夕の陽
数日後。
「杞憂だったわ。くーちゃんは大丈夫みたい」
そう言ったカグラの言葉に、私は安堵のため息を溢した。
「しーちゃんが半端者吸血鬼だったのが幸いしたみたいね。あと、量が量だけに特に何も問題にはならなかったみたい。ほんっと良かったわー、一時は本気でくーちゃんを亡き者にしてやろうとまで思ったぐらいよ」
そのカグラの言葉に、私は何とか笑顔を作りつつ微笑む。
「これにこりたら、くーちゃん、余計なことしないでよね。金、輪、際」
久遠は何も言わない。
「しーちゃんもごめんね?くーちゃんが馬鹿な事したばっかりに余計な不安を植え付けちゃって」
「いや、私は」
不安はあったが、久遠は大丈夫だとのことなので一安心はしているのだ。これでもし久遠に何かあった時には、自分に非がないとはいえ悔やんでも悔やみきれなかっただろうから。
「くーちゃんも謝りなさい!全く、くーちゃんがいつもいつもそんなだからこんな事態になったんだからね?解ってるかな?解ってないよね?うん、解ってる。くーちゃんが何も考えてないことなんて、私は理解してるわっ」
「………」
久遠が小さく、周りには分からないぐらいのため息をはいた。
そんな久遠を尻目に、未だ久遠の激しくやる気の無い性格について延々怒っているカグラに、私はおずおずと問いかける。
「カグラちゃん、私の血ってやっぱり人間には害なのかな?」
はっきりさせておきたかったのだ。私の血が有害か、それとも無害か。これから先何が起こるか分からないから。
「まぁ、一応吸血鬼の血だしね。何があるか分からないから用心しておいて損はないわ。くーちゃんが口にしたしーちゃんの血は少量にも満たなかったからいいけど、もしそれなりの量だったとしたら、やっぱり危なかったとは思うから。くーちゃんみたいに他人の血を口にしようとする馬鹿な人間なんて滅多にいないとは思うけどね」
カグラが久遠をちらりと見る。久遠はやはりそ知らぬ顔だった。
そんな久遠を見て、私は疑問を口にした。
「久遠君は何で血を舐めたの?」
答えが返ってくるのを期待はしていなかったが、意外にも久遠はわりとすんなり口を開いてくれた。
「…うまいうまい言うから。そんなに美味しいものなのかと思って」
カグラが久遠の血を美味しいと言うので、自分でも舐めてみた。だが、血の味しかしなかった。ので、他人の血を試しに舐めてみた。
と、そういう事らしい。
あと、これは私の解釈だが、多分寝惚けてもいたのだと思う。そうじゃないと授業中にあんな事はしない。
「馬鹿ね。普通の人間であるくーちゃんが血を美味しいと感じるわけないじゃない」
「………」
久遠が眉間に皺をよせた。私はそれを見ながら、カグラにもう一つ聞いておきたい事があったので聞いてみた。
「あと、特定の人間から何度も血を吸うのって、その人間に害とか与えないかな?」
実は少しばかり気になっていた。もしかしたら、鎹の血を何度も吸うことは、鎹の体に何かしらの害を与えてしまうのではないか、と。
カグラはその言葉にきょとん、と目を丸くして首を傾ける。
「しーちゃん、何言ってんの?そんなの、あるわけないじゃない。気に入った人間の血を何度も吸うのは吸血鬼として普通よ?吸血鬼ならお気に入りの血があっても不思議じゃないし。同じ人間から何度も血を吸うのなんて一般的じゃない」
本気で不思議そうにするカグラに、私はそれもそうだなとすぐに納得した。
私は何を心配していたのだろう。
「しーちゃん、気に入った人間でもいるの?」
「えっ、いやそういうのではないんだけど」
ふーん、と言ってからカグラは「まぁあるわよねぇ」と訳知り顔だ。
「早く吸血鬼様に会いたいものだわ。そしてくーちゃんの血を飲んでもらって、あまつさえくーちゃんの血を気に入ってもらえたら……っ、こんなに嬉しい事はないわ!!あー、早く見つからないかしら!私の吸血鬼様っ!!」
久遠がやはり嫌そうな顔をする。私の予想は正しいと思う。久遠はきっと………いや、違うかもしれない。ただ単に普通に血を吸われるのが嫌なのかも。
私も恋愛脳にやられ始めてしまったのかもしれないな。
ゲスの勘ぐりはやめておこう。
「てなわけで、一応解決したから伝えておくね」
私は昼休みにこっそり小日向を呼び出しそう報告した。
小日向はきょろきょろと辺りを見回し、いつも以上に何かに警戒している風だった。
私はそんな小日向を訝しみ、眉を上げて小日向に言う。
「どうかしたの?そこまで警戒しなくても誰もいないし……。いたとしても話は聞こえないと思うけど」
「いや…、進藤さん、気付いてないかもしれませんけど、クラスで進藤さん噂されてるの知ってますか?」
「…噂って?」
私は嫌な予感に薄ら寒くなった。もしかして、私が吸血鬼である事がどこからかバレてしまったのであろうか。そうなると、私はここにいられない。学校だけじゃなく、家にも。そして、吸血鬼である私が、鬼である私がどんな目にあうか、分からない。最悪、殺されても無理はない。
ぞっ、として背筋に冷たい汗が流れた。
だが、小日向の言う噂はそんな危機迫る噂ではなかった。
「鎹君と付き合ってる、って噂です」
「…………は?」
間の抜けた返事をしてしまった。
「何だってそんな噂が…」
久遠とのあらぬ疑いが解けて……、いや正確には解けていないのだが、一応の解決を迎えたと思ったら次は鎹との噂。
勘弁して欲しい。
「何で突然そんな噂が…」
「……多分、あの時の階段での僕の発言が原因かと」
階段での小日向の発言。
そういえば、私と鎹の名前を結構連呼していたな、と遠い記憶が甦る。
あの時の小日向の叫び声を誰かが聞いていて、何を誤解したのかあらぬ噂がたったということか。
普段上級生しか使わない階段だったとはいえ、多分同じ学年の生徒も近くにいたのだろう。それか、あの時一緒に階段掃除だったクラスの誰か。はたまた上級生の中に鎹や私を知る者がいたのかもしれない。
「進藤さんと鎹君の耳には入らないよう噂は広がってますが、僕の耳にはバシバシ入ってきてます」
「まためんどくさいことに……」
何だってこう次から次へと問題が出てくるのか。
「進藤さん、陰で魔性の女とか言われてますよ」
「魔性て」
んなアホな。
「だから、僕と二人でいるのも危ないかと……。前にちょっと噂になりましたし」
前に、とは小日向が昼休みに私に声をかけ「吸血鬼にして下さい」と頼んできた時のことだ。
すぐにそんな噂は消えてくれたのだが。
「何だかすいません…。僕が悪いですよね。前も今も」
「いや、まぁ…」
その通りだが、その通りだと本人に言えるわけがない。
ただ、これは本当に面倒なことになったなと私は頭をガリガリと掻く。
私に対して妙な噂がたってしまっている。それ即ち私の存在が否応なしに目立ってしまうということだ。
「…………」
本当に潮時だな、と思った。
私は決心し、小日向にある事を頼んでからその場を離れた。
「鎹君」
私は、先に来ていたらしい鎹の背中に声をかける。鎹は振り向き、立ち上がる。
「何でこんな所なんだ?いつもの多目的教室じゃ駄目だったのか?」
鎹は尻についた塵を落とすようにぱんぱんと払う。
ここはとあるビルの屋上。立ち入り禁止のここなら、誰かに聞かれることも見られることもないだろう。だから小日向に頼んで鎹に伝言をしてもらったのだ。学校が終わったらここに来るように、と。
「学校じゃさすがにもうマズそうだったからね」
「俺と進藤が付き合ってる、とかいう噂のことか?」
知ってたのか?と聞いたら、「小日向に聞いた」との鎹の答えが返ってきた。
「知ってたのなら話は早いね。まぁそんな訳だから学校では危ないかと思ってここに呼び出したの。いつもの場所がいくら人が来ない教室で、さらに人通りも少ない廊下に面した教室だと言っても、どこに人の目があるか分からないしね。それに…、何?」
鎹がじっと、何だか不気味なぐらいにじっと見ていたので、私は話を止めて声をかけざるを得なかった。
鎹はそんな私に、「いや」と軽く笑う。
「二度と話しかけるな、って言われてたのに話しちゃってるよなぁ、って思って」
私は言葉につまる。
「…あの時は私も言い過ぎた。ごめん。謝る」
「いや、俺が悪かったし」
悪かった、と鎹。
嫌にしおらしい鎹が少々不気味だったが、気にせず話を続ける。
「で、私と鎹君の変な噂がたっちゃっている以上、これ以上関わるのはよくないと思うの。私のためにも、鎹君のためにも」
だから。
「だから…、今までありがとう」
私は頭を下げて、鎹にお礼をいう。
「今までありがとう。私に血をくれて。凄く嬉しかったし、凄く助かった。鎹君のその優しさは一生忘れないよ。これ以上その優しさに甘えて、またあらぬ疑いや噂でも流されたら吸血鬼である私の立場も危うくなるかもしれない。だから…」
「わかった」
鎹が笑う。
「迷惑はかけられないからな。俺もその方がいいと思う」
そう言った鎹の顔は晴れやかで。やはり何処か、いつもと違う気がするのは私の気のせいなのだろうか。
「結局久遠とはどうなんだ?」
そう言った鎹。小日向からは何も聞いていないのだろうか。
私は簡単に鎹に説明した。
「なるほどなぁ」
「本当に人騒がせというか。無気力変人久遠もいい加減にして欲しい」
「そうだなー」
屋上の柵に凭れて笑う鎹。
屋上だからか風が強い。ばさばさと髪の毛が舞う。肌寒さに両腕を擦る。夕陽が出てきて鎹を照らす。かっこいい、の部類に入るだろう鎹にそれはひどく似合っていた。
様になるなぁ、と目を細めて眺める。
「まぁちょうど良かったのかもな。進藤も年頃の女の子だし、俺も年頃の男だし。彼氏彼女がいても全然おかしくない年齢だし。それに……」
鎹がぺらりとポケットから封筒を取り出した。ハートのシールで封された、長方形の封筒。手紙。
「またラブレター貰ったし」
嫌みか。
「モテるね、鎹君」
「んー、まぁ同じ子だし」
「えっ?!」
同じ女の子から二度もラブレター。それは凄い。その女の子がすっごく鎹の事を好きだということではないか。
「やっぱり諦めきれないので、だってさ」
「そうなんだ」
そこまで好きになれるって、最早才能ではなかろうか。女の子って凄いんだなぁと改めて感心した。恋愛に関して、女は物凄く強い心と忍耐力を持っているということか。
私が感心していると、鎹は「付き合おうと思う」と言った。私は目を見張る。
「タイプだし」
「…そう」
そうなんだ、と普通に思った。私は真顔だったと思う。
だけど、鎹が言った『付き合おうと思う』という言葉に何故か、胸の辺りに引っかかりを感じた。どくどくと、心臓の音がさっきよりも早くなった気がする。
何故だろう。
素直に「良かったね」と言えなかったのは。
「おめでとう」と笑って祝福してあげられなかったのは。
「彼女とらぶらぶ出来るようになって嬉しい?」と、嫌がらせのごとくからかってやれなかったのは。
「頑張れよ」と応援してあげられなかったのは。
きっと
その日の気温が低くて、風がびゅうびゅう強く吹いていて、消えゆく夕陽がやけに綺麗で儚くて、
とても寒かったからだと思う。
妙に冷えていたからだ。
そう思う。
この日から、私と鎹は本当の他人になった。何の関係もないただの他人。何の関わりもないただのクラスメイト。
私と鎹を繋ぐものは
何もない。




