目醒めの夢は来ない
伯爵家の跡継ぎだった令嬢は、妹に跡継ぎの座を奪われて老いた先代侯爵の後妻として娶られることになった。いつまでも夢の中にいる家族のお話。
「あなたはお嫁に出して、妹のアリスンを跡継ぎにしようと思うの」
フィアロン伯爵家の応接室で、サマンサを前にサマンサの両親である伯爵夫妻はそう言った。
夫妻の間に挟まれるようにして、サマンサの妹が座っている。可愛い、可愛い、誰からも愛される、優しくて賢い妹。
妹は微笑んでいる。いつもと変わらずに美しく、可愛らしく、微笑んでいる。
サマンサは喉が渇くのを自覚した。唇の内側を舐めて、どうにか声を絞り出す。
「わたくしでは不足でしょうか、お父様、お母様」
「だって、ねえ」
サマンサの問いに、夫人が悪気なく首を傾げる。
「アリスンのほうが、ずっとずっと優秀なのだもの」
それは事実で、言い返すことができなくて、サマンサは沈黙した。
サマンサの妹であるアリスンは、幼い頃から優秀なことで知られていた。十二歳で入学する王立学園では、自分よりも爵位の高いものたちの頭を押さえて大差をつけてあっさりと主席で合格したほどだ。
優秀さを鼻にかけることなく、身分の高低や男女に構わず誰にでも気さくで優しい。どうしても着飾ることが苦手なサマンサと違って自分磨きにも余念がなくて、一時期は王家からも釣書が届いたほどだった。
賢く、優しく、美しくて可愛いアリスン。サマンサの、憎たらしくて愛おしい妹。
「わたくしをお嫁に、ということは、わたくしは婚約者であられるコーニー様のラドフォード侯爵家に入るということでしょうか。ご三男であられるコーニー様にはお継ぎになる爵位はございませんが」
サマンサの婚約者であるコーニーは随分と野心の強い令息だったはずだ。サマンサが伯爵家から出るということは、自分が当主になるのではなく、いずれ当主になる兄を支えるか、王宮で働くことになるが、納得しているのだろうか。
「ラドフォード侯爵令息との婚約は解消しましたわ。アリスンとの婚約も勧めたのですけれど、年齢が合わないから遠慮するのですって。といっても、二つしか違いませんのにね」
なんでもない顔で、夫人が言った。隣に座る妹の顔を覗き込んで、ねえ、と微笑んでいる。
妹は微笑んでいる。一つの隙もない美しさで微笑んでいる。
妹から、サマンサは眼を逸らした。
「では、今からわたくしの婚約者を新たにお探しになるということですか」
「お前の新しい婚約者候補はもう決まっている」
サマンサの問いに答えたのは父伯爵だった。サマンサの前に一通の釣書を差し出してくる。
「シェリダン侯爵家のご隠居が、話し相手をご所望だそうだ」
シェリダン家の先代侯爵といえば、御年七十歳の、妻に先立たれた老翁だった。釣書の内容をちらりと眺める。
「他にも色々と探してあげたのに、軒並み断られてしまって。やっぱり、アリスンに比べてサマンサは出来が悪いから婚約相手を探すのも一苦労ね」
やっぱり悪気なさげにそう言う夫人の隣で、父伯爵はサマンサに問うた。
「もちろん断ることもできるが、どうする。サマンサが望むなら、働き口を探してやることもできる。王宮メイドにでもなって結婚相手を自分で探しても、そのまま職業夫人になるでも良いぞ」
あぁ、と内心でサマンサは嘆息した。
この両親は、本当に、悪気なくそう言っているのだった。そしてこの両親は、決して悪い人間ではない。
たとえばサマンサが望めば、王立学園を卒業したあとに魔法大学に編入することもできるだろう。学費は出してくれるはずだ。
なにしろ伯爵家なのだから、王宮に働き口を探すことも難しくはないし、市井に降りるのであればしばらくの生活費くらいは渡してくれるかも知れない。
サマンサは両親に愛されている。両親は悪い人間ではない。それを知っていた。
そしてそのうえで、サマンサよりももっとずっとずっと深く、妹のアリスンが愛されている。これはただ、それだけのお話だった。
サマンサはもう一度釣書に視線を落とした。先代シェリダン侯爵は人格者として知られていて、夫人が亡くなられたあともただ夫人だけを一途に愛し続けていることでも有名だった。もしも両親がサマンサを嫌っていれば、先代シェリダン侯爵との縁談など持って来なかっただろう。
悪いようにはならないだろう。そう判断して、サマンサは顔を上げた。
「この縁談、お受け致しますわ。跡継ぎではなくなったわたくしがいつまでも家に居座っていても、妹も居心地が悪いでしょう。ひと月以内には出て行くようにしますわ」
サマンサが両親の良いように従ったからか、夫妻が心なしか満足げな表情をした。その両親の間に座って、妹が微笑んでいる。
美しくて、可愛らしくて、賢くて優しい妹。憎らしくて、愛おしい妹。
妹から、サマンサは視線を逸らした。
「どうか皆さま、お元気で」
***
それから半年後、シェリダン侯爵家に移り住んだサマンサは、つつがなく日々を過ごしていた。
想定していた通りに悪いことはなく、シェリダン侯爵家の一同は僅かな距離を置きながらもサマンサを迎え入れた。当初はぎこちなかったが、年齢の近い侯爵家の次期当主夫人ともそれなりに仲良くなれて、少しずつ馴染んでいけていると思っている。
婚姻相手である先代侯爵は、ただ少しばかりの哀れみをこめた視線でサマンサを歓迎してくれた。
サマンサは、婚約の際に話があった通りに、たびたび先代侯爵の話し相手を務めた。もちろん色めいたものは一つもなく、メイドも護衛もいる中で、暖炉の前でぽつりぽつりと話すだけだ。寝室も別である。
そんな日々の中で、サマンサは問うてみたことがある。
「なぜ、わたくしに釣書をお送り頂けたのですか」
サマンサの問いに、先代侯爵は穏やかに答えた。
「あなたの祖父、つまり先代のフィアロン伯爵とは長年の友人だったのだ。だから、まぁ、いまの伯爵家を見ているのが忍びなくてね」
「お祖父様と……」
祖父はサマンサが六つか七つの頃に亡くなってしまったから、あまりサマンサの記憶には残っていなかった。
「アリスン嬢は、本当に評判の良いご令嬢だったね」
妹の名前が出たことに、サマンサは身を固くした。そんな様子を見て、先代侯爵が苦笑する。
「まぁ、下の子が生まれると上の子を構えなくなるというのは、残念ながらどの家庭でもよくあることだ。平民でも貴族でも、兄弟でも姉妹でもね。けれどどうにも、フィアロン伯爵家は少しばかり行きすぎていて、しかも判りやすかったから。あなたのお祖父様も随分と心配していたよ」
そんなことは初めて聞いたので、サマンサは驚いた。サマンサの周りの人間はサマンサとアリスンをいつも見比べてアリスンを褒めるばかりだったので、それこそ子どもの頃のサマンサは、自分の味方などどこにもいないのだと思っていたくらいだ。
「アリスン嬢のことは残念だったね。まぁ、もう二年も前のことだが」
ひどく優しい声で言われて、知らぬ間にサマンサはぽろりと涙を落とした。誰も、親ですら、サマンサにそんな声で話しかけてくれなかった。
泣き出した自分にびっくりして、混乱するまま、サマンサは口を開いた。
「家に、死んだはずの妹がいるのです」
言いつのって、そうではないなと自分で訂正する。
「違う、違います。妹はもういません。死んでしまいましたから。でも、妹がいるのです。あれは、両親が妹の名で呼んで後生大切にしているあれは、妹が大切にしていたただのぬいぐるみなのに、判っているのに、わたくしの眼にもどうしても、あのぬいぐるみが妹のように見えるのです」
可愛い妹。愛しい妹。憎らしい妹。
二年前に、妹は亡くなってしまった。事故だった。
馬車の暴走で轢かれかけたサマンサを庇って、サマンサを突き飛ばして、サマンサの代わりに、アリスンは死んでしまったのだった。
可愛い妹。愛しい妹。憎らしい妹。
アリスンは可愛かった。サマンサは可愛くなれなかった。アリスンは賢かった。サマンサは賢くなれなかった。アリスンは優しかった。サマンサは優しくなれなかった。
サマンサよりもずっとずっと可愛くて、賢くて、優しくて、誰からも愛された憎らしい妹は、あっさりと、簡単に、サマンサを置いて天の国に行ってしまった。
残されたのは、可愛くない、賢くない、優しくない、出来損ないの姉であるサマンサだけ。
どうして姉ではなく妹のほうが死んだのか、と人びとは口々に言った。
きっと悪気はなかっただろう。なにしろ、サマンサですら同じことを思っている。
けれど同時に、本当だろうかと自分を疑う気持ちもあった。
アリスンが亡くなったときに、本当にサマンサは純粋な気持ちで悲しんだのだろうか。ほんの僅かでも、アリスンが死んだことを喜んだ自分がいなかっただろうか。
そんなことも、もう判らなかった。何しろサマンサは、アリスンのように優しい人間ではなかったので。
ぽたぽたと不器用に涙を零すサマンサを宥めて、先代侯爵は穏やかに口を開いた。
「フィアロン伯爵家について、近く王家が動かれるそうだ」
突然の話に、サマンサは顔を上げた。
「二年も前に亡くなったアリスン嬢がまだ生きているように振る舞う、伯爵夫妻の奇行は報告されてはいたが、夫妻が当主夫妻としての仕事をつつがなくこなしていたから様子見されていた。けれどさすがに、アリスン嬢が亡くなったいま、嫡流唯一の子であるサマンサ嬢を正当な理由もなく家から出したのは良くないね。恐らく伯爵夫妻は療養施設に入れられて、伯爵家は一時的に王家の預かりになるだろう。そのまま王家に組み込まれるのか、新たな家門を興すのか、伯爵家の縁戚から跡継ぎを探すのかは、適任者が見つかるかによると思うけれども」
ちらり、と先代侯爵はサマンサに視線を向けた。
「サマンサ嬢、あなたが伯爵家を継ぐという選択肢もあるよ。なにしろ最も正統な後継者だからね。近いうちに王家から呼び出しがあるだろう。考えておくと良い」
今までの、孫に対する祖父のような接し方から、高位貴族の先代当主としての雰囲気に切り替えて、先代侯爵は言った。
サマンサは眼の回りそうな気持ちで額を押さえて、か細く礼を言った。また好々爺然とした雰囲気に戻って、先代侯爵は微笑んだのだった。
その後、サマンサは悩みに悩んだ末に、正式に伯爵家の継承権を放棄して王家に譲ることになる。すでに醜聞にまみれた中で、自分が継いでも家門を支えきれないという判断からだった。
王家からは爵位や領地と引き換えに、それなりの一時金を受け取ることになった。どうにも新しい婚約者が見つからなかったらしいかつての婚約者であるコーニーが一時金を目当てに新たな婚約を迫ってきたりもしたが、サマンサはその求婚を撥ね除けて先代侯爵との離別後に侯爵家の養女となり、伯爵家の跡継ぎ候補であった経験を活かして侯爵家の仕事を任されることになる。
そんな日々の中で、仕事で出会ったとある商家の青年といずれ仲良くなる未来があるのだが、それはまた別の話である。
なるべくテンプレから外れたお話が書きたいターンの第二弾! ぱちぱちー
自分で書きながら姉サマンサと妹アリスンがめちゃめちゃ混乱したのでどこかで入れ替わっているかも知れません。横文字の名前が二つ出てきたら伽藍さんはもう駄目です。あとで見直しにきます
とにかくぶっ壊れた家庭が書きたかったのでこんなんになりました。前半の場面で妹アリスンはいません! 両親の間にはぬいぐるみが座っております。姉サマンサも同じく妹アリスンの幻覚を見ております。妹アリスンの魂はそこにはありません
両親には本当に悪気がなかったし、姉サマンサを愛していたし、『姉サマンサにも最良の道を用意してやった』と思っております。悪気はなかったし悪いひとたちでもなかったけれど、姉サマンサよりも妹アリスンを愛していたので姉サマンサを踏みつけることに躊躇いがありませんでした。たぶん踏みつけにしたとも思っていないと思いますが
貴族としてはたぶん姉サマンサが伯爵家を継ぐ終わりのほうが良かったのかもなあ、と思ったのですが、自分の両親がやべーお人形遊びをしてた家を継ぎたいか? ってなったのでこんな形になりました
ちなみに伯爵夫妻が探した姉サマンサの新しい婚約者がなかなか見つからなかったのは『伯爵家やべー!』ってのが周りに知られてたから。それでも姉サマンサが跡継ぎだったときは姉サマンサに価値があったのでコーニーと婚約していましたが、姉サマンサが跡継ぎじゃなくなって価値を失ったのであっさり解消されました
【追記20251115】
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/799770/blogkey/3534459/




