11
張り詰めた沈黙の中、最初に声を発したのは麗華だった。
いつもの冷笑は影を潜め、その瞳はかすかに震えている。
「……信じられませんわ。このような……人間業とは思えませんわね」
けれど次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、視線をさやかへと移した。
「……それでも。あの子を守れたのは、確かですわね」
アンジェは胸に十字を切り、目を伏せた。
「……神よ。導きを……幼き命が救われたことに、感謝を」
声は震えていたが、その顔は安堵で柔らかく緩んでいた。
田島は汗に濡れた顔で、俺とさやかを交互に見ていた。
「……し、死なないなんて……いったい、どうなってるんだ……」
だがその目に浮かんでいるのは恐怖だけではない。
幼い少女が助かったという事実に、心底ほっとしているようでもあった。
橘は険しい顔で腕を組み、沈黙を保っていた。
その視線は俺に釘付けで、警戒と疑念が混じった色を帯びている。
アユミはユウマの最期に青ざめながらも、さやかの無事に小さく息をついていた。
そして、腕の中の、震える小さな体。
さやかは、俺の服を小さな手でぎゅっと掴み、涙に濡れた声で囁いた。
「……あ…りがと……」
たったそれだけなのに――眩しいほどに真っ直ぐだった。
その言葉だけで、今はもう十分だった。
静寂が落ちる。
誰もが息を呑んだまま、俺たちを見ていた。
けれどその静寂を破ったのは――乾いた拍手の音だった。
パン、パン、と場違いなほど軽い音が響く。
顔を上げると、ユキが楽しそうに手を叩いていた。
「いやぁ……お見事だね、蓮くん」
口元には、いつもの柔らかな笑み。
だが、その奥の瞳は笑っていなかった。
「さすが“化け物”って呼ばれるだけある。まさか電流に耐えるなんて、普通じゃないよねぇ」
その言い方に、麗華が眉をひそめた。
ユキはそんな彼女を一瞥すると、わざとらしく肩をすくめる。
「……あぁ、もしかしてさ。自分の“秘密”を知ってるさやかちゃんに、恩でも売りたかったのかな? 命懸けで助けたら、口を噤んでくれるとでも思った?」
「………は?」
その挑発的な声音に、体の奥で何かがまた軋んだ。
立ち上がるほどの力は残っていない。
それでも拳が勝手に握られていた。
「ねぇ、違う? それとも――君自身が、“化け物じゃない”って証明したかっただけかな?」
ユキは笑っていた。
白い歯を見せながら、まるで舞台の幕間を楽しむ観客のように。
麗華がすっと顔を上げた。
「――そもそも、あなたの“罪”とは何ですの? さやかさんが知っていることについて、聞きたいものですわ」
しかしさやかはぬいぐるみを抱きしめたまま、小さく首を振るだけだった。
口をつぐんだまま、震えが止まらない。
目だけが、こちらへ縋りつくように向けられていた。
ユキはそれを見て、ふと顔を真剣に変えた。
ぽつり、と言葉を落とす。
「じゃあ、僕が、代わりに話してあげようか。蓮くんの“罪”――僕は知ってるからね」
空気が、鈍く沈んだ。
ユキはゆっくりと俺を見る。
「ねぇ、蓮くん。君がここに来た時、僕が“壊したもの”について聞いたよね。その時の君の返事、覚えてる?」
返せない。
ただ、握った拳が膝の上で震える。
「“わざとじゃない、そんなつもりじゃなかった”――だっけ?」
ユキは小さく笑う。
「それってつまり、“わざとじゃなくても、傷つけた”ってことだよね?」
空気が、わずかに揺らいだ。
誰かの息が止まる音。
ユキの声が、淡々と、刃のように静かに落ちていく。
「――養護施設。覚えてるでしょ?」
視界が、揺れた。
ユキはまるで、その反応を愉しむかのように目を細める。
「同じ施設の子どもたち。同じ境遇の仲間。みんなまだ幼い子供たちだった。そう、さやかちゃんと同じくらいに」
言葉がひとつひとつ、痛みのように響く。
「でもある日、蓮くんは彼らを――壊した。男児五名と女児が一名。全員、重傷。手が動かなくなった子も、顔に深い傷を負った子もいた。ねぇ、それでも“壊してない”なんて、言えるのかな?」
「…………黙れ」
喉の奥からこぼれた声は、自分でも驚くほど低く、濁っていた。
「病院に運ばれた時、彼らはみんな錯乱してたよ。“化け物に殴られた”って泣き叫んでね。男児五名の証言は一致した。君に暴力を振るわれた、とね。女の子のほうは、一日分の記憶が飛んで何も覚えていないそうだけど」
ユキはわざとゆっくりと言葉を刻み、俺の反応を観察するように微笑んだ。
「そして、彼らの血にまみれた君。ねぇ……どうして、君は彼らを壊したんだい?」
「……黙れっ!」
叫んだ瞬間、胸の奥に押し込めていた蓋が、音を立てて軋んだ。
触れられたくなかった場所に爪を立てて抉られたような、どす黒い痛みがじわじわと広がる。
ユキの瞳は、ただ淡く笑っているだけだった。
「思い出せるはずだよ。だって、君は忘れてない」
視界が揺らぐ。
色が、音が、匂いが、ゆっくりと過去の形を取り戻し始める。まるで自分の体が別の場所へ引きずられるような感覚。
息が苦しい。
視界が暗転して、次の瞬間、音だけが先に戻ってきた。
――小さな靴が床を叩く音。
――薄い昼光がひび割れた窓から差し込む。
――埃を含んだ冷たい空気の匂い。
そこは、あの施設だった。
*
俺がいた養護施設は、高い塀に囲まれた古い建物だった。
三階建ての壁は黄ばみ、ところどころ塗装が剥げて、雨に濡れるたび薄く黒ずんだ筋を作った。
庭は広いが、遊具はどれも錆びつき、鉄棒を握れば赤茶色の粉がこぼれ落ちた。
冬は吐く息が白くなり、夜は廊下が凍るほど寒かった。
そこにはいろいろな子どもがいた。
笑う子、すぐ泣く子、怒りっぽい子、人懐っこい子、目を合わせようとしない子。
俺はその輪に、ほとんど加わることがなかった。
名前ではなく「おい」「おまえ」「化け物」と呼ばれ、必要最低限の会話しかなく、それが当たり前になっていた。
――ただ、一人だけ。
ひとりだけ、俺にちゃんと名前を呼んでくれる子がいた。
……葵。
「れんくん、これ、あげる」
そう言って、小さな手で折り紙の指輪を差し出してくれた子。
リボンがいつも少し曲がっていて、笑うと目が三日月みたいに細くなる、あの小さな女の子。
指輪は不器用で、角が潰れていたけれど、その手は誇らしげで、嬉しそうで。
俺は戸惑いながらそれを受け取った。
彼女は俺を怖がらなかった。
逃げなかった。
“化け物”と呼ばない、ただひとりの子だった。
会話なんてろくにできなかったが、葵といる時だけは、胸の奥がわずかにやわらかくなった。
その笑顔を、守りたいと思った。
そして、その力が自分にはあると、愚かにもそう、思っていた。
――あの日までは。
*
その日は、朝から施設の空気が重かった。
職員同士が金のことで言い争い、怒鳴り声が上の階まで響いてきて、子どもたちは隅っこで怯えていた。
その声から逃げたくて、ふらりと建物の裏手に回ったときだった。
普段は閉ざされている裏扉の鍵が、なぜか半開きになっていた。
裏庭は職員の監視が届かず、立ち入り禁止となっている場所。
落ち葉が風に舞い、午後の光は弱く、そこで聞こえた声は、異様に生々しく響いた。
「泣いても、もう誰も来ねぇよ」
「なーんか静かになっちゃったな。つまんね」
「どうする? これ」
五つの人影。
彼らは、何かを囲んでいた。
ボロきれのような、泥にまみれた布の塊。
しかし目を凝らせば、それが“人の形”をしているとすぐにわかった。
それは――
葵だった。
地面に押し倒された体、泥に汚れたスカート、擦りむけて血がにじむ手足。
涙の跡だけが残る、光の消えた瞳。
あらわになった胸元がわずかに上下していることだけが、生きている証拠だった。
目の前が、真っ赤に染まった。
頭の奥が沸騰するように沸き立ち、自分の鼓動がやけに大きく体内に響いた。
「……なにを、している」
自分でも驚くほど静かな声だった。
五人が振り向き、そして――笑った。
「出た、“化け物”」
「なんだよ、助けに来たの? お前も混ざる? もう壊れちゃってるけど、さぁ」
何かが、ぷつりと切れた。
腕が、勝手に動いた。
骨が軋む感覚も、拳に当たる肉の鈍い感触も、血が飛ぶ音も――全部、今でも鮮明に覚えている。
「やめろ!」
「やめろって!」
「痛い……いたい、やめ……!」
声は聞こえていた。
でも止まらなかった。
止まれなかった。
職員と警察が裏庭に飛び込んできて、取り押さえられてようやく我に返った時、五人は血まみれで地面に転がっていた。
視界の端で、救護される彼女の姿が揺れて見えた。
――彼女がまだ、生きている。
その事実だけが、唯一の救いだった。
*
視界が現在に戻る。
胸の奥で何かが、ぎり、と音を立てていた。
ゆっくりと息を吸う。
喉が焼けるように痛いのに、声は妙に静かだった。
「……俺は…」
ユキは微笑みを深める。
「蓮くん、あの場で“何があったか”は知らない。
けれど――君が彼らに、“過剰なほどの暴力”を振るったのは事実だ」
「……ッ」
喉がひきつるように閉じた。
言い返そうとして、息が詰まった。
麗華が微かに眉を寄せる。
田島は唇を噛みしめ、視線を揺らしながらも、俺を遠巻きに見ている。
アンジェは胸元の十字架に触れたまま、言葉を失っていた。
そして橘は、軽蔑を隠そうともしなかった。
「なんだ。やっぱり制御の効かない“化け物”じゃないか」
冷たく吐き捨てるその声音には、恐怖と嫌悪が混ざっていた。
……当然の反応だろう。
ユウマの死体の横で、電流を受けても生きている自分。
血と焦げた臭いの中で、先程の話を聞けばまともに見えるほうがどうかしている。
誰も近づこうとしない。
誰も俺の側に立たない。
――ただ一人を除いて。
腕の中の、さやか。
小さな少女は涙に濡れた瞳で、じっと俺を見上げていた。
怯えているはずだ。
ユウマの死にも、死にかけたことにも。
俺の……罪にも。
それでも、彼女は離れようとしなかった。
むしろ――俺の服を掴む小さな指先は、震えながらも、ほんの少しだけ強くなった。
「……れん、くん……」
その声は弱々しく震えていた。
けれど、はっきり俺を呼んでいた。
「……こわく……ないのか」
かろうじて声にした問いは、本当に弱いものだった。
さやかは鼻をすすりながら、小さく首を振った。
頬には涙の跡がまだ温かく残っている。
「……だって……れんくん、わたし……助けてくれた……」
小さな唇が震えながら続ける。
「……こわかったけど……すごく、こわかったけど……でも…れんくんが……ぎゅって……してくれたから……」
言葉の端々がしゃくりあげで潰れる。
「だから……こわく、ないの……」
その声は、たった一人の少女の、小さな勇気そのものだった。




