これは、はじまり
バスの窓から見える景色は、青い空と連なる山と広大な畑と、ときどき民家。
大して面白い物ではないけれど、目的地に着くまで暇なので流れる風景をただぼんやりと眺めていた。
整備されていない荒れた道を走っているので、ガタガタと車体が揺れたり大きく跳ねたりする。
いつものことなので今ではすっかり慣れてしまったが、越してきたばかりの頃は酔って気分が悪くなり大変だった。
(……この町にきて、もうすぐ5年だっけ)
私こと天吹千晴は、中学の時に祖母に引き取られてこの小さな町に引っ越してきた。
人口は少なく交通も不便で何もないところだけど、何となく私はこの町を気に入っている。
それは多分、のんびりした町の空気が自分に合っているからではないかと思う。
私が望んでいるのは刺激的で賑やかな毎日ではなく、至って平凡で緩やかな日々だったから。
不満があるとすれば、家から学校までの距離だろう。
家からバス停まで歩いて20分、バスに乗って20分、降りた所からさらに20分歩かなくてはいけない。
通学に1時間掛かるのは結構辛いし、田舎だからバスの本数も少なく乗り遅れれば大遅刻なんて事もある。
一度帰りの最終バスに乗り遅れてしまい、2時間かけて歩いて帰ったこともあった。
原付の免許が欲しいところだけど、うちの学校は卒業するまで免許取得を許可していない。田舎なのに酷い規則である。
他にも不満がないわけではないが、それはこの町のせいではなく自分に問題があるので文句を言っても仕方がないことだ。
…その自分の“問題”さえなければ、もっと今の日常を好きになれていたかもしれない。
『阿形浬ターミナル~、阿形浬ターミナル~』
いつものバス停に着いたので座席から立ち上がり、定期を運転手に見せてからバスを降りる。
まだまだ昼間は暑いけれど、夏はすでに終わりを告げいるので早朝は少しだけ肌寒い。
それでも外の空気は澄んでいてとても気持ちが良く、清々しい気持ちになる。これも田舎の醍醐味の1つと言えるだろう。
私は大きく深呼吸をしてから気を引き締めて、学校に向かって歩き出す。
前方には同じ制服を来た学生や仕事に向かうリーマンたちがちらほらと歩いていた。
バスの時間に合わせて早い時間に登校しているけれど、意外と人通りは多い。
この辺りは駅が近いのもあり、建物も比較的たくさん建っている。
ここからもっと先に進んだところにはこの町で一番賑わっている商店街があり、そこに行けば必要なものは全て揃うので便利だ。
そちらには行かず、反対の道に向かうと私の通っている高校がある。
だから私は商店街に続く道に背を向けて、学校へ続く道に足を向けた。
(……ん?)
いつものように通学路を歩いていると、道の真ん中で通行人に一生懸命話しかけている女の人がいた。
何か用紙とペンを持って道行く人に声を掛けているが、邪険にされて構って貰えないようだ。
きっと何かのアンケートだろうけど、協力するのも面倒なので目を合わせないようにして通り過ぎることにする。
「アンケートにご協力お願いします~」
なるべく近くに寄らないよう歩いていたけど、運悪く補足されてしまい向こうから寄って来た。
心の中で舌打ちしつつそのまま無視してやり過ごそうとしたが、アンケートぐらい答えてもいいかな、とつい考えてしまったせいで足が止まる。
私が足を止めたので、すかさず女の人は嬉しそうに紙とペンを差し出した。
これはもう逃げられそうにないなぁ。
「今、お時間ありますか?良かったらアンケートにご協力お願いします」
「はあ」
女の人はにっこりと笑っているけど、目が『絶対逃がさない』と言わんばかりに恐かった。
幸い時間はあるし、粗品も貰えるみたいだから別に逃げるつもりはない。あまり関わりたくないけど。
バイトかなんかでノルマがあるのか知らないけど、あまりにも必死に見えて少し可愛そうに思えてくる。
人の少ないこんな田舎のアンケート調査は大変なのかもしれない。
「こちらにご記入をお願いします」
「わかりました……あっ」
アンケート用紙を受け取ろうとした瞬間、突然強い風が吹いたので受け取り損ねてしまい、紙は空高く舞い上がってしまった。
ひらひらと落ちてくる紙を受け取ろうと、上を向いて方向を確認しながら追いかける。
…が、足元を見ずに動いた為うっかり何かに躓いてしまい、バランスを大きく崩してしまう。
「げっ」
「きゃっ!」
(やば、こける――)
なんて冷静に思いながらそのまま転びそうになったが、何か身体を支えるモノがないかと無意識に探っていた両手が、“何か”を掴む。
これ幸いとその“何か”を両手でしっかり掴み、うまく態勢を立て直すことが出来たので、何とか転ばずにすんだ。……ああ、危なかったー。
安堵の息を吐いて顔を上げると、何故か真っ赤にして震えているさっきの女の人が至近距離にいた。
いつの間にこんな近くにいたのだろうと不思議に思ってから、ようやく自分が両手で掴んでいるモノに視線を向ける。
転びそうになって必死に掴んでいたのは、女性特有の2つのふくらみ。
直球に言ってしまえば、おっぱ……胸である。
「……………えーっと」
よせばいいのに、ふにふにと手を動かして柔らかい感触を確かめてしまう。
これはそう、わざとではなくて条件反射というやつだ。だから、どうしようもないことなのだ。
そして悲しいことに、ある意味『経験豊富』な私は、この人の胸のサイズを手のひらの感触ですぐに把握してしまう。
……この人はDカップのようで……羨ましいことになかなかのサイズである。
(……はっ!?)
アホなことを考えていると、女の人は段々小刻みに震えだして、涙目になっていった。
今までの経験から、次に彼女がとるであろう行動を簡単に予測できてしまう。知りたくもないのに。
余計なことをしないですぐ逃げていれば、こんなことにはならなかっただろう。
いまさら後悔してもこの最悪の状況を変えられるわけじゃないんだけど、そう思わずにはいられない。
今の私に出来るのは、無駄な抵抗をせずこの後やってくるであろう被害者の報復を、甘んじて受け入れるだけだ。
「………」
ぐっと目を閉じて覚悟を決めた。
私の心は穏やかで、とても落ち着いている―――そう、こんな状況には、慣れているから。
いつでもどうぞ、と心の中で呟いた瞬間………朝の清々しい空気を裂くような音が、周囲に響いた。
*
教室に入った途端、クラスメイト達が一斉に私の方を見る。
別に珍しいことでもないので、いちいち気にしない。
不躾な視線を無視してまっすぐ自分の席に向かい、何食わぬ顔で席に着く。
鞄から教科書を取り出していると、一人のクラスメイトが堂々と私の席に近づいてきた。
彼女の名前は「円堂美空」。私の数少ない友人の一人である。
「おはよう千晴。今日は遅かったじゃない………ってどうしたのその頬」
「……目立つ?」
私の顔…正確には私の右頬を見て、彼女は驚きの声を上げた。
鏡を見て確認する暇がなかったので、自分の頬が今どんな状態になっているのか解からない。
「それはもうくっきりはっきり手形がついてるわよ。相当強く叩かれたのね」
「んー、そうみたい」
「叩かれた理由は大体わかるけど」
「お察しのとおりだよ」
私が溜息を吐くと、美空は困ったように笑った。
「今日も絶好調じゃない、貴女のセクハラ体質」
「セクハラ体質って……あのねぇ」
体質というよりも、性質の悪い呪いみたいなモノかもしれない。
私は昔から自分の意思とは無関係に他人(特に女性)にセクハラ紛いの変態的行為をしてしまう。
解かりやすく例えるのなら、漫画やゲームの男主人公によくあるラッキースケベというやつだ。
うっかり転んで通りすがりの女子のスカートを下ろしたり、胸に顔を埋めたり揉んだり、押し倒したりなんて日常茶飯事。
男ならラッキーなのかもしれないけど、女の私にはラッキーどころではなく迷惑な話だ。
ラッキースケベというよりは、アンラッキースケベと言ったほうがいいかもしれない。
この妙な体質のせいで恐がられ友人は片手で数えるほどしかおらず、周囲からは軽蔑の視線を向けられている。
わざとやってるわけではないのに、偶然とは思えないほど頻繁にやってしまう為、みんなに信じて貰えない。
例え同性同士だとしても、何回もやっていれば冗談を通り越して気持ち悪いと思われるだろう。
そんなわけで私は変態だとか痴女だとかの不名誉な称号をつけられ、一部で有名な人間になってしまった。
穏やかな普通の日々を望んでいるのに、この体質のおかげで頻繁に騒ぎに巻き込まれてしまう。
「ふふ、貴女と出会った頃は大変だったわ」
美空とは中学に入学したばかりの時に初めて出会い、それ以来の長い付き合いだった。
出会ったばかりの頃は頻繁に私のセクハラ被害に会っていたけど、段々と慣れてきたのか
今では私の悪癖を自然と回避することが出来るようになった稀な人物だ。
「初対面でいきなりスカート脱がされたのよね。懐かしいわ」
「…その節は、誠に申し訳なく」
「気にしないで。今ではいい思い出だもの」
「いい思い出って……」
昔のことを思い出しているのか、彼女はおかしそうに笑っていた。
あの時の私が美空にしてしまったことは下手したら一生トラウマになってしまいそうな酷い行為だったにも関わらず、気にしない素振りで今もこうして友人でいてくれる。
もちろん故意にやったことじゃないけれど、普通は信じて貰えないことだったのに。
それなのに彼女は信じてくれた。笑って許してくれた。おかしな癖を持ってる私に、平然と接してくれた。
私も相当変な奴だと自負しているけど、彼女もかなり変な女の子だと思う。
私と美空が話していると、周囲からヒソヒソと私のことを言ってるであろう声が聞こえてくた。
「天吹さんの頬、手形ついてる…」
「きっとまたやったのよ…ほんと節操ない人よね」
「そのうち訴えられるんじゃない?」
声を潜めて聞こえないように話しているつもりなんだろうけど、しっかりこちらまで聞こえてきている。
うんざりするけど、私がやってしまったことは事実なのだから否定のしようがないし、故意じゃないと言っても前科が多すぎて信じて貰えないだろう。
好きに噂してくれて構わないけど、面倒なことだけは避けたい。面倒なことは嫌いなのだ。
美空にも聞こえたのか、声のする方を一瞥してから含み笑いを浮かべる。
「気になるのなら、黙らせましょうか?」
「いい。別にいつものことだし、どうでもいいし」
「あら残念」
にこにこといい笑顔を浮かべて残念がる美空。
黙らせるって一体何をするつもりだったんだろう。見惚れるような顔で笑ってるのに、その笑顔が凄く恐い。
まあ、彼女なりに気遣ってくれてるんだろうから、その気持ちは有難く受け取っておく。
「それより宿題見せてよ、数学と古文のやつ」
「駄目よ。自分でやらないと身につかないでしょう?」
「やっても解からないし時間もないし、お願いします美空さま」
古文は午後からだけど、数学は2時間目だから今から解いてる時間はない。
私が手を合わせて頭を下げると、彼女は渋りながらも一度自分の机に戻ってノートを持ってきた。
「数学は見せてあげるけど、古文は自分でやりなさい。解からない所は教えてあげるから」
「ありがとう!」
呆れている美空から数学のノートを借りる。
いやはや助かった。持つべきものは頭のいい友人だ。
「お礼はデザート三日分でいいわよ」
「……お礼?」
「誰もタダで見せてあげるなんて言ってないわよ?それなりの対価を支払って貰わないとね」
「美空のケチ」
「嫌ならそのノート返しなさい」
「ぐぬぬ……わ、わかったよ。お礼はちゃんとするからノートは借りる」
「ふふ、良い判断ね」
悔しがる私を見て、美空は満足そうに笑った。
彼女は人の良さそうな顔をしているが、実は一筋縄ではいかない小悪魔的な性格なのである。
それでも普段は面倒見が良く姉御肌で頼れる女性なので、周囲の評判は良い。
顔だって綺麗だしスタイルもいいから、男子からそれなりにモテているし、本人もそれを解かってるからフルに活用している。
……今はフリーみたいだけど、彼女と付き合う人は何かと振り回されて大変そうだなぁ。
「何か失礼なこと考えてる?」
「べ、べっつにー」
「顔に書いてあるわよ~」
目を逸らすと、人差し指で何度も頬をぷにぷにと突かれた。
楽しそうで何よりである。
「あら、先生来たみたい。それじゃあまた後でね」
「はいよ」
自分の席に戻っていった美空を見送って、数学のノートを開いた。
これから2時間目までに答えを写す作業を終わらせなければならない。
懸命に答えを写していると、気がつけば担任が教壇に立って点呼をとり始めていた。
まだ私の名前を呼んでいないみたいで、ホッとする。
「天吹~」
「はい」
「………どうしたんだその頬」
「蚊が止まってたみたいで、親切な人に叩かれました」
「そうか、お前も大変だなぁ」
「……………」
しみじみと話しかける担任の頬は、なぜか私と同じように手形がついており、真っ赤になっていた。
担任には同棲している可愛い恋人がいるらしいのだが、その恋人が嫉妬深くてよく喧嘩してるらしい。
多分、今日も喧嘩してその恋人にビンタされたんだろう。可哀想に。
理由は違えど、同じ境遇の担任に同情してしまう。
私たちはお互い顔を見合わせ、同時に深い溜息を吐いた。
「ん…」
チャイムの音で目が覚めた。
まだ眠気が取れないので、顔を伏せたままぼーっとする。
午後の授業が始まってからその後の記憶が一切ないんだけど、いつの間に居眠りしてしまったんだろうか。
耳を澄ましてみると、教室には誰もいないのか物音ひとつ聞こえない。
「………」
何か、夢を見ていた気がする。
けれど何も思い出せないので、どうでもいい事なのかもしれない。
それに夢というものは覚えていることの方が少ないんだし、気にするだけ無駄だろう。
「あの、天吹さん」
「え」
名前を呼ばれたので伏せていた顔を上げると、目の前に大きな胸が視界いっぱいに広がっていた。
(……胸がしゃべった……?)
っていやいや何を考えてるんだ、そんなん普通にありえないし。
それにこの無駄にデカい胸の持ち主には心当たりがある。
「上原さん?」
「あ、起きてくれた」
さらに顔を上げて相手の顔を見ると、ふわりと柔らかい笑みを浮かべているのは、予想どうり上原さんだった。
彼女の名前は『上原菜月』。このクラスで一番のスタイルを持つ女の子である。
スタイルだけじゃなく他人想いの優しい性格や穏やかな雰囲気を持っているので、男女関係なく人気のあるふわふわした可愛い女の子だ。
誰にでも平等に接する彼女だからこそ、嫌われ者の私にも普通に接してくれている。
そして不用意に近づくから頻繁に私のセクハラの餌食になっている可哀想な被害者でもある。
「もう下校時間だよ」
「ああ、うん。……あれ、美空は?」
彼女の机を見ると、鞄がまだ残っているので先に帰ってはいないようだ。
「円堂さんなら職員室に行ってるよ。すぐ戻ってくるって言ってた」
「ふぅん」
それっきり会話が途切れる。
普通に会話できる相手だけど、特別仲が良いという訳でもないから何を話せばいいのかわからない。
彼女の周りにはいつも人が溢れていているし、話す機会なんて、朝と帰りの挨拶ぐらいしかなかった。
私は私で、色々面倒だから極力話しかけないようにしている。彼女は美空とは違って私のアレを回避することが出来ないし。
少し気まずいけど、美空が戻ってくるまでこのまま待ってるしかない。
私が黙っていると上原さんは何故かもじもじと不自然に身体を動かしてチラチラとこちらを見ている。
何か言いたいことでもあるのだろうか…凄く気になる。
「あ、天吹さんって、中学の時にこっちに引っ越してきたんだよね」
「うん」
「前はどんなところに住んでたの?」
「…べつに普通のところ」
「ふ、普通…」
「うん」
「そ、そっかぁ」
再び静まり返る教室、気まずい空気。
上原さんは気を使って話しかけてくれてるんだろうけど、私は口下手なのでうまく話を盛り上げることが出来ない。
とにかく早く帰ってきて美空さーん。
「あ…今更だけどなんで上原さん残ってるの?帰らないの?」
「えっ、う、ううん!私、最後に教室を閉める係だからっ」
そんな係があったんだ、知らなかった。鍵をするのは担任か校務員のじいさんだとばかり。
って、あれ?ということは彼女が帰れないのは私のせいってことじゃないの?
……それならそうと、早く言ってくれれば良かったのに。
「ごめん、すぐ教室出るから」
自分の鞄を掴んで立ち上がり、ついでに美空の鞄も取ってくる。
私が教室に残っていたら上原さんは鍵を閉めれないし、帰れない。
べつに教室の中じゃなくても、外で美空を待ってればいいのだから。
「あ、違うの!そんなつもりで言ったんじゃなくて、それに私が好きで残ってたんだから……」
「いいよいいよ、気にしないで。閉めるの待っててくれてありがとう」
これ以上彼女に迷惑をかけないように、さっさと教室を出ようと背を向ける。
「待っ……!」
上原さんの短い声と“ガツンッ”という小さな物音。
凄く嫌な予感がした。
そしてその予感は毎回かなりの高確率で的中してしまうのだ。
たとえ嫌な予感がしたとしても、私の身体は条件反射で後ろを振り返ってしまう。
後悔しつつも振り返って見たものは、今にも私の方に向かって倒れこんでくる上原さんだった。
驚きと困惑で避ける余裕なんてあるはずもなく
「おうっ!?」
「きゃあぁああ!」
がしゃーん
受け止めようと頑張ってみたけれど、小柄とはいえ勢いがついていた彼女を非力な自分の力ではしっかり支えることが出来なかった。
周りにあった机や椅子を吹き飛ばして、私は上原さんの下敷きになってしまう。
そして、非常に息苦しい。何故かと問われれば、彼女が私に覆いかぶさっているから。
もっと正確に言うのなら、彼女の豊満なバストが私の顔面に押し付けられているからだ。
うまく呼吸が出来ないので息が苦しい。
顔に満遍なく押し付けられている柔らかい感触が恥ずかしい。
そろそろ色々な意味で限界なので、なんとか彼女から逃れようと身動ぎする。
「ぅんっ…!」
「……………」
彼女の口から甘い声が漏れたので慌てて動きを止めた。下手に動くと、とんでもないことになりそうな気がする。
うう、やましいことをしたわけじゃないのに凄く後ろめたい……。
お、落ち着け、私。こんな状況はいつものことじゃないか。
とにかく早くどいてもらおうと、空いている片手で彼女の背中をバシバシと強めに叩く。
「わっ!ごごごごごめんなさいっ!」
するとようやく彼女は下にいる私に気づいてくれたようで、慌てて退こうとする。
しかしうまく起き上がれないのか、なかなか退いてくれない。
そんな時――
「千晴起きてるー?」
タイミング悪く、美空が教室のドアを開けて入ってきた。
動けないので視線だけを入り口の方に向けると、にこにこしていた美空の顔が次第に強張っていく。
彼女の目に映っているのは、きっと絡み合っている怪しい私たちの姿。
「……ええと、お邪魔しましたぁ」
照れ笑いを浮かべて、美空はドアに手をかけて去ろうとする。
あんにゃろう、逃げる気だ。
声を出そうにも、柔らかい物体が押し付けられているので下手に口を動かせない。
「ままま待ってください円堂さぁん!!」
「ふふ、冗談よ。また千晴の“アレ”なんでしょう?」
「………」
くすくすと笑いながら美空はこっちに近づいてきて上原さんの手を取り、引っ張って起こしてあげた。
私の厄介な体質を理解してくれてる美空だったから良かったものの、他の人間だったらまたよからぬ噂が流れてたかもしれない。
「はぁ…っ」
ようやく開放された私は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
息を整えてから身体を起こして立ち上がる。……うん、どこも怪我してないみたい。
「上原さんは、怪我はない?」
「う、うん。天吹さんのおかげで全然痛くなかったし…。でも、その、ごめんなさい、私のせいで」
申し訳なさそうに頭を下げられた。
顔を真っ赤にして泣きそうになっている彼女を責める訳にもいかない。
それに生真面目な彼女のことだから必要以上に責任を感じているのかもしれないし。
「これぐらいどうってことない。それに、いつも私の方が迷惑かけてるから」
主に性的なご迷惑を。
私の言ったことを理解して、今時珍しいぐらいに純粋な彼女はさらに顔を赤らめて恥ずかしそうに俯く。
しまった。余計なことを言ってしまった。
なんだか微妙な空気になってしまい、お互い口を閉じてしまう。
気まずくなってしまったこの空気を変えてくれたのは、やけに楽しそうな美空だった。
「ほらほら、倒しちゃった机と椅子を元に戻さないと。先生が来たら厄介だわ」
「う、うん!」
「はーい」
私たちは皆で協力して机と椅子を起こし、元通りに並べていく。
片付けが終わってから教室を出て、校門で帰り道が別方向の2人と別れた。
そして……バス停に向かって歩き出した時に、最後のバスの時間を過ぎていることに気がついて泣きたくなった。
*
黙々と歩いているうちにいつの間にか陽も沈んでしまって、辺りはすっかり暗くなってる。
明かりのついている家が少ないので、ぽつぽつと設置されている街灯を頼りに歩くしかない。
バスを逃してしまった私はひたすら歩いて帰るしかなく、家にたどり着いたのはいつもより1時間も遅い時間だった。
厳つい字で『松璃』と書かれた表札がかかっているこの素朴な家が、私の住んでいるところだ。
「ただいまー」
(……あれ?)
ガラガラと玄関を開けると、見慣れない靴が一足並んでいる。
誰かお客さんが来ているのだろうか?
靴を見る限り若い人のものみたいだけど。
靴を脱いで上がろうとしている時に、奥の部屋から見知らぬ誰かが出迎えてくれた。
きっとこの人が見慣れない靴の所有者なんだろう。
「おかえりなさい」
「え、あ、ただいま」
自然に挨拶をされたので、こちらも自然と挨拶を返してしまう。
驚いている私とは対照的に彼女は落ち着いていて、柔らかい笑顔を浮かべている。
その笑顔は女の私から見てもとても魅力的なもので、男だったらこの時点で惚れているかもしれない。
それに日本人離れした整った顔、モデルのように出るトコ出て引き締まった体躯…そして何よりサラサラと流れるような綺麗な金髪が印象的だった。
年は私と同年代くらいかと思うけれど、落ち着き払った感じや顔立ちが大人っぽいので、もしかしたら年上なのかもしれない。
綺麗な金髪は染めたようには見えないし瞳も青いので、外国の人なんだろうか。
いや、でもさっき流暢な日本語で挨拶されたような…。
「おや千晴、帰ったのかい」
金髪美少女の後ろから見知った老婆が姿を現す。
この人は『松璃 久野』。両親のいない私を引き取ってくれた、この世で唯一血の繋がりのある家族で、祖母である。
「ただいま、ばあちゃん」
「今日は随分遅かったねぇ。まーたどこかで女の子と宜しくヤってるんじゃないかと思ってたとこさ」
「ヤってないっ!バスに乗り遅れて歩いて帰ってきたから遅くなったの!」
「おやおや、間抜けだねぇ」
「ぐぬぬぅ……」
「まあまあ」
金髪の美少女が熱くなった私を宥めてくれる。
知らない人に気を使わせてしまったので、すぐに冷静になり怒りが収まった。
「それより、この人誰?ばあちゃんの知り合い?」
視線を金髪美少女に向けると、彼女はにっこりと笑みを深める。
「ああ、その子は私の知り合いの娘さんでね。『大須賀 柚葉』と言うんだ」
ばあちゃんに紹介されると、彼女は丁寧に頭を下げた。
雰囲気から仕草の一つ一つまで上品で、どこかのお嬢様なんじゃないかと思ってしまう。実際そうなのかもしれない。
「初めまして。大須賀 柚葉と申します」
「……天吹千晴です」
なんとなく照れくさくて、ぶっきらぼうに自己紹介をする。
だって目の前の美少女が無防備な笑顔で私のこと見てるんだもんよ。
初対面の相手にこんな眩しい笑顔を向けられるのは初めてだ。
「くく、何照れてんだい」
「なっ!て、照れてないっつーの!」
「千晴さん、これから宜しくお願いしますね」
「え!? あ、うん、よ、宜しくね」
いきなり両手で手をぎゅっと握られたので、驚いた。
きっと彼女は私のことを知らないから、こんなことができるんだろう。
私のことを知っているのなら絶対近づかないだろうし、ましてやこんなに強く手なんて握らないから。
それにしても、同年代の子に手を握られるのは久しぶりかもしれない。いや、どうでもいいんだけど。
「ばあちゃんの知り合いの子ってのは解かったけど、なんでウチにいるわけ?」
「おや言ってなかったかい?今日からこの子は私達と一緒にこの家で暮らすのさ」
今、しれっと大事なことを言ったよ、このばあちゃん。
一緒に暮らすって……………………… え?
「なっ、そんなん一言も聞いてないっ!!」
「そうだったかねぇ…この年になると物忘れが酷くて酷くて。嫌だねぇ年をとるのは」
「誤魔化すな!何勝手に居候増やしてんのさ!!」
この家は元々ばあちゃんの家で、私も居候の一人にすぎないのだから文句を言う権利はない。
でも、私のセクハラ体質を知ってるのに居候(しかも女の子)を増やすなんて何を考えてるんだろうか。
ただでさえ外で散々面倒なことばかりなのに、家でも気を張っていないといけないなんて、まっぴらごめんだ。
「何が気に入らないんだい?こんな美人そうそういないよ?」
「見た目じゃないっ!その、私の体質のこと知ってるでしょ!?」
「あぁ知ってるさ。でも彼女は大丈夫だから気にすることはないよ」
「え」
彼女の方を見ると、変わらず笑みを浮かべている。
大丈夫ってどういうこと?
「はい、大丈夫です。千晴さんのことは聞いていますし……私は平気ですから」
平気ってどういう意味!?
ばあちゃんはニヤニヤと意地の悪い顔をして、彼女―――大須賀柚葉さんの肩に手を乗せた。
そして思わず耳を疑ってしまうような、非現実的な言葉を私に告げる。
「なんせ彼女はアンタの婚約者だからね」
「……………………」
私、疲れてるのかな。
ばあちゃんの言ってることが全然理解できない。
「だからアンタが柚葉を押し倒そうが何しようが問題ないってことさ。はい、解決」
「ちょっと待て。解決してない。何もかもが解決してないし、根本的におかしいんですけど」
「いちいち細かい子だねぇ」
「細かくないっ!婚約者って何!?私、そんなん全然知らないし、第一、女同士じゃん!!」
そもそも女同士だから結婚できないし、婚約もできないはずだ。
だから女の私に女の婚約者がいるなんて話は絶対におかしい。無理がありすぎる。
「だからなんだってんだい。そりゃ法律上結婚はできないけど、愛があれば形だけでも結婚は出来るさ。
まー、ひ孫が見れないのはちょっと残念だけどねぇ」
「おばあ様、海外には同姓で結婚できる国もありますよ」
「お、そりゃいいね。どうしても結婚したけりゃその手もありだ」
「はいはいストップストップ!!ちょっと私の話を聞いてくれるかな!?」
痛くなった頭を抑えて、結婚云々で盛り上がっている2人の会話を止める。
「まず、どうして大須賀さんが私の婚約者なの?そんな話聞いたこともないんだけど」
「…うーん、話せば長くなるからねぇ。とにかくまあ、柚葉の親はアンタのこと認めてるから問題はないよ」
「え」
そう言って祖母は一通の手紙を私に差し出したので、受け取って読んでみる。
達筆で尚且つ丁寧に書かれた手紙に目を通す……確かに要約すると『娘を宜しくお願いします』と書いてあるみたいだけど…。
どうなってんの大須賀さんのご両親。あっさり自分の娘を同性のよくわからん婚約者のとこに預けるってどういうこと!?
「お、大須賀さんは、婚約者の件は納得してこの家に来たの?そんなわけないよね?」
「いえ、全て納得した上で、自分の意思で来ました」
「……いや、なんでそうなるの。嫌ならはっきり嫌だって言わないと。結婚とか、冗談で軽々しく言うもんじゃないし」
「嫌じゃないですよ?それに、冗談なんかじゃなく私は本気です」
「は?」
「私は、貴女のこと愛してますから」
頬を染めて、はにかむように爆弾発言を投下する大須賀柚葉さん。
見た目は超美人でお淑やかな言動も素敵だし頬を染めて照れている今の表情も凄く可愛いと思うけれど………頭の中はちょっとオカシイんじゃないだろうか。
生まれて初めて告白されたけど、なんかもうそれどころじゃない。
「千晴さんじゃなければ、断っていました」
「いやいやいやいや私たち初対面ですよねぇ!?」
うろ覚えの過去を振り返ってみても、大須賀さんと出会った記憶はない。
金髪で綺麗な人だから一度会ったら絶対忘れないと思うんだけど、私は物忘れが酷いので断言はできない。
「何言ってんだい。あんたは柚葉と会ってるはずだよ?忘れるなんて薄情な子だね」
「はあっ!?え、いつ、嘘、本当!?」
大須賀さんは困ったような顔をして、小さく笑うだけだった。
……一瞬だけ寂しそうに見えたのはきっと見間違いに違いない。きっと、そうだ。そうに決まってる。
「ま、そのうち思い出すさ。…ほらほら、いつまで玄関にいるんだい。居間でご飯食べるよ」
「ちょっと待って!話はまだ終わってないってば!まだ聞きたいことはたくさん…っ」
「今日は千晴さんの好きなエビフライを商店街で沢山買ってきましたけど……すぐに食べますか?」
「うん食べる」
「はい、すぐに準備しますね」
うぐぐ……。
悔しいけど、今は素直に頷いておく。
話はまだ終わってないけれど、実はさっきから空腹できゅーきゅーとお腹が鳴っていたのだ。
いつもならもうご飯を食べ終わってお風呂に入ってる時間だし、学校から歩いて帰ってきたので余計にお腹が空いて限界だった。
腹が減っては戦は出来ぬというし、まずはお腹をいっぱいに満たしてから話の続きをしよう。うん。
「……はぁ」
晩御飯は嬉しいけれど、これからのことを考えると気が重い。
私たちは3人そろって居間へ歩いていく。
一番後ろを歩いている私は、前の2人に聞こえないようこっそりと嘆息した。