「秘密は守りますわ」と言った婚約者が、社交界から一人消しました
アドリアン・ルメール伯爵令息は、春風そよぐ自邸のガゼボで、幼馴染の話を聞いていた。
白いテーブルクロスの上には、色とりどりの菓子が並んでいる。香りのよいお茶も用意されていた。
しかし、その席にふさわしい和やかさは、どこにもなかった。
少し離れて立つ侍女が、心配そうにこちらを見ていた。
隣に座るケイトリン・フィルティル男爵令嬢は、何度も涙を拭っていた。
彼女は隣領の令嬢で、アドリアンより五つ年下の幼馴染である。幼いころは、アドリアンの跡をついて回っては、「アド兄さま、一緒に遊びましょう」と笑っていた。
その彼女が、今は顔色をなくし、声を震わせている。
「私、怖いって言ったの。けれど誰も、わかってくれなかった」
彼女はそう言って、唇を噛んだ。
「父にも母にも訴えたのに。私が可愛くて気になるからだろう、公の場のことなんだから愛想よくしておけばいい、と。母は、殿方の心を射止めた者の務めとして、それなりに振る舞っておけばそのうち熱は冷めますよって言うの」
言いながら、彼女は小さく首を振った。
「そんな生易しいものじゃないのに」
アドリアンは、すぐには言葉を返せなかった。
ケイトリンが訴えた内容は、要するに、ある令息につきまとわれている、ということだった。
「私のことをどこかの夜会で見かけたらしくて。……気がついたら私の行く先々に現れて、……話しかけてくるの。最初は挨拶だけだったから、……私もそうしていたの。……それがよくなかったのかも」
偶然だと思おうとしたけれど、偶然にしては重なり過ぎていた。
「前の日の私の行動を、知っているの。あの時はこうするべきだったとか、誰と話していたとか、そういうことを、普通の会話みたいに言ってくるの」
ケイトリンは膝の上で手を握りしめた。
「それに、宝飾店で……」
そこで、声が途切れた。
目の前に、その時の光景がよみがえったのだろう。
彼女の肩が小さく震えた。
『その青い石は似合わないな』
背後から声がした。
振り返る前に、男の指が、ケイトリンの手元のブローチへ伸びていた。
『きみには、僕の瞳の色のほうが似合う』
店員が息をのんだ。
従妹が顔を強張らせた。
ケイトリンは、その場で頬を引きつらせ、笑うしかなかった。
「……怖かった」
ようやくそれだけを言うと、ケイトリンは顔を覆った。
アドリアンは、彼女が椅子から崩れ落ちそうになったのを見て、慌てて肩を支えた。
「もういい。無理に話さなくていい」
「でも」
「十分だ。よく話してくれた」
その一言で、張りつめていたものが切れたのだろう。ケイトリンは声を殺して泣き始めた。
アドリアンは困り果てながらも、そっと背中をさすった。
幼馴染として。
妹のように思ってきた令嬢を、どうにか落ち着かせるために。
だが、今、この場面だけを自分の婚約者が見たら。
そこへ思い至った瞬間だった。
ガゼボの周囲の垣根が、がさりと音を立てた。
アドリアンが顔をあげるのと同時に、声がした。
「いったいこれはどういうことでしょうか、アドリアン様」
終わった。
アドリアンは、心の中でそう呟いた。本来なら、母の同席を求めた方がいいだろうとは思ったのだ。だが、その前に彼女は泣き出してしまい、そのまま対応を優先した結果が、これだった。
陽光でその赤毛をきらめかせ、つかつかとアドリアンたちに歩み寄ってきたのは、彼の婚約者のロザンヌ・エヴルー伯爵令嬢だった。
彼女は二人の前で立ち止まった。その顔からは、表情がきれいに抜け落ちている。
ロザンヌは閉じた扇子をすい、とアドリアンへ向けた。
「本日は私とここでお茶会のはずが他の令嬢とよろしい雰囲気、という興味深い状況になっておりますわね。私が納得できる説明を求めます」
ケイトリンが慌てて立ち上がろうとした。
「あ、あの、私の相談に乗っていただいていて」
「私はアドリアン様と話をしているのです。お黙りになって」
ロザンヌはケイトリンに見向きもせず、一刀両断した。
アドリアンは片手で目元を覆った。
こういうときのロザンヌは、納得する回答を与えないと絶対に引かない。長年の婚約でそれは嫌というほど学んできた。
ロザンヌ・エヴルーは、事実を好む。それはいいことだ、と婚約当初は思った。
だが同時に、彼女は噂にも強い。正確には、噂の中から事実をかぎ分けるのが異様に上手い。そして、速いのだ。
アドリアンから見れば、その才覚は時々、恐ろしいものだった。
彼女に話せば、黙ってはいない。
悪意があるわけではない。むしろ、悪意がないからこそ厄介だった。
彼女は、必要だと思えば動く。
そして動けば、たいていのことは表へ出る。
だけど、今回ばかりは困る。
ケイトリンの名が出れば、傷つくのは彼女だ。
「彼女はケイトリン。僕の幼馴染の男爵令嬢だ。悲しみのあまり泣き崩れそうになったので、支えていただけだよ。きみにやましいことはしていないと誓う」
アドリアンは努めて静かに事実のみを語った。
余計な感情を足してはいけない。
それは八年前に学んだ。
婚約して間もないころ、よく似た状況で、慌てて気持ちまで口にして、墓穴を掘った経験があった。
彼女はアドリアンの感情へ、焦点を絞って食いついてきたのだ。
「くわしく」
「たとえるなら、どんな味だと思います?」
「胸が温かくなるというのは、具体的にどのあたりが?」
ふたつ年下とは思えないほどの迫力で追及され、アドリアンは羞恥に悶える中、心をすべて暴かれてしまった。
ロザンヌは、頬を染めながら言った。
「うれしゅうございます。私も同じ気持ちです。私たちって、両想いですわね」
あれで不満を持ち続けられる男がいるなら、見てみたい。
以来、アドリアンは学んだ。
ロザンヌの前では、事実のみを口にする。
余計な飾りは命取りである。
「それで?」
ロザンヌはアドリアンに、話の続きを言えとばかりに顎でしゃくって見せた。およそ淑女のしぐさではない。
アドリアンはため息をついた。
こういう時の彼女を止めるのは難しい。
「ケイトリンの名誉のために、僕の口からはこれ以上の説明はできない」
アドリアンはきっぱりと言った。
「僕たちは幼馴染で、それ以上ではない。僕は、きみに誠実な婚約者のままだ。信じる信じないは、君に任せる」
「そ、そうです! 困ってしまってアドリアン様を頼っただけで」
ロザンヌは小さく舌をうった。それからゆっくりと、ケイトリンへ目を向けた。
「アドリアン様からは聞けないというのなら――」
一瞬だけ、ロザンヌの目の奥に光が走った。
「――あなたから伺いましょうか」
ひっ、とケイトリンが小さく息をのんだ。
アドリアンはすぐに彼女の前へ出た。
「やめろ、ロザンヌ。彼女は傷つけられている側だ」
「ほう?」
ロザンヌは低く呟いた。
「そうですの」
怒っているのではない。
それがかえって厄介だった。
ロザンヌは、僅かな会話からでも事実を追ってくるのだ。
「では、なおのこと確認しなければなりませんわ」
「ロザンヌ」
ロザンヌはケイトリンの目を強く見つめた。
「言いたくないことまで話せとは申しません。ですが、なにがあったのか、事実をお話しいただけますわよね?」
ケイトリンはロザンヌの迫力に押されたのか、固まったまま、数度うなずいた。
「……話します」
「無理をするな」
ケイトリンはかぶりを振って、アドリアンを見た。
「ロザンヌ様の前では、隠せる気がいたしませんもの」
ケイトリンは話し始めた。
アドリアンに語ったよりも、いくらかくわしく。
ロザンヌは途中で口を挟まなかった。
ただ、必要なところだけを短く尋ねた。
話が終わると、ロザンヌは現れた時とはまるで違う、品の良い微笑を浮かべていた。
「ご安心くださいませ。私、秘密は守りますわ」
静かに扇子を閉じると、
「では、所用ができましたので、これにて失礼いたしますわね」
と言って、ロザンヌは帰っていった。
去っていく彼女の背をみながら、アドリアンは、胸の奥に嫌な予感が滲むのを感じた。
秘密は守る、と彼女は確かに言った。
だが、ロザンヌがそう言う時ほど、信用していいのか悪いのかわからないものはない。
アドリアンはその日のうちにケイトリンの滞在先へ人をやり、彼女が外出するときは供の者を増やすよう依頼した。
****
馬車の中でロザンヌは、抑えきれない高揚に全身を震わせていた。久々の大事件である。だが、面白がって済ませてよい話ではない。膝に置いた扇子を握る手に力がこもる。
「お嬢様、そのお顔はよろしくありません」
向かいに座る侍女のメリーが眼鏡越しにじろりと目を向けたのを見て、ロザンヌは口を尖らせた。
「しかたないじゃない。このお話、同じ女性として放っておくことはできないでしょう」
「よろしくないことをお考えなのがまるわかりなのです。もっと慎ましいお顔でいらっしゃらなければ」
「わかったわよ」
ロザンヌは小さく息をつき、気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。
「そのかわり、今から叔父さまのところへお邪魔するから、つきあってね」
「新聞社のオーナーをしていらっしゃる?」
「そうよ」
ロザンヌは頷いた。
「この件はデリケートに扱うべきですもの。叔父さまのお知恵を拝借したいのよ」
子供のころから、ロザンヌがひっかかるなと思ったことは、叔父さまに相談してきた。
そして、ある時は助言、ある時は諫言を受けた。叔父は親族であろうと公正を貫く。そこが、ロザンヌが叔父を尊敬する点だった。
「叔父さまなら、まずこうおっしゃるわ。裏を取らない話は、事実ではなく中傷だ、と」
ロザンヌは扇を膝の上に置き、指先をそろえた。
「だから私は、ケイトリン様のお名前を守ったまま、あの方の行動だけを確かめます。公園の管理人、宝飾店の店員、その場にいたご婦人方。見ていた人は、きっといるはずですもの。私の方針を叔父さまに確認していただきたいのよ」
「仕方ありませんね」
メリーは肩をすくめた。「お屋敷には、お帰りが遅くなる由を出しておきます」
「ありがとう、メリー」
メリーは、くい、と眼鏡のつるをつまんだ。
「いえいえ。アドリアン様のためにも、早期解決を望んでいるだけです」
「どういう意味?」
メリーは薄く笑った。
「お嬢様はこういうことに首を突っ込むと、どんなに大切に思っていらっしゃるアドリアン様のことでも後回しにされますでしょう?」
以前、同じように事件に奔走していた時、うっかりアドリアンからの手紙に返信しなくてはと思いつつ、なかなか書けずにいた。
数週間後にようやく返信をしたとき、
「きみが楽しく過ごせていたならいいよ。僕はきみがご機嫌に過ごせていれば嬉しいんだから」
という、穏やかな文面ではあったが、盛大にいじけられてしまったことがあったのだ。
「あまり放置なさいますと、また拗ねられてしまいますよ?」
「それは困りますわ!」
「でしょう」
「アドリアン様が拗ねる前に、片づけます」
「それがよろしいかと」
ロザンヌは、あの時のことを思い出し、ぐっと拳を握った。
へそを曲げたアドリアンの機嫌を戻すべく、ロザンヌはなによりもアドリアンとの時間を優先した。それこそ、朝から晩まで、いじけた彼にべったりくっついて何日も過ごした。
「もう、一緒に住む?」
と、アドリアンに言われるくらいに。
さすがに辞退したが、ロザンヌとしても、楽しくうれしい時間だった。
だが、拗ねた後のアドリアンは面倒くさいのは事実だ。
ロザンヌは改めて、決意を固くした。
****
あれから数日後。
ロザンヌはアドリアンの邸を訪れていた。
ケイトリンとお茶をするためである。アドリアンは同席すると言って聞かなかった。
ロザンヌは、本来は淑女同士だけで十分なのですが、とこぼして承諾した。ただし、淑女の会話に口を挟まないことを条件とした。アドリアンは、「善処する」とだけ答えた。確約を避けたその言い方に、ロザンヌは眉を顰めたが、何も言わなかった。
ロザンヌは軽い挨拶の後、カップを手に取ると、一口飲んだ。
「あら、めずらしい香りのお茶ですわね。美味しいですわ」
ケイトリンがぱっと顔を輝かせる。
「嬉しいです! そのお茶は、我が男爵領の特産品なんです」
「もっと王都で有名になってもおかしくありませんわよね。少なくとも、私は存じませんでした」
ケイトリンは少し困った顔をした。
「そう言っていただけると嬉しいのですが、あいにく量産できない品種でして」
「あらそうなの。残念ですわ」
「今度是非、ロザンヌ様に贈らせてください」
「うれしいですわ」
それからしばらく、二人は茶葉の話をした。
そこから少しずつ、ケイトリンの話へ移っていった。
領地のこと。
王都での滞在先のこと。
行儀見習いとして親戚の家に来ていること。
ケイトリンの口調がいくらか柔らかくなったところで、ロザンヌは静かに話を変えた。
「王都での初めての夜会は、いつでしたの?」
ケイトリンは、少しだけ視線を落とした。
わずかな時間、逡巡した後、話し始めた。
「三週間ほど前です」
気がつけば、ケイトリンはくだんのつきまとう令息の話を語っていた。
ロザンヌは柔らかい声で質問をした。
「つきまといはいつ頃からですの?」
「初めての夜会から翌々日くらいかと」
「どのあたりでよく見かけるように?」
「滞在先の従妹と侍女とで、公園を散歩するときです。最初は、公園をよく利用する人だな、くらいに思っていました」
「いつも何時くらいに?」
「午前十時くらいです」
「雨の日は?」
「……従妹は行きませんが、私が歩きたくて、侍女と一緒に」
「その男性は、いつもどの辺りに?」
「一本奥の遊歩道に」
「具体的には?」
「公園でもいちばん背の高い、太い幹の楠の下にいます」
「雨宿りもできますものね」
「ええ」
ケイトリンは、自分でも不思議なほどに淡々と答えていった。
最後の質問の後、ロザンヌはケイトリンの両手を握りしめた。
「……怖うございましたね」
ケイトリンは唇を噛み、目に涙を浮かべると、そっとうつむいた。
ロザンヌは黙って彼女の肩に両腕をまわした。
アドリアンはロザンヌの言動に、拍子抜けした。
噂好きの彼女なら、ケイトリンの懐にずかずかと入り込んで目を輝かせるかもしれない、と恐れていたのだ。その時は、全力で止めるつもりでこの席に臨んだ。そう思い込んでいた自分が浅はかだったらしい。アドリアンは少し恥ずかしくなった。
ロザンヌは、最後はケイトリンの気持ちに寄り添い、共感して見せた。なにより穏やかに、この茶会の幕を引いて見せたのだ。
令嬢同士の会話とは、思った以上に奥行きのあるものらしい。
アドリアンは安堵した。
だがまさかその数日後、社交界そのものが一人の令息を静かに拒むことになるとは、このときはまだ思ってもいなかった。
****
そのお茶会からしばらくして、社交界にひとつのうわさが流れ始めた。
名前は出ない。
新聞の記事にはならなかった。
ただ、名前を伏せた行動だけが語られた。
曰く、「雨の日にも欠かさず、一番太くて大きい楠の下で人を待っている」
曰く、「あの公園に必ず午前十時に姿を現す」
曰く、「いつもは令息たちと話をしてばかりなのに、特定の令嬢にだけ、自ら挨拶をする」
曰く、「自分の瞳の色をその令嬢に纏わせたいと、ほかの客がいる店内で公言した。言われた令嬢は顔を真っ青にして今にも倒れそうだった」
等々。
それぞれは些細な話だった。
ひとつだけなら、笑って済ませる者もいただろう。
だが、別々の場所で聞いた話がひとりの人物へ収束し始めたとき、笑っていた婦人たちも扇子の陰で目を見交わした。
聞いた者は、うっすらと、誰のことか察する。
たしかに、あの令息はこのところ、社交界の中でも人目を引いていた。いつもの令息たちとつるまず、人の波の中を渡り歩いては、人を探してきょろきょろしていた。
不思議なこともあるものだなと、その時は誰もが思った。
だが、その理由を知った時。
婦人方は、扇で口元を覆った。
男性陣は、一様に顔をしかめた。
「あの方ではないかしら、ほら……」
そう言って、一人の婦人が、周囲を見回す一人の令息へ目を向けた。
「そうですね、いつも同じ時刻に、同じ木の下にいましたな。どなたかと待ち合わせですかな、と聞いたら、ええまあ、とにこやかにしていましたぞ」
微かな一致が、噂を事実へと塗り変えていく。
それまで笑顔で会釈を返していた令嬢たちが、その日を境に、彼へ視線を合わせなくなった。
令息たちもまた、彼が輪へ近づくと、不自然なほど話題を切り替えた。
はじめのうち、彼はそれを偶然だと思った。
たまたま話の区切りがついただけだろう、と。
だが、二度三度と同じことが重なるうちに、違和感は無視できないものへと変わっていく。
声をかければ、返されるのは貴族的な笑みと、短い相槌だけ。
以前のように、言葉が続くことはなかった。
輪の中へ入ろうとすれば、誰かがさりげなく一歩引く。
気づけば、自分だけが輪から外に立たされている。
彼は、ようやく周囲の視線に気づいた。
好奇でもなく、羨望でもなく。
どこか距離を測るような、冷えた目だった。
それでも彼は、理由がわからなかった。
思い当たる節など、彼の中では何一つないのだから。
その様子を、少し離れた場所からロザンヌは眺めていた。
開いた扇子の向こうで、わずかに目を細める。
「お嬢様」
背後から、控えめに声がかかる。
「……少々、お顔に出ております」
ロザンヌはわずかに肩を揺らした。
すぐに表情を整え、何事もなかったかのように扇を閉じる。
「そうかしら」
「ええ。あまり褒められたものではございません」
メリーの声音はいつも通り落ち着いていたが、その目はしっかりと主を観察している。
ロザンヌは小さく息をついた。
「あれは恋ではないわ。相手の恐怖を、自分への好意だと都合よく読み替えているだけよ」
「承知しております」
「……経過から最後まで見届けなければいけない話ですもの」
そう言って、視線だけでもう一度だけ彼の方を見やる。
その令息は、誰とも目を合わせられないまま、はじかれた場の外縁でさまよっていた。
ロザンヌは、それ以上何も言わなかった。
それから幾日もしないうちに、その令息は社交界に姿を見せなくなった。
はじめは、体調を崩したのではないかと言われた。
次に、領地へ戻ったらしいという話が流れた。
さらに、王都での振る舞いについて家族の耳に入り、しばらくは外へ出さないことになったのではないか、と囁かれた。
継承の順も変わるのではないか。
少なくとも、以前と同じ立場ではいられないだろう。
そんな噂が、静かに広がっていった。
誰も、ケイトリンの名は口にしなかった。
****
数日後。
ロザンヌは再びアドリアンの邸を訪れていた。
前と同じく、ケイトリンとお茶をするためである。
陽は穏やかで、庭にはやわらかな風が通っている。
テーブルには香りのよい茶と、小さな菓子が整えられていた。
ケイトリンは以前よりも落ち着いた様子でカップを手にしていた。
それでも、どこか周囲をうかがう癖はまだ抜けていない。
ロザンヌはその様子を一瞥し、何も言わずに紅茶を口に運んだ。
「ここしばらく、あの方はお見かけしませんわね」
何気ない調子でそう切り出す。
ケイトリンの手が、ぴくりと止まった。
「ご領地へ戻られたようだと聞きました」
さらに、淡々と続ける。
「王都での振る舞いについて、ご家族も看過できなかったのでしょう。……継承のお立場も、以前とは変わるのでは、と」
ケイトリンは、息をのんだ。
それらはすべて、噂として聞こえてくる形の言葉だった。
誰が言い出したのかもわからない、曖昧な伝聞。
だが。
ロザンヌはカップを静かに置いた。
「……もう、あの方はケイトリン様に近づけませんわ」
その一言だけ、声にまったく揺らぎがなかった。
ケイトリンは顔を上げた。
その言い方は、噂をなぞったものではない。
結果を知っている者の、確かな言葉だった。
「……ロザンヌ様が」
喉の奥で、かすれる。
「……対処してくださったのですね」
ロザンヌは、ほんのわずかに目を細めた。
肯定も否定もせず、扇の影で口元を隠す。
「秘密は守りましたわ」
静かな声音で言う。
「……少々、広く、正確に」
ケイトリンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
それは、恐れではなく、安堵の色を帯びていた。
「……あの」
一度言葉を切り、少しだけ笑う。
「私、ロザンヌ様と、もっと親しくなりたいです」
ロザンヌは瞬きをひとつした。
「こんなに心強い方、初めてですもの」
まっすぐな言葉だった。
ロザンヌは扇子を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「光栄ですわ、ケイトリン様」
その声音には、先ほどまでの鋭さはなかった。
少し離れた場所でそれを聞いていたアドリアンは、何も言えずにいた。
自分は、婚約者をずいぶん見誤っていたらしい。
彼女は噂好きなのではない。自分が、噂と情報の違いを見分けられていなかったのだ。
そして何より、自分はケイトリンを守ろうとしながら、ロザンヌの誇りを疑っていた。
彼女は事実を好み、噂を拾いながら、それを決して軽率に扱わない。
必要とあらば、彼女は誰にも気づかれぬまま状況を終わらせる。
こんなふうに人を守ることができるのか。
いまさらながら思い知らされた。
――自分の婚約者は、思っていたよりずっと格好いい。
ふと、そんなことを考えている自分に気づき、アドリアンは小さく咳払いをした。
「……ところで」
ロザンヌが、ちらりと視線を向ける。
「最近、きみとゆっくり話す時間が減っている気がするのだが」
ぼそりと呟く。
「気のせいではありませんわ」
即答だった。
アドリアンは言葉に詰まった。
ロザンヌは紅茶を一口含み、静かにカップを戻した。
「その分は、後できちんと埋めあわせをいたしますわ」
ロザンヌはすました顔で続けた。
「アドリアン様が納得されるまで」
アドリアンの顔が、わかりやすく明るくなった。
ケイトリンが、くすりと笑う。
「ロザンヌ様はアド兄さまの婚約者でいらっしゃいますもの。これからは、ロザンヌお姉さま、とお呼びしたくなりました」
「まあ」
思いもよらぬ言葉に、ロザンヌは数度瞬いた。
ケイトリンは少しだけ頬を染め、それから、ロザンヌの袖をそっとつまんだ。
「これからは、お姉さまとたくさんお会いして、お勉強をさせていただきますね」
アドリアンの顔が、わずかに曇った。
「……ケイトリン」
「あら。アド兄さま、どうかなさいました?」
無邪気な声でそう返され、アドリアンは口をつぐみ、縋るような目をロザンヌに向けた。
ロザンヌは扇子の陰で、ほんの少しだけ笑った。
どうやら、守った秘密の数より、これから増えるお茶会の数のほうが多くなりそうだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。よろしければ、評価をお願い致します。




