第2話 再生される色と熱
俺は今日も屋上に足が向いていた。空ではツバメが何匹か横切っていった。
かといって屋上で俺がすることは、何もない。ベンチに座ってぼーっとしたり、手すりにもたれかかって、グラウンドの生徒たちの様子を眺めることくらいだ。
そして今も手すりにもたれて空を眺め、風の匂いを数え、グラウンドの野球部の練習を遠巻きに見つめる。マネージャーや監督には「たまには顔を見せろ」と言われているが気が向かない。
そんな俺のことなど気に留めない、あの名前も知らない不愛想な彼女はというと、美術部の活動の合間の気分転換にここにやってきているようだった。
彼女はだいたい週に一回か二回。屋上に設置されたベンチの同じ場所に座る。
そしてスケッチブックを開くと、左手に持った鉛筆でページの白を消していく。
俺は初対面のときの“あれ”が衝撃的すぎて、しばらくは会話もなく終始、無言だった。
ある時、彼女が落とした消しゴムを俺が拾った際の、俺への「ありがと」と「おう」が二回目の俺達の会話だ。
「……そういやお前って、左利きなんだな」
俺は何気なく言った。
彼女の左の指は、鉛筆をくるりと転がして芯の尖り具合を調整するのが上手い。細い動きが正確で、見ていて気持ちいい。
「柚木、奏。“お前”じゃない」
それは初めて知った彼女の名前。俺は口の中で何度か転がす。
「じゃあ、俺の質問に答えろよ、奏」
「いきなり下の名前なんだ。……まぁね。悪い?」
「いや、悪かないけど」
それだけ。彼女の視線はまた紙に戻る。
本当に余計なことを言わない人だ。
甲子園のことで校内がお祭り騒ぎだった俺のことも知らなかったくらいだ。人の噂話にも乗らないんだろう。
それを裏付けるような彼女のエピソードがある。休み時間、廊下の端で立ち話をしているグループの横を、視線をふらつかせずに通りすぎる奏の姿を何度か見た。そういうときの彼女は、ほとんど空気みたいに静かだ。
* * *
「あ」
奏の筆箱がベンチから転がり落ちた。中身がコトコトとコンクリートを跳ね、鉛筆や消しゴムが散らばった。
奏は左手で拾い集めようとして、手間取った。軽いペンが風に押されて、手すりの影に転がる。
(何やってんだ。両手で拾えばいいのに)
俺がもたつく彼女を手伝おうと腰を落とした。
彼女は一瞬だけ俺を見て、右手を伸ばした。けれど、右の指先の動きが少し遅れて、消しゴムは彼女の爪の先からまた転がった。
(え?)
俺は何も言わずにしゃがみ込み、消しゴムを拾って手渡した。指と指が一瞬触れて、奏が小さく呼吸した。
「ありがと。……高坂」
「……奏。お前ってもしかして、右手……」
そこまで言って、俺は口をつぐむ。
彼女は視線を外して、言った。
「中学のとき、交通事故にあった。それ以来、右手の指、あんまり動かなくなった」
グラウンドからの掛け声が、一瞬遠くなった気がした。
「あたしね、ピアノ、やってた。小さい頃から。コンクール、目指してた。でも、弾けなくなった」
「……」
俺の言葉が軽いのは分かっていた。怖くて、言葉にできなかった。
奏はベンチに腰を戻して、スケッチブックを膝に乗せ直す。風がページの端をめくりそうになって、左手の指でそっと押さえる。
「そのあと、うるさかったよ。家でも学校でもピアノの先生も。励まし、って名の言葉の刃物」
『他にもできることがあるよ』
『勉強に集中しよう』
『人生は長いから』
「正しい。でもそんな正しい音は、あたしの、心を傷つけた」
奏は、かすかに笑う。
「あの時は荒れてたから。友だちも、たくさん離れてった」
「……」
俺は黙って聞いていた。
「この高校に入ってからもしばらくはずっと帰宅部で、たまたま美術室の隣を通ったとき。
臭かった、油絵の匂い。
窓辺の光が黄色くて、誰もいないのに絵が喋ってるみたいだった。
あたしは吸い込まれるように美術室に入った。そしたら奥にいた当時の美術部の部長に声をかけられたの。
“今感じてること、全部このキャンバスに投げてつけてみろ。どんな醜い感情でもいい。絵は受け止めてくれる”って。
――それで、あたしは描き始めた。この左手で」
彼女は左手を見つめていた。
ずっと水平だった彼女の声が、そこでほんの少しだけ色を帯びた。
「もちろん平気じゃないよ。今だって。
でも、一つなくしたからって、全部が終わりじゃないと思う。
だから、高坂もきっとなにか別の形で、高坂を表現できると思う」
「……」
「それが何なのかはあたしにはわからないし、興味もないけどね」
「……最後の一言がなければ、感動で泣いてたのに」
「だから興味ないって」
夕陽が校舎の壁の角をゆっくり移動して、影が長く伸びる。
俺は、紙の白さの上に置かれる黒い線を見つめながら、やっと言えた。
「……すげえな。奏は」
「そう?」
「ああ。俺、自分のことばっかでさ。惨めだの、悔しいだの。格好悪かった」
「格好悪いときは、だいたい誰にでもある。あたしもそうだったって言ったじゃん」
奏は本当に少しだけ、唇の端を上げた。笑うというより、力を抜いた、みたいな。
「で、高坂は、これからは何に“全力投球”するの?」
俺は空を見上げる。さっきまで真っ白だと思っていた空に、色が混ざっていることに気づく。
「……探すよ。別の何か。新しく俺が全力で投げられるもの」
「それでよし」
奏はそれ以上、何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
それで、充分だった。沈黙は、誰かが言う千の言葉よりも優しいことがある。
* * *
真夏の陽射しが容赦なく降り注ぐ、夏休みの甲子園の初戦。
俺は観客席にいた。アルプススタンドの色は学校ごとに違って、遠くからでもどこがどこの応援団かわかる。うちの学校の色の波がざわめき、ブラスバンドがイントロを鳴らす。
俺は喉が潰れても構わず叫んだ。名前を呼んで、拍手して、足元の段差を踏み鳴らした。
結果、最後は一点差で負けた。終盤、あと一本が出なかった。心から悔しい。だけど、その悔しさは、俺自身の悔しさじゃなくて、あの場に立っているやつらの悔しさだ。それでも、同じ温度で熱かった。
帰り道、駅のホームでふっと笑っている自分がいた。泣きたかったのに、笑えていた。
――俺はまだ、これからもあいつらと一緒に立てる。
選手としてじゃなくても、仲間として同じ場所に。
人波に混じって歩いていると、後ろから声がした。
「……直也!」
聞き覚えのある声に振り向くと、野球部の女子マネージャーこと成瀬 里奈が立っていた。
暑さの中でここまで走ってきたのだろう。汗で少し前髪が張りついていたけれど、目は真っ直ぐだった。そしていい顔をしている。
彼女はタオルで首筋を拭いながら、いつもの元気な笑顔で言った。
「今日は応援、ありがとう。スタンドで見てた。相変わらずすごい声、出してたね」
「……ああ。負けたけど、みんなよくやったよな」
「うん。悔しいけど、ちゃんと届いてたと思うよ。直也の声も」
彼女は少し間を置いて、俺をじっと見た。
「……直也、少し前とは顔が違う。なんていうか……立ち直れたんだね」
その言葉に胸の奥が温かくなる。俺は駅の柱に背を預けて、ゆっくり頷いた。
「……ああ。俺と同じ痛みを味わって、それでも立ち上がった、不愛想なやつのおかげでな」
彼女の目が一瞬だけ見開かれる。次に出た声は、少し震えていた。
「直也……もしかして、その子のこと……好きなの?」
その言葉に俺は思わず息を呑んだ。急な問いの答えが見つからなくて、視線がさまよう。
けれど、嘘をつく方がずっと苦しいと感じた。
「……どう、かな。でも……そうかもしれない」
彼女は小さく目を伏せ、ほんの一瞬だけ切なげに笑った。
「……そっか」
夏の空気に、電車が近づく音が混ざる。
マネージャーはそれ以上何も言わず、「じゃあ私、皆のところに戻らないと」と人混みに紛れていった。
その背中を見送りながら、俺は胸の奥の確かな熱をもう一度確かめた。