世界で一番美しい人を映す鏡が、悪役令嬢の私から離れてくれません
王立学院の創立祭には、王家の宝物庫からいくつかの魔道具が運び込まれます。
それは、学院に通う若き貴族たちへ、王国の歴史と魔法技術の偉大さを示すための、たいへん格式ばった行事です。
少なくとも、去年まではそうでした。
今年に限って言えば、格式よりも好奇心が勝っていました。なぜなら、王家が展示する魔道具の中に、ひときわ有名な品が含まれていたからです。
女神の鏡。そう呼ばれる古い姿見です。
金細工の縁には、波と百合の意匠が絡み、頂には小さな女神像が飾られています。鏡面は、磨いた銀というよりも、夜明け前の海のように静かでした。覗き込めば、己の姿だけではなく、魂の底まで見透かされると伝えられています。
そして、その鏡には一つの言い伝えがあります。
――世界で一番美しい人を映す。なんとも曖昧で、なんとも人騒がせな魔道具です。
私はその説明を聞いた時点で、できるだけ近づかないでおこうと心に決めていました。
私、ネレイス・ローヴェルは、公爵家の娘です。王太子殿下の婚約者であり、王妃の席に一番近い人間として、学院では一応、模範生ということになっています。
ついでに言えば、周囲からはしばしば美しいと言われます。王太子殿下の婚約者にすり寄ってくる方々もいるため、一概に受け止めてはおりませんが、ありがたいことだとは思っています。けれど、私は美貌というものをあまり信用していません。
姿勢を崩せば、美しさは崩れます。言葉を荒げれば、美しさは濁ります。誰かを見下せば、美しさはたちまち品性の底を見せます。
磨くべきものは顔立ちではなく、振る舞いのほうです。少なくとも、私はそう教えられて育ちました。
だから、世界で一番美しい人を映す鏡など、ろくな騒ぎを呼ばないに決まっています。
私は関わりません。そう決めていましたのに。
「ネレイス様もご覧になりませんか?」
声をかけてきたのは、カシオペア・フェンネル子爵令嬢でした。
薄桃色の髪に、大きな蜜色の瞳。とても愛らしい少女です。入学当初から彼女は学院の話題の中心でした。
子爵家の出身でありながらも光属性を持ち、高い魔力を有する。努力家で、可憐で、誰にでも明るく接する。そう評されています。
けれど私は、彼女の笑顔を見るたびに、少しだけ不思議に思っていました。
カシオペア様はいつも、誰かの瞳の中に自分を探しています。相手が自分をどう見ているか。可愛いと思っているか。特別だと思っているか。庇ってあげたいと思っているか。そこにいる他の誰よりも自分を綺麗だと思っているか。そればかりを、笑顔の奥で確かめているように見えました。
「私は遠慮しておきますわ」
私がそう答えると、カシオペア様は小さく首を傾げました。
「どうしてですか? ネレイス様はお美しいのですから、きっと鏡も認めてくださいますわ」
「美しさに順位をつけるなど、あまり品のよい遊びとは思えませんもの」
「遊びだなんて」
カシオペア様の唇が、ほんの少しだけ尖りました。
「由緒ある魔道具なのでしょう? 女神様が認める美しさなら、それは本物ということではありませんか」
「本物かどうかを鏡に決めていただかなくても、人は生きていけますわ」
そう言った瞬間、カシオペア様の笑顔が固まりました。私は失言したかもしれないと思いました。彼女が何かを言い返す前に、周囲の生徒たちがざわめきます。
女神の鏡の前に、王太子エリオット殿下が立たれたのです。
殿下は金髪碧眼の、王子然とした美しい王子です。
ただし本人は自分の美しさに無自覚ではなく、むしろよくご存じです。人から見られることにも慣れておられます。褒められることにも、羨まれることにも。
だからこそ、殿下は鏡の言い伝えを面白がっていました。
「さて、女神の鏡とやらは、誰を映すのだろうな」
殿下が軽く笑います。取り巻きの令息たちも笑いました。カシオペア様が一歩前へ出ます。その瞳は、期待にきらきらと輝いていました。彼女はおそらく、鏡に映りたかったのだと思います。
世界で一番美しい人。その称号が欲しかったのだと思います。王太子殿下の前で。学院中の貴族たちの前で。自分が特別だと、誰かに証明してほしかったのでしょう。
けれど鏡は、しばらく白く曇ったあと、ゆっくりと一人の姿を映し出しました。
紺色の制服。月光を含んだような銀の髪。冷たいと誤解されがちな灰青色の瞳。
私でした。
「……え」
誰かが声を漏らしました。
私は瞬きをしました。
鏡の中の私は、私より少しだけ静かに見えました。立ち姿はまっすぐで、表情は穏やかです。取り立てて華やかではありません。けれど、確かにそこには私が映っていました。
大広間の空気が、一瞬で変わります。
「やはりネレイス様が……」
「王太子妃にふさわしいお方だ」
「女神の鏡が認めたということか」
やめていただきたいです。私は近づかないでおこうとしていただけです。なのに、なぜ勝手に映されているのでしょう。しかも、よりによってこの場で。
「きっと、何かの間違いですわ」
私はすぐその場を去りたいと思いました。
鏡を見ていた生徒たちが、一斉に私を見ます。その視線が痛いです。
「古い魔道具ですもの。長く宝物庫に置かれていたのでしたら、調子が悪いこともあるでしょう」
できるだけ穏やかに言ったつもりでした。
けれど、その言葉が終わるより早く、ぱちぱち、と乾いた拍手の音が響きました。
カシオペア様でした。
彼女は両手を胸の前で合わせ、まるで物語の聖女のように微笑んでいました。
「まあ……やっぱり、ネレイス様でしたのね」
その声は、驚くほど澄んでいました。
「さすがですわ。女神の鏡にまで認められるなんて。ネレイス様は、本当にお美しい方ですもの」
周囲の空気が、少し和らぎました。誰かがほっと息を吐きます。
けれど私は、その笑顔から目を離せませんでした。
カシオペア様は笑っています。完璧に、可憐に、誰から見ても健気に。けれど、その指先は白くなるほど握りしめられていました。
「カシオペア様」
「私、少し恥ずかしいです」
彼女は私の言葉を遮るように、小さく笑いました。
「もしかしたら、ほんの少しだけ、自分が映るかもしれないなんて思ってしまって。身の程知らずでしたわ」
違う。その言い方は。私はそう思いました。
けれど周囲は、彼女の望んだ通りに反応しました。
「そんなことはないよ、カシオペア嬢」
「君だって十分に可憐だ」
「鏡が何を基準にしているかなんて、わからないじゃないか」
慰めの声が、次々と彼女に向けられます。カシオペア様はそれを浴びて、ほんの少しだけ息をつきました。まるで、乾いた花が水を吸うように。
その仕草を見て、私はそれ以上言葉を重ねるのをやめました。
「いいえ、皆様。慰めてくださらなくて結構ですわ」
カシオペア様は首を振りました。その拍子に、薄桃色の髪が頬にかかります。光の当たり方まで計算されたような、儚い仕草でした。
「ネレイス様が一番美しい。それを女神の鏡が示したのですもの。私などが並ぼうとすること自体、間違いだったのです」
大広間がまた静まりました。今度の沈黙は、先ほどとは違いました。誰もが気まずそうに私を見ています。
カシオペア様は私を褒めている。けれど、その言葉はまるで、私が彼女を踏みつけているかのように聞こえました。
「カシオペア様」
私が口を開くより早く、王太子殿下の声が響きました。
「カシオペア・フェンネル子爵令嬢」
それは、先ほどまでの柔らかな声ではありませんでした。大広間の空気が、ぴんと張り詰めます。
殿下は一歩前に出て、カシオペア様を見据えました。
「今の発言は、聞き流せない」
カシオペア様の睫毛が震えました。
「……殿下?」
「君は今、ネレイスを称えているように見せながら、自分が彼女と同じ場に並び、同じ秤で比べられて当然であるかのように振る舞った」
周囲の生徒たちが息を呑みます。カシオペア様の顔から、すっと血の気が引きました。
殿下の声は静かでした。けれど、その静けさの奥には明確な怒りがありました。
「ネレイス・ローヴェルは公爵令嬢であり、私の正式な婚約者だ。王家と公爵家の合意のもと、将来この国の王太子妃となるべき立場にある」
カシオペア様は何も言えませんでした。
「一方、君はフェンネル子爵家の令嬢だ。君自身の努力や美点を否定するつもりはない。だが、立場というものがある」
大広間は静まり返っていました。先ほどまでカシオペア様に同情していた生徒たちも、誰も口を挟みません。
「美しさを競う遊びなら、まだ笑って済ませられたかもしれない。だが君は、ネレイスと自分が同列に扱われなかったことを、まるで不当な扱いであるかのように語った」
殿下の眼差しが冷えます。
「それは、彼女個人への無礼であるだけでなく、公爵家と王家が結んだ婚約への軽視でもある」
「そ、そんなつもりは……」
カシオペア様の声が震えました。
「私はただ、ネレイス様がお美しいと申し上げたかっただけで……」
「そのために、なぜ自分を哀れな立場に置く必要があった?ネレイスと隣に並ぶ?戯言もたいがいにしろ」
殿下が問い返します。
カシオペア様は口を閉ざしました。
「君が自分を卑下すれば、周囲は君を慰める。君が涙を浮かべれば、誰かが君に同情する。だが、その同情は、結果としてネレイスを冷たい人物のように見せる」
カシオペア様の瞳が潤みました。しかし、殿下は表情を緩めませんでした。
「自分を下げることで他人を悪者にするな」
その一言で、大広間の空気がさらに重くなりました。私は思わず殿下を見ました。殿下は怒っておられました。声を荒げてはいません。ですが、王太子として、そして婚約者として、私の名誉が損なわれることを許さないという意思が、その横顔にはっきりと表れていました。
「殿下」
私は静かに声をかけました。
「ネレイス」
「お言葉、ありがとうございます。ですが、ここは創立祭の場です。女神の鏡の展示を、これ以上騒ぎにするのは本意ではありませんわ」
殿下は一瞬、何かを言いたげにしました。けれど、私の視線を受けて、小さく息を吐かれました。
「……そうだな」
私はカシオペア様へ向き直りました。
彼女は涙をこぼす寸前の顔で、私を見ていました。いつもなら、その表情だけで周囲は彼女に味方したことでしょう。誰もが、殿下の言葉を聞いていました。ですから、気づいてしまったのです。カシオペア様の謙遜が、誰を傷つける形で成り立っていたのかを。
私はそれ以上、カシオペア様には何も言いませんでした。言葉を重ねれば、彼女はさらに傷ついた顔をするでしょう。そして周囲は、その涙にまた意味を与えてしまうでしょう。今必要なのは、誰が正しいかを決めることではありません。この場を、これ以上彼女の舞台にしないことです。
私は鏡へ視線を向けました。
「係の方。女神の鏡に布を」
私の声に、控えていた魔導師たちがはっとしたように動きました。鏡面に厚い白布が掛けられます。私の姿も、カシオペア様の表情も、そこから消えました。
その瞬間、大広間に満ちていた奇妙な熱が、少しだけ冷めたように思えました。
カシオペア様は俯いたままでした。
薄桃色の髪が頬に落ち、表情は見えません。けれど、白くなるほど握りしめられた指先だけが、彼女の内側にあるものを示していました。
謝罪はありませんでした。言い訳もありませんでした。ただ、沈黙だけがありました。
その日は、それ以上大きな騒ぎにはなりませんでした。
女神の鏡は係の魔導師たちによって展示室の奥へ戻されました。
私は大広間を離れる時、鏡など二度と見なくて済みますようにと心の中で祈りました。
しかし、翌朝。
目を覚ました私の部屋に、その鏡がありました。
寝台の正面。朝日の差し込む窓辺。昨日、大広間にあったはずの女神の鏡が、当然のように立っていました。
「……」
私は寝台の上で身を起こしました。鏡の中の私も、身を起こしました。
寝起きで髪は少し乱れています。寝巻きの襟も少しずれています。お世辞にも、世界で一番美しい朝ではありません。
「どちら様の許可を得て、淑女の寝室に入られましたの」
鏡は答えませんでした。当然です。鏡なのですから。
私は侍女を呼びました。侍女は悲鳴をあげました。
侍女が執事を呼びました。執事も固まりました。
執事がお父様を呼びました。お父様は鏡を見て、しばらく無言でした。
それから、たいへん静かな声で学院の警備魔導師を呼ぶよう命じました。
「なぜ王家の宝物がローヴェル公爵令嬢の部屋に……?」
「私が伺いたいですわ」
私はなるべく冷静に答えました。
「寝起きから世界一を主張されるのは、淑女としてなかなか厳しいものがありますの」
魔導師たちは鏡を慎重に運び出しました。
封印布を三重に巻き、魔力封じの箱に入れ、学院長の管理室へ移しました。
これで終わり。そう思いました。
翌朝、鏡はまた私の部屋にいました。
今度は化粧台の横に。
三日目には衣装棚の前に。
四日目には浴室の入口に。
五日目には、朝食の席へ向かう廊下の角に。
六日目には、なぜか私の授業用机の隣に立っていました。
さすがに教室が騒然としました。
「ネレイス様、鏡に愛されていらっしゃるのね」
誰かが囁きました。私は愛されているという表現を否定したかったです。これは愛ではありません。つきまといです。
王家の魔道具でなければ、実家の倉庫へ押し込んで鍵をかけているところです。しかし鏡は王家の宝であり、勝手に処分することはできません。
学院長も、王宮の魔導師も、神殿の司祭も調査に来ました。
結論は出ませんでした。
ただ一つ、全員が同じことを言いました。
「鏡が、自ら選んでいるようです」
選ばないでいただきたいです。切実に。
そんな私の願いとは裏腹に、噂は広がりました。
女神の鏡がネレイス・ローヴェルを世界一美しい人と認めた。鏡は彼女から離れようとしない。王太子妃となるべき女性は、やはり彼女である。
人の噂というものは、実に面倒です。私が何かを成し遂げたわけではありません。誰かを助けたわけでも、国に貢献したわけでも、試験で首席を取ったわけでもありません。ただ鏡が勝手についてくるだけ。それなのに、人々はそこに意味を見つけたがります。その噂が広がるほど、カシオペア様は私を見る時間が長くなりました。そして翌日には、彼女の髪に新しい香油の艶が加わっているのです。
もともと愛らしい方でした。けれど、鏡の騒動のあと、彼女の装いは日に日に華やかになっていきました。
髪には、子爵家の令嬢が日常使いするには不釣り合いなほど高価な香油を使い、制服には規定ぎりぎりの飾りを加え、唇には淡い紅を差すようになりました。
装うこと自体は、貴族令嬢として必要な嗜みです。けれど、身の丈を超えた装いは、たしなみではなく見栄になります。
フェンネル子爵家の財政が豊かではないことは、社交界に出入りする者なら薄々知っていました。領地の収穫はここ数年不安定で、先代の借財もまだ残っていると聞いています。
その家の娘が、南方の薔薇から採れる香油を毎日のようにまとっている。それは美しさというより、どこか切羽詰まった祈りのように見えました。
カシオペア様は、自分を整えるたびに周囲を見ました。
誰が気づいてくれるか。誰が褒めてくれるか。王太子殿下は見てくれるか。そして、私は悔しがるか。
「ネレイス様」
「ごきげんよう、カシオペア様」
「新しい香油を使ってみたんです。南方の薔薇から作った、とても珍しいものだそうで」
「よくお似合いですわ。華やかな香りですね」
私がそう言うと、彼女は一瞬だけ満足そうにしました。けれど、すぐに不機嫌になります。
「それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「もっと……何か、ありませんか」
私は考えました。
南方の薔薇。少し香りが強いです。午後の授業で頭痛を起こす生徒が出るかもしれません。しかし、それをそのまま言うのは角が立ちます。
「午後の授業では、少し控えめにされたほうがよろしいかもしれませんわ。香りに弱い方もいらっしゃいますから」
カシオペア様の表情が凍りました。
「……やっぱり」
「はい?」
「私が綺麗になるのが嫌なんですね」
「いいえ。そうではありません」
「ネレイス様はいつもそうです。優しいふりをして、私を否定するんです」
彼女の声が震えます。周囲の生徒たちがこちらを見始めました。
私は深く息を吸いました。
ここで反論すれば、彼女は泣きます。反論しなければ、誤解が広がります。どちらにしても面倒です。
「カシオペア様」
私は静かに言いました。
「美しく装うことは、誰かを不快にさせるためではありません。ご自分を大切にするためのものですわ」
カシオペア様は唇を噛みました。
「生まれつき綺麗な方に言われても、響きません」
「生まれつきで保てるものなど、ほとんどありませんわ」
「嘘です」
彼女は私を睨みました。
「ネレイス様は、何もしなくても選ばれるんです。王子様にも、鏡にも、みんなにも」
私は返す言葉を探しました。けれど、その前に、背後で小さな音がしました。
こつん。
振り返ると、そこに女神の鏡がありました。
廊下の真ん中に。
いつの間に現れたのか、金の縁を陽光にきらめかせながら、まっすぐ私を映しています。
私は頭を抱えたくなりました。
「……今は呼んでおりませんわ」
鏡は答えません。当然です。
カシオペア様の顔が赤くなりました。
「また……」
彼女は鏡に近づきました。そして、鏡面を覗き込みます。けれどそこに映るのは、やはり私のようでした。
隣にいるはずの彼女自身は、影のように薄く揺れているだけでした。
「どうして」
カシオペア様が呟きます。
「どうして、私を映してくれないの」
その声は、怒りというより悲鳴に近いものでした。
鏡は何も言わず、ただ私を映し続けます。
カシオペア様はその日から、鏡を嫌うようになりました。そして同時に、鏡に執着するようになりました。
彼女は王宮魔導師に尋ねました。鏡は何を基準に美しい者を選ぶのか。
神殿の司祭に尋ねました。女神に愛されるにはどうすればよいのか。
美容師を呼び、仕立屋を呼び、香油商を呼び、魔法薬師まで訪ねました。彼女はどんどん美しくなっていきました。もともと愛らしかった顔立ちは、磨かれた宝石のように整っていきました。髪は絹のように艶めき、肌は白く透き通り、瞳は星を閉じ込めたように輝きます。
男子生徒たちは彼女を目で追いました。女子生徒たちは囁きました。
王太子殿下でさえ、一度だけ彼女を見て足を止めました。カシオペア様はそれに気づき、花のように笑いました。その笑みは、ほんの一瞬だけでした。殿下の視線が私へ戻ると、彼女の笑顔はすぐに曇りました。
ある放課後。
庭園の噴水のそばで、カシオペア様は王太子殿下に声をかけました。
私は少し離れた場所で、王妃教育の課題に使う薬草園の記録を確認していました。
立ち聞きなどしません。けれど、二人の会話は風に乗ってこちらまで届きました。
「殿下」
カシオペア様の声は甘いものでした。
「私、少しは変わったと思いませんか?」
「変わった?」
「はい。以前より、ずっと努力しているんです。ネレイス様に負けないように」
殿下は少し困ったように答えました。
「カシオペア嬢は、以前から愛らしい人だ」
「愛らしい、だけですか?」
「それでは不満か」
「……私は、美しくなりたいんです」
「なぜ?」
殿下の問いに、カシオペア様は一瞬黙りました。
「なぜ、とは」
「誰のために美しくなりたい?」
「それは……」
彼女は笑いました。
「殿下に、見ていただくためです」
私は薬草の葉をめくる手を止めました。
殿下も黙りました。
カシオペア様は一歩近づきます。
「私は、殿下の隣に立てるくらい美しくなりたいんです。誰にも笑われないように。誰にも見下されないように。殿下に選ばれた人間だと、みんなに認めてもらえるように」
その言葉は、一途にも聞こえました。けれど、どこか違いました。彼女は殿下を見ているようで、殿下の向こうにいる大勢の人々を見ているようでした。
殿下は静かに言いました。
「君は、私に選ばれたいのか。それとも、私に選ばれた自分を人に見せたいのか」
カシオペア様の顔から笑みが消えました。
「ひどいです」
「責めているわけではない」
「ひどいです。殿下まで、私をそんなふうに見るんですね」
「カシオペア嬢」
「ネレイス様のせいです」
私は思わず顔を上げました。
「ネレイス様がいるから、みんな私を比べるんです。鏡だってそう。あの方ばかり映すから、私がどれだけ努力しても、誰も本当に認めてくれない」
「鏡のせいでも、ネレイスのせいでもない」
殿下の声は厳しくなりました。
「君が君自身を認められないことを、他人に背負わせてはいけない」
カシオペア様は泣きました。いつものように頬を美しく伝う涙ではありませんでした。両手で顔を覆っても隠しきれないほど、表情が崩れていました。美しく整えられた笑顔より、その泣き顔のほうが、年相応に見えました。
カシオペア様は、両手で顔を覆い、その場から走り去りました。
その夜、女神の鏡が消えました。
盗まれた、というには奇妙でした。
王家の宝を保管していた封印室の扉には、外傷はなく、鍵も壊されていませんでした。床に描かれた封印陣も乱れておらず、見張りの魔導師たちも誰かが出入りした気配はないと証言しました。
ただ、鏡だけが消えていたのです。
魔導師たちは大騒ぎになりました。
そして翌朝。
私の部屋に、鏡は戻ってきませんでした。
正直に申し上げます。ほっとしました。
朝起きた瞬間に王家の宝物と目が合わないだけで、これほど心が穏やかになるとは思いませんでした。
私は久しぶりに、普通の鏡だけで身支度をしました。
髪を整え、襟元を直し、寝起きの顔を世界一だと主張されることもなく、静かに朝の紅茶をいただきました。
できれば、このまま二度と戻ってこないでいただきたい。私は心からそう願いました。
けれど、朝食を終える頃になって、ようやく少しだけ引っかかりました。あの鏡は、鍵で閉じ込められるようなものではありません。現に、どれだけ封じても私のもとへ現れていたのです。
それなのに、今朝は来なかった。
来られなかったのか。それとも、来る必要がなかったのか。
そう考えたところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきました。
「ネレイス様!」
侍女が駆け込んできます。
「カシオペア様が、女神の鏡をお持ちになって、学院の大広間に現れたそうです!」
穏やかな朝は終わりました。
私は急いで大広間へ向かいました。
すでに多くの生徒が集まっていました。中央には、女神の鏡。その前に立つカシオペア様。彼女は昨日までより、さらに美しくなっていました。
いえ、美しすぎました。
肌は白磁のように滑らかで、髪は光そのもののように輝いていました。瞳は宝石めいて、唇は薔薇より鮮やかです。けれど、その美しさには温度がありません。人形のようです。
完璧に整えられた、誰かの理想像。
カシオペア様は集まった生徒たちに向かって微笑みました。
「皆様、見てくださいませ」
その声は甘く、よく響きました。
「私は、女神の鏡に認められるために努力しました。生まれではなく、血筋ではなく、婚約者の地位でもなく、私自身の美しさで認められるために」
誰も何も言いませんでした。
カシオペア様は鏡の前に立ちます。
「さあ、映して」
鏡面が白く曇ります。大広間の空気が張り詰めました。
「世界で一番美しい人を、映して」
鏡の曇りが晴れていきます。
映ったのは、私でした。
大広間がざわめきました。
カシオペア様は動きませんでした。ただ、鏡面を見つめていました。
そこには私が映っています。
大広間の入口に立ち、息を切らし、髪も少し乱れた私が。とてもではありませんが、世界一美しい登場ではありません。それでも鏡は、私を映していました。
「嘘」
カシオペア様が呟きました。
「嘘よ」
彼女は鏡に手を伸ばしました。
「おかしい。こんなの、おかしい。私はこんなに綺麗になったのに。誰よりも努力したのに。どうして、どうしてなの」
私は一歩前へ出ました。けれど、何かを言うより早く、カシオペア様がこちらを振り向きました。
「来ないで!」
その声は、美しい顔から出たとは思えないほど鋭いものでした。大広間にいた誰もが、息を呑みました。カシオペア様の瞳には、涙が浮かんでいました。カシオペア様は私を見ていました。けれど、ただ私を見ているのではありません。
私の髪も、制服も、背筋も、家名も、婚約者という立場も、私へ向けられる周囲の視線も。私が黙って立っているだけで得ているように見えるものすべてを、睨むように見ていました。
「あなたがいるから」
カシオペア様は、震える声で言いました。
「あなたがいるから、私はいつも見てもらえないの」
私は口を閉じました。今ここで私が何を言っても、彼女はきっと別の意味に受け取るでしょう。
「私は頑張ったわ。髪も、肌も、唇も、指先まで、全部磨いたわ。香油も、白粉も、ドレスも、宝石も、全部、全部そろえたの」
カシオペア様は笑いました。泣きながら、笑っていました。頬を伝う涙が、丁寧に引かれた紅の端をわずかに崩していきます。
「お父様もお母様も言ったの。もっと綺麗になりなさいって。王太子殿下の目に留まれば、フェンネル家はもっと上に行けるって。私が選ばれれば、全部報われるって」
その言葉に、大広間の空気がわずかに変わりました。フェンネル子爵家の財政が豊かではないことは、社交界に出入りする者なら薄々知っています。
ここ数年、領地の収穫は不安定だったはずです。先代からの借財も残っていると聞いていました。
それなのに、カシオペア様の香油は日に日に高価になり、制服の飾りは増え、白粉は希少なものへと変わっていきました。それが何を意味するのか。この場にいる貴族の子弟たちも、ようやく気づき始めたのでしょう。
「なのに」
カシオペア様は、私を見ました。その目は、涙で濡れているのに、ひどく乾いて見えました。
「鏡はあなたばかり映す」
彼女の声が低くなりました。
「あなたは何もしなくても、選ばれる。公爵令嬢で、王太子殿下の婚約者で、女神の鏡にまで認められて。何もしなくても、何も失わなくても、全部持っている」
私は、何も言いませんでした。何かを言えば、彼女はきっと、それさえも私が持っている余裕だと受け取るでしょう。
「私は失ったわ」
カシオペア様は、自分の胸元を掴みました。
「家のお金も。領地の蓄えも。お母様の宝石も。お父様の信用も。全部、私のために使ったの。私が綺麗になれば、全部取り戻せるはずだったから」
大広間の空気が、さらに冷えていきました。誰かが小さく息を呑みます。カシオペア様は、それに気づいた様子もありません。
「なのに、あなたがいる」
彼女は袖の中から小さな瓶を取り出しました。黒紫色の粉が、硝子の中でかすかに揺れています。私はその瓶を見て、背筋が冷えました。
魔法薬学の授業で見たことがあります。強すぎる美容魔法や変装魔法を落とすために使われる、剥離剤の一種です。ただし、扱いを誤れば肌を焼きます。美容魔法を落とす薬でありながら、使い方を誤れば、美貌そのものを損なう薬でもありました。
王太子殿下が鋭く声を上げました。
「カシオペア嬢、その瓶を置け」
けれど、カシオペア様は聞いていませんでした。
「ネレイス様さえいなければ」
彼女は、まだ私を様づけで呼びました。けれど、その声には敬意など残っていませんでした。
「鏡は、私を映したわ」
カシオペア様の指が、瓶の蓋にかかります。
「いいえ」
彼女はそこで、涙に濡れた目を見開きました。品よく整えられていた言葉が、音を立てて崩れ落ちるのがわかりました。
「あの女さえいなければ、私は一番になれたのよ!」
大広間に悲鳴が上がりました。王太子殿下が駆け出します。けれど、それより早く、カシオペア様は瓶を投げました。
黒紫色の粉が宙に舞います。私の顔めがけて。逃げる間はありませんでした。
ですが、粉は私に届きませんでした。
女神の鏡が、私の前に立っていました。
誰も触れていません。誰も動かしていません。
それなのに鏡は一瞬で私の前へ移り、黒紫の粉を受け止めたのです。
鏡面が激しく光りました。次の瞬間、粉は跳ね返りました。
カシオペア様の顔へ。
「いやっ!」
彼女の悲鳴が大広間に響きました。黒紫の粉は、白磁のような頬に降りかかりました。
誰もが息を呑みました。肌が爛れる。そう思ったのでしょう。私も、そう思いました。けれど、そうはなりませんでした。
粉は彼女の肌を焼きませんでした。頬を傷つけることもありませんでした。ただ、薄い煙のように広がり、彼女の顔を覆っていたものを、静かに拭い去っていきました。
紅を。白粉を。魔法薬で作られた艶を。瞳を潤ませる薬の膜を。薔薇の香油に混ぜられていた、微かな幻惑の魔力を。
「……え?」
カシオペア様が呆然と声を漏らしました。
その顔は、先ほどまでの人形めいた美しさを失っていました。
けれど、醜くなったわけではありません。そこにいたのは、年相応の少女でした。
疲れた目。泣き腫らした頬。怯えた唇。
高価な香油と魔法薬で塗り固められていたものが剥がれ落ち、そこにはただ、追い詰められた子爵令嬢が立っていました。
カシオペア様は震える手で、自分の頬に触れました。
「うそ……」
その声は、細く、頼りないものでした。
「私……こんな顔……」
その時、鏡面が黒く揺らぎました。そこに初めて、カシオペア様が映りました。
大広間にいた全員が息を呑みます。
鏡の中のカシオペア様は、美しかったです。
外見の話ではありません。そこには、着飾った少女の奥に隠されていたものが映っていました。誰かを羨むたびに濁った瞳。誰かを見下すたびに歪んだ唇。褒められたいと願うたびに伸ばした手。選ばれたいと願うたびに、王冠へ向かって空を掻いた指先。
美しい顔を作ろうとしていた心の形が、そこにはありました。
「いや……」
カシオペア様が震えました。
「違う。違うわ。私は、こんな……」
鏡の中のカシオペア様が笑いました。その笑い声は、彼女自身の声でした。
『見て』
鏡が喋ったのでしょうか。それとも、鏡の中のカシオペア様が喋ったのでしょうか。
誰にもわかりませんでした。
『私を見て。私を褒めて。私を選んで。私を羨んで。私を、私を、私を』
大広間の生徒たちが後ずさります。カシオペア様は耳を塞ぎました。
「やめて……」
『ネレイス様より綺麗にして。ネレイス様より愛されるようにして。ネレイス様より価値があると証明して』
「やめて!」
『ネレイス様を醜くして。そうすれば、私が一番でしょう?』
カシオペア様は崩れ落ちました。
鏡面が、ふたたび揺れました。
黒く濁っていた鏡の奥に、別の景色が浮かび上がりました。大広間です。
けれど、今私たちがいる大広間とは違いました。燭台は黄金に輝き、窓には星が降り、壁には白薔薇が咲き乱れています。その中心に、カシオペア様が立っていました。
誰よりも白いドレスをまとい、誰よりも美しく微笑んでいます。周囲の人々は、皆、彼女を見ていました。
『美しい』
誰かが言いました。
『なんて美しい方だ』
『カシオペア様こそ、世界で一番美しい』
『王太子妃にふさわしいのは、あの方しかいない』
甘い声が、次々と鏡の中から溢れてきました。カシオペア様が、ゆっくり顔を上げました。涙に濡れた瞳が、鏡面に釘付けになります。
「……そうよ」
彼女が呟きました。その声は、先ほどまでの怯えたものではありませんでした。
「そう。そうなの。私は……私は、美しいの」
王太子殿下が険しい顔で一歩踏み出しました。
「カシオペア嬢、鏡を見るな」
けれど、彼女には届いていませんでした。
鏡の中では、幻の人々が拍手をしています。誰も彼もが、彼女を見ています。彼女だけを見ています。褒めています。称えています。羨んでいます。彼女がずっと欲しがっていたものが、そこにはありました。
鏡の中にだけ。
「見てくれるのね」
カシオペア様は、よろめきながら立ち上がりました。
「みんな、私を見てくれるのね」
私は思わず声を上げました。
「カシオペア様」
彼女は振り向きませんでした。
鏡へ、一歩近づきます。
鏡面の中のカシオペア様も、こちらへ手を伸ばしていました。美しく、優しく、完璧な笑顔で。
『こちらへ』
鏡の中の声が囁きました。
『あなたは美しい』『あなたこそ選ばれるべき人』『誰よりも、誰よりも、誰よりも』
「ええ」
カシオペア様は微笑みました。
その顔には、もう涙の意味すら残っていませんでした。
「私、そちらへ行くわ」
次の瞬間、鏡面が水のように揺れました。
近衛騎士が駆け出します。
けれど、その前にカシオペア様の指先が鏡へ触れました。
鏡面が、水のように揺れます。
カシオペア様の姿が消えることはありませんでした。彼女の身体は、確かにそこにありました。白い手も。薄桃色の髪も。震える唇も。鏡の前に立ったまま、現実に残っていました。
けれど。
「……きれい」
カシオペア様が、うっとりと呟きました。その瞳は、もうこちらを映していませんでした。王太子殿下も。近衛騎士も。私も。大広間に集まった生徒たちも。何一つ、見ていないようでした。
彼女はただ、鏡だけを見つめています。
鏡面には、白薔薇の咲く大広間が映っていました。幻の人々が、拍手をしています。その中心に、もう一人のカシオペア様が立っていました。誰よりも白いドレスをまとい、誰よりも美しく微笑んでいます。
『美しい』
鏡の中から、甘い声が聞こえました。
『なんて美しい方だ』
『カシオペア様こそ、世界で一番美しい』
『王太子妃にふさわしいのは、あの方しかいない』
カシオペア様の唇が、ゆっくりとほころびました。
「そう……そうよね」
彼女は、涙に濡れた顔のまま笑いました。紅も白粉も落ち、魔法薬の艶も消えた、年相応の顔で。けれどその表情だけは、ひどく満たされていました。
「私は、美しいの」
近衛騎士が彼女の肩に手をかけます。
カシオペア様は抵抗しませんでした。逃げようともしません。
ただ、鏡を見つめたまま、微笑み続けています。
「みんなが、私を見てくれるわ」
その声は、ぞっとするほど穏やかでした。
「みんなが、私を褒めてくれる」
王太子殿下が低く命じました。
「鏡から離せ」
近衛騎士たちが彼女を鏡から引き離しました。
それでも、カシオペア様の視線は動きませんでした。鏡から離れても。鏡面が布で覆われても。彼女は何もない空間を見つめて、微笑んでいました。
「きれい……」
小さく、そう呟きます。
「私は、世界で一番きれい……」
大広間に、沈黙が落ちました。
カシオペア様の身体は、確かに現実に残っていました。けれど、彼女が見ているものは、もう現実ではありませんでした。そこには、ただ称賛だけがあるのでしょう。自分だけを見てくれる人々。自分だけを褒めてくれる声。自分が一番美しいと信じられる場所。少なくとも、彼女の瞳にはそう映っているようでした。
何もない空間に向かって微笑み続けるカシオペア様を、大広間の誰もが呆然と見つめていました。
その後、フェンネル子爵家には王家の調査が入りました。
明らかになったのは、反逆や陰謀ではありません。領地経営の失敗と、身の丈を超えた浪費でした。フェンネル子爵家は、カシオペア様の装いのために、領地から上がる収益を使い込んでいました。
南方の薔薇から採れる香油。夜会用の絹。宝石を砕いた白粉。肌を白く見せる魔法薬。瞳を潤ませる点眼薬。唇に血色を与える紅。どれも、子爵家の令嬢が日常的に使うには高価すぎる品でした。
フェンネル子爵夫妻は、それを止めませんでした。
娘が王太子殿下の目に留まれば、家の借財は返せる。娘が公爵令嬢より美しいと評判になれば、フェンネル家の格は上がる。その見込みに賭けたのです。
結果、領地の倉は空になりかけていました。税は前倒しで徴収されていました。治水事業や街道整備の費用は削られ、薬師へ支払うはずの金も滞っていました。
カシオペア様の髪を艶めかせた香油は、領民の冬支度から出た金でした。カシオペア様の頬を白く見せた白粉は、領地の備蓄を削って買われたものでした。カシオペア様の唇を薔薇色に染めた紅の裏で、子爵家の帳簿は赤く染まっていました。
王家はフェンネル子爵家を処分しました。子爵夫妻は領地経営の権限を取り上げられ、王家から派遣された代官の監督下に置かれました。社交界への出入りも禁じられました。借財の返済が終わるまで、フェンネル家は王都の華やかな場へ出ることを許されません。
取り潰しではありません。けれど、かつてのように娘を飾り立てて王宮の夜会へ出ることは、もう二度とできないでしょう。
カシオペア様は学院を退学となりました。
王家の宝を無断で持ち出し、危険な薬粉を人に向けて投げたのです。本来であれば、さらに厳しい裁きが下されるところでした。
けれど、彼女はすでにまともな受け答えもできませんでした。問いかけられても、謝罪も弁明もありません。ただ、時折、何もない空間へ向かって微笑むだけだったそうです。
「きれい」
「みんな、私を見ているわ」
誰が呼びかけても、返ってくる言葉はそればかりでした。そのため、王都の神殿へ預けられることになりました。罪を免れたわけではありません。裁きの場に立たせたところで、彼女はもう現実を見ていなかったのです。
神殿の北窓からは、玉座に縛られた王妃の星が見えるそうです。
高慢を罰され、夜空を巡り、季節によっては逆さまに吊るされる星。神官たちは、それを虚栄への戒めとして語ります。
けれどカシオペア様は、その星を見上げて微笑むのだとか。
「見て。みんなが私を見上げているわ」
「私は、あそこに座るの」
「世界で一番美しい、私の玉座よ」
王太子妃を夢見た子爵令嬢は、学院からも、社交界からも、華やかな人々の前からも姿を消しました。身体は確かに現実に残っています。けれど彼女自身は、今も鏡の中の大広間にいるかのようでした。たとえその玉座が、逆さまに吊るされた罰の椅子であったとしても。
問題の女神の鏡は、王宮の宝物庫へ戻されました。
封印は以前より厳重に改められました。
警備の魔導師も増やされ、展示の予定は当面取りやめになったそうです。
王太子殿下は、後日、私に謝罪なさいました。
「ネレイス。今回の件は、王家の管理不行き届きだった」
「ええ。まったくですわね」
殿下は言葉に詰まりました。それから、少しだけ苦笑なさいました。
「君は、こういう時だけ遠慮がないな」
「婚約者ですもの。遠慮していては、将来困りますでしょう?」
「それは頼もしい」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
殿下は、以前より少し慎重になられました。人に見られること。人を選ぶこと。誰かを褒めること。誰かを特別扱いすること。それらが、時に人を救い、時に人を狂わせるのだと、あの場にいた者は知ってしまったのです。
さて。
私の朝はようやく平穏を取り戻しました。
寝台の正面に王家の宝物が立っていることもありません。化粧台の横に、当然のような顔で女神の鏡があることもありません。廊下の角で待ち伏せされることもありません。
私は、ごく普通の銀の手鏡で身支度をしました。髪を整え、襟元を直し、最後に表情を確認します。
その時、鏡面の下のほうに、小さな文字が浮かび上がりました。
『本日も、世界で一番美しくあれ』
私は無言で手鏡を伏せました。
しばらくして、もう一度そっと覗きます。
文字はまだありました。
「……努力目標として受け取っておきますわ」
私がそう呟くと、鏡面がほんの少しだけ光りました。
まったく。
王家の宝物というものは、管理されていても油断なりません。
私は手鏡を置き、部屋を出ました。
廊下の窓硝子に、私の姿が映ります。
世界で一番かどうかは知りません。そんなことは、鏡に任せておけばいいのです。
私はただ、今日もできるだけ見苦しくないように生きるだけです。
それが、私にとっての美しさなのです。




