過去の足音
まだ太陽が昇りきっていない早朝。
休日なのに平日よりも早く目が覚めてしまった私は、二度寝する気になれなかったので庭に出てひたすら雑草を抜く作業を繰り返していた。
長い間ずっと庭の手入れをしていなかったせいか雑草は生え放題で、抜いても抜いても減ってくれない。
気まぐれで始めた事とはいえ、成果が出ないと段々と気が滅入ってくる。
草に触れたり土をいじったりするのは嫌いじゃないからいい暇潰しではあるんだけど。
殺風景なこの庭に花を植えたり家庭菜園を作ってみたい気持ちもあるが、基本めんどくさがりなので自分には向いていないと思う。
現に、まめに手入れをしないからこんな風に荒れているのだ。
ばあちゃんはどんなに雑草が伸びようが気にしないし、柚葉は家事のほとんどをやってくれてるので任せるわけにもいかないから、手入れする人間は自分しかいない。
「ふう」
冷えた空気に真っ白な息を吐いて、その場に立ち上がった。
ずっと腰を低くして作業をしていたせいか、背中から腰の辺りに違和感を感じる。少々、頑張りすぎたらしい。
痛みを感じないので楽ではあるけど、疲れは当然溜まるから気をつけないと身体の限界がきていきなり倒れてしまうなんてことになりかねないのだ。
便利なんだか不便なんだかわからないが、こんな身体になってしまったのだから諦めて受け入れるしかなかった。
(うーん)
休憩しようと縁側に座って、さっきまで作業をしていた庭を眺める。
少なくとも1時間は草取りをしていたはずなのに、始めた時とあまり状況が変わってないような気がした。
道具を使わず地道に手で抜いていたので時間がかかったわりには進まなかったのだろう。
うちに草刈機なんて便利な道具はないし、今更だけど手で抜くよりも除草剤を使ったほうが効率良さそうだ。
どうせ今日は休みでやることもないから後で買いに行こうかな。
「ふあぁ…眠い…」
大きく欠伸をする。
気がつけば太陽は随分と高く昇っていて、空はすっかり明るくなっていた。
(うん?)
ポケットに入れていた携帯が震えたので手に取ると、画面に表示されていたのは意外にも着信の文字。
相手は美空みたいだけど、こんな朝早くに電話をかけてくるなんて珍しいこともあるもんだ。
「もしもし?美空?」
『おはよう千晴。ごめんね、こんな朝早くに電話かけて。……起きてた?』
「うん、起きてたから平気。ちょっと嫌な夢見て落ち着かないから、気晴らしに庭の草取りしてたとこ」
『嫌な夢?』
「んー…嫌な夢って言うか、昔の夢かな。あんまり覚えてないけど」
最近、毎日のように昔の夢を見る。
嬉しかったことやどうでもいい些細なこと、恥ずかしかったことや悲しかったことなど、様々な過去の夢を。
そして……共通しているのはどれも“今の町に引っ越してきてからの思い出”ということ。
だから昔のことを夢に見たといっても、私が忘れてしまっている過去は未だに思い出せていない。
ちなみに今日見た夢は、まだこの町に着たばかりで馴染めていなかった頃のこと。
嫌な過去という程ではないけど、昔の自分を……昔のことを思い出すのは正直しんどくて、心が疲れてしまうのだ。
『……大丈夫なの?』
美空の怪訝な声が耳に届いた。
……余計な心配をかけるつもりで言った訳じゃなかったんだけど、失敗したかな。
いつもならどんな夢を見たのか面白がって聞いてくるはずなのに何も聞いてこない。それに、声も険しい。
彼女とは付き合いが長いからだろうか、気持ちが沈んでいたことに気付かれてしまったようだ。
そういえば最近付き合いの短い柚葉も、朝、顔を合わせるたびにやたら心配そうな視線を向けられるので、もしかしたら彼女も気付いてるのかもしれない。
うーん、私ってそんなにわかりやすいのだろうか。それとも2人の勘が鋭いだけとか。
「まぁ、大丈夫だよ。どうせ昔のことで、夢なんだから。気分転換に草取りしてスッキリしたしね。
それよりも何か用があるんじゃないの?こんな早くから電話なんて」
お節介な友人を安心させる為に努めて声を明るくして話題を切り替える。
すると美空は『ああそうだった!』と、さっきまでの真面目な声が一変して、楽しそうな弾んだものになった。
いつもの明るい彼女の声に、内心ホッとする。
『ところで千晴、今日は暇?』
「ん?まあ、特にやることないから暇だけど」
除草剤を買いに行ったり庭の手入れをしようと思ってたけど、別に今日じゃなくてもいい。
『それじゃあ今日遊びにいかない?』
「いいけど、どこ行くの?」
『最近できたばかりの植物園よ。お母さんが招待券を人数分くれたんだけど、どう?』
「もちろん行く!」
『よかった。花とか草とか好きだものね、千晴って』
「で、その植物園ってどこにあるの?この町に植物園なんてあったかなぁ」
なんせこの町はわざわざ植物園にいかなくても、嫌というほど自然に囲まれているのだ。
そんな田舎に植物園を作ってもあまり需要はないように思う。植物に興味のある人にとっては、嬉しいことかもしれないけど。
『実は電車で40分かかるところにあるの』
「やっぱり行かない」
『そう言うと思ったわ』
電話越しに彼女の溜め息が聞こえてきた。
確かに植物園は魅力的で行きたいと思うけど、わざわざ危険を冒してまで行く程じゃない。
『心配しなくても大丈夫よ。休日は平日よりも乗客は少ないし、私がちゃんとフォローしてあげるから』
「うう…でもなぁ……嫌な予感しかしない……」
電車は怖いから、嫌いだ。
電車という乗り物自体が怖い訳ではなく、あの狭い空間で起こってしまうであろう“出来事”が怖いのだ。
必ず起きるというわけではないけど、その確率はおよそ50パーセントを超えていると思う。
『少し時間がかかっちゃうけど、鈍行に乗れば確実に座れると思うわ。そうすれば平気でしょ?』
「………ん」
『決まりね!みんなには私から電話しておくから、千晴は大須賀ちゃんを誘っておいて。それじゃあ、10時に駅前に集合ってことで宜しく』
「え?……み、みんなって?ちょ、美空!?」
私の間抜けな声に期待した反応は返ってこず、一方的に通話が切れる。
てっきり美空と2人で行くものだと思っていたんだけど、どうやら違ったらしい。
私と美空とそして柚葉と……残りのメンバーは…うん、大体予想できてしまうな。
彼女たちが誘いに乗るのかはまだわからないけど、そうなると色々と騒がしくなりそう。
「千晴さん?」
後ろから名前を呼ばれたので振り返ると、エプロンを身につけた柚葉がそこにいた。
彼女はパタパタとスリッパを鳴らして私の傍にやってくる。
「話し声が聞こえたんですけど……あの、もしかして草と…お話を?」
「しないから。美空と電話で話してただけだから」
「そうでしたか」
もしかして草と会話するような不思議ちゃんだと思われてるんだろうか。
柚葉の頭の中で私の人物像はいったいどんな風になってるのか、今度はっきりと聞いておきたい。きっと無駄に美化されて別人みたいになってるんだろうな。
「朝ごはんができましたけど、すぐに食べます?」
「うん、片付けたらすぐ行く」
「わかりました。準備しておきますね」
「…あ、ちょっと待って」
「はい?」
台所に戻ろうと背を向けた柚葉に声を掛けると、彼女は振り返って可愛らしく首を傾げた。
「柚葉は今日、暇?」
「そうですね。洗濯したりお掃除したりすることはありますけど、用事はこれといってないです」
「んじゃ、植物園に行かない?」
「わ。それってもしかしてデートのお誘いですか?」
「当然違います。言っておくけど最初に提案したのは美空で、他にも一緒に行く人いるっぽいから2人きりじゃないよ。で、柚葉は来るの?来ないの?」
「もちろん、ぜひご一緒させてください」
「おっけー。美空にメールしとく」
簡潔に用件を書いて美空に送る。
するとすぐに返事が返ってきて、計5人で行くことになったからヨロシクねと書いてあった。
「ふふっ、楽しみですね」
「……そだね」
みんなで出かけるのが嬉しいのか、柚葉は上機嫌に表情を綻ばせた。
不安な気持ちもあるけど植物園は結構楽しみなので、今回は概ね彼女に同意する。
そういえば美空と柚葉以外のクラスメイトと出かけるのは初めてかもしれない。…ま、そんなことはどうでもいっか。
柚葉は朝食の準備をする為に台所へ戻っていったので、私は引っこ抜いた草や散らばった葉を集めて庭を片付ける。
雑草以外に枯葉もたくさん落ちていたから、燃やすついでに焼き芋をするのもいいかもしれない。
以前ばあちゃんと2人でやってみたことがあるのだが、あの時は火加減が上手くいかず、焼きすぎて真っ黒こげになったので食べられなかった。
おまけに火の勢いが強すぎて熱かったり煙を吸い込んだせいか気持ち悪くて吐きそうになったりと散々だったっけ。
今日は用事が出来たので無理そうだけど、今度またやってみるのもいいかもしれない。
(さてと)
あらかた片付け終えたので家に上がる。
約束の時間までまだまだ時間があることだし、まずは彼女が作ってくれた美味しい朝食を食べるとしよう。
「今日の朝御飯は何かな~」
「ふふ、今日はフレンチトーストですよー」
「おおっ」
「テーブルに置いてますから、先に食べててください」
台所から聞こえる彼女の声と食欲をそそる匂いに誘われて、食卓へ続く廊下を早足で進んだ。
*
待ち合わせ時間の、ちょうど10分前。
私と柚葉は待ち合わせ場所に早く着くよう家を出てきたつもりけど、駅前にはもうすでに3人の姿が揃っていた。
美空はこちらに気付いて元気よく手を振り、その隣にいた菜月もこっちを見た途端に花のような笑顔を浮かべ、平は暇そうに腕を組んで壁にもたれかかっている。
うむ、やっぱり思っていたとおりのメンバーだ。
「やっほー千晴、大須賀ちゃん!」
「こんにちは。みなさん早いですね」
「ううん、私たちも今来たところだから、そんなに変わらないかな」
「菜月は約束の時間の30分前にここに着いたって言ってたじゃない。私と美空はさっき来たばかりだけど」
「ゆ、裕子ちゃんっ」
平に本当のことをばらされて、菜月はわたわたと慌てていた。
それにしても30分も前に来ていただなんて……待ってる間は暇だったろうに。
確か菜月は学校から帰る方向が駅方面だった気がするから、もしかしたら駅から近いところに彼女の家があるのかもしれない。
全員揃ったので、改札を抜けて電車の到着を待つ。
電車の時間に合わせて約束の時間を決めていたらしいので、あと数分もしないうちに来るみたい。
「ちょっと天吹。なんでもう疲れたような顔してるのよ」
ぼんやりしていると、隣にいた平が肘で小突いてきた。
これからのことを考えていたので、それがおもいっきり表情に出ていたようだ。
「んー…これから電車に乗らなきゃいけないのかと思うと胃が痛くて」
取り繕う余裕もないので、正直に話す。
「え、なに、アンタって電車嫌いなの?」
「乗れないわけじゃないんだけど……色々と事情があってね…」
「千晴は何度か痴漢に間違われて大変な目に合ってるから、それがトラウマになってるのよね」
「「…………」」
あっさりと美空がバラしたおかげで平は呆れた目で見てくるし、菜月は困ったように苦笑いを浮かべている。
くっ、私だって好きで間違われたんじゃないっての。
普通に電車に乗っていただけなのに、揺れてちょっと尻に手が当たっただけで手を掴まれて「この人痴漢です!」と言われたり
すし詰め状態で押された拍子に転んで女の人に抱きついてしまって手が胸に以下略なことがあったり、その他にもまあ色々あるんだけど。
それに痴漢に間違われるだけじゃなくて、昔は髪が短かったから同時によく男と間違われたこともあった。
確か、それから髪を伸ばしはじめたような気がする。同性だとわかると、騒動になる確率が減るから。
それでも痴女が出たとか騒がれることもやっぱりあるんだよね。……もうやだこの体質。
で、そんなことが何度もあった結果、当然のように私は電車に乗るのが嫌いになったのだ。
「今日は乗客も少ないと思いますから、きっと大丈夫ですよ」
「だといいけど」
そう祈らざるを得ない。
人が少なくて席に座れると、人と接触することがないので問題は起こらない。
注意しなければいけないのは、人が多くて座れない場合だ。その場合、人との密着は避けられないのでかなりの確立で接触し問題が起こる。
「あ、電車来た」
「げっ」
到着のアナウンスが流れ電車がホームに勢いよく入ってくる。
次第に速度を落として、その電車はゆっくりと目の前に止まった。
ドアが開いて、ぽつぽつと電車から人が降りてくる。
「…………ぅ」
電車の中を見て、短い呻きが口から漏れた。
なぜなら、私たちの乗る電車の中は隙間がないほど人で埋め尽くされている状態だったから。
当然のように席は全て埋まっていて、立って乗る場所を確保するのも難しいかもしれない。
―――今日は人が少ない、なんて言ったのは誰だったっけ。むしろ平日の通勤時間帯より多い気がするんだけど。
「ど、どうしてこんなに混んでるのかしら…休日のこの時間はいつも人が少ないはずなのに」
「多分、あれが原因じゃない?」
そう言って平が指差した先には、一枚のポスターがあった。
「あっ! 今日と明日は“農業祭”があるんだ」
農業祭とは隣町で行われる作物の収穫を祝う秋祭りのことだ。
小さな町だけど二日かけてやる大掛かりな祭りで、毎年賑やかなので近隣の町はもちろん遠方からの観光客も多い。
「あちゃー、すっかり忘れてたわ。祭の日は普段利用者の少ない電車もバスも混雑しちゃうのよね」
「……帰っていい?」
「何言ってんのよここまできて。いいから覚悟を決めてさっさと乗りなさいよ。後ろがつかえるでしょうが」
「ぅうう」
「頑張って、千晴ちゃん!」
覚悟を決める暇もなく平に押されて強制的に電車に乗せられてしまう。
逃げ出そうにもしっかりと手首を掴まれており、逃走する隙さえもない。
そして無常にも発車を告げるベルが鳴ってドアが閉まり、ゆっくりと電車は動き出した。
もはや退路は断たれ、流れていく景色を見ながら溜め息を吐くしかない。
最悪な展開になってしまったけど、ドア付近の場所を確保できたのは不幸中の幸いだった。
こうして人ごみに背中を向けてドアに張り付いていれば、人を触る心配はないのだ。
よし、目的地に着くまでの40分間、ずっとこうしていよう。何が起きようが意地でも張り付いていよう。
「大丈夫ですか?千晴さん」
「なんとか。人がいっぱいいて落ち着かないけど」
柚葉とは背中合わせになっていて、電車が揺れるたびに彼女の温かな背中が自分の背に当たるのでくすぐったい。
後ろが気になったので頭だけ振り返ってみると、柚葉の隣には平がいてその隣には美空がいた。
そして菜月は私の隣でふらふらと不安定に揺れている。バランスをとるのが苦手なのか、見ていて危なっかしい。
(あれ?)
一息ついて、ふと気付く。
(みんな、私を囲うような位置に居る…)
一番先に電車に乗ったはずの自分が、いつの間にか入り口のドアの近くにいた。
それに私の周りは友人たちばかりで“他人”がいない。
(……あ…そっか)
すぐに解る。
きっとそれは、偶然なんかじゃない。
彼女たちの、お節介なのだ。
私が何をしでかしてもフォローできるように。
不安を少しでも取り除く為に。
(駄目だなぁ、私)
また守られている。そう感じて嬉しいと思うと共に、やはり少しだけ胸の奥が痛んだ。
みんなの優しさの上に胡坐をかいてる自分が情けなく思えて、俯いて自分の弱さを噛み締める。
これじゃあ、今までと何も変わってないじゃないか。
「千晴ちゃん?大丈夫?」
「え?」
菜月が心配そうに顔を覗き込んでくる。
彼女はきっと、私が苦手な電車に乗って不安になっているのだと心配してくれているのだ。
気持ちはありがたいと思う。でも、今はその優しさがちょっとだけ辛いかもしれない。
「平気だけど……ってそれより菜月のほうが大変そうに見えるよ」
小柄な彼女は電車の揺れに翻弄され、ドアにおでこをぶつけたり近くに居る体格のいいおじさんに時折押しつぶされそうになったりと、かなり大変そう。
菜月はバランスをとる事に集中しているのか、真剣な表情だった。
「わわっ、わわわ」
大きく電車が揺れて菜月がバランスを崩す。
なんとかその場は踏み止まったものの、このままじゃそのうち誰かを押し倒しかねない。
「菜月、こっち」
「えっ!?」
見ていられなかったので、困惑している菜月を自分の元に引き寄せてから私の場所と彼女のいた場所を入れ替えた。
私が今まで居た位置には手すりがあるから安心だし、後ろには柚葉がいるからいざというときに守ってくれるはずだ。
「ほら、危ないからそこの手すりに掴まって」
「千晴ちゃん、でも、」
「大丈夫だよ。私、菜月よりバランスとるの上手いから」
「うぅ……そういう問題じゃないよ」
それでも彼女は渋ってなかなか納得してくれない。
……まったく、私なんかよりよっぽど大変そうなのに。
自分のことより他人のことを気にかける彼女の方が心配になって、私の不安なんてどうでもよくなってきた。
ちいさなことをうじうじ考えて怯えていることが馬鹿らしく思える。
「いいから大人しくそこにいなさい」
「あぅ…」
さりげなく元の場所に戻ろうとする菜月の肩を掴んで引き止める。
困ったような、怒ってるような顔を向けられても、譲らない。
「む…平気なのに、もう」
「どこが。フラフラしてるじゃん」
口を窄めてちょっぴり拗ねた顔。コロコロと変わる菜月の表情が面白くて、見ていて飽きない。
彼女はようやく元の場所に戻ることを諦めたのか、抵抗をやめて大人しくなった。
けれどすぐ横にある手すりを掴もうとはせず、何故か私の腕にしがみついてくる。
不安定な私に掴るより、固定された手すりに掴ったほうが安定するのに。
「……駄目?」
「いいけど、危ないよ?いろんな意味で」
「ううん」
彼女は首を小さく横に振ってから、子供みたいに純粋で曇りのない笑顔を向けてくる。
「千晴ちゃんの傍が、一番安心できるから」
「……………えー」
なんか凄い頼られてる気がするけど、買いかぶりすぎじゃないかな。
普段のどうしようもない駄目人間っぷりを知っているはずなのに、どうしてそこまで信頼してくれるんだろう。私は、厄介事の塊みたいな人間なのに。
驚きを通り越して呆れたというか、だんだん申し訳なくなってきた。
電車が揺れて、私の腕を掴んでいる彼女の手の力が強くなる。
いつもなら落ち着かなくなるほど身体を押し付けられて密着しているというのに、不思議と私の心は穏やかだった。
(……え?)
ふと、自分の胸の内に湧き上がる、感じたことのない奇妙な違和感。
なんだろう?この感覚。
嫌ではないけど、何かがひっかかってなかなか取れなくて、もどかしい感じ。
あれ、でもこれ……確か前にも―――――
「千晴ちゃん?」
彼女の姿が“誰か”と重なって、次第に鼓動が早くなる。
『……ちゃん?』
彼女の声が“誰か”の声と重なる。
それが誰なのか解らないけれど、私はその“誰か”を知っている気がする。
その姿と声は、ずっと求めていたようで、でもずっと遠ざけていたかった。忘れていたかった。
それは、どうしてだろう?
―――だって、もう――
「………ッ」
わからない。
全然わからないけれど、息が苦しい。
頭の中がぐちゃぐちゃで、滅茶苦茶だ。
色々な感情が混ざって、溢れそうで、吐き気がする。気持ち悪い。
まるで、これ以上余計なことを思い出すなと警告するかのように、身体が震えだす。
「千晴ちゃん、どうしたの?」
「!?」
柚葉の不安げな声が耳に届いて、混乱していた思考が冷静さを取り戻す。
途端、今感じていたものが嘘だったように消えてしまい、身体の震えも治まった。
「千晴さん?無理そうなら途中の駅で降り――」
「だ、大丈夫!ちょっと電車の揺れに酔っただけだから平気」
「強がらなくてもいいわよ天吹。電車が怖いのなら怖いとはっきり言いなさい」
「こ、怖くないっての!」
心配そうに気を使ってくれる柚葉たちと、いつも通り突っかかってくる平のおかげで気分が随分と軽くなった。
けど……頭の隅にはさっきの感覚が残って消えない。
(なにか、思い出しかけてた)
少しだけ見えた、昔の残像。
何を思い出しかけていたのか解らないけれど、多分今のは私が忘れている過去のひとつだろう。
結局まだ何も思い出していないというのに、ほんのちょっと昔の片鱗に触れただけでこのザマだなんて。
思い出す覚悟はしていたはずなのにこんなことで弱音を吐いてて、私は昔のことをちゃんと思い出せるのだろうか。
これからきっと今みたいに些細なことで過去のことを思い出していくかもしれない。
もしかしたら、ここのところ昔の夢ばかりを見ているのは、忘れていた記憶を思い出し始めてるってことなのかな。
(自分で望んだことだけど)
忘れていた全てを思い出せたその時、私は……“重み”に耐えることが出来るのだろうか。
「千晴」
「な、なに?」
美空に肩を叩かれたので考えていたことを中断させる。
慌てて後ろを振り向くと、いつものように楽しそうな表情をした彼女の顔があった。
「植物園に行く前に喫茶店にでも寄って休憩しない?私、あの町にある人気の洋菓子店に一度行ってみたかったのよね」
「いいですね。私も甘いものが食べたかったので是非行ってみたいです」
「甘いものと聞いて小腹が空いてきたわね。焼きプリンが食べたい気分だわ」
「私はオムレットが食べたいな。ね、千晴ちゃんは食べたいものある?」
「んっ、と……そだね、エクレア食べたい。あとマカロンとシュークリームと――」
「ちょ…アンタ欲張りすぎよ」
「ふふ、甘いものは別腹っていいますからね」
さすがは女の子の集まり、あっという間に甘い食べ物の話で盛り上がる。
もちろん私も甘いものは好きだし、話をしていて楽しい。
「楽しみだね、千晴ちゃん」
「あ……うん」
いつも通りの菜月の柔らかな笑顔を見て、不意にドキリとしてしまう。
何度も見たことのある表情なのに何故か今は新鮮な感じがしたのだ。
気のせいか……それかまださっきの余韻が残っていて、頭が混乱してるのかもしれない。
(ひとまず、ちゃんと落ち着こう)
気付かれないように深呼吸をひとつ。
過去のことを思い出すのも大切だけど、今のこの時間も、これからのことも、大事だから。
現実から逃避するわけじゃなくて、現在を大切にする為に。
今は、今を楽しまないと意味がないのだから。
「前から不思議に思ってたんだけど、千晴って上原ちゃんには特に優しいのよね」
「は?」
いきなり何を言い出すんだろう、美空は。いつものことだけど。
「それは多分、菜月が優しいからだよ。優しい人にはそれなりに優しくしてるよ」
「へぇ…それじゃあ天吹が私に優しくないのは、私が優しくないからってこと?」
「え?これでも優しくしてるつもりですけど?」
「どこがよっ!!」
普段意識してるわけじゃないから、そんなこと言われても困る。
それに菜月のことだって特別扱いしてるわけじゃない。自分では普通に接しているつもりだったんだけど。
「上原ちゃんは上原ちゃんで、毎回あんなことされてるのにどうして千晴に話しかけるのか、ずっと疑問だったのよね」
「そ、それは……あはは、はは」
答えに窮したのか、困ったように苦笑いをする菜月。
それは私もずっと気になっていたことだけど、彼女は理由を話す気はないみたいだった。
「1年の時からずっとめげずに話しかけていたから、千晴にセクハラされるのが嬉しいのかと思ってたわ」
「違うよっ!?い、嫌じゃないけど、嬉しいわけでも…ない…よ?」
「あ。私はむしろ嬉しいですからね、千晴さん」
「張り合わなくていいからね、柚葉さん」
素敵な笑顔でとんでもないことを言われた気がする。
なんだか、無性に泣きたくなった。呆れて。
「でも菜月って1年の時は天吹と違うクラスじゃなかった?」
「うん。でも、千晴ちゃんとは同じ委員会だったから」
ああそうだ。菜月と初めて会ったのは委員会の集まりの時で、確か隣の席にちょうど彼女が座っていたんだった。
出会った時の事なんてよく覚えていないけど、私にしてはごくごく普通の出会い方で、彼女に気に入られる特別な出来事なんかも特になかった気がする。
委員会で顔を合わせるたびに菜月が一方的に話しかけてきて、それなりに会話をする仲になったんだっけ。
「まあ、上原ちゃんは分け隔てなく誰にでも優しいものね。懐が深いというか、胸が大きいというか」
「最後のは関係ないでしょ」
さりげない美空のセクハラ発言に、私と平の目が冷たくなった。
「………私は、ただ――」
菜月が何かを言いかけて、口を噤む。
再び口を開いたその時、ちょうど到着のアナウンスが流れたので、結局続きを聞き取ることができなかった。
電車の速度が次第に落ちていき、ゆっくりと駅のホームに止まる。
「美空さん、降りるのはこの駅ですよね?」
「あ、そうそう。みんな、ここで降りるわよー」
「……ふぅ、やっと開放される」
「行っとくけど帰りも乗るわよ?」
「あーあー聞こえない聞こえない」
しばらく待つとドアが開いたので、誰よりも早く電車から降りる。
降りた駅のホームも人が多かったけれど、人が沢山詰まった密室の電車より断然マシだ。
「千晴、改札はこっちよ」
「はーい」
この駅に降りたのは初めてだったのでキョロキョロしていたら、いつの間にか先に行ってる美空に呼ばれた。
慌てて駆け寄って、改札を抜ける。
「さてと、それじゃあ行きましょうか」
まずは小腹を満たすため、電車の中で美空が話していた洋菓子のお店に向うことにした。
これから味わうスイーツと、その後行く植物園のことを考えると柄にもなく胸が弾む。
みんなと出掛けるなんて最初はどうなるかと不安だったけど、今はこういうのも悪くないって思う。
……そう思えることが、嬉しい。
「うぅ、寒い寒い。もうすっかり冬よねー」
「そうだね。もうちょっと厚着してくれば良かったかな」
冷たい風から身を守るように背を丸め、みんなと雑談しながら見慣れぬ道を歩いていく。
気になることもあるけれど、急いても解決するとは限らないから。
今は何も考えず、ただ、前だけを見ていることにした。
*
*
*
(良かった)
私の瞳に映っているのは、穏やかで楽しそうな表情を浮かべた彼女の顔。
さっきまで辛そうな表情をしていたから、元気になって本当に良かったと思う。
やっぱり彼女の楽しそうな顔や嬉しそうな顔を見ていたいから。
……本当はこうして彼女の隣に並ぶことは許されないこと。
でも、我慢できないで、こうして傍に居る。
私の身勝手な欲望のせいで、この先いつかきっと彼女を苦しめてしまう日が来ると知りつつも。
彼女のことを想うのならば、近寄らなければ良かったのだ。
友人になりたいなど、願ってはいけなかった。
(それでも)
我慢できなかった。
罪悪感が心を締めつけていても、衝動を押さえることはできず。
1年の時、委員会の集まりで彼女を見つけたときにはもう、勝手に口が動いていた。
彼女と話すたびに欲は増し、友達になりたいと告げていた。
―――初めて会った、あの日。
ううん、“初めて会ったと彼女が思っている”、あの日。
あの時、私がどんな想いを抱えて話しかけたのか、彼女は知らない。
あの時、様々な想いが溢れて私の身体が震えていたことを、彼女は知らない。
知られてはいけない。
知って欲しいなんて、思ってはいけない。
(私…結局、自分のことばかり)
ごめんね、と声に出さずに呟く。
心の内での謝罪なんて、意味を成さない。
だからといって、声にして伝えることも出来ない。
泣き虫で守られてばかりだった昔と変わらず、弱いままだから。自分が傷つくことばかり恐れてる。
もう後悔なんてしたくなくて、強くなろうと決めたはずなのに。
今度は守られるのではなく、守ることのできる自分で在ろうと、そう、思っていたのに―――
「どうしたの菜月、さっきから黙って」
「っ!? あっ、な、なんでもないよ千晴ちゃん」
「ほんとどうしたのよ神妙な顔して。まさか天吹、菜月が大人しくて何も言わないことをいい事に電車の中でいかがわしい行為をしたんじゃ…」
「しないっての!大体そんなこと考え付く平のほうがいかがわしいわ」
「はぁああああ!?」
些細なことで2人はまた言い争いを始めてしまい、見かねた美空ちゃんと柚葉ちゃんが苦笑して仲裁に入っていく。
なんだかんだで、千晴ちゃんと裕子ちゃんは仲がいい。自然体で言い合える関係が羨ましくて、妬けてしまう。
けれどそれは、私が望んではいけないこと。
彼女の傍に居ると決めたのなら、せめて最低限のラインだけは超えてはいけない。
時折胸が痛むけれど、そんなのどうでもよくなるくらい、今が楽しかった。
単に目を逸らしてるだけかもしれないけど、せめてもうちょっとだけ、今のままでいたい。
……いつか『その時』が来て、彼女が私を許してくれなくてもいいから。
「ほら千晴、いい加減にしなさい。平ちゃんも落ち着いて」
「うぅーっ!」
「ふんっ!」
顔をしかめて睨みあっていた2人は、美空ちゃんに窘められてお互いに顔を背けた。
うん……なんだか親に怒られた子供のように見えて微笑ましい。でもこんな表情、ちょっと前の千晴ちゃんはしなかったのにな。
「……っ」
遠くからみんなのやり取りを見ていただけの私は、拗ねた顔をした千晴ちゃんの傍に寄る。
すると彼女は照れ臭そうに頬をかいて、困ったように小さく笑ってくれた。
次第に増していく胸の痛みと欲を心の奥へ押し込んで、私も笑みを返す。
あまりにも懐かしくて、泣いてしまいそうになるのを誤魔化すように。
矛盾した気持ちを抱えたまま、笑うことしかできなかった。