捧げたい想いがある
私には自分の全てを捧げても足りないくらい、愛している人がいる。
その人は勉強も運動も優秀ではないし、身体も健康ではなくて、さらに変わった体質も持っていて、万人に好かれるような人じゃない。
その人は私がいくら好きだと言っても応えてはくれない。この先も、ずっと一方通行かもしれない。
それでも、私はその人のことを愛している。その人の為なら何だってできる。想いを拒絶されてもずっと好きでいる自信がある。
私の気持ちの全てが純粋なものとは言えないけれど、その人のことを愛しているのは、嘘偽りのない真実だ。
その人と出会った頃は、こんなにも好きになるなんて想像できなかった。
だってあの時の私は、その人に対して好意的な感情なんてなかったのだから。
私が世界で一番大好きなその人――― 千晴さんを好きになったあの日から、もう6年も経つ。
(もう、そんなに経つんですね)
今でもはっきりと覚えている。
彼女と過ごした数ヶ月間を。あの火事を。私の犯した過ちも。何ひとつ欠けることなく、覚えている。
もちろん、千晴さんと初めて出会った時のことも鮮明に記憶に残っていた。
ロマンチックで運命的な出会い方ではなかったし、いい思い出だと懐かしむのも難しいくらいだけど。
……それでも、私は絶対に忘れないだろう。彼女と出会ったあの日から、きっともう、私の恋は始まっていたのだ。
千晴さんと初めて出会ったのは、実の母親が彼女の父親と再婚して、相手の家に住むことになった時。
同い年の女の子がいると聞いていたので、私は不安な気持ちでいっぱいだった。どんな子だろうとか、仲良く暮らしていけるかなとか、ずっと考えていた。
年は同じだけど私のほうが誕生日が早いので、私がお姉さんになるらしい。今まで一人っ子だったから妹が出来ると知ってちょっと嬉しかった。
新しい父親は仕事で忙しい人で、出張で滅多に会えないとは聞いていたけれど、その子とは毎日顔を合わせるのだ。
一緒に住むのだから、できることなら仲良くしたい。血は繋がっていないけれど、同じ苗字になって、家族になるのだから。
そんな思いを抱いて新しいお家に訪れたけれど、私の期待はすぐに散ってしまうことになった。
「……初めまして、天吹千晴です」
彼女の態度は仲良くしようとする意思も、新しい家族に対する興味も、全く感じられないものだったのだ。
なにより淡々とした事務的な挨拶、それに何の感情も籠もっていない表情と瞳が不気味で、ただただその子のことが恐ろしかった。
恐怖に負けて思わずお母さんの後ろに隠れてしまったけれど、彼女は気にすることなく自分の部屋へ戻ろうとした。
私は正直安堵したけれど、それを許さない人がいた――――私の、お母さんだ。
振り払おうとする彼女の手を力強く握って、決して離そうとしない。彼女は無表情だった顔を初めて不満そうに歪めて、お母さんを見た。
「初めまして、千晴さん。これからよろしくお願いしますね?」
「………………」
嫌そうに睨んでいる彼女をものともせず、お母さんはにっこりと笑っている。
お母さんは穏やかで優しい人だから、彼女にも普通に家族として接するだろう。でも、私は無理だと思った。
彼女が私を見るときの目がとにかく怖くて、無表情な顔は何を考えているのか解からなくて。彼女を見ても、もう本能的な恐怖しか感じない。
こんな子と一緒に住むなんて無理だと、仲良くなるなんて不可能だと、たった一日だけで理解した。
そのことをお母さんに告げると、暢気に微笑まれて駄目ですよと窘められた。
「私たちはまだあの子と会ったばかりでしょう? たった一日で彼女を理解することなんて出来ないんです。
好きか嫌いか。それはこれから彼女と過ごして、色々なことを知った上で、ゆっくりと決めて欲しいんです」
「でも……」
「柚葉が不安なのは解かっています。でも、答えを出すのは早いと思いますよ。
無理に仲良くしろとはいいませんが、せめて仲良くしようと思う気持ちだけは捨てないで下さい」
「うん…わかった」
「柚葉はいい子ですね」
よしよし、と頭を撫でられる。
私の優しいお母さん。いつだって味方になってくれるただひとりの家族。
昔のお父さんはお母さんを裏切ったから大嫌い。
新しいお父さんは滅多に帰ってこないし、話したこともあまりないからまだ他人としか思えない。
千晴さんという彼女は、私たちと仲良くする気は全然ないみたいで、必要な時にしか関わろうとしない。
最初はお母さんに言われた通り彼女と仲良くなろうと努力したけれど、相手にその気がないから何を言っても無駄だった。
だから、私にはもうお母さんしかいない。ううん、私にはお母さんだけでいい。
そんな風に思っていたから、新しいお家に住むようになっても私はお母さんと2人で暮らしているような感覚だった。
でも、お母さんは違う。ちゃんと、彼女のことを家族と思っている。私と同じように、彼女に触れている。
「駄目ですよ千晴さん。野菜も食べないと、大きくなれませんよ」
「……はい」
「ほらほら、まだ髪が濡れてます。拭きますからじっとしててくださいね」
「じ、自分で出来るっ」
「ふふふ、照れなくてもいいんですよ」
「照れてない!」
どんなに拒絶されても、お母さんは気にせず千晴さんのことを自分の子供のように扱っていた。
彼女も、嫌がってはいるけれど少しづつお母さんに心を開いてきてるような気がした。
お母さんと話している時だけ、彼女は感情を表に出すようになったから。
「柚葉、おかわりしますか?」
「……いい。ごちそうさま」
それが、私は面白くなかった。
私にも千晴さんにも分け隔てなく接してくれるけれど、お母さんと千晴さんが2人でやりとりしているのを見ると、落ち着かない。
それに彼女はお母さんと同じ黒い髪と黒い瞳。一人だけ金髪で青い瞳の自分の方が、仲間はずれみたいだった。
お母さんの本当の子供は私なのに。私だけなのに。同じ扱いが、気に食わなかった。私の絶対的な味方を奪われるのが、怖かった。
――――だから私は、彼女のことが段々嫌いになっていったのだ。
今まで苦手意識は持っていても表面上は普通に接していたが、もう、それもやめた。嫌な顔を、隠さないようにした。
彼女も私の変化を感じ取っていたみたいけれど、彼女は何も変わらなかった。私の態度が悪くても、気にしていないようだった。
家族だけど家族じゃない。そんな不安定な関係のまま過ごして一ヶ月ほど経ったある日。
学校から帰ると先に帰っていた彼女がリビングでぼんやりとテレビを見ていた。
私は居心地の悪さを感じて自室に避難しようと思ったけれど、目に入った違和感が気になって再び彼女を見た。
目を凝らしてよく見てみると、彼女の二の腕辺りが赤く染まっている。最初は汚れているのかと思ったけれど……あれは血だ。
「どっ、どうしたのそれ!?」
「?」
思わず叫ぶと、千晴さんは怪訝そうに私を見て首を傾げている。私が何を言っているのか本気で解かってないようだった。
近くに寄って赤く染まった腕を見ると、シャツが裂けていて皮膚がパックリと切れていた。その傷から、かなりの血が溢れ出ている。
酷く痛そうな怪我をこれ以上見ているのが辛くて、慌ててお母さんを呼んだ。
悲鳴にも近い私の声を聞きつけてやってきたお母さんは、千晴さんの怪我を見ると、顔を真っ青にして慌てて傷の手当を始める。
「どうして、怪我をしたって言わなかったんですか?」
「……気付かなかったから」
「こんな酷い怪我をして、気付かないわけないですよね」
「…………」
彼女は口を閉ざす。あんな大怪我で気付かないなんて、ありえない。私だったら怪我した瞬間に大声で泣き叫んでると思う。
どうして嘘をついて本当のことを言わないのか気になったけど、怪我をしたのは自分の責任だ。私はそれ以上関わらず、自分の部屋へ避難した。
思っていたよりも彼女の傷は深かったらしく、あの後病院に連れて行かれたみたいで、そこで衝撃の事実が判明したようだった。
彼女は嘘をついていなかった。怪我をしたことに本当に気付いていなかったらしい。ううん違う、そうじゃなかった。
千晴さんは怪我をしたことに気付けなかったのだ。―――後天的無痛症という、痛みを感じない症状のせいで。
過去に色々とあったらしく、精神的にも肉体的にも追い詰められた結果、そんな身体になってしまったようだった。
その時は、痛みを感じないなんて便利だな、なんて楽観的なことしか考えていなかった。
それに彼女の身体が無痛症と解かって、お母さんは千晴さんのことをより構うようになってしまった。
毎日のように身体に異常がないかチェックして、怪我をしないように些細なことにも気を配っていた。
だから私は、病気を利用してお母さんを独り占めしようとする千晴さんのことを益々憎んでいったのだ。
「どいて。私がテレビ見るから」
「…………」
夕方に放送しているアニメを見ていた千晴さんをどかして、私はチャンネルをニュースに変える。
彼女は何も言わず、素直に場所を渡して自分の部屋へと戻っていった。リビングは、私だけになる。
お母さんは買い物に行っているから、この家には私と千晴さんだけしかいない。でも今、私はひとりだ。
前の家でもひとりで居ることが多かったからひとりは平気だった。暇な時は、勉強をしたりテレビを見て過ごす。
興味のないニュースを一生懸命見ていたら、部屋に戻ったはずの彼女が両手にたくさんの本を抱えてリビングに入ってきた。
何をしに来たのかと警戒していたけれど、彼女は私から離れた壁に背を預けて座る。そしてそこで本を読み始めた。
どうして自分の部屋で読まないのだろうと思って千晴さんを見ていたら、私の視線に気付いた彼女が珍しく声を掛けてきた。
「……読んでみる?」
「よ、読まないっ」
「面白いよ。今見てるニュースよりも、ずっと面白いと思う」
「………………」
「貸してあげる。返すのはいつでもいいから」
そう言って漫画本を手渡してきた。読まないって、言ったのに。
彼女はさっきの場所に戻って、今度は違う本を読み始めた。表紙から察するに、また同じような漫画かもしれない。
しかたなく、私は渡された本を読んでみることにした。男の子が読むような漫画で、内容はひとりの少年がひとりの女の子の為に戦うお話。
最初は適当に読んでいたけれど、息を飲む熱い戦いや、登場する少年少女の想いのひたむきさに魅せられてどんどん惹きこまれていく。
いつの間にか夢中になってしまい、気付けば本を読み終えてしまっていた。続巻があるみたいなので、続きが気になってしまう。
もしかしたら彼女が持っているかもしれないと目を向けると、千晴さんは次の巻をそっと差し出してくれた。
「面白かった?」
「…………言いたくない」
「そっか。これ、続きね」
「……ん」
漫画なんて興味なかったのに、彼女のせいで漫画が好きになってしまった。それも少女漫画じゃなくて、少年漫画。
あれから私は自分でも本を買って読むようになった。アニメも、たまに見るようになった。
彼女と一緒にテレビを見たり本を読んだりする時間は増えたけれど、相変わらず千晴さんのことは嫌いなままだった。
不気味だし、お母さんを取られる不安もあったし、それにもうひとつ、嫌いな理由がある。
「お母さん! また千晴さんが胸触ったぁあああ!!」
「あらあら」
「やだ、もうやだ! 千晴さんなんて大嫌い!!」
泣きながらお母さんに抱きつく。するとお母さんは笑いながらよしよしといつものように頭を撫でてくれた。
私が千晴さんのことを嫌いな理由のひとつが、セクハラ行為をされることだ。
彼女はよく、私やお母さんの身体を触ってきたり、押し倒したり、着替えを覗いたりする。
お母さんは大人だから気にしていないけど、私は思春期でそういうことに過敏になっていたから、同性同士だとしても彼女の行為は苦痛だった。
わざとじゃないらしいが、何度注意しても何度も彼女は繰り返してくる。わざとじゃないなんて信じられるはずがない。
「千晴さんはちゃんと謝ってくれましたか?」
「う、うん。でも、謝ればいいってもんじゃないよ!? 絶対わざとだよ!!」
「柚葉。千晴さんは故意に人を困らせるような女の子じゃないですよ」
「だって!」
「今日はどんな状況で胸を触られたんですか?」
「え、えっと。私が学校から帰る途中、いきなり後ろからガバーって引き寄せるみたいに……」
「それは多分、貴女を守ろうとしてくれたんですよ」
「え?」
「きっと車か何かが柚葉に迫っていたのかもしれません。もっとよく思い出してみてください。その時の状況を」
「…………」
あ、そうだ。あの時、千晴さんに引き寄せられた後にトラックがすぐ傍を走って行ったような気がする。
彼女に胸を触られたことに気を取られていたから、全然気にしていなかったけど。
それに……彼女の手が震えていたことも、顔の血の気が引いていたことも、思い出した。
「千晴さんは誤解されやすいけれど、いつも必死に誰かを守ろうとしています。
彼女を非難する前に、どうしてこんなことをするんだろうって、少しでもいいから考えてみてください。
そしてそのことに気付けた時は、ありがとうって、言ってあげてくださいね。
もちろん正当な理由がなく変なことをされたら怒っていいんですよ」
「う、うん」
お母さんの言ってることはわかる。
助けてくれたことはもちろん感謝してるけれど、でも、胸を触られたことは許せない。やっぱり、千晴さんは嫌いだ。
それに毎回助けるためにセクハラしているのだとしたら不自然だと思う。
思い返してみても、特に何もないときに急に変なことをされたことだってあるのだ。
「だからって毎回、その、変なことされるのは、おかしいよ」
「ふふふ、そうですね。千晴さんはヒーロー体質ですからね」
「なにそれ?」
「柚葉も知っているでしょう? 漫画やアニメのヒーローは偶然女の子の着替えを見たり、偶然身体に触れたりしますよね。
千晴さんは、そういう体質なんですよ。望んでもいないのに、セクハラをしてしまうんです。あ、でも女の子だからヒロイン体質でしょうか」
「ヒロインって守られる女の子のことだよ」
「同じですよ。ヒロインというのは、ヒーローの女の子版です。ヒロインだって、守るために戦ったりするんです」
「ふぅん」
千晴さんが正義の味方に憧れているのは知ってる。持ってる漫画も、見てるアニメもほとんどヒーロー物だったから。
でも、彼女の姿はヒーローともヒロインとも呼べないと思う。
私の知っている正義の味方はもっと明るくて、皆から好かれていて、颯爽と誰かを助けるかっこいい人だ。
そう、彼女とはまるで正反対の人物なのだ。素直にそう言うとお母さんは意外にもそうですねと同意してくれた。
「守って、守られる。誰かを愛して、愛される。そんな正義のヒロインになって欲しいと願います」
お母さんはちょっとだけ悲しい顔をして微笑んだ。理由は解からなかったけれど、なんだか辛そうに見えた。
その後も私と千晴さんの関係は変わらなかった。
でも、色々と問題はあるけどそこまで悪い人じゃないって思うようにはなった。
天吹という姓にもだいぶ慣れて、新しい家にも、学校にも馴染めてすっかり落ち着いたからだろうか。
相変わらず彼女のことは苦手だけれど、最初に感じていた不気味な感じや居心地の悪さはもう無くなっていた。
家族というよりただ住処を共有しているような関係だったが、その方がお互い気楽でいいのかもしれない。
お母さんも変わらず私を愛してくれるし、こんな生活も悪くないかもって、思い始めていた。
ようやく、そう思えるようになったのに。
これから、だったのに。
―――これから、何かが始まっていくはずだったのに。
始まってしまったのは、気に入り始めていた生活の終わりだった。
事が起こったのは珍しく父親が家に帰って来た日。
父親が帰ってきたこと意外は、いつも通りのごく普通な一日だった。
いつものように過ごして、いつものように寝て、それでいつもの明日を迎えるつもりだった。
でも、明日が始まる前に、起きてしまった。
(………あつい)
寝苦しさと、冬とは思えない暑さを感じて目が覚める。
そしてすぐに異様な光景がぼんやりとした視界に入って、私は驚きと恐怖で身が固まってしまった。
「な、なに、これ……っ!?」
薄暗いはずの自分の部屋が、真っ赤な炎に包まれていて、眩しいほどに明るくなっていた。
パチパチと嫌な音を鳴らしながら、私の私物や家具を燃や尽くそうと猛っている。
炎が次々と黒い煙を吐き出しており、私の部屋はどんどん煙と炎で埋め尽くされていく。
呆然としていた私はうっかり煙を吸い込んでしまい咽てしまうが、そのおかげで今の状況を受け入れることが出来た。
(か、火事だっ!!)
早く逃げなきゃ!! でも、どこから? どうやって? ど、どうすればいいの!?
炎は既に私を囲むように燃え盛っていて、部屋の出口は黒い煙に遮られている。
身を屈めて出口まで行けば大丈夫かもしれない。私は火に当たらないように気をつけながら、這いつくばるようにしてドアを目指す。
歩けばほんの少しの距離なのに、ドアまでの距離はとてつもなく長く感じてしまう。
暑さと煙たさと恐怖でどうにかなってしまいそうだったが、無事にドアの前まで来ることができた。
「熱っ!?」
部屋から出ようとドアノブを握ったものの、炎のせいで熱くなっていたようで握ることなんてとても出来そうになかった。
この部屋には冷やすものなんてないし、手を守るものもない。手袋はあったはずだけど、しまってあるタンスは燃えていて手が出せない。
部屋の温度とは逆に、私の身体は冷えていく。部屋から出られないのだ。これじゃ、このまま燃えて、死んでしまう。
「やだ、いやだ、死になくないよっ!!!」
大声を出してしまったせいか煙を沢山吸い込んでしまい、また咽て咳き込んでしまう。喉が、焼けるように痛い。
怖い、怖い、怖いよ。熱いのはいやだ、苦しいのも嫌だ、死ぬのも嫌だ。
もう何も見たくなくて目を塞ぎ、聞きたくなくて耳を塞いだ。これが夢だったら良かったのにと、何度も願った。
けど、これは現実だった。身を焼くような熱さも、全てを燃やし尽くそうとする音も消えてくれない。
現実から意識を逸らしても、私は助からないのだ。
ここで、死んでしまうのだ。
「柚葉っ!!!」
「!?」
私の名前を呼ぶ声と、部屋を叩く音が聞こえた。
幻聴かと思ったけれど、ドンドンと扉を叩く音は鳴り止まない。
「柚葉! 柚葉! 柚葉っ!!」
必死に私の名前を呼ぶ声が、確かに聞こえる。
これは、彼女の声だ。彼女が、今まで一度も呼んでくれなかった私の名前を、必死に叫んでいる。
「千晴さ、んっ」
煙が充満していて大きな声が出せなかったけど、千晴さんは気付いてくれたようだった。
「柚葉、大丈夫!?」
「う、ん。平気、だけど、ドアが、開けれなくて…けほっ」
「……鍵は開いてる?」
「うん、それは、なんとか…あっ! ドアノブは触らないで!!熱くなってる、から、けほっ、危ないよ! 冷やしてからじゃないとっ」
「……いや多分、回しても開かないかも。熱くなりすぎでドアノブの部分も、ドアの金具も変形してしまってる」
「そ、そんな……っ」
「大丈夫だよ、方法はある。だから、ちょっとドアのところから離れてくれる?」
「わ、わかった!」
彼女の言う通りドアから離れる。すぐ後ろは炎が舞うように踊っていて怖かったが、彼女を信じて我慢した。
しばらくすると、ドアがゴンッ、と音を立て始めた。何回も、何回も、ゴン、ゴン、と鳴っている。
きっと彼女は道具か何かでドアを破壊しようとしているのかもしれない。
ゴン、という何かがぶつかる音から、次第にゴスン、と強い音へと変化していく。
そして何十回目かの音がなった時、ついにドアがバリッと大きな音を響かせて、破られた。
もう一度叩く音が聞こえるとドアが完全に壊れ、彼女が部屋へと入ってくる。
「柚葉!」
「千晴、さんっ」
部屋の中央でうずくまっていた私を見つけて、彼女は慌てて駆け寄ってきた。
「良かった」
「……っ」
搾り出すような安堵の声と、大事な宝物を見るような、とても、とても優しい目を私に向ける。
この瞬間だけは、熱さも音も恐怖も何もかも忘れていて――――ただ彼女の瞳に釘付けになっていた。
だって、こんな目をした彼女を、今までみたことなかったから。
「……大丈夫? どこか怪我してない?」
「へ、平気」
「そっか。なら、早いとこ部屋を出よう。もう、崩れるまで時間がないかもしれないから」
この家は木造建築らしいから、火の回りが速い。
時間が経てばあっという間に倒壊してしまうだろう。その前に急いで家を出たほうがいいと彼女は言った。
千晴さんに誘導されるように部屋を出ると、やっぱり他の部屋も火の海と化していた。それでも、廊下はなんとか通れそうだ。
彼女が言うには玄関までの逃げ道は大丈夫らしいので、安心してほっと息を吐く。
助かる可能性が見えて、ようやく自分以外のことに意識を向けることができるようになった。
そして、気付いた。
「お母さんは? お父さんは?」
「………………」
千晴さんは首を振る。そして、彼女は燃え盛る炎に覆われた廊下の先を指差した。
そっちにあるのは、お父さんとお母さんの寝室だ。
「お母さん! お母さん!」
「駄目だって! この炎じゃ進めないっ! 例え向こうまで行けたとしても帰ってこれない!!」
「いや! お母さんっ! おかあさんーーっ!!」
私のお母さん。
優しくて大好きなお母さんがいなくなるなんて、嫌。
お母さんがいないのなら、死んだ方がマシだ。
「柚葉、危ないから!!」
「いや、いやだよっ、お母さんがいなくなるなんて、耐えられないよっ!!」
必死だった。
一番大切なものを失いたくなくて、無我夢中だった。
縋ってしまいたかった。何でもいいから。
神様でも、悪魔でも、正義の味方でも、誰だっていい。
―――そう、彼女でもいい。
だから、何も考えず、私は叫んでしまった。
言ってはいけない言葉を、言ってはいけない人に向けて。
「助けてっ!」
その言葉は、魔法だった。
その一言だけで、彼女は変わってしまう。
「お母さんを助けてっ! 千晴さん!」
ただの女の子なのに。
その言葉を聞くと、まるで呪いのように、正義の味方になってしまう。
……正義の味方で在ろうとする。
「うん。助けるよ」
彼女は笑った。
助けることが当然のように、笑ったのだ。
この数ヶ月間一緒に暮らしてきて、今まで一度たりとも笑ったことがなかった彼女が、優しい笑みを浮かべていた。
死んでいた生き物が突然、息を吹き返したように、何を映しているのか解からなかった彼女の目は輝きを取り戻している。
別人のような顔をした彼女を見て、ようやく私は自分の失言に気付いてしまった。
「柚葉は危ないから外に出てて。火に当たらないように、用心して行って」
「ち、千晴さん、駄目……」
「大丈夫。お母さんとお父さんを連れて、戻ってくるから」
今から危険な場所に向うというのに、彼女は私を安心させるように微笑む。
「行かないでっ! 千晴さん!!」
止めようとした私の腕をすり抜けて、彼女は炎の中に身を投じていった。
残されてしまった私は、逃げることなくその場に座り込んでしまう。
「あ、ああ、ああああっ」
なんてことを、言ってしまったんだろう。
私が助けてなんて言わなければ、彼女はこんな馬鹿なことはしなかった。
正義の味方に憧れていた千晴さんに助けを求めてしまえば、彼女は絶対に助けようとする。
お母さんは言っていた。彼女はいつも必死に誰かを守ろうとしているって。それはきっと、自分の身を犠牲にしてでも。
悲しそうに微笑んでいたお母さんの気持ちが、ようやく解かった気がした。
『どうしてこんなことをするんだろうって、少しだけ考えてみてください』
お母さんに言われた言葉が今、蘇る。
その言葉の通り千晴さんのことを振り返ってみた。
彼女の行動の意図を、考えてみて――――私は、気付いてしまった。
あの時。
どうして自分の部屋で本を読まずに、私のいるリビングで本を読むんだろうといつも不思議に思っていたけれど。
……それは、私を独りにしない為だった。私が本当は寂しがっていることに、彼女は気付いてくれていたんだ。
私が機嫌を損なわないように離れた場所に座って、それでも独りじゃないことをアピールするように本を捲る音を立てて。
彼女は、傍にいようとしてくれていたのだ。
あの時。
私が新しい学校に転校して、髪と目の色が原因で同じクラスの女子に目を付けられた時期。
千晴さんはその頃、女子全員のスカートをめくったり悪口を言ったり反感を買うようなことばかりしていた。
……それはきっと、いじめの標的を私から自分に移そうとしていたのだ。
そのおかげで千晴さんが嫌いだった私は同じく彼女が嫌いな女子たちと意気投合して、上手くクラスに溶け込めることができた。
逆に千晴さんはみんなから嫌われて、いつも学校ではひとりで過ごしていた。
あの時。
さっきドアを壊していた時。道具か何かで壊していたと思ったけれど、実際は違ったんだ。
ドアに打ち付けていたのは、彼女自身の腕だった。
力の限り、ぶつけていたんだろう……走り去っていく彼女の片腕は、取って付けたように不自然にぶら下がっていた。
きっと私を早く部屋から出そうとして、道具を探す時間も惜しいと思ったんだろう。その代償が、自身の腕だった。
どうして、どうして今になって気付いてしまうんだろう。
私とお母さんに関わらないようにしていたのは、彼女なりの優しさだった。
私とお母さんの生活の邪魔をしないように、気を使ってくれていたんだ。
自分の存在を極力消して、まるで2人だけで暮らしているように錯覚させたかったのかもしれない。
それでも、私が寂しいと思っているときには、傍にいようとしてくれた。
「千晴さん……っ」
胸が苦しい。
どうして、あの人は、そんな馬鹿な真似を繰り返すのだろう。
憎まれるようなことをして、けど実は誰かを助けようとしている。
そんなの、正義の味方なんかじゃない。正義の味方は、もっとカッコよく助けて、皆から感謝されないといけない。
だから千晴さんは、ただの馬鹿な人だ。
守っても感謝されなくて、損ばかりして、彼女のやってることは、おかしい。間違ってる。
でも私は、正義の味方なんかよりも、彼女のほうがいい。
傍にいて欲しいのは、彼女だ。
彼女じゃないと、嫌だ。
――そうだ、私は。
「千晴さんが……好き」
あの人が、好きなんだ。
「好き、です」
どうしてだろう。あんなに嫌いだったはずなのに。
不器用で優しいところが。彼女の全てが。不思議なくらい、こんなにも愛おしい。
「好き」
涙がこぼれる。
こんな雫じゃ火は消せないけど、涙は頬を伝って床へと落ちていく。
あの人のことが愛しくて、どうしようもなく愛しくて、きっとそれが涙になって溢れている。
初めて会った時から今までの『嫌い』が『好き』へと変わっていく。好きと嫌いは紙一重だという言葉は、真実だったようだ。
さっき見た優しい目をもう一度向けて欲しい。ううん、ずっと向けていて欲しいと思ってしまう。
もっと、無邪気に笑って欲しい。声をあげて、笑って欲しい。
好き。あの人が大好き。
私は、千晴さんに恋をしてしまったんだ。
今更……そんな資格もないのに。
できることなら、初めて出会った時からやり直したい。
今度は、ちゃんと貴女の手をとって、初めましてって言うから。
一緒に勉強して、テレビを見て、ご飯を食べて、いろんな話をするんだ。家族みたいに。
嫌いって言ったりしないで、今度は何度でも好きって言うよ。嫌がられても、言うよ。
無茶をする貴女を支えて、守りたい。
ずっと、傍にいたい。
大切にしたい。
(でも、もう遅いよ……)
時間は巻戻せない。言ってしまった言葉も、撤回できない。
後悔しても、私が犯してしまった過ちは消えない。
「千晴さん……お母さん……っ」
失うのが怖い。千晴さんも、お母さんも。
(じゃあどうして私はここでじっとしてるんだろう)
逃げもせず、助けにも行かず。
ここに居ても、焼け死んでしまうだけなのに。
(……行こう、私も)
待っていても、意味がない。
行く手を阻む炎は怖いけれど、それよりも大好きな人を失う方が何百倍も怖い。
私は意を決して立ち上がってから、千晴さんが飛び込んでいった方を向く。
炎の勢いは衰えることなく、むしろさっきよりも増しているような気がした。
それでも、私は行くと決めた。
この炎の向こう側には、私の大事な人たちがいるのだから。
(あれ?)
いっきに走り抜る為に助走を付けようとした時、頭上からメキメキッと嫌な音と火の粉が降ってきた。
嫌な予感がして上を見上げると、徐々に天井が裂け始めているのが見えた。
すぐにでも天井が壊れて瓦礫が落ちてくるだろう。それは解かっているのに、恐怖で身が竦んでしまって足が動かない。
「……っ!!!」
そしてついに、大きな音が響き、上から炎を纏った瓦礫や木片が落ちてくる。
どうにもできず、私は目を瞑ることしか出来なかった。
「え?」
とん、と身体を押されて、私は転ぶように横へ飛んだ。その瞬間、ガラガラガラッと天井が崩落して通路が瓦礫で塞がってしまった。
煙が酷くてすぐには見えなかったが、積み上げられた瓦礫のすぐ傍に誰かが立っている。
私は慌てて身を起こして、その人の傍に駆け寄った。
「千晴さ……っ!?」
「柚葉」
背を向けたままの彼女は、酷い姿だった。目を逸らしたくなるほど悲惨な状態なのに、私は視線を逸らすことができなかった。
彼女の背中は…何かが刺さったように抉れていて、ぐちゃぐちゃで、たくさんの血が溢れていた。しばらく炎で焼かれたのか、周りが黒ずんでいる。
一番酷いのは背中だったけれど、他にも色々な部分を怪我していた。瓦礫を蹴飛ばしたのか、足も血に濡れていて、手も、腕も、赤く染まってる。
彼女はゆっくりとこちらを振り向く。もう、全身ボロボロだった。立っていられるのが不思議なぐらい、傷だらけだった。
大人でも気を失うような酷い怪我なのに、千晴さんは痛いと泣き叫ぶことなく平然と立っている。
(あっ!?)
千晴さんは痛みを感じない。
それはつまり――――彼女は、自分の限界が解からないということ。
「千晴さんっ、早く外に出て手当てしなきゃ!!!」
今の彼女はきっと限界を超えている。どんなものだろうと、限界を超えてしまえば壊れてしまう。死んでしまう。
早く病院に行かないと、取り返しのつかないことになってしまう。
急いで外に出ようと千晴さんを促すけれど、彼女はその場から動こうとしない。怪我が酷くて動けないのだろか。
いや、違う。
「ごめん……助けられなかった…。私、また……助けることが、できなかった」
「っ!?」
お母さんとお父さんのことだろう。
それは、解かっていた。解かっていたけど。無理だろうなって心のどこかでもう解かっていたけど、そんな現実知りたくなかった。
悲しい。苦しい。死んでしまいたいほどに、辛いよ。今すぐにでも泣き叫んでしまいたい。何かにこの感情をぶつけてしまいたい。
でも、まだそれは出来ない。
私にはやらなければいけないことがある。
悲しみや後悔に押し潰されるのは、やらなきゃいけないことを終えた後でいい。
「千晴さん! 早く逃げよう!」
「私は…守れなかったから……」
「じゃあ私を守ってよ! 今まで守ってくれていたみたいに、私を守ってよ!! ……自分を守ってよ!!!」
「!」
はっと顔を上げた彼女の目に、僅かな光が宿っている。
うん。今は、これでいい。私を助けようとすることで、彼女は自分を守ろうとするはずだ。
そして、私も覚悟を決める。
「私は千晴さんを守ります。貴女が誰かを守ろうとするのなら、私が貴女のことを守ります」
「…………っ」
「家を出ましょう。私が先に歩きますから、千晴さんはついて来てください」
「……うん」
千晴さんが頷いてくれたので、彼女の折れていない方の腕をそっと掴む。
両親の寝室に背を向けて、私たちは一緒に家を出た。
外に出てすぐに近所の人が呼んでくれたらしい消防車と救急車がきたので、私たちは病院に搬送された。
私は軽度の火傷と、煙を吸い込んだので少し意識が朦朧としていたくらいだったけれど、千晴さんは重傷だった。
病院についてすぐに緊急手術室に運び込まれ、何時間にも及ぶ手術が行われた。私はその間、自分の病室で祈ることしか出来なかった。
その結果、彼女は奇跡的に一命をとりとめることができた。しかし、後遺症は残ってしまうらしい。
回復すれば普通に生活できるようになるものの、今までのように激しい運動は出来ない。定期的に病院に通い、薬を飲まないといけない。
普通の人なら常に鈍痛に悩まされる恐れがあると言われたけれど、千晴さんは無痛症なので皮肉にもそのことは気にしなくてもいいようだった。
彼女は全体的に身体が弱くなってしまい、普通に暮らせるけれど、ハンデを背負ってしまうことになった。
それは全部、私の責任だ。
私があの時“助けて”なんて言わなければ、彼女はあんな大怪我を負うことはなかったのだから。
なにもかも私のせいだ。千晴さんがこれから不自由な生活を強いられるのも、一生消えない傷が残ってしまったのも。
「千晴さん」
彼女はまだ目を覚まさない。
お医者様が言うのは、もうそろそろ意識が戻るだろうと言われたけれど。
私はもう、彼女から離れなければいけない。私は、実の父親に引き取られて、外国に行かなければならないから。
千晴さんの祖母と名乗る女性が一緒に暮らそうと言ってくれたけれど、そんな資格はないからお断りした。
彼女の顔を見れるのは、これが最後かもしれない。流れそうになる涙を我慢して、彼女に触れそうになる手を押さえた。
「ごめんなさい。さようなら………………大好きです」
好きになって、ごめんなさい。
私は彼女が起きる前に、外国にいる父の元へと向った。
母を失った悲しみと千晴さんに対する罪悪感を抱えて、私は新しい家族と共に遠い異国の地で過ごすことになる。
千晴さんが昔の記憶を失っていると気付いたのは、おばあ様がくれた手紙だった。手紙には、彼女に関わることや他にも色々なことが書いてあった。
おばあ様は私が新しい家族に馴染めていないことを知って、何度も一緒に暮らそうと言ってくれた。
誘ってくれるのはとても嬉しかったけれど、やはり自分を許せないし、記憶を失った彼女に会うのが怖かったから断った。
もう二度と会えないだろう。ずっとそう思っていたけれど、私はずっと彼女のことばかり想っていた。
自分の犯した罪を思い出しては罪悪感に苛まれて苦しかったけど、それ以上に、千晴さんを想う気持ちが大きかった。
今、なにをしているんだろう。お友達はちゃんといるのかな。好きな人は、いるのかな。
身勝手にも、そんなことばかり考えていた。
そして、私は日本に戻ることになった。
父の転勤で、この国に帰ってきてしまったのだ。家族で日本に来たけれど、これを機に私は一人で生活しようと決めていた。
母を裏切った父を今でも許せないし、義母や義妹にも好かれていないから、今の家族に居場所なんてなかったのだ。
それならうちに来なさいとおばあ様が言ってくれたけど、やっぱり、それだけは受け入れることができなかった。
……できないはずだったのだ。けれど、おばあ様は私の目の前に現われて、一度だけでいいから千晴さんに会ってみろと、言ったのだ。
会えない。会うなんて、そんなの駄目に決まってる。そう思っていたのに、私はおばあ様の提案に頷いてしまった。
離れていた数年間、ずっと彼女のことを想っていたせいか、欲が出てしまった。会いたいって。
話せなくてもいい。こっそり影から伺うだけでいいから、千晴さんを一目見たいと思ってしまったのだ。
おばあ様に連れられてやってきたのはのどかな田舎町。ここに、千晴さんが住んでいる。
まずは町を散策して、それから彼女の通っている学校の方へ行くつもりだった。
けれど、私は偶然にも千晴さんを見つけてしまった。昔より背が高くなっていて髪も伸びていたけれど、すぐにわかった。
よく見えなかったけど、彼女だとわかった瞬間に胸が高鳴って、息苦しくなる。嬉しくて、気がつけば目元に涙が溜まっていた。
今すぐにでも駆け寄って抱き締めたかった。けれど、それは彼女に対する罪悪感が押し留めてくれた。
彼女に見つからないよう物陰に隠れて、バスを待っている千晴さんの後ろ姿をしばらく眺めていることにした。
けれど突然、千晴さんは隣にいた女の人を押し倒してしまったのだ。ご丁寧に手を当てている部分は胸のようだ。
女性は怒ってしまって、千晴さんの頬を勢いよく叩いてから不機嫌そうにその場を去っていた。
千晴さんは溜め息をついて、周囲の厳しい視線を受けながらもバスを待ち続けている。
……どうしてみんな、気付かないのだろう。女性が立っていた場所に飛んできた看板が見えなかったのだろうか。
運が悪く、誰も見ていなかったのかもしれない。女性や周りの人が見ていたのは、押し倒して胸を触っていた千晴さんだけ。
彼女が女性を守るために体を押したことに、誰も気付かない。押し倒したり、胸を触るつもりなんてなかったことに、気付かない。
(変わってない)
正義の味方にはなれなくて、不器用な助け方しか出来ないけれど。
それでも誰かを守ろうとしてしまう、あの人だ。
あそこにいるのは、千晴さんだ。
私が好きになった彼女だ。
(守りたい、あの人を)
今度は私が、彼女の傍にいよう。
愛されなくてもいい。嫌われてもいいから、傍にいよう。
それは、罪滅ぼしをする為? 全部思い出して私を罰して欲しいから?
違う。
私は。
私が。
千晴さんの傍に、居たいだけだった。
「柚葉」
千晴さんが私の名前を呼んでくれる。
たったそれだけで、私は幸せを感じてしまう。
「今日の夕食は何にする?」
2人で夕食の買い物に来るなんて、あの時からしたら奇跡みたいなものだった。
学校帰りに商店街のスーパーに寄って買い物だなんてもう珍しくないけれど、それでもいつも幸せな気分になれる。
「そうですね……千晴さんは何が食べたいですか?」
「なんでもいい」
「ふふ、その答えが一番困るんですけどね。じゃあカレーはどうですか?」
「それでいいや。あ、やっぱりちょっと待って」
「?」
「今日は柚葉が食べたいものにしてよ。いつも私の食べたいもの作ってもらってるし」
「それは……」
千晴さんの気持ちは嬉しいけれど、私の好きな食べ物は千晴さんが苦手にしているものだった。
私やおばあ様は嫌いなものがなくて何でも食べれるから、いつも好き嫌いの多い千晴さんに合わせて作っている。
もちろん栄養のことを考えて彼女が嫌いな材料を入れることもあるけれど。
「柚葉が好きな食べ物ってなに?」
「魚や肉より、野菜が好きです」
「……そ、そっか。なるほどね、うん」
野菜と聞いた途端、千晴さんの顔が引き攣ってしまう。だって彼女は野菜が苦手だから。
子供みたいにニンジンやピーマンが大嫌いで、細かくしても気付いてしまうから、食べてもらう為に工夫するのは大変だった。
最近は野菜もそれなりに食べてくれるようになったので、嬉しい。
「やっぱりカレーにしよう。野菜入ってるし、肉もあるし。今日は野菜を多めに入れてくれていいよ」
「わかりました。ありがとうございます、千晴さん」
「…………食べたいものがあったら遠慮せず作っていいから。私のことなんて後回しでいいっての」
「っ、はい」
「それじゃカレーの材料集めようか。あ、甘口だけは譲れないから」
「わかってます」
私が当然のように答えると、彼女は目を細めて優しく微笑んだ。
……胸が、きゅっと締め付けられる。
愛しさでいっぱいになってしまう。
(この人が、好き)
千晴さんは優しい目を私に向けてくれる。全てを思い出しても、それでも彼女は私を大切に扱ってくれる。
傍にいてもいいって。傍にいて欲しいって言ってくれた。それは多分、家族としてって意味だろうけど。
それでも嬉しかった。私を必要としてくれることが。彼女の傍に居られることが。
……私の好きな人は、いつも損ばかりしていて、うっかりセクハラもしたりして、素直じゃなくて、けれど優しい人。
あの時、本当の貴女に気付くことができて良かった。
貴女を好きになれて良かった。
今、ここに。
貴女の隣に居ることができて、私は幸せです。
「千晴さん」
「んー?」
「大好きです」
「あ、う、うん。知ってる」
何度でも伝えたい。
言葉に出しても、この想いは減らないから。
「愛してます」
だから、この言葉を。
私の想いを。
何度でも、貴女に捧げます。