追憶
誰もいない夕暮れの公園が、私とハルちゃんの遊び場だった。
学校が終わると私たちは真っ先に家に帰ってランドセルを玄関に放り、すぐに公園に行って遊ぶ。
ブランコや滑り台といった人気の遊具は全て老朽化していて使用禁止になっているから他の子供はあまり来ないけれど、
私たちには遊ぶ物なんて必要なくて、いつも2人だけで砂遊びや鬼ごっこなどをして遊んでいた。
ハルちゃんは運動が得意で、走る遊びだとすぐに私は負けてしまう。
勝てないのは悔しいけど、鈍くさい私がクラスで一番足の速い彼女に敵わないのは仕方がないことだと思う。
けれど私にだって、ハルちゃんに負けない遊びがあった。
「もぅーいーかぁい?」
「もうーいいよー!」
それは、かくれんぼ。
隠れた人を見つけるのも、探す人から隠れるのも、私は得意だった。
「よしっ」
遠くから聞こえてきた返事を聞いて、私は伏せていた顔を上げる。
公園のどこかに身を潜めている彼女を見つけるために、私はこの場所から駆け出した。
隠れてもいい範囲はこの公園の中だけ。広い公園だけど見通しがいいので、隠れるところはだいたい限られてくる。
それにこの場所で何回もかくれんぼをしているので、彼女の隠れるポイントは既に熟知していた。
「ハルちゃんー?」
けれど公衆トイレ、木の上、土管の中など、いつもの場所を見て回っても、彼女の姿がない。
他に身を隠せそうな場所はどこだろうと辺りを見渡してみれば、今まで一度も探したことのない所が一ヶ所だけあるのに気がついた。
草や木が沢山生えていて薄暗いので、隠れるには絶好の場所だと思う。他のところに居ないのなら、あとはもうここだけしかない。
自分の背丈ほど伸びた雑草を掻き分けて、茂みに足を踏み入れる。
(なんだか暗くて、怖い…)
いつも遊んでいる公園の一角なのに、まるで怪物が住んでいる森のように不気味なところで、背中がゾッと冷たくなった。
もしかしたら何かいるかもしれない……そう思い込んでしまうと、本当に恐ろしい生き物が潜んできる気がして、怖くなる。
早く、ハルちゃんを探さなきゃ。早く、ハルちゃんに会いたい。
目元を潤ませながら、無我夢中で彼女の姿を探す。もう、かくれんぼの勝ち負けなんてどうでも良かった。
今はこの恐怖心から逃れるために、ハルちゃんを見つけることしか頭にない。
「ハルちゃん、ハルちゃん、ハルちゃんっ!」
情けない声で彼女の名を必死に呼ぶ。
私はいつも不安になるとこうやって彼女の姿を求める。
だって、ハルちゃんはいつだって私のことを守ってくれるから。
気が弱くてすぐに泣いてしまう私を、困った顔をしながらも慰めてくれるから。
「!!、ハルちゃ……っ」
すぐ近くで草の揺れる音がしたので期待して振り返ってみたけれど、残念ながらそこに望んでいた人の姿はない。
気のせいかと思ったけれど、再びカサカサと草の音がしたので何かがいるのは明らかだった。
何かがいる。音が段々と近づいてくる。あまりの恐怖に足が固まってしまい、この場から動くことが出来ない。
逃げたくても逃げることが叶わず、迫ってくる何かを震えながらじっと待っていた。
「っ!!? ……あれ?」
けれど、茂みから顔を出したのは想像していた怖いものではなく……ただの野良犬だった。
(――ああ、なんだぁ)
短い息を吐く。
犬は嫌いじゃないからすぐに安心できたけど、しかし、それも束の間のことだった。
よく見れば目の前の犬は自分の身体とあまり変わらない大型犬だったのだ。それから、こちらを威圧する獰猛な目。
私のことを敵だと思っているんだろう、鋭い牙を見せながら、私を睨むようにまっすぐ見ている。
目を逸らしたり、背中を見せて逃げ出したらその瞬間に飛び掛ってくるかもしれない。
「ウゥッ……」
「ひっ!?」
低い声で威嚇されて、身体が竦む。
怖くてガタガタと全身が震えだす。
逃げることも出来ず怯えることしかできない私に向って、野良犬はゆっくりと近づいてくる。
私、このまま犬に食べられちゃうんだ。
(やだ、やだやだ、怖いっ、助けてっ!)
絶望的な状況を見ていることが怖くなって思わず目を瞑ってしまう。
「ナツ!!!」
「!?」
何処からか聞こえる、知った声。
すぐに後ろで草を踏む音がしたと思ったら、いつの間にか私の正面に人の気配。
恐る恐る目を開くと、そこには見慣れた背中があった。
いつも怖いものから守ってくれる、幼馴染の背中だ。
(あ……)
来てくれた。
いつものように、助けに来てくれた!
「ハルちゃん!」
「へへっ、正義の味方、参上!」
顔だけ後ろを振り返って、元気いっぱいの眩しい笑顔を向けてくれた。それから頼もしいガッツポーズ。
それだけでさっきまで感じていた恐怖が、どんどん薄らいでいく。化け物か何かのように怖かった大きい犬が、ただの犬に思えてくる。
臆病な私は、彼女の後ろにいるだけで安心してしまう。
「ガウウゥ…ッ!」
「ナツをいじめる奴は犬だろうが何だろうが、許さないっての! がるるるるっ!!」
唸る犬に対して、ハルちゃんは対抗するように大きな声で唸る。
自分の方が上なのだ、強いのだと解らせるように、牽制しているのだ。
「………」
「………ッ」
しばらく犬と彼女は睨みあっていたけれど、根負けしたのか、犬は一歩後ずさってそのまま奥の茂みへと姿を消した。
逃げる敗者を見届けた勝者のハルちゃんは、緊張を解くように息を吐いて肩の力を抜く。
「…ハルちゃん」
控えめに声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返った。
強い力の宿った綺麗な瞳が、私を捉える。
「とりあえず、広場に戻ろ? ここ、ジメジメして気味悪いし」
「うんっ」
私たちは薄暗い茂みから出て、いつも遊んでいる中央広場へ戻ってきた。
身体についた葉っぱや土を払い落として、身なりを整える。
「怪我とかしてない?」
「う、うん平気だよ。……でも怖かった。食べられちゃうかと、思っ、た」
「わ、わ、ごめんってば。泣かないでよ」
さっきまでの恐怖を思い出して泣きはじめた私を見て、途端に慌てるハルちゃん。何も悪くないのに、何度もごめんと謝っている。
せっかく助けに来てくれたハルちゃんを困らせたくないのに、涙はいつまでも止まってくれなかった。
「ナツは泣き虫だなぁ」
「だ、だってぇ…ぐすっ、勝手に涙が出てくるんだもんっ…」
「はいはい」
「ううっ…」
呆れたように笑われたので拗ねてそっぽを向くと、ぽんぽんっと頭を優しく叩かれた。
それから真剣な表情で私の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だよ。ナツは絶対に私が守るから」
「…うん」
「約束したもんね」
「うん」
「じゃあ、泣いたら駄目」
「…ん」
そう、私たちは約束した。
彼女、天吹千晴は、悲しんでいる人がいたら、支えてあげることのできる強さを持つことを。
そして私は、些細なことで泣かない強さを身に着けることを。
『――約束は絶対に守りなさい』
約束をした日、約束を誓った人から諭すように言われたことを思い出す。
するとさっきまで止まらなかった涙が嘘のように、ぴたりと止まった。
「お、やっと泣き止んだ。えらいえらい!」
「だって約束だもん。守らないと、はりせんぼんだもん」
「私は針千本より、怒られる方がヤダなぁ」
「ハルちゃん…イタズラしていっつも怒られてるのに」
「えーイタズラじゃないって。ナツの為にやってることなんだから…もちろん“これ”も」
そう言ってハルちゃんはニヤリと含み笑いをし、いきなり私のスカートをたくし上げた。
布を一枚めくられて、隠されていた私の下半身が外に晒される。
「え」
「今日はネコさんなんだ。昨日はウサギさんだったっけ?」
「~っ!!?」
突然のことにすぐ反応できなかったけれど、見られているのが自分の下着だと気付いて顔に熱が集まる。
これ以上見られないようスカートを押さえようとしてもハルちゃんが邪魔をして隠させてくれない。
……これのどこが私の為なのだろう。絶対、私の反応を楽しんでいるだけだよね。
「ハルちゃんのえっちぃいいい! やだ、馬鹿、見ちゃやだぁあああ!!!」
「ひひひ、ナツのパンツはいっつも動物柄だよね~。お子様だー」
ようやく彼女がスカートを離してくれたので、慌てて元に戻して整える。
私が涙目で睨んでも、悪びれもせず楽しそうに笑っていた。
「こ、子供だからいいもん!! 普通だもん!!」
「クラスの皆は可愛い柄のやつ穿いてたけど。チェックとか水玉とかフリフリのやつとか」
「どうしてハルちゃんがみんなの下着の柄を知ってるの!?」
「え? そりゃあみんなのスカートを捲ったからに決まって――」
「へぇ、またやったのね千晴」
「!?」
「あ…」
ニコニコと得意げに話していたハルちゃんの表情が、急に引き攣って固まる。
私はこちらに近寄ってくる見知った影を見つけて駆け出し、その人の腰辺りにぎゅっと抱きついた。
見上げると、包み込むような優しい視線が自分に向けられている。
「お母さん! おかえりなさい!」
「ただいま、菜月。それに千晴」
「…お、おかえりなさい、おばさん」
「おばさん?」
「は、葉月さん!!!」
顔を青くさせているハルちゃんは、逃げ腰になって子犬のようにプルプルと震えていた。
さっきまで威勢の良かった幼馴染は、すっかり怯えてしまっている。
そんな彼女を、お母さんは優しい笑みを浮かべて見つめていた。
……拳を鳴らしながら、だけど。
「ねぇ千晴。もう二度と女の子にイタズラしないって、この間、言ったわよねぇ」
「ひっ!」
「前にも人が嫌がることをしたら駄目だって言ったでしょう? んん~?」
「ご、ごめんなさいいいい!」
「お母さんあのね! 私、千晴ちゃんに何されても嫌じゃないよ! は、恥ずかしいけど!」
「あら……我が娘ながら健気な子ねぇ」
「だ、だからお母さん。ハルちゃんを怒らないで」
「怒ってないわよ? 叱ってるだけ」
えっと、それって同じじゃないのかな。
でも叱られているハルちゃんが可哀想だったので縋るように見つめると、お母さんは苦笑して私とハルちゃんの頭を撫でた。
「悪戯は子供の特権だから厳しくは言わないけど……本気で相手を傷つけることをしたら駄目よ」
「そ、そんなこと絶対にしないよ!」
「……そうね。千晴は正義の味方だもんね」
「う、うん! 今日だって野良犬からナツのこと守ったもん!」
「あらそうなの? さすが私の弟子ね」
「へへっ」
褒められたハルちゃんは照れ臭そうにはにかんだ。
彼女は女性警察官である私のお母さんの影響で“正義の味方”に憧れている。
だからハルちゃんはよくヒーローの真似をして私や他の誰かを守ろうとするのだ。
その姿は本物の正義の味方みたいに格好良くて、頼もしい。
「さてと。暗くなってきたし、そろそろ家に帰りましょうか」
「「はぁい」」
いつものように私がお母さんの右手を、そしてハルちゃんが左手を握り、沈む夕日の光を浴びながら歩き出した。
私たちの家は公園から数分歩いたところにあるので、話しているとあっという間に帰り着く。ちなみに、うちの隣がハルちゃんの家だ。
けれどハルちゃんは自分の家には帰らないで、私たちと同じ家に帰る。
彼女のお母さんはずっと前に亡くなっていて、お父さんは仕事で滅多に家に帰って来ないらしい。
だからハルちゃんはいつもうちでご飯を食べて、寝る時間になると自分の家へ帰っていくのだ。
ほとんど私の家にいるのだから、もう、こっちで暮らせばいいのに。そうしたら、もっとハルちゃんと一緒に居られるのに。
そうお母さんに言ったことがあるけれど、困った顔をして『そうしたいのは山々だけど、色々難しいのよ』と諭された。
幼い私には理解できない複雑な“大人の事情”があって、無理みたい。
「ご飯できたわよ、ふたりとも」
リビングでハルちゃんとアニメを見ていたら、台所からお母さんが顔を出した。
「あ!エビフライだ!」
ハルちゃんが歓喜の声を上げる。
さっきまで夢中になっていたテレビから離れて、いつの間にかテーブルに置かれた今日の夕ご飯を見つめていた。
エビフライはハルちゃんの大好物で、私も好きだから週に一回は食卓に出てくるのだ。
自分の席に座って、手を合わせていただきますをしてから、ご飯に箸をつける。
お父さんはいつも帰りが遅いので、夕ご飯はお母さんとハルちゃんと私の3人で食べることが多かった。
「ちゃんとサラダも食べなさいよ?」
「ナツ、私のサラダあげるからエビフライ一本ちょうだい」
「やだー!」
「…千晴、私の言ったこと全然聞いてないわね」
「だってサラダ美味しくないもん」
「好き嫌いしてると強くなれないわよ~? 大きくなれないわよ~? いいのかな~?」
「む……」
普段は勇ましい彼女も、お母さんには弱い。
ハルちゃんは渋々と口の中に詰め込むようにして、むしゃむしゃとサラダを食べ始めた。
嫌いなものを無理に食べたせいか涙目になっていて、なんだかとっても可愛い。
ちなみに私は野菜嫌いじゃないので普通に食べれる。ドレッシングをたっぷりつければ、だけど。
「そうそう、明日は貴女たち学校休みよね? 3人で隣町まで買い物に行かない?」
「お父さんは?」
「残念だけどお仕事ですって。だから明日は女だけでお買い物ね。千晴ももちろん来るでしょ?」
「うん、ついてく」
「一応貴女のお父さんにちゃんと伝えるのよ? 会えなかったら置手紙を置いておきなさい」
「はーい」
ハルちゃんはそっけなく返事をしてから、大好物のエビフライにかぶりついた。
美味しそうに食べている彼女の横顔はいつも通りで変わらない。
(ハルちゃんはお父さんに会えなくて寂しくないのかな?)
誰もいないお家に帰るのは怖くないのかな?
私が彼女の立場だったら、そんなの耐えられない。お母さんもお父さんもいないなんて、寂しくていつまでも泣いていると思う。
けど、ハルちゃんは全くそんな素振りを見せない。
もしかしたら、我慢してるのかもしれない。
でも、いつだって明るくて、元気で、毎日が楽しそう。
……泣いてばかりの私とは、大違い。
彼女の強さを、少しでも身につけることができたらいいのにな。
ご飯を食べ終えてリビングでくつろいでいると、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいまー」
「あ! お父さん帰って来た!!」
弾かれたように立ち上がり、ハルちゃんと一緒に急いで玄関へ向う。
「おみやげ! おみやげ! おじさん、おみやげある!?」
「おお。今日はドラ焼き買ってきたぞ」
「やったー! おじさん大好き!」
「お父さん大好き!」
「はっはっは、いやぁ照れるなぁ」
「お帰りなさい。ご飯できてるわよ」
「ああ、ただいま」
遅れてお母さんがやってくる。
お父さんはお母さんに鞄とコートを渡して、私たちにはドラ焼きが入った紙袋を渡した。
そして、空いた手で私の頭とハルちゃんの頭をそれぞれ優しく撫でてくれる。
それからみんなでリビングへ戻り、それぞれ今日あった事やこれから先の話をしたりして、団欒の時間を過ごす。
いつもの光景。
笑顔で溢れた、どこにでもあるような、珍しくもない、日常。
多少の変化はあれど、こんな毎日がずっと続くと、信じてた。疑ったことなんてなかった。
なのに
「………………ぁ」
あまり馴染みのない隣町。
ビルに囲まれた街の中。
見通しのいい交差点の、横断歩道。
太陽と青空に見下ろされたアスファルトには、本来ならありえない、赤い液体が染みのように広がっていて。
その中心を囲むように、道路には人だかりが出来ていた。
『―――――!』
取り乱した人たちの、ざわめき。耳を塞ぎたくなる、悲鳴。
遠くから聞こえる不気味なサイレンの音。
「……………ど、して?」
今日はお母さんとハルちゃんと私の3人で、買い物に来ていた。
新しい洋服を買ってもらって、お昼は美味しいオムライスを食べて、それから夕ご飯の材料を買うためにスーパーに向うはずだった。
その後はいつものように家に帰って、家族と幼馴染と一緒に夕食を囲んで。次の日も同じように、代わり映えのしない毎日を送る。
たった、それだけなのに
そんな日々はもう二度と、過ごせない。
目の前の惨状がそう私に告げる。
一方的に。
知りたくもないのに。
「…………ぅ」
知らない人に肩を掴れているせいで身動きの取れない私は、騒ぎの中心を遠巻きに見ていることしか出来なかった。
走り出したくて抵抗したけれど、見ちゃいけない、って周りの人たちが強い口調と力で私を押さえつけるから。
振り切ってそれから近くに行きたかったのか、この場から逃げたかったのか…解らないけれど。
でも、動けない私の視界の先には、彼女がいる。
立ったまま微動だにしないハルちゃんの小さな背中が、霞んで見える。
私と違って、足の速い彼女は、真っ先に道路に飛び出した。
手を伸ばして、大切なものを掴もうとした。
目を逸らすことなく、事の全てを見届けた。
今も、逃げることなく、見続けている。
「ハル、ちゃ…」
震える声で彼女を呼んでも、その声は喧騒に掻き消されて届かない。
どうしようもなく苦しくて辛くて、悲しくて、ぐちゃぐちゃの顔を、もっと歪めた。
負の感情に押し潰されそうで、耐えきれず私は泣き叫ぶ。
子供らしく泣き喚くのではなく、理不尽な現実にぶつけるように声を張り上げる。涙を流す。
助けて欲しい。
そう思っても、誰も、何も出来ない。
あのハルちゃんだって、どうしようもない。
変わり果てた私の母をずっと見ていた彼女は、私と同じように泣いていただろうか。
この時のハルちゃんの顔を、私は見ていない。いったい、どんな表情をしていたのだろう。
私の脳裏に焼きついているのは、彼女の物言わぬ背中だけだった。
助けて欲しい。
お母さんを。
ハルちゃんを。
私を。
願っても、それは叶うことのない希望。
待っているのは、無慈悲で残酷な現実だけだった。
――――“交通事故”
それが、今、目の前で起こった現実。
つい、さっきのこと。
信号が青になって、私とハルちゃんは競うように横断歩道を走って渡った。
一度だけ振り返ると、お母さんは困ったような表情をして、私たちの後を歩いていた。――その途中のことだった。
まだ、歩行者の信号は青だったはずなのに、減速することなく、突っ込んでくる車。
私が横断歩道を渡り終えて身体ごと振り返った時、視界に入ったのは、先に渡り終えたはずのハルちゃんが道路に飛び出して、お母さんに向って懸命に手を伸ばしている姿。
その手は届くことなく空を切り、お母さんの身体は勢いよく車に跳ねられ、宙を舞い、地面に叩きつけられた。
私は怖くて目を閉じてしまったから、お母さんが跳ねられる瞬間を見ていないけれど。そう、周囲の人が喚いていた。
即死、だったそうだ。
わずかな可能性さえなく、お母さんはこの日、息を引き取った。
お母さんを失ってから、まるで軸を失ったように、生活は一変する。
家にお母さんがいない。それは当然のことだったけど、ハルちゃんもいなくなった。家に、来なくなった。学校で会っても、喋らなくなった。
きっとお母さんのことを思い出してしまうから、話すのが辛いのだろう。お互いに、そう思っていたのかもしれない。
私も塞ぎこんでしまっていたから、声を掛ける余裕なんてなくて。彼女の置かれている状況を考えることさえ出来なかった。
それから結局、彼女と喋る機会がないまま、私は引越すことになった。
なかなか立ち直ることの出来なかった私とお父さんは、お母さんとの思い出の詰まったこの街から逃げるように田舎の実家へと戻ることになって。
私の最後の登校日に彼女は休みだったので、別れの挨拶をしようと彼女の家にいったけれど、会えなかった。
仕方ない。そう思って、そのまま引っ越した。後で手紙を書けばいい、そう考えていた。
でも、一度も、書けなかった。
書こうとしたけれど、罪悪感が私の胸を突き刺して、筆を動かせなかったのだ。
だって、自分だけ逃げたのだ。ハルちゃんを残して、自分だけ。
彼女だって、“母親”を失った。母親のいない彼女にとって、支えだったのは、私のお母さんだった。
私にはお父さんが居てくれた。引っ越してからはおじいちゃんとおばあちゃんも私を癒してくれた。
けど、ハルちゃんには、支えてくれる家族がいない。
父親がいるとはいえ、ほとんど家に帰ってこないから、実際、彼女はひとりのようなものだ。
どんなに彼女が強いといっても、寂しくないわけがない。私と同じ子供なんだから。
私は、彼女を見捨てたのだ。
自分が楽になりたくて、気付かないフリをして、ハルちゃんは強いからきっと大丈夫だなんて無責任に決め付けて。
見ないフリして逃げ出して、自分ばかりを哀れんで。
あんなにも大好きだったはずの幼馴染を、私は置き去りにした。
――――それで、その結果が、高校での再会だった。
委員会の集まりで再会した彼女は、まるで別人のように変わっていた。
確かに身長や髪が伸びていたり、昔の面影を残しつつ年相応に成長していたけれど。
一番、変わったと思ったのは、彼女の雰囲気だった。
まるで他人を拒絶するような冷たい瞳を向けられた時は、心臓が止まりそうなほど驚いた。同時に、酷い後悔に襲われた。
ああ……私のせいだと思った。
あの時、彼女の傍にいなきゃいけなかったのに、私が臆病で、逃げ出したから。
何も出来なかったかもしれないけれど、それでも隣にいるべきだったのだ。
今更後悔しても、どうにもできなくて。許されるはずもなくて。
私のことを忘れているのも、当然だった。
あれから、どんな日々を彼女は歩んで来たのだろう。
どんな日々を過ごせば、あんなに変わってしまうのだろう。
(それでも)
垣間見える、昔の名残は、確かに在って。
近づいてみて、すぐにわかった。
どんなに変わっていたとしても……彼女は、彼女のままだったのだ。