家族のカタチ
小学生の時の宿題で、母親の似顔絵を描かないといけないことがあった。
たしか母の日が近かったから、そういう宿題が出たんだと思う。
物心つく前に母親を亡くした自分はどうすればいいんだろうと悩んでいた所に、先生がやってきてこっそり耳打ちした。
どうやら私は父親の顔を描けばいいらしい。しかし、それでも悩みは解消されなかった。
だって似顔絵を描こうにも父親はいつも家に居ないし、顔を合わせるのは月に数えるほど。つい先日会ったばかりなので、しばらくは帰ってこない。
顔を思い浮かべながら描けばいいのかもしれないけど父親の顔をあまり覚えていないのでそれは難しそう。写真も持ってない。
このままだと未提出で先生に怒られてしまう。それは嫌なので、子供なりに必死に考えて一つの名案を思いついた。
『母親』を想像して思い浮かぶのは、自分を生んでくれた母親でなく隣に住んでる幼馴染の母親なのだ。なら、葉月さんを描けばいい。
いつも美味しいご飯を作ってくれて、悪いことをすれば真剣に怒ってくれて、寂しい時に優しく抱きしめてくれる、私にとって母のような人。
同時に、悪い人を捕まえたり、困っている人を助ける格好良いヒーローみたいな人で、憧れの存在でもあった。
だから……描くなら父親ではなく葉月さんを描きたいと思ったのだ。
思い切って描いてもいいか聞くと、葉月さんは一瞬驚いた顔をしてなぜか嬉しそうに笑ってくれた。
『うん、美人に描いてくれるならいいわよ?』
嫌な顔一つせず頷いてくれた。
それが嬉しくて一生懸命描いたけれど、絵が下手な私ではどうしても綺麗に描くことができなくて悔しかったことを覚えている。
一緒に描いていた菜月のほうが何倍も上手で、歯痒かった。上手に描いて、凄いねって、褒めてほしかったから。
けど、それでも葉月さんはとても喜んでくれた。いっぱいいっぱい、褒めてくれた。私と菜月の絵を受け取って、宝物のように大事に飾ってくれたのだ。
いつだって、本当の家族のように接してくれていた。血の繋がった父親よりも、ずっとずっと私のことを想ってくれていた。
だから私は葉月さんを、菜月を、おじさんを、家族だって思ってた。
本当のお母さんがいなくても、本当のお父さんがいなくても寂しくなんてなかった。
上原家が、私の居場所だった。
『おいで千晴』
何よりも大切で、大好きだった。
『大丈夫よ千晴。私がちゃんと守るから』
守りたかった。
『約束ね』
でも、守れなかった。
伸ばした短い腕は届くことなく、大切な人を掴もうとする自分の手は小さくて。
命が散るその瞬間をただ見届けることしかできなかった。
車に跳ね飛ばされた葉月さんの身体は、ありえない形をしていた。“生きている人間ではありえない形”だ。
無残な姿に変わった彼女をこれ以上子供の自分に見せないようにするため、大人たちが私の身体を掴む。
けど私は振り払って、ずっと葉月さんを見ていた。もう動かないし、話しかけてくれることはないのに。
ずっと見ていると気持ち悪くなって、吐きそうになったけど。心臓の奥のほうがとても痛くて、足が震えていたけど。
それでも、大好きな人の傍にいたかったのだ。
悲しかった。
どうにかなってしまいそうな位、悲しかったはずなのに。
叫ぶように泣いている菜月の声が、背後から聞こえているのに。
私は涙を一滴も溢さなかった。
その時も、葬式の時も、私は泣くことがなかった。
菜月とおじさんが遠くに行ってしまっても、私は決して泣かなかった。
強い人間は泣かない。
だから、私は泣けない。
――現実を叩きつけられても、まだ諦めていなかった。
自分が誰かを救えるってこと。
だって諦めてしまったら、私の中の葉月さんが消えてしまうような気がしたから。
褒めてくれる人はもういない。見ていてくれる人も、もういないけど。
誰かを守ることはやめちゃいけないんだと、心のどこかでずっと思っていた気がする。
どんなに理不尽でも、自分のこの手で守れる何かがあるんだと信じていた。この時は、まだ。
だから困っている人がいれば、私は迷いを抱えながらも変わらず手を差し伸べた。
自分を作っていたものを、自分がずっと憧れていたものを、簡単に手放すことはできなかったから。
菜月たちがいなくなってしばらくして、父親が再婚した。
相手は父よりも若く、とても綺麗な女性だった。いきなり母親ができて戸惑ったけれど、愛情に飢えていた私はこれからの生活に期待した。
でも愛想が良かったのは最初だけで、ひと月も経たず彼女の態度は冷たいものへと変わってしまった。
父も滅多に家に帰ってこない為、すれ違いが原因で結局ふたりは数ヶ月程度で離婚してしまう。
それからすぐに、父はまた別の女性と結婚した。今度は真面目そうな、キリッとした女性。
彼女はどうやら完璧主義者らしく、様々なことを自分に要求した。
自分の子供になるのなら勉強ができないと駄目だ。運動だって一番になれ。言葉遣いもちゃんとしろ等、色々言われた。
今度は好かれようと頑張ってみたけれど、天才でも秀才でもない自分では全ての要求を叶えるのは到底無理なことだった。
思い通りに行かずストレスが溜まったのか、彼女は段々と暴力を振るうようになってしまう。テストで低い点を取れば頭を叩き、気に食わない態度をとると腹を蹴る。
その頃からだっただろうか……痛みを感じなくなってきたのは。暴力を受けることに少しづつ慣れてきたのかと思っていたけど、そうじゃなかったらしい。
痛いのは嫌なので、痛みが消えてくれて嬉しかった。心の底から喜んだ。
家庭を顧みない父に愛想が尽きたのか、思うようにならない私に失望したのか、彼女も数ヶ月で家を出て行った。
間を置かず、父は懲りずに再婚する。この頃になると、私はもう新しい家族に期待していなかった。というより、興味を失っていた。
家族も、友人も、勉強も、運動も、何もかもどうでもよくなって、私は無気力になっていった。
3回目の再婚相手は、バツイチの子連れ。私より4つ上の女の子と一緒にこの家にやってきた。
母の方は前回の再婚相手と似ていて子供の教育に熱心のようだった。但し自分の子供だけで、私のことは基本的に無視。
子供の方、つまり私の義理の姉になった人は、母親の言うことに逆らわない真面目な人だった。
たまに“遊んでくれた”し、そこそこ上手くいっていたように思う。その時は本気でそう思っていた。
けれどやっぱり長く続かず、半年で家庭は崩壊し離婚となった。
父は飽きずに何度も結婚を繰り返す。そのたびに私は失望し、人に関わるのが嫌になってきていた。
そして、もうこれが何人目の義母になるのかわからないが、また新しい女性が私の前に現われる。
連れ子がいるらしく、彼女の背後から半分顔を出して不安そうな目で私を見ていた。隠れていてよく見えないけれど、髪と目の色が印象的だった。
ああ、また他人と暮らす生活が始まるのかとうんざりしていた私は、適当に挨拶して部屋へ戻ろうとする。
けれど新しい母親は私の手を掴み、両手で包み込むようにぎゅっと握った。
驚いて離そうとしたけど、強く握られていて無理だった。
いきなり何をするのかと睨んでやったけど、彼女はにこにこと気にせず笑っている。
『はじめまして、千晴さん』
これからよろしくね?と微笑む女性の顔は、今の『彼女』の顔にそっくりで。
昔は似てないなぁって思っていたけど、そんなことはなかった。
よく見ればとてもよく似ている。
話し方も雰囲気も、泣きたくなるくらい、そっくりだ。
そう、だ。
『母親』を想像して思い浮かぶのは、自分を生んでくれた母親でなく、幼馴染の母親で。
そしてもう一人。
母と呼びたかった人が、いた。
*
「……んん」
目を覚ました私は、身を起こして時計を確認する。
時計の針はいつもより30分も早い時間を指していた。
もう少し寝ていても大丈夫かもしれないけど、目が覚めてしまっているので二度寝は難しいだろう。
たまには早めに準備して居間でゆっくりするのもいいかもしれない……そう思いベットから降りた瞬間、ふと違和感を感じた。
「?」
なんだか身体が重い気がする。あれ、もしかして私、また太った?
実際、柚葉が来てから私の体重はほんのちょっとづつだけれど増え続けている。
原因は多分、柚葉が美味しい料理を作ってくれるからだろう。小食だったはずなのに、今では普通の人と変わらない量を食べていた。
だって美味しいし、せっかく作ってくれたのに残すのも勿体無いし。決して無理に食べてるわけじゃなくて、好きで食べているのだ。
それに体重が増えているといっても全然問題なかったりする。前まで平均より痩せており、担当の医者にもっと体重を増やせと言われていたのだから。
だから、今の状態が丁度いいのかもしれない。
(……んー)
それにしても、身体が重い。足に力が入らない。
きっと寒くて身体が動いてくれないのだろうと思い、そこまで気にせず部屋を出た。
昔の夢を見ていたから気分が重いのも関係あるのかもしれない。ちょっと、吐き気もするし。
喉が渇いていたので水を飲もうと台所に行くと、朝食の準備を始めようとしていた柚葉と出くわした。
昨日のこともありちょっと気まずいが、顔には出さずいつも通り挨拶をする。
「おはよ。柚葉」
「千晴さん? おはようございます、今日は早いんですね」
「うん、まあ」
いつもと変わらない態度で安心したけれど、それも一瞬だけだった。
私の顔を見た柚葉は、驚いた顔を作り慌てて自分の傍へと駆け寄ってくる。
なんだろう……私の寝癖が酷かったとか?それともよだれがついたままとか。うわ、そうだったら恥ずかしい。
「千晴さん」
心配そうな声色。なんでいきなりそんな声を出すのか不思議だった。表情も、どこか悲しそうだ。
「今すぐ自分の部屋に戻って寝てください。学校も休んでくださいね。先生には私が伝えておきますから」
「……は? なんで急に」
「気付いて、ないんですか?」
「何に?」
柚葉はいきなり手を伸ばし、私の額にてのひらを当てた。驚きと冷たさで、びくっと肩が跳ねる。
やっぱり、と呟いてから彼女はさらに表情を曇らせた。
「酷い熱です」
「……え、熱?」
言われて自分で額を触ってみた。確かにちょっと熱いかもしれないけど、酷いって程じゃないと思う。
ああでも、身体が重かったのは熱のせいだったのか。うん、謎が解けてスッキリした。気分が悪いのは相変わらずだけど。
「今日は一日、安静にしていて下さい。朝からおばあ様が用事で居られないので、できれば私も休んで千晴さんの看病をしたいんですけど」
「お断りします。慣れてるから一人で大丈夫」
「そう言われると思ってました。あ、食欲はありますか?」
「んー、そう言われれば食欲ないかも……とりあえず薬だけ飲んで寝る」
「そうですか……あの、おかゆ作っておきますから、食欲が出たら温めて食べてくださいね?
あと、欲しい物があったら言って下さい。帰りに買ってきますから。
それから、何かあったら電話でもメールでもいいのですぐ連絡してください。
あ、あと熱はきちんと体温計で―――」
「わかった! わかったから! いちいち大袈裟だっての!」
まったくもう、相変わらず心配性なんだから。
気持ちは嬉しいけど、私のことは気にしないでいつも通り過ごして欲しいと思う。自分のせいで、迷惑はかけたくない。
「さっきまで熱があることに気付かなかったくらいだから大丈夫だよ。寝てればすぐ治るって」
だから熱なんてないかのように元気に振舞う。全然平気だと彼女に伝わるように、笑ってみせる。
「……本当に、無理してないですか?」
「ん。学校にだって普通に行けるぐらい平気」
「行くのは駄目です。どこにも出掛けないでちゃんと寝ててください」
「はいはい」
やっぱりまだ不安げな顔でこっちを見てる。こりゃ何を言っても無駄だろうなぁ。
これ以上強がったり無理をすれば逆に心配を掛けてしまうので、大人しく部屋に戻って寝よう。
踵を返して一歩を踏み出す。ふらつきそうになる身体を気合で支えて、真っ直ぐ歩いた。
部屋に戻る前に居間で薬を漁っていると柚葉が水を持ってきてくれたので、水と一緒にその場で飲む。
……そういえば、小さい頃は錠剤が苦手だったっけ。喉に引っかかる感じがして、飲みにくかったから。
でも苦味を感じる粉末より味のしない錠剤の方がマシと気付いてからはずっと錠剤の薬を飲むようにしている。
子供用のシロップ薬が一番いいけど、ばあちゃんにからかわれて以来飲むのはやめた。
「……ふぅ」
部屋に戻って、真っ先にベットへ倒れこむ。
ちょっと家の中を歩いただけなのに額に汗をかいていたので、手の甲で拭った。
自分で思ってるよりも熱が高いのかもしれない。
(こりゃ、風邪かなぁ)
身体が弱くなってからは、よく風邪を引いて熱を出しているのでなんとなくわかる。
そういや昨日、裸同然の格好でしばらく話してたから、それが原因かもしれない。……柚葉、気にしていないといいけど。
布団を引き上げて仰向けに寝る。
しばらく見慣れた天井を見つめて、息を吐いた。
ちゃんと柚葉と話さなければいけないのに、なにやってるんだろう。
(でも、どう伝えればいい?)
向き合う覚悟はできているけれど、伝える言葉が思いつかない。
考えることは沢山あるけれど、熱のせいか何も思い浮かばない。
ぼーっとしてるとだんだんと薬が効いてきたのか、瞼が重くなってきた。
とにかく今は休んで早く身体を回復させたほうがいい。
私は欲求に抗うことなく、あっさりと意識を手放した。
*
「…ん……あれ?」
傍で物音がしたので、目が覚める。
いつの間に寝てしまったんだろう……どれくらい、寝ていたんだろうか。
枕元にある携帯で時間を確認しようとしたけれど、ふとベットの脇に人の気配を感じたので視線をそちらに向ける。
「柚葉?」
自然と口から出た名前。
でも、そこにいたのは呼んだ人物ではなかった。
「残念、ばあちゃんでした」
「…………」
「くくくっ、そんなに柚葉が良かったかい? ごーめーんーねー? ばあちゃんでぇ」
「……さっさと出てけ」
「可愛い孫が熱出したってんだから慌てて帰ってきたのに、冷たいねぇ。まあ、思ったより元気そうじゃないか」
「柚葉め……わざわざ連絡しなくてもいいのにっ」
ばあちゃんが傍にいると、余計に熱が上がりそうだ。
「どれ、熱は……ん、そんなに高くないようだね。ちゃんと薬は飲んだかい? 食欲は?」
「朝はちゃんと飲んだ。昼はまだ飲んでない。……食欲は、ある」
「よしよし。柚葉がおかゆ作ってくれてるようだから、後で温めて持って来てやる。とりあえず、今はこれを食べな」
差し出された皿の上には、雑に剥かれたリンゴが乗っている。
包丁で剥くのは苦手なくせに無理に剥いたせいでリンゴの形はごつごつしており見た目が悪い。
もう散々見慣れているのであえてツッコまない。
「……ばあちゃんがリンゴ剥いてくれるのも、久しぶりだね」
「気合入れて剥いたんだから、残さず食べないと承知しないよ」
「こっちは病人だっての」
「はっはっは」
まあ、皮だけじゃなく実まで一緒に剥いてあるせいか、そんなに量は多くないので食べようと思えば食べれるけど。
せっかくばあちゃんが剥いてくれたので、小さめのリンゴをひとつ取って口に運ぶ。見てくれは悪いけど味は全く問題ない。
「さてと、おかゆでも持ってきてやろうかね。さっきつまみ食いしたけど、おいしかった。げふぅ」
「ちょ、なに勝手につまみ食いしてんの!?」
「まあまあ。ついでに何か欲しい物があったら取ってきてやるから機嫌なおしな」
「欲しいものは特にないけど……聞きたいことは、ある」
「ほう……なんだい?」
真面目な話だと察したのか、ばあちゃんは目を細めて私の目を見る。
いつものふざけた調子は全く感じない。ちゃんと、真剣に話を聞いてくれるようだ。
だから私は躊躇うことなく、ばあちゃんしか知らないであろうことを聞くことにした。
「ね、私を生んでくれたお母さんって、どんな人だった?」
私の質問に、ばあちゃんは目を見開いて驚いていた。
口を大きく開けたまましばらく呆気に取られていたけど、すぐに嬉しそうな顔をして笑った。
「まさか、そんなことを聞かれるとは思ってなかったよ。別のことを根掘り葉掘り聞かれるかと思ってたんだけどねぇ」
「自分で思い出せることは自分で思い出すよ。でも、生んでくれたお母さんのことは、思い出そうにも思い出せないから」
実の母親は私を生んですぐ死んでしまったから、思い出なんてひとつもない。
だからお母さんのお母さんであるばあちゃんに聞くしかないのだ。
今までばあちゃんは私の母親のことを一度たりとも話してくれたことがない。多分ずっと、気を使ってくれていたんだろう。
母親のことに興味のなかった頃に話をされても、面識のない私は他人事のようにしか聞けなかっただろうから。
「どうして、今頃になってそんなことを聞く?」
「家族のことを知りたくなったから、かな」
「……そうかい」
ふう、と息を吐いて、ばあちゃんは昔を思い出しているのか懐かしそうに語り始めた。
「お前の母親はとにかく頑固だったねぇ。何を言っても自分の意思は曲げないから、おかげで喧嘩をすると毎回長引いてね。
仲直りするのも一ヶ月以上かかったりと一苦労だったよ。良くも悪くも自分の信じたものは譲らない子だった。
勉強も運動も特に突飛していたわけじゃないが、面倒見は良くて男女問わず好かれていたっけねぇ。
容姿もそこそこ整っていたし、性格も人懐っこくて明るい方だったから」
「へぇ」
「ああ、あと千晴と同じでセクハラ体質だったけど、あの子はむしろ楽しんでた気がするよ」
「はあっ!? セクハラ体質って遺伝だったの!?」
「さあどうだか。おまえと同じでよく女の子を押し倒してたけど、開き直ってたね、あの子は」
「………………」
なんだか凄い事実を聞いてしまった気がする。遺伝だったら、ばあちゃんも同じ体質だったんだろうか?
し、知りたいけれど、聞くのも怖い。このことはまた別の機会に聞くことにしよう。うん。
「色んな人に好かれたあの子だけど、一緒になりたいと言ったのは幼馴染の男の子……お前の父親だった。
私は反対したんだよ。あの男は駄目だってね。でも、あの頑固者はまったく言うことを聞かず家を飛び出していった。
ずっと探していたけど、ようやく再会できた時があの子の葬式さ。まさか元気だったあの子が病気で簡単に死ぬなんて、信じたくなかった」
悲しそうに苦笑するばあちゃんに、私は何も言えない。
思い出をたくさん持ってるばあちゃんの悲しみは、私にはわからないから。
「…………お父さんは、どんな人だった?」
父親との思い出はある。
けど私にとって父親の印象は無口で、暗くて、仕事が大好きで、冷たい人……だいたいそんな感じだ。
長い間一緒に住んでいたとはいえ、会話どころか顔を合わせることが少なかったのだから、思い出があるといっても僅かしかない。
その思い出も、決して楽しいものではなかったけれど。
「昔のお前の父親はずっと自分の家に引きこもっててねぇ。ぶっちゃけるとニートだったよ」
「え……ええっ!?」
「そんな男と一緒になって幸せになれるか!ってあの子に言ったけど、世話焼きなのもあってほっとけなかったのかもしれないね。
部屋から出ないあの男を引っ張るようにして、2人でどっかに行っちまった」
あの仕事しか頭にないような父親がニートだったなんて、とても信じられない。
どうしてお母さんはそんな人と結婚する気になったんだろう。
「……あの男は無愛想でやる気のない駄目な人間だったよ。けど、あの子の事は大切だったんだろう。
2人の知人に聞いた話によると、一生懸命働いていたそうじゃないか。あの子も、とても幸せだったらしい。
まあ、だからと言って私から娘を奪ったあの男は許せなかったよ。実はあの子の葬式の日、お前を引き取ろうと意気込んでたんだけどね」
「そうなの?」
「ああ。けどおまえの父親は首を縦に振らなかった。頑なだったね。どんなに駄目な男でもおまえの実の父親だから、諦めるしかなかった」
「……なんでお父さんは私を手放さなかったんだろ」
「そりゃ大切だからだろうよ」
「は? まさか」
大切だったら、仕事を優先しないはずだ。忙しくても、ちゃんと帰ってきてくれるはずだ。授業参観や運動会だって、来てくれたはずだ。
でも、お父さんは私の全てに無関心だった。大切に思っていたと言われても信じられるはずがない。
「あの男はとことん愛情表現が下手で不器用だったからね。自分ひとりだけでは娘にどう接すればいいのか解らなかったんだろう。
失いたくない、傷つけたくない……そう考えて出した結論がお前と距離を置くことだったんだ。
再婚を繰り返したのは寂しかったのもあるかもしれないが、お前に母親を――家族を、作ってやりたかったんだろうよ」
「…………」
「おまえが父親をどう思っていようが、事実がどうであろうが……あの男はおまえの父親だよ。
そしてあの子も、母親として何ひとつ残せなかったが、おまえを生めて幸せだっただろう」
「……ん」
「千晴は母親似だね。ほんと、そっくりだよ。ああ、でも目だけは父親に似たようだ。
あの男は気の抜けた目をしていたけれど、大事なものを見るときは別人のように優しい目をしていたからね」
「そう、かなぁ」
「ああ。今度、ふたりの写真を見せてやる」
「うん」
信じられないことばかりだったけど、本当の両親のことを聞けてよかった。
ふたりにはもう二度と会えないから、父と母がどんな人だったかを聞いても、今更意味のないことなのかもしれないけど。
でも、血の繋がった両親の変わりは誰にもできなくて。だからこそ、特別で。
自分を生んでくれた人がどんな人だったかを、この先もずっと覚えておきたいと思ったのだ。
「……家族ってなんだろう。血が繋がっていれば家族なのかな? 一緒に住んでれば、家族になるのかな? 届出を出せば、家族なのかな?」
「さてね。その答えは人によるんじゃないかい? 家族の定義ってのは曖昧なもんだし、人によって考え方は多様だ。
まあ他所は他所として。千晴は、どう思う? 血の繋がった両親のこと。一緒に暮らしてきた他人のこと」
「……どうだろ。よくわかんないかな」
大切だと思った人もいたし、どうでもいいと思った人もいた。
今まで一緒に暮らしてきた人たちをすべて家族と呼ぶことに少し躊躇いはある。
「ま、深く考える必要はないさ。家族という言葉だけで括らないで、自分にとって大切なものは、大切にすればいい。
家族と呼びたい人がいれば、そのまま家族だと呼べばいい。勝手に思えばいい。簡単な話さ」
「……そっか」
「恋だって同じだよ。好きだと思ったら、好きだと言えばいい。大事なのは、自分の気持ちだ」
「えーと、まだそういうことは考えられないけどさ。それって、そんな単純でいいの?」
「いいんだよ、それが本当の気持ちなら。……さて、聞きたいことはもうないかい?」
「うん。話してくれてありがとう」
私が満足したことがわかると、ばあちゃんはさっきまでの真面目な顔を崩して、いつもの陽気な顔でニヤリと笑う。
それから私の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。相変わらず、撫で方が大雑把だ。初めて会った時から変わらない。
……初めて、病院で会った時から変わらない。悪戯しても悪びれなくて、飄々として何を考えてるのか解らなくて、アニメ大好きなオタクで。
年寄りの癖に子供みたいに笑って、でも、真剣な時はちゃんと大人みたいな言葉を使って。
『よく頑張ったね千晴。…………もう、いいんだよ。疲れただろう?』
――あの時。
入院して初めてばあちゃんに会ったあの時に、言ってくれた言葉。
その言葉に、どれだけ救われただろう。報われただろう。
ほとんど記憶が薄れていて、言葉の意味がよく解らなかったけれど。
それでもばあちゃんの言葉は私の心に根付いて絡んでいたものを取り払ってくれた。
ばあちゃんは無気力な私に、何も言わなかった。
今までずっと甘えさせてくれて、ただ見守っていてくれた。
家族と呼びたい人を家族というのなら、この人は間違いなく私の大切な家族だ。
「ばあちゃん」
「んー?」
「私、また頑張ってみるよ」
ばあちゃんは私の目をじっと凝視して、嬉しそうに目を細める。
「……そうかい。無理すんじゃないよ」
「約束する」
「ああ、頑張んな。だけど今はちゃんと休まないとね。病人なんだから」
「もうだいぶ熱は引いたし、平気なんだけどなぁ」
「……まったくおまえは。いいから、おとなしくしてな。おかゆ持って来てやるから」
「へーい。あ、ばあちゃん。ひとつお願いがあるんだけど」
「ん?」
私がお願いを言うと、ばあちゃんはあっさりと了承してくれた。食事の後にやってくれるらしい。
ばあちゃんに頼むのはかなり不安があるけれど、まあ、上手くやってくれるように信じるしかない。
ニヤニヤと嫌な笑い方をしていたのが気になるけど。うう、やっぱりやめとけば良かったかな。
「ほら、柚葉お手製のおかゆ持ってきたよ。よいしょっと……ふー、ふー、はい、あ――んして♪」
「自分で食べれるわぁ!!」
「くくく、なに照れてんだい。昔はよくこうやって食べさせてやったじゃないか」
「昔は昔! 今は今! もう子供じゃないっての!!」
「わたしにとっちゃおまえは今でも子供だよ」
「ぐぅ」
「ほらほら、柚葉だと思って―――」
「余計いやだよっ!!!」
「ひひ、照れてる」
「照れてないっての!!」
言い争っていると熱がまた上がりそうだったので、しかたなく私が折れて食べさせて貰うことにした。
食欲が完全に戻ったのか、ばあちゃんがつまみ食いしてくれたおかげか、おかゆは無事に完食。
食べ終わると、ばあちゃんはさっそく私のお願いを叶えてくれた。
かかった時間は1時間程度だっただろうか。待っている間は常にハラハラしていたので、時間が過ぎるのが凄い早かった気がする。
それでも、無事に終わったのでほっと息を吐いた。
「どうだい? 気に入ったかい?」
「うん。意外っていうか、予想以上だった。いい意味で」
「ふふん、本気を出せばこんなもんさ」
「すぐ調子に乗る……ん?」
ガラガラガラ、と玄関が開く音が聞こえた。学校から柚葉が帰ってきたんだろう。
真っ先にこの部屋に来るつもりなのか、足音が段々と近づいてきている。
けど、聞こえる足音がひとつじゃない。ドタドタと複数の音が聞こえるので、柚葉以外にお客さんが居るようだ。
……誰が来たかなんて、だいたい予想ついてるけど。
「千晴ーお見舞いに来たわよー熱は大丈夫ー……って、どうしたのその髪!? 振られたの!?」
「誰にだよ」
「千晴ちゃん具合はあああああああああ!? そ、それ、かかか髪、病気でごっそり抜けちゃったの!?」
「怖いよ」
「天吹、ちゃんと寝てるでしょうねー……? は?…………え、アンタ、誰?」
「酷いよ」
最初に入ってきたのは美空、その次に菜月、そして平……一番後ろで唖然としているのは、柚葉だ。
それぞれのリアクションは面白かったけど、ただ髪を切っただけでみんな動揺しすぎじゃない?
自分にとってはわりと意味のある断髪のつもりだけど。
(なんか、へんな感じ)
ばあちゃんにお願いして切ったもらったばかりの髪を触る。
適当に短くお願いと頼んでみたら、結果的に昔の髪型と変わらないショートヘアに落ち着いた。
束ねていた後ろの髪をバッサリと切ったので随分と頭が軽くなった気がする。伸びていた前髪も切ったので、視界が明るい。
不器用なばあちゃんにお願いして不安だったけど、無事に済んでよかった。失敗して頭を丸めることにならなくて、ほんとよかった……。
「ビックリしたけど、凄く似合ってるわよその髪。爽やかっていうか、明るくなったっていうか」
「う、うん! 私も似合ってると思う! 千晴ちゃんらしくて、懐かしい感じ」
「そうね。サッパリしていいんじゃないの?」
「そっか、ありがとう」
大して変わってないと思うけど、照れるなぁ。
「「「………………」」」
「?」
何故かみんなはぽかーんと口を開いたまま固まってしまった。え、な、何か変だった? やっぱり髪がどこかおかしいとか?
さっきから部屋の隅でばあちゃんがニヤニヤしてるし不安になってくる。
「…こほん。それより千晴、体調はどうなの? 熱は?」
「ああ、身体の方はもう平気。熱も下がったし、だるさも気分が悪いのもすっかり治った」
「そう。良かった……顔色もいつも以上に良いみたいだし、心配なさそうね。
大須賀ちゃんが暗い顔してしてたから、相当ひどい状態なのかと思ってたわ」
「いやいや今日のは軽い方だって……」
柚葉のほうを見ると、俯いてまだ暗い顔をしている。
身体の心配をしてくれてるのか、もしくは余計なことを考えてるかのどっちかだろう。もしかしたら、両方かもしれないけど。
「先生に頼まれて今日の宿題持ってきたから、机の上に置いておくね」
「げ。そのまま持って帰って良いよ」
「天吹ぃ?」
「ちゃんとやらせていただきます」
「よろしい」
自然と従っちゃう自分が憎い。だって平さんの目が怖いんですもの。
机の上に置かれた宿題を見ると量はそんなに多くないみたいだから、すぐに終わるだろう。
体調不良で休んでたのに宿題やってこいってのも酷いよね。もう元気だからいいけどさ。
「……そうだ、忘れてた。柚葉」
「はい?」
「おかえり」
「……あ。ただいま、です」
遠慮ぎみに離れていた柚葉は、ようやく私の傍まで来てくれた。
切った髪が気になるのかチラチラと見て何か言いたそうにしていたけど、結局言わずに口ごもる。
う……やっぱり変かな、この髪型。自分では見えないところが変になってたりしないよね? ばあちゃんならやりそうだけど。
「ふふ、甘酸っぱいわねぇ」
「いきなりどしたの美空。飴でも舐めてるの?」
「んーよしよし、千晴はまだまだ子供ね。今度ママの味がする飴をあげるわ」
「……同い年だと何回言えば」
まーた子供扱いして。って、他のみんなも苦笑いしてるのは何故だ。
ばあちゃんも笑ってる…というかひとりで爆笑してるのでだんだん腹が立ってきた。
「そうだ! えっとね、千晴ちゃんにお見舞いの品を持ってきたんだ……はい、これ。おひとつどうぞ」
「わ、ありがと菜月。おいしそうな柿―――」
受け取ろうと手を伸ばすと、むにっ、と柔らかい感触。あれ、柿ってこんなに柔らかかったっけ? 渋柿?
それに手に余る大きさって…………ああ、やっぱり胸ですね。菜月の。掴んじゃってますね、あはは。
や っ ち ゃ っ た ―― !!!
「わああああああああっ!?」
「おわあああああああっ!?」
慌てて菜月の胸から手を剥がす。相変わらず大きくて柔らかい胸だ……ではなく! なにやってんの私!?
いやぁ柿じゃなくてメロンだったねー……って何考えてんの私!?
「天吹? ちょっとそこに正座してくれない? あ、ベットじゃないわよ? 床ね」
「………………千晴さん」
殺意の籠もった目をした平と凄くいい笑顔をしている柚葉に追い詰められる。あの、一応、私、病人なんですけど。
菜月は真っ赤な顔で混乱していて、美空とばあちゃんは大爆笑していた。
「わ、わざとじゃないです」
「ちゃんとわかってるわよ? わかった上で言ってんのよ。はい、正座」
「無慈悲!?」
「やっぱり千晴は千晴よねぇ」
「ちょっと美空!? 見守ってないで助けてー!」
「上原ちゃんって昔から胸大きかった?」
「え? ああ、そういや小学生にしては大きいほうだったような」
「千晴ちゃあああん!?」
「全然反省してないわね天吹!!」
「悪化させてんじゃん! 美空ぁ!」
「てへ」
それから私の部屋は、病人の居る部屋とは思えないほどお祭り騒ぎになっていた。
熱は下がって元気だったけれど、みんなが来てくれてからもっと元気になったような気がする。
しばらくして美空たちは帰っていき、ばあちゃんと柚葉もそれぞれ自分の部屋に戻っていった。
さっきまで騒がしかった部屋も、今は私ひとりで静かなものだ。落ち着くけれど、不思議となにか物足りない感じがする。
「宿題やろうかな」
ベットから起き上がって机に向う。
大人しく寝ていろと言われたけど、今日はずっと寝ていたから眠くない。
どうせすることもないし、やらないと平に叱られそうなので教科書を見ながら問題を解いていく。
しばらく集中して勉強していると、携帯の音が鳴った。
「あれ、メールだ」
携帯を開くと時刻は夕飯にはまだ早い時間。あと少ししたら柚葉が準備を始める頃だろう。
届いたメールの差出人は美空だ。急にお見舞いに来たことのお詫びと、あとは体調を気遣うような内容だった。
気にしなくていいのにと思いつつも、親友のお節介に胸が温かくなる。
お礼の返信をうってから、椅子から立ち上がった。
もう身体は重くないし、気分も悪くないから完全に回復したようだった。
額に手を当てて温度を確認してみても熱っぽさは感じない。食欲も湧いてきたのか、小さくおなかが鳴る。
うむ、小腹も空いたことだし、少し休憩しようかな。宿題はあとちょっとで終わるから休憩しても大丈夫だろう。
台所に行けば何か食べ物があるだろうから、こっそり部屋を抜け出すことにした。柚葉に見つからないように、慎重に進む。
夕飯前におやつを摘んだりしたら叱られるかもしれないし。
(あれ、誰か来てる?)
こそこそと移動していると、玄関の方から話し声が聞こえた。
一人は柚葉でもう一人は誰だろう。声質からしてばあちゃんじゃないし、もっと若い人の声だ。
それにどことなく話し方が普通じゃないように聞こえた。親しみを感じない、棘のある声。
(誰と話してるんだろ)
胸騒ぎがして、玄関の方へと向う。
そこには珍しく眉間にしわを寄せている柚葉と、ついこの前に再会したばかりの元義理の姉の姿があった。
柚葉の近くまで行こうとしていたのに、話していた相手が誰かわかると足がピタリと止まってしまう。
その場に縫いつけられてしまったように一歩たりとも動けない。
2人は話に夢中になっているのか、私が近くに居ることに気付いていないようだ。
「だから、千晴に会いに来たって言ってるでしょ? いいから会わせてよ」
「千晴さんは熱があって寝てます。会いたいのでしたらまた後日にお願いします」
柚葉の声はいつになく冷たかった。それが自分に向けられた声ではないとしても、あまり気分のいいものじゃない。
「わざわざ遠いところから来たってのに追い返すの? この家見つけるのだって苦労したのに」
「申し訳ありません」
「ていうかあんた誰? 一緒に住んでるの?」
「ご挨拶が遅れました。私はこの家に居候させてもらってる大須賀柚葉といいます」
「……ふーん。千晴とはどんな関係?」
「貴女と同じですよ」
「同じ?」
「私は昔、千晴さんの義理の姉でしたから」
もう、柚葉は自分を婚約者だと偽らない。
彼女が婚約者を自称していたのは昔の約束でもおままごとの延長でもない。
きっと“天吹柚葉”を思い出して欲しかったんだろう。私と家族だった頃の名前は、まるで私と結婚したようにも思えるから。
「へえ……そうなんだ。じゃあ、あんたも千晴と遊んだくち? 面白いよね、あの子」
「……面白い、ですか?」
「あれ、知らないの? あの子ってどんなに痛みを与えても平気じゃない。痛覚がないって便利よね」
「…………」
ずきり、と身体が痛んだような気がした。痛覚を失っているから、そんなことあるはずないのに。
痛んだのはきっと、心かもしれない。どんなに願っても、心の痛みだけは消えてくれなかったから。
「どんなに傷つけても、平気な顔してるの。ううん、喜んでた」
「……どうして、千晴さんが、傷つけられて喜んでいたか、解りますか?」
「え? 遊んであげたからじゃない?」
「違いますよ」
途端、柚葉の声に怒気が混じる。相手もそれを感じ取ったのか、顔を顰めた。
「千晴さんが喜んでいたのは、貴女が楽しそうにしていたからですよ。家族が喜んでくれることを、自分の喜びにしたんです。
あの人は、そういう人なんです。どんなに傷ついても、悲しくても、相手が笑ってくれるのなら、嬉しいと感じてしまうんですよ」
「…………」
なんで、わかるんだろう。
その場に居たわけでもないのに。
自分の胸の内を話したことなんて、一度もなかったはずなのに、どうして。
わかって、くれるんだろう。
「ふーん。別にそれでいいじゃない。私も楽しい、千晴も嬉しい。それってお互い幸せだと思わない?」
「思いません。そんな幸せ、ありえません。そんなのは、貴女が勝手に作った幻想ですよ」
「ふぅ。同じ元義理の姉同士、わかりあえるかと思ったけど無理っぽいね」
「……今日はお帰りください。ここにいても、千晴さんには会わせません」
「嫌だって言ったら?」
にやり、と厭な笑みを作る。強引にでも彼女は家に上がってくるかもしれない。
あの人は昔からなんでも自分の思い通りにならないと気が済まない……そういう人だ。
そして柚葉も意地でもその場を退かないはず。このままだと状況は悪い方へと向うだけだろう。
……私は動かなくちゃいけない。こんなところで立ち止まってる場合じゃない。
また頑張ると決めたんだ。何もしなかったら、何も変わらない。
だから。
『大丈夫ですよ、私が支えますから。だから―――怖がらないで下さい』
いつか柚葉がくれた言葉が、胸に灯る。
(………………うん)
大丈夫。
もう、怖くなんかない。
深呼吸をして、拳を握り締める。
覚悟は――決まった。
「柚葉……それと、愛莉さん」
「「!?」」
名前を呼ぶと、ふたりはようやく私の存在に気付く。
私は俯かせていた顔をしっかりと上げて、彼女たちの元へ向うために、大きな一歩を踏み出した。