私だけができること
「菜月?」
気遣うような千晴ちゃんの声が聞こえて、意識が過去から現実へと呼び戻される。
怪訝な顔をしている彼女に何でもないと伝えて、ごまかした。
……うん。
せっかく誘ってくれたんだから、今を楽しまないといけないよね。
2人でまた出かける日が来るなんて、つい先日までは考えられなかったことだもん。しっかり堪能しないと、すっごく損だよね。
「ごめんね、ぼーっとしてた」
「ボケっとしてると、人にぶつかって転ぶよ?」
沢山の人が密集している広場を、幼馴染の彼女と肩を並べて歩く。
私と千晴ちゃんは、夕方に待ち合わせて2人だけで隣町の秋祭りに来ていた。
昔、彼女と約束したことを、今日、ここで叶える為に。
約束を思い出してくれただけで十分なのに、彼女は律儀にも果たそうとしてくれる。
賑やかで人の多いお祭りは苦手だと言っていたのに、それでも、行こうと誘ってくれた。
それが、とても嬉しい。
口数の少ない私を不審に思ったのか、心配そうに顔を覗き込まれた。
「もしかして疲れた? ちょっと休憩する?」
「うん、ちょっとだけ」
「色んなところ見て結構歩き回ったしね。じゃあ人の少ないところに非難しようか……それにしても、酷い混雑」
千晴ちゃんはウンザリした表情で呟いた。
それでも果敢に人の波を掻き分けて、しっかりと繋がれた私の手を引っぱって誘導してくれる。
ああ、昔はよくこうやって彼女に手を引っぱってもらっていたっけ。
不意に懐かしくなって胸が温かくなる。
「そこの空いてるベンチに座ろっか。人も少ないし、落ち着けそう」
「そうだね」
会場から少し離れた場所にあったベンチに腰掛けて、2人でぼんやりと空を見上げた。
陽が落ちて真っ暗に染まった夜空に、小さな星たちが明々と瞬いている。
星座とか詳しくないからよく解らないけど、ただ綺麗だなって思う。知識なんて必要なくて、目に映るものだけで十分だって思えるほどに。
空から視線をはずして千晴ちゃんの方を見ると、何を考えているのか、真剣な表情で上を見上げていた。
けれど、すぐに私が見ていることに気付いたのか、訝しげな目でこちらに視線を移す。
「なに?」
「な、なんでもないよ」
「……はぁ。やっぱりこれ、外そうかな」
そう言って千晴ちゃんは頭の後ろにつけていたお面を外して手に取った。
さっき彼女が夜店のクジで当てたヒーローのお面だ。確か最近子供たちの間で流行っている戦隊モノのヒーローだったと思う。
どうやら彼女は私がお面を気にしていると思ったらしい。でもそれ、結構似合ってると思うんだけどな。
「千晴ちゃん、昔はヒーローとか大好きだったよね。せっかく当たったんだからつけてればいいのに」
「う、そ、それは小さい頃の話でしょ。この年でこんなのつけてたら羞恥プレイでしかないっての。手に持ってるの邪魔だから今までつけてたけど」
千晴ちゃんが手に持っていたお面をベンチに伏せて置くのを見て、なんだか寂しい気持ちになる。
歳をとれば、子供の頃に持っていた純粋なものを失っていく。それは、普通のことなのかもしれないけど。
それでも……彼女が、あんなに、憧れていたものなのに。
「それに私は、ヒーローになんて、なれないから」
「千晴ちゃん……」
そんなことないよって言ったら、千晴ちゃんはどんな顔をするだろう。
けれど今の彼女には深く傷つけてしまうだけのような気がして、私は口に出さずに呑み込んだ。
「まだ始まるまで時間ありそうだから、夜店で何か買ってくる。なにか食べたいものある?」
「え、あ、じゃあ、たい焼き」
「わかった。すぐ戻ってくるからちょっと待ってて」
「あ、千晴ちゃん! お金……」
「いいって。たい焼きぐらいおごるよ―――」
彼女がベンチから腰を浮かす。
すると
「千晴?」
「え?」
いつの間にか、私たちの前に見たことのない綺麗な女の人が立っていた。
たぶん、大学生くらいだろう。華やかな外見と余裕のある振る舞いが大人っぽくて圧倒されてしまう。
「やっぱり、千晴でしょ? えっと、天吹…千晴。久しぶり、何年ぶりだっけ?」
「………………」
「えっと、千晴ちゃんの知り合い?」
「………さあ?」
「えー、ちょっと薄情なんじゃないの? 昔はあんなに遊んであげたのにさー」
素っ気無い千晴ちゃんの言葉に気分を害した様子もなく、女の人はクスクスと笑いを漏らした。
「短い間だったけど、一応、アンタの姉だったんだから。しっかり覚えててよね」
「え……ええっ!?」
千晴ちゃんの、お姉さん?
どういうこと?
だって、千晴ちゃんは一人っ子だったはず。
千晴ちゃんは少し考えてから、目を細めて女の人を凝視する。
「なるほど…そういう…」
「あ、思い出してくれた?」
「なんとなくね。そういえば居たなぁってくらいは思い出せたかも」
「へぇ、言うようになったじゃん。昔は大人しくて、可愛げがあったのに」
楽しげな表情を崩さない女の人に対して、千晴ちゃんは無表情だった。
ううん、ちょっとだけ、緊張してるのかな。口をきゅって固く結んでる。
「それにしても、こんな所で会うなんて偶然じゃない。友達に誘われてわざわざど田舎まで来たんだけど、貴女もこの祭が目当てで来たの?」
「いや、今はこっちに住んでるから」
「ふうん…そうなんだ」
千晴ちゃんと向き合っていた彼女は、突然、見定めるような視線をこちらに向けた。
私は慌ててベンチから立ち上がり、軽く会釈をする。
「貴女は、千晴の友達?」
「は、はい、初めまして。上原菜月といいます。あの、貴女は千晴ちゃんの……」
「私は北里愛莉。元・義理の姉って言えばいいのかな。昔うちの母親と千晴の父親が再婚してね」
「…………」
「まあ半年っていう短い間だけだったけど。でも、少しでも家族として一緒に住んでたんだから覚えててくれてもいいのに、冷たいよねー」
千晴ちゃんの、元、義理のお姉さん。
少しの間でも、彼女の家族だった人。
(……そっか)
千晴ちゃん、ずっとひとりだったわけじゃないんだ。家族と呼べる人が傍にいてくれたんだ。
なんだか千晴ちゃんのこと凄く気に入ってるみたいだし、一緒に遊んでたみたいだし。
どうしてかな……喜ばしいことなのに、少しだけ胸の辺りがモヤモヤする。
「私はずっと覚えてたよ。だって、千晴って面白いから」
よく美空ちゃんが千晴ちゃんのことを面白いと言うけれど、それとは違う含みを持った言い方に寒気を感じた。
「ねえ、相変わらずなの?」
「…………」
「ま、確かめればいっか」
にっこりと子供のように純粋な笑顔を向ける。
すると彼女は両手で千晴ちゃんの片腕を掴んだかと思うと、いきなり雑巾を絞るように全力で遠慮なしに、強く捻り回した。
「なっ!?」
なに、してるの、この人。
「………」
「ふふ、相変わらずの無反応」
苦痛で顔をしかめてもおかしくないのに、千晴ちゃんは表情を変えない。
叫んでも当然の痛みを与えられているはずなのに、千晴ちゃんは一言も声を漏らさない。
楽しそうに腕を捻る北里さんと、無表情でそれを見つめる千晴ちゃん。
その異常な光景に驚いて声を失っていたけれど、止めないといけないことに遅れて気付いた。
「い、いきなり何してるんですか!?」
「何って、久しぶりにちょっと遊んであげてるんだけど」
「あ、遊ぶって……こんなの遊びなんかじゃないです! やめてください!」
私は耐えられなくなって、北里さんの手を強引に引き剥がし、千晴ちゃんを自分のほうへと引き寄せる。
呆けている千晴ちゃんの袖を捲って腕を見ると、白い肌にくっきりと握られた痕が残っていて、痛々しいほどに赤く腫れていた。
北里さんはヘラヘラと笑いながら、自分のつけた痕を見て上機嫌になっている。
「お、いい感じに痕残ってる。んふふ、私って昔から力が強いのよねー」
「なんで、こんな酷いこと……」
「酷いこと? 違うよ、私と千晴にとってこれは遊びなんだから。ただ、遊んであげてるの」
彼女と千晴ちゃんにとって、その異常な行為は遊び?
じゃあ、2人は一緒にいた半年間、ずっとそんな風に遊んでいたの?
子供の千晴ちゃんに、こんなことを強いていたの?
「お友達の貴女にいいことを教えてあげる。千晴はね、―――“痛み”を感じないんだよ」
「え…?」
痛みを感じない?
嘘、だって、昔はよくお母さんにゲンコツされて痛がっていたし、転んで怪我した時も涙目になって痛がってたはず。
千晴ちゃんは簡単に弱音を吐かない強い人だけど……でも、どんなに我慢強くても、さっきの捻りは我慢できるようなものじゃない。
じゃあこの人の言うように、本当に千晴ちゃんは痛みを感じないのだろうか。
「だからどんなに傷つけても平気な顔してるの。面白いでしょう?」
何が、面白いの?
どうしてそんな、お気に入りの玩具を自慢するように、キラキラした目で、楽しそうに笑えるんだろう。
傷つけることを。痛みを感じない彼女のことを、面白いと捉えることが出来るのだろう。
私には何一つ理解できない。理解したくもなかった。
「何をしても痛がらないし、殴っても蹴っても、嫌がらない。ねぇ、これのどこが酷いことなのかな?」
「……………」
表情を変えず、千晴ちゃんは少し顔を伏せて黙っていた。
その態度が彼女の言葉を肯定しているように思えて、悲しくなる。
ねぇ、千晴ちゃん。千晴ちゃんは、その人の言うように“遊び”だって思ってるの?
そうだとしても…私は、絶対にその行為を遊びだと認めたくない。
「酷い、よ。絶対に、そんな遊びは間違ってる」
「はぁ? だから、千晴は……」
「たとえ身体は痛みを感じないとしても、心は痛むよ!! だって、千晴ちゃんは人間だから! 貴女の玩具なんかじゃないから!!!」
「…………菜月」
「ちゃんと悲しいって思ったり、寂しいとか苦しいとか感じるんだよ!? 家族に傷つけられて心が痛くないわけないでしょ!?」
悔しい。
こんな人が、少しの間でも彼女の家族だったんだと思うと、凄く、凄く悔しい。
だって、私はどんなに望んでも彼女の家族にはなれなかった。
それなのに、どうして躊躇なく彼女を傷つける人が、簡単に家族になれるの?
悔しい。
そして、ほんの僅かな間でも、千晴ちゃんの家族として過ごせた彼女が、羨ましい。
(そうだ、私は…っ)
……私は、彼女の家族になりたかった。
彼女が欲していたモノに、なりたかった。
なのに
ねぇ
どうして
彼女の家族は、彼女を傷つけるの?
「人間ねぇ。まあ確かにそうだけど、痛みを感じないってまるで『バケモノ』みたいじゃない? 普通じゃないし」
どうして平気な顔で、そんな言葉を言えるの?
「――――ッ!!!」
許せない。
こんな人、認めない。
カッとなって、手を振り上げる。
大きく開いた手のひらを、勢いに任せて北里さんの頬に思いっきり叩き付けようとした。
そうすべきだと、本能が告げていたから。
けど
「やめなさい、菜月」
聞き覚えのある、力強い声に勢いが止まる。
その声に引かれるように、腕から力が抜けていく。
「そんなことしても、自分の手が痛くなるだけよ」
「…裕子ちゃん?」
私の腕を掴んだのは、エプロン姿の裕子ちゃんだった。
どうして、ここに。それにどうしてそんな格好してるんだろう。
裕子ちゃんは険しい表情をしていたけれど、私が間抜けな顔をしていたせいか、フッと頬を緩めた。
けれどすぐに真面目な顔に戻って、視線を北里さんの方に向ける。
「喧嘩なら時と場所を選んでくれない? さっきからアンタたち、目立ってるわよ」
周りを気にする余裕がなくて気付かなかったけど、自分たちに向けられている沢山の視線を感じる。
もしかして、ずっと周囲の人たちに見られてたのかな。
いつもなら恥ずかしくて慌てたかもしれないけど、今はそんなこと気にしていられないのだ。
恥ずかしさで身悶えするのは、後でいい。
「言っとくけど、先にその子が勝手にキレただけだからね。てか、あんた誰?」
「……この子の友人で、そこの変態のクラスメイトよ」
北里さんは不機嫌そうに彼女を睨むも、裕子ちゃんは臆することなく平然と睨み返す。
「ふうん。ま、どうでもいいや」
興味を失ったのか、あっさりと裕子ちゃんから視線をはずして千晴ちゃんの方を向いた。
「ふぅ…残念だけど、遊ぶ雰囲気じゃなくなったね。それに友達も待たせてるし、そろそろ戻らないと怒られそう」
「…………」
「じゃあ“またね”、千晴」
彼女は千晴ちゃんの頬を優しく一撫でしてから、不敵な笑みを作ってチラリと私を見た。
何か言われるかと身構えたけれどそんなこともなく、北里さんは優雅に歩き去り、雑踏の中へと消えていく。
彼女がいなくなると、周りで見ていた人たちも私たちから興味を失い、お祭りのほうに意識を移す。
あの人が去っていった先をぼんやりと見ていると、隣から裕子ちゃんの大きな溜め息が聞こえた。
「騒ぎを聞きつけて来てみれば……まったく、何やってんのよアンタたち」
「裕子ちゃんは、どうしてここに?」
「ああ、うちの親戚が祭に出店してるんだけど、人手が足りないとかで急に呼び出されたのよ」
「そうだったんだ」
さっき千晴ちゃんと一緒に色々な場所をまわったけど、まだ全てのお店を見たわけじゃない。
裕子ちゃんが手伝ってるお店が何を売ってるのか気になったけど、今はそんなことを聞ける空気じゃなかった。
(千晴ちゃん……)
私は、千晴ちゃんに何を言えばいいのか悩んでいた。
聞きたいことも伝えたいことも沢山あるはずなのに、ひとつだって上手く言葉に出来ない。
臆病な自分は、やっぱり怖いんだ。不用意な言葉で、彼女を傷つけてしまうのが。
彼女がまた自分から離れてしまうことが恐ろしくて、躊躇ってしまう。
でも………これじゃ、昔と同じだ。
「天吹」
裕子ちゃんは、さっきから黙っている千晴ちゃんの腕を取り、袖を捲った。再び晒される痛々しい痕。
「どうして抵抗しなかったの? こうなる前に振り払えることも出来たんじゃないの?」
「……どうせ、痛くないから。それに、この程度の痕なんて明日には消える」
「痛くなくても嫌だったでしょ? それともアンタは喜んでいたとでもいうの? 本気で遊びだと思ってるわけ?」
「…………」
「~ああああもう! ほんっと馬鹿!! 情けない!! いじいじしてないで嫌なら嫌だって言いなさいよ! このヘタレ!!
そうやって黙ってれば…大人しくしてれば丸く収まると思ってるの!? 勘違いも甚だしいわ!!」
「…ごめん。返す言葉もない」
感情の籠もっていない返事を吐いた彼女は、自嘲するような笑みを浮かべた。
そんな態度が気に障ったのか、裕子ちゃんは肩を震わせて表情を険しいものにする。
「昔の天吹のことなんて私には解らない。私には想像できないようなことが色々あったのかもしれない。
でも、だから、何だってのよ。過去は過去、過ぎた時間のことなのに、いつまでも自分の弱さに酔ってんじゃないわよこの大馬鹿!
……アンタが傷つくことで、傷つく人間が傍にいることをいい加減自覚しなさい!!」
「っ!」
千晴ちゃんの目が見開かれる。
「しっかりしなさいよ。アンタは傷ついても平気かもしれないけど、そうじゃない人が、周りに居るでしょうが」
「…………」
「天吹のことなんてどうでもいいけど、菜月を心配させるんじゃないわよ。
もし自分がひとりだと勘違いしているのなら、今すぐ改めなさい」
裕子ちゃんは千晴ちゃんの頬をぺちっと叩いた。
痛覚があっても、きっと、痛くないほどの優しい軽さで。
まるで、彼女の存在を確かめるかのように。
言いたいことを言い尽くしたのか、裕子ちゃんは軽く息を吐いた。
「腕と、ついでに頭を冷やしてきなさい。向こうに水道あるから」
「……わかった。ごめん菜月、すぐ戻ってくるからここで待ってて」
「あ、うん」
裕子ちゃんが差し出したタオルを受け取って、千晴ちゃんは何も言わずそのまま会場の奥へと歩いていった。
本当はついていきたかったけれど、私がついていっても何の慰めにもならないし、邪魔なだけだろう。
「裕子ちゃんは凄いね」
「はあ? いきなり何?」
「私、怖くて何も言えなかった。言わなくちゃいけないのに、拒絶されるのが怖くて、言えなかった」
「あのね……菜月には、菜月にしか出来ないことがあるでしょう?」
「?」
私にしか、できないこと?
「幼馴染の菜月にしか出来ないことがあるように、ただのクラスメイトの私にしか言えないことがあるってこと。
美空も柚葉も菜月も天吹に対してベタ甘なんだから、仕方ないのよ。あいつに言いたい放題できるのは数歩下がった位置に居る私の役目」
得意げに言う裕子ちゃんの横顔は明るいけれど、なんだかとても寂しそうに見えた。
「天吹のことなんてどうでもいいから好き放題言えるだけ。あいつは私を嫌いだし、私はあいつが嫌い。だから関係が悪化しても問題ない。
それにさっきのあいつ、見ててイライラしたのよね。はー言いたいこと言えてスッキリしたわ。私、無関係だけど」
「裕子ちゃん、違うよ。裕子ちゃんは――」
「あー、ごめん。休憩時間過ぎてるし、そろそろお店に戻らないとやばいから」
時計を確認して、苦笑い。
彼女に言いたい事があったけれど、引き止めるわけにもいかないから口を噤んで我慢する。
だから感謝の言葉だけを彼女に伝えた。
「ありがとう、裕子ちゃん」
「私は何もしてないわよ」
裕子ちゃんが来てくれて、助かったのは事実だ。私はきっと、あの人を止められなかったと思うから。
臆病な自分は、千晴ちゃんに言うべき言葉を見つけることが出来ないから。
こみ上げてくる弱さを必死に押さえながら、拳をぎゅっと握り締める。
どんなに情けなくても、こんなことで約束を破るわけにはいかない。泣いては、いけない。
「お手伝い頑張ってね」
「ええ。菜月も、しっかりやんなさい」
「うん」
目で大丈夫と伝えると、裕子ちゃんは満足げに笑ってから小走りでお店へと戻っていく。
私はそのまま立っているわけにもいかないので、ベンチに座って彼女の帰りを待つことにした。
行き交う人たちは楽しそうに雑談していたり、お店を興味津々に眺めていたり、それぞれ祭を楽しんでいる。
子供に引っ張られて大変そうな親や、腕を組んで幸せそうなカップル、じゃれ合って騒いでいる女の子の集団。
色んな人たちがこの会場にいて、それぞれの時間を過ごしている。
そんな賑やかな祭の風景をひとりでぼんやりと眺めながら、私は千晴ちゃんのことを考えていた。
戻ってきた千晴ちゃんに何を言うべきだろうとか、昔のことを聞いてもいいのかなとか、色々、考えた。
でも、いっぱい考えても、それを実行できる気がしなかった。自分には、勇気が足りないのだ。
「菜月、お待たせ」
「わひゃっ!? 千晴ちゃん!? お、おかえり!」
気がつけばすぐ目の前に彼女の姿があった。びっくりして変な声が出てしまったので、恥ずかしくて顔が熱くなる。
ずっと考え込んでいたせいか、千晴ちゃんが近づいて来ても気付けなかったみたい。
私の驚きっぷりが面白かったのか、彼女は控えめに笑った。
「そんなに驚かなくてもいいのに。はい、これ菜月の分のたい焼き」
「あ、ありがとう」
「中身は何がいいか聞いてなかったから適当に買ってきたよ」
ほんのりと温かい紙袋を渡されたので、さっそく中身を取り出す。
千晴ちゃんはちゃんと自分の分を持っているのに、何故か私の袋にはたい焼きが二つ入っていた。
少し考えて、すぐに気付く。ひとつは私の、もうひとつはきっと裕子ちゃんの分だ。
「裕子ちゃん、お店の手伝いがあるからって戻っていっちゃった」
「ふーん。せっかくのお祭りなのに、平も大変だね」
平の手伝ってるお店が飲食系ならもっと大変だ、なんて本人が居たら暴れそうな冗談を言って、千晴ちゃんはたい焼きにかぶりついた。
戻ってきた彼女は、もうすっかりいつもの調子に戻っている。吹っ切れたのか、それとも強がっているだけなのか。
どちらにしても、そうする余裕が出てきたことに違いないだろうから、少しだけ安堵する。
あの人…北里さんに向き合っていた時の千晴ちゃんは、まるで感情を失った人形のように“何もしなかった”から。
「このたい焼き、裕子ちゃんに渡すつもりだったんでしょ?」
「いや、余分に買ってきただけ」
(千晴ちゃんも裕子ちゃんも、本当に強情なんだから)
2人はどっちも私の大切な友人で、だからもっと仲良くして欲しいと思っていたけれど。
でも、このままでもいいんじゃないかなって、思っていたりもする。
だって、2人は上辺だけの綺麗な言葉じゃなくて、いつも本音でぶつかっているのだから。
嫌いって言いながら、相手のことを本気で怒る。それは、本気で心配しているからだ。
お互い否定しているけれど、表面上はそう見えなくても、気持ちを言葉に出さずとも、彼女たちは『友人』だった。
気付いてないのはきっと本人たちだけ。
「千晴ちゃん、腕は大丈夫なの?」
「うん。痛まないし、腫れてるだけで痕はすぐ消えるから全然問題ないよ」
どうしてそんなに淡々と……何でもないことのように振舞えるのだろう。
平然と答えられると、悲しい気持ちになる。千晴ちゃんはその程度にしか感じていないということだから。
「いつから痛みを感じなくなったの? 昔は、そんなことなかったよね?」
「新しい家族ができてしばらくしてからかなぁ。その辺はちょっと曖昧なんだよね…。
ああ、あと、こんな不気味な身体になった理由も聞きたい?」
私は首を横に振る。
知りたいけれど、聞いて欲しくなさそうだったから、聞かない。
話したくないというよりも、私に知ってほしくないような気がしたのだ。
千晴ちゃんは平気な顔をしていたけれど、私が踏み込むことで、きっと彼女は辛い思いをする。
そんな思いをさせてしまうのなら、知らないままでいい。彼女がそう望むのなら、それでいい。
「ごめんね、菜月。心配掛けたみたいで」
「どうして千晴ちゃんが謝るの? 千晴ちゃんは何もしてないよ」
「何もしてないから、謝ってんの」
千晴ちゃんは私の隣に座って、遠い目で空を見上げる。
らしくない大人びた表情を作る彼女の横顔を、私はただじっと見つめていた。
「あっ」
地鳴りのような振動と、弾けるような重い音が2・3発ほど鳴り響く。
それからすぐ、星が浮かぶ真っ黒な空に、大きくて色鮮やかな光が花のようにひらいて散っていった。
無数の光の粒が空を染めたのはほんの束の間のことで、すぐにパラパラパラと微かな音を漏らしながら消えてしまう。
けれどまた同じように音がなり、同じように光が模様を描き、消失する。それが、何度も繰り返される。
「始まったね、花火」
毎年恒例の、秋祭りメインイベントである打ち上げ花火が始まったようだ。
花火が打ちあがるたび、観衆の大きな歓声が沸く。町の自慢の職人さんたちが作る花火はとても綺麗で、すぐに魅了されてしまった。
私は喋るのをやめてベンチから腰を浮かし、しばらく花火を眺めていた。その隣に、千晴ちゃんが立つ。
……今日、ここに来たのはこれが目当てだった。
『いつか、2人で花火を見に行こう』
それは、彼女が幼き日に約束してくれたこと。
花火の日はいつも両親が仕事になって、近くで花火を見ることが出来なかったから
仕方なく家の窓から眺めていた私に、隣で同じように見ていた彼女が約束してくれたのだ。
そんな些細な約束を、律儀に守ってくれる優しい幼馴染。
「千晴ちゃん、約束、守ってくれてありがとう」
「ん……遅くなってごめんね」
空を見上げたまま、言葉を交わす。
様々な種類の花火を見逃さぬように、しっかりと目を凝らして。
けれど、何故だか視界が滲む。
「私も、ごめっ、ごめんね……っ」
歯を食いしばる。震える身体を、押さえつける。
駄目、ちゃんと花火を見ないと。せっかく、千晴ちゃんと一緒に花火を見に来れたんだから。
ああでも、視界がぼやけて、よく見えないよ。
千晴ちゃんは約束を守ってくれたのに、私が約束を守らないなんて、そんなの駄目なのに。
必死に、我慢する。今までずっと我慢してこれたのだから、これからだってできるはずだ。
「菜月」
「……え」
「我慢しなくていいと、思う」
「………っ!」
優しいその声が引き金となって、必死に塞き止めていたものが決壊してしまう。
ああ、今までずっと堪えてきたのに、ついに溢れてしまった。
長い間溜め込んできた涙は、次々と頬を伝い零れていく。泣くのは、何年ぶりだろう。
悲しくて、悔しくて、情けなくて……嬉しくて。色んな感情が頭の中でぐつぐつと沸騰している。
「菜月の泣いてる姿、懐かしいなぁ」
「うっ…ううぅ……」
よしよしと頭を撫でられて、慰めてくれるその姿も、懐かしいと思う。
昔と違って凄く気恥ずかしくて居た堪れないけれど。
せめてもの救いは、周囲の人たちは花火に夢中で、私がみっともなく泣いてる姿に気付いてないことだ。
「っ、お母さんとの約束、破っちゃった…っ」
「菜月は約束を破ってないよ。だって菜月は、私の代わりに泣いてくれてるだけだから」
「でも…っ、私…!」
「葉月さんは泣かないことを強制したわけじゃないんだよ。泣いていい時は、泣いていい。
だって本当に泣きたい時に思いっきり泣かないと苦しいし、後で思いっきり笑えないでしょ」
「………」
「菜月のお母さんが望んでるのは、心の底から笑えてる子供の顔だと思うから」
自分の役目だと言わんばかりに、彼女は私の涙を拭ってくれる。
昔みたいに袖でゴシゴシと乱暴に拭かれることもなく、手の甲で、そっと優しく雫をすくってくれた。
もし私たちが姉妹だったら、きっと千晴ちゃんの方がお姉さんかもしれない。誕生日は、私のほうが早いけれど。
「ありがとう。私はもう、大丈夫だから」
「うん」
「……千晴ちゃん」
「私も平気だよ」
花火が光が照らす彼女の表情は穏やかなもので、それが偽りではないと証明している。
それでも、私は心配だった。千晴ちゃんの悲しい部分を、教えて欲しかった。
支えるなんて大層な事は出来ないかもしれないけど、私に出来ることは全部やりたい。
本当の家族にはなれなくても、家族と同じくらい大切な人なのだから。
「もう、受け入れたつもりだったけどね。本当は、そうでもなかったみたい。ただ、強がってただけだった。
でも……菜月や平のおかげで、それだけじゃ駄目だって気付いたから、もう大丈夫」
やっぱり、千晴ちゃんは強い。その強さは弱さでもあるけど、それを含めての、強さ。
どんなに辛くても、悲しくても、変わってしまっても。彼女が持つ大事なものは決して失わなかった。
「無理してない?」
「全然。びっくりするぐらい、今はすっきりしてるんだよね。不思議と」
「そっか」
彼女の手をそっと握る。
拒まれるかと思ったけれど、それは杞憂で、むしろ握り返してくれた。
「ありがとう、菜月。怒ってくれて、嬉しかった。代わりに傷ついて泣いてくれて、嬉しかった」
それは、最高の言葉だった。
弱虫の私でも、彼女の支えになれたことが誇らしい。
「幼馴染だもん。当然のことだよ?」
「そっか…幼馴染だもんね。はは、幼馴染って、偉大だなぁ」
千晴ちゃんは、泣きそうな笑顔を浮かべて、もう一度「ありがとう」と小さく呟いた。
私は聞こえないフリをして、夜空に打ちあがる花火を眺める。
彼女と2人で見たこの綺麗な景色をずっと忘れないように、胸に深く刻み込む。
「そうだ。これ、返すね」
「?」
ポケットから取り出したものを差し出すと、彼女は不思議な顔をしつつ素直に受け取った。
「…指輪?」
「覚えてない? それ、千晴ちゃんが私にくれたんだよ」
「そうだっけ…でもこれってオモチャじゃなくて、本物みたいだけど」
「うん本物。千晴ちゃんのお母さんの結婚指輪だって、言ってた」
「私が、菜月に? ……うーん、覚えてないけど」
小さい頃、おままごとで遊んでいた時。
テレビで見た結婚式の真似事を2人でしていると、彼女が小さな箱から指輪を取り出して私の指に嵌めてくれたのだ。
その時は綺麗な指輪を貰えたことが嬉しくてそのまま貰ってしまったけれど。
それは彼女の母親が遺した数少ない品の一つなのだから、彼女が持っているべきなのだ。
「でも、菜月にあげたんだから返さなくてもいいよ? 別にそれお母さんとの思い出の品ってわけじゃないから」
千晴ちゃんはお母さんとの思い出がない。彼女が生まれてすぐに亡くなったのだから当然だろう。
母親がどんな人なのかも、どんなことを成してきたのかも知らないから、関心が薄いのかもしれない。
それでもこの指輪は、彼女が持つべき物だった。
「これは私が持ってちゃ駄目なの。今は千晴ちゃんが持ってないと」
「そういうもの?」
「うん。それでね、いつか好きな人が出来たら、その指輪をその人に渡してあげて」
「……なるほど、ずっと私に持ってろってことね」
「違うよ! もう、いつまでもそんなだと柚葉ちゃん愛想尽かしちゃうよ?」
「それで、いいんだけどね」
千晴ちゃんは苦笑して、指で弄っていた指輪をそっとポケットにしまう。
ずっと私の元にあった指輪は、本来の持ち主の元へと戻っていった。
本音を言えば、ずっと自分が持っていたかったのだけど、それはきっとズルだと思ったのだ。
それにあのまま持っていたとしても、その指輪に本来の意味はない。
だから、彼女に返した。そして叶うなら、もう一度。大人になった彼女の意思で、くれるというのなら。
私はきっと、どんな形であれ遠慮なく受け取れるのだろう。
……たとえ別の人の手に渡ったとしても、多分、心から祝福できると思う。
「あーあ、羨ましいな。私だって、千晴ちゃんと結婚の約束したのに。……おままごとだけど」
私の小さな囁きは花火の大きな音によって掻き消され、彼女の耳に届かない。
柚葉ちゃんが婚約者を名乗れるのなら、私だって同じように名乗れるはずだ。
でも、同じように千晴ちゃんの隣に居られるわけじゃない。同じことが、できるわけじゃない。
「柚葉ちゃんのこと、ちゃんと考えてあげてね?」
「ちゃんとわかってるってば。前はどうでもいいって思ってたけど、今はどうすれば傷つけず断れるか考えてる。
私よりずっと良い相手を見つけて幸せになって欲しいって思えるほどに、柚葉には色々感謝してるから――」
「やっぱり、千晴ちゃんはわかってない!」
「え、なんで菜月が拗ねてるの? ……って、いつの間にか花火終わってるじゃん」
さっきまで響いていた花火の音は鳴り止んで、人々の喧騒だけが聞こえていた。
立ち止まっていた観客は花火が終わると波のように動き出し、祭のメイン会場の方へと流れていく。
ぼんやりしていた私は、うっかり人の波に巻き込まれてしまい、あっという間に押し流された。
身体の小さな私は波の勢いに抗うことなどできず、どんどん千晴ちゃんと離されてしまう。
「わ、わ、千晴ちゃーん!」
「あああああ何やってんの! 菜月、こっち!!」
懸命に伸ばした手を千晴ちゃんはしっかりと掴んでくれて、人の波から引っ張り出してくれる。
「え、ちょ、おっわあぁっ!」
「きゃっ!?」
けれど引っ張る勢いが強すぎたのか、私の身体は彼女に体当たりしてしまう。
いつもならそのまま倒れこんで恥ずかしい展開になってしまうけれど、今日は、少しだけ違った。
彼女は私をなんとか受け止めて、よろよろと後退しながらも支えてくれたのだ。
私を抱きしめたまま、ちょうど後ろにあった木に背中を預けて、千晴ちゃんはホッと息を吐いた。
「ふぅ、良かった。受け止めることに成功するとか奇跡だわ」
「う、うん。でも、いつもと違うけど、これはこれで恥ずかしいかな」
「そうだね…。菜月の胸が、当たってもにゅもにゅ――」
「あわわわわわ! 千晴ちゃんのえっち!」
別に、嫌ってわけじゃない。
わざとじゃないこともちゃんと解ってるけど、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
そういえば昔はわざと色んな恥ずかしいことされたっけ。うぅ……悪い意味でも、千晴ちゃんは変わってないなぁ。
(そうだ)
ふと、湧き上がる悪戯心。
今いる場所は周囲から死角になっているし、一瞬のことなら大丈夫だろう。
ああでも。もし見られても、別にいいかなって思える。
「ね、千晴ちゃん」
「なに―――」
彼女の肩に手を置き、少しだけ背伸びをして、彼女のおでこに短い口付けをした。
よく、お母さんが私たちにしてくれた、家族へ向ける親愛のキス。……これぐらいは、いいよね?
いつも千晴ちゃんに恥ずかしいことされてるんだから、たまには、私からしてもいいよね?
彼女の腕の中から離れると、千晴ちゃんは驚いて目を丸くしていた。
心なしか頬が紅く染まっている気もする。
うわぁ、なんだか可愛いなぁ。
「ふふ、いつものお返しだよ」
「~~~っ! っ!!」
しばらく恨みがましい視線を向けられていたけれど、すぐに調子を取り戻して、呆れた顔で笑い始めた。
うっ…残念。もうちょっと動揺してくれてもいいのに。
「…まだ見てないお店とかあったよね? これから見てまわろっか?」
「うん! 裕子ちゃんがお手伝いしてるお店も行ってみようよ」
「よし、冷やかしにいくか」
「もー!」
「冗談だって」
ほんの少しまた柔らかくなった彼女の笑顔が、私の心を揺さぶる。
それは、千晴ちゃんだけができる特別なこと。
「……また一緒に、花火を見に来ようね」
「んー、今度は夏かなぁ。浴衣着て見に来ようよ……てことで、約束」
「約束だね」
ごく自然に、小指と小指をきゅっと結んで約束を誓う。
こんな儀式をしなくても約束を守ってくれるだろうけど、やっぱりこれをやると安心する。
約束は『絆』なのだと、お母さんは言っていた。
真摯な想いと想いを絡めて、ずっとずっと守っていくべきものなのだと。
約束を果たせば果たすほど絆は太く強くなっていくんだよって。
道を違えても、離れていても、約束があれば大丈夫だって、教えてくれた。
「ねぇ、千晴ちゃん。忘れないで」
「うん?」
「私は、ずっと千晴ちゃんの味方だからね。何があっても」
「……それは心強いや」
それがきっと、私にできること。
彼女と出会ったときから変わらないこと。
「早く行こう、ハルちゃん!」
「へーい。……急ぐと転ぶよ、ナツ」
たとえ大切な何かを失っても。
進む道を間違えてしまっても。
(見守っててね、お母さん)
絶対に誰にも譲れない…無くなることのない――――幼馴染の絆が、私たちにはあるんだから。