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Heroine Life  作者: ころ太
15/22

そこにいるはずの君に

  


 

朝起きて台所に行くと、制服の上にエプロンを着けた柚葉が朝食の準備をしていた。

彼女は背後にいる私に気付いておらず、慣れた手つきでフライパンを動かし野菜か何かを炒めている。

台の上には目玉焼きとベーコンが盛られたお皿が並んでおり、その隣には狐色に焼けたトーストが置かれていた。

朝食の準備はもうほとんど終わっているみたいで、今作っている品が出来れば完成みたいだ。


「……………」


すっかり我が家に馴染んだ、どことなく懐かしい家庭の音に耳を傾ける。

台所で料理をする柚葉の後姿を見るのも、今更珍しくもない。

いつもの、見慣れた風景――――いつの間に、そう認識するようになったのだろう。

柚葉がこの家に来てまだほんの2ヶ月程度なのに、もうずっと一緒に過ごしているような感覚だった。

そこにいるのが当たり前で、いないと違和感を感じてしまうほどに、彼女は私の日常に溶け込んでしまっている。

少し前はそれが嫌でしかたなかったはずなのに、今ではもうすっかり抵抗がない。

自分の意志の弱さに呆れてしまうものの、この現状も悪くないって思えるのだから、無理に否定しなくてもいいのだろうけど。

こういう日常はまだ少し、気恥ずかしい。


真剣に料理をしている後姿をしばらく眺めていると、私の気配に気付いたのかこちらを振り返った。

視線が合うと、すぐに柔らかい笑みを浮かべて嬉しそうに私の名前を呼ぶ。

ああ……やっぱり、くすぐったいなぁ。


「おはよう」

「おはようございます。すぐに朝食出来ますから、座って待っててくださいね」

「何か手伝うことない?」

「ふふ、ありがとうございます。でも、ほとんど終わってますから」

「じゃあ出来たやつをテーブルに運んどく。これ、持って行っていい?」


一緒に暮らしているのだからこれくらいの手伝いはやらせて欲しい。

家事のほとんどは柚葉がやってくれているけど、やっぱりきちんと分担した方がいい気がする。

苦手だからと彼女に甘えないで、自分に出来ることはやって、少しでも負担を減らしたい。


「あ……はい、じゃあ、お願いします」

「うん」


恐縮そうにしつつ、でも嬉しそうにはにかんでいる彼女に背を向けて居間へ行くと、ばあちゃんが席に座ってテレビを見ていた。

いつもは呼びに行くまで自室に籠もっているのに、珍しいこともあるものだ。

年寄りは朝が早いというが、うちのばあちゃんは起きるのが少し遅い。…その原因は深夜アニメを見ているせいだけど。

ばあちゃんは眠いのか、口を大きく開けて立派なあくびをしている。


「おはよう、ばあちゃん」

「おや千晴。おはよう、今日も寒いねぇ」

「そう? でもまあ、もうすっかり冬だもんね。そろそろコタツ出そうか」

「コタツなら去年捨てたじゃないか。ほら、もう随分と古くなってたから」

「あ、ああ~そういやそうだった。 それじゃあ今年はストーブだけで乗り切らないと」


暖かいコタツでごろごろしながらミカンを貪り食うのは、冬の醍醐味の一つなのになぁ。残念だ。


「ふふ、安心しな。新しいコタツは既に注文してあるよ」

「おお!」

「届くのは年末でまだまだ先だけど」

「おおぅ…」


それは、ちょっと遅いのではないだろうか。いや、でも、年末以降もまだまだ寒いだろうから、問題ないのか。

年末までコタツがないのは寂しいけれど、新しいコタツが届くのを楽しみにしていよう。


「はい、今日の朝ごはん。後から残りの品も持ってくるから先に食べてていいよ」


持ってきた朝食をばあちゃんの目の前に置く。

何故か不思議そうにしていたけれど、やがて目を細めてニンマリと含みのある笑みを作った。

また何か変なこと考えてるんだろうな、その顔は。


「へぇ、柚葉の手伝いかい? 感心感心」

「これぐらいはやんないと、決まりが悪いし」

「……ふーむ、ふむふむ」

「?」


私の顔をジロジロと眺めて、ひとりでうんうんと満足げに頷いている。わけがわからないが、迂闊に関わるとろくなことにならないので放っておくのが吉だ。

それよりもまだ運ぶものが残っているので、ばあちゃんを無視してさっさと台所に戻る。

さっきまで炒め物をしていたはずの柚葉は、出来上がったオカズを弁当箱に詰めていた。

朝食を作りながら弁当まで作っていたなんて、相変わらずなんと手際のいいことか。

私にとっては驚くべきことでも、彼女にとっては普通のことなんだろう。けど、やっぱり凄いなって思う。私には真似できそうにない。


(今日のおかずは何かな……っと)


ふと弁当の中身が気になったので、隙を見て覗き込んでみる。

ウインナーに、卵焼きに、鮭の塩焼き等々、種類も豊富で彩りも鮮やか。パッと見ただけで手間暇かけて作ってあるのがわかる。

いつだって彼女の作ってくれる弁当は凝っている。もちろん味だって凄く美味しい。どこぞのプロより上手いと勝手に思っている。

私の好物を毎日必ず一品は入れてくれるけれど、同時に苦手なものも入れたりと余計なことをしてくれるおかげで栄養バランスも完璧である。

せっかく作ってくれたものを残すのは忍びないので、最近は苦手なものを口にする機会がかなり多くなっていた。

だからといって苦手な食べ物を克服できたわけじゃない。ただ、無理矢理口に詰め込んで飲み込むだけ。それが私の限界だった。

嫌いなものを好きになるなんて、そう簡単にいくわけがない。


「やった、エビフライ」


弁当の中に自分の好物を見つけて思わず手が伸びそうになるが、柚葉に気付かれてやんわりとたしなめられる。


「つまみ食いは駄目ですよ? お昼まで我慢してくださいね」

「……はい」

「ふふ」


照れ隠しに頬をかいて、笑う彼女から視線を逸らす。するとその先に、居間にいるはずのばあちゃんがいて、柱の影からこちらを覗いていた。

足音一つ聞こえず、気配も感じなかったはずなのに、いつからそこにいたんだろう。いつにも増して気色の悪い笑顔を浮かべているのも気になる。


「こりゃどう見ても立派な夫婦だねぇ」

「あ? 何か言った?」

「おおっと、退散退散」


ひと睨みすると、ばあちゃんは素早い身のこなしで台所から姿を消した。

いつものやりとりに溜め息を吐いて、台の上の料理を見る。


「柚葉ー、こっちのも持ってっていい?」

「はい、お願いしま……あっ、それはまだ熱いので気をつけてください」


ほかほかのコンソメスープが入ったカップを手に取る。


「大丈夫、ちょっと冷めてるみたい」

「そうですか?」


暖かい気はするけど、それほど熱くはなかった。時間が経って、少し冷めてしまったのかもしれない。

あまり熱々だと飲みにくいから、丁度いいかも。


全員分のカップをお盆に乗せて再び居間へ戻る。

持ってきたスープをテーブルに置こうとして、奇妙な物体が自分の席に置いてあることに気がついた。

人形……いわゆるフィギュアだというのは理解できるのだが、何故生まれた姿のままなのかは理解できない。

故意に脱がせたわけじゃなく、“そういう”嗜好の立体造形物なんだろう。

ポーズは随分と煽情的で、肢体は精巧に作ってあり、大事な部分はぼかしてあるが非常にエロティックに仕上がっている。

こんなもの、さっきまでなかったはずなのに。


テレビを見ているばあちゃんに視線を向けると、奴はにんまりと上機嫌な笑みを浮かべた。

どう考えても犯人はばあちゃんしかいない。


「なにこの全裸の美少女フィギュア」

「ご神体。千晴に譲ってやろうと思って――」

「はいはい、これ猥褻物だよね。捨てるね」


卑猥なご神体を掴んでゴミ箱へ放り込もうとしたが、ばあちゃんが必死になってそれを制する。ちっ、素早い。


「なんてことすんだい! それは限定101体のプレミアフィギュアだよ!? いくらすると思ってんだい!」

「オークションで捌くか…」

「鬼畜な孫だね!」

「孫にいかがわしいフィギュアをプレゼントする祖母のほうが鬼畜だよ!?」

「いかがわしい!? はっ、どこ見て言ってんだい。よく見てみな、この腰の曲線と太ももの膨らみなんて芸術の域を超えて宇宙へ――」

「解説しなくていいから! つーか興味ないし、いらないから!!」


鬱陶しいから全裸の人形をぐいぐい押し付けるのはやめてほしい。

そんなに気に入っているのなら、自分で持っていればいいのに。私が持っていても宝の持ち腐れになるだけなんだから。


「せっかく譲ってやろうと思ったのに」

「お気持ちだけで結構です」

「しかたないね……コレが気に入らないのなら、千晴には別のモノをあげようじゃないか」

「 い ら な い 」

「ふふふ、お前が学校から帰ってきたら渡してやるから、覚悟しな」


だからフィギュアなんていらないって言ってるのに聞こえてないのかな。

渡してきたらすぐに捨ててやろうかと考えたけど、貰い物を捨てるのは良くないので物置にでも封印するか。

しかし何故学校から帰ってきてからなんだろう。今すぐ持ってきてくれればいいのに。いや、持って来られても困るけど。


「残りの朝ごはんできましたよー……? あの、どうかしました?」

「なんでもない。さ、早く朝ごはん食べよっか。ゆっくりしてるとバスの時間に遅れる」

「あ、はい……その、裸のお人形さんは千晴さんのですか?」

「!?」


いつの間にかばあちゃんのご神体が私の席のテーブルの上に再び鎮座していた。

頬を染めた全裸の美少女フィギュアが、私のほうを見てM字開脚をしてる。あれ、さっきまでのポーズと違う……動かせるんだ、アレ。

なるほど、確かに凄いクオリティの可動式フィギュアみたいだ。こう、思わずへし折ってしまいそうになるくらいに。


私はそのフィギュアの首を引っ掴み、躊躇うことなくゴミ箱へ入れた。


「あああああああ――!?」

「さーて、いただきます」

「最近の着せ替え人形は随分とリアルなんですね」

「ソウダネ。スゴイヨネ」

「まったく千晴は容赦ない子だよ……可哀想なマルセちゃん、あとで綺麗に拭いて部屋に飾ってあげるからねぇ」


神体マルセちゃんというらしいをゴミ箱から拾い上げたばあちゃんは、自分の席のテーブルの上に置いてうっとりと眺めていた。

私は見ないようにして黙々と朝食を胃の中に入れていく。あー今日のごはんも美味しいな。これだったら朝からいくらでも入る。

前は朝食を食べないでも平気だったのに、今では食べないと落ち着かない。


「ごちそうさま。今日もおいしかった」

「はい、お粗末様です」


朝食を食べ終わり、2人で後片付けをする。

洗い物はばあちゃんがやってくれるから、食器を台所に運ぶだけだ。

テーブルを綺麗にしてからふと時計を見ると、もう家を出る時間になっている。

玄関にいって靴を履いていると、ばあちゃんがいつものように見送りに来てくれた。なんかモザイクが必要な物体を抱えてるけど、無視の方向で。


「じゃ、いってきます」

「ああ、2人とも気をつけて行きな」

「はい。いってきます」


ばあちゃんと全裸のご神体に見送られて、私たちは学校へ向った。





教室に入り自分の席に荷物を置く。

それから先に来ているであろう美空の席を見ると、彼女の席には菜月と平がいて美空を囲んでおり、何かを見ながら3人で楽しそうに話をしていた。

かわいいだの、おもしろいだの、断片的に話の内容が聞こえてくる。どうせまたオシャレな雑誌でも見て盛り上がっているのだろう。

興味のない私が話に混じって水を差すのも気が引けるし、このまま自分の席で大人しくしていることにする。

柚葉は気になったのか、美空たちの方に歩いていったようだ。私も、何を見ているのかは気になっているので、邪魔にならないよう耳を澄まして盗み聞きする。


「おはようございます。みなさん、何を見てるんですか?」

「おはよう。大須賀ちゃんも見る? 千晴の小さい頃の写真」


(なっ!!?)


なんでそんなものがここに!?


「……昔の千晴さんの写真、ですか?」

「うん。美空ちゃんに頼まれて私が持ってきたの。あまり、数はないんだけど」

「柚葉も見てみなさいよ、面白いから。ほら、これとか今のアイツとは大違いで――」

「うわあああああちょっと待ってええええ!!!」


慌てて自分の席を離れ、平が柚葉に渡そうとしていた写真をすばやく奪い取る。

そして手に入れた写真を見てみると、写っていたのは可愛らしくピースをしている幼い菜月と、当時好きだった正義のヒーローの決めポーズをとっている幼い私の姿だった。

そう……昔、菜月と一緒に居た頃の自分は、こういう痛々しいことを平気でやっていたのである。いわゆる黒歴史だ。


「ぐ、ぐおおお……」


当時の自分を思い返してとてつもない羞恥心に襲われ、身悶えてしまう。

精神的にダメージを受けている私の手元から、さりげなく写真を奪ったのは、柚葉だった。

はっ!? し、しまった!!


「これが、千晴さん……」

「あら、さすがの大須賀ちゃんも驚いちゃってる。まあ、無理もないわよねー、こんな無邪気な千晴は初めて見るもの」

「うう……菜月…余計なものを……っ!」

「ご、ごめんね。千晴ちゃん」

「ま、まあ、こんな時期は誰にでもあるわよね。…くく…想像以上だったけど…っ」


珍しくフォローしてくれてるつもりなんだろうけど、笑いを堪えてるのがバレバレだよ平。

これ以上傷口に塩を塗るようなことはやめてくださいお願いだから。


机の上にも何枚か写真があって、ほとんど私と菜月が写っている写真だった。

その約半数が、馬鹿っぽいポーズをしている私ばかりだったので、今すぐにでも燃やしてしまい衝動に駆られてしまう。

けれどこの写真の全ては菜月のものだ。菜月の、思い出の形だ。それを私が勝手にどうこうするわけにもいかない。

それにきっと、この写真を撮ったのは菜月のお母さん―――葉月さん、だろうから。

だから仕方ないな、と冷静に自分を納得させようとしたところで。


「菜月さん。写真の焼き増しをお願いしてもいいですか?」


例によって、また柚葉さんがとんでもないこと言い出した。

切実に燃やしたいと思っているのに、逆に増えるとか勘弁して欲しいんですけど!


「そんなん、駄目に決まってるでしょうが! 肖像権! 肖像権!」

「あ、でもフィルム残ってないよ?」

「複合機でスキャンして編集ソフトで画質を上げてからプリントアウトしますので、大丈夫です。少し写真を貸していただければ」

「ほ、本気だ!? 菜月も素直に渡しちゃ駄目だってば!」


写真を奪おうとする私の腕を、軽々と美空が押さえる。うぐっ、力で美空に勝てるわけがないので、抵抗できない。


「まあまあ、いいじゃない。好きな人の写真を持っていたいと思う乙女心を解ってあげて」

「昔の黒歴史を晒されて傷ついてる私の乙女心は無視なの?」

「よーしよしよし、それは私が慰めてあげる。でも、どの写真の千晴も可愛かったわよ? 私も欲しいくらい」

「や め て」

「ふふふ、残念。でも大須賀ちゃんにはお世話になってるんだから、これぐらい認めてあげてもいいんじゃない?」

「……………」


そう言われると、何もいえない。私の昔の写真なんかが日頃のお礼になるわけないだろうけど、でも、柚葉がそれで少しでも喜ぶのなら。

誠に不本意であるけれど、認めるしか、ない。すっごい嫌だけど、割り切るしかない。


「……好きにすれば」


苦渋の決断だ。煮るなり焼くなり、好きにしてください。


「ありがとうございます千晴さん。それに菜月さんも」

「えへへ、気にしないで。あ、まだ家にも少しあるから、そっちもいる?」

「是非お願いします」

「や め て」


それ以上は勘弁してください。認められるのは、ここにある写真だけだ。



(昔の、写真?)



そういえば、私も同じ写真を持っているはずだ。

葉月さんが私の分も現像してくれて、アルバムに挟んだ記憶がわずかに残っている。

それは、今どこにあるんだっけ。しばらく開けていない押入れの中にあるのだろうか。


――どうして、思い至らなかったのだろう。


昔の写真の存在に気付いていれば、もしかしたら早くに菜月のことを思い出せていたのかもしれないのに。

それに、未だに思い出せていない柚葉のことも、何かわかるかもしれない。

よし。家に帰ったら、さっそくアルバムを探してみよう。


「天吹さん」

「ん?」


呼ばれて振り返ると、クラスメイトの子だった。名前は…覚えてない。


「今日の化学室の準備、天吹さんだよ」

「あれ、一時間目って化学だったっけ。わかった、教えてくれてありがとう佐々木さん」

「立石なんだけど!? 全然合ってないんだけど…まあいいや」


特に嫌味を言われることもなく、彼女は自分の席へ戻っていく。名前を間違われて怒ってしまったのか、顔が赤くなっていたのが気になったけど。

しかし、珍しく普通にクラスメイトの女子に話しかけられた気がする。私に用がある時は、いつもなら美空か柚葉に伝えていたのにな。


「そういうわけだから、化学室行ってくる」

「私も行きます」

「ひとりで大丈夫だよ。準備って言っても、今日はプリントを配っておくだけだから」

「そう、ですか」


手伝いを断られて、柚葉はしょんぼりと顔を伏せた。

普段は実験器具の準備で大変だけど、今日の授業は復習だけだから準備は簡単なのだ。ひとりでもすぐに終わるので、手伝いは必要ない。

だから、そんな顔をされても困るわけで。


「鈍感」

「はぁ?」


私の頭にぐりぐりと拳を押し付けているのは、不機嫌そうな顔をした平だった。

残念ながらグリグリされても痛みは感じないので、そんなことをしても意味はない。

よくわからないけど、HRが始まる前に戻ってこなければいけないので適当に平をあしらってから教室を出る。

まずは職員室に寄ってプリントを貰ってから化学室に向わなければならない。


「っ!?」


廊下を歩いていると、突然、窓から強い風が吹き付けてきたので思わず足を止めた。


…今日は、一段と風が強いようだ。乱れた髪と襟を正してから、再び歩き始める。

それにしてもこんな真冬に全ての窓を全開にするなんて、何を考えているんだか。空気の入れ替えが目的かもしれないが、全部開けなくてもいいだろうに。

勝手に閉めるのも躊躇われたのでそのまま通り過ぎようと思った矢先、スカートの短い女の子が向かい側から歩いてくるのが見えた。

両手には、たくさんのプリントの束。そんなものを抱えて窓全開の廊下を歩いたりしたら、当然――――


「す、ストップ!!」

「え?」


声を掛けたその瞬間、タイミングを見計らったように突風が吹いた。

女の子の持っていた大量のプリントは瞬時に全て舞い上がり、そして、彼女のスカートも大胆に捲れようとしている。

おかしい。何故自分は空中に漂うプリントには目もくれず、パタパタとはためくスカートを凝視しているのだろう。


(み、み、み、見えちゃう……!)


何がって、そりゃやっぱり、中身が。

別に見たいわけでもないのに、視線を逸らすことができないのはどうしてだろう。

このままだとまた変態呼ばわりされてしまうのに、見えない何かに押さえつけられているように身体が動かない。


そしてついに捲れる……という時に、突然視界が真っ暗になって何も見えなくなった。


「駄目ですよ」

「!」


目の辺りを覆う柔らかな温もりを感じて、背後から誰かに目を塞がれたのだと理解する。

ちなみに聞き慣れた声と嗅いだことのある仄かに甘い匂いで、後ろにいる人物が誰なのか解った。


「ナイスタイミング、柚葉」

「お役に立てて何よりです」


視界を遮っていた彼女の両手が離れると同時に、背中に当たっていた柔らかな感触が消える。

後ろにいた柚葉は前に出て、廊下に散乱したプリントを女の子と一緒に拾い始めていた。遅れて、私も拾い始める。

全てのプリントを掻き集めて女の子に渡すと、彼女は何度もお礼を言ってから慌ててその場を立ち去っていった。

それから隣に立っている柚葉を見ると、彼女は私の視線を受け止めて微笑む。


「……ひとりで大丈夫って言ったのに」

「手伝う為について来たわけじゃないですよ? 私はただ、千晴さんの傍に居たかっただけです」

「あ、そう」

「はい」


ふいっと背を向けて歩き出すと、柚葉はその後を控えめについて来ていた。彼女のことだから気を使ってくれているんだろう。

出会った頃からそうやってちゃんと距離をとってくれていたっけ。人付き合いが嫌いだった私が不快にならないように……寂しくないように、つかず離れず。

最近はちょっと距離が近いような気がするけど。


「………」

「……ぁ」


仕方なく、私は歩く速度を徐々に落として柚葉の隣に並ぶ。どうせついて来るんだから開き直って一緒に行くことにした。

本当に“ひとり”でも大丈夫だけれど……“ふたり”が駄目なわけじゃない。それに今はもう、大丈夫だから。


「手を繋いでいいですか?」

「嫌です」


あまり調子に乗られるのも面倒なので、釘を刺しておく。

それでも嬉しそうに顔を緩ませる柚葉を視界に入れないようにして、私は長い廊下を黙々と歩いていった。







全ての授業を終え、放課後になった。

いつもなら柚葉の夕飯の買出しに付き合うけど、今日は先にひとりで家に帰らなければならない。

用事があるから先に帰ることを伝えると、彼女は一瞬だけ寂しそうな顔をして「わかりました」と答えた。


商店街へ向う彼女と別れて、私は家へと急ぐ。タイムリミットは、長くても2時間くらい。

彼女が帰ってくる前に、昔のアルバムを探し出さなければいけないのだ。


「ただいま」


家へ帰って来た私は、真っ直ぐ自分の部屋へ向う。

玄関にばあちゃんの靴がなかったから、今この家に居るのは私だけのようなので、都合がいい。

部屋に着いた私はまず荷物を放ってから、長いこと開けていなかった押入れを躊躇うことなく開いた。


「けほっ、すごい埃……」


何年も開けていないので埃だらけになっているのも当然だった。押入れに詰まっている物は、ほとんど真っ白になっている。

部屋が汚れないよう、なるべく埃を立てないように物を動かしていくしかない。

掃除は今度、時間がある時にゆっくりやろう。今はアルバムを探すことが優先だ。


「よいしょ、っと」


ビニールを床に敷いて、その上に押入れの物を置いていく。

中学の時に使っていた教科書や、ばあちゃんの物であろう意味不明の書物、もう着なくなった洋服など、色々な物が出てきた。

自分で押入れに物を入れた記憶はないので、もしかしたら全部ばあちゃんがいれたのかもしれない。


「んん……ないなぁ、アルバム」


全ての物を出したけれど、結局昔のアルバムは出てこなかった。

確かに押入れの中には過去のモノがたくさん入っていたけれど、肝心のモノは一つも出てこなかったのだ。

それに過去の物とは言っても、全部この町に来てからの物で、この町に来る以前の……昔の家にあったものが、全くないのだ。


(別の場所に、しまってあるのかな……)


少し前まで過去を遠ざけていたのだから、ばあちゃんが気を使って知らない場所に隠しているのかもしれない。

そうなると、この短時間で探し出すのは厳しい。2人にばれないよう何日もかけて家の中をコツコツと探していくしかないだろう。


(はぁ…今日はもう諦めよう)


物を出し入れするのはなかなかの重労働でかなり疲れてしまった。

2人がいつ帰ってくるかわからないので、残念だが捜索は早めに切り上げた方がいいだろう。

探していたものは見つからなかったけれど、これからやるべきことは見つかったので、よしとする。


出した物を全部元に戻して、押入れを閉じた。


「うへ……埃まみれ…」


長年掃除していない押入れを漁っていたので、全身が埃で汚れてしまっている。

こりゃ着替えるよりも、お風呂に入った方が良さそうだ。


さっそく着替えを準備してから風呂場へ向う。

湯を入れる時間が面倒なので、手っ取り早くシャワーだけで済ませることにした。湯船に浸からないと風邪をひきますよ、と咎める彼女も今はいない。

柚葉が帰ってくる前に、さっさとシャワーを浴びてスッキリしよう。


脱衣所で着ているものを脱いでから洗濯機の中へ突っ込む。

裸になり、風呂場への扉に手をかけたところで、不思議なことに背後から扉の開く音がした。


(ん?)


あれ、おかしいな。確か今この家には私しか………いない、はずで―――


「…………っ!?」


ひゅ、と誰かの喉が鳴る。

それからパサパサ、と数枚のバスタオルが床に落ちる音。


「………柚、葉?」


いつの間に、帰ってきていたのだろう。

恐る恐る脱衣所の入り口を見ると、制服姿の柚葉がドアを開けたまま呆然と立っていた。

普段は警戒して鍵をかけているから風呂場でバッタリ会うなんてことなかったんだけど、つい、油断してしまったのだ。

今は私だけしか居ないと、安心しきって鍵をかけていなかったのだ。

これは完全に私の落ち度。柚葉が悪いわけじゃないので、邪険にして追い返すことができない。


「あ、はは、いやぁ、びっくり……」


ひとまず柚葉が落としたバスタオルを拾って、慌てて自分の身体に巻きつける。

それから伺うように柚葉の顔を見て―――愕然とした。


「柚葉?」

「……………」


だって、あきらかに柚葉の顔がおかしかったから。

いつも穏やかな笑顔を浮かべている彼女の表情は、色んな感情が混ざって激しく歪んでいたのだ。

今まで見たことのない表情に衝撃を受けて、思わずごくりと息を飲み込んでしまう。


「………の、せい」

「ちょ、柚葉どうし……」

「私、私のせい……私のせいで……っ」


尋常ではない様子に慌てて彼女の肩を掴む。すると柚葉は、引き攣っていた顔をさらに歪めて、カタカタと震えだした。

なんで、いったいどうして、何が彼女をこんなに追い込んでいるのだろう。

ただ、彼女は脱衣所に入ってきて私の裸を見ただけなのに。


(あ……)


そうだ、すっかり忘れていた。

自分では見難い場所にあるうえにあまり気にしていないから、時折忘れてしまうのだ。

それに彼女は知っているものだとばかり思っていた。

けど、もしかしたら、知らなかったんじゃないだろうか。


彼女が見たのは、私の裸。

正確には、私の剥き出しの背中。



抉られたような傷がたくさんあり酷い火傷で荒れ果てている、見るに耐えない―――私の背中を、見たせいだ。



そりゃいきなりこんなグロいもの見たら誰だって驚く。気分のいいものじゃない。

そんな顔になるのも頷ける。


「柚葉、えっとこれは、昔、事故で負った傷で…私は全然気にしてなくて、ああでも、汚いもの見せてごめん」

「ちが……違う、んですっ…!」

「?」

「謝らなければいけないのは、私のほうなんです……全部、私が悪いんです!」

「ゆず、は?」

「…っごめんなさい」


柚葉はその場に崩れ落ちて、大粒の涙を溢しはじめた。ごめんなさい、ごめんなさいと、うわ言のように何度も何度も呟く。

どうして彼女が必死に謝っているのか、どうして泣き始めたのか、解らない。

情けないことに、どういう反応をすればいいのか、解らなかった。

だってわたしは解らないから。


知らないんだ、柚葉のこと。何も。


「その傷は、私が負うべきものだったのに……私のせいで、そんな、一生残る深い傷を千晴さんに……っ!!!」

「柚葉、ちょっと待って。落ち着いて、大丈夫だから」


虚ろな柚葉の瞳が、私の視線を捉える。

ようやく口を閉じたかと思うと、あろうことか、彼女はいきなり自身が着ていた制服に手をかけ、てきぱきと脱ぎ始めた。


「な、なんっ……!?」


言葉が言葉にならない。

狼狽している私を余所に、彼女はブレザー、ブラウス、スカート、下着と次々と脱ぎ捨てていき、あっという間に一糸纏わぬ姿になる。

恥らう素振りもなく露になった部分を隠そうともせずに、柚葉は裸でその場に立ち尽くしていた。

呆然とその様子を見ていた私は、ようやく現実を直視する。

しかし素っ裸の彼女を直視するわけにはいかないので、慌てて目を瞑った。


「ななななな何でいきなり脱いでんの!?」

「…………」


脱衣所だから脱ぐのは不自然じゃないけど、何で今脱いでんの!?


わけがわからず、とりあえず混乱している思考をフル回転させて、今とるべき行動をとる。

まず、彼女の肢体を見ないように顔を背けることだ。同性と言えど、他人の裸をまじまじと見るべきじゃない。というか見れない。目を閉じているだけじゃ足りない。

とにかく落ちていたバスタオルを彼女に押し付ける。せめて前ぐらい隠して欲しいのだが、柚葉は受け取らない。

それどころかそのまま近づいてくるので、顔を背けたまま逃げるように後ずさりする。


「うわっ!?」


後退している途中、床においてあった洗濯籠につまずいてしまい、転んで尻餅をついた。

起き上がろうとするも、上から柚葉が覆いかぶさってきたせいで迂闊に身動きが取れない。さらに両腕を押さえつけられ、完全に逃げ道を塞がれる。

バスタオル姿の私が素っ裸の柚葉に押し倒されている。……え、え? なにこの状況。私、押し倒されてる? もしかして、貞操の危機ってやつ?


(なんでこんなことになってんの!?)


情けないほど動揺してしまっている私と対照的に、柚葉は冷静で落ち着いていた。さっきまであんなに取り乱していたのに、どういうことだ。


「見てください、千晴さん」

「は、はああ!?」

「私の身体……傷一つないでしょう?」

「そ、そんなことより早く服を着て! お願いだから! あと退いて!」


柚葉の体が傷一つない綺麗な身体だってことは解ったから! いや、見てないけど! ほんとに見てないけど!!

や……ちょ、ちょっと見ちゃったけど……それは不可抗力というやつで!


「この身体でいられるのも、全て、千晴さんのおかげなんですよ?」

「へ?」


彼女の頬を伝って落ちてきた涙が、私の頬に落ちてくる。

温かくもなく、冷たくもない雫が、私の顔を濡らしていく。

ぽたぽたと、小さな雨が降るみたいに。


「ねえ千晴さん。その傷、私のせいなんですよ? 傷だけじゃない。走れなくなったのも、警察官になる夢を諦めることになったのも、全部全部、私のせいなんです」

「……違う。これは事故のせいで」

「はい。5年前の出来事のせいですよね。よく覚えています。貴女が大怪我を負った原因は、私にあるんですから」

「……………まさか…そんなこと」

「最低でしょう? そんな人間が知らぬフリで傍に居て。記憶がないのを良いことに寄生して、責められるのが怖くて、今も嘘をついてるんです」


いつも浮かべる表情とは正反対の、自嘲の笑み。

初めて見る、彼女の顔。

火照った顔が、心が、次第に冷えていく。


「嫌われていても、無視されても、良かったんです。ただ、貴女の傍に居たかった。一日でも、一秒でも長く、一緒に居たかったんです」

「柚葉……」

「私が犯した過ちを知られれば、それは叶いません。

 ……この家で居候をはじめた頃は、私のことを思い出して欲しいと思っていました。それで、私のことを憎んでほしかったはずなのに。

 身勝手ですね……今は、思い出して欲しくないって、願ってるんです。このままでいたいって、望んでるんです。貴女の気持ちもお構いなしに」


でも、と柚葉は悲しみの色をよりいっそう深くする。


「許されるわけが、ないんですよ。何をしようと。千晴さんが全てを思い出しても、私が償おうとも、貴女にしたことは一生消えません……その、背中の傷のように」

「そんなことー――」


ない、と言おうとして、口を噤んだ。

柚葉のことをなにひとつ思い出せていない自分が、彼女の何を許せる?

彼女がずっと秘めて抱えてきたものを、簡単に「許す」なんて、そんなことできる訳がない。

柚葉を許せるのは……解放することができるのは、“本当の柚葉を知ってる自分”だけなんだ。


歯痒くて、拳を強く握りしめる。

今の自分では、言わなければいけない言葉を柚葉に伝えることができないのだから。


(私は、今まで彼女の何を見てきたんだろう)



私は、柚葉のことを何も知らない。


たとえば、彼女の好きなモノ。食べ物は何が好きだとか、何色が好きとか、好きな動物だとか。

血液型も誕生日も趣味も、そんな些細なことさえ。

自分の過去の事ばかりで、私は何ひとつ今の彼女のことを解ろうとしなかった。

変わろうと必死になっていた自分の傍らで、不安に怯えていた彼女に気付けなかった。


(何をやってんだろ)


何よりも、大事なことがあったはずなのに。

他に考えるべきことがあったかもしれないのに。


「許すとか、許さないとか……今の私は言えない。そりゃこんな身体になったのは正直辛かったけど、柚葉が罪の意識を感じる必要は微塵もないよ。

 柚葉のせいで怪我を負ったとしても、柚葉が今こうして生きているのなら、それでいいよ。何の文句もない」


私が怪我をすることで柚葉が無事だったのなら、それこそ本望だ。

昔の自分だったら、迷わずそう思っているはず。今の自分でさえそう思えるのだから。


「……っ、でしょうね。千晴さんは、そういう人ですから。自分を犠牲にして、他人を救う。傷ついても、その責を他人に押し付けない。

 まるで物語のヒーローのような貴女だから、私みたいな人間にいいように利用されるんです」

「悪いけど私はそんなんじゃない。何も出来ない、ただの捻くれた子供だよ。今も、昔も、変わらず」

「少なくとも貴女は私を助けてくれましたよ。千晴さんがいなければ、私は今、こうして生きていません。5年前に死んでいたはずです」


5年前。私が父親を失い、大怪我を負った事故。

それが柚葉を思い出す為のキーワードなんだろう。

確かに、私は事故のことを覚えていなかった。あの時のことを全て思い出せばきっと柚葉の過去に辿り着けるのかもしれない。


「それに、知らないでしょう? 貴女の優しさに救われた人は他にもいるんですよ?」

「え?」

「そんなつもりがなくても、誰かを救ってるんです。貴女の魅力に気付いて、皆いつの間にか貴女に惹かれてるんです」

「いやいやいや、ないない! だって私は周りからよく思われてないしっ! ありえないよ、そんなん」

「気付きませんか? 最近、少しづつ周りが変化していることに。クラスメイトの方も、前ほど千晴さんを避けていませんよ」

「へ? そ、そうだっけ?」


確かに最近よく学校で話しかけられることは増えた気がするけど、フレンドリーな会話はしたことないはず。

相変わらず変態と言われるし、睨まれるし、さらに難癖つけられて絡まれるようになったし。

でも、言われてみれば避けられる感じは薄れてきたかもしない。


「貴女が変わったからですよ。よく笑うようになって、他人を気にするようになりましたよね。きっと、菜月さんが知る昔の千晴さんのように」

「……言うほど変わってないよ。それに、昔の自分には二度と戻れない」


嫌というほど、現実を知ってしまったから。子供の頃に見た稚拙な幻想は、もう見ることはないだろう。


「それでも千晴さんの本質は変わってないんです。失われていないんです……だから、貴女を知った人は、どんな形であれ惹かれてしまう」

「……そんなことないってば。柚葉は私を過大視してるよ」

「そんなこと、ありますよ」

「……っ!?」


感情が混じった彼女の低い声に驚く。

ああこんな声も出せたのかと考えていたら、柚葉がさらに密着してきた。

柔らかな感触が肌に直接伝わる部分もあればバスタオル越しに伝わるところもあるけれど、なんかもう、全体的にやばい気がする。

逃げたくても意外に力のある柚葉には敵わず抵抗することが出来ない。


「千晴さん」


熱の籠もった囁き声が耳に届く。

柚葉は私の首筋辺りに顔を埋めたかと思うと、舌先で擽るように舐め始めた。

柔らかく湿った感触がゆっくりと肌の上を這い、自分の意思とは関係なくぞくりと身体が快感で震える。不思議と嫌悪感は全くない。

私の反応を見て調子に乗ったのか、今度は首筋に何度も唇を押し付け始める。ちゅ、と唇が鳴る音がやけに生々しくて耳を塞ぎたかった。

――って、どさくさに紛れていきなりなんてことしてるのかな柚葉さん!?


「や、やめっ……!」

「ん…、だって、千晴さんがいけないんです」

「私のせい!?」

「限界なんです」


頬を染め、切羽詰った瞳を向けられてドキリと心臓が跳ねる。

言葉にしなくても伝わってくるひたむきな好意にあてられて、これ以上言葉を紡げない。


「本当に、千晴さんは変わりました。それは、喜ぶべきことだと思ってます。だって前よりとても楽しそうですから。

 あんなに嫌がってた人との交流も、避けなくなりましたよね。面倒なことにも、手を伸ばすようになりましたよね」

「…………」

「良いことだと思っています。思っています、けど。けど、千晴さんが周りに優しくするのを見ていると、胸が締め付けられるように苦しいんですよ。

 菜月さんや平さん達と少しずつ距離を縮めていくのを見てるのも、羨ましくて、ずるいって思ってしまうんです。

 私にはそんな資格ないのに、私もって、望んでしまうんですよ」


「それって……」


嫉妬、というものじゃないだろうか。

最近やたら距離が近かったのも、不安になっていたのも、そのせいだったのかもしれない。


私って本気で柚葉に好かれてるんだなぁと思うと、非常に照れ臭い。よし、今は深く考えるのやめよう。


「でも千晴さん、私のことも優しい目で見てくれるようになりました。温かな手で触れてくれるようになりました。

 遠まわしに欲しい言葉もくれます。……だから私、勘違いしそうになるんです。ずっと傍にいていいんじゃないかって、錯覚してしまうんです。

 そんなの駄目なのに…憎んでくれないと、私、貴女に償えないのに……っ! これ以上傍にいたら、もう……っ」


このまま柚葉は、離れていくんだろうなって思った。

憎んでもらえればようやく罪を清算できると考えていたのに、憎まれるのが怖くなった彼女は私の前から消えることで償うのかもしれない。

散々振り回して、その挙句に逃げだそうとするとか、本当に最悪だ。


それでも。それでも私は、彼女を恨むことなんてできやしない。


「柚葉」

「…………」

「傍に居たいなら、傍にいればいいじゃん。柚葉の気持ちには、応えられるかわかんないけど」


ほんの少し笑みを浮かべ、軽い調子で言う。


「でも、私は」

「自分勝手でいいよ。私だって、自分の事ばっかりなんだから。誰だって結局、そういうもんだよ」


押さえる力が緩んでいるのに気付いて、私は柚葉の拘束から抜け出した。

急いで起き上がり、未だに裸のままの柚葉に落ちていたバスタオルをかけてやる。

すると今度はちゃんとタオルで身体を包んでくれた。うん、これで目のやり場に困らずにすむ。


「もし嘘をついて今の日常があるんだったら、そのことも咎めるつもりはない。どんなに偽っていようが、どうでもいい。

 私は……今の生活がわりと気に入ってるんだから、急にやめられるのは、困るよ」

「……っ、それでも私は自分を許せないんです。だから、貴女の傍に居たいけれど、もう、苦しくて――耐えられないんです」


苦痛に耐えるように、きゅっ、と両手で胸を押さえる。

彼女の心を襲う痛みを私が引き受けることが出来れば、どんなにいいだろう。

でも、どう足掻いてもそんなこと無理だから、私は残酷なことを彼女に言うしかない。



「じゃあ悪いけどもう少し、苦しんでくれないかな。私が柚葉を思い出すその時まで」



私が全て思い出すまで嘘を突き通せ。

つまり、今まで通り罪悪感を抱えたまま今の日常を続けろ、と彼女に告げた。


「どう、して」

「私のわがまま」


それは紛れもない私の本音。自分勝手な、最低のわがまま。


柚葉の望みを出来る範囲で叶えてあげたい。

なんて、素直に自分の気持ちを言えないけれど。


正義の味方のように誰彼構わず助けるようなお人好しにはなれない。

でも、自分の大事なものくらいは守りたいって思う。

だから…今は無理でもいつか。近いうちに必ず。

苦痛を伴う笑顔なんかじゃなくて、心の底から笑えるようにしてあげたい。


「酷い人ですね、千晴さんは」

「まあね。正義の味方はとうの昔に卒業したから。無条件で人を助けたりしないし、自分の為なら卑怯なことだって平気でやるよ」

「……本当に、貴女は変わってないんですね……そうやって息をするように、また私を助けようとする……そいうところが、私は――」

「はあ? 助ける? 昔とは違うって言ってるのに何言ってんの?」

「いいえ変わってないですよ。それに昔と違うのは寧ろ私のほうです」


きょとんとしている私の頬に、彼女の手がそっと触れる。




「だって“今は”こんなにも貴女のことを愛してますから」




そう言って柚葉は、目一杯溜めた涙を溢れさせながら、優しくて儚い笑みを浮かべた。

その笑顔に魅入っている隙に、彼女は私を引き寄せて抱きついてくる。求めるようにではなく、縋るように。


「ごめんなさい。もう少し、甘えます」

「…………うん」


柚葉は涙で濡れた顔を私の肩に押し付けて、声を殺して泣いていた。

あまりにも必死な抱擁を拒むことなどできず、責めることもできず、私は様々な言い訳を考えて自分を納得させ、彼女の身体に腕を回した。

お互いを隔てるものはバスタオル一枚だけなのに羞恥はなく、動揺することもない。

私は慰めることなどせず、彼女の緩やかな心音と声なき泣き声だけをただ黙って聞いているだけだった。


どれくらい、そうしていただろう。

しばらくすると柚葉は抱擁を解き、涙を拭ってからいつもの笑顔を浮かべ「ありがとうございます」と言った。

その場の空気に居た堪れなくなった私は逃げるように風呂へ入り、柚葉は服を着て台所へと向っていったようだ。

風呂から上がると彼女はすっかり元通りに戻っていて安堵したものの、やはり不安は拭えなかった。

その後、何もなかったようにふたりで晩ご飯を食べ、彼女は早めに自室に戻っていった。

あっさりとした様子に拍子抜けしたけれど、それはきっと表面上だけなんだろう。

今も柚葉の心の奥には罪悪感が詰まっていて、徐々に溢れてきているのだ。切欠を作ってしまったのは、私の背中の古傷。おかげで決壊はもう近い。

このまま何も変わらなければ、今の日常はすぐに破綻してしまう。


そんなのは嫌だ。

――を失うのは、もうたくさんだ。



「ただいま帰った」

「あ、おかえり」


居間でぼんやりしていると、紙袋を提げたばあちゃんが帰って来た。どうやら買い物に出かけていたらしい。

どうせあの袋の中にはアニメの本やら人形やらオタクアイテムがぎっしり詰まっているんだろう。何を買ってきたのか聞かないほうが無難だ。


「柚葉はどうしたんだい?」

「……柚葉なら部屋で寝てる。色々あって、疲れてるみたい」

「そうかい。明日、精のつくものでも買ってきてあげようかねぇ。若いっていいねぇ」


ちょっとこの祖母、なんか変な想像してそうで怖いんですけど。

余計な詮索をされる前に、私も自分の部屋に戻って寝ようかな。


「ああ、そうだ。朝に約束したものを渡さないとね」

「だからフィギュアはいらないって言って――――っ!?」


不意に渡された物をつい受け取ってしまう。

けれどよく見てみるとばあちゃんが私に手渡したのはフィギュアなどではなく、一冊の本だった。

本というか、これはアルバムだ。一度も目にしたことがない、私の小学校の時の卒業アルバムだ。


「ばあちゃん、これ………」

「そろそろ渡す時期かと思ってね。見るも見ないも自由だよ。不要ならゴミ箱へ捨てな」

「ううん、これは捨てない。今、私に必要なものだから。ありがとう、ばあちゃん」

「そうかい。じゃあ、可愛い孫たちのために少しだけ助言をしてやろうかね。

――千晴、お前がこの町に引っ越してくる前に持っていた私物がこの家にないのは気付いてるかい?」

「うん。昔のアルバムも、服も、おもちゃも何もないよね。てっきりばあちゃんが隠してるか捨てたんだと思ってた」

「それは違うね。お前の私物はほとんど“持って来れなかった”んだよ。残ってるのは、小学校から郵送されてきたその卒業アルバムだけさ」

「え、どうして……じゃあ、私の私物はぜんぶ昔の家に残してきたってこと?」

「あとは自分で思い出しな。その上で、ちゃんと答えを出すんだね」

「……うん」


ばあちゃんは私の頭を乱暴に撫でると、ひっひっひとふざけた笑い声を上げて自分の部屋へ戻っていった。

その後姿が消えるのを確認してから、卒業アルバムの分厚いページを捲る。

そして現われた、クラスの全体写真。私は写真を撮るとき入院していたので、隅っこに四角い写真が貼られている。

その隣にもうひとり、撮影日に欠席したと思われる少女の写真が並んでいた。

名前が書いていなくてもすぐにわかる。金髪で青い目をした女の子なら、きっと彼女なんだろう。載っているような気がしていたので、そう驚かない。


「………」


さらにページを捲ってクラスの個人写真のページを見る。

私は出席番号が一番だったから、すぐに自分の写真を見つけることができた。子供らしくない無愛想な顔の自分。

そしてすぐその下に、彼女の写真を見つけた。こっちも負けず劣らず辛気臭い表情だったが、それよりも目に付いたのは下に表示されている名前だ。



(ようやく、辿り着いた)



思わず彼女の写真をそっと撫でてしまう。





 『六年一組 出席番号二番 天吹柚葉 』





一通りアルバムを読み終えて、私は立ち上がる。

解ったのは柚葉の昔の名前だけだったけれど、十分な収穫と言えるだろう。

それに、新しく思い出したこともある。


(大丈夫)


ここから先はもう、自分だけで思い出してみせる。





大切な―――『 家族 』のことを、必ず。









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