厄介とお節介
「今日の授業はここまで。各自、復習しておけよー」
教師の合図で3時間目の授業が終わる。
勉強をしてるフリをして窓の外を眺めていた私は、開いていた教科書と何も書かれていない真っ白なノートを閉じた。
今気づいたことだが、英語の授業だったのに数学の教科書を出していたようだ。何も問題はなかったのだし、よしとしよう。
机の上にあるものを全部机の中に押し込んでいると、大須賀さんちの柚葉さんがパタパタと犬のように寄ってきた。
「千晴さん、千晴さんっ、次は体育ですから早く更衣室に行きましょう」
「わかった。わかったから制服を引っ張るのはやめて、皺になるから」
体育の授業が嬉しいのか、楽しそうに私のシャツをぐいぐいと引っ張って急かされる。
キツイし面倒だから体育の授業は嫌いだ。運動神経も残念なので成績も悪い。
憂鬱な気分で立ち上がり、体操服が入っている鞄を持って柚葉と一緒に教室を出ると、美空が廊下の壁に身を預けて待っていた。
「誰を待ってるの?」
「それはもちろん大須賀ちゃんよ。転校してきて初めての体育だから、更衣室の場所がわからないと思って」
「ああ、なるほどね。柚葉、美空が更衣室に連れて行ってくれるってさ」
「え、千晴さんは一緒に行かないんですか?」
「私はトイレで着替えるから行かない。……美空、あと宜しく」
「任せなさい」
柚葉はしばらく不思議な顔をしていたけど、なんとなく事情を察したのか何も言わずに頷いて美空について行った。
自分の口から事情を説明するのは面倒なので助かる。私が言わなくても、どうせ後で美空から聞かされるに違いない。
「おっと、急がないと」
休み時間は短いから急いで着替えないと授業に遅れてしまう。
チャイムが鳴る前にグラウンドに並んでいないと、罰としてトラック走りこみの刑になるのだ。それだけは避けたい。
近くの女子トイレに入り、急いで体操服に着替える。最後に学校指定のジャージを上下着て、着替え完了だ。
狭い個室で着替えるのは窮屈で大変だが、周りを気にしないでいいので気が楽だった。
私がトイレで着替えるのは、余計なトラブルを起こすことを防ぐ為でもある。
実は何度か更衣室で着替えたことがあるんだけど、なぜか結構な確立で私のセクハラが発動してしまうのだ。
着替え中で薄着になった女の子にあーんなことやこーんなことをやってしまったので、更衣室での着替えを自粛している。
別にクラスの子から更衣室を使うなと言われたわけじゃないけれど、悲しいことに変態痴女と認識されている私なので、
一緒の部屋で着替えようものなら蔑みの目線を向けられて嫌がられるのだ。
他人の目なんて気にしないけど、あのままずっと更衣室で着替えていたらいつか抗議されそうだったので
そうなる前にトイレで着替えることにした。面倒だけど、後々厄介ごとになるくらいなら、このほうがいい。
着替えが終わったのでトイレから出て更衣室に向かう。
誰も居ないのを確認してから部屋に入り、荷物を自分のロッカーに入れて集合場所のグラウンドへ急いだ。
「千晴さん!」
「おーい千晴~、こっちよ~!」
靴を履いて外に出ると、美空と柚葉が大きく手を振って私を呼んでいた。
美空は下だけジャージを履いて、柚葉は上だけジャージを着ている。
ちなみにうちの学校の体操服の下は短パンだけど、未だにブルマ指定の学校ってあるんだろうか?
「げ、今日はハードル走かー」
2人の元に駆け寄って、グラウンドに準備されたハードルを眺める。
100mの間に一定間隔で置かれているハードルを飛びつつ走らなければいけないらしい。
その向こう側を見てみると、男子は棒高跳びをやっているようだった。あっちの方が楽できそうでいいなぁ。
しばらくすると体育教師がやってきたので、全員整列して準備体操をはじめる。
それが終わるとハードル走をするために名簿順に並んだ。あいうえお順なので、「天吹」の「あ」である私は一番最初に走らなければならない。
タイムを計るのかクラスの体育委員がストップウォッチを握ってゴール地点に立っている。
さっそく名前を呼ばれたので、スタートラインに並んだ。
「よーい、スタートっ!」
先生の合図で私は地を蹴り、走り出した。
すぐにハードルが迫ってきたのでタイミング良く飛んでから前足を真っ直ぐ伸ばして障害物を跨ぎ、引っかからないように後足をぬく。
無事に一個目、二個目、三個目と順調にクリアして、スピードを一定に保ちながら走り抜けた。
100mとはいえ、障害物を飛ばなければいけないせいか、目の前のゴールを遠くに感じてしまう。
そして最後のハードルに差し掛かり同じように飛び越えようとしたところで、間抜けなことに白黒の横木に後足がひっかかってしまった。
ゴール目前で気を抜いてしまったのが仇になったようだ。
(しまっ…!?)
なんとか足を抜こうとハードルを離そうとしてみたが、思うように足が動いてくれない。
どうすることも出来ずクラスの皆が見守る中、ハードルを巻き込んでズザーッ!と砂埃を立てながら盛大にすっ転んでしまった。
ああ……今の私、最高に恥ずかしい格好でグラウンドに横たわってる……。情けなくて起き上がるのも億劫だ。
「千晴さんっ!」
緊迫した声が聞こえたので寝そべったまま振り向くと、柚葉が慌てて駆け寄ってきた。その後ろに美空と上原さんもいるみたい。
いつまでも地面と戯れてるわけにもいかないので、ゆっくりと体を起こして座る。
柚葉はジャージについた砂を払ってくれて、身体を支えてくれた。
「天吹さんっ、怪我はない!?」
「……千晴、大丈夫?」
3人揃ってあまりにも真剣な顔で心配されたので、慌てて自分の身体を確認してみる。
足に力を入れて立ち上がり歩き回ってみたり、腕を回しても普通に動くので異常はないようだった。
「うん、全然平気」
「――馬鹿っ!膝を怪我してるじゃないの!?」
「膝?」
よく見てみると、左の膝の部分を擦り剥いてしまったのかジャージ越しに血が滲んでいた。
青いジャージに赤黒い血が滲んで、茶色っぽくなっている。
「あー、こんな擦り傷、ほっといてもすぐに治るって……」
「そんな軽い怪我じゃないよ!こんなに血が出てるのにっ!!」
自分でジャージを捲りあげてみると、確かに左の膝は血だらけで見た目が酷いことになっていた。
早く水で洗って手当てして貰ったほうがいいかもしれないけど、これぐらいなら放っておいても治りそうな気がする。
美空たちにそう言ってみたら、3人同時に怒られてしまった。手厳しい。
(…………)
視線を感じたので後ろを振り返ると、クラスの皆に見られていた。
耳を澄ませると、クラスの子たちが笑っているのか、遠くから耳障りな声が聞こえてくる。
流石に声が癪に障るんで、せめて聞こえないように笑ってくれればいいんだけどな。
あまり感情を顔に出すと美空とかお節介な人たちが気にしてしまうので、無心を装おう。
「天吹、大丈夫か?」
傷の具合を見ていると、ようやく先生が心配して駆けつけてくれた。
今しゃがんで膝の怪我をじーっと凝視されてるんだけど……なんか照れるなぁ。
怪我を確認して立ち上がった先生は、痛々しい表情をしていた。
「これは酷いな」
「血がいっぱい出てますけど、深くはないみたいなので大丈夫です」
「しかし保健室でちゃんと手当てしたほうが良さそうだな、ええと」
「私が付き添います」
身体を支えてくれていた柚葉が、早々と名乗りを上げた。
連れて行ってくれるのは助かるんだけど、酷く胸騒ぎがするのは何故だろう。
あれ、そういえば今日の午前中は保険医の先生が外出してて保健室には誰もいないって朝のホームルームで言ってなかったっけ?
……保健室で好意を向けられている女の子と2人きり…というシチュエーションはすごく嫌な予感がします。
「いや、一人で大丈夫だから」
「でも」
ついて来られると余計に悪化しそうです。
とは言えない。
同行を断っても、彼女は心配そうな表情のままなかなか身体を離してくれない。
大怪我したわけじゃないんだから、そんな辛そうな顔をしなくても大丈夫なのに。
「その足で一人で行くのは大変だろうし、クラスの保険委員に連れて行ってもらいなさい」
「保健委員…」
って誰だったっけ?
保健室に用がある時はいつも美空と一緒に行っていたから、保健委員のお世話にはなったことがない。
先生が言うことは拒否できないし、面倒だがその人と保健室に行くしかないだろう。
ていうか保健委員の人、私を連れて行くの嫌がるんじゃないだろうか。まあ、断られたら美空と行けばいいんだけど。むしろそのほうがいい。
「あ、保健委員、私です」
「じゃあ上原、頼んだ」
すぐ傍にいた上原さんがおずおずと手を上げた。
名前もわからんクラスの子に介抱されるよりは上原さんの方が安心できるけど、不安がないわけでもない。
けれど先生のご指名だし、大人しく彼女にお願いすることにしたのだった。
名残惜しそうにしていた柚葉と交代して、身体を支えてくれてた上原さんと一緒に保健室に向かう。
その後……保健室でお約束の展開になったのは言うまでもないだろう。
彼女と私の名誉の為に、詳細は控えておくことにする。
手当てを済ませてグラウンドに戻ってくると、全員タイムを計り終えたのか、もう誰も走っていない。
座り込んでくつろいでいる美空たちをすぐ見つけたので、近寄っていく。
「お帰り二人とも。みんなもうタイム計り終わったわよ」
「そっか、お疲れさま」
「おやおや~?上原ちゃんの顔が赤いけど、また二人でナニやってたのかな?」
「手当てしてもらっただけ」
「へっ!?わ、私の顔、赤いの!?」
上原さんは両頬に手を当てて熱を確認しているようだった。
…うーん、確かに少し赤く見えるかも。あれから結構時間は経っているはずなんだけどなぁ。
美空は何があったのかどうせわかってるくせに、私たちを面白半分にからかって楽しんでいるんだろう。
「千晴さん、浮気はいけないと思います」
「いや、浮気じゃないし」
何もしてな……いわけじゃないけど、わざとじゃないし、そんな関係でもないし、柚葉に言われる筋合いもない。
「そうそう。千晴は怪我してるから今度タイム計るらしいけど、上原ちゃんは今から計るみたいよ?ほら、先生呼んでる」
「わ、ほんとだ」
上原さんは一度だけ私の方を見てから慌てて手招きをしている先生の方へ駆けていった。
遠くなっていく彼女の後姿を見ていると、突然ジャージの袖口を軽く引っ張られる。振り向けば柚葉が不安そうな顔でこちらを見ていた。
「千晴さん、怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、うん。丁寧に手当てしてもらったし、痛まないから平気」
「…………そうですか」
ホッと安堵の息を吐いて、心底安心しているようだ。
まさか擦り傷ひとつでここまで心配されるなんて思わなかった。
甲斐甲斐しいというか、心配性というか……そんなに気を使われると背中がムズムズする。
「ねえ、千晴。大須賀ちゃんって運動神経いいのね」
「そうなんだ」
「だってタイム15秒台よ?陸上部顔負けの速さじゃない」
体育が好きみたいだったし、そうじゃないかとは思ってた。
保健室にいたから実際には見ていないけれど、15秒台って相当速い方なんじゃないだろうか。
美空も運動神経はいい方だけど、その彼女がここまで驚いているんだから、それほど凄いんだろう。
勉強も出来るみたいだし運動も得意でおまけに容姿が端麗ってなんだそれ完璧すぎる。
「速さだけじゃなくてフォームも綺麗だったし、先生もみんなも見惚れてたわよ?」
「へぇ……そりゃ凄い」
「そんなことないですよ。私は体を動かすのが好きなだけなので」
くっ、その謙虚さが余計に腹立つ。沢山のものを持っている彼女に比べて私は何も持っていないのだ。
どうでもいいと思っている心のどこかで、ないものねだりしている自分にも腹が立った。
「あ、ほらほら。上原ちゃんが走るみたいよ」
「本当だ」
美空に言われて目を向けると、スタートラインに立ち構えていた上原さんが、先生の掛け声と共に走り出したところだった。
スピードもそれなりに出ていて、リズムよくハードルを飛び越えていく。
決して速いとは言えないけどタイミングが安定していて、見てて安心できる走りだった。
ちょっと足の抜き方が甘いけれど、それでも引っかからずに進んでいる。運動出来なさそうな人だと思っていたけど、そこそこ出来るらしい。
――だが、そんなことよりも、私は彼女のある部分に目が惹きつけられていた。
「凄いよね、上原ちゃんの胸。ぶるんぶるんって凄い揺れてる」
「はい……羨ましいです」
どうやら私だけではなかったらしい。2人とも食い入るように上原さんの豊満な胸を凝視していた。
ハードルを跨ぐたびに彼女の大きな胸が弾んでいるので、どうしても気になってそこに目がいってしまうのだ。
ジャージを着ていないから余計に胸やお尻が強調されて目立っている。
これは男じゃなくても誰でも見ちゃうと思う。あの大きさはしかたないと思う。
「あ~千晴ってば上原ちゃんの胸ばっかり見てるわね?もう、えっちなんだから」
「おいこら、自分だって興味津々に見てたじゃん」
「千晴さんって胸が大きいほうが好きなんですか?」
「わ、いきなり何か言いだした」
「そうねぇ、千晴はどちらかと言えば大きいほうが好きだったわよね?」
「いや…胸のサイズとかどうでもいいし……興味ないし…」
「そ、そうですか」
私の答えに満足したのか、柚葉は嬉しそうに微笑んだ。
正直に言ってしまえば、今までの経験からやっぱり胸は揉んだ際小さいよりも大きいほうが気持ちいいと思う。
質感とか、触り心地とか、やっぱ違うんだよね。こんな馬鹿らしいこと、一生誰にも言うつもりはないが。
いつの間にか走り終えていた上原さんは、クラスの子達に囲まれて楽しそうに談笑しているようだった。
それからしばらくして号令がかかったので、急ぎ足で先生のもとに全員集合した。
「ハードルのタイム測定が終わったから、余った時間はクラスマッチの競技決めの時間にする。
体育委員を中心に仲良く話し合いで決めてくれ。それじゃあ解散」
話が終って先生がその場を離れると、皆はざわざわと騒いで競技を決める話し合いを始めた。
私はその集まりから少し離れたところで遠目に話し合いを眺めることにする。
(クラスマッチかぁ…めんどくさ……)
うちの学校は体育祭がない代わりに、年に二回、クラス対抗のスポーツ大会が行われる。
春にも一度あったので、私は比較的に地味で楽な卓球を選び、シングルで適当に頑張って適当に終わった。
今回もできれば卓球を選べるといいんだけど、確か前回と同じ種目は選べなかったはず。
次に楽な種目は何だろう……そうだ、ドッジボールの外野手になれば苦労しなくて済みそうだ。
「天吹さん、ちょっといい?」
簡単そうな種目を考えていると、体育委員の人に話しかけられた。
同じクラスだけど名前は覚えていない。
「ああ、種目?それなら――」
「天吹さんは前回卓球だったわよね?それじゃあ今回は中距離走に出てもらうから」
「はあっ!?なんで!」
「前回のクラスマッチで一番楽な競技に出た人は、今回一番きつい競技に出てもらうことになったのよ」
「なっ」
どうしてそんなことになった。ていうか誰だそんなこと決めたヤツは!
中距離走といえば確か1000mで、この馬鹿広いトラックを3周ほど走らなきゃいけなかった気がする。
どんなに頑張っても2周目でへばってしまう私が3周も走れるわけがない。
「あのさ、私が運動できないって知ってるよね?中距離走は勝ちにいく気ないの?人選ミスだよ?」
「アンタが運動苦手なのも知ってるし、負けるつもりもない。だから頑張りなさい」
「無理だっての!」
「あ、もう決定事項だから取り消しきかないのよ。それから中距離走に出るのは私とアンタの2人だから。それじゃそういうことで宜しく」
「待てこら体育委員っ!!えーと、えーと、名前知らないけどそこの体育委員ー!!」
完全無視されて憤っていると心配そうに柚葉が寄ってくる。
もうすっかり慣れたけど、隙あらば隣にいるんだよね…この子。
膝の怪我を気にしてくれているのか、さりげなく肩を貸してくれる。
「千晴さん。バレーで良かったら、代わりましょうか?」
「いや…いい……」
「でも」
「あの体育委員が許さないだろうし、無駄だと思う。ま、できる範囲で頑張るよ」
私の運動神経じゃクラスに貢献なんて出来そうもないけど、やるだけやってやる。
クラスの為に頑張るわけじゃないけど。
「無理なときは無理だって、言ってくださいね」
「……わかってるってば。心配しなくていいよべつに」
過保護な母親じゃあるまいし、そこまで甘やかしてくれなくてもいい。
美空といい柚葉といい、どうしてこう私の友人はお節介なのだろう。
柚葉はもしかしたら着々と私の好感度を上げているつもりかもしれないが、残念ながらその手は食わない。
絶対に攻略されてたまるかっての。
彼女に借りていた肩を返そうとして、ふと違和感に気づいた。
―――あれ? まさかとは思うけど。
「柚葉、もしかして………」
「なんですか?」
きょとん、と首を傾げる彼女。
「……いや、やっぱりなんでもない」
気になったことがあったけど、聞くのはやめておく。きっと私の気のせいだろう。
それより今気にしなければならないのはクラスマッチのこと。
たかが中距離走だから死ぬわけじゃない。面倒だけどクラスマッチなんぞ適当に頑張って終わらせるさ。
「あの、千晴さん」
「ん?」
「その……手が…ですね……」
消え入るような彼女の声と手の感触に違和感を感じて、恐る恐る腕の先を見る。
肩を貸してくれていたので肩に手を乗せていたはずなのに、どうして私の手は彼女の柔らかい胸元にあるのだろうか。
「ひぎゃあぁーーーーっ!!!?」
「………普通、悲鳴を上げるのは私の方だと思うんです」
頬を染めている彼女は、困ったように眉を下げて、小さく笑っていた。
*
*
*
夕日が差し込み、オレンジ色に染まった放課後の教室。
そこには3人の少女たちがひとつの机に集まって楽しそうに談笑していた。
とうに下校時間を過ぎているのだが、くだらない話に花を咲かせているのかいつまで経っても帰る気配はない。
「今日の体育の授業のアイツ、まじ傑作だったよねー」
「なんか漫画みたいなコケかたしてなかった?」
「ほんっとトロイよね~いつもぼけっとして何考えてるのかわかんないし。やらしいことでも考えてるのかな、あの変態」
「やだぁ、もうまじ引くんですけどー」
どうやら彼女たちはクラスメイトの陰口を言い合っているらしい。
何が楽しいのか解からないが、ケラケラと品のない笑い声が室内に響いていた。
……自然と自分の口がつり上がって歪んでいく。ああ、私も笑いを堪えきれないかもしれない。
「でもさぁ、なんで大須賀さんはあの変態にいつもくっついてんの?」
「なんか弱みとか握られてたりして!」
「ありえるぅ~」
「大須賀さんと円堂さんマジかわいそーだよねー」
「アハハハハハ」
(……………)
いい加減聞き飽きてきたことだし、そろそろ教室に入ろうか。
下で二人を待たせているから、あまり遅くなってしまうと心配してここまで迎えに来られる可能性がある。
さっさと用事を済ませて愉快な友人たちのもとへ戻らないといけない。
さて……私が突然教室に入ったら、陰口で盛り上がっている彼女たちはどんな反応をしてくれるだろうか。
ガラッ
「!?」
気配を殺していた私は、教室のドアを勢いよく開けて中へと入った。
途端に少女たちの話し声は消えて、みな驚いた顔で私の方を見ている。
これじゃ予想通りの反応すぎてつまらないくらいだ。
「ふふ、楽しそうな話してるじゃない」
「え、円堂さん」
困惑している彼女たちのもとに微笑を浮かべて近づいていく。
私は何もしていないのだから、そんなに怯えなくてもいいんじゃないかと思う。
「忘れ物を取りに来たんだけど。ええっと……ああ、あった」
自分の席に寄って、机の中に入れっぱなしだった英語のノートを取り出した。
今日は英語の宿題があるからこれがないと困るので、わざわざ取りに戻ってきたのだ。
ふふ、学校を出る前に気づいてよかった。
「ごめんなさいね、お話の邪魔をしちゃって」
「え、あの、ううん」「き、気にしないで……」「また、明日ねー」
私が普通に接したので先程の話の内容を聞き取れていないとでも思ったのか、彼女たちはぎこちなく笑って何もなかったように振舞っている。
平気でやり過ごそうとしている彼女たちは、実に人間らしい。それに誤魔化すことも悪いことじゃない。
どうせこの場にあの子はいないのだし、余計な波風をたてることもない。
何も言わず教室を去ろうとドアに手を掛けたとき、信じられないことに彼女たちは小声で陰口を再開させていた。
まだ私が教室の中にいるにも拘らず、だ。
「そういえばアイツ、クラスマッチ中距離なんだよね」
「天吹嫌いな子が不公平っていったらしいよ。楽な種目にさせたくなかったっぽい」
「アイツ運動音痴だから周回遅れで恥じかくんじゃない?いい気味よねー」
「やっだ、うちのクラスの恥になるじゃん~」
誰だって嘘をついたり、他人を貶めたりする。
私も善人とは言えないから、どこかの誰かを傷つけながら生きている人間のひとりだろう。
でも、そんな私でも譲れないものや許せないことだってある。
ガタンッ!!!!!
「「「…えっ!?」」」」
近くにあった誰かの机を足で蹴っ飛ばしたら、周りの机や椅子を巻き込んで倒れてしまった。
そんなに強く蹴ったつもりはなかったけど、加減がよくなかったらしい。
大きく音を立てて倒れた机を見て、さっきまで楽しそうに笑っていた彼女たちは顔を青くした。
やっぱり、模範的で面白い反応をしてくれる。
「ああそうだ。言い忘れてたけど、大切な友人のことを悪く言うような酷い子には、私、容赦しないから」
「……っ!!?」
憤りで昂ぶっている感情とは違い、頭は妙に冷えていて、冷静に目の前の少女たちを見ている。
私を“止めてくれる”人がここにいないから、いつ感情が暴走してしまうかは解からない。
……そうならないうちにこの教室を出たほうが良さそうだ。私だけならまだいい、ここでキレたら千晴たちにも迷惑がかかる。
「…それじゃあね。今度から、陰口は陰で言ったほうがいいわよ」
できるだけいつもの調子で笑う。
固まっている彼女たちを一瞥してから教室を出ると、すぐ目の前に大須賀ちゃんが立っていて驚いた。
表情を変えることなく彼女はいつもの穏やかな瞳で私を見つめている。
「どうして、ここに」
「美空さんの戻りが遅くて千晴さんが拗ねてましたから、私が迎えに来ました」
「千晴は?」
「下で待ってますよ。膝を怪我してるので、大人しくしてもらってます」
「…そう」
どうやら時間をかけすぎたみたい。
ここにあの子が来ていないのは不幸中の幸いだ。
「声、聞こえてた?」
「すみません、立ち聞きするつもりはなかったんですが」
私もさっきまで教室の外で立ち聞きしていたのだから、聞こえるのは当然か。
「出来れば今あったことは、千晴には黙っててくれないかしら?」
「ええ、それはもちろんです。忘れろと仰るのならすぐに忘れます」
彼女は何事もなかったように至って普通の顔で了承してくれた。
騒ぎに動じることなく、詳しく問いただす事もせず、私のお願いをすんなり聞き入れてくれる。
彼女は察しがよくて頭が回るようだから無駄な手間がかからなくて助かった。
「千晴さんが傷つくことを言うのは、私の望むところではありませんし」
なるほど。
本当に千晴には勿体無いくらいの出来たお嫁さんだ。なのにあの子は彼女を嫌がってるのよね、贅沢なことに。
こればかりは本人次第なのだから、私が横から口を出すことではないだろう。
それに、あの子が幸せであるのなら、細かいことはどうでもいい。
「それにしても、大須賀ちゃんは本当に千晴のことが大好きなのね」
「はい。……美空さんも、千晴さんのこと大好きですよね?」
にっこりと笑って、照れもせず真正面からとんでもないことを言う。
「…ふふっ、そうね。私も千晴のことが大好きだもの。私たち、とっても気が合うわね」
「そうですね」
この子は本当に面白い。そして、私と似ている気がする。
だからだろうか。人見知りの私が、初めて会った時から警戒することなく接することができるのは。
それに千晴のことを大事にしてくれてるのもポイントが高い。
婚約者だとか、わけのわからない部分が気になってはいるが、些細なことだ。
まだ出会って間もないけれど、あの子を本当に想ってくれているのは見ていてなんとなく解る。
「早く千晴のところに戻りましょうか。あんまり遅いとさらに拗ねちゃうから」
「はい」
どんなワケありの人間であろうと、あの子の友人が増えるのはいいことだと思う。
いつも強がってなかなか弱みを見せようとしないけど、本当はとても脆い子なのだから、支えてくれる人は必要だ。
あの子のことを理解してくれる人はとても少ない。けれど、大須賀ちゃんや上原ちゃんのように歩み寄ってくれる人もいる。
私は、大切な人が心から笑ってくれるのなら、どんな努力も惜しまない。
――そう、だからこそ
私の大切な人を傷つけようとする人間を、私は決して許さない。