
「………」
それはつまり私は野性動物と一緒ということか。
動物か人かと言われれば人に近い存在なんですがね。
私はため息をついた。
「分かりました。でも、知っているとは思いますが、痛みは感じちゃいますので」
「どっちかっていうと俺はSな方なんだけど、まぁ頑張ってみるよ。あ、でも首じゃなくて腕でいいかな?そっちの方が見やすいし」
「……分かりました」
名々賀が腕を捲る。名々賀がソファに座ったままなので、私がそっちに近づき不本意だが名々賀の隣に腰を下ろした。
名々賀が鼻唄混じりに楽しそうに、はいどーぞと言いながら腕を突き出す。私はその腕を掴んだ。
毛が無かった。
「………」
「剃っておいたんだ。やっぱ嫌かなと思って。そんなにごわごわって訳じゃないんだけど、首は毛がないから。やっぱ同じようにない方がいいよなって思って」
血を吸われる事も想定内で計画的だったと言うことか。
本気で嫌けがさした。
この男は牙が食い込む痛みを知らない。その痛みは尋常じゃないぐらい痛いのだ。離せと言ってもそのまま噛みついていてやろうか。
そうとまで思った。
私は目を閉じ、目を開ける。そこにあるのは吸血鬼の瞳。
さっきまで煩かった名々賀は気配を殺すかのように静かになっていた。
ゆっくりと腕に口許を寄せていき私は口を開き、
ずぶりと
牙を突き立てた。
びくりと腕が緊張のためか痛みのためか、固くなるのを感じた。予想に反して、名々賀は声を上げなかった。
そして私も。
思っていたよりも全然早く、名々賀の腕から牙を抜いた。
「…っ痛ってててて。やっぱ痛いな、じんじんする。じんじんっつーか、ずくずく?腕に力がいまいち入らないな。………、進藤ちゃん?どうかしたか?」
「…………」
私は口許に手をやりながら動けずにいた。だって予想外にもほどがある。何故この最低で最悪な男の血が。
甘く感じるのか。
「…………」
「進藤ちゃーん。どうかしたのー?大丈夫かー?」
「…大丈夫です。何でもないです」
血が甘い、だなんて言えなかった。言いたくもなかった。こんな男の血が甘いだなんて信じたくなかった。
「…大丈夫、だけど何でもないって事はなさそうだよね。俺、そういうの凄く気になる方なんだよね。秘密とか隠し事とかさ。だから…、俺に写真を使われる前に喋っといた方がいいよ」
隣で名々賀が笑う。邪気のなさそうで、裏では何かを考えていそうな。そんな笑顔だ。
「……甘いんですよ。名々賀さんの血が甘かったんで驚いてただけです」
そう言うと、名々賀はきょとんとした。
「そうなの?俺の血、甘いんだ?それはちょっと……嬉しいな」
そう言って名々賀は自身の腕に付いていた血を舐める。
「…血の味しかしない。甘くないけど」
「吸血鬼にしか感じないと思いますよ。血の味なんて」
そっか、残念。と名々賀は肩を落とした。
どうしてこんな男の血が甘いのか。はなはだ気に入らない。不味かったら良かったのに。こんな男の血なんて。
こんな男の血が、鎹の血のように甘いだなんて、何か無償にしゃくだった。
「進藤ちゃーん」
名々賀が私を見ていた。
「今、何考えてたの?」
「……別に、何も」
そう言ったのに、名々賀は何もかも分かっているよとでも言うかのようににやにやと笑っていた。
「可愛いねぇ」
「………」
ふふふと名々賀が楽しそうに笑う。こんな男に可愛いとか言われても嬉しくはない。
「ね、進藤ちゃん」
そう言って名々賀がソファの上を滑るようにして私に近付く。さして広くもなかった距離が、さらに縮まる。
「な、んですか」
近すぎる距離に戸惑う。
名々賀が手を伸ばしてきて私の髪にさらりと触る。
「進藤ちゃんって可愛いね」
「そ、れはどう、も」
何だろうか。
名々賀の何だかよく分からない態度に、私はギクシャクと体を強ばらせる。
今だ名々賀は私の髪の毛を触っているままだ。
「駄目だねやっぱ、会っちゃうと。もっと知りたくなる。もっと見ていたくなる。何でかな。進藤ちゃんが予想に反して可愛かったからかな」
さらりと名々賀の手が髪を滑り頬へと落ちる。
びくりと体が強ばる。
とん、と私の背中がソファの端に当たった。知らず、後ろ後ろへと体が動いていたらしい。
「あ、あのっ」
とりあえず何か言わないとと思い頭を巡らせる。そして出てきた言葉がこれだった。
「わ、わたし、動物じゃないのでっ!」
自分でも何を口走ったのかよく理解していなかった。
少しの間の後、名々賀が声を出して笑う。お腹を押さえて爆笑する。
「あっははははは!ど、動物って、動物って…!あはっはははっ!」
笑う名々賀に、私は顔を赤くする。
「あー、ヤバイ、やばい。…ヤバイなぁ。そんな事分かってるよ。まぁでも一種の動物なんだけどね。俺も君も。………、でもまぁ、そうだね。動物じゃない。ペットじゃない。君は女の子で…」
すっと名々賀が腰をあげて、体全体で私に近付いてくる。
「俺は男」
そう言った名々賀の黒い瞳が私を見る。動けない。でも逃げないと。どくどくと心臓が痛い。逃げないと。早く。腕が近付いてくる。逃げないと。この男から。早く。
逃げないと。
腕を後ろに伸ばす。
ずりっと手が滑った。
「………っわ!?」
私はソファから転げ落ちた。
静寂の後、名々賀が爆笑する声が家に響き渡る。
恥ずかしさに顔が熱かった。
ひとしきり笑った後、名々賀は私に手を伸ばしてきた。まだ少し笑いながら。
「だ、大丈夫?まさか転げ落ちるとは思わなかった」
くすくすと笑う名々賀。
恥ずかしくて顔を上げられずにいたら、すっ、と名々賀が屈んできた。
ぎょっとして、服が汚れるのも構わずに座り込んだままずりずりとそのまま後ろに後退し、名々賀から距離を取る。
名々賀はにやりと意地の悪そうな顔でこちらをみていた。
「知ってた?進藤ちゃん。男ってね、逃げられると追いかけたくなる生き物なんだよ。逃げられると、追いかけて追いかけて追いかけて追い詰めて。で、食べちゃうの。ぺろりと。進藤ちゃんも女の子だもんねぇ。俺、最初は別にその気無かったんだけど進藤ちゃんがあまりにも可愛いから。行動とか動きとか表情とか。たまらないよね。なんか小動物みたい。って事は、俺は肉食動物ってことになるのかな」
どんっ、と背中が壁にぶつかる。近付いて来る名々賀からずりずりと後ずさりながら逃げて来たが、後ろにはもう行くことは出来ない。
立ち上がりたいが、なかなか足に力が入らない。
その間にも、すでに名々賀は目の前にいた。
どくっ
どくっ、と心臓がガンガン胸を叩いてくる。
逃げないと。
早く。
早く。
すっ、と名々賀が屈む。名々賀の顔がすぐ近くにくる。
「………っ!」
「進藤ちゃんさ、彼氏いる?」
にこりと笑う名々賀。
か、彼氏。
彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏。
彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏。
「い、います」
名々賀が驚く。
「いるの?」
こくこくと思いっきり頷く。
思案顔で何か考えてから、名々賀は「ああ」と何か理解したような顔をした。
「もしかして写真の彼?鎹双弥」
「そ、そうです」
本当の彼氏ではないが、そんなの今はどっちでも構わない。切羽詰まってた。逃げたい。
「なら大丈夫じゃない?だって、鎹は進藤ちゃんの本当の彼氏君じゃないんだし」
「…………」
分かってた。
分かってたよ。
多分知ってるんだろうなって。
でもいちるの望みをかけてみたくなったのだ。出来ればこれで万事解決したかった。
解決はしなかった。
体の両横に、支えるようにして地面に置いていた私の手を名々賀がすっ、と握る。びくりと肩が震える。
玲衣と手を繋いだ事はある。だけど、あの時とは全く違う。
なんか、色々。
艶かしい。
名々賀が発する妙な色香が私の自由を奪う。
「俺の彼女に、なってくれない?」
耳元に唇を寄せ、名々賀がそう囁く。
艶めかしい声色。
声が出ない。
くすりと名々賀が微笑する。
「キスして、い?」
名々賀が、握っていた私の手をさらにきつく握る。どくっどくっと心臓が激しくて苦しい。息がしずらい。動きたいのに動けない。名々賀の黒い瞳がじっと私をみる。それが近付いて来ているのは気のせいか。ゆっくりと近付いて来ているのは気のせいか。
気のせいだよね。
気のせいだっていって!
お願いだからっ!
これは何かの間違いだと!!
「ぅおっ、お、脅しですか!」
声がひっくり返った。
ぴたりと名々賀が止まる。
「脅し?何で?」
心底不思議そうな名々賀。手は握られたままだ。
「しゃ、写真!」
何とかそれだけ言えた。
写真だよ写真。それで脅してたでしょ!つい今しがたまでっ!
名々賀は「そっか」と小さく呟き、手を離して立ち上がり何処かへと歩いていく。
離れていく名々賀に、ほっと胸を撫で下ろす。
だけど心臓はまだ煩い。
どくどくと苦しい。
早く落ち着け。
大丈夫。
大丈夫。
とりあえず逃げないと。
早く逃げないと。
頑張れ、私。
大丈夫、大丈夫。
逃げろ。
「進藤ちゃん」
「ぅわぁーっ!!!」
名々賀が戻ってくる。
早すぎる。
私の叫び声に笑いながら、名々賀は「はい」と私にフィルムと束になった写真を渡した。
「へ?」
「それで全部だから」
全部って…。
「好きだよ」
「…なっ……!」
何だ!?
何なんだっ!?
いまだ座り込んだままだった私の顔の横に、閉じ込めるようにして両手をつき、真剣な表情で名々賀が口を開く。
「君を俺のものにしたい」
も、
ものえあぉうおあいえ。
自分が今どんな顔でどんな表情をしているのか分からないが、名々賀がくすくすと笑うので物凄く変な顔でもしているのだろう。
「面白い」
くっくっと笑う名々賀。
何がそんなに面白いのか私には分からない。今はそれどころじゃない。
「キスしていい?」
名々賀の顔がまたゆっくりと近付いて来る。
「ちょっ、ぐ、あぉ」
近付いて来る名々賀の顔から逃げるように、私は顔を横に背ける。
口から出る声は言葉にならない。変な呻き声にしかならない。自分でも分かっているが言葉に変換できない。
動揺。
顔を背けてしまったので見えないが、名々賀が笑う気配は感じた。
顔を背けることによって無防備になった首もとに、名々賀は顔を近付けてくる。それが分かった。
びくっ、と体が意志に反して揺れる。
いつの間にか私の両手は、名々賀の両手によって動きを封じられていた。
感触を楽しむように、名々賀の右手が私の左手を、名々賀の左手が私の右手を触る。
逃げられない。
後ろも前も、
右も左も。
逃げ場がない。
泣きそうになる。
「進藤ちゃん、いい匂いがするね」
「………っ!」
だ、誰かっ。
誰でもいいからっ!
た、助けてぇぇーっっっ!!!!!
「静、やり過ぎ」
その声に名々賀がピクリとし、後ろを振り向く。
「…今、いい所だったんだけど」
不機嫌そうに名々賀がそう言った相手は、二階から降りてきたのか、階段の上で腕を組んでこちらをじとりと見ていた。
髪の長い、女の人。
美人。
歳のころは名々賀と同じぐらいか。
「何やってんのかと思ったら」
「何って。見て分かるだろ?口説いてる」
「…その子、怯えてるわよ」
「うん。可愛いよな。凄いそそられる」
「………」
私を置いて、話は進む。
誰だろう、この人は。
そしていつからいたんだろうか。ここに。
助かったけど。
物凄く。
ありがとう。
美人のお姉さん。
抱きついてもいいですか?




