07
その時ふと、視界の中に違和感を覚えた。
——壁だ。
昨日まで何もなかったはずの、白く無機質な壁の一部が、いつのまにか静かにスライドして開いている。
その奥に、黒いモニターが埋め込まれていた。
黒曜石のような冷たい光を放ち、そこには白い文字が浮かび上がっている。
《ユウマ——2年前、車で人をはね、そのまま逃げた》
呼吸が止まった。
まぶたを瞬かせ、目を凝らしてみても、文字は幻ではなく確かにそこに存在していた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
胸の奥で心臓が跳ね、息が詰まった。
——昨日の罪の告白では、そんな話は一言もなかったはずだ。それなのに。これが事実だというのなら……。
いや、それ以前に、もし自分以外の部屋にもこうして知られざる罪が暴かれているとしたら。
誰かが、自分の知られたくない部分を握っているのだとしたら。
背筋に冷たいものが走った。
ばん、と床を踏む音を立てて廊下に出る。
そこにはすでに他の参加者たちの姿があった。
皆、似たように顔を引きつらせ、互いの顔色を伺っている。
「……なんだよ、これ」
田島が青ざめた顔で呟いた。
握った拳が小刻みに震えている。
「他の……誰かの部屋にも……俺の……」
言葉を最後まで口にする前に、彼は唇を噛んで飲み込んだ。
麗華が、片眉を上げて薄く笑う。
「ふふ。どうやら、“昨日の告白”だけでは足りなかったみたいですわね」
その声音には余裕などなく、むしろ皮肉で自分を守ろうとしているのが透けて見えた。
沈黙が場を支配する。
誰もが何かを知っている。
だが、それを口にすれば、自分の秘密をも暴かれるかもしれない。
この無言の緊張は、言葉を発するよりも残酷に互いの胸を締め上げた。
ぎこちない足取りで、一同は再び指定された場所へ向かう。
機械的な音を立てて開いたドアの先には、昨日と同じ円形の部屋。
中央に並ぶ椅子が、まるで捕食者の口を開けて待ち構えているかのように配置されていた。
ためらいながらも、一人、また一人と席に腰を下ろしていく。
互いに視線を交わし、最後に残った者も観念したように椅子へ身を沈めた。
次の瞬間だった。
ガシャン、と乾いた金属音が一斉に響き渡る。
腰のあたりに冷たい感触。
ベルトのようなものが自動的にせり出し、容赦なく胴を締め上げた。
「——っ!」
誰かが短く叫ぶ。
慌てて立ち上がろうとしても、腰が固定されて身動きが取れない。
「っ……!?」
「これ……外れない……!」
ざわめく空気を断ち切るように、天井のモニターが点灯した。
白衣を纏った男が映し出される。
眼鏡の奥の視線は冷静そのもので、抑揚の少ない声が部屋を満たした。
『……昨夜は罪の告白をしてもらった』
一拍の間。
全員が息を詰める。
『だが語られたのは、ささいな過ちや軽い罪ばかりだったな。本当に明かすべきものは、胸の奥に隠されたままだ』
その言葉に、誰も反論できなかった。
心当たりがあるからだ。
さらに男は淡々と続ける。
『そこで——各自の部屋には“別の罪”が示されたはずだ。昨日おまえたちが口にしたものとは異なる、他者が隠してきた過ち。その記録はすべて、紛れもなく真実である』
何人かが小さく身じろぎした。
思い当たる影が胸を刺す。
すでに全員が、自分の知らぬ誰かに自分の秘密を握られているのだ。
『では次の段階に進もう。——第一のゲーム、“告発の審判”だ』
『ルールは単純だ。君たちには、最も罪が重いと思う人物を選んでもらう。各人が握っている“暴かれた罪”を手がかりにしてもいい。……より多くの票を集めた者には——罰が下る』
低い声は感情を伴わず、ただ事実を読み上げているに過ぎない。
だからこそ冷たく響く。
椅子の拘束はびくともせず、逃げ場はどこにもない。
重苦しい沈黙の中、誰かが唇を噛む音だけが小さく響いた。
その間を切り裂くように、最初に口を開いたのは麗華だった。
「……つまり、この場にいる誰もが、誰かの“隠していた罪”を知っている、ということですわね」
艶やかな微笑を浮かべながらも、その声には冷えた刃が混じっている。
円の輪郭がひとつ、ぴんと張るように緊張した。
「なんなんだよ!」
ユウマが苛立ち混じりに声を荒げる。
顔を真っ赤にして、必死に現実を否定しようとしているのが見て取れる。
「俺は別に、んな隠してる罪なんてねーっつーの!」
麗華は鼻で笑い、ゆっくりと首をかしげた。
「ふうん。あなたの罪を知っている誰かにも、同じことが言えるかしら?」
ユウマの額に汗が滲む。
彼自身、自分のどの罪が誰の目にさらされているのか、まだ分かっていないのだ。
「……ふん。私のところにもあったな」
橘が低く言い放つ。
威圧するような眼差しを一同に巡らせ、椅子に拘束されながらも背筋を伸ばしたまま動じない。
「ただの“記録”だ。名も明かされておらん。……まったく、くだらん茶番だな。私ほどの立場の人間を、匿名の落書きで断罪できるとでも思っているのか?」
「あら、それは嘘ですわ。わたくしの部屋の表示には――名前がきっちり出ていましたもの」
麗華の言葉に空気がさらに張り詰める。
状況は皆同じ、誤魔化しはきかない。
誰もが自分の数字の扉の向こうに、誰かの秘めたる一片を見たのだ。
「……やめてよぉ」
アユミが顫える声をあげ、肩をすくめる。
隣のユウマをちらっと見ながら、唇を尖らせた。
「マジさぁ……そんなの、いちいち言わなくてもよくない? 言ったら誰か一瞬で終わっちゃうじゃん……」
だがその焦りは、周囲の疑念をかえって刺激するだけだった。
誰もが自分の知らないところで自分について何かを知っている——その恐怖が、じわじわと広がっていく。
そんな重苦しさの中で、場違いに軽い声が流れた。
ユキだ。いつもの薄ら笑いを崩さず、肩を竦める。
「んー、ルールは“最も罪が重いと思うやつに票を入れる”ってことだよね? じゃあさ、昨日、各々が自分で言った罪をベースに決めてみるのもいいんじゃない?みんな暴かれたくないことの一つや二つくらいあるでしょ」
「そ、そうだ。それがいい!」
田島が慌てて同意する。
額の汗を指先で拭いながら、ほっとする素振りを見せた。
麗華は軽く笑いながら田島を見返す。
「あら、そんなに焦っているところを見ると、よほど大きな罪をお持ちのようね」
その様子に橘は冷ややかに鼻を鳴らした。
「麗華殿は先程から随分と余裕そうですな。自らの罪には心当たりがないと?」
「ええ、わたくしは悪いことなどしておりませんもの」
「……あなた自身はしておらずとも、悪事を隠し立てすることも罪にはなると思いますがねえ?」
麗華が僅かに息を呑む。
「……なるほど。わたくしの罪を見たのはあなた、という訳ですわね」
麗華は視線を橘から切り、ゆっくりとユキを指差した。
「ちなみに、私のところにあったのはそこの軽薄そうな男の罪でしたわ」
場に小さなザワつきが走る。
ユキは肩をすくめ、ふわりと笑った。
「え、怖いなあ。何が書かれてるんだろ」
こいつはいつも通りだ。だがその軽さが、周囲の不安を掻き立てる。
「ちなみに僕のところにあったのはシスターさんのだね」
ユキがふと真面目な調子で言うと、アンジェは目を閉じて静かに息を吐いた。
「……心当たりは、ございます」
アンジェの声は震えていたが、どこか静かな決意も混じっている。
「いえ、きっと、それ以外にはないでしょう。他者から暴かれるくらいなら、自ら懺悔いたします。私はかつて、大切な我が子を失わせてしまいました。ほんの一瞬、目を離した隙に車が突っ込んできて……悔いても悔いても、悔やみきれません。もしこれが神の罰なら、甘んじて受けます」
橘はユキに目を向け、問いかけるようにした。
ユキは淡く頷いてみせた。
「そうだね。彼女の告げた罪は正しいよ」
ユキの視線が回る。
「ちなみに、シスターさんのところには何が書かれてたんだい?」
アンジェは静かに首を振った。
「……私には、他者の罪を裁く資格はありません」
「それは困りましたわね。その者の罪が暴けませんわ」
麗華が冷ややかに言い放つ。
挑発を混ぜるように軽い調子で続けた。
「ところで、先ほどからやけに慌ててらっしゃる田島さん。あなたの部屋には何が書かれていたのかしら?」
田島は視線を泳がせ、しどろもどろに口を開いた。
よれたスーツの襟元をいじりながら、苦しげに言葉を探す。
「お、俺のところには……」
その一瞬の逡巡に、田島の目が橘をかすめる。
すかさず橘が声をかけた。
「他者の罪を暴くということは、自らの罪を暴かれることと同義だぞ」
低い声には威圧がこもり、場の空気をさらに張り詰めさせる。
「こいつの罪を知っているのは、誰だ?」
ユウマが慌てたように口を開いた。
「あー……そのおっさんのは、俺のとこにあったわ」
「ひっ……」
田島が小さく悲鳴を洩らし、怯えたように俯いた。
「い、言わないでくれっ。君だって……バラされたくないだろう?」
ユウマは苛立ちを隠せず、舌打ち混じりに声を荒げた。
「ちっ……わかってるっての! つーか、誰だよ、俺の罪を知ってる奴!」
その声に、場が一瞬静まり返る。
緊張に押しつぶされそうな空気の中、俺は低く言葉を落とした。
「……お前の罪は、俺の部屋にあった」
ユウマの目が見開かれる。
「げっ……よりによって、化け物のとこかよ」
吐き捨てるような声の裏に、隠しきれない動揺が滲む。
彼は椅子の拘束に身をよじりながら、苦し紛れに言い返した。
「くそっ……言うなよ? お前だって、どうせ色々やらかしてんだろ……!」
ユウマの声は半分怯え、半分逆ギレだった。
周囲の視線が二人に集中する。
ユウマはじっと俺を睨み返しながら、何かを思いついたように口を開いた。
「……じゃあよ。お前の罪を知ってる奴が誰か、探せばいいんじゃねえか?」
そう言って、まず隣のアユミに矛先を向ける。
「なぁ、アユミ。お前は誰の罪を知ってんだ?」
怯えたように肩をすくめながら、アユミは答えた。
「えっとぉ、うちは……さやかちゃんの……」
ユウマはしばらく考え込むような仕草をしたが、すぐに眉をひそめた。
「んじゃ、あと聞いてねーのは……誰だ? えっと……」
指折り数えながら言葉に詰まり、焦ったように辺りを見回す。
その間の抜けた様子を、ユキがふっと笑って引き取った。
「残ってるのはシスターさんと、さやかちゃんだよ。で、アユミちゃんがさやかちゃんの罪を知ってるってことは……さやかちゃんがアユミちゃんの罪を知ってる、ってのは成立しないだろうね」
軽く指を鳴らし、ユキは肩をすくめた。
「だから答えは単純さ。アユミちゃんの罪を知ってるのはシスターさん。そして――彼の罪を知ってるのは、さやかちゃん。どう? 当たりかな」
一斉に視線が集まる。
その中心に置かれた小さな体は、居心地悪そうに身をすくませた。
さやかは怯えたように膝の上のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、かすかに震える肩を揺らしながら……小さく、小さく頷いた。




